正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧③。丹楊郡何氏[何遂・何姫{孫晧(孫皓)の母}・何洪・何蔣(何蒋)・何植・何邈・何都]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
丹楊郡何氏系図
丹楊郡何氏系図
※何都について。何都の叔父は何植とあることから、何都は何洪か何蔣(何蒋)のどちらかの子ということになります。
この記事では丹楊郡何氏の人物、
についてまとめています。
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か③(丹楊郡何氏)
第1世代(何遂)
第2世代[何姫・何洪・何蔣(何蒋)・何植]
何姫[孫晧(孫皓)の母・昭献皇后]
生没年不詳。揚州・丹楊郡・句容県の人。父は何遂。弟に何洪、何蔣(何蒋)、何植。孫和の側室。孫晧(孫皓)の母。
孫権が軍営の間を巡った時のこと。何姫はその途中で孫権の一行を見物していた。孫権は遠くから彼女を見て並の女性ではないことを知り、宦官に命じて召し寄せて後宮に入れさせると、息子の孫和に彼女を賜った。
彼女が男子を出産すると、孫権は喜んで、彼に「彭祖」という名前をつけてやった。これが孫晧(孫皓)である。その後、太子であった孫和が廃されて南陽王とされると、孫和と共に荊州・長沙郡に住んだ。
孫亮が即位すると、孫峻がその補佐役として政治を牛耳った。孫峻は常日頃から全公主(孫権の娘・全琮の妻)の機嫌を取ることに務めてきたのであるが、全公主は孫和の母(王夫人)と仲が良くなかったことから、孫峻をそそのかして孫和を強制的に揚州・新都郡に移住させ、さらに使者を送って孫和に自殺を命じ、孫和の正妻である張氏も自殺した。
この時何姫は「もし誰も彼もが殉死してしまったなら、一体誰が父なし子を養うというのでしょう」と言い、夫に殉死せずに孫晧(孫皓)とその3人の弟を養い育てた。
元興元年(264年)に孫晧(孫皓)が即位すると、孫和を尊んで昭献皇帝の号を贈り、何姫は昭献皇后となって升平宮と呼ばれた。さらに一月余りの後、位を進められて皇太后となった。
呉の末年に世の中が乱れた時、何氏には思い上がって僭越な行いが多く、その一族の子弟たちは勝手気ままに横車を押したため、人々はこれに苦しんだ。だから民衆たちは「孫晧(孫皓)はとっくに死んでしまい、今位についているのは何氏の息子だ」というデマを言い伝えたのである。
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何植
生没年不詳。揚州・丹楊郡・句容県の人。父は何遂。姉に何姫。兄に何洪、何蔣(何蒋)。
元興元年(264年)に姉の子・孫晧(孫皓)が即位すると宣城侯に封ぜられ、官は大司徒にまで昇進した。
大いに寵愛していた左夫人・張氏を亡くした孫晧(孫皓)は、豪奢華麗な葬儀を行うと、後宮に引き籠もって喪に服し、半年もの間、外に姿を見せることがなかった。
そのため、みな「孫晧(孫皓)は死んでいて、葬られたのは孫晧(孫皓)なのだ」と考え、孫晧(孫皓)の舅子の何都の顔つきが孫晧(孫皓)と似ていたことから「何都が後を嗣いで帝位についたのだ」と噂された。
このデマを信じた臨海太守の奚熙は兵を挙げて都に戻り、何都を誅殺しようとした。
この時、備海督の任にあった何都の叔父・何植は、奚熙に攻撃を加えて殺害し、その一族を皆殺しにした。
デマはこのようにして下火になったが、人々はなおその心中に疑いを懐いていた。
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第3世代(何邈・何都)
何都
生没年不詳。揚州・丹楊郡・句容県の人。孫晧(孫皓)の舅子*1。叔父に何植。父は不明[何洪、何蔣(何蒋)のいずれか]。
大いに寵愛していた左夫人・張氏を亡くした孫晧(孫皓)は、豪奢華麗な葬儀を行うと、後宮に引き籠もって喪に服し、半年もの間、外に姿を見せることがなかった。
そのため、みな「孫晧(孫皓)は死んでいて、葬られたのは孫晧(孫皓)なのだ」と考え、孫晧(孫皓)の舅子の何都の顔つきが孫晧(孫皓)と似ていたことから「何都が後を嗣いで帝位についたのだ」と噂された。
このデマを信じた臨海太守の奚熙は兵を挙げて都に戻り、何都を誅殺しようとした。
この時、備海督の任にあった何都の叔父・何植は、奚熙に攻撃を加えて殺害し、その一族を皆殺しにした。
デマはこのようにして下火になったが、人々はなおその心中に疑いを懐いていた。
脚注
*1「舅子」について調べてみると「妻の兄弟」とある。孫晧(孫皓)の妻に何氏はいないので誤植だと思われるがそのまま載せた。何植の甥ならば、孫晧(孫皓)の従兄弟にあたる。
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