正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㊴。汝南郡応氏[応順・応疊(応畳)・応郴・応奉・応劭(応邵)・応珣・応㻛・応璩・応貞・応純・応秀・応紹・応詹]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
汝南応氏系図
汝南郡応氏系図
※応疊(応畳)の兄弟の順は不明。中子とあることから、長子・末子ではない。
この記事では汝南郡応氏の人物、
についてまとめています。
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お㊴(汝南応氏)
第1世代(応順)
応順・華仲
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。子に応疊(応畳)。孫に応郴。曾孫に応奉。応順には10人の子がおり、みな学問を修め才能があった。応疊(応畳)は中子とあることから、長子・末子ではない。
若くして出仕した郡県では清廉公正な官吏であり、決して私的な文書を発行しなかった。孝廉に推挙されると尚書郎から転任して右丞、冀州刺史となったが、私欲を持たず、その後東平国相となると信賞必罰をもって職務にあたった。
ある時、梓の樹が執務室の上(床を破って?屋根の上?)に生えてきたことがあったが、人々はこれを「応順の継母への孝行心に感応したもの」だと言った。
外戚の竇憲が権力を握ると、刺史や二千石(太守)たちは子弟を派遣して彼に賄賂を贈ったため、竇憲が失脚するとみな罪に問われて罷免されたが、ただ1人応順だけはその中にいなかったので、名を揚げることとなった。
応順は私欲がなく、また政事に明るかったので、河南尹から転任して将作大匠を務めること5年、億万銭の経費を削減した。
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第2世代[応疊(応畳)]
第3世代(応郴)
第4世代(応奉)
応奉・世叔
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。父は応郴。子に応劭(応邵)、応珣。孫に応㻛、応璩。
若くして聡明で、童子から大人になるまでに学んだものはすべて暗記していた。また、頭の回転が速く朗誦(声高く読むこと)が上手だったので、「応世叔が書物を読む時は5行を1度に読み下す」と言われた。
郡(汝南郡)の決曹史(刑事事件を担当)となると、42県を巡回して数百〜千人*1の囚人を記録した。帰還した応奉は太守の問いに答えて「各人の罪状と姓名、罪の軽重」を口頭で報告したが、漏れ落ちた事柄はなかったという。これが希有な才能だと噂になり、大将軍・梁冀に茂才に推挙された。
また応奉は、『漢書後序』十余篇を作り、当時、名のある儒学者でもあった。
以前、武陵蛮の詹山ら4千余人が反乱を起こし、県令を捕らえて占拠して数年が経った頃、詔により公卿が議論し、四府*2は「将帥の任に堪え得る人材」として応奉を推挙した。
永興元年(153年)、武陵太守に任命された応奉は、着任するとすぐに住民を慰撫したので、詹山らはみなことごとく降伏して賊は解散した。
その後応奉は、学校を建設し、仄陋(卑賤の者)でも推挙するなどして郡を落ち着かせたが、公務における罪に連座して罷免された。
延熹年間(158年〜167年)、武陵蛮がまた反乱を起こすと、車騎将軍・馮緄は「蛮夷たちが応奉の威厳と恩徳に心服している」ことから彼に征伐に同行することを願い、従事中郎として従軍した応奉は、積極的に計略を設けて賊を破り、反乱の鎮圧に貢献した。
馮緄はこの功績をもって応奉を司隷校尉に推挙し、司隷校尉に任命された応奉は、たとえ有力な豪族であっても罪あらば厳しく糾弾し、検挙することで名を知られた。
鄧皇后(鄧猛女)が廃位されると、桓帝は寵愛する田貴人(田聖)を皇后に立てようとしたが、応奉が「田氏が微賤(身分・地位が低いこと)の出身である」ことを理由に皇后に立てることを諫めたので、桓帝はその言葉を聞き入れ、竇皇后を立てた。
「党錮の禁」が起こると、応奉は公憤(正義感から発する公共のための憤り)を覚えて憂え嘆き、病と称して自ら引退し、屈原*3を思い哀れんで自ら身体に傷をつけ、数万言に及ぶ『感騒』30篇を著した。
諸公は応奉を何度も推挙したが応じることはなく、病気により亡くなった。
脚注
*1原文は「錄囚徒數百千人」。
*2大将軍府・太尉府・司徒府・司空府の4府。
*3戦国時代の楚の詩人。自分の意見が受け入れられずに祖国が滅亡していく様を憂え、石を抱いて汨羅江に飛び込んで亡くなった。
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第5世代[応劭(応邵)・応珣]
応劭・仲遠*4(応邵)
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。父は応奉。弟に応珣。
若い頃から学問に熱心で、霊帝期に孝廉に推挙され、車騎将軍・何苗の掾(属官)に辟かれた。
中平2年(185年)、涼州・漢陽郡の賊・辺章、韓遂らが羌・胡と共に三輔に侵攻し、左車騎将軍の皇甫嵩がその討伐を命じられた。
これを受け、皇甫嵩が「烏桓兵3千人」を徴発するように請おうとしたところ、北軍中候の鄒靖が「烏桓兵は弱いので、鮮卑兵を募るのが良いでしょう」と上言し、そのことが四府*2で話し合われた。
その席で大将軍の掾(属官)・韓卓が、
「烏桓兵は少なく、しかも鮮卑とは代々仇敵の間柄です。もし烏桓を徴発すれば、鮮卑は必ずその留守を襲い、烏桓は命令を放棄してでも救いに戻るでしょう。役に立たないばかりか、三軍の士気を下げることになります。
鄒靖は辺境の塞の近くに住んでいるので、彼らの扱いを熟知しています。もし鄒靖に鮮卑の軽騎兵・5千を募らせれば、必ずや敵を破ることができるでしょう」
と言うと、これに応劭が反論して言った。
「鮮卑は遠く隔たった砂漠の北におり、犬や羊のように群れ、まとめる者もなく廬落(移動式住居)に住み、素より欲深く荒々しい性質で不誠実、故に幾度となく障塞を侵すので、穏やかな年はありません。
唯一、互市(貿易のため辺境に置かれた市場)に来る時だけ帰服する彼らは、漢の威徳に畏れ懐いているのではなく中国の珍貨(珍しい品物)を欲しているだけで、欲しいものを手に入れると踵を返して害をなします。これこそ国家が諸夏(諸侯の国々)を内として鮮卑を外とする所以です。
昔、匈奴が叛した時には度遼将軍・馬続と烏桓校尉・王元は鮮卑兵5千余騎を徴発し、羌が叛した時には武威太守の趙沖もまた鮮卑兵を率いて彼らを征討しましたが、敵兵の斬獲は言うに及ばず、鮮卑は一線を越えて多くの不法をなしました。
軍令をもって裁けば怒って反乱を起こし、制御を少し緩めればすぐに住人や旅商人を襲い、牛や羊を食らい、兵馬を略奪しました。多くの褒賞を得ても去らずに鉄を買いたがり、辺将(夷狄を征伐する将軍)が聞き入れないと、縑帛を奪い集めて焼こうとしました。辺将は恐怖し、反乱を恐れて断る勇気はありませんでした。
狡猾な侵略者は今も絶滅せず、羌が巨害をなしています。後になって後悔した場合、そこから挽回できるでしょうか。
臣愚ならば、隴西郡の羌・胡の中から善良・忠実な精鋭を募り、多くの褒賞を与えます。隴西太守の李参は冷静沈着で謀がありますので、必ずや彼らを奨励して死力を尽くさせることができるでしょう。結論を急いではなりません」
その後も韓卓と応劭は議論を戦わせたが、最終的に詔により百官が朝堂に集められ、みな応劭の意見に従った。
中平3年(186年)に高第に推挙されて2度転任し、中平6年(189年)に泰山太守に任命された。
初平2年(191年)、黄巾30万が泰山郡に侵入すると、応劭は文官・武官を集め率いて賊と連戦して退却させた。斬首・数千級、捕虜は老人・子供合わせて1万余人、輜重2千両を手に入れ、郡内に平穏が戻った。
興平元年(194年)、前の太尉・曹嵩とその子・曹徳が徐州・琅邪国から兗州・泰山郡に入った。
この時応劭は(曹操の命令により)兵を率いて彼らを迎えに出たが、徐州牧・陶謙は曹嵩の子・曹操が度々攻撃してくることを恨んでいたので、軽騎兵をもって曹嵩の行列を襲い、応劭が到着する前に郡境で彼らを殺害してしまった。
応劭は曹操に誅されることを畏れ、郡を棄てて冀州牧・袁紹のもとに逃亡し、建安2年(197年)に詔により袁紹の軍謀校尉に任命されたが、その後鄴県で亡くなった。
応劭は博学多識で、とりわけ好事家(風流な事柄を好む人)であった。『風俗通』(『風俗通義』)など種々の著述は合わせて百余篇にのぼり、その文辞は典雅ではないが、世間はその博識に感服している。
応劭(応邵)はまた『中漢輯叙』『漢官儀』『礼儀故事』合わせて11種136巻を著した。朝廷の制度、百巻の儀式が滅びなかった理由は、応劭(応邵)がそれらを書き記しておいたからである。
脚注
*2大将軍府・太尉府・司徒府・司空府の4府。
*4謝承『後漢書』、『応氏譜』には「仲遠」、『続漢書』文士伝には「仲援」、『漢官儀』には「仲瑗」とあり、いずれが正しいかは分からない。
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応珣・季瑜
生没年不詳。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。父は応奉。兄は応劭(応邵)。子に応㻛、応璩。
司空の掾(属官)となった。
応珣の2人の子・応㻛、応璩は、共に文才があった。
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第6世代(応㻛・応璩)
応㻛・徳璉
生年不詳〜建安23年(218年)以前没。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。父は応珣。弟に応璩。
曹操の招聘を受け、丞相の掾属(属官)となった。平原侯(曹植)の庶子に転任し、後に文帝(曹丕)の文学となった。
文帝(曹丕)が五官中郎将となった頃、
- 王粲
- 徐幹
- 陳琳
- 阮瑀
- 劉楨
と共に友人として親愛された。(この5人に応㻛と孔融を加えた7人を「建安七子」と言う)
臨菑侯となった曹植が楊脩(楊修)に送った手紙の中に「徳璉(応㻛)は大魏において(辞賦の)才能を発揮した」とあり、また太子であった曹丕が呉質に送った手紙には「徳璉(応㻛)は常に華々しく著作の意志を抱き、その才能・学問は書物を著すに充分であったが、その立派な意志は完遂されなかった」とある。
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応璩・休璉
初平元年(190年)~魏の嘉平4年(252年)没。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。父は応珣。兄に応㻛。子に応貞、応純、応秀。
学識広く、文章を作るのが上手で、書と記を得意とした。
文帝(曹丕)・明帝(曹叡)の時代に散騎常侍の官を経験し、斉王(曹芳)が即位すると、次第に昇進して侍中・大将軍長史となった。
散騎常侍の時、当時河南尹であった劉靖に「彼の行政を称える」手紙を送っている。
曹爽は政権を握ると、法律制度に違反することが多かったので、応璩は詩を作ってそれを風刺した。その言葉には、いささか迎合している趣はあるが、多くは時代の要求に適合しており、世間ではみなそれを伝えている。
61歳の時、再び侍中となり著作を担当したが、嘉平4年(252年)に63歳で亡くなり、衛尉の官を追贈された。
曹丕が五官中郎将であった頃*5、30人程の者が集まったことがあり、曹丕は人相見が得意だという朱建平に、その席にいる1人1人の人相を占わせた。
この時応璩は「あなたは62歳で常伯(侍中)の位につかれますが、その時にきっと災難がありましょう。それより1年前、あなただけに1匹の白い犬が見え、他の人には見えないということがあるでしょう」と占われた。
その後応璩は61歳で再び侍中となり、宮中で宿直をしていたところ、ふと白い犬を見かけたので、人々に尋ねてみたが、誰も見たと言う者はいなかった。
このことがあってから、彼はしばしば客を集め、立て続けに地方を旅行して山河を見て回り、酒を飲んで楽しみに耽ったが、結局、朱建平に言われた期限を1年超えて、63歳で亡くなった。
脚注
*5建安16年(211年)〜建安22年(217年)。
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第7世代(応貞・応純・応秀)
応貞・吉甫
生年不詳〜西晋の泰始5年(269年)没。豫州(予州)・汝南郡・南頓県の人。父は応璩。弟に応純、応秀。
若くして才能を取り沙汰され、談論が上手かった。
正始年間(240年〜249年)、夏侯玄は多大な名誉・権勢を持っていた。応貞はある時、夏侯玄の座中で「五言詩」を作ったが、夏侯玄は感心してそれを愛玩した。そのため応貞は上席で推挙され、高官を歴任した。
司馬炎は撫軍大将軍となると、応貞を軍事参与とし、西晋の帝位につくと、太子中庶子・散騎常侍に昇進した。
また、儒学を買われて太尉の荀顗はと共に新しい儀礼を制定したが、施行には至らなかった。
泰始5年(269年)に亡くなった。
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