正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑮。広漢郡王氏(王士・王甫・王祐)(王商)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
広漢王氏系図
広漢郡王氏系図
この記事では広漢郡王氏の人物、
についてまとめています。
※王商・文表については王甫らと同族であるかは不明ですが、同じ広漢郡出身の王氏として合わせてここに記述します。
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お⑮(広漢王氏)
第1世代(王士・王甫)
王士・義彊
生年不詳〜蜀の建興3年(225年)没。益州・広漢郡・郪県の人。従弟に王甫。
建安16年(211年)、劉備に従って蜀に入る。
その後孝廉に推挙されると、符節長(益州・犍為郡・符節県の県長)に任命され、牙門将に昇進し、外に出て宕渠太守となり、犍為太守に移った。
蜀の建興3年(225年)、丞相・諸葛亮が南征を開始した時期に益州太守に転任したが、赴任する前に蛮族によって殺害された。
楊戯が著した『季漢輔臣賛』において士気勇壮と評され、気立てが良く蜀の誉れとなる人物の1人として称えられている。
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王甫・国山
生年不詳〜蜀の章武2年(222年)没。益州・広漢郡・郪県の人。子は王祐。従兄に王士。
人物評価や議論を好んだ。
劉璋の時代に州の書佐となり、劉備が蜀を平定した後に緜竹令[益州・広漢郡・緜竹県(綿竹県)の県令]となり、荊州の議曹従事に遷った。
劉備の呉征伐に随行し、蜀軍が荊州・宜都郡・秭帰県で敗れた際に殺害された。
楊儀が著した『季漢輔臣賛』において、立派な風格を持ち、気立てが良く、蜀の誉れとなる人物の1人として称えられている。
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第2世代(王祐)
その他の広漢王氏(王商)
王商・文表
生没年不詳。益州・広漢郡*1の人。
才能と学問によって評判を立てられ、名声は郷里に鳴り響いており、劉璋が召し出して治中従事に任命した。
この頃、中央への道は断絶し、州の牧伯はまるで戦国時代の七国の諸侯と同様であったのだが、劉璋は気弱(柔弱)で疑い深く、重臣を信頼する事ができなかったが、王商が諫めて上奏すると、多少悟るところがあった。
その昔、韓遂が馬騰と供に関中(函谷関の西側の地域)で騒動を起こした時、たびたび劉璋の父・劉焉と連絡を取り合った。
馬騰の子の馬超の時代になると、馬超は再び劉璋に便りを出して連合する意向を示して来たが、王商は、
「馬超は勇敢ではありますが仁愛なく、利益に目がくらんで信義を意に介しませんから、運命を共にする同盟者としてはいけません。『老子』(36章)に『国にとって利益になる器物を人に示してはいけない』とあります。現在の益部(益州)は、優れた士人と豊かな民衆を擁し、宝物を産出する地域です。これこそ悪知恵のある者が転覆を図り、馬超らが西方に目をつける理由です。もしも招き寄せて彼を近づけでもしたならば、虎を養い自ら災いの種をまくようなものです」
と言い、劉璋はその言葉に従い申し出を拒絶した。
荊州牧・劉表と儒者の宋忠はいずれも王商の名声を聞いて手紙を出し、彼に懇ろな挨拶を送った。
また、許靖は人物評価が得意だと言われていたが、蜀に来て王商に会うと彼を称えて「王商が中原に生まれていたら、王景興(王朗)であっても彼の上をいくまい」と言った。
その後蜀郡太守に任命されると、学問を修め農業を広めたので、民衆に支持された。
また、親孝行だった禽堅の墓に碑を立てて表彰し、孝廉の称号を追贈し、前漢の厳君平と李弘のために祠を立てて碑銘を作り、先賢として表彰した*2。
郡にいること10年、在職中に亡くなり、許靖が彼の職務を受け継いだ。
脚注
*1Wikipediaでは王甫の従兄とされているが、出典は不明。
*2治中従事時代、同郡出身の秦宓に仕官を誘って断られたことがあったが、王商が厳君平と李弘の祠を立てると、秦宓は手紙で「2名に加えて揚雄(前漢の文人・思想家)の祠堂を建立し銘文を制定する」ことを求めた。
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