正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑭。北海国王氏[王脩(王修)・王儀・王忠・王襃]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
北海王氏系図
北海国王氏系図
王儀と王忠の兄弟の順については不明。『魏書』王脩伝の最後には王忠のみ記述があり、王隠の『晋書』に「王脩の一子は名を儀、字を朱表」とあります。
「一子」には「嫡子」の意味もあるようですので、この記事では王儀を兄としています。
この記事では北海国王氏の人物、
についてまとめています。
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お⑭(北海王氏)
第1世代[王脩(王修)]
王脩・叔治(王修)
生没年不詳。青州・北海国・営陵県の人。子は王儀、王忠。孫に王襃。
出自
7歳の村祭りの日に母を亡くした。翌年、隣村に祭りの日が近づくと、母を想い悲しみに暮れる王脩のために祭りを取りやめた。
20歳の時、勉学のため荊州・南陽郡に出掛け、張奉の家に宿を取ったが、一家中重病にかかって看病する者がいなかったので、王脩は親身になって彼らを介抱し、病気が治ってから立ち去った。
孔融に仕える
初平年間(190年〜193年)、北海太守の孔融が召し出して主簿とし、高密相(青州・北海国・高密国の県令)の代行に任命された。この時、土地の顔役の孫氏が罪人を匿い役人は逮捕することができなかったが、王脩は強い態度を崩さず悪人を差し出させたので、この事件以来、顔役たちは王脩を畏れて服従するようになった。
後に孝廉に推挙された王脩は(その権利を)邴原に譲ろうとした。孔融はこれを許さなかったが、天下が乱れていたため、結局都(長安)に上ることはなかった。
北海国に反乱が起こった時、孔融は側近に「危難を冒してやって来る者がいるとすれば、それは王脩だけだろう」と言ったが、王脩がその言葉通り駆けつけた。このように、孔融は常に王脩のお陰で難を免れた。
功曹に任命され、その後膠東相(青州・北海国・膠東国の県令)の代行に任命されると、数騎の供だけで乗り込んで租税の取り立てを拒否する公沙盧兄弟を斬った。
袁譚に仕える
その後、袁譚が青州を治めるようになると召し出されて治中従事に任命された。別駕従事の劉献は度々王脩の欠点を論っていたが、ある事件で劉献が死刑に該当した時、王脩は裁判に当たり助けてやったので、当時の人はこの事件によっていよいよ彼の立派さに感心した。
後に袁紹もまた王脩を召し寄せて即墨相(青州・北海国・即墨国の県令)に任命したが、その後再び袁譚の別駕従事となった。
袁紹が死ぬと、袁譚は仲違いした袁尚の攻撃を受けて敗れたが、この時王脩が袁譚の救援に駆けつけたので、袁譚は「我が軍を成り立たせているのは、王別駕(王脩)である」と言った。
袁譚は曹操に救援を要請したが、曹操が冀州(袁尚)を破るとまた叛旗を翻したため、曹操は冀州・勃海郡・南皮県にいた袁譚を攻撃してこれを討ち、王脩は袁譚の遺体を引き取って埋葬した。
曹操に仕える
曹操が王脩の家を調べさせたところ、穀物は10石に満たず、書物が数百巻あるだけだったので、礼をもって彼を召請し、司空の掾(属官)、司金中郎将を経て魏郡太守に昇進させた。
魏国が建国されると大司農・郎中令となり、奉常*1に転任した。
厳才が反乱を起こして仲間数十人と掖門(宮殿の正門の左右にある小さな門)を攻撃した時のこと。王脩は変事を聞きつけると配下の役人を引き連れて宮門までやって来た。
相国の鍾繇はこれを「しきたりでは京城に変事があれば、九卿はそれぞれの役所にいることになってる」と責めたが、王脩は「禄を食みながら、どうしてその危難を捨てておけましょう。役所にいるのがしきたりではありますが、危難に駆けつける道義に外れております」と答えた。
しばらくして病気で在職中に亡くなった。
脚注
*1九卿の1つ。礼儀や祭祀を取り仕切り、陵園・宗廟の巡察、博士の選定などを行う。太常から改称された。
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第2世代(王儀・王忠)
王儀・朱表
生年不詳〜魏の嘉平4年(252年)*2没。青州・北海国・営陵県の人。父は王脩(王修)。子に王襃。弟(?)に王忠。
気品のある明るい誠実な人であった。
司馬昭は安東将軍であった時、王儀を司馬とした。東関の敗戦*3時、司馬昭は「近日の事件は、誰がその責任を負うのだ?」と言った。
これに王儀が「責任は軍の統帥にございます」と答えると、司馬昭は怒って「司馬(王儀)は罪を儂に押しつけようとするのかっ!」と言い、彼を殺してしまった。
脚注
*2嘉平6年(254年)の「司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文」の中に「臣王儀」の名前があるが、ここでは嘉平4年(252年)没とした。
*3嘉平4年(252年)、魏の大将軍・司馬師は孫権の死に乗じて諸葛誕・胡遵らに東興県を攻めさせたが、呉の大将軍・諸葛恪の前に大敗を喫した戦。東興の戦い、東関の役とも呼ぶ。
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第3世代(王襃)
王襃・偉元
生没年不詳。青州・北海国・営陵県の人。父は王儀。叔父(?)に王忠。祖父に王脩(王修)。
出自
若い頃から品行高く、礼に外れた行動は取らなかった。身長8尺4寸(約210.54cm)、容貌はとりわけ優れていた。父(王儀)が寿命を全うできなかったことを病み、世間との交渉を絶って仕えなかった。
父の墓の側に家を建て、教育を職務とした。朝夕いつも墓前に行って拝礼したが、その都度悲しみのあまり号泣して気を失った。墓前に1本の柏の木があったが、王襃がいつもすがりついて泣いていたので、涙の後で変色していたと言う。
『詩経』を読んで「哀哀たる父母、我を生みて労悴す」(小雅・蓼莪)まで来ると、繰り返し繰り返し読んで泣き、落ちる涙に襟を濡らさないことはなかった。
家は貧しく自分で工作したが、家族の人数を計算して田をつくり、身長を計って蚕を飼った。学生たちの中にこっそりと王襃のために麦を刈ってあげた者がいたが、王襃はそれを棄ててしまった。そのため2度と無理に刈り取りの手助けをする者はいなくなった。
門人を庇う
王襃の門人が本籍の県から労役に徴発された時のこと。王襃に労役の免除を依頼してくれと頼んだが、王襃は「卿の学問は身を庇うには不十分だし、儂の徳は薄くて卿を覆うには不十分だ。彼らに依頼しても何の役に立つか。それに儂は筆を握らなくなってからもう40年になる」と言い、乾飯をにない、子供に塩豉をかつがせて歩いて出掛け、門人千余人が後に従った。
安丘県の県令は自分に会いに来たと思い込み、正装して彼を門まで出迎えた。王襃はそこで道を外れて土で作った牛*4の所まで行き、身を折り曲げて挨拶して立つと「門人が県から徴発されました。だから送別に来たのです」と言い、門人の手を取り涙を流して去った。
県令は即座に学生たちを解放し、県中の人が彼らを徴発したことを恥ずかしく思った。
脚注
*4『後漢書』礼儀志に「立春の日、夜明け前に役所の門外に土牛と耕人を立てて民衆に示した」とある。農民に農耕を奨励する儀式であろう。
管彦に対する評価
同じ県の管彦は、若年ながら才能と力量を備えていたが、まだ認められていなかった。王襃だけは出世するに違いないと見込んで、いつも友人として目をかけてやり、2人に初めて男の子と女の子が生まれると、互いに結婚させる約束をした。
その後、管彦は予想通り西夷校尉となったが、王襃は約束を違えて娘を他の人と婚約させた。管彦の弟の管馥が問い質すと、王襃は「私のわずかな希望、最後の念願は、自然の中で生活することです。姉と妹はみな遠くに嫁ぎ、冠婚葬祭も途絶えております。そのため決心をいたしました。賢兄(管彦)のご子息は父上(管彦)を帝都(洛陽)に葬られました。そうなれば洛陽の人ということです。私が彼と結婚させたいと思った本来の趣旨に沿っているではありませんか」と言った。
すると管馥は「嫂は青州・斉国の人です。青州・斉国・臨菑県に帰って来るに違いありません」と言ったが、王襃は「どうして父を司隷・河南尹(洛陽)に葬り、母を連れて斉国に帰ることなどありましょうか。そんな風にお心配りをなさるようでは、どうして結婚させる必要がありましょう」と言い、結局結婚させなかった。
邴春に対する評価
根矩(邴原)の子孫である邴春は、若い頃、節義ある生き方を決意し、自ら厳しい困苦の生活を送った。行李*5を背負って遊学し、家にじっとしていることはなかった。郷里の人は彼の人柄に心を寄せ、よくその先祖(邴原)を継ぐ者と評価した。
邴春は妥協性のない性格で名声を求める気持ちが強すぎたので、王襃は「結局大成しないに違いない」と判断した。結果、やはり邴春は学業を身につけられず、遠隔の地を流浪することとなったので、識者はこれを見て王襃の鑑識眼に感服した。
脚注
*5柳や竹、籐などで編んだ物入れ。葛籠の一種。
王襃の死
王襃は常に「人間の行動は大体善道に帰着することが目的でなければならない。自分に可能なことを持ち出して、他人が不可能なことを咎めるのは良くない」と考えており、贈り物を届ける者がいてもすべて受け取らなかった。
洛陽の都が崩壊し、盗賊が群がり起こると、王襃の親族はすべて江東に移住したいと願ったが、王襃は先祖の墳墓に恋着した。盗徒が盛大になるとやっと南方に向かい、泰山郡まで来たが、王襃は郷土を懐かしんで進むことを承知せず、盗徒によって殺害された。
王襃と青州・済南国の劉兆、字は延世とは、供に仕官しないことで評判を上げた。王襃は父が正当な理由もなく司馬昭に殺されたことから一生、招聘に応じず、晋に対して臣下とはならない意志を示すために、晋帝のいる西方を向いて座ったことは1度もなかった。
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