正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑯。南陽郡王氏[王連・王山][王夫人(孫権の夫人・敬懐皇后)・王文雍]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
この記事では、
南陽郡王氏①の人物、
南陽郡王氏②の人物、
についてまとめています。
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お⑯(南陽王氏①)
南陽王氏①系図
南陽郡王氏①系図
第1世代(王連)
王連・文儀
生没年不詳。荊州・南陽郡の人。子は王山。
劉璋の時代に蜀に入って益州・広漢郡・梓潼県の県令となった。
劉備が広漢郡・葭萌県(葭萌関)で兵を挙げて南方へと進撃した際、王連は城門を閉ざして降伏しなかったが、劉備はその義心に感じ、無理に圧力をかけようとしなかった。
成都が平定された後、劉備は王連を広漢郡・什邡県の県令とし、蜀郡・広都県に転任させたが、それぞれの任地で業績を上げた。
司塩校尉に昇進して、王連が塩・鉄の利益を全面的に管理するようになると、国庫の収入が非常に増えた。後に大官に昇る呂乂・杜祺・劉幹などの人物は、この時王連が有能な者を選抜して属官に任用した者たちである。蜀郡太守・興業将軍に昇進したが、以前の通り塩府の仕事を担当した。
建興元年(223年)、屯騎校尉に任命され、丞相長史を兼務し平陽亭侯に封ぜられた。
当時、南方の諸郡が服従していなかったので、諸葛亮は自ら征伐に赴こうとしたが、王連は諫言して「あそこは不毛の荒れ地であり、風土病の多い土地です。一国の期待を荷う方が危険を冒して出掛けるのはよろしくありません」と主張した。
諸葛亮は諸将の才能が自分に及ばないのを考慮して、どうしても自分で行く決意であったが、王連が言葉を発するたびに懇願したので、結局王連が亡くなるまで長い間都に留まっていた。
楊儀が著した『季漢輔臣賛』において「旧主(劉璋)を尊んで節操固く心変わりしなかった。劉璋が降伏して任命を受けた後は、世の規範となるよう心を尽くし、軍需担当として頼みにされ、よく任務を遂行し補給した」と称えられている。
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第2世代(王山)
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お⑯(南陽王氏②)
南陽王氏②系図
南陽郡王氏②系図
第1世代(王夫人)
王夫人(孫権の夫人・敬懐皇后)
生没年不詳。荊州・南陽郡の人。同母弟に王文雍。孫権の夫人。孫休の母。
選ばれて後宮に入り、嘉禾年間(232年〜238年)に孫権の愛を受けて孫休を生んだ。
孫和(孫和)が太子となり、孫和の母親(琅邪郡出身の王夫人)が重んぜられるようになると、孫権の妻妾として寵愛を受けたことのある女性たちは、みな都から出されて地方に住まわされることになった。
王夫人は公安に行かされ、そこで亡くなりその地に葬られたが、孫休が即位すると、使者が立てられ、追尊して敬懐皇后の号が授けられて敬陵に改葬された。