正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑧。琅邪郡ろうやぐん王氏おうし①(王雄おうゆう王渾おうこん王乂おうがい王戎おうじゅう王衍おうえん王澄おうちょう王愔おういん王萬おうばん王興おうこう王玄おうげん王景風おうけいふう王恵風おうけいふう王詹おうせん王徽おうき)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

琅邪王氏①系図

琅邪郡王氏①系図

琅邪郡ろうやぐん王氏おうし①系図

※兄弟は左側が年長。王玄おうげんの兄弟の順は不明。


この記事では琅邪郡ろうやぐん王氏おうしの人物、

についてまとめています。

その他の琅邪王氏

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お⑧(琅邪王氏①)

第1世代(王雄)

王雄おうゆう元伯げんぱく

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。子に王渾おうこん王乂おうがい太保たいほ王祥おうしょうの祖先。

黄初こうしょ元年、文帝ぶんてい曹丕そうひ)が帝位につくと幽州刺史ゆうしゅうししとして崔林さいりんを赴任させたが、崔林さいりん河北かほくの軍事を統括する北中郎将ほくちゅうろうしょう呉質ごしつに敬意を表さなかった。

そこで涿郡太守たくぐんたいしゅであった王雄おうゆうは、崔林さいりん別駕べつがに向かって次のように忠告した。

呉中郎将ごちゅうろうしょう呉質ごしつ)は、おかみの親愛され尊重されている方で国の重臣だ。せつ(裁判の専断権を示すしるし)に頼って事をべ、州も郡も敬意を表さない者はおらぬが、崔使君さいしくん崔林さいりん)は知らぬ顔をしている。もし国境地帯が治まらないことを理由におんみ(あなた)を斬るならば、使君しくん崔林さいりん)はどうやっておんみ(あなた)を弁護できるかね?」

別駕べつがはその話を詳しく崔林さいりんに語ったが、崔林さいりんは、

刺史わしはこの州を去ることを履物はきものを脱ぎてる程度に思っているのだ。どうしてかかずらう必要があるかね。しかしこの州は北方民族と接しており、彼らを騒がせればその逆心をり動かし、特に国家にとって北方への懸念けねんが生ずることになる。だからこそ、この地にとどまっているのだ」

と言って態度を変えなかった。

崔林さいりんは1期の間在職し、北方民族の侵奪は影をひそめたが、それでも上司(呉質ごしつ)に頭を下げなかったために河南太守かなんたいしゅ左遷させんされた。清潔な人たちの間では崔林さいりんのために残念がる意見が多かった。


後に王雄おうゆうは、安定太守たくぐんたいしゅ孟達もうたつ*1の推薦を受け、散騎常侍さんきじょうじ幽州刺史ゆうしゅうししとなった。


また、文帝ぶんてい曹丕そうひ)は田豫でんよ持節じせつ護烏丸校尉ごうがんこういに任命して牽招けんしょう解儁かいしゅんと共に鮮卑せんぴぞく族を監督させていたが、田豫でんよ校尉こういとなって9年、幽州刺史ゆうしゅうしし王雄おうゆうの一党が王雄おうゆう烏丸校尉うがんこうい宰領さいりょうさせようとして「田豫でんよは国境地帯を混乱させており、国にとって事件が起こることになるだろう」と非難した。かくて田豫でんよ汝南太守じょなんたいしゅに転任させ、殄夷将軍てんいしょうぐんの官を加えた。

太和たいわ6年(232年)、明帝めいてい曹叡そうえい)は、平州刺史へいしゅうしし田豫でんよに海路を渡らせ、幽州刺史ゆうしゅうしし王雄おうゆうに陸路を進ませて同時に遼東りょうとうを攻撃させた。

この時蔣済しょうせいはこれをいさめたが、明帝めいてい曹叡そうえい)は聞き入れず、結局田豫でんよ王雄おうゆうは成功することなく帰還した。

青龍せいりゅう3年(235年)、明帝めいてい曹叡そうえい)は王雄おうゆうの意見をれ、勇猛の士・韓龍かんりょうを送って鮮卑せんぴぞく族の大人たいじん軻比能かひのうを刺殺させると、代わってその弟を立てた。

脚注

*1しょくからくだった孟達もうたつ子度しどとは別人。


第2世代(王渾・王乂)

王渾おうこん王雄おうゆうの子)*2

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王雄おうゆう。子に王戎おうじゅう。弟に王乂おうがい

涼州刺史りょうしゅうしし貞陵亭侯ていりょうていこうとなった。

脚注

*2インターネット上には「琅邪ろうや王氏おうし王渾おうこんあざな長源ちょうげん」という情報がありますが、出典を確認できていません。出典を確認でき次第、正式に追記します。


王乂おうがい

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王雄おうゆう。子に王衍おうえん王澄おうちょう。兄に王渾おうこん

平北将軍へいほくしょうぐんとなった。


第3世代(王戎・王衍・王澄・王愔)

王戎おうじゅう濬沖しゅんちゅう

青龍せいりゅう2年(234年)〜西晋せいしん永興えいこう2年(305年)没。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王渾おうこん。子に王萬おうばん王万おうばん)、王興おうこう(庶子)、娘(裴頠はいきの妻)。叔父おじ王乂おうがい従弟いとこ王衍おうえん王澄おうちょう。祖父は王雄おうゆう竹林ちくりん七賢しちけんの1人。

幼少より才知に優れ、その風貌は透き通るようで、その神童振りは明帝めいてい曹叡そうえい)の目に止まり、15歳の時、父の友人であった20歳も年上の阮籍げんせきと交友を結び、裴楷はいかい杜黙ともく荀寓じゅんぐうと共に都で名を知られた。

父の王渾おうこん涼州りょうしゅうで亡くなると、王渾おうこん故吏こり(元部下)たちは王戎おうじゅうに数百万銭を贈ったが、王戎おうじゅうが受け取らなかったことから名声を高めることとなる。

また、王戎おうじゅう小柄こがらであったが、その振舞いは堂々としていて「礼」にこだわることはなく談笑を好み、阮籍げんせきたちと竹林に遊んで「竹林ちくりん七賢しちけん」としょうした。


鍾会しょうかいしょく討伐に出陣する際、鍾会しょうかいに相談を持ちかけられた王戎おうじゅうは、「『道家どうけ』の言葉に『してたのまず』とあります。功をすことが難しいのではなく、功をたもつことが難しいのです」と答えたが、鍾会しょうかいが敗れた後で、人々は王戎おうじゅうの言葉の真意を知ることになった。

父の爵位を継いだ王戎おうじゅう相国しょうこく司馬昭しばしょう)のえんまねかれ*3吏部りぶ黄門郎こうもんろう散騎常侍さんきじょうじ河東太守かとうたいしゅ荊州刺史けいしゅうししを歴任し、役人をつかわして私的に園宅を修繕しゅうぜんさせたために免官されたが、豫州刺史よしゅうししうつって建威将軍けんいしょうぐんを加えられての討伐を命ぜられ、が平定されると安豊侯あんほうこうに進んで6千戸を加えられて絹6千匹をたまわった。

長江ちょうこうを渡った王戎おうじゅうは、の旧臣たちを心服させて侍中じちゅうとなったが、南郡太守なんぐんたいしゅ劉肇りゅうちょう王戎おうじゅう賄賂わいろを贈ったことが発覚。調査により王戎おうじゅう賄賂わいろを受け取らなかったことが分かると、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は王戎おうじゅうの無欲さを称賛しょうさんした。

王戎おうじゅうには特別な能力はなく、地道な実績を重ね、光禄勲こうろくくんうつって吏部りぶ尚書しょうしょとなったが、母のに服すために職を去った。王戎おうじゅうは礼制にこだわることはなく酒を飲み肉を食べ、囲碁を観戦していたが、見るからに憔悴しょうすいしていたため、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は王戎おうじゅうに医者をり薬を下賜かしして療養させた。


武帝ぶてい司馬炎しばえん)の死後、外戚がいせき楊駿ようしゅんが実権を握ると太子たいし太傅たいふに任命されたが、楊駿ようしゅん誅殺ちゅうさつされると、今度は東安公とうあんこう司馬繇しばようが刑賞を専断するようになった。王戎おうじゅうは「大事を成しげた後は、慎重になるべきです」といさめたが、司馬繇しばようはこれに従わず、結局罪を得ることとなった。

王戎おうじゅう中書令ちゅうしょれいに転じ、光禄大夫こうろくたいふを加えられて恩信を50人たまわり、後に尚書しょうしょ左僕射さぼくやうつって吏部りぶを領した。

王戎おうじゅうは「甲午こうごの制」と呼ばれる官吏登用制度を始め、司隷校尉しれいこうい傅咸ふかんに批判されたが、賈氏かし郭氏かくしと親しかったために不問に付された。


その後、王戎おうじゅう司徒しとに転じたが、娘婿むすめむこ裴頠はいぎ皇后こうごう賈南風かなんぷうの廃位を目論もくろ趙王ちょうおう司馬倫しばりん誅殺ちゅうさつされると、裴頠はいぎに連座して免官されたが、司馬倫しばりん誅殺ちゅうさつされ、恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が宮殿に戻ると、尚書令しょうしょれいとなった。

8王*4が争う(八王の乱)混乱の中、王戎おうじゅう蘧伯玉きょはくぎょく*5の人となりをしたい虚名を退け、司徒しとはい三公さんこうのすべてを経験したが、自分では政治をらず官僚に采配をゆだねた。王戎おうじゅうの姿を見て彼が三公さんこうだと気づく者はいなかったという。

その一方で王戎おうじゅうは利にさとく、天下のいたる所に広大な園田を持ち、みずか牙籌がちゅう(そろばん)を手に収支を計算していた。

従子(おい)が結婚する時、王戎おうじゅうはただ1着の単衣ひとえを贈ったが、彼が離婚すると責めて返還を求めた。また、王戎おうじゅうの家にはすももの木があり、その実を売っていたが、買い手に栽培されないよう種をくり抜いてから売っていたので世の人々に嘲笑ちょうしょうされた。彼のケチ具合はこのようなものであった。


永興えいこう元年(304年)、王戎おうじゅう恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の北伐(成都王せいとおう司馬穎しばえいの征伐)に従軍。蕩陰とういんで大敗し、恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が長安ちょうあんうつされると、王戎おうじゅう郟県こうけん出奔しゅっぽんし、翌年の永興えいこう2年(305年)に亡くなった。享年きょうねん72歳。げんおくりなされた。

関連記事
脚注

*3王戎おうじゅう鍾会しょうかいに「裴楷はいかい清廉せいれんで諸事に通じ、王戎おうじゅうは淡泊で要領を得ています」と紹介され、司馬昭しばしょうえん(属官)となった。

*4

  • 汝南王じょなんおう司馬亮しばりょう(?~291):司馬懿しばいの3男。司馬師しばし司馬昭しばしょうの異母弟。
  • 楚王そおう司馬瑋しばい(271~291):武帝ぶてい司馬炎しばえん)の6男。恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の異母弟。
  • 趙王ちょうおう司馬倫しばりん(?~301):司馬懿しばいの9男。司馬亮しばりょうの異母弟。
  • 斉王せいおう司馬冏しばけい(?~302):武帝ぶてい司馬炎しばえん)の同母弟・司馬攸しばゆうの子。
  • 長沙王ちょうさおう司馬乂しばがい(277~304):武帝ぶてい司馬炎しばえん)の17男。司馬瑋しばいの同母弟。
  • 成都王せいとおう司馬穎しばえい(279~306):武帝ぶてい司馬炎しばえん)の19男。司馬乂しばがいの異母弟。
  • 河間王かかんおう司馬顒しばぎょう(?~306):司馬懿しばいの弟・司馬孚しばふの子・司馬瓌しばかいの子。
  • 東海王とうかいおう司馬越しばえつ(?~311):司馬懿しばい司馬孚しばふの弟・司馬馗しばきの子・の司馬泰しばたいの子。

*5蘧瑗きょえんあざな伯玉はくぎょく)。春秋しゅんじゅう時代のえい国の大夫たいふ孔子こうしの友人。


王戎おうじゅう」の関連記事

王衍おうえん夷甫いほ

正元せいげん3年 / 甘露かんろ元年(256年)*6西晋せいしん永嘉えいか5年(311年)生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王乂おうがい。子に王玄おうげん王景風おうけいふう王恵風おうけいふう。妻は郭淮かくわいの孫・郭豫かくよの娘。

その面持おももちは清明俊秀、風采ふうさいはゆったりとおごそかだった。

王衍おうえんが14歳の時のこと。僕射ぼくや羊祜ようこは、王衍おうえんの陳事状の文面が見事なのを見て、その名徳を貴重とした。また、王衍おうえんは幼い頃から他人に屈した態度を取ることがなかったので、人々は感心した。

外戚がいせき楊駿ようしゅんは自分の娘を王衍おうえんの妻にしたいとほっしたが、王衍おうえんはこれを恥じて、わざと狂った振りをして逃れた。

王衍おうえんの名声は武帝ぶてい司馬炎しばえん)まで届き、「王衍おうえんは当世の誰と比べられるか?」と問われた従兄いとこ王戎おうじゅうは、「当世に彼と比べられる者はおりません。いにしえの人の中から探すべきでしょう」と答えた。


父の王乂おうがい北平ほくへいで亡くなると、父が親しかった人たちのために数年で財産を使い果たし、洛陽城らくようじょうの西にある田園に住んだ。後に太子舍人たいししゃじん尚書郎しょうしょろうとなり、地方に出て元城県令げんじょうけんれいとなると、赴任した。一日中清談をし、県務もまた理(筋が通っていた)。洛陽に戻って中庶子ちゅうしょし黄門侍郎こうもんじろうとなった。

正始せいし年間(240年〜249年)、何晏かあん王弼おうひつらは『ろう』『そう』について論じ、王衍おうえんはこれに深く賛同した。裴頠はいぎだけはこれを論文で批判したが、王衍おうえんは気にせず、ただ老荘思想について談じていた。

王衍おうえんは高官を歴任し、後進の士で彼を慕って模範としない者はおらず、推挙されて登朝すると、みな王衍おうえんを第一人者(称首)とした。

王衍おうえんの妻・郭氏かくし賈皇后かこうごう賈南風かなんぷう)の親族で、中宮ちゅうぐう皇后こうごう)の権勢を利用して蓄財に励み、人事に干渉したが、王衍おうえんはこれをうれいていたものの、やめさせることはできなかった。

後に北軍中候ほくぐんちゅうこう中領軍ちゅうりょうぐん尚書令しょうしょれいを歴任した。

王衍おうえんの娘(王恵風おうけいふう)は太子たいし司馬遹しばいつ)のであったが、太子たいし司馬遹しばいつ賈皇后かこうごう賈南風かなんぷう)に誣告ぶこくされた。王衍おうえんわざわいが自分に及ぶことをおそれてすぐさま娘を離婚させたため、賈皇后かこうごう賈南風かなんぷう)が失脚すると、そのことによって非難された。


王衍おうえんは以前から趙王ちょうおう司馬倫しばりんの人となりを軽んじていた。司馬倫しばりんが帝位を簒奪さんだつすると、王衍おうえんは狂った振りをして(下女)を斬り殺し、みずから職を免じたが、司馬倫しばりん誅殺ちゅうさつされると河南尹かなんいんを拝命し、尚書しょうしょに転じ、また中書令ちゅうしょれいとなった。

斉王せいおう司馬冏しばけい*7が権力を欲しいままにすると、公卿こうけいたちはみな司馬冏しばけいに拝礼したが、王衍おうえんだけは、ただ1人長揖ちょうゆう*8で済ませ、病気のため官を去った。

その後王衍おうえんは、成都王せいとおう司馬穎しばえいもと中軍師ちゅうぐんし尚書僕射しょうしょぼくや領吏部りょうりぶを歴任し、尚書令しょうしょれい司空しくう司徒しとを拝した。王衍おうえんは、天子てんしを補佐する宰相さいしょうの地位にありながら国を治める気概きがいがなく、弟の王澄おうちょう荊州刺史けいしゅうしし、族弟の王敦おうとん青州刺史せいしゅうししとして派遣し、みずからは洛陽らくようとどまって一族の身の安全をはかった。


かん前趙ぜんちょう)の石勒せきろく王弥おうび洛陽らくように侵攻すると、王衍おうえん都督ととく征討せいとう諸軍事しょぐんじ持節じせつ假黄鉞かこうえつを与えられてこれを防いだ。

東海王とうかいおう司馬越しばえつが死ぬと元帥げんすいに推薦されたが、ぞくが蜂起してもおそれてえて戦わず、突然軍をげた石勒せきろくに捕らえられた。

王衍おうえんが処刑をまぬかれようと弁解し、石勒せきろくに尊号を称する(帝位につく)ことを進めると、石勒せきろくは激怒して言った。

「君の名は四海しかい(天下)をおおい、身は国の重職に置き、若い頃から登朝して白髪しらが頭となるに至った。どうして君に責任がないと言えるのか。しんの天下が破壊されたのは、まさに君の罪だっ!」

そして配下の孔萇こうちょうに「わしはこれまで天下を渡り歩いて来たが、今までこんな男を見たことがない。此奴こやつに生かしておく価値はあるか?」とたずねると、孔萇こうちょうは「彼はしん三公さんこうとして力を尽くしませんでした。彼に何の価値がありましょうかっ!」と言った。

石勒せきろくは「鋒刃を使う必要はない」と言い、その夜、王衍おうえんは土壁の下敷きにされて圧死した。

享年きょうねん56歳。王衍おうえんは死にのぞみ、次のように言いのこしたという。

嗚呼ああっ!我らは古人に及ばぬとは言え、もっと天下のために力を尽していれば、このようなことにはならなかっただろう」

脚注

*6256年は6月に正元せいげんから甘露かんろに改元。王衍おうえんの誕生月が不明のため元号も不明。

*7原文は「齊王せいおうがい」となっていますが、あやまりと思われます。司馬乂しばがい長沙王ちょうさおう

*8胸の前に組み合わせた両手を上下させて行う礼。あまり丁重ではない礼。


王澄おうちょう平子へいし

西晋せいしん泰始たいし5年(269年)〜永嘉えいか6年(312年)没。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王乂おうがい。子に王詹おうせん王徽おうき。兄に王衍おうえん

幼い頃から才知にすぐれて飲み込みが早く、口は達者ではなかったが、挙動を見ただけでその人が考えていることが分かった。

兄・王衍おうえんの妻・郭氏かくし貪鄙どんひ強欲ごうよくいやしい)な女性で、(下女)に道端のくそを肩にかつぐように命じたことがあり、王澄おうちょうはこれをいさめた。この時王澄おうちょうは14歳。郭氏かくしは激怒して、王澄おうちょうころもすそをつかんでつえで打とうとしたが、王澄おうちょうは振り払って窓から逃げた。

兄の王衍おうえんは「人倫じんりん(人間一般)のかがみ」として世に知られたが、王澄おうちょうは天下の人士として「阿平あへい王澄おうちょう)*9第1、子嵩しすう庾敳ゆがい)第2、處仲しょちゅう王敦おうとん)第3」と評された。


王澄おうちょうは若くして要職を歴任し、成都王せいとおう司馬穎しばえい従事中郎じゅうじちゅうろうとなった。孟玖もうきゅう讒言ざんげんを信じた司馬穎しばえい陸機りくき兄弟を殺害すると、天下の人々はみな不満を持ったが、王澄おうちょう司馬穎しばえいに勧めて孟玖もうきゅう誅殺ちゅうさつさせたので、官民そろって不満を言う者はいなくなった。

司馬穎しばえいが敗れると、東海王とうかいおう司馬越しばえつわれて司空長史しくうちょうしとなり南鄉侯なんきょうこうに封ぜられた。後に建威将軍けんいしょうぐんうつ雍州刺史ようしゅうししに任命されたが受けなかった。

王敦おうとん謝鯤しゃこん庾敳ゆがい阮修げんしゅうはみな王衍おうえんと親しく「四友」と号し、また王澄おうちょう胡毋輔之こぼふしとも親しかった。


恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の末期、王衍おうえんによって荊州刺史けいしゅうしし持節じせつ都督ととく南蛮校尉なんばんこういに任命されると、出兵して蛮族ばんぞくを服従させた。

ある時樹上にかささぎの巣を見つけた王澄おうちょうは、おもむろに衣を脱いで木に登ると、かささぎの巣をもてあそんで降りてきた。このように彼は非常に落ち着いていて(神気蕭然しんきしょうぜん傍若無人ぼうじゃくぶじんだった。

後に東晋とうしん元帝げんてい司馬睿しばえい)のおしに応じて江南こうなんに渡る途中、王澄おうちょうの盛名を警戒した王敦おうとんによって殺害された。享年きょうねん44歳。故吏こり著作郎ちょさくろう桓稚かんちが上表してけんおくりなされた。

脚注

*9阿平あへいとは、王澄おうちょうあざな平子へいしに親しみを込めた接頭語「阿」をつけた呼び方であると思われます。


王愔おういん琅邪ろうや王氏おうし

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は不明。従兄いとこ王戎おうじゅう

陽平太守ようへいたいしゅ。子が従兄いとこ王戎おうじゅうの後を継いだ。


第4世代(王萬・王興・王戎の娘・王玄・王景風・王恵風・王詹・王徽)

王萬おうばん王万おうばん

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王戎おうじゅう。弟に王興おうこう。姉妹に裴頠はいきの妻。祖父は王渾おうこん

名声があった。若い頃から大変太っていたが、父の王戎おうじゅうぬかを食べるように命じるとたちまち肥満が解消した。19歳で亡くなった。


(和訳に不安があるため原文を載せておきます)

子萬,有美名。少而大肥,戎令食穅,而肥愈甚。年十九卒。


王興おうこう

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王戎おうじゅう。兄に王萬おうばん。姉妹に裴頠はいきの妻。祖父に王渾おうこん

王戎おうじゅうの庶子。王戎おうじゅう王萬おうばんの死後、弟の王興おうこうを後継者と認めず(戎所不齒)、従弟いとこ陽平太守ようへいたいしゅ王愔おういんの子に後を継がせた。


王戎おうじゅうの娘

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王戎おうじゅう。兄弟に王萬おうばん王興おうこう。祖父に王渾おうこん

裴頠はいぎとついだが、その際、父の王戎おうじゅうに数万銭を貸りて久しく帰省しなかった。

後に(夫の裴頠はいぎ誅殺ちゅうさつされたため)突然実家に戻ることになり、父・王戎おうじゅうに丁寧に挨拶あいさつした。

王戎おうじゅうは喜ばなかったが、娘が貸りていた銭を返すとたちまち娘を歓待した。


王玄おうげん眉子びし

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王衍おうえん。姉妹に王景風おうけいふう王恵風おうけいふう叔父おじ王澄おうちょう。祖父は王乂おうがい

幼い頃から簡曠かんこうしたい、その俊才をもって衛玠えいかいと共に名を知られ、大胆な(豪気)性格で人情に捕らわれなかった。

東晋とうしん荀藩じゅんはん陳留太守ちんりゅうたいしゅに任命されて尉氏県いしけんに駐屯した。世が荒れ果てて疲弊ひへいすると祖逖そてきの元に身を寄せようとしたが、途中で盗賊に殺害された。


(和訳に不安があるため原文を載せておきます)

子玄,字眉子,少慕簡曠,亦有俊才,與衛玠齊名。荀籓用為陳留太守,屯尉氏。玄素名家,有豪氣,荒弊之時,人情不附,將赴祖逖,為盜所害焉。


王景風おうけいふう

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。王衍おうえんの長女。妹に王恵風おうけいふう

美女と評判で、西晋せいしん恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の皇后こうごう賈南風かなんぷうが、おい賈謐かひつの権勢を保つため彼と結婚させた。


王恵風おうけいふう

生年不詳〜西晋せいしん永嘉えいか5年(311年)没。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。王衍おうえんの次女。姉に王景風おうけいふう

西晋せいしんの第2代皇帝・恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)の太子たいし司馬遹しばいつは、美女と評判の王衍おうえんの長女・王景風おうけいふうと婚約していたが、皇后こうごう賈南風かなんぷうの取り仕切りにより、彼と対立する賈謐かひつが彼女をめとってしまった。

司馬遹しばいつは妹の王恵風おうけいふうを妻として太子妃たいしひとしたが、妻を軽んじて側室の蒋俊しょうしゅん寵愛ちょうあいした。

元康げんこう9年(300年)12月、司馬遹しばいつが無実の罪を着せられて庶人しょじんに落とされると、父の王衍おうえんは急いで司馬遹しばいつと離婚させ、王恵風おうけいふうは大声で泣き続けながら家へ戻った。

永嘉えいか5年(311年)、かん前趙ぜんちょう)の劉曜りゅうようによって洛陽らくようが陥落。捕らえられた王恵風おうけいふうは部将の喬属きょうぞくに妻として下賜かしされたが、王恵風おうけいふうは剣を抜いて「私は名門・琅邪ろうや王氏おうし太尉たいいの娘で、皇太子こうたいしの妻である。汚れた逆賊のはずかしめは受けないっ!」と叫んだため、逆上した喬属きょうぞくによって殺害され、後に東晋とうしんの朝廷によって、貞定妃ていていひおくりなされた。


王詹おうせん

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王澄おうちょう。弟に王徽おうき伯父おじ王衍おうえん。祖父は王乂おうがい

早世した。


王徽おうき琅邪ろうや王氏おうし

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王澄おうちょう。兄に王詹おうせん伯父おじ王衍おうえん。祖父は王乂おうがい

右軍司馬ゆうぐんしばとなった。



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【三国志人物伝】総索引