正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑧。琅邪郡(ろうやぐん)王氏(おうし)①(王雄(おうゆう)・王渾(おうこん)・王乂(おうがい)・王戎(おうじゅう)・王衍(おうえん)・王澄(おうちょう)・王愔(おういん)・王萬(おうばん)・王興(おうこう)・王玄(おうげん)・王景風(おうけいふう)・王恵風(おうけいふう)・王詹(おうせん)・王徽(おうき))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

琅邪王氏①系図

琅邪郡王氏①系図

琅邪郡(ろうやぐん)王氏(おうし)①系図

※兄弟は左側が年長。王玄(おうげん)の兄弟の順は不明。


この記事では琅邪郡(ろうやぐん)王氏(おうし)の人物、

についてまとめています。

その他の琅邪王氏

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お⑧(琅邪王氏①)

第1世代(王雄)

王雄(おうゆう)・元伯(げんぱく)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。子に王渾(おうこん)、王乂(おうがい)。太保(たいほ)・王祥(おうしょう)の祖先。

魏(ぎ)の黄初(こうしょ)元年、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))が帝位につくと幽州刺史(ゆうしゅうしし)として崔林(さいりん)を赴任させたが、崔林(さいりん)は河北(かほく)の軍事を統括する北中郎将(ほくちゅうろうしょう)の呉質(ごしつ)に敬意を表さなかった。

そこで涿郡太守(たくぐんたいしゅ)であった王雄(おうゆう)は、崔林(さいりん)の別駕(べつが)に向かって次のように忠告した。

「呉中郎将(ごちゅうろうしょう)(呉質(ごしつ))は、お上(かみ)の親愛され尊重されている方で国の重臣だ。節(せつ)(裁判の専断権を示すしるし)に頼って事を統(す)べ、州も郡も敬意を表さない者はおらぬが、崔使君(さいしくん)(崔林(さいりん))は知らぬ顔をしている。もし国境地帯が治まらないことを理由に卿(おんみ)(あなた)を斬るならば、使君(しくん)(崔林(さいりん))はどうやって卿(おんみ)(あなた)を弁護できるかね?」

別駕(べつが)はその話を詳しく崔林(さいりん)に語ったが、崔林(さいりん)は、

「刺史(わし)はこの州を去ることを履物(はきもの)を脱ぎ棄(す)てる程度に思っているのだ。どうして拘(かかずら)う必要があるかね。しかしこの州は北方民族と接しており、彼らを騒がせればその逆心を揺(ゆ)り動かし、特に国家にとって北方への懸念(けねん)が生ずることになる。だからこそ、この地に留(とど)まっているのだ」

と言って態度を変えなかった。

崔林(さいりん)は1期の間在職し、北方民族の侵奪は影を潜(ひそ)めたが、それでも上司(呉質(ごしつ))に頭を下げなかったために河南太守(かなんたいしゅ)に左遷(させん)された。清潔な人たちの間では崔林(さいりん)のために残念がる意見が多かった。


後に王雄(おうゆう)は、安定太守(たくぐんたいしゅ)・孟達(もうたつ)*1の推薦を受け、散騎常侍(さんきじょうじ)を経(へ)て幽州刺史(ゆうしゅうしし)となった。


また、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は田豫(でんよ)を持節(じせつ)護烏丸校尉(ごうがんこうい)に任命して牽招(けんしょう)、解儁(かいしゅん)と共に鮮卑(せんぴぞく)族を監督させていたが、田豫(でんよ)が校尉(こうい)となって9年、幽州刺史(ゆうしゅうしし)・王雄(おうゆう)の一党が王雄(おうゆう)に烏丸校尉(うがんこうい)を宰領(さいりょう)させようとして「田豫(でんよ)は国境地帯を混乱させており、国にとって事件が起こることになるだろう」と非難した。かくて田豫(でんよ)を汝南太守(じょなんたいしゅ)に転任させ、殄夷将軍(てんいしょうぐん)の官を加えた。

太和(たいわ)6年(232年)、魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は、平州刺史(へいしゅうしし)の田豫(でんよ)に海路を渡らせ、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の王雄(おうゆう)に陸路を進ませて同時に遼東(りょうとう)を攻撃させた。

この時蔣済(しょうせい)はこれを諫(いさ)めたが、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は聞き入れず、結局田豫(でんよ)と王雄(おうゆう)は成功することなく帰還した。

青龍(せいりゅう)3年(235年)、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は王雄(おうゆう)の意見を容(い)れ、勇猛の士・韓龍(かんりょう)を送って鮮卑(せんぴぞく)族の大人(たいじん)・軻比能(かひのう)を刺殺させると、代わってその弟を立てた。

脚注

*1蜀(しょく)から魏(ぎ)に降(くだ)った孟達(もうたつ)・子度(しど)とは別人。


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第2世代(王渾・王乂)

王渾(おうこん)(王雄(おうゆう)の子)*2

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王雄(おうゆう)。子に王戎(おうじゅう)。弟に王乂(おうがい)。

涼州刺史(りょうしゅうしし)・貞陵亭侯(ていりょうていこう)となった。

脚注

*2インターネット上には「琅邪(ろうや)王氏(おうし)・王渾(おうこん)の字(あざな)は長源(ちょうげん)」という情報がありますが、出典を確認できていません。出典を確認でき次第、正式に追記します。


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王乂(おうがい)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王雄(おうゆう)。子に王衍(おうえん)、王澄(おうちょう)。兄に王渾(おうこん)。

平北将軍(へいほくしょうぐん)となった。


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第3世代(王戎・王衍・王澄・王愔)

王戎(おうじゅう)・濬沖(しゅんちゅう)

魏(ぎ)の青龍(せいりゅう)2年(234年)〜西晋(せいしん)の永興(えいこう)2年(305年)没。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王渾(おうこん)。子に王萬(おうばん)(王万(おうばん))、王興(おうこう)(庶子)、娘(裴頠(はいき)の妻)。叔父(おじ)は王乂(おうがい)。従弟(いとこ)に王衍(おうえん)、王澄(おうちょう)。祖父は王雄(おうゆう)。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)の1人。

幼少より才知に優れ、その風貌は透き通るようで、その神童振りは魏(ぎ)の明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))の目に止まり、15歳の時、父の友人であった20歳も年上の阮籍(げんせき)と交友を結び、裴楷(はいかい)、杜黙(ともく)、荀寓(じゅんぐう)と共に都で名を知られた。

父の王渾(おうこん)が涼州(りょうしゅう)で亡くなると、王渾(おうこん)の故吏(こり)(元部下)たちは王戎(おうじゅう)に数百万銭を贈ったが、王戎(おうじゅう)が受け取らなかったことから名声を高めることとなる。

また、王戎(おうじゅう)は小柄(こがら)であったが、その振舞いは堂々としていて「礼」に拘(こだわ)ることはなく談笑を好み、阮籍(げんせき)たちと竹林に遊んで「竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)」と称(しょう)した。


鍾会(しょうかい)が蜀(しょく)討伐に出陣する際、鍾会(しょうかい)に相談を持ちかけられた王戎(おうじゅう)は、「『道家(どうけ)』の言葉に『為(な)して恃(たの)まず』とあります。功を成(な)すことが難しいのではなく、功を保(たも)つことが難しいのです」と答えたが、鍾会(しょうかい)が敗れた後で、人々は王戎(おうじゅう)の言葉の真意を知ることになった。

父の爵位を継いだ王戎(おうじゅう)は相国(しょうこく)(司馬昭(しばしょう))の掾(えん)に辟(まね)かれ*3、吏部(りぶ)黄門郎(こうもんろう)、散騎常侍(さんきじょうじ)、河東太守(かとうたいしゅ)、荊州刺史(けいしゅうしし)を歴任し、役人を遣(つか)わして私的に園宅を修繕(しゅうぜん)させたために免官されたが、豫州刺史(よしゅうしし)に遷(うつ)って建威将軍(けんいしょうぐん)を加えられて呉(ご)の討伐を命ぜられ、呉(ご)が平定されると安豊侯(あんほうこう)に進んで6千戸を加えられて絹6千匹を賜(たまわ)った。

長江(ちょうこう)を渡った王戎(おうじゅう)は、呉(ご)の旧臣たちを心服させて侍中(じちゅう)となったが、南郡太守(なんぐんたいしゅ)・劉肇(りゅうちょう)が王戎(おうじゅう)に賄賂(わいろ)を贈ったことが発覚。調査により王戎(おうじゅう)が賄賂(わいろ)を受け取らなかったことが分かると、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は王戎(おうじゅう)の無欲さを称賛(しょうさん)した。

王戎(おうじゅう)には特別な能力はなく、地道な実績を重ね、光禄勲(こうろくくん)に遷(うつ)って吏部(りぶ)尚書(しょうしょ)となったが、母の喪(も)に服すために職を去った。王戎(おうじゅう)は礼制に拘(こだわ)ることはなく酒を飲み肉を食べ、囲碁を観戦していたが、見るからに憔悴(しょうすい)していたため、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は王戎(おうじゅう)に医者を遣(や)り薬を下賜(かし)して療養させた。


武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の死後、外戚(がいせき)の楊駿(ようしゅん)が実権を握ると太子(たいし)太傅(たいふ)に任命されたが、楊駿(ようしゅん)が誅殺(ちゅうさつ)されると、今度は東安公(とうあんこう)の司馬繇(しばよう)が刑賞を専断するようになった。王戎(おうじゅう)は「大事を成し遂(と)げた後は、慎重になるべきです」と諌(いさ)めたが、司馬繇(しばよう)はこれに従わず、結局罪を得ることとなった。

王戎(おうじゅう)は中書令(ちゅうしょれい)に転じ、光禄大夫(こうろくたいふ)を加えられて恩信を50人給(たま)わり、後に尚書(しょうしょ)左僕射(さぼくや)に遷(うつ)って吏部(りぶ)を領した。

王戎(おうじゅう)は「甲午(こうご)の制」と呼ばれる官吏登用制度を始め、司隷校尉(しれいこうい)の傅咸(ふかん)に批判されたが、賈氏(かし)や郭氏(かくし)と親しかったために不問に付された。


その後、王戎(おうじゅう)は司徒(しと)に転じたが、娘婿(むすめむこ)の裴頠(はいぎ)が皇后(こうごう)・賈南風(かなんぷう)の廃位を目論(もくろ)む趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)に誅殺(ちゅうさつ)されると、裴頠(はいぎ)に連座して免官されたが、司馬倫(しばりん)が誅殺(ちゅうさつ)され、恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が宮殿に戻ると、尚書令(しょうしょれい)となった。

8王*4が争う(八王の乱)混乱の中、王戎(おうじゅう)は蘧伯玉(きょはくぎょく)*5の人となりを慕(した)い虚名を退け、司徒(しと)を拝(はい)し三公(さんこう)のすべてを経験したが、自分では政治を執(と)らず官僚に采配を委(ゆだ)ねた。王戎(おうじゅう)の姿を見て彼が三公(さんこう)だと気づく者はいなかったという。

その一方で王戎(おうじゅう)は利に聡(さと)く、天下の至(いた)る所に広大な園田を持ち、自(みずか)ら牙籌(がちゅう)(そろばん)を手に収支を計算していた。

従子(甥(おい))が結婚する時、王戎(おうじゅう)はただ1着の単衣(ひとえ)を贈ったが、彼が離婚すると責めて返還を求めた。また、王戎(おうじゅう)の家には李(すもも)の木があり、その実を売っていたが、買い手に栽培されないよう種をくり抜いてから売っていたので世の人々に嘲笑(ちょうしょう)された。彼のケチ具合はこのようなものであった。


永興(えいこう)元年(304年)、王戎(おうじゅう)は恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の北伐(成都王(せいとおう)・司馬穎(しばえい)の征伐)に従軍。蕩陰(とういん)で大敗し、恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が長安(ちょうあん)に遷(うつ)されると、王戎(おうじゅう)は郟県(こうけん)に出奔(しゅっぽん)し、翌年の永興(えいこう)2年(305年)に亡くなった。享年(きょうねん)72歳。元(げん)と諡(おくりな)された。

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脚注

*3王戎(おうじゅう)は鍾会(しょうかい)に「裴楷(はいかい)は清廉(せいれん)で諸事に通じ、王戎(おうじゅう)は淡泊で要領を得ています」と紹介され、司馬昭(しばしょう)の掾(えん)(属官)となった。

*4

  • 汝南王(じょなんおう)・司馬亮(しばりょう)(?~291):司馬懿(しばい)の3男。司馬師(しばし)や司馬昭(しばしょう)の異母弟。
  • 楚王(そおう)・司馬瑋(しばい)(271~291):武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の6男。恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の異母弟。
  • 趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)(?~301):司馬懿(しばい)の9男。司馬亮(しばりょう)の異母弟。
  • 斉王(せいおう)・司馬冏(しばけい)(?~302):武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の同母弟・司馬攸(しばゆう)の子。
  • 長沙王(ちょうさおう)・司馬乂(しばがい)(277~304):武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の17男。司馬瑋(しばい)の同母弟。
  • 成都王(せいとおう)・司馬穎(しばえい)(279~306):武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の19男。司馬乂(しばがい)の異母弟。
  • 河間王(かかんおう)・司馬顒(しばぎょう)(?~306):司馬懿(しばい)の弟・司馬孚(しばふ)の子・司馬瓌(しばかい)の子。
  • 東海王(とうかいおう)・司馬越(しばえつ)(?~311):司馬懿(しばい)や司馬孚(しばふ)の弟・司馬馗(しばき)の子・の司馬泰(しばたい)の子。

*5蘧瑗(きょえん)(字(あざな):伯玉(はくぎょく))。春秋(しゅんじゅう)時代の衛(えい)国の大夫(たいふ)。孔子(こうし)の友人。


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王衍(おうえん)・夷甫(いほ)

魏(ぎ)の正元(せいげん)3年 / 甘露(かんろ)元年(256年)*6〜西晋(せいしん)の永嘉(えいか)5年(311年)生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王乂(おうがい)。子に王玄(おうげん)、王景風(おうけいふう)、王恵風(おうけいふう)。妻は郭淮(かくわい)の孫・郭豫(かくよ)の娘。

その面持(おもも)ちは清明俊秀、風采(ふうさい)はゆったりと厳(おごそ)かだった。

王衍(おうえん)が14歳の時のこと。僕射(ぼくや)の羊祜(ようこ)は、王衍(おうえん)の陳事状の文面が見事なのを見て、その名徳を貴重とした。また、王衍(おうえん)は幼い頃から他人に屈した態度を取ることがなかったので、人々は感心した。

外戚(がいせき)の楊駿(ようしゅん)は自分の娘を王衍(おうえん)の妻にしたいと欲(ほっ)したが、王衍(おうえん)はこれを恥じて、わざと狂った振りをして逃れた。

王衍(おうえん)の名声は武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))まで届き、「王衍(おうえん)は当世の誰と比べられるか?」と問われた従兄(いとこ)の王戎(おうじゅう)は、「当世に彼と比べられる者はおりません。古(いにしえ)の人の中から探すべきでしょう」と答えた。


父の王乂(おうがい)が北平(ほくへい)で亡くなると、父が親しかった人たちのために数年で財産を使い果たし、洛陽城(らくようじょう)の西にある田園に住んだ。後に太子舍人(たいししゃじん)、尚書郎(しょうしょろう)となり、地方に出て元城県令(げんじょうけんれい)となると、赴任した。一日中清談をし、県務もまた理(筋が通っていた)。洛陽に戻って中庶子(ちゅうしょし)、黄門侍郎(こうもんじろう)となった。

魏(ぎ)の正始(せいし)年間(240年〜249年)、何晏(かあん)、王弼(おうひつ)らは『老(ろう)』『荘(そう)』について論じ、王衍(おうえん)はこれに深く賛同した。裴頠(はいぎ)だけはこれを論文で批判したが、王衍(おうえん)は気にせず、ただ老荘思想について談じていた。

王衍(おうえん)は高官を歴任し、後進の士で彼を慕って模範としない者はおらず、推挙されて登朝すると、みな王衍(おうえん)を第一人者(称首)とした。

王衍(おうえん)の妻・郭氏(かくし)は賈皇后(かこうごう)(賈南風(かなんぷう))の親族で、中宮(ちゅうぐう)(皇后(こうごう))の権勢を利用して蓄財に励み、人事に干渉したが、王衍(おうえん)はこれを憂(うれ)いていたものの、やめさせることはできなかった。

後に北軍中候(ほくぐんちゅうこう)、中領軍(ちゅうりょうぐん)、尚書令(しょうしょれい)を歴任した。

王衍(おうえん)の娘(王恵風(おうけいふう))は太子(たいし)(司馬遹(しばいつ))の妃(ひ)であったが、太子(たいし)・司馬遹(しばいつ)が賈皇后(かこうごう)(賈南風(かなんぷう))に誣告(ぶこく)された。王衍(おうえん)は禍(わざわ)いが自分に及ぶことを懼(おそ)れてすぐさま娘を離婚させたため、賈皇后(かこうごう)(賈南風(かなんぷう))が失脚すると、そのことによって非難された。


王衍(おうえん)は以前から趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)の人となりを軽んじていた。司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪(さんだつ)すると、王衍(おうえん)は狂った振りをして婢(ひ)(下女)を斬り殺し、自(みずか)ら職を免じたが、司馬倫(しばりん)が誅殺(ちゅうさつ)されると河南尹(かなんいん)を拝命し、尚書(しょうしょ)に転じ、また中書令(ちゅうしょれい)となった。

斉王(せいおう)・司馬冏(しばけい)*7が権力を欲しいままにすると、公卿(こうけい)たちはみな司馬冏(しばけい)に拝礼したが、王衍(おうえん)だけは、ただ1人長揖(ちょうゆう)*8で済ませ、病気のため官を去った。

その後王衍(おうえん)は、成都王(せいとおう)・司馬穎(しばえい)の下(もと)で中軍師(ちゅうぐんし)、尚書僕射(しょうしょぼくや)、領吏部(りょうりぶ)を歴任し、尚書令(しょうしょれい)、司空(しくう)、司徒(しと)を拝した。王衍(おうえん)は、天子(てんし)を補佐する宰相(さいしょう)の地位にありながら国を治める気概(きがい)がなく、弟の王澄(おうちょう)を荊州刺史(けいしゅうしし)、族弟の王敦(おうとん)を青州刺史(せいしゅうしし)として派遣し、自(みずか)らは洛陽(らくよう)に留(とど)まって一族の身の安全を図(はか)った。


漢(かん)(前趙(ぜんちょう))の石勒(せきろく)、王弥(おうび)が洛陽(らくよう)に侵攻すると、王衍(おうえん)は都督(ととく)征討(せいとう)諸軍事(しょぐんじ)に持節(じせつ)・假黄鉞(かこうえつ)を与えられてこれを防いだ。

東海王(とうかいおう)・司馬越(しばえつ)が死ぬと元帥(げんすい)に推薦されたが、賊(ぞく)が蜂起しても懼(おそ)れて敢(あ)えて戦わず、突然軍を挙(あ)げた石勒(せきろく)に捕らえられた。

王衍(おうえん)が処刑を免(まぬか)れようと弁解し、石勒(せきろく)に尊号を称する(帝位につく)ことを進めると、石勒(せきろく)は激怒して言った。

「君の名は四海(しかい)(天下)を覆(おお)い、身は国の重職に置き、若い頃から登朝して白髪(しらが)頭となるに至った。どうして君に責任がないと言えるのか。晋(しん)の天下が破壊されたのは、正(まさ)に君の罪だっ!」

そして配下の孔萇(こうちょう)に「儂(わし)はこれまで天下を渡り歩いて来たが、今までこんな男を見たことがない。此奴(こやつ)に生かしておく価値はあるか?」と尋(たず)ねると、孔萇(こうちょう)は「彼は晋(しん)の三公(さんこう)として力を尽くしませんでした。彼に何の価値がありましょうかっ!」と言った。

石勒(せきろく)は「鋒刃を使う必要はない」と言い、その夜、王衍(おうえん)は土壁の下敷きにされて圧死した。

享年(きょうねん)56歳。王衍(おうえん)は死に臨(のぞ)み、次のように言い遺(のこ)したという。

「嗚呼(ああ)っ!我らは古人に及ばぬとは言え、もっと天下のために力を尽していれば、このようなことにはならなかっただろう」

脚注

*6256年は6月に正元(せいげん)から甘露(かんろ)に改元。王衍(おうえん)の誕生月が不明のため元号も不明。

*7原文は「齊王(せいおう)乂(がい)」となっていますが、誤(あやま)りと思われます。司馬乂(しばがい)は長沙王(ちょうさおう)。

*8胸の前に組み合わせた両手を上下させて行う礼。あまり丁重ではない礼。


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王澄(おうちょう)・平子(へいし)

西晋(せいしん)の泰始(たいし)5年(269年)〜永嘉(えいか)6年(312年)没。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王乂(おうがい)。子に王詹(おうせん)、王徽(おうき)。兄に王衍(おうえん)。

幼い頃から才知に優(すぐ)れて飲み込みが早く、口は達者ではなかったが、挙動を見ただけでその人が考えていることが分かった。

兄・王衍(おうえん)の妻・郭氏(かくし)は貪鄙(どんひ)(強欲(ごうよく)で卑(いや)しい)な女性で、婢(ひ)(下女)に道端の糞(くそ)を肩に担(かつ)ぐように命じたことがあり、王澄(おうちょう)はこれを諌(いさ)めた。この時王澄(おうちょう)は14歳。郭氏(かくし)は激怒して、王澄(おうちょう)の衣(ころも)の裾(すそ)をつかんで杖(つえ)で打とうとしたが、王澄(おうちょう)は振り払って窓から逃げた。

兄の王衍(おうえん)は「人倫(じんりん)(人間一般)の鑑(かがみ)」として世に知られたが、王澄(おうちょう)は天下の人士として「阿平(あへい)(王澄(おうちょう))*9第1、子嵩(しすう)(庾敳(ゆがい))第2、處仲(しょちゅう)(王敦(おうとん))第3」と評された。


王澄(おうちょう)は若くして要職を歴任し、成都王(せいとおう)・司馬穎(しばえい)の従事中郎(じゅうじちゅうろう)となった。孟玖(もうきゅう)の讒言(ざんげん)を信じた司馬穎(しばえい)が陸機(りくき)兄弟を殺害すると、天下の人々はみな不満を持ったが、王澄(おうちょう)が司馬穎(しばえい)に勧めて孟玖(もうきゅう)を誅殺(ちゅうさつ)させたので、官民そろって不満を言う者はいなくなった。

司馬穎(しばえい)が敗れると、東海王(とうかいおう)・司馬越(しばえつ)に請(こ)われて司空長史(しくうちょうし)となり南鄉侯(なんきょうこう)に封ぜられた。後に建威将軍(けんいしょうぐん)に遷(うつ)り雍州刺史(ようしゅうしし)に任命されたが受けなかった。

王敦(おうとん)、謝鯤(しゃこん)、庾敳(ゆがい)、阮修(げんしゅう)はみな王衍(おうえん)と親しく「四友」と号し、また王澄(おうちょう)、胡毋輔之(こぼふし)とも親しかった。


恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の末期、王衍(おうえん)によって荊州刺史(けいしゅうしし)・持節(じせつ)・都督(ととく)・南蛮校尉(なんばんこうい)に任命されると、出兵して蛮族(ばんぞく)を服従させた。

ある時樹上に鵲(かささぎ)の巣を見つけた王澄(おうちょう)は、おもむろに衣を脱いで木に登ると、鵲(かささぎ)の巣を弄(もてあそ)んで降りてきた。このように彼は非常に落ち着いていて(神気蕭然(しんきしょうぜん))傍若無人(ぼうじゃくぶじん)だった。

後に東晋(とうしん)の元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))のお召(め)しに応じて江南(こうなん)に渡る途中、王澄(おうちょう)の盛名を警戒した王敦(おうとん)によって殺害された。享年(きょうねん)44歳。故吏(こり)の著作郎(ちょさくろう)・桓稚(かんち)が上表して憲(けん)と諡(おくりな)された。

脚注

*9阿平(あへい)とは、王澄(おうちょう)の字(あざな)・平子(へいし)に親しみを込めた接頭語「阿」をつけた呼び方であると思われます。


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王愔(おういん)(琅邪(ろうや)王氏(おうし))

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は不明。従兄(いとこ)に王戎(おうじゅう)。

陽平太守(ようへいたいしゅ)。子が従兄(いとこ)の王戎(おうじゅう)の後を継いだ。


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第4世代(王萬・王興・王戎の娘・王玄・王景風・王恵風・王詹・王徽)

王萬(おうばん)(王万(おうばん))

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王戎(おうじゅう)。弟に王興(おうこう)。姉妹に裴頠(はいき)の妻。祖父は王渾(おうこん)。

名声があった。若い頃から大変太っていたが、父の王戎(おうじゅう)が穅(ぬか)を食べるように命じるとたちまち肥満が解消した。19歳で亡くなった。


(和訳に不安があるため原文を載せておきます)

子萬,有美名。少而大肥,戎令食穅,而肥愈甚。年十九卒。


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王興(おうこう)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王戎(おうじゅう)。兄に王萬(おうばん)。姉妹に裴頠(はいき)の妻。祖父に王渾(おうこん)。

王戎(おうじゅう)の庶子。王戎(おうじゅう)は王萬(おうばん)の死後、弟の王興(おうこう)を後継者と認めず(戎所不齒)、従弟(いとこ)の陽平太守(ようへいたいしゅ)・王愔(おういん)の子に後を継がせた。


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王戎(おうじゅう)の娘

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王戎(おうじゅう)。兄弟に王萬(おうばん)、王興(おうこう)。祖父に王渾(おうこん)。

裴頠(はいぎ)に嫁(とつ)いだが、その際、父の王戎(おうじゅう)に数万銭を貸りて久しく帰省しなかった。

後に(夫の裴頠(はいぎ)が誅殺(ちゅうさつ)されたため)突然実家に戻ることになり、父・王戎(おうじゅう)に丁寧に挨拶(あいさつ)した。

王戎(おうじゅう)は喜ばなかったが、娘が貸りていた銭を返すとたちまち娘を歓待した。


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王玄(おうげん)・眉子(びし)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王衍(おうえん)。姉妹に王景風(おうけいふう)、王恵風(おうけいふう)。叔父(おじ)に王澄(おうちょう)。祖父は王乂(おうがい)。

幼い頃から簡曠(かんこう)を慕(した)い、その俊才をもって衛玠(えいかい)と共に名を知られ、大胆な(豪気)性格で人情に捕らわれなかった。

東晋(とうしん)の荀藩(じゅんはん)に陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)に任命されて尉氏県(いしけん)に駐屯した。世が荒れ果てて疲弊(ひへい)すると祖逖(そてき)の元に身を寄せようとしたが、途中で盗賊に殺害された。


(和訳に不安があるため原文を載せておきます)

子玄,字眉子,少慕簡曠,亦有俊才,與衛玠齊名。荀籓用為陳留太守,屯尉氏。玄素名家,有豪氣,荒弊之時,人情不附,將赴祖逖,為盜所害焉。


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王景風(おうけいふう)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。王衍(おうえん)の長女。妹に王恵風(おうけいふう)。

美女と評判で、西晋(せいしん)の恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の皇后(こうごう)・賈南風(かなんぷう)が、甥(おい)の賈謐(かひつ)の権勢を保つため彼と結婚させた。


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王恵風(おうけいふう)

生年不詳〜西晋(せいしん)の永嘉(えいか)5年(311年)没。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。王衍(おうえん)の次女。姉に王景風(おうけいふう)。

西晋(せいしん)の第2代皇帝・恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))の太子(たいし)・司馬遹(しばいつ)は、美女と評判の王衍(おうえん)の長女・王景風(おうけいふう)と婚約していたが、皇后(こうごう)・賈南風(かなんぷう)の取り仕切りにより、彼と対立する賈謐(かひつ)が彼女を娶(めと)ってしまった。

司馬遹(しばいつ)は妹の王恵風(おうけいふう)を妻として太子妃(たいしひ)としたが、妻を軽んじて側室の蒋俊(しょうしゅん)を寵愛(ちょうあい)した。

元康(げんこう)9年(300年)12月、司馬遹(しばいつ)が無実の罪を着せられて庶人(しょじん)に落とされると、父の王衍(おうえん)は急いで司馬遹(しばいつ)と離婚させ、王恵風(おうけいふう)は大声で泣き続けながら家へ戻った。

永嘉(えいか)5年(311年)、漢(かん)(前趙(ぜんちょう))の劉曜(りゅうよう)によって洛陽(らくよう)が陥落。捕らえられた王恵風(おうけいふう)は部将の喬属(きょうぞく)に妻として下賜(かし)されたが、王恵風(おうけいふう)は剣を抜いて「私は名門・琅邪(ろうや)王氏(おうし)、太尉(たいい)の娘で、皇太子(こうたいし)の妻である。汚れた逆賊の辱(はずかし)めは受けないっ!」と叫んだため、逆上した喬属(きょうぞく)によって殺害され、後に東晋(とうしん)の朝廷によって、貞定妃(ていていひ)と諡(おくりな)された。


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王詹(おうせん)

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王澄(おうちょう)。弟に王徽(おうき)。伯父(おじ)に王衍(おうえん)。祖父は王乂(おうがい)。

早世した。


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王徽(おうき)(琅邪(ろうや)王氏(おうし))

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)・臨沂県(りんぎけん)の人。父は王澄(おうちょう)。兄に王詹(おうせん)。伯父(おじ)に王衍(おうえん)。祖父は王乂(おうがい)。

右軍司馬(ゆうぐんしば)となった。


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