正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑧。琅邪郡王氏①(王雄・王渾・王乂・王戎・王衍・王澄・王愔・王萬・王興・王玄・王景風・王恵風・王詹・王徽)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
琅邪王氏①系図
琅邪郡王氏①系図
※兄弟は左側が年長。王玄の兄弟の順は不明。
この記事では琅邪郡王氏の人物、
についてまとめています。
その他の琅邪王氏
- 【三国志人物伝】お⑨琅邪王氏②(王仁・王叡・王融・王祥・王覧・王肇・王夏・王馥・王烈・王芬・王裁・王基・王會・王正・王彦・王琛)
- 【三国志人物伝】お⑩琅邪王氏③(王俊・王根・王敦・王曠・王遐・王彪之)
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お⑧(琅邪王氏①)
第1世代(王雄)
王雄・元伯
生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。子に王渾、王乂。太保・王祥の祖先。
魏の黄初元年、文帝(曹丕)が帝位につくと幽州刺史として崔林を赴任させたが、崔林は河北の軍事を統括する北中郎将の呉質に敬意を表さなかった。
そこで涿郡太守であった王雄は、崔林の別駕に向かって次のように忠告した。
「呉中郎将(呉質)は、お上の親愛され尊重されている方で国の重臣だ。節(裁判の専断権を示すしるし)に頼って事を統べ、州も郡も敬意を表さない者はおらぬが、崔使君(崔林)は知らぬ顔をしている。もし国境地帯が治まらないことを理由に卿(あなた)を斬るならば、使君(崔林)はどうやって卿(あなた)を弁護できるかね?」
別駕はその話を詳しく崔林に語ったが、崔林は、
「刺史はこの州を去ることを履物を脱ぎ棄てる程度に思っているのだ。どうして拘う必要があるかね。しかしこの州は北方民族と接しており、彼らを騒がせればその逆心を揺り動かし、特に国家にとって北方への懸念が生ずることになる。だからこそ、この地に留まっているのだ」
と言って態度を変えなかった。
崔林は1期の間在職し、北方民族の侵奪は影を潜めたが、それでも上司(呉質)に頭を下げなかったために河南太守に左遷された。清潔な人たちの間では崔林のために残念がる意見が多かった。
後に王雄は、安定太守・孟達*1の推薦を受け、散騎常侍を経て幽州刺史となった。
また、文帝(曹丕)は田豫を持節護烏丸校尉に任命して牽招、解儁と共に鮮卑族を監督させていたが、田豫が校尉となって9年、幽州刺史・王雄の一党が王雄に烏丸校尉を宰領させようとして「田豫は国境地帯を混乱させており、国にとって事件が起こることになるだろう」と非難した。かくて田豫を汝南太守に転任させ、殄夷将軍の官を加えた。
太和6年(232年)、魏の明帝(曹叡)は、平州刺史の田豫に海路を渡らせ、幽州刺史の王雄に陸路を進ませて同時に遼東を攻撃させた。
この時蔣済はこれを諫めたが、明帝(曹叡)は聞き入れず、結局田豫と王雄は成功することなく帰還した。
青龍3年(235年)、明帝(曹叡)は王雄の意見を容れ、勇猛の士・韓龍を送って鮮卑族の大人・軻比能を刺殺させると、代わってその弟を立てた。
脚注
*1蜀から魏に降った孟達・子度とは別人。
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第2世代(王渾・王乂)
王渾(王雄の子)*2
生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王雄。子に王戎。弟に王乂。
涼州刺史・貞陵亭侯となった。
脚注
*2インターネット上には「琅邪王氏・王渾の字は長源」という情報がありますが、出典を確認できていません。出典を確認でき次第、正式に追記します。
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第3世代(王戎・王衍・王澄・王愔)
王戎・濬沖
魏の青龍2年(234年)〜西晋の永興2年(305年)没。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王渾。子に王萬(王万)、王興(庶子)、娘(裴頠の妻)。叔父は王乂。従弟に王衍、王澄。祖父は王雄。竹林の七賢の1人。
幼少より才知に優れ、その風貌は透き通るようで、その神童振りは魏の明帝(曹叡)の目に止まり、15歳の時、父の友人であった20歳も年上の阮籍と交友を結び、裴楷、杜黙、荀寓と共に都で名を知られた。
父の王渾が涼州で亡くなると、王渾の故吏(元部下)たちは王戎に数百万銭を贈ったが、王戎が受け取らなかったことから名声を高めることとなる。
また、王戎は小柄であったが、その振舞いは堂々としていて「礼」に拘ることはなく談笑を好み、阮籍たちと竹林に遊んで「竹林の七賢」と称した。
鍾会が蜀討伐に出陣する際、鍾会に相談を持ちかけられた王戎は、「『道家』の言葉に『為して恃まず』とあります。功を成すことが難しいのではなく、功を保つことが難しいのです」と答えたが、鍾会が敗れた後で、人々は王戎の言葉の真意を知ることになった。
父の爵位を継いだ王戎は相国(司馬昭)の掾に辟かれ*3、吏部黄門郎、散騎常侍、河東太守、荊州刺史を歴任し、役人を遣わして私的に園宅を修繕させたために免官されたが、豫州刺史に遷って建威将軍を加えられて呉の討伐を命ぜられ、呉が平定されると安豊侯に進んで6千戸を加えられて絹6千匹を賜った。
長江を渡った王戎は、呉の旧臣たちを心服させて侍中となったが、南郡太守・劉肇が王戎に賄賂を贈ったことが発覚。調査により王戎が賄賂を受け取らなかったことが分かると、武帝(司馬炎)は王戎の無欲さを称賛した。
王戎には特別な能力はなく、地道な実績を重ね、光禄勲に遷って吏部尚書となったが、母の喪に服すために職を去った。王戎は礼制に拘ることはなく酒を飲み肉を食べ、囲碁を観戦していたが、見るからに憔悴していたため、武帝(司馬炎)は王戎に医者を遣り薬を下賜して療養させた。
武帝(司馬炎)の死後、外戚の楊駿が実権を握ると太子太傅に任命されたが、楊駿が誅殺されると、今度は東安公の司馬繇が刑賞を専断するようになった。王戎は「大事を成し遂げた後は、慎重になるべきです」と諌めたが、司馬繇はこれに従わず、結局罪を得ることとなった。
王戎は中書令に転じ、光禄大夫を加えられて恩信を50人給わり、後に尚書左僕射に遷って吏部を領した。
王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始め、司隷校尉の傅咸に批判されたが、賈氏や郭氏と親しかったために不問に付された。
その後、王戎は司徒に転じたが、娘婿の裴頠が皇后・賈南風の廃位を目論む趙王・司馬倫に誅殺されると、裴頠に連座して免官されたが、司馬倫が誅殺され、恵帝(司馬衷)が宮殿に戻ると、尚書令となった。
8王*4が争う(八王の乱)混乱の中、王戎は蘧伯玉*5の人となりを慕い虚名を退け、司徒を拝し三公のすべてを経験したが、自分では政治を執らず官僚に采配を委ねた。王戎の姿を見て彼が三公だと気づく者はいなかったという。
その一方で王戎は利に聡く、天下の至る所に広大な園田を持ち、自ら牙籌(そろばん)を手に収支を計算していた。
従子(甥)が結婚する時、王戎はただ1着の単衣を贈ったが、彼が離婚すると責めて返還を求めた。また、王戎の家には李の木があり、その実を売っていたが、買い手に栽培されないよう種をくり抜いてから売っていたので世の人々に嘲笑された。彼のケチ具合はこのようなものであった。
永興元年(304年)、王戎は恵帝(司馬衷)の北伐(成都王・司馬穎の征伐)に従軍。蕩陰で大敗し、恵帝(司馬衷)が長安に遷されると、王戎は郟県に出奔し、翌年の永興2年(305年)に亡くなった。享年72歳。元と諡された。
関連記事
脚注
*3王戎は鍾会に「裴楷は清廉で諸事に通じ、王戎は淡泊で要領を得ています」と紹介され、司馬昭の掾(属官)となった。
*4
- 汝南王・司馬亮(?~291):司馬懿の3男。司馬師や司馬昭の異母弟。
- 楚王・司馬瑋(271~291):武帝(司馬炎)の6男。恵帝(司馬衷)の異母弟。
- 趙王・司馬倫(?~301):司馬懿の9男。司馬亮の異母弟。
- 斉王・司馬冏(?~302):武帝(司馬炎)の同母弟・司馬攸の子。
- 長沙王・司馬乂(277~304):武帝(司馬炎)の17男。司馬瑋の同母弟。
- 成都王・司馬穎(279~306):武帝(司馬炎)の19男。司馬乂の異母弟。
- 河間王・司馬顒(?~306):司馬懿の弟・司馬孚の子・司馬瓌の子。
- 東海王・司馬越(?~311):司馬懿や司馬孚の弟・司馬馗の子・の司馬泰の子。
*5蘧瑗(字:伯玉)。春秋時代の衛国の大夫。孔子の友人。
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王衍・夷甫
魏の正元3年 / 甘露元年(256年)*6〜西晋の永嘉5年(311年)生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王乂。子に王玄、王景風、王恵風。妻は郭淮の孫・郭豫の娘。
その面持ちは清明俊秀、風采はゆったりと厳かだった。
王衍が14歳の時のこと。僕射の羊祜は、王衍の陳事状の文面が見事なのを見て、その名徳を貴重とした。また、王衍は幼い頃から他人に屈した態度を取ることがなかったので、人々は感心した。
外戚の楊駿は自分の娘を王衍の妻にしたいと欲したが、王衍はこれを恥じて、わざと狂った振りをして逃れた。
王衍の名声は武帝(司馬炎)まで届き、「王衍は当世の誰と比べられるか?」と問われた従兄の王戎は、「当世に彼と比べられる者はおりません。古の人の中から探すべきでしょう」と答えた。
父の王乂が北平で亡くなると、父が親しかった人たちのために数年で財産を使い果たし、洛陽城の西にある田園に住んだ。後に太子舍人、尚書郎となり、地方に出て元城県令となると、赴任した。一日中清談をし、県務もまた理(筋が通っていた)。洛陽に戻って中庶子、黄門侍郎となった。
魏の正始年間(240年〜249年)、何晏、王弼らは『老』『荘』について論じ、王衍はこれに深く賛同した。裴頠だけはこれを論文で批判したが、王衍は気にせず、ただ老荘思想について談じていた。
王衍は高官を歴任し、後進の士で彼を慕って模範としない者はおらず、推挙されて登朝すると、みな王衍を第一人者(称首)とした。
王衍の妻・郭氏は賈皇后(賈南風)の親族で、中宮(皇后)の権勢を利用して蓄財に励み、人事に干渉したが、王衍はこれを憂いていたものの、やめさせることはできなかった。
後に北軍中候、中領軍、尚書令を歴任した。
王衍の娘(王恵風)は太子(司馬遹)の妃であったが、太子・司馬遹が賈皇后(賈南風)に誣告された。王衍は禍いが自分に及ぶことを懼れてすぐさま娘を離婚させたため、賈皇后(賈南風)が失脚すると、そのことによって非難された。
王衍は以前から趙王・司馬倫の人となりを軽んじていた。司馬倫が帝位を簒奪すると、王衍は狂った振りをして婢(下女)を斬り殺し、自ら職を免じたが、司馬倫が誅殺されると河南尹を拝命し、尚書に転じ、また中書令となった。
斉王・司馬冏*7が権力を欲しいままにすると、公卿たちはみな司馬冏に拝礼したが、王衍だけは、ただ1人長揖*8で済ませ、病気のため官を去った。
その後王衍は、成都王・司馬穎の下で中軍師、尚書僕射、領吏部を歴任し、尚書令、司空、司徒を拝した。王衍は、天子を補佐する宰相の地位にありながら国を治める気概がなく、弟の王澄を荊州刺史、族弟の王敦を青州刺史として派遣し、自らは洛陽に留まって一族の身の安全を図った。
漢(前趙)の石勒、王弥が洛陽に侵攻すると、王衍は都督征討諸軍事に持節・假黄鉞を与えられてこれを防いだ。
東海王・司馬越が死ぬと元帥に推薦されたが、賊が蜂起しても懼れて敢えて戦わず、突然軍を挙げた石勒に捕らえられた。
王衍が処刑を免れようと弁解し、石勒に尊号を称する(帝位につく)ことを進めると、石勒は激怒して言った。
「君の名は四海(天下)を覆い、身は国の重職に置き、若い頃から登朝して白髪頭となるに至った。どうして君に責任がないと言えるのか。晋の天下が破壊されたのは、正に君の罪だっ!」
そして配下の孔萇に「儂はこれまで天下を渡り歩いて来たが、今までこんな男を見たことがない。此奴に生かしておく価値はあるか?」と尋ねると、孔萇は「彼は晋の三公として力を尽くしませんでした。彼に何の価値がありましょうかっ!」と言った。
石勒は「鋒刃を使う必要はない」と言い、その夜、王衍は土壁の下敷きにされて圧死した。
享年56歳。王衍は死に臨み、次のように言い遺したという。
「嗚呼っ!我らは古人に及ばぬとは言え、もっと天下のために力を尽していれば、このようなことにはならなかっただろう」
脚注
*6256年は6月に正元から甘露に改元。王衍の誕生月が不明のため元号も不明。
*7原文は「齊王乂」となっていますが、誤りと思われます。司馬乂は長沙王。
*8胸の前に組み合わせた両手を上下させて行う礼。あまり丁重ではない礼。
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王澄・平子
西晋の泰始5年(269年)〜永嘉6年(312年)没。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王乂。子に王詹、王徽。兄に王衍。
幼い頃から才知に優れて飲み込みが早く、口は達者ではなかったが、挙動を見ただけでその人が考えていることが分かった。
兄・王衍の妻・郭氏は貪鄙(強欲で卑しい)な女性で、婢(下女)に道端の糞を肩に担ぐように命じたことがあり、王澄はこれを諌めた。この時王澄は14歳。郭氏は激怒して、王澄の衣の裾をつかんで杖で打とうとしたが、王澄は振り払って窓から逃げた。
兄の王衍は「人倫(人間一般)の鑑」として世に知られたが、王澄は天下の人士として「阿平(王澄)*9第1、子嵩(庾敳)第2、處仲(王敦)第3」と評された。
王澄は若くして要職を歴任し、成都王・司馬穎の従事中郎となった。孟玖の讒言を信じた司馬穎が陸機兄弟を殺害すると、天下の人々はみな不満を持ったが、王澄が司馬穎に勧めて孟玖を誅殺させたので、官民そろって不満を言う者はいなくなった。
司馬穎が敗れると、東海王・司馬越に請われて司空長史となり南鄉侯に封ぜられた。後に建威将軍に遷り雍州刺史に任命されたが受けなかった。
王敦、謝鯤、庾敳、阮修はみな王衍と親しく「四友」と号し、また王澄、胡毋輔之とも親しかった。
恵帝(司馬衷)の末期、王衍によって荊州刺史・持節・都督・南蛮校尉に任命されると、出兵して蛮族を服従させた。
ある時樹上に鵲の巣を見つけた王澄は、おもむろに衣を脱いで木に登ると、鵲の巣を弄んで降りてきた。このように彼は非常に落ち着いていて(神気蕭然)傍若無人だった。
後に東晋の元帝(司馬睿)のお召しに応じて江南に渡る途中、王澄の盛名を警戒した王敦によって殺害された。享年44歳。故吏の著作郎・桓稚が上表して憲と諡された。
脚注
*9阿平とは、王澄の字・平子に親しみを込めた接頭語「阿」をつけた呼び方であると思われます。
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第4世代(王萬・王興・王戎の娘・王玄・王景風・王恵風・王詹・王徽)
王萬(王万)
生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王戎。弟に王興。姉妹に裴頠の妻。祖父は王渾。
名声があった。若い頃から大変太っていたが、父の王戎が穅を食べるように命じるとたちまち肥満が解消した。19歳で亡くなった。
(和訳に不安があるため原文を載せておきます)
子萬,有美名。少而大肥,戎令食穅,而肥愈甚。年十九卒。
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王興
生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王戎。兄に王萬。姉妹に裴頠の妻。祖父に王渾。
王戎の庶子。王戎は王萬の死後、弟の王興を後継者と認めず(戎所不齒)、従弟の陽平太守・王愔の子に後を継がせた。
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王戎の娘
生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王戎。兄弟に王萬、王興。祖父に王渾。
裴頠に嫁いだが、その際、父の王戎に数万銭を貸りて久しく帰省しなかった。
後に(夫の裴頠が誅殺されたため)突然実家に戻ることになり、父・王戎に丁寧に挨拶した。
王戎は喜ばなかったが、娘が貸りていた銭を返すとたちまち娘を歓待した。
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王玄・眉子
生没年不詳。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王衍。姉妹に王景風、王恵風。叔父に王澄。祖父は王乂。
幼い頃から簡曠を慕い、その俊才をもって衛玠と共に名を知られ、大胆な(豪気)性格で人情に捕らわれなかった。
東晋の荀藩に陳留太守に任命されて尉氏県に駐屯した。世が荒れ果てて疲弊すると祖逖の元に身を寄せようとしたが、途中で盗賊に殺害された。
(和訳に不安があるため原文を載せておきます)
子玄,字眉子,少慕簡曠,亦有俊才,與衛玠齊名。荀籓用為陳留太守,屯尉氏。玄素名家,有豪氣,荒弊之時,人情不附,將赴祖逖,為盜所害焉。
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王恵風
生年不詳〜西晋の永嘉5年(311年)没。徐州・琅邪国・臨沂県の人。王衍の次女。姉に王景風。
西晋の第2代皇帝・恵帝(司馬衷)の太子・司馬遹は、美女と評判の王衍の長女・王景風と婚約していたが、皇后・賈南風の取り仕切りにより、彼と対立する賈謐が彼女を娶ってしまった。
司馬遹は妹の王恵風を妻として太子妃としたが、妻を軽んじて側室の蒋俊を寵愛した。
元康9年(300年)12月、司馬遹が無実の罪を着せられて庶人に落とされると、父の王衍は急いで司馬遹と離婚させ、王恵風は大声で泣き続けながら家へ戻った。
永嘉5年(311年)、漢(前趙)の劉曜によって洛陽が陥落。捕らえられた王恵風は部将の喬属に妻として下賜されたが、王恵風は剣を抜いて「私は名門・琅邪王氏、太尉の娘で、皇太子の妻である。汚れた逆賊の辱めは受けないっ!」と叫んだため、逆上した喬属によって殺害され、後に東晋の朝廷によって、貞定妃と諡された。
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