正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑨。琅邪郡ろうやぐん王氏おうし②(王駿おうしゅん王仁おうじん王叡おうえい王融おうゆう王祥おうしょう王覧おうらん王肇おうちょう王夏おうか王馥おうふく王烈おうれつ王芬おうふん王裁おうさい王基おうき王會おうかい王正おうせい王彦おうげん王琛おうちん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

琅邪王氏②系図

琅邪郡王氏②系図

琅邪郡ろうやぐん王氏おうし②系図

赤字がこの記事でまとめている人物。王駿おうしゅんの子から王仁おうじんの父までの人物は省略しています。また、非常に人数が多いため、正史せいし三国志さんごくし晋書しんじょ王祥伝おうしょうでんに登場する人物のみを取り扱っています。


この記事では前漢ぜんかん諫議大夫かんぎたいふ王吉おうきつを祖とする琅邪郡ろうやぐん王氏おうしの人物、

についてまとめています。

※非常に人数が多いため、正史せいし三国志さんごくし晋書しんじょ王祥伝おうしょうでんに登場する人物のみを取り扱っています。

その他の琅邪王氏

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お⑨(琅邪王氏②)

第1世代(王駿)

王駿おうしゅん偉山いざん

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。前漢ぜんかん諫議大夫かんぎたいふ王吉おうきつの子。

前漢ぜんかん成帝せいてい期に御史大夫ぎょしたいふにまでなった名臣。


王駿おうしゅん少府しょうふの時に妻が死んだが、再婚しなかった。その理由をたずねられると「徳は曾参そうしんとは違うし、子はげんほどではないが、どうしてえて再婚などしよう」と言ったという。

京兆尹けいちょういんに任命されると、趙広ちょうこう張敞ちょうしょう、3人の王氏おうし王尊おうそん王章おうしょう王駿おうしゅん)の5人は優れた京兆尹けいちょういんとしてたたえられた。


魏書ぎしょ管寧伝かんねいでんでは「管寧かんねいが再婚しないことに対するいにしえの例」として、魏書ぎしょ劉馥伝りゅうふくでんでは「劉靖りゅうせいの行政をたたえる例」として名前が登場する。


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第2世代(王仁)

王仁おうじん

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。前漢ぜんかん諫議大夫かんぎたいふ王吉おうきつの子孫。子に王融おうゆう。孫に王祥おうしょう王覧おうらん

青州刺史せいしゅうししであった。


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第3世代(王叡・王融)

王叡おうえい通耀つうよう

生年不詳〜初平しょへい元年(190年)。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王仁おうじんしん太保たいほ王祥おうしょう伯父おじ霊帝れいてい期の荊州刺史けいしゅうしし

長沙太守ちょうさたいしゅ孫堅そんけんと共に零陵郡れいりょうぐん桂陽郡けいようぐんの反乱者たちを討伐したが、この時、武官である孫堅そんけんあなどって軽んじた言葉をいていたことから孫堅そんけんうらみを買った。

各地で董卓とうたく討伐の軍を起こすと王叡おうえいもこれに同調したが、この時王叡おうえいは元々仲が悪かった武陵太守ぶりょうたいしゅ曹寅そういんを殺すのだと言い立てていた。

そのことを知った曹寅そういんは、案行使者あんこうししゃ光禄大夫こうろくたいふ温毅おんぎ檄文げきぶんを偽造して孫堅そんけん王叡おうえいの討伐を命じると、王叡おうえいうらみをいだいていた孫堅そんけんは軍をひきいて州治所(荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん漢寿県かんじゅけん)に押し寄せて、兵士たちに「恩賞の不足」を訴えさせた。

王叡おうえいが「恩賞を出さずにめ込んでいるのではない」ことを示すため、府庫を開いて兵を城内に入れると、その中にまぎれ込んでいた孫堅そんけんが進み出て「案行使者あんこうししゃ檄文げきぶんを奉じてあなたを斬る!」と言った。これに観念した王叡おうえいけずったきんを飲んで自害。王叡おうえいの後は劉表りゅうひょう荊州刺史けいしゅうししとなった。


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王融おうゆう

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王仁おうじん。子に王祥おうしょう王覧おうらん。兄に王叡おうえい

三公さんこうの府に辟召へきしょうされたが官職にかなかった。


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第4世代(王祥・王覧)

王祥おうしょう休徴きゅうちょう

光和こうわ3年(180年)〜泰始たいし4年(268年)*1徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王融おうゆう。子に王肇おうちょう庶子しょし)、王夏おうか王馥おうふく王烈おうれつ王芬おうふん。弟に王覧おうらん伯父おじ王叡おうえい。祖父は王仁おうじん

きわめて孝行な人柄ひとがらであったが早くに母親を亡くし、継母ままはは朱氏しゅしがいつも王祥おうしょうそしっていたため父・王融おうゆうの愛も失ったが、どんな仕打ちを受けても両親に孝養を尽くしておこたらなかった。

後漢ごかんの末期、戦乱を避けて継母ままはは・弟(王覧おうらん)と共に廬江郡ろこうぐんに30余年の間隠れ住み、継母ままははが亡くなると廃墟はいきょに住んでに服した。徐州刺史じょしゅうしし呂虔りょけん別駕べつがとして初めて出仕した時には50歳を過ぎていた。

その後秀才しゅうさいに推挙されて温令おんれい温県おんけん県令けんれい)となり大司農だいしのううつった。正元せいげん元年(254年)に高貴郷公こうききょうこう曹髦そうぼう)が即位すると、関内侯かんだいこうに封ぜられ光禄勲こうろくくんとなり、司隸校尉しれいこういに転任。毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)討伐に従軍して400戸を加増され、太常たいじょうとなり万歳亭侯ばんざいていこうに封ぜられた。

天子てんし曹髦そうぼう)は太学たいがく行幸ぎょうこうする際、王祥おうしょう三老さんろうに命じて「聖帝とは、君臣の関係、政治のかなめ」について教えをい、みな王祥おうしょうの言葉に聞き入った。

高貴郷公こうききょうこう曹髦そうぼう)がしいされると、王祥おうしょうは心から号泣し、これを見た朝廷の臣下たちは自分たちの上辺だけの挙哀こあい*2を恥じた。その後司空しくうはいし、太尉たいいに転任して侍中じちゅうを加えられ、五等爵ごとうしゃくが設置されると睢陵侯すいりょうこうに封ぜられて封邑ほうゆうは1,600戸となった。

司馬昭しばしょう*3が初めて晋王しんおうとなると、司空しくう荀顗じゅんぎ司馬昭しばしょうに対して敬意を尽くすように強要したが、荀顗じゅんぎが拝礼していても1人王祥おうしょうだけは長揖ちょうゆう*4で済ませたので、司馬昭しばしょうは「今日になって初めてあなたの大きな(に対する)愛顧の情が分かりました」と言った。

西晋せいしん泰始たいし元年(265年)、武帝ぶてい司馬炎しばえん)が帝位につくと、太保たいほに任命され睢陵公すいりょうこうに封ぜられた。この時王祥おうしょうは老齢を理由に職をゆずることを願い出たが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は許さなかった。

その後、王祥おうしょうが長くやまいに伏すようになると、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は辞職願いを受け入れて、王祥おうしょうの扱いを三公さんこうの上位の太保たいほ太傅たいふと同等とし、参内させずに何かあれば皆に王祥おうしょうたずねさせることとした。泰始たいし4年(268年)に89歳*1で亡くなり、げんおくりなされた。

脚注

*1没年について:晋書しんじょ王祥伝おうしょうでんには泰始たいし5年(269年)とあるが、王隠おういん晋書しんじょでは泰始たいし4年(268年)、晋書しんじょ武帝紀ぶていぎでは泰始たいし4年(268年)夏4月とあるので、泰始たいし4年(268年)が正しいと思われる。
生年について:晋書しんじょ王祥伝おうしょうでんには遺書の中に「吾年八十有五」とあるのみで享年きょうねんは不明。王隠おういん晋書しんじょには「89歳で逝去せいきょした」とあり、これに従えば、生年は光和こうわ3年(180年)となる。

*2死者をとむらうために泣き声をあげる礼の1つ。

*3原文は武帝ぶてい司馬文王しばぶんおう司馬昭しばしょう)の誤り。

*4胸の前に組み合わせた両手を上下させて行う礼。あまり丁重ではない礼。


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王覧おうらん玄通げんつう

正元せいげん〜年〜西晋せいしん永嘉えいか5年(311年)没。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王融おうゆう。子に王裁おうさい王基おうき王會おうかい王会おうかい)、王正おうせい王彦おうげん王琛おうちん。兄に王祥おうしょう伯父おじ王叡おうえい。祖父は王仁おうじん

光禄大夫こうろくたいふとなった。晋諸公賛しんしょこうさんでは、王覧おうらんを「素直で素朴、品行申し分なし」とたたえている。王覧おうらんの子孫は繁栄し、賢才が相継あいついで生まれ、異なった王朝のもとさかえ続けたのは、古今に例が少ない。


母の朱氏しゅしは幼い王覧おうらんの見ている前で兄の王祥おうしょうむち打ったので、(母の折檻せっかんの後)王覧おうらんは涙を流して王祥おうしょうと抱き合っていた。

15歳*3になった王覧おうらんが母をいさめるようになると、母の虐待は影をひそめた。母は王祥おうしょう王覧おうらんの妻を酷使こくししたが、その度に王覧おうらんが2人を手伝ったので、朱氏しゅしは彼らを酷使こくしすることはなくなった。

王祥おうしょうが父のに服す姿が徐々に評判となると、それを気に入らない朱氏しゅしは秘かに酖毒ちんどくを使って王祥おうしょうを殺そうとしたが、そのことに気づいた王覧おうらん王祥おうしょうから酒(酖毒ちんどく)を取り上げた。

以降、朱氏しゅし王祥おうしょうに珍味を与えようとする時には、王覧おうらんは先に毒味をするようにしたので、朱氏しゅし王覧おうらんを殺してしまうことを恐れて王祥おうしょうの毒殺をあきらめた。


王覧おうらんは親に孝行を尽くし兄弟仲が良く、その名声は王祥おうしょうに次ぐものだった。王祥おうしょうが仕官すると、王覧おうらんもまた本郡の招聘しょうへいに応じ、次第に司徒しと西曹掾せいそうえん*6清河太守せいがたいしゅうつり、五等爵ごとうしゃくが設置されると即丘子そくきゅうしに封ぜられて封邑ほうゆう600戸を与えられた。

泰始たいし年間(265年〜274年)の末に弘訓少府こうくんしょうふに任命されたが、官が廃止されると禄賜ろくし九卿きゅうけい中二千石ちゅうにせんせき)と同等のまま太中大夫たいちゅうたいふに転任。咸寧かんねい年間(275年〜280年)の初めには、みことのりによりこれまでの行いをたたえられて宗正卿そうせいきょうに任命された。病気により辞職を許され、後に光禄大夫こうろくたいふに転任して、門に行馬こうば(人馬通行止めのさく)が設置された。

咸寧かんねい4年(278年)に73歳*7で亡くなり、ていおくりなされた。


以前、刀工とうこう呂虔りょけん佩刀はいとう(腰にびたかたな)を見て、「このかたなを持つ人は、必ず三公さんこうの位に昇るでしょう」と言った。すると呂虔りょけんは、「もし私にその資格がなければ、かたなは害をなすかもしれない。あなたには公輔こうほ三公さんこう四輔よんほ*8)となる度量がある」と言って、固辞こじする王祥おうしょうに強引にかたなたくした。

王祥おうしょう今際いまわきわに「お前の子孫は必ずさかえるだろう。このかたなを持つ資格がある」と言って、王覧おうらんにこのかたなさずけた。王覧おうらんの子孫には賢才が相継あいついで生まれ、江左こうさ長江ちょうこう下流の南岸)で繁栄した。王覧おうらんの長子・王裁おうさいの子・王導おうどうについては別に伝(晋書しんじょ王導伝おうどうでん)がある。

脚注

*5原文:成童。年齢が15歳以上の少年。一説に8歳以上という。

*6府内の官吏登用に当たる。

*7咸寧かんねい4年(278年)に73歳で亡くなったとすると、兄の王祥おうしょうが27歳の時に生まれたことになる。誤記?

*8三公さんこうと共に天子てんしを補佐する太師たいし太傅たいふ国師こくし国将こくしょうのこと。位は上公じょうこう


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第5世代(王祥・王覧の子)

王肇おうちょう

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王祥おうしょう。子に王俊おうしゅん。弟に王夏おうか王馥おうふく王烈おうれつ王芬おうふん

王祥おうしょうの長男。庶子しょしめかけの子)。次男の王夏おうかが早くに亡くなったため、3男の王馥おうふくが爵位をいだ。上洛太守じょうらくたいしゅとなった。


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王夏おうか

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王祥おうしょう。兄に王肇おうちょう庶子しょし)。弟に王夏おうか王馥おうふく王烈おうれつ王芬おうふん

王祥おうしょうの次男。嫡子ちゃくしであったが早くに亡くなった。


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王馥おうふく

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王祥おうしょう。兄に王肇おうちょう庶子しょし)、王夏おうか。弟に王烈おうれつ王芬おうふん

王祥おうしょうの3男。父・王祥おうしょうの爵位をいだ。

咸寧かんねい年間(275年~280年)の初め、王祥おうしょうの家がとても貧しかったため、絹3百匹をたまわり、上洛太守じょうらくたいしゅに任命された。没後にこうおくりなされた。


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王烈おうれつ

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王祥おうしょう。兄に王肇おうちょう庶子しょし)、王夏おうか王馥おうふく。弟に王芬おうふん

王烈おうれつと弟の王芬おうふんは共に幼い頃から名を知られ、父・王祥おうしょうに愛された。

弟の王芬おうふんと同じ頃に亡くなったが、その死にのぞんで王烈おうれつは「故郷(舊土きゅうど)にかえってほうむられること」を望み、王芬おうふんは「都(京邑けいゆう)にとどまってほうむられること」を望んだ。

王祥おうしょうは涙を流して、「故郷を忘れないのは『じん』、故郷(本土)を恋しく思わないのは『たつ』である。思うに私の2人の息子には『じん』と『たつ』が備わっていたようだ」と言った。


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王芬おうふん琅邪ろうや王氏おうし

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王祥おうしょう。兄に王肇おうちょう庶子しょし)、王夏おうか王馥おうふく王烈おうれつ

王芬おうふんと兄の王烈おうれつは共に幼い頃から名を知られ、父・王祥おうしょうに愛された。

兄の王烈おうれつと同じ頃に亡くなったが、その死にのぞんで王烈おうれつは「故郷(舊土きゅうど)にかえってほうむられること」を望み、王芬おうふんは「都(京邑けいゆう)にとどまってほうむられること」を望んだ。

王祥おうしょうは涙を流して、「故郷を忘れないのは『じん』、故郷(本土)を恋しく思わないのは『たつ』である。思うに私の2人の息子には『じん』と『たつ』が備わっていたようだ」と言った。


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王裁おうさい士初ししょ

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王覧おうらん。弟に王基おうき王會おうかい王会おうかい)、王正おうせい王彦おうげん王琛おうちん伯父おじ王祥おうしょう。祖父は王融おうゆう

王覧おうらんの長男。撫軍長史ぶぐんちょうしとなった。


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王基おうき士先しせん

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王覧おうらん。兄に王裁おうさい。弟に王會おうかい王会おうかい)、王正おうせい王彦おうげん王琛おうちん伯父おじ王祥おうしょう。祖父は王融おうゆう

王覧おうらんの次男。治書侍御史ちしょじぎょしとなった。


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王會おうかい士和しか王会おうかい

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王覧おうらん。兄に王裁おうさい王基おうき。弟に王正おうせい王彦おうげん王琛おうちん伯父おじ王祥おうしょう。祖父は王融おうゆう

王覧おうらんの3男。侍御史じぎょしとなった。


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王正おうせい士則しそく

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王覧おうらん。兄に王裁おうさい王基おうき王會おうかい王会おうかい)。弟に王彦おうげん王琛おうちん伯父おじ王祥おうしょう。祖父は王融おうゆう

王覧おうらんの4男。尚書郎しょうしょろうとなった。


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王彦おうげん士治しち

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王覧おうらん。兄に王裁おうさい王基おうき王會おうかい王会おうかい)、王正おうせい。弟に王琛おうちん伯父おじ王祥おうしょう。祖父は王融おうゆう

王覧おうらんの5男。中護軍ちゅうごぐんとなった。


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王琛おうちん士湲しえん

生没年不詳。徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく臨沂県りんぎけんの人。父は王覧おうらん。兄に王裁おうさい王基おうき王會おうかい王会おうかい)、王正おうせい王彦おうげん伯父おじ王祥おうしょう。祖父は王融おうゆう

王覧おうらんの6男。国子祭酒こくしさいしゅとなった。


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【三国志人物伝】総索引