正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑦。山陽郡さんようぐん王氏おうし王龔おうきょう王暢おうちょう王謙おうけん王凱おうがい王粲おうさん王業おうぎょう王宏おうこう王弼おうひつ)です。

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凡例

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

山陽郡王氏系図

山陽郡王氏系図

山陽郡さんようぐん王氏おうし系図

※「王凱おうがいの父」と「王謙おうけん」の兄弟の順は不明。


この記事では山陽郡さんようぐん王氏おうしの人物、

についてまとめています。

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山陽郡王氏

第1世代(王龔)

王龔おうきょう伯宗はくそう

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。子に王暢おうちょう。孫は王謙おうけん曾孫ひまご王粲おうさん

天下に高い名声が聞こえ渡っており、順帝じゅんていの時代に太尉たいいとなった。

それより以前、山陽太守さんようたいしゅ薛勤せつきんは妻を失った時に哭礼こくれいを行わず、納棺の時に遺体を前にして、「幸いにも若死にというわけではない。何の心残りがあろう」と言った。

王龔おうきょうの妻が亡くなると、王龔おうきょうと子供たちはいずれも杖をついてに服した。当時の人の中には両方とも避難するものがあった。


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第2世代(王暢)

王暢おうちょう叔茂しゅくぼう

生年不詳〜建寧けんねい2年(169年)没。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王龔おうきょう。子は男子2人、1人は王謙おうけん。孫に王凱おうがい王粲おうさん

荀彧じゅんいくの祖父・荀淑じゅんしゅくに師事し、八俊はっしゅん*1の1人に名をつらねた。

南陽太守なんようたいしゅとなったが、その行いは過度に倹約であった。王暢おうちょうに学問を学んでいた劉表りゅうひょうは当時17歳であったが、

「上の身分を犯さないぜいたくさ、下の身分を犯さない倹約さ、それが中庸ちゅうようの道だと思います。だからこそ蘧伯玉きょはくぎょくは自分だけが君子であることを恥じたのです。殿(王暢おうちょう)が孔子こうしさまの明確な教訓を守らずに、伯夷はくい叔斉しゅくせいの根本を忘れた生き方をしたわれるならば、あっさりと自分から世間を捨てたことになりはすまいか」

王暢おうちょういさめたことがあり、王暢おうちょうは「倹約のために身を滅ぼした者はまれである。それにこれによって世の風俗を正すのだ」と答えた。

霊帝れいていの時代に司空しくうとなったが、水害の責任を取らされて免職となった。天下の人は王暢おうちょう李膺りようを高潔の士と判断し、正義にかなった言動を行おうとする連中は皆、彼らを本家としてあがめ、彼らと関係を持つことを願い、ひたすら相手にされないことを懸念けねんする有り様だった。

ちょうどその頃、災害異変が連続して起こり、意見を述べる者は皆、「三公さんこうが適任者ではない。今度の異変を理由に王暢おうちょう李膺りようと交代させるべきで、そうすれば吉祥きっしょうが必ず訪れる」と主張した。

そのことから、宦官かんがんたちは彼らをひどくうらみ、李膺りようは刑死し、王暢おうちょうは結局廃されて家で亡くなった。

脚注

*1李膺りよう荀昱じゅんいく杜密とみつ王暢おうちょう劉祐りゅうゆう魏朗ぎろう趙典ちょうてん朱宇しゅうの8人のこと。


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第3世代(王謙・王凱の父)

王謙おうけん

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王暢おうちょう。子に王粲おうさん。兄弟が1人。祖父は王龔おうきょう

大将軍だいしょうぐん何進かしん長史ちょうしとなった。

何進かしん王謙おうけんが名高い三公さんこうの血筋であることから「彼と姻戚関係を結びたい」と思い、その2人の子を見せて選ばせたが、王謙おうけんは承知しなかった。

病気のため免職となり、家で亡くなった。


王凱おうがいの父

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王暢おうちょう。子に王凱おうがい。兄弟に王謙おうけん

王謙おうけんとの兄弟の順は不明。


第4世代(王凱・王粲)

王凱おうがい

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父の名は不明。子に王業おうぎょう。孫に王宏おうこう王弼おうひつ族弟いとこ王粲おうさん。妻は劉表りゅうひょうの娘。

族弟いとこ王粲おうさんと共に荊州けいしゅうに避難した時、劉表りゅうひょうは娘を王粲おうさんとつがせようと思ったが、彼の容貌がみにくく行動が軽率であることを嫌い、王凱おうがいの容姿が美しいのを見て彼に娘をとつがせた。


王粲おうさん仲宣ちゅうせん

熹平きへい6年(177年)〜建安けんあん22年(217年)没。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけん高平国こうへいこく)の人。父は王謙おうけん。子は男子2人。族兄に王凱おうがい。祖父は王暢おうちょう曾祖父そうそふ王龔おうきょう

献帝けんていが西方に移ると王粲おうさん長安ちょうあんに移住したが、そこで左中郎将さちゅうろうしょう蔡邕さいようと出会い、彼にひとかどの人物だと認められ、

「この方は王公おうこう王暢おうちょう)の孫じゃ。特別な才能を持ちわしも及ばない。わしの家の書籍や文学作品は全部彼にやるがよい」

と言われた。

17歳で司徒しとまねかれ、詔勅しょうちょくによって黄門侍郎こうもんじろうに任命されたが、長安ちょうあんが動乱の中にあるためにどちらも就任せず荊州けいしゅう劉表りゅうひょうを頼ったが、劉表りゅうひょう王粲おうさん風采ふうさいが上がらず身体はひ弱で大まかな性格であるのを嫌って、あまり尊重しなかった。

建安けんあん13年(208年)、劉表りゅうひょうが亡くなると劉表りゅうひょうの子・劉琮りゅうそうに勧めて曹操そうそうに帰服させ、曹操そうそう王粲おうさんを召し寄せて丞相掾じょうしょうえんとし、関内侯かんだいこうの爵位をさずけられ、後に軍謀祭酒ぐんぼうさいしゅに昇進した。

建安けんあん18年(213年)、曹操そうそう魏公ぎこうに封ぜられ魏国ぎこくが立てられると侍中じちゅうに任命されたが、王粲おうさんは博識多識で質問に答えられないことはなかった。

当時、過去の儀式は廃止されたりゆるめられたりしていたが、新しい制度を制定する場合、王粲おうさんが常にその中心となった。


王粲おうさんは非常に記憶力が良く、生まれつき計算に明るかった。また、文章をつくるのが上手で60篇に近いろんあらわし、「建安けんあん七子しちし」の1人に数えられた。

建安けんあん22年(217年)春、征討の従軍中に病死した。享年きょうねん41歳。2人の子が魏諷ぎふうの反逆に加わって処刑されたため家は断絶し、おい王業おうぎょう王粲おうさんの後を継いだ。


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第5世代(王業・王粲の子)

王業おうぎょう長緒ちょうしょ

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王凱おうがい。子に王宏おうこう王弼おうひつ劉表りゅうひょうの外孫にあたる。王粲おうさんは父・王凱おうがい族弟いとこ

蔡邕さいようは1万巻に近い書物を持っていたが、末年に数台の車に載せて王粲おうさんに贈った。

王粲おうさんの死後、相国掾しょうこくえん魏諷ぎふうが反逆をくわだてた時、王粲おうさんの2人の子が参加した。彼らが処刑された後、蔡邕さいようが贈った書物はすべて従兄弟の王業おうぎょうのものとなり、文帝ぶんてい曹丕そうひ)は王粲おうさんの2人の子を処刑した後、王業おうぎょう王粲おうさんの後継ぎとした。

尚書郎しょうしょろう謁者僕射えっしゃぼくやにまで官位が昇った。


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王粲おうさんの子

生年不詳〜建安けんあん24年(219年)没。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王粲おうさん

王粲おうさんの2人の子は、相国掾しょうこくえん魏諷ぎふうの反逆に加担した罪で処刑された。

当時漢中かんちゅうを征討していた曹操そうそうは、彼らの死を聞くとたんそくして「もしわしがそこにいたならば、仲宣ちゅうせん王粲おうさん)に後継ぎがなくなるようなことをさせなかったのに」と言ったという。


※インターネット上には、2人の名前を王昭おうしょう王耽おうたんとする記事がありますが、出典を確認できておりません。出典が確認でき次第追記・修正いたします。


第6世代(王宏・王弼)

王宏おうこう正宗せいそう

生没年不詳。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王業おうぎょう。弟に王弼おうひつ

司隷校尉しれいこういとなった。


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王弼おうひつ輔嗣ほし

黄初こうしょ7年(226年)〜嘉平かへい元年(249年)没。兗州えんしゅう山陽郡さんようぐん高平県こうへいけんの人。父は王業おうぎょう。兄に王宏おうこう

幼くして明敏な頭脳を示し、10余歳で老子ろうしを愛好し、めいせきな言葉で雄弁に語った。

若くして裴徽はいき傅嘏ふからに認められ、また吏部尚書りぶしょうしょであった何晏かあんは特別に王弼おうひつを高く評価し、

仲尼ちゅうじ孔子こうしあざな)は『後世こうせい(若い世代)おそるべし』(論語ろんご子罕篇しかんへん)とたたえているが、このような人物こそ、一緒に天と人に関する哲理を語り合うことが可能である」

感嘆かんたんした。

正始せいし年間に黄門侍郎こうもんじろうの官が欠員となった時、何晏かあん王弼おうひつの起用について審議しんぎしたが、何晏かあん丁謐ていひつとの権力争いに敗れたため、黄門侍郎こうもんじろうには王黎おうれいが起用され、王弼おうひつ台郎たいろう尚書郎しょうしょろう)に任命された。

当時、曹爽そうそうが朝政を一手に握り、その一党が互いに引き立て合って起用され出世していたが、王弼おうひつは道理をわきまえた人間として名声を売るような態度を取らなかったので無視された。


王弼おうひつおだやかな上にきちんとした性格で、酒宴を楽しみ音律に通じており、投壺とうこつぼの中に矢を投げ入れる遊び)が上手だった。

彼が論述した道家どうかの学説や文章は何晏かあんに及ばなかったが、何晏かあんの論より優れた説も多かった。

一方で、王弼おうひつには自分の得意とする分野で人をちょうしょうするようなところがあったので、当時の知識人たちから憎まれたが、鍾会しょうかいとは仲が良く、鍾会しょうかいの論述は全体的な判断と経験をもととしたものだったが、鍾会しょうかいは常に王弼おうひつこうまんな論に感服していた。

王弼おうひつは好んで儒家じゅか道家どうかの説について論じ、見事な文才を持ち、えき周易しゅうえき)』老子ろうしの注を書き、道略論どうりゃくろんあらわした。

正始せいし10年(249年)、曹爽そうそう罷免ひめんされると王弼おうひつも公的な理由で免職となり、この年の秋、難病にかかって亡くなった。享年きょうねん24歳。王弼おうひつには子がなく家は断絶した。

しん景王けいおう司馬師しばし)は、王弼おうひつの死を聞いて何日間もたんそくして残念がっていた。それほど彼は見識者の間でしまれたのである。



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