正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧⑩。琅邪郡王氏③(王俊・王根・王敦・王曠・王遐)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
琅邪王氏②系図
琅邪郡王氏③系図
※赤字がこの記事でまとめている人物。王駿の子から王仁の父までの人物は省略しています。また、非常に人数が多いため、正史『三国志』と『晋書』王祥伝に登場する人物のみを取り扱っています。
この記事では前漢の諫議大夫・王吉を祖とする琅邪郡王氏の人物③、
についてまとめています。
その他の琅邪王氏
- 【三国志人物伝】お⑧琅邪王氏①(王雄・王渾・王乂・王戎・王衍・王澄・王愔・王萬・王興・王玄・王景風・王恵風・王詹・王徽)
- 【三国志人物伝】お⑨琅邪王氏②(王仁・王叡・王融・王祥・王覧・王肇・王夏・王馥・王烈・王芬・王裁・王基・王會・王正・王彦・王琛)
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お⑩(琅邪王氏③)
第6世代(王俊・王根・王敦・王曠)
王敦・処仲
泰始2年(266年)〜太寧2年(324年)没。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王基。兄に王含。祖父は王覧。司徒・王導の従父兄*1。族兄に王衍。子がいなかったため、兄・王含の次子・王應(王応)を養子にして後継ぎとした。
若くしてただならぬ目つき(奇人之目)をしていた。妻の襄城公主(武帝の娘)を大切にし、駙馬都尉を拝して太子舍人となった。
当時、王愷と石崇は奢侈(贅沢)を競い、王愷は酒宴を開くと、その度に些細な事で芸妓や侍女を殺したが、王敦は気にする様子もなく平然としていた。これを見た従弟の王導は「処仲(王敦の字)は胸中残忍な男だ。世に出たならば、天寿をまっとうすることはできないだろう」と言った。
賈南風に陥れられた太子(司馬遹)が許昌に遷される時、恵帝(司馬衷)は東宮の役人に見送りを禁じる詔を下したが、太子舍人の王敦、杜蕤、魯瑤と太子洗馬の江統、潘滔らは禁を冒し、涙を流して遠くから司馬遹を見送ったので、人々は彼らの行いを称えた。その後王敦は給事黄門侍郎に遷った。
趙王・司馬倫が帝位を簒奪すると、王敦は叔父の兗州刺史・王彦の慰労に派遣された。丁度この時諸王が義兵を挙げ、王彦の元に斉王・司馬冏の檄文が届いた。王彦は司馬倫の強兵を恐れてこれに応じようとしなかったが、王敦の勧めに従って挙兵に応じ、結果勲功を立てることができた。恵帝(司馬衷)が復位すると、王敦は散騎常侍、左衛将軍、大鴻臚、侍中を経て広武将軍、青州刺史となり、永嘉年間の初め(307年)に中書監(尚書からの上奏を受け詔勅政令などを司る)となった。
その後、東海王・司馬越が滎陽から来朝し、尚書が太傅の権限を侵していること責め、中書令の繆播ら10余人を処刑して、王敦を揚州刺史に左遷した。この時潘滔は「今処仲(王敦の字)を長江の外に出せば、きっと野心を露わにして賊となるでしょう」と言ったが、司馬越は聞き入れなかった。
その後王敦は尚書を拝命したが従わず、元帝(司馬睿)に召されて安東軍諮祭酒となった。揚州刺史の劉陶が亡くなると、元帝(司馬睿)は再び王敦を揚州刺史として広武将軍を加えられ、後に左将軍に昇進、都督征討諸軍事となり假節を与えられた。
元帝(司馬睿)が初めて江東に出陣した時、王敦と従弟の王導は未だ威名のない元帝(司馬睿)を助けて晋の中興に手柄を立てたので、人々は「天下は王氏と司馬氏のものだ」と噂した。
建武年間の初め(317年)、征南大将軍に遷り、東晋が建国されると侍中を拝し、大将軍・江州牧となった。
初め王敦は高尚な名声を求めて清談*2を好んで下世話な話をしなかったが、東晋建国の大功を立て、その威信に並ぶ者がなくなると帝位を望むようになり、酒を飲むと、
「老いた馬は厩で立てなくなっても、その志は遙か万里を駆ける。烈士は老いぼれになっても、強く盛んな心が消えることはない*3」
と歌っていた。
元帝(司馬睿)は王敦を忌み憚るようになり、「胡を討つ」と称して劉隗を鎮北将軍に、戴若思(戴淵)を征西将軍に任命し、揚州の奴僕をことごとく兵に編入したが、その実は王敦に対する備えとした。
永昌元年(322年)、王敦は兵を率いて建康に向かい「劉隗を誅殺せよ」と上疏した。王敦が建康の西面を守る石頭城を開城させて諸将を破ると、元帝(司馬睿)は戎衣(軍服)を脱いで降伏し、失意のまま崩御した。
太寧元年(323年)、明帝(司馬紹)が即位。明帝(司馬紹)は王敦討伐の詔を下した。この時、病に伏していた王敦に5万の兵を与えられた兄の王含らは長江の南岸に布陣した。
明帝(司馬紹)は自ら6軍を率いてこれを撃ち破り、敗戦の報を聞いた王敦は自ら軍を率いて戦おうとしたが、病重く間もなく亡くなった。享年59歳だった。
脚注
*1父の兄弟の子で自分より年上の男子。 従兄。
*2老荘思想を題材とした哲学的な談話。
*3曹操が歌った詩『歩出夏門行』の一節。
「王敦」の関連記事
王曠・世宏
生没年不詳。徐州・琅邪郡・臨沂県の人。父は王正。子に王羲之。弟は王廙、王彬。従兄に王導。祖父は王覧。西晋
時代の書法家。
永興2年(305年)、右将軍・陳敏が揚州・淮南郡・歴陽県で反乱を起こすと、揚州刺史・劉機と丹陽太守であった王曠は官位を捨てて逃走した。
永嘉3年(309年)、漢の劉淵が、王弥を侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・征東大将軍・青州牧に任命し、楚王・劉聡、前鋒都督・石勒と共に壺関に侵攻させた。
西晋の幷州刺史・劉琨は、護軍・黄粛と韓述を救援に派遣したが、韓述は西澗で劉聡に破れ、黄粛は封田で石勒に破れて全滅。太傅・司馬越は淮南内史・王曠、将軍・施融、曹超を派遣して劉聡らを防がせた。
この時王曠は黄河を渡って真っ直ぐ進軍しようとしたので、施融は「敵は要害の狭路に陣取っており、我らは大軍を生かすことができず各個撃破されてしまうでしょう。黄河を障壁とするべきです」と諫めたが、王曠は激怒して「お前は我が軍の士気を下げる気かっ!」と言って進軍を命じた。退出した施融は「王曠は戦を知らぬ。我らは今日、間違いなく死ぬことになるだろう!」と言った。
王曠軍は太行で劉聡軍と遭遇して長平で戦いを交えたが、王曠軍は惨敗し、施融と曹超は2人とも戦死した。
『魏書』裴潜伝が注に引く『晋諸公賛』に、侍中の王曠は司馬越に手紙を送って「裴郃はこちらに在任していますが、政治に携わらなくても、広大な識見と器量によってこの地の人士に大いに尊敬されなつかれております」と述べたことが記されている。
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第7世代(王遐)
王彪之・叔虎(叔武)*4
西晋の永興2年(305年)〜東晋の太元2年(377年)。徐州・琅邪国・臨沂県の人。父は王彬。伯父に王導。
初め著作郎から東海王文学、尚書郎、鎮軍将軍・司馬晞の司馬となり、その後、尚書左丞、司徒左長史、御史中丞、侍中を経て廷尉となった。
東晋の永和年間(345年〜356年)、太史が元日に太陽と月が重なる(合朔)と報告したので、廷尉であった王彪之は揚州刺史の殷浩に手紙を送って「旧例に従って元旦の朝会を取りやめるべき」と主張し、殷浩はこれに従って朝会を取りやめた。
この手紙の中で王彪之は「かつて荀彧が合朔の日に朝会を行ったことが、後年失策とされている」ことを挙げている。
その後、会稽内史、尚書令、護軍将軍、散騎常侍などを歴任し、大司馬・桓温が帝位の簒奪を企てると、謝安らと協力して対抗する。桓温の死後は謝安らと共に朝政に参画した。
脚注
*4唐の初代皇帝・李淵の祖父・李虎の諱を避けて「叔武」とされた。
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