正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑦。嬰斉(趙嬰斉)、翳〔越〕、豷、越吉、延固、延篤です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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え⑦(嬰・翳・豷・延)
嬰(えい)
嬰斉(趙嬰斉)
生没年不詳。南越国*1の第3代王[在位:前漢の元狩元年(紀元前122年)〜元鼎2年(紀元前115年)]。明王。父は第2代王・文王[趙眜(趙胡)]。
前漢の建元6年(紀元前135年)、閩越*2が南越国*1に侵攻すると、南越王・趙眜は前漢に救援を求めた。これに応じた武帝は趙眜に朝見*3を求めるが、長安に留め置かれることを警戒した趙眜は病気を理由にこれを拒否し、太子の嬰斉(趙嬰斉)を入朝させる。
元狩元年(紀元前122年)、趙眜が重体に陥ると嬰斉(趙嬰斉)は南越国*1に帰り、父の死後その跡を継いだ。
脚注
*1前漢の高祖4年(紀元前203年)〜元鼎6年(紀元前111年)まで、嶺南(広東省、広西チワン自治区、ベトナムの北部)に独立していた国。秦・漢交代期に尉佗(尉他、趙佗)によって建国された。
*2紀元前203年〜前漢の元封元年(紀元前110年)頃まで、福建省に独立していた国。戦国時代に楚によって滅ぼされた越人によって建国された。
*3臣下が朝廷に参内して天子(皇帝)に拝謁すること。
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翳(えい)
翳(不光、授)〔越〕
生没年不詳。春秋時代から戦国時代にかけての越の君主[在位:紀元前411年〜紀元前375年]。父は朱勾(翁)。弟に豫。子に諸咎。
紀元前411年、朱勾が死去すると、その跡を継いで即位した。
紀元前375年、越王(翳)の弟・豫は(自分が王位継承者となるため)3人の王子を殺害し、越王に太子・諸咎を殺害するように煽ったが、越王はこれを拒絶する。
7月、身の危険を感じた諸咎は軍を率いて豫を追い払い、そのまま王宮を包囲して越王(翳)を殺害した。
会稽太守として赴任した王朗に「会稽郡出身の優れた人物」を尋ねられた功曹の虞翻は、近年の人物として幾人かの名前を挙げた。
王朗が「潁川には巣父や許由といった俗世の規範を超越した人物がおり、呉には太伯のような周の家を継ぐことを3度に渡って辞退した人物がいた」と言うと、虞翻は「古い時代に立派な事跡を残し、節義を貫き通した人物」の1人として翳の名前を挙げ、
「昔、越王の翳は君位を譲って巫山の洞窟に逃げ込み、越の人々は彼を燻り出して強制的に王の位につけたのです。これは呉の太伯に比類するのではないでしょうか」
と答えた。
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豷(えい)
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越(えつ)
越吉
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第94回に登場する。
西羌の王・徹里吉配下の元帥。身の丈1丈(約242cm)、重さ100斤(約22kg)の長鉄槌の使い手。
諸葛亮の北伐に際し、曹真の救援要請に応じて雅丹丞相と共に25万の兵を率いて出陣。自慢の「鉄車兵」で関興と張苞を追い詰めるが、突然現れた関羽の亡霊に阻まれる。
2人の報告を受けた諸葛亮は自ら出陣すると西羌軍を落とし穴に誘い込み、混乱したところを関興に斬って落とされた。
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延(えん)
延固
生没年不詳。荊州・南陽郡の人。
曹操の祖父・曹騰が推挙した人物の1人。他には、
- 兗州・陳留郡の虞放と辺韶
- 荊州・南陽郡の張温
- 司隷・弘農郡の張奐
- 豫州(予州)・潁川郡の堂谿典
がいる。
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延篤・叔堅
生年不詳〜永康元年(167年)没。荊州・南陽郡・犨県の人。
堂谿典と共に馬融に師事して儒教を学び、優れた文才があった。
順帝の時代に孝廉に推挙され、平陽相(司隷・河東郡・平陽国の県令)となる。
桓帝の時代には、博士や議郎となって辺韶・朱穆らと『東観漢記』の編纂にあたり、京兆尹に任官してその寛仁さを称えられたが、「党錮の禁」に遭って罷免され家で亡くなった。
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