正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑥。嬰斉えいせい趙嬰斉ちょうえいせい)、えいえつ〕、えい越吉えつきつ延固えんこ延篤えんとくです。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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え⑥(嬰・翳・豷・延)

嬰(えい)

嬰斉えいせい趙嬰斉ちょうえいせい

生没年不詳。南越国なんえつこく*1の第3代おう[在位:前漢ぜんかん元狩げんしゅ元年(紀元前122年)〜元鼎げんてい2年(紀元前115年)]。明王めいおう。父は第2代おう文王ぶんおう趙眜ちょうばつ趙胡ちょうこ)]。

前漢ぜんかん建元けんげん6年(紀元前135年)、閩越びんえつ*2南越国なんえつこく*1に侵攻すると、南越王なんえつおう趙眜ちょうばつ前漢ぜんかんに救援を求めた。これに応じた武帝ぶてい趙眜ちょうばつに朝見*3を求めるが、長安ちょうあんめ置かれることを警戒した趙眜ちょうばつは病気を理由にこれを拒否し、太子たいし嬰斉えいせい趙嬰斉ちょうえいせい)を入朝させる。

元狩げんしゅ元年(紀元前122年)、趙眜ちょうばつが重体におちいると嬰斉えいせい趙嬰斉ちょうえいせい)は南越国なんえつこく*1に帰り、父の死後その跡を継いだ。

脚注

*1前漢ぜんかん高祖こうそ4年(紀元前203年)〜元鼎げんてい6年(紀元前111年)まで、嶺南れいなん広東省カントンしょう広西こうせいチワン自治区じちくベトナムの北部)に独立していた国。しんかん交代期に尉佗いた尉他いた趙佗ちょうた)によって建国された。

*2紀元前203年〜前漢ぜんかん元封げんぽう元年(紀元前110年)頃まで、福建省ふっけんしょうに独立していた国。戦国せんごく時代にによって滅ぼされた越人えつじんによって建国された。

*3臣下が朝廷に参内さんだいして天子てんし(皇帝)に拝謁はいえつすること。


翳(えい)

えい不光ふこうじゅ)〔えつ

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代から戦国せんごく時代にかけてのえつの君主[在位:紀元前411年〜紀元前375年]。父は朱勾しゅこうおう)。弟に。子に諸咎しょきゅう

紀元前411年、朱勾しゅこうが死去すると、その跡を継いで即位した。

紀元前375年、越王えつおうえい)の弟・は(自分が王位継承者となるため)3人の王子を殺害し、越王えつおう太子たいし諸咎しょきゅうを殺害するようにあおったが、越王えつおうはこれを拒絶する。

7月、身の危険を感じた諸咎しょきゅうは軍をひきいてを追い払い、そのまま王宮を包囲して越王えつおうえい)を殺害した。


会稽太守かいけいたいしゅとして赴任した王朗おうろうに「会稽郡かいけいぐん出身の優れた人物」をたずねられた功曹こうそう虞翻ぐほんは、近年の人物として幾人いくにんかの名前をげた。

王朗おうろうが「潁川えいせんには巣父そうほ許由きょゆうといった俗世の規範を超越した人物がおり、には太伯たいはくのようなしゅうの家を継ぐことを3度に渡って辞退した人物がいた」と言うと、虞翻ぐほんは「古い時代に立派な事跡を残し、節義を貫き通した人物」の1人としてえいの名前をげ、

「昔、越王えつおうえいは君位をゆずって巫山ふざんの洞窟に逃げ込み、えつの人々は彼をいぶり出して強制的におうの位につけたのです。これは太伯たいはくに比類するのではないでしょうか」

と答えた。


豷(えい)

えい

生没年不詳。古代中華の人物。父は王朝を簒奪さんだつした寒浞かんさく。兄にぎょう

魏王ぎおう曹丕そうひに天下をゆず詔勅しょうちょくの中で「(董卓とうたくの)悪はぎょうえいよりもひどい」と例えられた。


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越(えつ)

越吉えつきつ

三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。第94回に登場する。

西羌せいきょうおう徹里吉てつりきつ配下の元帥げんすい。身のたけ1じょう(約242cm)、重さ100きん(約22kg)のちょう鉄槌てっついの使い手。

諸葛亮しょかつりょう北伐ほくばつに際し、曹真そうしんの救援要請に応じて雅丹がたん丞相じょうしょうと共に25万の兵をひきいて出陣。自慢の「鉄車兵てっしゃへい」で関興かんこう張苞ちょうほうを追いめるが、突然現れた関羽かんうの亡霊にはばまれる。

2人の報告を受けた諸葛亮しょかつりょうみずから出陣すると西羌せいきょう軍を落とし穴に誘い込み、混乱したところを関興かんこうに斬って落とされた。


延(えん)

延固えんこ

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの人。

曹操そうそうの祖父・曹騰そうとうが推挙した人物の1人。他には、

  • 兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん虞放ぐほう辺韶へんしょう
  • 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん張温ちょうおん
  • 司隷しれい弘農郡こうのうぐん張奐ちょうかん
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん堂谿典どうけいてん

がいる。


延篤えんとく叔堅しゅくけん

生年不詳〜永康えいこう元年(167年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん犨県しゅうけんの人。

堂谿典どうけいてんと共に馬融ばゆうに師事して儒教じゅきょうを学び、優れた文才があった。

順帝じゅんていの時代に孝廉こうれんに推挙され、平陽相へいようしょう司隷しれい河東郡かとうぐん平陽国へいようこく県令けんれい)となる。

桓帝かんていの時代には、博士はくし議郎ぎろうとなって辺韶へんしょう朱穆しゅぼくらと東観とうかん漢記かんき編纂へんさんにあたり、京兆尹けいちょういんに任官してその寛仁かんじんさをたたえられたが、「党錮とうこの禁」にって罷免ひめんされ家で亡くなった。



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【三国志人物伝】総索引