正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧③、「いん」から始まる人物の一覧です。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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い③(尹)

尹(いん)

尹異いんい

生没年不詳。孫権そんけん配下の呂岱りょたいの部将*1

建安けんあん16年(211年)、呂岱りょたいは部将*1尹異いんいらを指揮し、兵士2千人をひきいて西方に向かい、漢中かんちゅうの反乱者たちの首領である張魯ちょうろ漢興郡かんこうぐん寋城けんじょうまで出て来るように誘いをかけた。

張魯ちょうろの真意を疑って、両者の間の道を通れなくしたため計画はうまく行かず、孫権そんけんはそのまま呂岱りょたいに帰還を命じた。

脚注

*1原文は「郎将」。中郎将ちゅうろうしょう?ここでは「部将」の誤植として扱う。


尹嘉いんか

生没年不詳。涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんの人。禄福長ろくふくちょう。(涼州りょうしゅう酒泉郡しゅせんぐん禄福県ろくふくけん県長けんちょう)。

その昔、龐淯ほういく*2外祖父がいそふ(母方の祖父)・趙安ちょうあん趙君安ちょうくんあん)は同県の李寿りじゅに殺害された。

光和こうわ2年(179年)、龐淯ほういくの母・趙娥ちょうがは白昼堂々李寿りじゅを殺し、ゆっくりと県庁におもむくと、顔色も変えずに「父のかたきに報復いたしました。死刑を受けたいと存じます」と申し出た。

すると、禄福長ろくふくちょう尹嘉いんかみずからの印綬いんじゅいて*3趙娥ちょうがを釈放し、それでも刑に服することを望む趙娥ちょうがを無理矢理車にせて家に帰した。

州郡の人々は感嘆かんたんし、村の門にを立てて趙娥ちょうがの道義心をたたえた。

脚注

*2涼州りょうしゅう酒泉郡しゅせんぐん表氏県ひょうしけんの人。涼州従事りょうしゅうじゅうじ酒泉郡しゅせんぐん主簿しゅぼを務め、曹操そうそうされて掾属えんぞくとなり、文帝ぶんてい曹丕そうひ)の代まで仕えた。

*3印綬いんじゅとは官印とその組紐くみひものこと。みずか印綬いんじゅくことは辞任の意志を示すことになる。


尹楷いんかい

生没年不詳。袁尚えんしょう配下の武安長ぶあんちょう冀州きしゅう魏郡ぎぐん武安県ぶあんけん県長けんちょう)。

建安けんあん9年(204年)2月、袁尚えんしょう蘇由そゆう審配しんぱい鄴県ぎょうけんに残して再び袁譚えんたんを攻撃に出た。

そこへ曹操そうそう洹水かんすいまで軍を進めると、蘇由そゆうは降伏し、曹操そうそう鄴県ぎょうけんの攻撃に移って土山と地下道を築く。

夏4月、曹操そうそう曹洪そうこう鄴県ぎょうけん攻撃に残し、みずからは幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上党郡じょうとうぐんからの糧道を確保するため毛城もうじょうに駐屯していた尹楷いんかいを攻撃し、尹楷いんかいは撃ち破られた。


尹吉甫いんきっぽ

紀元前852年〜紀元前775年没。しゅう西周せいしゅう)の宣王せんおうの臣下。子に伯奇はくき

宣王せんおうの命により、方叔ほうしゅくを副将として15万の兵をひきいて儼狁けんいん獫允けんいん獫狁けんいんとも。北方の異民族)を征伐した。

その後、荊蛮けいばん(南方の異民族)が征伐されると、安心した宣王せんおう姜皇后きょうこうごうのところに入りびたり政務をらなくなったが、尹吉甫いんきっぽらの諫言かんげんにより心を入れ替えた。

名臣・功臣の例えとして語られる。


尹勲いんくん伯元はくげん

生年不詳〜建寧けんねい元年(168年)没。司隷しれい河南尹かなんいん鞏県きょうけんの人。司徒しと尹頌いんしょうの弟。党人の1人。

尚書令しょうしょれいとして梁冀りょうきをたびたび弾劾だんがいし、梁冀りょうき誅殺ちゅうさつの際には部下を指揮して桓帝かんていの護衛を務め、その功績により都郷侯ときょうこうに封ぜられた。

のち大司農だいしのうとなるが、竇武とうぶらと宦官かんがん誅殺ちゅうさつはかるも失敗して獄死ごくしした。

後漢書ごかんじょより。正史せいし三国志さんごくしに記載なし。

関連人物

尹胡いんこ

生没年不詳。歌師かし宗廟そうびょう郊祀こうしの曲を正確に歌うことができた。

  • 雅楽ががくえいずることに長じた散郎さんろう(特別の任務のない郎官ろうかん)の鄧静とうせい尹斉いんせい
  • 先代からの様々なまいに詳しい舞師ぶし馮粛ふうしゅく服養ふくよう

らと共に、杜夔ときの「芸能者の育成と楽器の製作」に協力し、先代の古楽の復興に貢献した。


尹氏いんし尹夫人いんふじん

生没年不詳。後漢ごかん霊帝れいてい期の大将軍だいしょうぐん何進かしんの孫・何晏かあんの母。

元は曹操そうそうの夫人(側妾そくしょう)たちの1人で、范陽はんよう幽州ゆうしゅう涿郡たくぐん范陽国はんようこく)の閔王びんおう曹矩そうく)を産んだ。


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尹頌いんしょう公孫こうそん

生年不詳〜永寿えいじゅ3年(157年)没。司隷しれい河南尹かなんいん鞏県きょうけんの人。尹勲いんくんの兄。和帝わてい太尉たいいである尹睦いんぼくの孫。

桓帝かんてい期に司徒しととなり、公孫挙こうそんきょの討伐にあたって段熲だんけいを推挙した。

後漢書ごかんじょより。正史せいし三国志さんごくしに記載なし。

関連人物

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尹昌いんしょう

生没年不詳。平民。魏書ぎしょ梁習伝りょうしゅうでんが注に引く魏略ぎりゃく苛吏伝かりでんに、刺史しし郡守ぐんしゅ太守たいしゅ)を歴任した劉類りゅうるいの無礼さを示す例として登場する。

百歳近い老齢の尹昌いんしょうは、劉類りゅうるいが巡行する道筋に当たると聞き、その子に向かって「わしを支えて府君ふくん劉類りゅうるい)を迎えさせてくれ。感謝を述べたいのじゃ」と言った。子は尹昌いんしょうを助けて道の左に立たせた。

劉類りゅうるいながめやるとその子を叱りつけ、「こんな死人を連れて来てわしに会わせるのか」と言った。彼の人に対する無礼さはすべてこのたぐいであった。


尹賞いんしょう

生年不詳〜しょくの滅亡より先に没。

建興けんこう6年(228年)、しょく諸葛亮しょかつりょうの軍が祁山きざんに向かった際、天水郡てんすいぐん主簿しゅぼを務めていた尹賞いんしょうは、郡の参軍さんぐん姜維きょうい功曹こうそう梁緒りょうしょ主記しゅき梁虔りょうけんらと共に、天水太守てんすいたいしゅ馬遵ばじゅん巡察じゅんさつ随行ずいこうしていた。

この時「諸県がしょく軍に呼応している」と聞いた馬遵ばじゅんは、随行ずいこうする尹賞いんしょうらも全員異心いしんいだいているのではないかと疑い、1人上邽県じょうけいけんに逃亡した。残された尹賞いんしょうらは上邽県じょうけいけんにも冀県きけん天水太守てんすいたいしゅの治所)にも入城を拒否され、やむを得ず諸葛亮しょかつりょうの元におもむいてしょく軍に降った。

しょくにおいては執金吾しつきんごまで官位が上がったが、しょくの滅亡より先に亡くなった。


尹世いんせい

生没年不詳。県の役人。華佗かだの診察を受けた人物。

尹世いんせいは、手足が熱っぽく、口の中がかわいて、人の声を聞くと苛立いらだち、小便が通じないという病気で苦しんでいた。

尹世いんせいを診察した華佗かだは「ためしに熱いものを食べさせてみなさい。もし汗が出れば平癒へいゆするでしょう。もし汗をかかねば3日で死ぬでしょう」と言った。

そこで熱いものを食べさせたが、汗は出なかった。すると華佗かだは「内にり固まった気が、もう外からの働きかけを受けつけていない。きっと泣きながら絶命するでしょう」と言い、はたして華佗かだの言った通りになった。


尹斉いんせい

生没年不詳。散郎さんろう(特別の任務のない郎官ろうかん)。雅楽ががくえいずることに長じた。

  • 同じく雅楽ががくえいずることに長じた散郎さんろう鄧静とうせい
  • 宗廟そうびょう郊祀こうしの曲を正確に歌うことができた歌師かし尹胡いんこ
  • 先代からの様々なまいに詳しい舞師ぶし馮粛ふうしゅく服養ふくよう

らと共に、杜夔ときの「芸能者の育成と楽器の製作」に協力し、先代の古楽の復興に貢献した。


尹宗いんそう

生没年不詳。益州えきしゅう梓潼郡しとうぐん涪県ふけんの人。劉備りゅうび劉禅りゅうぜんに仕えた尹黙いんもくの子。

父・尹黙いんもくの学問を伝え博士はくしとなった。

関連人物

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尹大目いんたいもく

生没年不詳。殿中校尉でんちゅうこうい。幼少の頃から曹氏そうしの奴隷となり、いつも天子てんし(皇帝)のそば近くに仕えていた。

正始せいし元年(249年)正月、天子てんし曹芳そうほう)と曹爽そうそう曹羲そうぎ兄弟が高平陵こうへいりょうに参拝に出たすきに、司馬懿しばいがクーデターを起こして洛陽らくようを占拠した。この時司馬懿しばいは、曹爽そうそうが信任していた尹大目いんたいもくに「ただ免官するだけで済ませます。洛水らくすいにかけて誓っても良い」と言わせ、曹爽そうそうに兵をかせた。


正元せいげん2年(255年)正月、毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)と文欽ぶんきんが、大将軍だいしょうぐん司馬師しばしの罪状を書き連ねて反乱を起こした。

司馬師しばしの討伐軍に従軍していた尹大目いんたいもくは、文欽ぶんきんを帰順させるための使者となったが、内心では「曹氏そうしの安泰(司馬師しばしの敗北)」を願っていた。

そこで尹大目いんたいもくは、「君侯あなたは何を苦しんで数日間のご辛抱ができないのでしょうか」と、暗に司馬師しばしが眼病をわずらって死期が近いことを伝えたが、文欽ぶんきんはその真意に気づかず、「お前は先帝の家人だ。ご恩に報いようともせず、司馬師と共に反逆するのか。天をかえりみなければ、天はお前を助けぬぞっ!」と言って尹大目いんたいもくを弓で狙った。

尹大目いんたいもくは涙を流して「事は失敗に帰しましょう。精一杯努力してください」と言ってその場を去り、結局毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)は敗死して、文欽ぶんきんに逃れた。


尹模いんぼ

生没年不詳。撫軍校事ぶぐんこうじ大長秋だいちょうしゅうをつとめた。

嘉平かへい年間(249年〜254年)当時、尹模いんぼ校事こうじ(監察官)の振る舞いが横暴で、外は天子てんし(皇帝)の権威にかこつけておどし文句とし、内は悪人たちを集めて腹心としていた。面倒を恐れて彼を告発しようとする者はいなかったが、ついに司隷校尉しれいこうい何曾かそう尹模いんぼ弾劾だんがいすると、みな彼を賞賛した。

こうして尹模いんぼ罷免ひめんされると、黄門侍郎こうもんじろう程曉ていぎょうは上奏して校事こうじの官職を廃止した。

嘉平かへい6年(254年)の司馬師しばしのクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「大長秋だいちょうしゅう尹模いんぼ」とある。


尹奉いんほう次曾じそう

生没年不詳。涼州りょうしゅう天水郡てんすいぐんの人。若い頃、同郡出身の楊阜ようふ趙昂ちょうこうと共に名をげて涼州りょうしゅう従事じゅうじとなり、その後亡くなった馬艾ばがいの後任として敦煌太守とんこうたいしゅとなる。


建安けんあん18年(213年)、馬超ばちょうが再び隴山ろうざん一帯を呼応させ、降伏した涼州刺史りょうしゅうしし韋康いこうを斬った。

すると韋康いこう別駕従事べつがじゅうじであった楊阜ようふは復讐心を燃やし、歴城れきじょうにいた外兄いとこ姜叙きょうじょや外部の尹奉いんほうらと結んで馬超ばちょう討伐の兵をげ、馬超ばちょうが出陣したところを冀県きけんの城門を閉じて馬超ばちょうの妻子を殺害する。

馬超ばちょう歴城れきじょうを襲撃して姜叙きょうじょの母を斬るが、その後も楊阜ようふは奮戦し、馬超ばちょう漢中かんちゅう張魯ちょうろの元に逃走した。


尹黙いんもく思潜しせん

生年不詳〜しょく建興けんこう12年(234年)以降没。益州えきしゅう梓潼郡しとうぐん涪県ふけんの人。子に尹宗いんそう。すべての経書・史書に精通した。

当時、益州えきしゅうには「今文きんぶんの学(しん以後の新字体をもちいる解釈学)」を尊重する者が多く、字句の正確な読みを重視しなかった。そこで尹黙いんもくは、荊州けいしゅうに遊学して司馬徳操しばとくそう司馬徽しばき)、宋仲子そうちゅうし宋仲そうちゅう)らに「古文の学」を学ぶ。

文帝ぶんてい曹丕そうひ)が即位すると、連名で劉備りゅうびに帝位を勧める上奏文を奉じ、太子僕たいしぼくに任命されて劉禅りゅうぜん春秋左氏伝しゅんじゅうさしでんを教授した。

劉禅りゅうぜんが即位すると諫義大夫かんぎたいふに任命され、その後、丞相じょうしょう諸葛亮しょかつりょうもと軍祭酒ぐんさいしゅとなる。諸葛亮しょかつりょうが亡くなると成都せいとに帰還して太中大夫たいちゅうたいふに任命され、亡くなった。

関連人物

尹礼いんれい

生没年不詳。兗州えんしゅう泰山郡たいざんぐん出身の独立勢力の1人。またの名を盧児ろじ

陶謙とうけんによって騎都尉きといに任命された臧覇ぞうはを首領として、孫観そんかん呉敦ごとんと共に徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく開陽県かいようけんに駐屯し、建安けんあん3年(198年)に曹操そうそう呂布りょふを討伐すると、兵をひきいて呂布りょふを助けた。

呂布りょふが捕らえられるとしばらく身を隠していたが、臧覇ぞうはまねきで曹操そうそうの元に出頭し、東莞太守とうかんたいしゅに取り立てられた。


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尹盧いんろ

生年不詳〜黄初こうしょ3年(222年)。の部将。

孫権そんけんは、表面上はに仕えているように見せていたが、「孫権そんけんの息子を任子にんし*4として迎えたい」というの要求を辞退した。

黄初こうしょ3年(222年)9月、これに怒った洞口どうこう濡須じゅしゅ南郡なんぐんの3ヶ所を攻撃。孫権そんけんひくくして謝罪したが、関係は決裂する。

11月、洞口どうこう方面軍の曹休そうきゅう臧覇ぞうはに命じ、快速船5百そうと決死隊1万を引き連れて呉郡ごぐん丹徒県たんとけん徐陵じょりょうを襲撃させたが、この時尹盧いんろは、全琮ぜんそう徐盛じょせいの追撃にい斬り殺された。

臧覇ぞうは麾下きかにあることと「」という名前から、尹礼いんれい(またの名を盧児ろじ)と同一人物である可能性もある。

脚注

*1高級官僚の息子を朝廷で郎官ろうかんの職につける制度。ここでは人質の要求。

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【三国志人物伝】総索引