正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「い」から始まる人物の一覧⑦、「尹」から始まる人物の一覧です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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い⑦(尹)
尹(いん)
尹異
生没年不詳。孫権配下の呂岱の部将*1。
建安16年(211年)、呂岱は部将*1の尹異らを指揮し、兵士2千人を率いて西方に向かい、漢中の反乱者たちの首領である張魯に漢興郡の寋城まで出て来るように誘いをかけた。
張魯が呉の真意を疑って、両者の間の道を通れなくしたため計画はうまく行かず、孫権はそのまま呂岱に帰還を命じた。
脚注
*1原文は「郎将」。中郎将?ここでは「部将」の誤植として扱う。
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尹嘉
生没年不詳。涼州・漢陽郡の人。禄福長。(涼州・酒泉郡・禄福県の県長)。
その昔、龐淯*2の外祖父(母方の祖父)・趙安(趙君安)は同県の李寿に殺害された。
光和2年(179年)、龐淯の母・趙娥は白昼堂々李寿を殺し、ゆっくりと県庁に赴くと、顔色も変えずに「父の仇に報復いたしました。死刑を受けたいと存じます」と申し出た。
すると、禄福長の尹嘉は自らの印綬を解いて*3趙娥を釈放し、それでも刑に服することを望む趙娥を無理矢理車に載せて家に帰した。
州郡の人々は感嘆し、村の門に碑を立てて趙娥の道義心を称えた。
脚注
*2涼州・酒泉郡・表氏県の人。涼州従事や酒泉郡の主簿を務め、曹操に召されて掾属となり、文帝(曹丕)の代まで仕えた。
*3印綬とは官印とその組紐のこと。自ら印綬を解くことは辞任の意志を示すことになる。
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尹楷
生没年不詳。袁尚配下の武安長(冀州・魏郡・武安県の県長)。
建安9年(204年)2月、袁尚は蘇由と審配を鄴県に残して再び袁譚を攻撃に出た。
そこへ曹操が洹水まで軍を進めると、蘇由は降伏し、曹操は鄴県の攻撃に移って土山と地下道を築く。
夏4月、曹操は曹洪を鄴県攻撃に残し、自らは幷州(并州)・上党郡からの糧道を確保するため毛城に駐屯していた尹楷を攻撃し、尹楷は撃ち破られた。
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尹吉甫
紀元前852年〜紀元前775年没。周(西周)の宣王の臣下。子に伯奇。
宣王の命により、方叔を副将として15万の兵を率いて儼狁(獫允、獫狁とも。北方の異民族)を征伐した。
その後、荊蛮(南方の異民族)が征伐されると、安心した宣王は姜皇后のところに入り浸り政務を執らなくなったが、尹吉甫らの諫言により心を入れ替えた。
名臣・功臣の例えとして語られる。
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尹胡
生没年不詳。歌師。宗廟郊祀の曲を正確に歌うことができた。
- 雅楽を詠ずることに長じた散郎(特別の任務のない郎官)の鄧静と尹斉
- 先代からの様々な舞に詳しい舞師の馮粛と服養
らと共に、杜夔の「芸能者の育成と楽器の製作」に協力し、先代の古楽の復興に貢献した。
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尹昌
生没年不詳。平民。『魏書』梁習伝が注に引く『魏略』苛吏伝に、刺史・郡守(太守)を歴任した劉類の無礼さを示す例として登場する。
百歳近い老齢の尹昌は、劉類が巡行する道筋に当たると聞き、その子に向かって「わしを支えて府君(劉類)を迎えさせてくれ。感謝を述べたいのじゃ」と言った。子は尹昌を助けて道の左に立たせた。
劉類は眺めやるとその子を叱りつけ、「こんな死人を連れて来て儂に会わせるのか」と言った。彼の人に対する無礼さはすべてこの類であった。
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尹賞
生年不詳〜蜀の滅亡より先に没。
建興6年(228年)、蜀の諸葛亮の軍が祁山に向かった際、魏の天水郡で主簿を務めていた尹賞は、郡の参軍・姜維、功曹・梁緒、主記・梁虔らと共に、天水太守・馬遵の巡察に随行していた。
この時「諸県が蜀軍に呼応している」と聞いた馬遵は、随行する尹賞らも全員異心を抱いているのではないかと疑い、1人上邽県に逃亡した。残された尹賞らは上邽県にも冀県(天水太守の治所)にも入城を拒否され、やむを得ず諸葛亮の元に赴いて蜀軍に降った。
蜀においては執金吾まで官位が上がったが、蜀の滅亡より先に亡くなった。
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尹世
生没年不詳。県の役人。華佗の診察を受けた人物。
尹世は、手足が熱っぽく、口の中が渇いて、人の声を聞くと苛立ち、小便が通じないという病気で苦しんでいた。
尹世を診察した華佗は「ためしに熱いものを食べさせてみなさい。もし汗が出れば平癒するでしょう。もし汗をかかねば3日で死ぬでしょう」と言った。
そこで熱いものを食べさせたが、汗は出なかった。すると華佗は「内に凝り固まった気が、もう外からの働きかけを受けつけていない。きっと泣きながら絶命するでしょう」と言い、はたして華佗の言った通りになった。
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尹斉
生没年不詳。散郎(特別の任務のない郎官)。雅楽を詠ずることに長じた。
- 同じく雅楽を詠ずることに長じた散郎の鄧静
- 宗廟郊祀の曲を正確に歌うことができた歌師の尹胡
- 先代からの様々な舞に詳しい舞師の馮粛と服養
らと共に、杜夔の「芸能者の育成と楽器の製作」に協力し、先代の古楽の復興に貢献した。
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尹大目
生没年不詳。魏の殿中校尉。幼少の頃から曹氏の奴隷となり、いつも天子(皇帝)の側近くに仕えていた。
魏の正始元年(249年)正月、天子(曹芳)と曹爽・曹羲兄弟が高平陵に参拝に出た隙に、司馬懿がクーデターを起こして洛陽を占拠した。この時司馬懿は、曹爽が信任していた尹大目に「ただ免官するだけで済ませます。洛水にかけて誓っても良い」と言わせ、曹爽に兵を解かせた。
魏の正元2年(255年)正月、毌丘倹(毋丘倹)と文欽が、大将軍・司馬師の罪状を書き連ねて反乱を起こした。
司馬師の討伐軍に従軍していた尹大目は、文欽を帰順させるための使者となったが、内心では「曹氏の安泰(司馬師の敗北)」を願っていた。
そこで尹大目は、「君侯は何を苦しんで数日間のご辛抱ができないのでしょうか」と、暗に司馬師が眼病を患って死期が近いことを伝えたが、文欽はその真意に気づかず、「お前は先帝の家人だ。ご恩に報いようともせず、司馬師と共に反逆するのか。天を顧みなければ、天はお前を助けぬぞっ!」と言って尹大目を弓で狙った。
尹大目は涙を流して「事は失敗に帰しましょう。精一杯努力してください」と言ってその場を去り、結局毌丘倹(毋丘倹)は敗死して、文欽は呉に逃れた。
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尹模
生没年不詳。魏の撫軍校事、大長秋をつとめた。
嘉平年間(249年〜254年)当時、尹模ら校事(監察官)の振る舞いが横暴で、外は天子(皇帝)の権威にかこつけて脅し文句とし、内は悪人たちを集めて腹心としていた。面倒を恐れて彼を告発しようとする者はいなかったが、ついに司隷校尉の何曾が尹模を弾劾すると、みな彼を賞賛した。
こうして尹模が罷免されると、黄門侍郎の程曉は上奏して校事の官職を廃止した。
嘉平6年(254年)の司馬師のクーデターに賛同する者たちの上奏文の中に「大長秋臣尹模」とある。
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尹奉・次曾
生没年不詳。涼州・天水郡の人。若い頃、同郡出身の楊阜、趙昂と共に名を挙げて涼州の従事となり、その後亡くなった馬艾の後任として敦煌太守となる。
建安18年(213年)、馬超が再び隴山一帯を呼応させ、降伏した涼州刺史・韋康を斬った。
すると韋康の別駕従事であった楊阜は復讐心を燃やし、歴城にいた外兄の姜叙や外部の尹奉らと結んで馬超討伐の兵を挙げ、馬超が出陣したところを冀県の城門を閉じて馬超の妻子を殺害する。
馬超は歴城を襲撃して姜叙の母を斬るが、その後も楊阜は奮戦し、馬超は漢中の張魯の元に逃走した。
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尹礼
生没年不詳。兗州・泰山郡出身の独立勢力の1人。またの名を盧児。
陶謙によって騎都尉に任命された臧覇を首領として、孫観、呉敦と共に徐州・琅邪国・開陽県に駐屯し、建安3年(198年)に曹操が呂布を討伐すると、兵を率いて呂布を助けた。
呂布が捕らえられるとしばらく身を隠していたが、臧覇の招きで曹操の元に出頭し、東莞太守に取り立てられた。
臧覇の麾下にあることと、またの名を「盧児」ということから、尹盧と同一人物である可能性もある。
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尹盧
生年不詳〜魏の黄初3年(222年)。魏の部将。
孫権は、表面上は魏に仕えているように見せていたが、「孫権の息子を任子*4として迎えたい」という魏の要求を辞退した。
魏の黄初3年(222年)9月、これに怒った魏は洞口、濡須、南郡の3ヶ所を攻撃。孫権は辞を卑くして謝罪したが、関係は決裂する。
11月、洞口方面軍の曹休は臧覇に命じ、快速船5百艘と決死隊1万を引き連れて呉郡・丹徒県の徐陵を襲撃させたが、この時尹盧は、呉の全琮と徐盛の追撃に遭い斬り殺された。
臧覇の麾下にあることと「盧」という名前から、尹礼(またの名を盧児)と同一人物である可能性もある。
脚注
*1高級官僚の息子を朝廷で郎官の職につける制度。ここでは人質の要求。
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