正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「あ」から始まる人物の一覧です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次

あい

あつ

あん

あん


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あ(阿・哀・閼・安・晏)

阿(阿会喃・阿貴・阿騖・阿羅槃)

阿会喃あかいなん

三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。第87回と第88回に登場する。

南蛮王なんばんおう孟獲もうかく配下で三洞さんどう元帥げんすいの1人。諸葛亮しょかつりょうの南征に際し他の2人の元帥げんすいと共に迎撃に出る。

趙雲ちょううん馬忠ばちゅうに敗れ、諸葛亮しょかつりょうの命を受けた張翼ちょうよくに捕らえられたが、諸葛亮しょかつりょうさとされて董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)と共に釈放された。

その後、孟獲もうかくも捕らえられて釈放されるが抵抗をやめず、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)が孟獲もうかくを捕らえて引き渡すも、諸葛亮しょかつりょうはまた孟獲もうかくを釈放したため、董荼那とうとな董荼奴とうとぬ)と阿会喃あかいなんは陣に戻った孟獲もうかくに殺害された。


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阿貴あき

1万余の部落を支配下に収める異民族・興国氐こうこくてい*1おう

彼らの風俗はかん人と異なっていて、きょう族や近辺の異民族の者たちと同じ言葉を話す。

建安けんあん16年(211年)に馬超ばちょうの指図を受けて、百頃ひゃくけい白頃はくけいてい*2おう千万せんばんと共に曹操そうそうに反乱を起こすが、夏侯淵かこうえんの攻撃を受けて滅ぼされた。

脚注

*1甘粛省かんしゅくしょう秦州しんしゅう涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん天水郡てんすいぐん)]付近の氐族ていぞく

*2仇池きゅうち甘粛省かんしゅくしょう成県せいけん涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん)付近の氐族ていぞく


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阿騖あぶ

荀攸じゅんゆうしょう(側室)。「」は姓ではなく、阿瞞あまん曹操そうそう)、阿蒙あもう呂蒙りょもう)などと同様の親しみを込めた接頭語。「おちゃん」の意。

朱建平しゅけんぺい荀攸じゅんゆう鍾繇しょうようの人相を見た際、「荀攸じゅんゆうさまは鍾繇しょうようさまよりお若いが、きっと鍾繇しょうようさまに後事をたくされることになるでしょう」と言った。

この時鍾繇しょうようは、「もしそうなったら、阿騖あぶをあなたの嫁にやろう」と冗談を言ったが、朱建平しゅけんぺいの言った通り荀攸じゅんゆうが先に亡くなったので、鍾繇しょうよう荀攸じゅんゆうの家族の面倒を見て、阿騖あぶの再婚先を探すことになった。


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阿羅槃あらはん

幽州ゆうしゅう右北平郡ゆうほくへいぐん烏丸うがん単于ぜんう寇婁敦こうろうとんの弟。

景初けいしょ元年(237年)、寇婁敦こうろうとん遼西郡りょうせいぐん烏丸うがん都督ととく率衆王そつしゅうおう護留ごりゅうよう)らが毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)の討伐軍に降伏した際、その朝貢の使者となった。


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哀(哀公〔魯〕・哀帝〔漢〕)

哀公あいこう

春秋しゅんじゅう時代、の第27代君主(在位:紀元前494年~紀元前468年)。生年不詳〜紀元前467年没。いみな姫将きしょう。父はの第26代君主・定公ていこう儒家じゅかの始祖・孔子こうしが晩年に仕えた。

国政を壟断ろうだんする三桓氏さんかんし*3の討伐に失敗してえいに亡命し、翌年、えつの地で没した。おろかな君主の例として語られる。

脚注

*3春秋しゅんじゅう時代初期のせい桓公かんこう(在位:紀元前711年~紀元前694年)の3公子の子孫、孟孫氏もうそんし仲孫氏ちゅうそんし)・叔孫氏しゅくそんし季孫氏きそんしのこと。中でも季孫氏きそんしの勢力が最も強く、の国政を壟断ろうだんして君主の廃立までも行った。


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哀帝あいていかん

前漢ぜんかんの第12代皇帝[在位:綏和すいわ2年(紀元前7年)~元寿げんじゅ2年(紀元前1年)]。生没年は河平かへい4年(紀元前25年)〜元寿げんじゅ2年(紀元前1年)。いみな劉欣りゅうきん。父は定陶恭王ていとうきょうおう劉康りゅうこう。第10代皇帝・元帝げんていの孫にあたる。

3歳で父の爵位をぎ、18歳の時に嗣子ししがいなかった成帝せいてい皇太子こうたいしとなって、その翌年に即位した。在任中は土地所有を制限する改革をこころみるが、外戚がいせきの争いにより成果をあげることができず、崩御後は太皇太后たいこうたいごう王政君おうせいくん)によって王莽おうもう大司馬だいしばに返り咲き、平帝へいてい劉衎りゅうかん)が擁立されることになった。


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閼(閼伯・閼父)

閼伯あつはくせつ子契しせつ

神話時代の三皇五帝さんこうごていの帝王の1人・帝嚳ていこく簡狄かんてきの間に生まれた息子。帝堯ていぎょうの異母弟にあたり、いんしょう)王朝の始祖とされる伝説上の人物。

帝嚳ていこくの2人のきさき簡狄かんてき建疵けんし玄鳥げんちょう(ツバメ)の卵を奪い合い、簡狄かんてきがその卵を飲み込んだことで閼伯あつはくせつ)を妊娠したとされる。

弟の実沈じつしんと非常に仲が悪く、帝嚳ていこく閼伯あつはくせつ)を商丘しょうきゅう(現:河南省かなんしょう商丘市しょうきゅうし)に、実沈じつしん大夏たいか(現:山西省さんせいしょう夏県かけん)に封じて兄弟を分けた。仲が悪い兄弟の例として語られる。


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閼父あつほ遏父あつほ

しゅう陶正とうせい(陶器職人)。帝舜ていしゅんの子孫。

しゅう武王ぶおうは、閼父あつほ遏父あつほ)が役に立つ陶器を作る才能があり、また聖人の子孫であることから、 長女を彼の息子・媯満きまん胡公ここう)にとつがせてちん(現:河南省かなんしょう周口市しゅうこうし淮陽区わいようく)に封じた。


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安(安期生・安帝〔漢〕・安陽公主)

安期生あんきせい

しん代の方仙道術士ほうせんどうじゅつし(仙人)。琅邪郡ろうやぐん阜郷ふきょうの人。東海郡とうかいぐんの辺りで薬を売って生活していた千歳を超える老人で、人々は「千歳公」と呼んで彼をうやまっていた。

しん始皇帝しこうてい山東さんとう巡遊じゅんゆうの際に出会い、「長生の法」について3日3晩教えをうた。始皇帝しこうていは黄金や玉璧ぎょくへき数千万をおくったが、安期生あんきせいはただ1足の赤玉のかた履物はきもの)だけを受け取り、「数年後に蓬莱山ほうらいさんを訪ねられたし」との書状を残して去った。

そこで始皇帝しこうていは、渤海ぼっかいの東にあるという蓬莱山ほうらいさんに人をつかわしたが、誰も行き着くことができなかった。


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安帝あんていかん

後漢ごかんの第6代皇帝[在位:延平えんぺい元年(106年)~延光えんこう4年(125年)]。生没年は永元えいげん6年(94年)〜延光えんこう4年(125年)。いみな劉祜りゅうこ。父は清河孝王せいがこうおう劉慶りゅうけい。第3代皇帝・章帝しょうていの孫にあたる。

第5代皇帝・殤帝しょうていがわずか2歳で崩御すると、外戚がいせき鄧氏とうし擁立ようりつされて13歳で即位する。

成人した安帝あんていは、皇后こうごう閻氏えんし宦官かんがん李閏りじゅんらの助力を得て鄧氏とうし粛清しゅくせいするが、今度は閻氏えんし一族と宦官かんがんの専横をまねいて国政は秩序を失った。後漢ごかん王朝の衰退すいたいが始まった皇帝として語られる。


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安陽公主あんようこうしゅ

曹操そうそうの娘。荀彧じゅんいくの長子・荀惲じゅんうんの妻。

建安けんあん年間に荀惲じゅんうんとつぎ、荀甝じゅんかん荀霬じゅんよくを産んだ。

曹丕そうひ安陽公主あんようこうしゅの夫・荀惲じゅんうんが、太子たいしの座を争った曹植そうしょくと親しく、また曹丕そうひと親しい夏侯尚かこうしょうと折り合いが悪かったことから彼をひどく憎んだが、荀惲じゅんうんが若死にすると、その子・荀甝じゅんかん荀霬じゅんよくは、外甥がいせい(他家にとついだ姉妹が産んだ男子)に当たることから寵遇ちょうぐうされた。


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晏(晏嬰・晏明)

晏嬰あんえい晏平仲嬰あんぺいちゅうえい晏平仲あんぺいちゅう晏子あんし

生年不詳〜紀元前500年没。らい夷維いい(現:山東省さんとうしょう濰坊市いほうし高密市こうみつし)の人。晏平仲嬰あんぺいちゅうえい。姓はあん、名はえいあざな平仲へいちゅうせい宰相さいしょう

晏子(晏嬰)の主義

春秋しゅんじゅう時代、せい霊公れいこう荘公そうこう景公けいこうの3代に仕え、節約・倹約と力行りっこう(仕事などを努力して行うこと)をもってせいに重んぜられ、せい宰相さいしょうとなった後も、食事における肉は1品だけとし、しょうにはきぬころもを着せなかった。

朝廷にあって君(主君)から下問があれば危険をかえりみずに直言し、下問がない時には高潔な生活態度をつらぬいた。国に秩序があれば君命にしたがい、秩序がなければ君命の均衡きんこうをとった。

そのため、霊公れいこう荘公そうこう景公けいこうの3代にわたってせい諸侯しょこうの間で名声を博し、晏子あんし晏嬰あんえい)はせいの名宰相さいしょうとして(100余年前の)管仲かんちゅうと並び称された。

晏子(晏嬰)と越石父

越石父えつせきほは賢人であったが、罪人として捕らえられた。晏子あんし晏嬰あんえい)が外出した時、偶然道で彼と出会ったので、自分馬車の左馬をいて越石父えつせきほの罪をあがなうと、彼を馬車に乗せて帰宅した。

ところが、晏子あんし晏嬰あんえい)が何の挨拶もせずにけい(婦人の寝室)に入ったところ、しばらくして越石父えつせきほは絶交することを申し出てきた。これに晏子あんし晏嬰あんえい)は驚き、衣冠を整えて「わたしは不仁といえども、あなた災厄さいやくから救ったのに、どうしてあなたはこんなに性急に絶交を求めるのですか?」とびた。

すると越石父えつせきほは「いいや、そうではない。『君子は自分を理解しない者には屈するが、自分を理解するものには伸びやかになる』と聞きます。わたしを罪に落とした者は、わたしを理解しない者でした。ですが、夫子あなた夫子ふうし大夫たいふ 以上の人にもちいた敬称)がわたしの罪をあがなわれたのは、何か感じるところがあったからであり、知己ちきわたしを理解する者)と言えるでしょう。知己ちきであるにもかかわらず礼がないのなら、むしろあのまま罪人として捕らえられていた方がましでした」と言った。

この言葉を聞いた晏子あんし晏嬰あんえい)は、越石父えつせきほを上客としてまねき入れた。

晏子(晏嬰)の御者

晏子あんし晏嬰あんえい)がせい宰相さいしょうであった頃のこと。ある時、外出の際に御者ぎょしゃの妻が門の隙間すきまからうかがったところ、夫は宰相さいしょう晏子あんし晏嬰あんえい)]の御者ぎょしゃとして大蓋おおがいかかえ、4頭の馬にむち打って、意気揚々として、いかにも得意げであった。

その後、夫が帰宅すると妻は離縁を申し出た。夫がその訳をうと妻は、

晏子あんし晏嬰あんえい)は身のたけ6尺(約138.6cm)に足りないというのに、その身はせい宰相さいしょうとして諸侯しょこうに名をせておられ、しかも今日、外出の様子を拝見していましたら、思慮深げで常に謙遜けんそんしているように見受けられました。それなのにあなたは、身のたけ8尺(約184.8cm)もありながら人の御者ぎょしゃとなり、いかにも満足そうにしておられます。これが離縁を求める理由です」

と言った。

それ以来、御者ぎょしゃは自分をおさえて謙虚けんきょになったので、不思議に思った晏子あんし晏嬰あんえい)がうと、御者ぎょしゃは有りのままを答えた。晏子あんし晏嬰あんえい)はこれに感じ入り、彼を推薦すいせんして大夫たいふとした。

評論

太史公たいしこうは言う。

晏子あんし晏嬰あんえい)があらわした晏子春秋あんししゅんじゅうを読んだが、その論ずるところはまことに詳密である。

晏子あんし晏嬰あんえい)は、逆臣に殺害されたせい荘公そうこうむくろ哭泣こくきゅうして一応の礼を済ますと、そのまま立ち去ってぞくを討とうとしなかった。これは所謂いわゆる「義を見てせざる勇なき者」であったのだろうか?

晏子あんし晏嬰あんえい)が君(主君)をいさめる時、少しも君(主君)の顔色をうかがわなかったのは、所謂いわゆる「進んでは忠を尽くさんことを思い、退いてはあやまちをおぎなわんことを思う」ものと言うべきものであるっ!

仮に晏子あんし晏嬰あんえい)が今日こんにちに生きているとしたら、わたしは彼のためにむちり、御者ぎょしゃとなって仕えようとするだろう。


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晏明あんめい

三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物。第41回に登場する。

曹洪そうこう配下の副将。三尖両刃刀さんせんりょうじんとうの使い手。「長坂ちょうはんの戦い」で、糜夫人びふじんが身を投げた井戸を隠し、阿斗あとふところかかえたばかりの趙雲ちょううんを包囲して斬りかかるが、2合と打ち合わぬうちに突き落とされて命を失った。


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【三国志人物伝】総索引