古代中国において軍の主力として活躍した戦車、戎車・軽車(輕車)・馳車についてまとめています。
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目次
戎車(じゅうしゃ)
戎車とは
戎車とは、天子(皇帝)が戦いの時に乗る車(2輪の馬車)のことで、立戎車・立車とも言われるように、立って乗ります。
戎車の装備
輿(天子が乗る部分)の両側の衝立には、
- 矛(矛)
- 麾(指揮をするための旗)
- 金鉦(止まる時に鳴らす鐘)
- 太鼓(進む時に鳴らす)
- 羽析(ヤクの毛を使った装飾のための旗)
が装備され、幢影(羽毛の装飾をした傘)を立てて、甲冑と矢を収めます。
戎車は6頭の馬が牽引し、他の天子の車と同様の装飾が施されていました。
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軽車(けいしゃ)・馳車(ちしゃ)
軽車(輕車)・馳車とは
軽車(輕車)とは、古代中国の戦争で主力として用いられた戦車(2輪の馬車)のことで、馳車とも言います。
軽車(輕車)・馳車の装備
軽車には、他の車(馬車)のように垂れ幕や車蓋はなく、輿(人が乗る部分)と車輪は紅色に塗られています。
軽車には、
- 矛(矛)
- 戟
- 幢・麾(共に指揮をするための旗)
- 弩の箙(矢筒)
が装備され、軽車を牽引する4頭の馬には馬甲が着用されました。
軽車(輕車)・馳車の乗員
軽車には1名の御者と2名の兵士が乗って戦います。
軽車の乗員は、
- 御者は簪裊
- 右側に乗る者は不更
- 左側に乗る者は大夫
と、爵位によって乗る場所が決められていました。
『詩経』の鄭玄注には、
「中央に御者が乗り、左側の兵士が弓を使い、右側の兵士が戈や矛を使う」
とありますが、実際には敵と離れていれば2名とも弓を使い、敵に近づけば2名とも戈や矛を使って戦っていたようです。
軽車(馳車)
画像出典元:篠田耕一『武器と防具 中国編』新紀元社
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『六韜』犬韜・均兵篇にある戦力分析によると、
「平坦な地形の場合、1台の戦車は歩兵80名に匹敵し、騎馬1騎は歩兵8名に匹敵し、騎馬10騎で戦車1台に対抗することができる。
険阻な地形の場合、1台の戦車は歩兵40名に匹敵し、騎馬1騎は歩兵4名に匹敵し、騎馬6騎で戦車1台に対抗することができる」
とあります。
軽車(輕車)・馳車の編成
1台の軽車を中心とした部隊単位を「乗」と言います。
部隊単位としての1乗は、
- 軽車に乗る御者1名と兵士2名。
- 軽車の左右に従う兵士72名(片側36名)
- 補給物資運搬用の革車1台と補給要因25名
の合計100名で構成されていました。
古代中国において軍の主力として活躍した軽車(馳車)ですが、前漢初期頃にははるかに機動力に優れた匈奴の騎兵に対抗することができなくなってしまいす。
以降、軍の主力の座は騎兵へと移り変わり、後漢期には祭祀の鹵簿(行列)において用いられるだけとなりました。
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後漢期の軽車・馳車
祭祀における軽車(輕車)・馳車
後漢期において、軽車は武庫に保管されていましたが、戦争で使われることはありませんでした。
大駕*1や法駕*2が出駕すると、軽車(馳車)には射声校尉とその配下の司馬と吏士が乗車し、属車として鹵簿(行列)に加わります。
脚注
*1 三駕(さんが)の1つで、主に大喪(たいそう)の時に使用される行列形式のこと。
*2 三駕(さんが)の1つで、主に郊外に天を祀(まつ)る時に使用される行列形式のこと。
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射声校尉について
参考文献・画像出典元
- 『続漢書』輿服志
- 篠田耕一『武器と防具 中国編』新紀元社
鄭玄の読み方は、「じょうげん」です。「ていげん」ではありません。