曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)の平定を終えた頃、献帝(けんてい)は朝廷で勝手気ままに振る舞う李傕(りかく)・郭汜(かくし)らに頭を悩ませていましたが…。
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李傕と郭汜に追われた献帝が、黄河を渡り安邑県を都に定める
長安(ちょうあん)を出て司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に至った献帝(けんてい)が、李傕(りかく)らの追撃を受けながら、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に到着し、都・・・
献帝の東遷。献帝が長安を出て司隷・弘農郡・華陰県に至る
興平(こうへい)2年(195年)7月、李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させた献帝(けんてい)が、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を目指して司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に至・・・
李傕と郭汜の争い。李傕が献帝を、郭汜が公卿を人質に取る
初平(しょへい)3年(192年)6月、長安(ちょうあん)を落として朝廷の実権を握った李傕(りかく)と郭汜(かくし)ですが、それぞれ自(みずか)らの功績を誇(ほこ)って権力を争い、興平(こうへい)2年(195年)に入ると、・・・