正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑰僖公きこう釐公きこう)〔〕です。

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凡例

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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き⑰

僖公(釐公)〔魯〕

僖公きこう釐公きこう)〔

生年不詳〜僖公きこうの33年(紀元前627年)没。姓。名はしん。父は荘公そうこう。母は成風せいふう閔公びんこうの庶兄(異母兄)。子に文公ぶんこう夫人ふじん姜氏きょうし声姜せいきょう

春秋しゅんじゅう時代の諸侯国しょこうこく国の第18代国君。史記しきでは釐公きこうしるされる。

僖公きこう荘公そうこうの庶子であり、閔公びんこうあとを継いでの国君となった。在位は33年に及ぶ。在位中には、季友きゆう季成子きせいし)・臧文仲ぞうぶんちゅう公孫茲こうそんじ孟穆伯もうぼくはく公子こうしばい東門襄仲とうもんじょうちゅうらが政治をになった。

魯荘公死後の混乱

荘公そうこうには、慶父けいほ孟孫氏もうそんしの祖)・叔牙しゅくが叔孫氏しゅくそんしの祖)・季友きゆう季孫氏きそんしの祖)の3人の弟がいたが、荘公そうこう夫人ふじん哀姜あいきょうは次第に驕慢きょうまんで淫乱となり、慶父けいほ叔牙しゅくがと私通していた。荘公そうこう夫人ふじん哀姜あいきょうは、せい桓公かんこうの妹である。


荘公そうこうの32年(紀元前662年)8月、荘公そうこうが亡くなると、季友きゆう季成子きせいし)は公子こうしはん公子こうしはん)を擁立ようりつして即位させた。

ところが、慶父けいほ哀姜あいきょうはかって、母の実家の党氏とうしに服していたはんはん)を殺害させたため、季友きゆう季成子きせいし)はちんに逃亡し、哀姜あいきょうの妹・叔姜しゅくきょうの子が立てられた。これが閔公びんこう湣公びんこう)である。

国君に立つ

閔公びんこうの元年(紀元前661年)秋8月、閔公びんこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)と(せいの)落姑らくこで会盟し、「(ちんに亡命している)季友きゆうに戻すこと」を願い出て許された。、季友きゆう季成子きせいし)をに呼び戻した。


閔公びんこうの2年(紀元前660年)8月、慶父けいほ哀姜あいきょうの密通はいよいよ激しくなり、2人は(大夫たいふの)卜齮ぼくき閔公びんこうを殺害させ、慶父けいほみずから国君になろうとしたので、季友きゆう季成子きせいし)は公子こうししんのち僖公きこう釐公きこう)]を連れてちゅう国へのがれた。

ところが、ひと慶父けいほを国君として認めず彼をとうとしたため、慶父けいほは恐れてきょへ逃亡し、哀姜あいきょうちゅうのがれた。

その後、季友きゆう季成子きせいし)は国内に迎え入れられ、僖公きこう釐公きこう)が国君に立てられた。

季友きゆう季成子きせいし)は財貨をもってきょ慶父けいほを引き渡すように求め、きょ慶父けいほに帰した。その一行がみつまで来た時、(慶父けいほは)公子こうしぎょ命乞いのちごいをさせたが、季友きゆう季成子きせいし)は許さなかったので、公子こうしぎょは泣き声を上げながら慶父けいほの元に戻った。

遠くからその泣き声を聞いた慶父けいほは「あれは奚斯けいし公子こうしぎょ)の声だ…」と言って首をくくって死んだ。


僖公きこうの元年(紀元前659年)秋7月戊辰ぼしんの日、せい桓公かんこう哀姜あいきょうし出しての地で殺害し、その遺体をへ送り返した。僖公いこうせいに願い出て、ようやく彼女をほうむることができた。

8月、僖公きこう釐公きこう)は斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう桓公かんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・曹伯そうはくそう昭公しょうこう)・ちゅうひとていで会盟した。

9月、僖公きこう釐公きこう)はえんにおいてちゅうの軍を破ったが、これは虚丘きょきゅうの守備兵が帰還しようとしていたところを攻撃したのである。

12月丁巳ていしの日、哀姜あいきょうひつぎせいからへ到着した。

魯の僖公の2年(紀元前658年)

僖公きこうの2年(紀元前658年)夏5月辛巳しんしの日、僖公いこうせいに願い出て、ようやくの(荘公そうこうの)夫人ふじん哀姜あいきょうほうむった。

魯の僖公の4年(紀元前656年)

僖公きこうの4年(紀元前656年)春王正月、僖公きこう釐公きこう)は斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう桓公かんこう)・陳侯ちんこうちん宣公せんこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだんきょ新臣しんしん)・曹伯そうはくそう昭公しょうこう)と会合し、さいに侵攻した。

さいは大いに敗れ、そのままを討伐した。軍はけいに駐屯した。

8月、僖公きこう討伐から帰国した。

魯の僖公の5年(紀元前655年)

僖公きこうの5年(紀元前655年)春王正月辛亥しんがいついたちの日は、日南至(冬至)であった。

僖公きこう朔日ついたちの儀式を見届けると、観台に登って天象を観測し、その内容を記録したが、これは礼にかなった行いであった。

そもそも、春分・冬至・立春・立冬のような節目には、必ず雲や気象の様子を記録することになっていた。これは将来へのそなえのためである。


夏、僖公きこう釐公きこう)は斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう桓公かんこう)・陳侯ちんこうちん宣公せんこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだん曹伯そうはくそう昭公しょうこう)と共に周王しゅうおうしゅう恵王けいおう)の世子せいしてい首止しゅしで会合し、しゅう王室を安定させるための相談をした。

秋8月、諸侯しょこう首止しゅしで盟約を結んだが、鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)は逃げ帰って盟約に参加しなかった。

魯の僖公の6年(紀元前654年)

僖公きこうの6年(紀元前654年)夏、僖公きこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう桓公かんこう)・陳侯ちんこうちん宣公せんこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・曹伯そうはくそう昭公しょうこう)と会合し、ていを討伐して新城しんじょうを包囲した。

諸侯しょこうていを討伐したのは「てい首止しゅしの盟約から逃げ出した」ためであり、新密しんじょうを包囲したのは「ていが時機をのがさず城壁を築こうとしていた場所だった」からである。

秋、軍がきょを包囲したので、諸侯はそのままきょを救援した。

冬、僖公いこうてい討伐からへ帰国した。

魯の僖公の7年(紀元前653年)

僖公きこうの7年(紀元前653年)秋7月、僖公きこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう桓公かんこう)・ちん世子せいしかんてい世子せいし甯母ねいぼ寧母ねいぼ)で会盟したが、これはていへの対処を協議するためであった。

魯の僖公の8年(紀元前652年)

僖公きこうの8年(紀元前652年)春王正月、僖公きこう周王しゅうおうしゅう恵王けいおう)の使者・斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう桓公かんこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・許男きょだん曹伯そうはくそう共公きょうこう)・ちん世子せいしかんとうで会盟したが、これはしゅう王室について協議するためであった。

また、鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)が盟約への参加を願い出たが、これはせいに服従をうためである。

魯の僖公の9年(紀元前651年)

僖公きこうの9年(紀元前651年)夏、僖公きこうしゅう宰相さいしょう周公しゅうこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋子そうしそう襄公じょうこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだん曹伯そうはくそう共公きょうこう)と葵丘ききゅうで会盟した。

これは以前の盟約を再確認し、さらに友好関係を修復・強化するためのものであり、礼にかなった行為であった。

そう襄公じょうこうのことを宋子そうししるしているのは、この年の春王3月丁丑ていちゅうの日に宋公そうこうそう桓公かんこう)が亡くなって、まだ葬儀が終わっていなかったからである。

9月戊辰ぼしんの日、諸侯しょこう葵丘ききゅうで盟約を結んだ。

魯の僖公の10年(紀元前650年)

僖公きこうの10年(紀元前650年)春王正月、僖公きこうせいおもむいた。

魯の僖公の11年(紀元前649年)

僖公きこうの11年(紀元前649年)夏、僖公きこう夫人ふじん姜氏きょうしは、陽穀ようこく斉侯せいこうせい桓公かんこう)と会見した。

揚拒ようきょ泉皋せんこう伊水いすい洛水らくすい流域のじゅう(異民族)たちが連合し、しゅう王朝の京師けいし洛邑らくゆう)を攻撃し、王城に侵入して東門を焼き払った。これは王子おうじたいが彼らをまねき入れたためであった。

そこでしんしんは、じゅう(異民族)を討伐してしゅうを救援した。

秋8月、僖公きこう大雩だいう(大規模な雨乞あまごいの祭祀さいし)を行った。

秋、晋侯しんこうしん恵公けいこう)は周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)のためにじゅう(異民族)を平定した。

魯の僖公の12年(紀元前648年)

僖公きこうの12年(紀元前648年)春、諸侯しょこうたちはえい楚丘そきゅう(外郭城壁)を築いた。てき(北方異民族)の侵攻を恐れたためである。

夏、周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)は、じゅう(異民族)による騒乱を理由として、王子おうじたいを討伐した。

秋、王子おうじたいせいへ逃亡した。

魯の僖公の13年(紀元前647年)

僖公きこうの13年(紀元前647年)夏、僖公きこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう襄公じょうこう)・陳侯ちんこうちん穆公ぼくこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだん曹伯そうはくそう共公きょうこう)とかんかん)で会盟した。

これは、淮夷わいい淮水わいすい流域に居住する異民族)が国を苦しめていたためであり、またしゅう王室のことを協議するためでもあった。

秋9月、僖公きこう大雩だいう(大規模な雨乞あまごいの祭祀さいし)を行った。

秋、じゅう(異民族)の侵攻にそなえるため、諸侯しょこうは兵を出してしゅうを守備した。

魯の僖公の14年(紀元前646年)

僖公きこうの14年(紀元前646年)春、諸侯しょこうたちは縁陵えんりょうに城壁を築いたが、これは国をそこへ移住させるためであった。

そう国へとついでいた季姫ききが、両親の安否をたずねに里帰りしてきたが、僖公きこうは怒って帰国を許さなかった。鄫子そうしそうの国君)が長らくへ朝見していなかったからである。

そこで夏、季姫ききを通じてぼうの地で鄫子そうしそうの国君)と会見し、その上で鄫子そうしそうの国君)にへ来朝させた。

魯の僖公の15年(紀元前645年)

僖公きこうの15年(紀元前645年)春王正月、僖公きこうせいおもむいた。

じょを攻撃した。

3月、僖公きこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう襄公じょうこう)・陳侯ちんこうちん穆公ぼくこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだん曹伯そうはくそう共公きょうこう)と牡丘ぼうきゅうで盟約を結んだが、これは以前の葵丘ききゅうの盟約を再確認し、じょを救援するためでもあった。

じょはもともと諸夏しょか(中国文明圏)の国であったため、諸侯しょこうはこれを放置できなかったのである。

そこで諸侯しょこうきょうに軍を駐屯させ、(の)公孫敖こうそんごう孟穆伯もうぼくはく)が軍をひきいて諸侯しょこう大夫たいふたちと共にじょを救援した。

秋7月、せい軍とそう軍がじょを救援するためれいを攻撃した。

9月、僖公きこうは会盟から帰国し、季姫ききそう国へ帰った。

冬、婁林ろうりんじょ軍を破ったが、これはじょが救援をあてにして油断したためである。

魯の僖公の16年(紀元前644年)

僖公きこうの16年(紀元前644年)3月、壬申じんしんの日、(季孫氏きそんしの)公子こうし季友きゆうが亡くなった。

夏4月丙申へいしんの日、そう国へとついでいた季姫ききが亡くなった。

秋7月甲子こうしの日、(叔孫氏しゅくそんしの)公孫茲こうそんじが亡くなった。

周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)はじゅう(異民族)の脅威をせいに告げた。そこでせい諸侯しょこうを召集し、しゅうのために守備兵を置かせた。

冬12月、僖公きこう斉侯せいこうせい桓公かんこう)・宋公そうこうそう襄公じょうこう)・陳侯ちんこうちん穆公ぼくこう)・衛侯えいこうえい文公ぶんこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだん邢侯けいこう曹伯そうはくそう共公きょうこう)とわいで会盟したが、これはそう国をはかろうとしたためであり、また東方への勢力拡大をはかるためでもあった。

諸侯しょこうそう国に城を築こうとしたが、工事に従事する者たちがやまいに苦しんでいた。ある夜、丘へ登って「斉で内乱が起こったぞ!」と叫ぶ者がいたため、諸侯しょこうは城を完成させないまま引き返した。

魯の僖公の17年(紀元前643年)

僖公きこうの17年(紀元前643年)夏、こう国を滅ぼした。

わいでの諸侯しょこう会盟の後、僖公きこう諸侯しょこうとしてのつとめのため、まだ帰国していなかったが、その間にこう国を攻め取ったのである。

せいひとはこれを「勝手な討伐である」と見なし、僖公いこうを引き留めた。

秋、(せいからとついできた僖公きこうの)夫人ふじん姜氏きょうし声姜せいきょう)が僖公きこうのために、べん斉侯せいこうせい桓公かんこう)と会見した。

9月、僖公きこうは帰国した。


これより以前、せい桓公かんこう管仲かんちゅうと共に「鄭姫ていきが生んだ孝公こうこう」をそう襄公じょうこうたくして太子たいしとするつもりでいた。

ところが、衛姫えいきえい共姫きょうき)が寵愛ちょうあいする料理人の雍巫ようふ易牙えきが)が、寺人じじん宦官かんがん)のちょうを通じて桓公かんこうに取り入ったため、桓公かんこうは「衛姫えいきえい共姫きょうき)が生んだ武孟ぶもう」を後継者に立てることを許した。

そして管仲かんちゅうが亡くなると、5人の公子こうしがみな国君の位を求めて争うようになり、冬10月乙亥いがいの日、ついにせい桓公かんこうが亡くなった。

すると易牙えきがは宮中へ入り、寺人じじん宦官かんがん)のちょうと共に、後宮の寵臣ちょうしんたちの力を利用して多くの役人を殺し、公子こうし無虧むき無詭むき武孟ぶもう)を擁立ようりつしたので、孝公こうこうそうへ逃亡した。

魯の僖公の18年(紀元前642年)

僖公きこうの18年(紀元前642年)春王正月、(孝公こうこう斉侯せいこうに立てるため、)宋公そうこうそう襄公じょうこう)・曹伯そうはくそう共公きょうこう)・えいひとちゅうひとせいを討伐した。

3月、せいひと無虧むき無詭むき武孟ぶもう)を殺害した。

夏、の軍がせいを救援した。

5月戊寅ぼいんの日、そう軍とせい軍がせいげんにおいて戦い、せい軍は大敗した。すでに無虧むき無詭むき武孟ぶもう)が殺害されていたため、そうえいちゅうは先に撤兵し、もまた戦意を失って帰国した。ゆえにそう軍だけがせい軍と戦ったのである。

そう軍は孝公こうこう擁立ようりつして帰国した。

秋8月、せい桓公かんこうほうむった。

魯の僖公の20年(紀元前640年)

僖公きこうの20年(紀元前640年)春、で新たに南門を建造した。

春秋しゅんじゅうがこれを書きしるしたのは、工事の時期が適切ではなかったからである。そもそも門を建造するような土木工事は、農事をさまたげない時期に行うべきものである。

魯の僖公の21年(紀元前639年)

僖公きこうの21年(紀元前639年)夏、大旱魃だいかんばつが起こった。

僖公きこうは、雨乞あまごいのために巫女みこおう(すね・背・胸部が弯曲する病気の者)を焼き殺そうとした。

すると臧文仲ぞうぶんちゅうは。

「それは旱魃かんばつへのそなえではありません!城郭を修理し、食事を減らして出費を節約し、農事につとめさせ、たくわえを分け与えること。これこそ今なすべきことです。巫女みこおう(すね・背・胸部が弯曲する病気の者)を焼き殺すことが、何の役に立つのでしょうか。天がもし彼らを殺そうとしているなら、そもそも生まれさせたりはしないでしょう。もし仮に彼らに旱魃かんばつを起こす力があるというなら、焼けばなおさら旱魃かんばつはひどくなります」

と言っていさめ、僖公きこうはその言葉に従った。

この年は飢饉ききんになったが、大きな被害には至らなかった。


秋、宋公そうこうそう襄公じょうこう)・楚子そし成王せいおう)・陳侯ちんこうちん穆公ぼくこう)・蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・許男きょだん曹伯そうはくそう共公きょうこう)がで会合した。そこで宋公そうこうらえられ、そのままそうつための軍が起こされた。

冬、僖公きこうちゅうった。

宜申ぎしん鬬宜申とうぎしん)を使者として送り、戦勝報告を献上した。

12月癸丑きちゅうの日、僖公きこう諸侯しょこうと共にはくで盟約を結び、そこで宋公そうこうは釈放された。

升陘の戦い

僖公きこうの22年(紀元前638年)春、ちゅうを討伐し、須句すくを奪取してその国君を復位させたが、これは礼にかなった行為であった。

夏、僖公きこうちゅうを軽んじ、備えを整えないまま迎え撃った。

これに臧文仲ぞうぶんちゅうは、


「どんなに小国であっても、決してこれをあなどったり軽んじたりしてはなりません。そなえがなければ、たとえ兵が多くても頼りにはなりません。

詩経しきょうに『恐れつつしみ、深淵にのぞむように、薄氷を踏むように(戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰)』とあり、また『うやまいなさい、うやまいなさい。天命は明らかであり、容易よういではない(敬之敬之,天惟顯思,命不易哉!)』ともあります。

先王たちは明徳をそなえていてもなお、難事を恐れ、つつしみを失いませんでした。まして我らのような小国が、どうして油断できましょうか。

どうか、ちゅうが小国だからといってあなどられませぬように。はちさそりでさえ毒を持っています。まして国家ならなおさらです」


と言っていさめたが、僖公きこうは聞き入れなかった。

8月丁未ていびの日、僖公きこうちゅう軍と(の)升陘しょうけいで戦い、軍は大敗した。ちゅうひと僖公きこうかぶとを奪い、それを魚門(ちゅうの都の城門の名)にるした。

魯の僖公の25年(紀元前635年)

僖公きこうの25年(紀元前635年)冬、えいひときょの和解を取り持った。

12月癸亥きがいの日、僖公きこう衛子えいしえい成公せいこう)およびきょけいとうで盟約を結んだ。これは、(先代の)えい文公ぶんこう以来の友好関係を修復すると共に、きょとも和解するためであった。

魯の僖公の26年(紀元前634年)

僖公きこうの26年(紀元前634年)春王正月己未きびの日、僖公きこう莒子きょし茲平公じへいこう)・えい甯速ねいそく甯莊子ねいそうし)ときょうの地で会盟した。これは以前のとうの盟約を再確認するためであった。

せい軍がの西の国境地帯へ侵攻してきた。この時、僖公きこうせい軍を追撃して(せいの)けいまで至ったが、追いつくことはできなかった。

せい軍がの西の国境地帯へ侵攻してきたのは、せいが(とうきょうの)2つの盟約をとうとしたためである。


夏、せい孝公こうこうの北の国境地帯に向けて出兵した。この時、えいひとせいに出兵したが、それはとうの盟約があったためである。

すると僖公きこうは、展喜てんきを派遣してせい軍をねぎらわせようと、展禽てんきんに命じて(展喜てんきに)外交上の口上をさずけさせた。

そこで展喜てんきは、斉侯せいこうせい孝公こうこう)がまだの領内へ入る前に、斉侯せいこうせい孝公こうこう)と接触して言った。


展喜てんき寡君きこう(我が君:僖公きこう)は、君(せい孝公こうこうみずから玉のようにとうといお足を運ばれ、敝邑へいゆう(我が国:)へお越しになるとうかがいました。そこで執事しつじの方々を慰労いろうさせるため、下臣わたくしつかわしたのでございます」

斉侯せいこうひとは恐れているか?」

展喜てんき「小人たちは恐れておりますが、君子はそうではありません」

斉侯せいこう「国の倉は縣罄けんけい(屋根と柱だけがあって中がからっぽの意)で、野には青草もないというのに、何をたのみに恐れぬというのか?」

展喜てんき「先王の命をたのみにしております。
昔、周公しゅうこう太公たいこうしゅう王室の股肱ここう(手足)として、成王せいおうを左右から補佐いたしました。成王せいおうはその功をねぎらい盟約をたまわって『子孫代々に至るまで、互いに害し合ってはならぬ』とおっしゃられました。この盟約は盟府に記録され、大師たいし太師たいし)がこれをつかさどっております。
せいの)桓公かんこうはこの盟約にもとづいて諸侯しょこうをまとめて不和を調停し、その欠けたところをおぎない、災難を救われましたが、これは過去の職責を明らかにしたものです。
そして君(せい孝公こうこう)が即位されると、諸侯しょこうはみな、『(孝公こうこうは)きっと桓公かんこうの功績を受け継がれるであろう』と期待し、敝邑へいゆう(我が国:)のような小国ですら、しゅう(民)を守り固めようとはいたしませんでした。
なぜなら『まさか先祖以来の盟約を継承してまだ9年にしかっていないのに、[斉侯せいこうせい孝公こうこう)が]王命を捨てて職責を廃し、先君に顔向けできないようなことをなさるはずがない』と思っているからです」


斉侯せいこうせい孝公こうこう)はこれを聞くと、軍を返して帰還した。


の)東門襄仲とうもんじょうちゅう公子こうしすい)と臧文仲ぞうぶんちゅうおもむいて援軍を求め、臧孫ぞうそん臧文仲ぞうぶんちゅう)は(の)子玉しぎょく成得臣せいとくしん)に会って「せいそうつべきだ」といたが、これは彼らがに臣従していないからである。


国の国君・)夔子きしは(王家の祖先である)祝融しゅくゆう鬻熊いくゆうを祭っていなかった。

ひとが「と同じ祖先を持つのに、祖先祭祀さいしをしていないこと」を責めると、夔子きしは、

「我が先王・熊摯ゆうしやまいを得て鬼神にもゆるされず、みずかのがれました。(この時をもって)われわれから分かれたのです。どうしての祖先を祭る必要があるのでしょうか?」

秋、成得臣せいとくしん子玉しぎょく)と鬬宜申とうぎしんが軍をひきいてを滅ぼし、夔子きしらえて帰った。


そう晋侯しんこうしん文公ぶんこう)と親しかったため、そむいてしんに従った。

冬、令尹れいいん子玉しぎょく成得臣せいとくしん)と司馬しば子西しせい鬬宜申とうぎしん)が軍をひきいてそうを攻撃してびんを包囲した。

僖公きこう軍をひきいてせいを攻め、こくを奪った。他国の軍を自分の左右(配下)のように自由に動かすことを「(もちいる)」と言う。

僖公きこうせいの)桓公かんこうの子・ようこくれ、易牙えきががこれを奉じた。これはへの援助勢力とするためであり、申公しんこう叔侯しゅくこうがそこを守備した。

せい桓公かんこうには7人の子がおり、において七大夫しちたいふとなっていた。

魯の僖公の27年(紀元前633年)

僖公きこうの27年(紀元前633年)春、桓公かんこうへ朝見に来たが、彼は(中原諸侯の正式な礼法ではなく)夷狄いてきの礼をもちいた。このようにが礼を尽くさず、恭順きょうじゅんではなかったため、僖公きこうかろんじていた。


夏6月庚寅こういんの日、せい孝公こうこうが亡くなった。せいに対して遺恨いこんいだいていたが、それでも葬礼そうれい服喪ふくもの礼を省略しなかった。これは礼にかなった行いである。


秋8月乙未いつびの日、せい孝公こうこうほうむった。

乙巳いっしの日、公子こうしすい東門襄仲とうもんじょうちゅう)が軍をひきいてへ侵攻したが、これはの無礼を責めるためであった。


冬、楚子そし成王せいおう)と諸侯はそうを包囲した。

12月甲戌こうじゅつの日、僖公きこう諸侯しょこうと共にそうで盟約を結んだ。

魯の僖公の28年(紀元前632年)

僖公きこうの28年(紀元前632年)春、晋侯しんこうしん文公ぶんこう)はそうへ侵攻し、さらに(しん軍が国内を通過することを拒否した)えいを攻撃した。正月戊申ぼしんの日、しん軍は五鹿ごろくを攻略した。

その後、晋侯しんこうしん文公ぶんこう)と斉侯せいこうせい昭公しょうこう)は斂盂れんうで盟約した。衛侯えいこうえい成公せいこう)も盟約への参加を願ったが、しんひとは許さなかった。

そこで衛侯えいこうえい成公せいこう)はと結ぼうとしたが、(えいの)国人たちはそれを望まず、衛侯えいこうえい成公せいこう)を国外へ追放することでしんへの謝罪の意を示した。


この時、公子こうしばいえいの守備に当たっており、ひとえいを救援に来たが、防衛することができなかった。

僖公きこうしんを恐れ、公子こうしばいを殺してしんに弁明し、ひとに対しては「守備を最後まで果たさなかったから処刑したのだ」と言った。


夏4月己巳きしの日、晋侯しんこうしん文公ぶんこう)・せい軍・そう軍・しん軍がひと城濮じょうぼくで戦い、軍は大敗した。

5月癸丑きちゅうの日、僖公きこう晋侯しんこうしん文公ぶんこう)・斉侯せいこうせい昭公しょうこう)・宋公そうこうそう成公せいこう)・蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・衛子えいしえい成公せいこう)・莒子きょし踐土せんどで盟約した。陳侯ちんこうちん穆公ぼくこう)も会盟へやって来た。

蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・衛子えいしえい成公せいこう)・陳侯ちんこうちん穆公ぼくこう)は、城濮じょうぼくの戦いでが敗北したためしんについた者たちである。

僖公きこう周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)のもとへ朝見した。


秋、杞伯姫きはくき国へとついでいた国の姫)がへ来た。

の)公子こうしすい東門襄仲とうもんじょうちゅう)がせいおもむいた。

冬、僖公きこう晋侯しんこうしん文公ぶんこう)・斉侯せいこうせい昭公しょうこう)・宋公そうこうそう成公せいこう)・蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)・鄭伯ていはくてい文公ぶんこう)・陳子ちんしちん共公きょうこう)・莒子きょしちゅうひとしんひとおんで会合したが、これは従わない者をつためであった。

壬申じんしんの日、僖公きこう周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)のもとへ朝見した。

丁丑ていちゅうの日、諸侯しょこうきょを包囲した。

魯の僖公の29年(紀元前631年)

僖公きこうの29年(紀元前631年)春、かい国の(国君である)葛盧かつろへ(朝見に)やって来て、昌衍しょうえんかたわらに宿泊したが、僖公きこう諸侯しょこうの会盟に出席していたため、(臣下を通じて)葛盧かつろ芻米すうべい(家畜の飼料や米)をおくってもてなした。これは礼にかなった対応であった。

その後、僖公きこうきょを包囲した戦役から帰国した。

夏、僖公きこうは(しゅうの)王子おうししん孤偃こえんそう公孫固こうそんこせい国帰父こくきほちん轅濤塗えんとうとしん小子憖しょうしぎんと共に、翟泉てきせんで盟約を結んだ。

これは、以前の踐土せんどの盟約を再確認するためであり、あわせてていを討伐することを相談するためでもあった。

冬、かい国の葛盧かつろが再びやって来たが、これは前回、僖公きこうに会うことができなかったため、改めて朝見に来たのである。は彼を礼をもって待遇し、さらにうたげを開いて厚く親交を示した。

この時、葛盧かつろは牛の鳴き声を聞いて、

「この牛は『3頭の犠牲獣の子を産んだが、その3頭はすでに祭祀さいしに使われてしまった』と鳴いている」

と言った。そこで実際に調べてみると、まさにその通りであった。

魯の僖公の30年(紀元前630年)

僖公きこうの30年(紀元前630年)、晋侯しんこうしん文公ぶんこう)は医衍いえんに命じて衛侯えいこうえい成公せいこう)を毒殺させようとしたが、(えい大夫たいふ・)甯俞ねいゆ医衍いえん賄賂わいろおくって毒の量を薄くさせたため、衛侯えいこうえい成公せいこう)は死ななかった。

僖公きこう衛侯えいこうえい成公せいこう)のために弁護を行い、周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)と晋侯しんこうしん文公ぶんこう)の双方に、それぞれ10こく(車10両分)の玉を贈った。

周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)はこれを認め、秋になってようやく衛侯えいこうえい成公せいこう)は釈放された。

冬、周王しゅうおうしゅう襄王じょうおう)は周公閲しゅうこうえつを派遣して聘問へいもんさせた。では饗宴きょうえんを開いて昌歜しょうしょく(香草の漬物)・白塩・黒塩・形塩(虎の形に固めた塩)などを供したが、周公閲しゅうこうえつは辞退して言った。

「文徳が天下に明らかで、武威が人々におそれられるような国君に対しては、その徳を表すため、さまざまな供物をそなえた盛大な饗宴きょうえんが行われるものです。
さまざまな料理をそなえ、良質な穀物こくもつを並べ、虎の形をした塩を置くのは、その文徳と武功をたたえるためであり、わたしのような者が、そのような厚遇を受ける資格などございません」


その後、公子こうしすい東門襄仲とうもんじょうちゅう)が京師けいししゅうの王都・洛邑らくゆう)へ聘問へいもんおもむき、そのまましんへもおもむいた。これがしんとの間で行われた最初の正式な聘問へいもんであった。

魯の僖公の31年(紀元前629年)

僖公きこうの31年(紀元前629年)春、(は)済水せいすいの西にある田地を取得した。これは(しんから)そうの領地を分割して与えられたものである。

臧文仲ぞうぶんちゅうを派遣してこれを受け取りに行かせ、臧文仲ぞうぶんちゅう重館じゅうかんじゅうの宿舎)に宿泊した。すると重館じゅうかんの人が告げて言った。

しんは盟主として新たに諸侯しょこうを得たばかりです。諸侯しょこうは必ずやみずから貢納や奉仕を行おうとするでしょう。急いで行かなければ間に合わなくなってしまいます」

臧文仲ぞうぶんちゅうはその言葉に従い、こうしてそうの領地が分割された。その範囲はとうより南、東は済水せいすいに接するそうの領土のすべてであった。

その後、公子こうしすい東門襄仲とうもんじょうちゅう)がしんおもむいたが、これはそうの田地を与えられたことに対して謝意を表するためであった。

夏4月、(は)郊祭こうさいを行うために4度占ったが吉兆が得られなかった。そこで供犠いけにえの牛を解放し、三望さんぼうの祭りを行ったが、これらは礼にかなっていない。

礼では「恒例の祭祀さいしを行うかどうか」を占うことはなく、供犠いけにえささげる日だけを占うのである。牛について日を占うことを「せい」と言い、供犠いけにえの牛の準備が整ってから郊祭こうさいそのものを占うのは、上に立つ者の怠慢たいまんである。

また、ぼうの祭りは郊祭こうさい付随ふずいする小さな祭祀さいしである。郊祭こうさいを行わないのであれば、ぼうの祭りもまた行うべきではない。

魯の僖公の33年(紀元前627年)

僖公きこうの33年(紀元前627年)春、斉侯せいこうせい昭公しょうこう)が国帰父こくきほ国荘子こくそうし)を派遣して聘問へいもんさせた。

郊外で彼を出迎えてねぎらう儀礼(郊労)から、別れ際に贈り物を手渡す儀礼(贈賄)に至るまで、すべての礼儀が完璧にり行われただけでなく、彼の立ち振る舞いはさらに機敏で、聡明さに満ちていた。

臧文仲ぞうぶんちゅう僖公きこうに言った。

国子こくし国帰父こくきほ)が国政をっているため、せいにはまだしっかりと『礼』が生きております。我が君、どうか(せいおもむいて)朝見なさってください。わたくしは『礼がそなわっている大国に従うことこそが、社稷しゃしょく(国家)のまもりとなる』と聞いております」


てき(北方異民族)がせいに侵入した。これはしんに乗じたものである。

僖公きこうちゅうを攻め、訾婁しろうを奪取した。これは升陘しょうけいの戦いの報復であり、ちゅうひとそなえをしていなかった。

秋、公子こうしすい東門襄仲とうもんじょうちゅう)が軍をひきいて再びちゅうを攻めた。


冬,公如齊,朝,且弔有狄師也。反,薨于小寢,即安也。

冬10月、僖公きこうせいおもむき、せいに朝見すると共に、てき(北方異民族)に侵略されたことへのお見舞いをべた。

12月、僖公きこうせいから帰国すると、乙巳いっしの日に小寝しょうしん(奥御殿)で亡くなった*1。自分が落ち着ける安楽な場所へとおもむいたからである。


僖公きこう埋葬まいそうする時期が遅れ、神主しんしゅ*2を作る時期も礼にかなっていなかった。

およそ国君がこうした際の正しい手順としては、卒哭そつこくの儀礼を終えてから、祖先の霊廟れいびょう合祀ごうしする祔祭ふさいを行い、合祀ごうししてから神主しんしゅ*2を作る。

そして、その新しい神主しんしゅ*2に対して個別に祭祀さいしを行い、先祖代々の宗廟そうびょうにおいては、通常通りに冬の祭りである「じょう」や秋の祭りである「しょう」、そして大規模な大祭である「てい」をり行うのが本来の礼のあり方である。

脚注

*1礼記らいき喪大記そうたいきに「君主や夫人ふじん路寝ろしん(大寝)で亡くなるべきである」とある。

*2亡くなった人の霊が宿やどる木製の位牌

出典
  • 史記しき魯周公世家ろしゅうこうせいか
  • 史記しき斉太公世家せいたいこうせいか
  • 列女伝れつじょでん孽嬖げつへい魯荘哀姜ろそうあいきょう
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん荘公そうこう32年
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん閔公びんこう元年2年
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん僖公きこう元年2年4年5年6年7年8年9年10年11年12年13年14年15年16年17年18年20年21年22年25年26年27年28年29年30年31年33年
  • 春秋左伝註疏しゅんじゅうさでんちゅうそ』巻第11
  • 春秋左伝註疏しゅんじゅうさでんちゅうそ』巻第13

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