正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑰僖公(きこう)(釐公(きこう))〔魯(ろ)〕です。

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凡例

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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き⑰

僖公(釐公)〔魯〕

僖公(きこう)(釐公(きこう))〔魯(ろ)〕

生年不詳〜魯(ろ)の僖公(きこう)の33年(紀元前627年)没。姫(き)姓。名は申(しん)。父は魯(ろ)の荘公(そうこう)。母は成風(せいふう)。閔公(びんこう)の庶兄(異母兄)。子に魯(ろ)の文公(ぶんこう)。夫人(ふじん)は姜氏(きょうし)(声姜(せいきょう))

春秋(しゅんじゅう)時代の諸侯国(しょこうこく)・魯(ろ)国の第18代国君。『史記(しき)』では釐公(きこう)と記(しる)される。

僖公(きこう)は魯(ろ)の荘公(そうこう)の庶子であり、魯(ろ)の閔公(びんこう)の跡(あと)を継いで魯(ろ)の国君となった。在位は33年に及ぶ。在位中には、季友(きゆう)(季成子(きせいし))・臧文仲(ぞうぶんちゅう)・公孫茲(こうそんじ)・孟穆伯(もうぼくはく)・公子(こうし)買(ばい)・東門襄仲(とうもんじょうちゅう)らが政治を担(にな)った。

魯荘公死後の混乱

魯(ろ)の荘公(そうこう)には、慶父(けいほ)(孟孫氏(もうそんし)の祖)・叔牙(しゅくが)(叔孫氏(しゅくそんし)の祖)・季友(きゆう)(季孫氏(きそんし)の祖)の3人の弟がいたが、荘公(そうこう)の夫人(ふじん)・哀姜(あいきょう)は次第に驕慢(きょうまん)で淫乱となり、慶父(けいほ)・叔牙(しゅくが)と私通していた。荘公(そうこう)の夫人(ふじん)・哀姜(あいきょう)は、斉(せい)の桓公(かんこう)の妹である。


魯(ろ)の荘公(そうこう)の32年(紀元前662年)8月、魯(ろ)の荘公(そうこう)が亡くなると、季友(きゆう)(季成子(きせいし))は公子(こうし)般(はん)(公子(こうし)斑(はん))を擁立(ようりつ)して即位させた。

ところが、慶父(けいほ)が哀姜(あいきょう)と謀(はか)って、母の実家の党氏(とうし)で喪(も)に服していた般(はん)(斑(はん))を殺害させたため、季友(きゆう)(季成子(きせいし))は陳(ちん)に逃亡し、哀姜(あいきょう)の妹・叔姜(しゅくきょう)の子が立てられた。これが魯(ろ)の閔公(びんこう)(湣公(びんこう))である。

国君に立つ

魯(ろ)の閔公(びんこう)の元年(紀元前661年)秋8月、閔公(びんこう)は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))と(斉(せい)の)落姑(らくこ)で会盟し、「(陳(ちん)に亡命している)季友(きゆう)を魯(ろ)に戻すこと」を願い出て許された。、季友(きゆう)(季成子(きせいし))を魯(ろ)に呼び戻した。


魯(ろ)の閔公(びんこう)の2年(紀元前660年)8月、慶父(けいほ)と哀姜(あいきょう)の密通はいよいよ激しくなり、2人は(大夫(たいふ)の)卜齮(ぼくき)に閔公(びんこう)を殺害させ、慶父(けいほ)は自(みずか)ら国君になろうとしたので、季友(きゆう)(季成子(きせいし))は公子(こうし)申(しん)[後(のち)の僖公(きこう)(釐公(きこう))]を連れて邾(ちゅう)国へ逃(のが)れた。

ところが、魯(ろ)人(ひと)は慶父(けいほ)を国君として認めず彼を討(う)とうとしたため、慶父(けいほ)は恐れて莒(きょ)へ逃亡し、哀姜(あいきょう)は邾(ちゅう)へ逃(のが)れた。

その後、季友(きゆう)(季成子(きせいし))は国内に迎え入れられ、僖公(きこう)(釐公(きこう))が国君に立てられた。

季友(きゆう)(季成子(きせいし))は財貨をもって莒(きょ)に慶父(けいほ)を引き渡すように求め、莒(きょ)は慶父(けいほ)を魯(ろ)に帰した。その一行が密(みつ)まで来た時、(慶父(けいほ)は)公子(こうし)魚(ぎょ)に命乞(いのちご)いをさせたが、季友(きゆう)(季成子(きせいし))は許さなかったので、公子(こうし)魚(ぎょ)は泣き声を上げながら慶父(けいほ)の元に戻った。

遠くからその泣き声を聞いた慶父(けいほ)は「あれは奚斯(けいし)(公子(こうし)魚(ぎょ))の声だ…」と言って首をくくって死んだ。


魯(ろ)の僖公(きこう)の元年(紀元前659年)秋7月戊辰(ぼしん)の日、斉(せい)の桓公(かんこう)は哀姜(あいきょう)を召(め)し出して夷(い)の地で殺害し、その遺体を魯(ろ)へ送り返した。僖公(いこう)は斉(せい)に願い出て、ようやく彼女を葬(ほうむ)ることができた。

8月、僖公(きこう)(釐公(きこう))は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・曹伯(そうはく)(曹(そう)の昭公(しょうこう))・邾(ちゅう)人(ひと)と檉(てい)で会盟した。

9月、僖公(きこう)(釐公(きこう))は偃(えん)において邾(ちゅう)の軍を破ったが、これは虚丘(きょきゅう)の守備兵が帰還しようとしていたところを攻撃したのである。

12月丁巳(ていし)の日、哀姜(あいきょう)の棺(ひつぎ)が斉(せい)から魯(ろ)へ到着した。

魯の僖公の2年(紀元前658年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の2年(紀元前658年)夏5月辛巳(しんし)の日、僖公(いこう)は斉(せい)に願い出て、ようやく魯(ろ)の(荘公(そうこう)の)夫人(ふじん)・哀姜(あいきょう)を葬(ほうむ)った。

魯の僖公の4年(紀元前656年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の4年(紀元前656年)春王正月、僖公(きこう)(釐公(きこう))は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の宣公(せんこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)(許(きょ)の新臣(しんしん))・曹伯(そうはく)(曹(そう)の昭公(しょうこう))と会合し、蔡(さい)に侵攻した。

蔡(さい)は大いに敗れ、そのまま楚(そ)を討伐した。軍は陘(けい)に駐屯した。

8月、僖公(きこう)は楚(そ)討伐から帰国した。

魯の僖公の5年(紀元前655年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の5年(紀元前655年)春王正月辛亥(しんがい)朔(ついたち)の日は、日南至(冬至)であった。

僖公(きこう)は朔日(ついたち)の儀式を見届けると、観台に登って天象を観測し、その内容を記録したが、これは礼にかなった行いであった。

そもそも、春分・冬至・立春・立冬のような節目には、必ず雲や気象の様子を記録することになっていた。これは将来への備(そな)えのためである。


夏、僖公(きこう)(釐公(きこう))は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の宣公(せんこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の昭公(しょうこう))と共に周王(しゅうおう)(周(しゅう)の恵王(けいおう))の世子(せいし)・鄭(てい)と首止(しゅし)で会合し、周(しゅう)王室を安定させるための相談をした。

秋8月、諸侯(しょこう)は首止(しゅし)で盟約を結んだが、鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))は逃げ帰って盟約に参加しなかった。

魯の僖公の6年(紀元前654年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の6年(紀元前654年)夏、僖公(きこう)は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の宣公(せんこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・曹伯(そうはく)(曹(そう)の昭公(しょうこう))と会合し、鄭(てい)を討伐して新城(しんじょう)を包囲した。

諸侯(しょこう)が鄭(てい)を討伐したのは「鄭(てい)が首止(しゅし)の盟約から逃げ出した」ためであり、新密(しんじょう)を包囲したのは「鄭(てい)が時機を逃(のが)さず城壁を築こうとしていた場所だった」からである。

秋、楚(そ)軍が許(きょ)を包囲したので、諸侯はそのまま許(きょ)を救援した。

冬、僖公(いこう)は鄭(てい)討伐から魯(ろ)へ帰国した。

魯の僖公の7年(紀元前653年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の7年(紀元前653年)秋7月、僖公(きこう)は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))・陳(ちん)の世子(せいし)款(かん)・鄭(てい)の世子(せいし)華(か)と甯母(ねいぼ)(寧母(ねいぼ))で会盟したが、これは鄭(てい)への対処を協議するためであった。

魯の僖公の8年(紀元前652年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の8年(紀元前652年)春王正月、僖公(きこう)は周王(しゅうおう)(周(しゅう)の恵王(けいおう))の使者・斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))・陳(ちん)の世子(せいし)款(かん)と洮(とう)で会盟したが、これは周(しゅう)王室について協議するためであった。

また、鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))が盟約への参加を願い出たが、これは斉(せい)に服従を請(こ)うためである。

魯の僖公の9年(紀元前651年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の9年(紀元前651年)夏、僖公(きこう)は周(しゅう)の宰相(さいしょう)周公(しゅうこう)・斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋子(そうし)(宋(そう)の襄公(じょうこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))と葵丘(ききゅう)で会盟した。

これは以前の盟約を再確認し、さらに友好関係を修復・強化するためのものであり、礼にかなった行為であった。

宋(そう)の襄公(じょうこう)のことを宋子(そうし)と記(しる)しているのは、この年の春王3月丁丑(ていちゅう)の日に宋公(そうこう)(宋(そう)の桓公(かんこう))が亡くなって、まだ葬儀が終わっていなかったからである。

9月戊辰(ぼしん)の日、諸侯(しょこう)は葵丘(ききゅう)で盟約を結んだ。

魯の僖公の10年(紀元前650年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の10年(紀元前650年)春王正月、僖公(きこう)は斉(せい)へ赴(おもむ)いた。

魯の僖公の11年(紀元前649年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の11年(紀元前649年)夏、僖公(きこう)と夫人(ふじん)の姜氏(きょうし)は、陽穀(ようこく)で斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))と会見した。

揚拒(ようきょ)・泉皋(せんこう)・伊水(いすい)・洛水(らくすい)流域の戎(じゅう)(異民族)たちが連合し、周(しゅう)王朝の京師(けいし)(洛邑(らくゆう))を攻撃し、王城に侵入して東門を焼き払った。これは王子(おうじ)帯(たい)が彼らを招(まね)き入れたためであった。

そこで秦(しん)と晋(しん)は、戎(じゅう)(異民族)を討伐して周(しゅう)を救援した。

秋8月、僖公(きこう)は大雩(だいう)(大規模な雨乞(あまご)いの祭祀(さいし))を行った。

秋、晋侯(しんこう)(晋(しん)の恵公(けいこう))は周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))のために戎(じゅう)(異民族)を平定した。

魯の僖公の12年(紀元前648年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の12年(紀元前648年)春、諸侯(しょこう)たちは衛(えい)の楚丘(そきゅう)の郛(ふ)(外郭城壁)を築いた。狄(てき)(北方異民族)の侵攻を恐れたためである。

夏、周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))は、戎(じゅう)(異民族)による騒乱を理由として、王子(おうじ)帯(たい)を討伐した。

秋、王子(おうじ)帯(たい)は斉(せい)へ逃亡した。

魯の僖公の13年(紀元前647年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の13年(紀元前647年)夏、僖公(きこう)は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の襄公(じょうこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の穆公(ぼくこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))と鹹(かん)(咸(かん))で会盟した。

これは、淮夷(わいい)(淮水(わいすい)流域に居住する異民族)が杞(き)国を苦しめていたためであり、また周(しゅう)王室のことを協議するためでもあった。

秋9月、僖公(きこう)は大雩(だいう)(大規模な雨乞(あまご)いの祭祀(さいし))を行った。

秋、戎(じゅう)(異民族)の侵攻に備(そな)えるため、諸侯(しょこう)は兵を出して周(しゅう)を守備した。

魯の僖公の14年(紀元前646年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の14年(紀元前646年)春、諸侯(しょこう)たちは縁陵(えんりょう)に城壁を築いたが、これは杞(き)国をそこへ移住させるためであった。

鄫(そう)国へ嫁(とつ)いでいた季姫(きき)が、両親の安否を尋(たず)ねに里帰りしてきたが、僖公(きこう)は怒って帰国を許さなかった。鄫子(そうし)(鄫(そう)の国君)が長らく魯(ろ)へ朝見していなかったからである。

そこで夏、季姫(きき)を通じて防(ぼう)の地で鄫子(そうし)(鄫(そう)の国君)と会見し、その上で鄫子(そうし)(鄫(そう)の国君)に魯(ろ)へ来朝させた。

魯の僖公の15年(紀元前645年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の15年(紀元前645年)春王正月、僖公(きこう)は斉(せい)へ赴(おもむ)いた。

楚(そ)が徐(じょ)を攻撃した。

3月、僖公(きこう)は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の襄公(じょうこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の穆公(ぼくこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))と牡丘(ぼうきゅう)で盟約を結んだが、これは以前の葵丘(ききゅう)の盟約を再確認し、徐(じょ)を救援するためでもあった。

徐(じょ)はもともと諸夏(しょか)(中国文明圏)の国であったため、諸侯(しょこう)はこれを放置できなかったのである。

そこで諸侯(しょこう)は匡(きょう)に軍を駐屯させ、(魯(ろ)の)公孫敖(こうそんごう)(孟穆伯(もうぼくはく))が軍を率(ひき)いて諸侯(しょこう)の大夫(たいふ)たちと共に徐(じょ)を救援した。

秋7月、斉(せい)軍と曹(そう)軍が徐(じょ)を救援するため厲(れい)を攻撃した。

9月、僖公(きこう)は会盟から帰国し、季姫(きき)が鄫(そう)国へ帰った。

冬、楚(そ)が婁林(ろうりん)で徐(じょ)軍を破ったが、これは徐(じょ)が救援をあてにして油断したためである。

魯の僖公の16年(紀元前644年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の16年(紀元前644年)3月、壬申(じんしん)の日、(季孫氏(きそんし)の)公子(こうし)季友(きゆう)が亡くなった。

夏4月丙申(へいしん)の日、鄫(そう)国へ嫁(とつ)いでいた季姫(きき)が亡くなった。

秋7月甲子(こうし)の日、(叔孫氏(しゅくそんし)の)公孫茲(こうそんじ)が亡くなった。

周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))は戎(じゅう)(異民族)の脅威を斉(せい)に告げた。そこで斉(せい)は諸侯(しょこう)を召集し、周(しゅう)のために守備兵を置かせた。

冬12月、僖公(きこう)は斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の襄公(じょうこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の穆公(ぼくこう))・衛侯(えいこう)(衛(えい)の文公(ぶんこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・邢侯(けいこう)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))と淮(わい)で会盟したが、これは鄫(そう)国を謀(はか)ろうとしたためであり、また東方への勢力拡大を図(はか)るためでもあった。

諸侯(しょこう)は鄫(そう)国に城を築こうとしたが、工事に従事する者たちが病(やまい)に苦しんでいた。ある夜、丘へ登って「斉で内乱が起こったぞ!」と叫ぶ者がいたため、諸侯(しょこう)は城を完成させないまま引き返した。

魯の僖公の17年(紀元前643年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の17年(紀元前643年)夏、魯(ろ)は項(こう)国を滅ぼした。

淮(わい)での諸侯(しょこう)会盟の後、僖公(きこう)は諸侯(しょこう)としての務(つと)めのため、まだ帰国していなかったが、その間に項(こう)国を攻め取ったのである。

斉(せい)人(ひと)はこれを「勝手な討伐である」と見なし、僖公(いこう)を引き留めた。

秋、(斉(せい)から嫁(とつ)いできた僖公(きこう)の)夫人(ふじん)・姜氏(きょうし)(声姜(せいきょう))が僖公(きこう)のために、卞(べん)で斉侯(せいこう)(斉(せい)の桓公(かんこう))と会見した。

9月、僖公(きこう)は帰国した。


これより以前、斉(せい)の桓公(かんこう)は管仲(かんちゅう)と共に「鄭姫(ていき)が生んだ孝公(こうこう)」を宋(そう)の襄公(じょうこう)に託(たく)して太子(たいし)とするつもりでいた。

ところが、衛姫(えいき)(衛(えい)の共姫(きょうき))が寵愛(ちょうあい)する料理人の雍巫(ようふ)(易牙(えきが))が、寺人(じじん)(宦官(かんがん))の貂(ちょう)を通じて桓公(かんこう)に取り入ったため、桓公(かんこう)は「衛姫(えいき)(衛(えい)の共姫(きょうき))が生んだ武孟(ぶもう)」を後継者に立てることを許した。

そして管仲(かんちゅう)が亡くなると、5人の公子(こうし)がみな国君の位を求めて争うようになり、冬10月乙亥(いがい)の日、ついに斉(せい)の桓公(かんこう)が亡くなった。

すると易牙(えきが)は宮中へ入り、寺人(じじん)(宦官(かんがん))の貂(ちょう)と共に、後宮の寵臣(ちょうしん)たちの力を利用して多くの役人を殺し、公子(こうし)無虧(むき)(無詭(むき)、武孟(ぶもう))を擁立(ようりつ)したので、孝公(こうこう)は宋(そう)へ逃亡した。

魯の僖公の18年(紀元前642年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の18年(紀元前642年)春王正月、(孝公(こうこう)を斉侯(せいこう)に立てるため、)宋公(そうこう)(宋(そう)の襄公(じょうこう))・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))・衛(えい)人(ひと)・邾(ちゅう)人(ひと)が斉(せい)を討伐した。

3月、斉(せい)人(ひと)は無虧(むき)(無詭(むき)、武孟(ぶもう))を殺害した。

夏、魯(ろ)の軍が斉(せい)を救援した。

5月戊寅(ぼいん)の日、宋(そう)軍と斉(せい)軍が斉(せい)の甗(げん)において戦い、斉(せい)軍は大敗した。すでに無虧(むき)(無詭(むき)、武孟(ぶもう))が殺害されていたため、曹(そう)・衛(えい)・邾(ちゅう)は先に撤兵し、魯(ろ)もまた戦意を失って帰国した。ゆえに宋(そう)軍だけが斉(せい)軍と戦ったのである。

宋(そう)軍は孝公(こうこう)を擁立(ようりつ)して帰国した。

秋8月、斉(せい)の桓公(かんこう)を葬(ほうむ)った。

魯の僖公の20年(紀元前640年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の20年(紀元前640年)春、魯(ろ)で新たに南門を建造した。

『春秋(しゅんじゅう)』()がこれを書き記(しる)したのは、工事の時期が適切ではなかったからである。そもそも門を建造するような土木工事は、農事を妨(さまた)げない時期に行うべきものである。

魯の僖公の21年(紀元前639年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の21年(紀元前639年)夏、大旱魃(だいかんばつ)が起こった。

僖公(きこう)は、雨乞(あまご)いのために巫女(みこ)や尪(おう)(すね・背・胸部が弯曲する病気の者)を焼き殺そうとした。

すると臧文仲(ぞうぶんちゅう)は。

「それは旱魃(かんばつ)への備(そな)えではありません!城郭を修理し、食事を減らして出費を節約し、農事に努(つと)めさせ、蓄(たくわ)えを分け与えること。これこそ今なすべきことです。巫女(みこ)や尪(おう)(すね・背・胸部が弯曲する病気の者)を焼き殺すことが、何の役に立つのでしょうか。天がもし彼らを殺そうとしているなら、そもそも生まれさせたりはしないでしょう。もし仮に彼らに旱魃(かんばつ)を起こす力があるというなら、焼けばなおさら旱魃(かんばつ)はひどくなります」

と言って諌(いさ)め、僖公(きこう)はその言葉に従った。

この年は飢饉(ききん)になったが、大きな被害には至らなかった。


秋、宋公(そうこう)(宋(そう)の襄公(じょうこう))・楚子(そし)(楚(そ)の成王(せいおう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の穆公(ぼくこう))・蔡侯(さいこう)(蔡(さい)の荘侯(そうこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)(曹(そう)の共公(きょうこう))が盂(う)で会合した。そこで宋公(そうこう)が捕(と)らえられ、そのまま宋(そう)を討(う)つための軍が起こされた。

冬、僖公(きこう)は邾(ちゅう)を討(う)った。

楚(そ)は宜申(ぎしん)(鬬宜申(とうぎしん))を使者として送り、戦勝報告を献上した。

12月癸丑(きちゅう)の日、僖公(きこう)は諸侯(しょこう)と共に薄(はく)で盟約を結び、そこで宋公(そうこう)は釈放された。

升陘の戦い

魯(ろ)の僖公(きこう)の22年(紀元前638年)春、魯(ろ)は邾(ちゅう)を討伐し、須句(すく)を奪取してその国君を復位させたが、これは礼にかなった行為であった。

夏、僖公(きこう)は邾(ちゅう)を軽んじ、備えを整えないまま迎え撃った。

これに臧文仲(ぞうぶんちゅう)は、


「どんなに小国であっても、決してこれを侮(あなど)ったり軽んじたりしてはなりません。備(そな)えがなければ、たとえ兵が多くても頼りにはなりません。

『詩経(しきょう)』に『恐れ慎(つつし)み、深淵に臨(のぞ)むように、薄氷を踏むように(戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰)』とあり、また『敬(うやま)いなさい、敬(うやま)いなさい。天命は明らかであり、容易(ようい)ではない(敬之敬之,天惟顯思,命不易哉!)』ともあります。

先王たちは明徳を備(そな)えていてもなお、難事を恐れ、慎(つつし)みを失いませんでした。まして我らのような小国が、どうして油断できましょうか。

どうか、邾(ちゅう)が小国だからといって侮(あなど)られませぬように。蜂(はち)や蠍(さそり)でさえ毒を持っています。まして国家ならなおさらです」


と言って諌(いさ)めたが、僖公(きこう)は聞き入れなかった。

8月丁未(ていび)の日、僖公(きこう)は邾(ちゅう)軍と(魯(ろ)の)升陘(しょうけい)で戦い、魯(ろ)軍は大敗した。邾(ちゅう)人(ひと)は僖公(きこう)の兜(かぶと)を奪い、それを魚門(邾(ちゅう)の都の城門の名)に吊(つ)るした。

魯の僖公の25年(紀元前635年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の25年(紀元前635年)冬、衛(えい)人(ひと)は魯(ろ)と莒(きょ)の和解を取り持った。

12月癸亥(きがい)の日、僖公(きこう)は衛子(えいし)(衛(えい)の成公(せいこう))および莒(きょ)の慶(けい)と洮(とう)で盟約を結んだ。これは、(先代の)衛(えい)の文公(ぶんこう)以来の友好関係を修復すると共に、莒(きょ)とも和解するためであった。

魯の僖公の26年(紀元前634年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の26年(紀元前634年)春王正月己未(きび)の日、僖公(きこう)は莒子(きょし)(茲平公(じへいこう))・衛(えい)の甯速(ねいそく)(甯莊子(ねいそうし))と向(きょう)の地で会盟した。これは以前の洮(とう)の盟約を再確認するためであった。

斉(せい)軍が魯(ろ)の西の国境地帯へ侵攻してきた。この時、僖公(きこう)は斉(せい)軍を追撃して(斉(せい)の)酅(けい)まで至ったが、追いつくことはできなかった。

斉(せい)軍が魯(ろ)の西の国境地帯へ侵攻してきたのは、斉(せい)が(洮(とう)と向(きょう)の)2つの盟約を討(う)とうとしたためである。


夏、斉(せい)の孝公(こうこう)が魯(ろ)の北の国境地帯に向けて出兵した。この時、衛(えい)人(ひと)が斉(せい)に出兵したが、それは洮(とう)の盟約があったためである。

すると僖公(きこう)は、展喜(てんき)を派遣して斉(せい)軍をねぎらわせようと、展禽(てんきん)に命じて(展喜(てんき)に)外交上の口上を授(さず)けさせた。

そこで展喜(てんき)は、斉侯(せいこう)(斉(せい)の孝公(こうこう))がまだ魯(ろ)の領内へ入る前に、斉侯(せいこう)(斉(せい)の孝公(こうこう))と接触して言った。


展喜(てんき)「寡君(きこう)(我が君:僖公(きこう))は、君(斉(せい)の孝公(こうこう))自(みずか)ら玉のように尊(とうと)いお足を運ばれ、敝邑(へいゆう)(我が国:魯(ろ))へお越しになると伺(うかが)いました。そこで執事(しつじ)の方々を慰労(いろう)させるため、下臣(わたくし)を遣(つか)わしたのでございます」

斉侯(せいこう)「魯(ろ)人(ひと)は恐れているか?」

展喜(てんき)「小人たちは恐れておりますが、君子はそうではありません」

斉侯(せいこう)「国の倉は縣罄(けんけい)(屋根と柱だけがあって中が空(から)っぽの意)で、野には青草もないというのに、何を恃(たの)みに恐れぬというのか?」

展喜(てんき)「先王の命を恃(たの)みにしております。
昔、周公(しゅうこう)と太公(たいこう)は周(しゅう)王室の股肱(ここう)(手足)として、成王(せいおう)を左右から補佐いたしました。成王(せいおう)はその功をねぎらい盟約を賜(たまわ)って『子孫代々に至るまで、互いに害し合ってはならぬ』とおっしゃられました。この盟約は盟府に記録され、大師(たいし)(太師(たいし))がこれを司(つかさど)っております。
(斉(せい)の)桓公(かんこう)はこの盟約に基(もと)づいて諸侯(しょこう)をまとめて不和を調停し、その欠けたところを補(おぎな)い、災難を救われましたが、これは過去の職責を明らかにしたものです。
そして君(斉(せい)の孝公(こうこう))が即位されると、諸侯(しょこう)はみな、『(孝公(こうこう)は)きっと桓公(かんこう)の功績を受け継がれるであろう』と期待し、敝邑(へいゆう)(我が国:魯(ろ))のような小国ですら、聚(しゅう)(民)を守り固めようとはいたしませんでした。
なぜなら『まさか先祖以来の盟約を継承してまだ9年にしか経(た)っていないのに、[斉侯(せいこう)(斉(せい)の孝公(こうこう))が]王命を捨てて職責を廃し、先君に顔向けできないようなことをなさるはずがない』と思っているからです」


斉侯(せいこう)(斉(せい)の孝公(こうこう))はこれを聞くと、軍を返して帰還した。


(魯(ろ)の)東門襄仲(とうもんじょうちゅう)(公子(こうし)遂(すい))と臧文仲(ぞうぶんちゅう)は楚(そ)へ赴(おもむ)いて援軍を求め、臧孫(ぞうそん)(臧文仲(ぞうぶんちゅう))は(楚(そ)の)子玉(しぎょく)(成得臣(せいとくしん))に会って「斉(せい)と宋(そう)を討(う)つべきだ」と説(と)いたが、これは彼らが楚(そ)に臣従していないからである。


(夔(き)国の国君・)夔子(きし)は(楚(そ)王家の祖先である)祝融(しゅくゆう)と鬻熊(いくゆう)を祭っていなかった。

楚(そ)人(ひと)が「夔(き)は楚(そ)と同じ祖先を持つのに、祖先祭祀(さいし)をしていないこと」を責めると、夔子(きし)は、

「我が先王・熊摯(ゆうし)は病(やまい)を得て鬼神にも赦(ゆる)されず、自(みずか)ら夔(き)へ逃(のが)れました。(この時をもって)吾(われ)々(われ)は楚(そ)から分かれたのです。どうして楚(そ)の祖先を祭る必要があるのでしょうか?」

秋、楚(そ)の成得臣(せいとくしん)(子玉(しぎょく))と鬬宜申(とうぎしん)が軍を率(ひき)いて夔(き)を滅ぼし、夔子(きし)を捕(と)らえて帰った。


宋(そう)は晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))と親しかったため、楚(そ)に叛(そむ)いて晋(しん)に従った。

冬、楚(そ)の令尹(れいいん)・子玉(しぎょく)(成得臣(せいとくしん))と司馬(しば)・子西(しせい)(鬬宜申(とうぎしん))が軍を率(ひき)いて宋(そう)を攻撃して緡(びん)を包囲した。

僖公(きこう)は楚(そ)軍を率(ひき)いて斉(せい)を攻め、穀(こく)を奪った。他国の軍を自分の左右(配下)のように自由に動かすことを「以(い)(もちいる)」と言う。

(僖公(きこう)は斉(せい)の)桓公(かんこう)の子・雍(よう)を穀(こく)に寘(い)れ、易牙(えきが)がこれを奉じた。これは魯(ろ)への援助勢力とするためであり、楚(そ)の申公(しんこう)・叔侯(しゅくこう)がそこを守備した。

斉(せい)の桓公(かんこう)には7人の子がおり、楚(そ)において七大夫(しちたいふ)となっていた。

魯の僖公の27年(紀元前633年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の27年(紀元前633年)春、杞(き)の桓公(かんこう)が魯(ろ)へ朝見に来たが、彼は(中原諸侯の正式な礼法ではなく)夷狄(いてき)の礼を用(もち)いた。このように杞(き)が礼を尽くさず、恭順(きょうじゅん)ではなかったため、僖公(きこう)は杞(き)を軽(かろ)んじていた。


夏6月庚寅(こういん)の日、斉(せい)の孝公(こうこう)が亡くなった。魯(ろ)は斉(せい)に対して遺恨(いこん)を抱(いだ)いていたが、それでも葬礼(そうれい)や服喪(ふくも)の礼を省略しなかった。これは礼にかなった行いである。


秋8月乙未(いつび)の日、斉(せい)の孝公(こうこう)を葬(ほうむ)った。

乙巳(いっし)の日、魯(ろ)の公子(こうし)遂(すい)(東門襄仲(とうもんじょうちゅう))が軍を率(ひき)いて杞(き)へ侵攻したが、これは杞(き)の無礼を責めるためであった。


冬、楚子(そし)(楚(そ)の成王(せいおう))と諸侯は宋(そう)を包囲した。

12月甲戌(こうじゅつ)の日、魯(ろ)の僖公(きこう)は諸侯(しょこう)と共に宋(そう)で盟約を結んだ。

魯の僖公の28年(紀元前632年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の28年(紀元前632年)春、晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))は曹(そう)へ侵攻し、さらに(晋(しん)軍が国内を通過することを拒否した)衛(えい)を攻撃した。正月戊申(ぼしん)の日、晋(しん)軍は五鹿(ごろく)を攻略した。

その後、晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))と斉侯(せいこう)(斉(せい)の昭公(しょうこう))は斂盂(れんう)で盟約した。衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))も盟約への参加を願ったが、晋(しん)人(ひと)は許さなかった。

そこで衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))は楚(そ)と結ぼうとしたが、(衛(えい)の)国人たちはそれを望まず、衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))を国外へ追放することで晋(しん)への謝罪の意を示した。


この時、魯(ろ)の公子(こうし)買(ばい)は衛(えい)の守備に当たっており、楚(そ)人(ひと)が衛(えい)を救援に来たが、防衛することができなかった。

僖公(きこう)は晋(しん)を恐れ、公子(こうし)買(ばい)を殺して晋(しん)に弁明し、楚(そ)人(ひと)に対しては「守備を最後まで果たさなかったから処刑したのだ」と言った。


夏4月己巳(きし)の日、晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))・斉(せい)軍・宋(そう)軍・秦(しん)軍が楚(そ)人(ひと)と城濮(じょうぼく)で戦い、楚(そ)軍は大敗した。

5月癸丑(きちゅう)の日、僖公(きこう)は晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))・斉侯(せいこう)(斉(せい)の昭公(しょうこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の成公(せいこう))・蔡侯(さいこう)(蔡(さい)の荘侯(そうこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・衛子(えいし)(衛(えい)の成公(せいこう))・莒子(きょし)と踐土(せんど)で盟約した。陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の穆公(ぼくこう))も会盟へやって来た。

蔡侯(さいこう)(蔡(さい)の荘侯(そうこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・衛子(えいし)(衛(えい)の成公(せいこう))・陳侯(ちんこう)(陳(ちん)の穆公(ぼくこう))は、城濮(じょうぼく)の戦いで楚(そ)が敗北したため晋(しん)についた者たちである。

僖公(きこう)は周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))のもとへ朝見した。


秋、杞伯姫(きはくき)(杞(き)国へ嫁(とつ)いでいた魯(ろ)国の姫)が魯(ろ)へ来た。

(魯(ろ)の)公子(こうし)遂(すい)(東門襄仲(とうもんじょうちゅう))が斉(せい)へ赴(おもむ)いた。

冬、僖公(きこう)は晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))・斉侯(せいこう)(斉(せい)の昭公(しょうこう))・宋公(そうこう)(宋(そう)の成公(せいこう))・蔡侯(さいこう)(蔡(さい)の荘侯(そうこう))・鄭伯(ていはく)(鄭(てい)の文公(ぶんこう))・陳子(ちんし)(陳(ちん)の共公(きょうこう))・莒子(きょし)・邾(ちゅう)人(ひと)・秦(しん)人(ひと)と温(おん)で会合したが、これは従わない者を討(う)つためであった。

壬申(じんしん)の日、僖公(きこう)は周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))のもとへ朝見した。

丁丑(ていちゅう)の日、諸侯(しょこう)は許(きょ)を包囲した。

魯の僖公の29年(紀元前631年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の29年(紀元前631年)春、介(かい)国の(国君である)葛盧(かつろ)が魯(ろ)へ(朝見に)やって来て、昌衍(しょうえん)の傍(かたわ)らに宿泊したが、僖公(きこう)は諸侯(しょこう)の会盟に出席していたため、(臣下を通じて)葛盧(かつろ)に芻米(すうべい)(家畜の飼料や米)を贈(おく)ってもてなした。これは礼にかなった対応であった。

その後、僖公(きこう)は許(きょ)を包囲した戦役から帰国した。

夏、僖公(きこう)は(周(しゅう)の)王子(おうし)虎(こ)、晋(しん)の孤偃(こえん)、宋(そう)の公孫固(こうそんこ)、斉(せい)の国帰父(こくきほ)、陳(ちん)の轅濤塗(えんとうと)、秦(しん)の小子憖(しょうしぎん)と共に、翟泉(てきせん)で盟約を結んだ。

これは、以前の踐土(せんど)の盟約を再確認するためであり、あわせて鄭(てい)を討伐することを相談するためでもあった。

冬、介(かい)国の葛盧(かつろ)が再びやって来たが、これは前回、僖公(きこう)に会うことができなかったため、改めて朝見に来たのである。魯(ろ)は彼を礼をもって待遇し、さらに宴(うたげ)を開いて厚く親交を示した。

この時、葛盧(かつろ)は牛の鳴き声を聞いて、

「この牛は『3頭の犠牲獣の子を産んだが、その3頭はすでに祭祀(さいし)に使われてしまった』と鳴いている」

と言った。そこで実際に調べてみると、まさにその通りであった。

魯の僖公の30年(紀元前630年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の30年(紀元前630年)、晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))は医衍(いえん)に命じて衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))を毒殺させようとしたが、(衛(えい)の大夫(たいふ)・)甯俞(ねいゆ)が医衍(いえん)に賄賂(わいろ)を贈(おく)って毒の量を薄くさせたため、衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))は死ななかった。

魯(ろ)の僖公(きこう)は衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))のために弁護を行い、周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))と晋侯(しんこう)(晋(しん)の文公(ぶんこう))の双方に、それぞれ10榖(こく)(車10両分)の玉を贈った。

周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))はこれを認め、秋になってようやく衛侯(えいこう)(衛(えい)の成公(せいこう))は釈放された。

冬、周王(しゅうおう)(周(しゅう)の襄王(じょうおう))は周公閲(しゅうこうえつ)を派遣して魯(ろ)に聘問(へいもん)させた。魯(ろ)では饗宴(きょうえん)を開いて昌歜(しょうしょく)(香草の漬物)・白塩・黒塩・形塩(虎の形に固めた塩)などを供したが、周公閲(しゅうこうえつ)は辞退して言った。

「文徳が天下に明らかで、武威が人々に畏(おそ)れられるような国君に対しては、その徳を表すため、さまざまな供物を備(そな)えた盛大な饗宴(きょうえん)が行われるものです。
さまざまな料理を供(そな)え、良質な穀物(こくもつ)を並べ、虎の形をした塩を置くのは、その文徳と武功を称(たた)えるためであり、吾(わたし)のような者が、そのような厚遇を受ける資格などございません」


その後、公子(こうし)遂(すい)(東門襄仲(とうもんじょうちゅう))が京師(けいし)(周(しゅう)の王都・洛邑(らくゆう))へ聘問(へいもん)に赴(おもむ)き、そのまま晋(しん)へも赴(おもむ)いた。これが魯(ろ)と晋(しん)との間で行われた最初の正式な聘問(へいもん)であった。

魯の僖公の31年(紀元前629年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の31年(紀元前629年)春、(魯(ろ)は)済水(せいすい)の西にある田地を取得した。これは(晋(しん)から)曹(そう)の領地を分割して与えられたものである。

魯(ろ)は臧文仲(ぞうぶんちゅう)を派遣してこれを受け取りに行かせ、臧文仲(ぞうぶんちゅう)は重館(じゅうかん)(重(じゅう)の宿舎)に宿泊した。すると重館(じゅうかん)の人が告げて言った。

「晋(しん)は盟主として新たに諸侯(しょこう)を得たばかりです。諸侯(しょこう)は必ずや自(みずか)ら貢納や奉仕を行おうとするでしょう。急いで行かなければ間に合わなくなってしまいます」

臧文仲(ぞうぶんちゅう)はその言葉に従い、こうして曹(そう)の領地が分割された。その範囲は洮(とう)より南、東は済水(せいすい)に接する曹(そう)の領土のすべてであった。

その後、公子(こうし)遂(すい)(東門襄仲(とうもんじょうちゅう))が晋(しん)へ赴(おもむ)いたが、これは曹(そう)の田地を与えられたことに対して謝意を表するためであった。

夏4月、(魯(ろ)は)郊祭(こうさい)を行うために4度占ったが吉兆が得られなかった。そこで供犠(いけにえ)の牛を解放し、三望(さんぼう)の祭りを行ったが、これらは礼にかなっていない。

礼では「恒例の祭祀(さいし)を行うかどうか」を占うことはなく、供犠(いけにえ)を捧(ささ)げる日だけを占うのである。牛について日を占うことを「牲(せい)」と言い、供犠(いけにえ)の牛の準備が整ってから郊祭(こうさい)そのものを占うのは、上に立つ者の怠慢(たいまん)である。

また、望(ぼう)の祭りは郊祭(こうさい)に付随(ふずい)する小さな祭祀(さいし)である。郊祭(こうさい)を行わないのであれば、望(ぼう)の祭りもまた行うべきではない。

魯の僖公の33年(紀元前627年)

魯(ろ)の僖公(きこう)の33年(紀元前627年)春、斉侯(せいこう)(斉(せい)の昭公(しょうこう))が国帰父(こくきほ)(国荘子(こくそうし))を派遣して魯(ろ)に聘問(へいもん)させた。

郊外で彼を出迎えて労(ねぎら)う儀礼(郊労)から、別れ際に贈り物を手渡す儀礼(贈賄)に至るまで、すべての礼儀が完璧に執(と)り行われただけでなく、彼の立ち振る舞いはさらに機敏で、聡明さに満ちていた。

臧文仲(ぞうぶんちゅう)は僖公(きこう)に言った。

「国子(こくし)(国帰父(こくきほ))が国政を執(と)っているため、斉(せい)にはまだしっかりと『礼』が生きております。我が君、どうか(斉(せい)へ赴(おもむ)いて)朝見なさってください。臣(わたくし)は『礼が備(そな)わっている大国に従うことこそが、社稷(しゃしょく)(国家)の衛(まもり)となる』と聞いております」


狄(てき)(北方異民族)が斉(せい)に侵入した。これは晋(しん)の喪(も)に乗じたものである。

僖公(きこう)が邾(ちゅう)を攻め、訾婁(しろう)を奪取した。これは升陘(しょうけい)の戦いの報復であり、邾(ちゅう)人(ひと)は備(そな)えをしていなかった。

秋、公子(こうし)遂(すい)(東門襄仲(とうもんじょうちゅう))が軍を率(ひき)いて再び邾(ちゅう)を攻めた。


冬,公如齊,朝,且弔有狄師也。反,薨于小寢,即安也。

冬10月、僖公(きこう)が斉(せい)に赴(おもむ)き、斉(せい)に朝見すると共に、狄(てき)(北方異民族)に侵略されたことへのお見舞いを述(の)べた。

12月、僖公(きこう)は斉(せい)から帰国すると、乙巳(いっし)の日に小寝(しょうしん)(奥御殿)で亡くなった*1。自分が落ち着ける安楽な場所へと赴(おもむ)いたからである。


僖公(きこう)を埋葬(まいそう)する時期が遅れ、神主(しんしゅ)*2を作る時期も礼にかなっていなかった。

凡(およ)そ国君が薨(こう)した際の正しい手順としては、卒哭(そつこく)の儀礼を終えてから、祖先の霊廟(れいびょう)に合祀(ごうし)する祔祭(ふさい)を行い、合祀(ごうし)してから神主(しんしゅ)*2を作る。

そして、その新しい神主(しんしゅ)*2に対して個別に祭祀(さいし)を行い、先祖代々の宗廟(そうびょう)においては、通常通りに冬の祭りである「烝(じょう)」や秋の祭りである「嘗(しょう)」、そして大規模な大祭である「禘(てい)」を執(と)り行うのが本来の礼のあり方である。

脚注

*1『礼記(らいき)』喪大記(そうたいき)に「君主や夫人(ふじん)は路寝(ろしん)(大寝)で亡くなるべきである」とある。

*2亡くなった人の霊が宿(やど)る木製の位牌

出典
  • 『史記(しき)』魯周公世家(ろしゅうこうせいか)
  • 『史記(しき)』斉太公世家(せいたいこうせいか)
  • 『列女伝(れつじょでん)』孽嬖(げつへい)・魯荘哀姜(ろそうあいきょう)
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』荘公(そうこう)32年
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』閔公(びんこう)元年、2年
  • 『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』僖公(きこう)元年、2年、4年、5年、6年、7年、8年、9年、10年、11年、12年、13年、14年、15年、16年、17年、18年、20年、21年、22年、25年、26年、27年、28年、29年、30年、31年、33年
  • 『春秋左伝註疏(しゅんじゅうさでんちゅうそ)』巻第11
  • 『春秋左伝註疏(しゅんじゅうさでんちゅうそ)』巻第13

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