正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑰僖公(釐公)〔魯〕です。
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凡例
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き⑰
僖公(釐公)〔魯〕
僖公(釐公)〔魯〕
生年不詳〜魯の僖公の33年(紀元前627年)没。姫姓。名は申。父は魯の荘公。母は成風。閔公の庶兄(異母兄)。子に魯の文公。夫人は姜氏(声姜)
春秋時代の諸侯国・魯国の第18代国君。『史記』では釐公と記される。
僖公は魯の荘公の庶子であり、魯の閔公の跡を継いで魯の国君となった。在位は33年に及ぶ。在位中には、季友(季成子)・臧文仲・公孫茲・孟穆伯・公子買・東門襄仲らが政治を担った。
魯荘公死後の混乱
魯の荘公には、慶父(孟孫氏の祖)・叔牙(叔孫氏の祖)・季友(季孫氏の祖)の3人の弟がいたが、荘公の夫人・哀姜は次第に驕慢で淫乱となり、慶父・叔牙と私通していた。荘公の夫人・哀姜は、斉の桓公の妹である。
魯の荘公の32年(紀元前662年)8月、魯の荘公が亡くなると、季友(季成子)は公子般(公子斑)を擁立して即位させた。
ところが、慶父が哀姜と謀って、母の実家の党氏で喪に服していた般(斑)を殺害させたため、季友(季成子)は陳に逃亡し、哀姜の妹・叔姜の子が立てられた。これが魯の閔公(湣公)である。
国君に立つ
魯の閔公の元年(紀元前661年)秋8月、閔公は斉侯(斉の桓公)と(斉の)落姑で会盟し、「(陳に亡命している)季友を魯に戻すこと」を願い出て許された。、季友(季成子)を魯に呼び戻した。
魯の閔公の2年(紀元前660年)8月、慶父と哀姜の密通はいよいよ激しくなり、2人は(大夫の)卜齮に閔公を殺害させ、慶父は自ら国君になろうとしたので、季友(季成子)は公子申[後の僖公(釐公)]を連れて邾国へ逃れた。
ところが、魯人は慶父を国君として認めず彼を討とうとしたため、慶父は恐れて莒へ逃亡し、哀姜は邾へ逃れた。
その後、季友(季成子)は国内に迎え入れられ、僖公(釐公)が国君に立てられた。
季友(季成子)は財貨をもって莒に慶父を引き渡すように求め、莒は慶父を魯に帰した。その一行が密まで来た時、(慶父は)公子魚に命乞いをさせたが、季友(季成子)は許さなかったので、公子魚は泣き声を上げながら慶父の元に戻った。
遠くからその泣き声を聞いた慶父は「あれは奚斯(公子魚)の声だ…」と言って首をくくって死んだ。
魯の僖公の元年(紀元前659年)秋7月戊辰の日、斉の桓公は哀姜を召し出して夷の地で殺害し、その遺体を魯へ送り返した。僖公は斉に願い出て、ようやく彼女を葬ることができた。
8月、僖公(釐公)は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・鄭伯(鄭の文公)・曹伯(曹の昭公)・邾人と檉で会盟した。
9月、僖公(釐公)は偃において邾の軍を破ったが、これは虚丘の守備兵が帰還しようとしていたところを攻撃したのである。
12月丁巳の日、哀姜の棺が斉から魯へ到着した。
魯の僖公の2年(紀元前658年)
魯の僖公の2年(紀元前658年)夏5月辛巳の日、僖公は斉に願い出て、ようやく魯の(荘公の)夫人・哀姜を葬った。
魯の僖公の4年(紀元前656年)
魯の僖公の4年(紀元前656年)春王正月、僖公(釐公)は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・陳侯(陳の宣公)・衛侯(衛の文公)・鄭伯(鄭の文公)・許男(許の新臣)・曹伯(曹の昭公)と会合し、蔡に侵攻した。
蔡は大いに敗れ、そのまま楚を討伐した。軍は陘に駐屯した。
8月、僖公は楚討伐から帰国した。
魯の僖公の5年(紀元前655年)
魯の僖公の5年(紀元前655年)春王正月辛亥朔の日は、日南至(冬至)であった。
僖公は朔日の儀式を見届けると、観台に登って天象を観測し、その内容を記録したが、これは礼にかなった行いであった。
そもそも、春分・冬至・立春・立冬のような節目には、必ず雲や気象の様子を記録することになっていた。これは将来への備えのためである。
夏、僖公(釐公)は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・陳侯(陳の宣公)・衛侯(衛の文公)・鄭伯(鄭の文公)・許男・曹伯(曹の昭公)と共に周王(周の恵王)の世子・鄭と首止で会合し、周王室を安定させるための相談をした。
秋8月、諸侯は首止で盟約を結んだが、鄭伯(鄭の文公)は逃げ帰って盟約に参加しなかった。
魯の僖公の6年(紀元前654年)
魯の僖公の6年(紀元前654年)夏、僖公は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・陳侯(陳の宣公)・衛侯(衛の文公)・曹伯(曹の昭公)と会合し、鄭を討伐して新城を包囲した。
諸侯が鄭を討伐したのは「鄭が首止の盟約から逃げ出した」ためであり、新密を包囲したのは「鄭が時機を逃さず城壁を築こうとしていた場所だった」からである。
秋、楚軍が許を包囲したので、諸侯はそのまま許を救援した。
冬、僖公は鄭討伐から魯へ帰国した。
魯の僖公の7年(紀元前653年)
魯の僖公の7年(紀元前653年)秋7月、僖公は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・陳の世子款・鄭の世子華と甯母(寧母)で会盟したが、これは鄭への対処を協議するためであった。
魯の僖公の8年(紀元前652年)
魯の僖公の8年(紀元前652年)春王正月、僖公は周王(周の恵王)の使者・斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の桓公)・衛侯(衛の文公)・許男・曹伯(曹の共公)・陳の世子款と洮で会盟したが、これは周王室について協議するためであった。
また、鄭伯(鄭の文公)が盟約への参加を願い出たが、これは斉に服従を請うためである。
魯の僖公の9年(紀元前651年)
魯の僖公の9年(紀元前651年)夏、僖公は周の宰相周公・斉侯(斉の桓公)・宋子(宋の襄公)・衛侯(衛の文公)・鄭伯(鄭の文公)・許男・曹伯(曹の共公)と葵丘で会盟した。
これは以前の盟約を再確認し、さらに友好関係を修復・強化するためのものであり、礼にかなった行為であった。
宋の襄公のことを宋子と記しているのは、この年の春王3月丁丑の日に宋公(宋の桓公)が亡くなって、まだ葬儀が終わっていなかったからである。
9月戊辰の日、諸侯は葵丘で盟約を結んだ。
魯の僖公の10年(紀元前650年)
魯の僖公の10年(紀元前650年)春王正月、僖公は斉へ赴いた。
魯の僖公の11年(紀元前649年)
魯の僖公の11年(紀元前649年)夏、僖公と夫人の姜氏は、陽穀で斉侯(斉の桓公)と会見した。
揚拒・泉皋・伊水・洛水流域の戎(異民族)たちが連合し、周王朝の京師(洛邑)を攻撃し、王城に侵入して東門を焼き払った。これは王子帯が彼らを招き入れたためであった。
そこで秦と晋は、戎(異民族)を討伐して周を救援した。
秋8月、僖公は大雩(大規模な雨乞いの祭祀)を行った。
秋、晋侯(晋の恵公)は周王(周の襄王)のために戎(異民族)を平定した。
魯の僖公の12年(紀元前648年)
魯の僖公の12年(紀元前648年)春、諸侯たちは衛の楚丘の郛(外郭城壁)を築いた。狄(北方異民族)の侵攻を恐れたためである。
夏、周王(周の襄王)は、戎(異民族)による騒乱を理由として、王子帯を討伐した。
秋、王子帯は斉へ逃亡した。
魯の僖公の13年(紀元前647年)
魯の僖公の13年(紀元前647年)夏、僖公は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の襄公)・陳侯(陳の穆公)・衛侯(衛の文公)・鄭伯(鄭の文公)・許男・曹伯(曹の共公)と鹹(咸)で会盟した。
これは、淮夷(淮水流域に居住する異民族)が杞国を苦しめていたためであり、また周王室のことを協議するためでもあった。
秋9月、僖公は大雩(大規模な雨乞いの祭祀)を行った。
秋、戎(異民族)の侵攻に備えるため、諸侯は兵を出して周を守備した。
魯の僖公の14年(紀元前646年)
魯の僖公の14年(紀元前646年)春、諸侯たちは縁陵に城壁を築いたが、これは杞国をそこへ移住させるためであった。
鄫国へ嫁いでいた季姫が、両親の安否を尋ねに里帰りしてきたが、僖公は怒って帰国を許さなかった。鄫子(鄫の国君)が長らく魯へ朝見していなかったからである。
そこで夏、季姫を通じて防の地で鄫子(鄫の国君)と会見し、その上で鄫子(鄫の国君)に魯へ来朝させた。
魯の僖公の15年(紀元前645年)
魯の僖公の15年(紀元前645年)春王正月、僖公は斉へ赴いた。
楚が徐を攻撃した。
3月、僖公は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の襄公)・陳侯(陳の穆公)・衛侯(衛の文公)・鄭伯(鄭の文公)・許男・曹伯(曹の共公)と牡丘で盟約を結んだが、これは以前の葵丘の盟約を再確認し、徐を救援するためでもあった。
徐はもともと諸夏(中国文明圏)の国であったため、諸侯はこれを放置できなかったのである。
そこで諸侯は匡に軍を駐屯させ、(魯の)公孫敖(孟穆伯)が軍を率いて諸侯の大夫たちと共に徐を救援した。
秋7月、斉軍と曹軍が徐を救援するため厲を攻撃した。
9月、僖公は会盟から帰国し、季姫が鄫国へ帰った。
冬、楚が婁林で徐軍を破ったが、これは徐が救援をあてにして油断したためである。
魯の僖公の16年(紀元前644年)
魯の僖公の16年(紀元前644年)3月、壬申の日、(季孫氏の)公子季友が亡くなった。
夏4月丙申の日、鄫国へ嫁いでいた季姫が亡くなった。
秋7月甲子の日、(叔孫氏の)公孫茲が亡くなった。
周王(周の襄王)は戎(異民族)の脅威を斉に告げた。そこで斉は諸侯を召集し、周のために守備兵を置かせた。
冬12月、僖公は斉侯(斉の桓公)・宋公(宋の襄公)・陳侯(陳の穆公)・衛侯(衛の文公)・鄭伯(鄭の文公)・許男・邢侯・曹伯(曹の共公)と淮で会盟したが、これは鄫国を謀ろうとしたためであり、また東方への勢力拡大を図るためでもあった。
諸侯は鄫国に城を築こうとしたが、工事に従事する者たちが病に苦しんでいた。ある夜、丘へ登って「斉で内乱が起こったぞ!」と叫ぶ者がいたため、諸侯は城を完成させないまま引き返した。
魯の僖公の17年(紀元前643年)
魯の僖公の17年(紀元前643年)夏、魯は項国を滅ぼした。
淮での諸侯会盟の後、僖公は諸侯としての務めのため、まだ帰国していなかったが、その間に項国を攻め取ったのである。
斉人はこれを「勝手な討伐である」と見なし、僖公を引き留めた。
秋、(斉から嫁いできた僖公の)夫人・姜氏(声姜)が僖公のために、卞で斉侯(斉の桓公)と会見した。
9月、僖公は帰国した。
これより以前、斉の桓公は管仲と共に「鄭姫が生んだ孝公」を宋の襄公に託して太子とするつもりでいた。
ところが、衛姫(衛の共姫)が寵愛する料理人の雍巫(易牙)が、寺人(宦官)の貂を通じて桓公に取り入ったため、桓公は「衛姫(衛の共姫)が生んだ武孟」を後継者に立てることを許した。
そして管仲が亡くなると、5人の公子がみな国君の位を求めて争うようになり、冬10月乙亥の日、ついに斉の桓公が亡くなった。
すると易牙は宮中へ入り、寺人(宦官)の貂と共に、後宮の寵臣たちの力を利用して多くの役人を殺し、公子無虧(無詭、武孟)を擁立したので、孝公は宋へ逃亡した。
魯の僖公の18年(紀元前642年)
魯の僖公の18年(紀元前642年)春王正月、(孝公を斉侯に立てるため、)宋公(宋の襄公)・曹伯(曹の共公)・衛人・邾人が斉を討伐した。
3月、斉人は無虧(無詭、武孟)を殺害した。
夏、魯の軍が斉を救援した。
5月戊寅の日、宋軍と斉軍が斉の甗において戦い、斉軍は大敗した。すでに無虧(無詭、武孟)が殺害されていたため、曹・衛・邾は先に撤兵し、魯もまた戦意を失って帰国した。ゆえに宋軍だけが斉軍と戦ったのである。
宋軍は孝公を擁立して帰国した。
秋8月、斉の桓公を葬った。
魯の僖公の20年(紀元前640年)
魯の僖公の20年(紀元前640年)春、魯で新たに南門を建造した。
『春秋』がこれを書き記したのは、工事の時期が適切ではなかったからである。そもそも門を建造するような土木工事は、農事を妨げない時期に行うべきものである。
魯の僖公の21年(紀元前639年)
魯の僖公の21年(紀元前639年)夏、大旱魃が起こった。
僖公は、雨乞いのために巫女や尪(すね・背・胸部が弯曲する病気の者)を焼き殺そうとした。
すると臧文仲は。
「それは旱魃への備えではありません!城郭を修理し、食事を減らして出費を節約し、農事に努めさせ、蓄えを分け与えること。これこそ今なすべきことです。巫女や尪(すね・背・胸部が弯曲する病気の者)を焼き殺すことが、何の役に立つのでしょうか。天がもし彼らを殺そうとしているなら、そもそも生まれさせたりはしないでしょう。もし仮に彼らに旱魃を起こす力があるというなら、焼けばなおさら旱魃はひどくなります」
と言って諌め、僖公はその言葉に従った。
この年は飢饉になったが、大きな被害には至らなかった。
秋、宋公(宋の襄公)・楚子(楚の成王)・陳侯(陳の穆公)・蔡侯(蔡の荘侯)・鄭伯(鄭の文公)・許男・曹伯(曹の共公)が盂で会合した。そこで宋公が捕らえられ、そのまま宋を討つための軍が起こされた。
冬、僖公は邾を討った。
楚は宜申(鬬宜申)を使者として送り、戦勝報告を献上した。
12月癸丑の日、僖公は諸侯と共に薄で盟約を結び、そこで宋公は釈放された。
升陘の戦い
魯の僖公の22年(紀元前638年)春、魯は邾を討伐し、須句を奪取してその国君を復位させたが、これは礼にかなった行為であった。
夏、僖公は邾を軽んじ、備えを整えないまま迎え撃った。
これに臧文仲は、
「どんなに小国であっても、決してこれを侮ったり軽んじたりしてはなりません。備えがなければ、たとえ兵が多くても頼りにはなりません。
『詩経』に『恐れ慎み、深淵に臨むように、薄氷を踏むように(戰戰兢兢,如臨深淵,如履薄冰)』とあり、また『敬いなさい、敬いなさい。天命は明らかであり、容易ではない(敬之敬之,天惟顯思,命不易哉!)』ともあります。
先王たちは明徳を備えていてもなお、難事を恐れ、慎みを失いませんでした。まして我らのような小国が、どうして油断できましょうか。
どうか、邾が小国だからといって侮られませぬように。蜂や蠍でさえ毒を持っています。まして国家ならなおさらです」
と言って諌めたが、僖公は聞き入れなかった。
8月丁未の日、僖公は邾軍と(魯の)升陘で戦い、魯軍は大敗した。邾人は僖公の兜を奪い、それを魚門(邾の都の城門の名)に吊るした。
魯の僖公の25年(紀元前635年)
魯の僖公の25年(紀元前635年)冬、衛人は魯と莒の和解を取り持った。
12月癸亥の日、僖公は衛子(衛の成公)および莒の慶と洮で盟約を結んだ。これは、(先代の)衛の文公以来の友好関係を修復すると共に、莒とも和解するためであった。
魯の僖公の26年(紀元前634年)
魯の僖公の26年(紀元前634年)春王正月己未の日、僖公は莒子(茲平公)・衛の甯速(甯莊子)と向の地で会盟した。これは以前の洮の盟約を再確認するためであった。
斉軍が魯の西の国境地帯へ侵攻してきた。この時、僖公は斉軍を追撃して(斉の)酅まで至ったが、追いつくことはできなかった。
斉軍が魯の西の国境地帯へ侵攻してきたのは、斉が(洮と向の)2つの盟約を討とうとしたためである。
夏、斉の孝公が魯の北の国境地帯に向けて出兵した。この時、衛人が斉に出兵したが、それは洮の盟約があったためである。
すると僖公は、展喜を派遣して斉軍をねぎらわせようと、展禽に命じて(展喜に)外交上の口上を授けさせた。
そこで展喜は、斉侯(斉の孝公)がまだ魯の領内へ入る前に、斉侯(斉の孝公)と接触して言った。
展喜「寡君(我が君:僖公)は、君(斉の孝公)自ら玉のように尊いお足を運ばれ、敝邑(我が国:魯)へお越しになると伺いました。そこで執事の方々を慰労させるため、下臣を遣わしたのでございます」
斉侯「魯人は恐れているか?」
展喜「小人たちは恐れておりますが、君子はそうではありません」
斉侯「国の倉は縣罄(屋根と柱だけがあって中が空っぽの意)で、野には青草もないというのに、何を恃みに恐れぬというのか?」
展喜「先王の命を恃みにしております。
昔、周公と太公は周王室の股肱(手足)として、成王を左右から補佐いたしました。成王はその功をねぎらい盟約を賜って『子孫代々に至るまで、互いに害し合ってはならぬ』とおっしゃられました。この盟約は盟府に記録され、大師(太師)がこれを司っております。
(斉の)桓公はこの盟約に基づいて諸侯をまとめて不和を調停し、その欠けたところを補い、災難を救われましたが、これは過去の職責を明らかにしたものです。
そして君(斉の孝公)が即位されると、諸侯はみな、『(孝公は)きっと桓公の功績を受け継がれるであろう』と期待し、敝邑(我が国:魯)のような小国ですら、聚(民)を守り固めようとはいたしませんでした。
なぜなら『まさか先祖以来の盟約を継承してまだ9年にしか経っていないのに、[斉侯(斉の孝公)が]王命を捨てて職責を廃し、先君に顔向けできないようなことをなさるはずがない』と思っているからです」
斉侯(斉の孝公)はこれを聞くと、軍を返して帰還した。
(魯の)東門襄仲(公子遂)と臧文仲は楚へ赴いて援軍を求め、臧孫(臧文仲)は(楚の)子玉(成得臣)に会って「斉と宋を討つべきだ」と説いたが、これは彼らが楚に臣従していないからである。
(夔国の国君・)夔子は(楚王家の祖先である)祝融と鬻熊を祭っていなかった。
楚人が「夔は楚と同じ祖先を持つのに、祖先祭祀をしていないこと」を責めると、夔子は、
「我が先王・熊摯は病を得て鬼神にも赦されず、自ら夔へ逃れました。(この時をもって)吾々は楚から分かれたのです。どうして楚の祖先を祭る必要があるのでしょうか?」
秋、楚の成得臣(子玉)と鬬宜申が軍を率いて夔を滅ぼし、夔子を捕らえて帰った。
宋は晋侯(晋の文公)と親しかったため、楚に叛いて晋に従った。
冬、楚の令尹・子玉(成得臣)と司馬・子西(鬬宜申)が軍を率いて宋を攻撃して緡を包囲した。
僖公は楚軍を率いて斉を攻め、穀を奪った。他国の軍を自分の左右(配下)のように自由に動かすことを「以(もちいる)」と言う。
(僖公は斉の)桓公の子・雍を穀に寘れ、易牙がこれを奉じた。これは魯への援助勢力とするためであり、楚の申公・叔侯がそこを守備した。
斉の桓公には7人の子がおり、楚において七大夫となっていた。
魯の僖公の27年(紀元前633年)
魯の僖公の27年(紀元前633年)春、杞の桓公が魯へ朝見に来たが、彼は(中原諸侯の正式な礼法ではなく)夷狄の礼を用いた。このように杞が礼を尽くさず、恭順ではなかったため、僖公は杞を軽んじていた。
夏6月庚寅の日、斉の孝公が亡くなった。魯は斉に対して遺恨を抱いていたが、それでも葬礼や服喪の礼を省略しなかった。これは礼にかなった行いである。
秋8月乙未の日、斉の孝公を葬った。
乙巳の日、魯の公子遂(東門襄仲)が軍を率いて杞へ侵攻したが、これは杞の無礼を責めるためであった。
冬、楚子(楚の成王)と諸侯は宋を包囲した。
12月甲戌の日、魯の僖公は諸侯と共に宋で盟約を結んだ。
魯の僖公の28年(紀元前632年)
魯の僖公の28年(紀元前632年)春、晋侯(晋の文公)は曹へ侵攻し、さらに(晋軍が国内を通過することを拒否した)衛を攻撃した。正月戊申の日、晋軍は五鹿を攻略した。
その後、晋侯(晋の文公)と斉侯(斉の昭公)は斂盂で盟約した。衛侯(衛の成公)も盟約への参加を願ったが、晋人は許さなかった。
そこで衛侯(衛の成公)は楚と結ぼうとしたが、(衛の)国人たちはそれを望まず、衛侯(衛の成公)を国外へ追放することで晋への謝罪の意を示した。
この時、魯の公子買は衛の守備に当たっており、楚人が衛を救援に来たが、防衛することができなかった。
僖公は晋を恐れ、公子買を殺して晋に弁明し、楚人に対しては「守備を最後まで果たさなかったから処刑したのだ」と言った。
夏4月己巳の日、晋侯(晋の文公)・斉軍・宋軍・秦軍が楚人と城濮で戦い、楚軍は大敗した。
5月癸丑の日、僖公は晋侯(晋の文公)・斉侯(斉の昭公)・宋公(宋の成公)・蔡侯(蔡の荘侯)・鄭伯(鄭の文公)・衛子(衛の成公)・莒子と踐土で盟約した。陳侯(陳の穆公)も会盟へやって来た。
蔡侯(蔡の荘侯)・鄭伯(鄭の文公)・衛子(衛の成公)・陳侯(陳の穆公)は、城濮の戦いで楚が敗北したため晋についた者たちである。
僖公は周王(周の襄王)のもとへ朝見した。
秋、杞伯姫(杞国へ嫁いでいた魯国の姫)が魯へ来た。
(魯の)公子遂(東門襄仲)が斉へ赴いた。
冬、僖公は晋侯(晋の文公)・斉侯(斉の昭公)・宋公(宋の成公)・蔡侯(蔡の荘侯)・鄭伯(鄭の文公)・陳子(陳の共公)・莒子・邾人・秦人と温で会合したが、これは従わない者を討つためであった。
壬申の日、僖公は周王(周の襄王)のもとへ朝見した。
丁丑の日、諸侯は許を包囲した。
魯の僖公の29年(紀元前631年)
魯の僖公の29年(紀元前631年)春、介国の(国君である)葛盧が魯へ(朝見に)やって来て、昌衍の傍らに宿泊したが、僖公は諸侯の会盟に出席していたため、(臣下を通じて)葛盧に芻米(家畜の飼料や米)を贈ってもてなした。これは礼にかなった対応であった。
その後、僖公は許を包囲した戦役から帰国した。
夏、僖公は(周の)王子虎、晋の孤偃、宋の公孫固、斉の国帰父、陳の轅濤塗、秦の小子憖と共に、翟泉で盟約を結んだ。
これは、以前の踐土の盟約を再確認するためであり、あわせて鄭を討伐することを相談するためでもあった。
冬、介国の葛盧が再びやって来たが、これは前回、僖公に会うことができなかったため、改めて朝見に来たのである。魯は彼を礼をもって待遇し、さらに宴を開いて厚く親交を示した。
この時、葛盧は牛の鳴き声を聞いて、
「この牛は『3頭の犠牲獣の子を産んだが、その3頭はすでに祭祀に使われてしまった』と鳴いている」
と言った。そこで実際に調べてみると、まさにその通りであった。
魯の僖公の30年(紀元前630年)
魯の僖公の30年(紀元前630年)、晋侯(晋の文公)は医衍に命じて衛侯(衛の成公)を毒殺させようとしたが、(衛の大夫・)甯俞が医衍に賄賂を贈って毒の量を薄くさせたため、衛侯(衛の成公)は死ななかった。
魯の僖公は衛侯(衛の成公)のために弁護を行い、周王(周の襄王)と晋侯(晋の文公)の双方に、それぞれ10榖(車10両分)の玉を贈った。
周王(周の襄王)はこれを認め、秋になってようやく衛侯(衛の成公)は釈放された。
冬、周王(周の襄王)は周公閲を派遣して魯に聘問させた。魯では饗宴を開いて昌歜(香草の漬物)・白塩・黒塩・形塩(虎の形に固めた塩)などを供したが、周公閲は辞退して言った。
「文徳が天下に明らかで、武威が人々に畏れられるような国君に対しては、その徳を表すため、さまざまな供物を備えた盛大な饗宴が行われるものです。
さまざまな料理を供え、良質な穀物を並べ、虎の形をした塩を置くのは、その文徳と武功を称えるためであり、吾のような者が、そのような厚遇を受ける資格などございません」
その後、公子遂(東門襄仲)が京師(周の王都・洛邑)へ聘問に赴き、そのまま晋へも赴いた。これが魯と晋との間で行われた最初の正式な聘問であった。
魯の僖公の31年(紀元前629年)
魯の僖公の31年(紀元前629年)春、(魯は)済水の西にある田地を取得した。これは(晋から)曹の領地を分割して与えられたものである。
魯は臧文仲を派遣してこれを受け取りに行かせ、臧文仲は重館(重の宿舎)に宿泊した。すると重館の人が告げて言った。
「晋は盟主として新たに諸侯を得たばかりです。諸侯は必ずや自ら貢納や奉仕を行おうとするでしょう。急いで行かなければ間に合わなくなってしまいます」
臧文仲はその言葉に従い、こうして曹の領地が分割された。その範囲は洮より南、東は済水に接する曹の領土のすべてであった。
その後、公子遂(東門襄仲)が晋へ赴いたが、これは曹の田地を与えられたことに対して謝意を表するためであった。
夏4月、(魯は)郊祭を行うために4度占ったが吉兆が得られなかった。そこで供犠の牛を解放し、三望の祭りを行ったが、これらは礼にかなっていない。
礼では「恒例の祭祀を行うかどうか」を占うことはなく、供犠を捧げる日だけを占うのである。牛について日を占うことを「牲」と言い、供犠の牛の準備が整ってから郊祭そのものを占うのは、上に立つ者の怠慢である。
また、望の祭りは郊祭に付随する小さな祭祀である。郊祭を行わないのであれば、望の祭りもまた行うべきではない。
魯の僖公の33年(紀元前627年)
魯の僖公の33年(紀元前627年)春、斉侯(斉の昭公)が国帰父(国荘子)を派遣して魯に聘問させた。
郊外で彼を出迎えて労う儀礼(郊労)から、別れ際に贈り物を手渡す儀礼(贈賄)に至るまで、すべての礼儀が完璧に執り行われただけでなく、彼の立ち振る舞いはさらに機敏で、聡明さに満ちていた。
臧文仲は僖公に言った。
「国子(国帰父)が国政を執っているため、斉にはまだしっかりと『礼』が生きております。我が君、どうか(斉へ赴いて)朝見なさってください。臣は『礼が備わっている大国に従うことこそが、社稷(国家)の衛となる』と聞いております」
狄(北方異民族)が斉に侵入した。これは晋の喪に乗じたものである。
僖公が邾を攻め、訾婁を奪取した。これは升陘の戦いの報復であり、邾人は備えをしていなかった。
秋、公子遂(東門襄仲)が軍を率いて再び邾を攻めた。
冬,公如齊,朝,且弔有狄師也。反,薨于小寢,即安也。
冬10月、僖公が斉に赴き、斉に朝見すると共に、狄(北方異民族)に侵略されたことへのお見舞いを述べた。
12月、僖公は斉から帰国すると、乙巳の日に小寝(奥御殿)で亡くなった*1。自分が落ち着ける安楽な場所へと赴いたからである。
僖公を埋葬する時期が遅れ、神主*2を作る時期も礼にかなっていなかった。
凡そ国君が薨した際の正しい手順としては、卒哭の儀礼を終えてから、祖先の霊廟に合祀する祔祭を行い、合祀してから神主*2を作る。
そして、その新しい神主*2に対して個別に祭祀を行い、先祖代々の宗廟においては、通常通りに冬の祭りである「烝」や秋の祭りである「嘗」、そして大規模な大祭である「禘」を執り行うのが本来の礼のあり方である。
脚注
*1『礼記』喪大記に「君主や夫人は路寝(大寝)で亡くなるべきである」とある。
*2亡くなった人の霊が宿る木製の位牌
出典
- 『史記』魯周公世家
- 『史記』斉太公世家
- 『列女伝』孽嬖・魯荘哀姜
- 『春秋左氏伝』荘公32年
- 『春秋左氏伝』閔公元年、2年
- 『春秋左氏伝』僖公元年、2年、4年、5年、6年、7年、8年、9年、10年、11年、12年、13年、14年、15年、16年、17年、18年、20年、21年、22年、25年、26年、27年、28年、29年、30年、31年、33年
- 『春秋左伝註疏』巻第11
- 『春秋左伝註疏』巻第13
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