正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑲綺里季です。
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凡例
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後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
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き⑲
綺里季
綺里季
生没年不詳。河内郡・軹県(または汲県)の人。秦〜漢初の戦乱を避けて商山に隠れ棲んだ4人の隠士「商山四皓[東園公・甪里先生(角里先生)・綺里季・夏黄公]」の1人。
秦の世を退く
東園公・甪里先生(角里先生)・綺里季・夏黄公の4人はみな道を修め、自らの身を清く保ち、義に適わないことは決して行わなかった。
秦の始皇帝の時代、その政治が苛酷であるのを見て世を退き、藍田山に入り、次のような歌を作った。
莫莫高山,深谷逶迤,曄曄紫芝,可以療飢,唐虞世遠,吾将安帰。
駟馬高蓋,其憂甚大,富貴之畏人,不如貧賤之肆志。
遙かに高くそびえる山と、どこまでも曲がりくねって続く深い谷には、鮮やかに美しく輝く紫芝(霊芝:キノコ)が生えており、これで飢えをしのぐことができる。
だが、(理想の王が治めた)堯・舜の時代は遠く過ぎ去ってしまった今、吾たちは一体どこへ帰ればよいのだろうか。
立派な駟馬(4頭立ての馬車)に乗り高い天蓋を掲げて走るような富貴(高位高官の身分)は、一見すると栄華を極めているように見えるが、その実、抱える憂いはきわめて大きい。
富や地位を得た者は常に人を警戒し、人から害されることを恐れながら生きなければならない。たとえ貧賤(貧しく身分が低いこと)であっても、自分の志のままに自由に生きる方がよい。
こうして彼らはともに商山・雒南の隠れ里である地肺山へ入り、天下が安定する時を待った。彼らはみな鬚眉(鬚と眉)が白かったので「商山四皓」(皓=白)と呼ばれた。
秦が滅びると、漢の高祖(劉邦)はその名声を聞いて彼らを召し出そうとしたが、みな応じなかった。
太子・劉盈を支持する
漢の12年(紀元前195年)、以前から高祖(劉邦)は、太子を呂后の子・劉盈から愛妾・戚夫人の子・劉如意に変えたいと思っていたが、病のため政務をみることができなくなると、いよいよそれを実行に移そうとした。
ある時、酒宴の席上で太子・劉盈の後ろに4人の者が従っていた。歳はみな80有余歳、鬚眉皓白(鬚も眉も白いこと)の老人で、衣冠はまことに見事であった。
高祖(劉邦)はこれを怪しんで、「彼らは何をしている者か?」と問うと、4人は進み出て、それぞれ東園公、甪里先生(角里先生)、綺里季、夏黄公と名乗った。
すると高祖(劉邦)は大いに驚いて、
「吾は数年に亘ってあなた方を探し求めておったのに、あなた方は我を避けておられた。今、あなた方は何故、吾児と一緒におられるのか?」
これに4人は口を揃えて言った。
「陛下は士を軽んじ、よく人を罵られますが、臣たちは『義』としてそのような辱めを受けることはできません。それ故、逃れ匿れておったのです。
ですが秘かに聞きましたところ、『太子(劉盈)には思いやりがあり、情が深く孝行者で、士を恭み敬い愛することから、天下を遙かに望んでみても、太子(劉盈)のために死ぬことを願わない者はいない』とか。
それ故、臣たちはこうしてやって来たのです」
商山四皓の言葉を聞いた高祖(劉邦)は、
「あなた方を煩わせることになるだろうが、どうか最後まで太子(劉盈)を護り助けてやって欲しい」
と言った。
4人は高祖(劉邦)の長寿を祝福すると足早に立ち去った。
これは、留侯(張良)がこの4人を招かせた力によるものであった。太子・劉盈とは、後の前漢・第2代皇帝・恵帝である。
その後4人は、さらに深く終南山に身を隠し、自らの志を曲げることはなかった。
出典
- 『髙士伝』巻中
- 『史記』高祖本紀
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