正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑮帰生きせいです。

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凡例

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後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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き⑮

帰生(公子帰生)

帰生きせい子家しか公子帰生こうしきせい

生年不詳〜宣公せんこうの10年(紀元前599年)没。あざな子家しか春秋しゅんじゅう時代のてい国の公子こうし

外交や軍事で優秀な能力を発揮したが、身の保身のためにてい霊公れいこう弑逆しいぎゃくに加担したため、その死後にひつぎを打ち壊され、その一族は国から追放された。

秦を攻める【鄭の穆公3年】

文公ぶんこうの2年(紀元前625年)冬、しん先且居せんしょきょそう公子こうしせいちん轅選えんせんてい公子こうし帰生きせいしんを攻め、おうおよび彭衙ほうがの地を攻め取って帰還した。これは、かつてしん彭衙ほうがで行った戦い(彭衙ほうがの役)に対する報復であった。

楚に朝見する【鄭の穆公12年】

文公ぶんこうの11年(紀元前616年)6月、帰生きせい穆公ぼくこう嫡子ちゃくし太子たいしのちてい霊公れいこう)を補佐して、陳侯ちんこうちん共公きょうこう)をおもむかせる件を願い出て、穆王ぼくおうに朝見した。

魯の文公の宴【鄭の穆公14年】

文公ぶんこうの13年(紀元前614年)、文公ぶんこうしんおもむいて朝見し、以前の盟約を再確認した。

衛侯えいこうえい成公せいこう)がとうの地で文公ぶんこうと会見し、しんとの和平の仲介を依頼した。

文公ぶんこうが帰途につくと、鄭伯ていはくてい穆公ぼくこう)がの地で文公ぶんこうと会見し、同じくしんとの和平を依頼した。

文公ぶんこうはこれら両国の和平をすべて成立させた。


鄭伯ていはくてい穆公ぼくこう)は文公ぶんこうまねいて宴席を開いたが、その席上で子家しか公子こうし帰生きせい)は鴻雁こうがん*1を朗詠した。

すると季文子きぶんしは「寡君かくん(我が君・文公ぶんこう)もまた、この(苦労から)まぬかれてはおりません」と言い、四月しがつ*2を朗詠した。

するとまた子家しか公子こうし帰生きせい)は載馳さいちの第4章*3を朗詠し、季文子きぶんしはそれにこたえて采薇さいびの第4章*4を朗詠した。

鄭伯ていはくてい穆公ぼくこう)が拝礼すると、文公ぶんこうもこれに答えて拝礼した。

脚注

*1詩経しきょう小雅しょうが彤弓とうきゅうじゅう鴻雁こうがん。戦乱や労役によって家を失い、さまよう避難民の苦しみと、彼らを救済する役人の情景をうたった原文

*2詩経しきょう小雅しょうが小旻しょうびんじゅう四月しがつ。乱世の中で苦しむ人のなげきと、仕えてもむくわれない悲哀ひあいを歌った原文

*3詩経しきょう国風こくふう鄘風ようふう載馳さいち。第4章では「助けを求めても頼る相手はおらず、しかも自分は不当に責められている。この自分の苦しみは他人には理解できない」とうたわれている。原文

*4詩経しきょう小雅しょうが鹿鳴ろくめいじゅう采薇さいび。第4章には「戦いに追われ、休む間もなく出征し続ける兵士の様子」がうたわれている。原文

鄭子家告趙宣子【鄭の穆公18年】

文公ぶんこうの17年(紀元前610年)、晋侯しんこうしん霊公れいこう)は黄父こうふそう*5を行い、そのまま諸侯しょこうに再び集めて会盟した。これはそうとの関係を安定させるためであったが、このとき晋侯しんこうしん霊公れいこう)は「ていしんの両方に通じている」と考えて、鄭伯ていはくてい穆公ぼくこう)に会おうとしなかった。

そこでてい子家しか公子こうし帰生きせい)は、使者を派遣して弁明の書を送り、過去の誠実な朝貢実績を列挙しつつ、大国にはさまれた小国の苦しい立場をうったえ、これ以上の無理難題には滅亡もさずに戦う覚悟であることを、趙宣子ちょうせんし趙盾ちょうとん)に伝えさせた。

その結果、しん鞏朔きょうさくていに出向いて事態の収拾をはかり、(その約束の証拠として、しんの)趙穿ちょうせん公婿池こうせいちの2人が人質となり、冬10月にはてい太子たいしのちてい霊公れいこう)と大夫たいふ石楚せきそが人質としてしんへ送られた。

子家しか公子こうし帰生きせい)の弁明・全文
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鄭子家告趙宣子

寡君かくん(我が君・穆公ぼくこう)は即位して3年目に、蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)をまねいて、共に君(しん襄公じょうこう)に仕えようとしました。

(その年の)9月には、蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)が敝邑へいゆう(我が国・てい)に来て共に出発しようとしましたが、敝邑へいゆう(我が国・てい)では侯宣多こうせんたによる反乱が起こったため、寡君かくん(我が君・穆公ぼくこう)は蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)と一緒に(しんへ)行くことができませんでした。

そして、11月にようやく侯宣多こうせんたち平らげましたので、その後すぐに蔡侯さいこうさい荘侯そうこう)に従って(しんの)執事しつじ先且居せんしょきょ)に朝見することができました。

てい穆公ぼくこうの)12年(紀元前616年)6月には、帰生わたくし寡君かくん(我が君・穆公ぼくこう)の嫡子・太子たいしのちてい霊公れいこう)を補佐し、「陳侯ちんこうちん共公きょうこう)をおもむかせる件」を願い出て、穆王ぼくおうに朝見しました。*6

てい穆公ぼくこうの)14年(紀元前614年)7月には、寡君かくん(我が君・穆公ぼくこう)は再び(に)朝見しましたが、それはちんの件を完了させるためでした。

てい穆公ぼくこうの)15年(紀元前613年)5月には、陳侯ちんこうちん霊公れいこう)は敝邑へいゆう(我が国・てい)を通ってしんに朝見しております。

かつて正月には、(ていから)燭之武しょくしぶが(しんへ)おもむきましたが、それは(太子たいし・)を(しんへ)朝見させるためでした。*7

そして8月には、寡君かくん(我が君・穆公ぼくこう)がまた(しんへ)朝見におもむいております。

ちんさいがこれほどに近い場所にありながら、しんに対して二心ふたごころいだかずにいられるのは、ひとえに敝邑へいゆう(我が国・てい)がとの間に入って調整役をになってきたからです。

それほどまでに敝邑へいゆう(我が国・てい)が君(しん霊公れいこう)に仕えていながら、何ゆえ非難をまぬかれることができないのでしょうか?

在位(18年)の中で(我が君は、しんの)襄公じょうこうに1度、そして(現在の)君(しん霊公れいこう)に2度、拝謁しております。

太子たいしの)わたくしたち数人の臣下も、幾度いくどとなく(しんの都である)こうの地をおとずれております。我が国のような小国にとって、これ以上の誠意の尽くし方はございません。

それなのに今、大国(しん)は「おまえはまだわたしの志にかなっていない」と言われます。これでは敝邑へいゆう(我が国・てい)は滅亡する他なく、これ以上何をどうしろと言われるのでしょうか。

古人は「頭をおそれ、尻尾をおそれていたら、身の置き所がどこに残ろうか」と言い、また「鹿は死ぬ時に鳴き声を選ばない」とも言っています。

小国が大国に仕える場合、大国に徳があれば人間として仕えることができますが、徳がなければ(追いめられた)鹿となります。

(鹿が)必死に走ってけわしいみちへ逃げ込むように、追いめられれば(手段を)選ばず危険な道をも走るものです。

(我が国の)命運はきわまり滅亡することも覚悟しております。国中の兵力のすべてを動員して、(しんの大軍が押し寄せてくる)その時をお待ちいたしております。

あとは、執事あなた趙宣子ちょうせんし趙盾ちょうとん)]のご命令次第です。

(かつてていの)文公ぶんこうの2年(紀元前671年)6月壬申じんしんの日、(我が国は)せいに朝貢いたしました。(文公ぶんこうの)4年(紀元前669年)2月壬戌じんじゅつの日には、せいのためにさいに侵攻し、同時にとも和睦わぼくしました。

大国の間にあって強者の命令に従うことの、一体どこに罪があるというのでしょうか。もし大国(しん)がこの苦境をみ取ってくださらないのであれば、もはやどこにも逃げ場はありませんっ!

脚注

*5本来は「春の狩猟」をすが、この文脈では「春の軍事演習・閲兵式」を意味する。春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん隠公いんこう5年の注釈によれば、四季の狩猟にはそれぞれ名があり、春は「そう」、夏は「びょう」、秋は「せん」、冬は「しゅう」と呼び分けられた。

*6原文:十二年,六月,歸生佐寡君之嫡夷,以請陳侯于楚,而朝諸君。

*7原文:往年正月,燭之武往,朝夷也。

大棘の戦い【鄭の穆公21年】

宣公せんこうの2年(紀元前607年)春、てい公子こうし帰生きせいから命を受けてそうを討伐し、そう華元かげん楽呂がくりょがこれを迎え撃った。

2月壬子じんしの日、大棘たいきょくで戦い、そう軍は大敗した。華元かげんは捕虜となり、楽呂がくりょらえられ、さらに甲車(戦車)460じょう鹵獲ろかくし、(捕虜)250人、かく(首をげられた者)は100人に及んだ。

エピソード

らえられた狂狡きょうこう

狂狡きょうこうという者が戦車でてい兵を襲ったが、てい兵は井戸の中に落ちてしまった。狂狡きょうこうげきを逆さにして(戦闘をやめる意思を示して)彼らを助け出したが、その隙に、逆に狂狡きょうこうらえられてしまった。

君子(識者)はこれを評して言った。

「礼を失い、命令にそむいたのだから、らえられるのも当然である。そもそも戦いにおける『礼』とは、明らかに『』と『』を示してそれに従うことである。敵をつのが『』であり、その成果を確実なものにするのが『』である。これを軽んじれば、それはただの殺戮さつりくにすぎない」


あつものうら

戦いにのぞみ、華元かげんは羊を殺して兵士たちに食べさせたが、御者ぎょしゃ羊斟ようしんには羊のあつもの(スープ)を分け与えなかった。

戦いに及んで、羊斟ようしんは言った。

「先日の羊のことはあなたが決めたが、今日の戦いのことは、わたしが決めさせてもらおう」

こうして羊斟ようしんが、戦車をあやつっててい軍の中へ駆け込んだために、そう軍は敗北したのである。

君子(識者)はこれを評して言った。

羊斟ようしんは非人(人でなし)である。私的なうらみによって国を敗北させ、民を滅ぼした。この罪より重い刑罰があろうか。
詩経しきょうに言う『人として善良でない者』とは、まさにこの羊斟ようしんのことを言うのであろう。民を苦しめて自分の怒りを晴らす者である」

霊公殺害に加担する【鄭の霊公元年】

宣公せんこうの4年(紀元前605年)、ひとてい霊公れいこうに、黿げん(大きなすっぽん)を献上した。

公子こうしそう子家しか公子こうし帰生きせい)はそれを見に行こうとしていたが、その時、公子こうしそうの食指(人差し指)がぴくりと動いたので、彼はそれを子家しか公子こうし帰生きせい)に示して、

「以前にもこうして指が動いたことがあるが、その時には必ずめずらしいご馳走にありついたものだ」

と言った。(「食指が動く」の語源)

公子こうしそう子家しか公子こうし帰生きせい)が宮中に入ると、ちょうど宰夫さいふ(料理人)がその黿げん(大きなすっぽん)をさばこうとしていたので、2人は顔を見合わせて笑った。

するとそれを見た霊公れいこうが、「何を笑っているのか?」とうたので、子家しか公子こうし帰生きせい)は(公子こうしそうの指の話を)そのまま話した。

その後、大夫たいふたちに「すっぽん料理」が振る舞われたが、霊公れいこう公子こうしそうを呼んでおきながら、彼には食べさせなかった。

この仕打ちに怒った子公しこう公子こうしそう)は、かなえ(食べ物を煮る3本脚のうつわ)の中に指を入れて汁をつけ、それを舐めてからそのまま退出したので、霊公れいこうは激怒した。


霊公れいこうに殺害されることを恐れた子公しこう公子こうしそう)は「殺される前に事を起こそう」と、子家しか公子こうし帰生きせい)に相談したが、子家しか公子こうし帰生きせい)は、

「年老いた家畜でさえ、殺すにはためらうものだ。ましてや君(霊公れいこう)をどうして殺せようか」

と言って子公しこう公子こうしそう)をいさめた。

すると子公しこう公子こうしそう)は、子家しか公子こうし帰生きせい)をおとしいれようとして彼を讒言ざんげんしたので、子家しか公子こうし帰生きせい)は恐れ、ついに子公しこう公子こうしそう)に従い、霊公れいこう弑逆しいぎゃく(殺害)した。夏6月乙酉いつゆうの日のことである。


ていひと子良しりょう公子こうし去疾きょしつ)を国君に立てようとしたが、子良しりょう公子こうし去疾きょしつ)は、

「賢明さで選ぶなら去疾わたしでは力不足です。順序で選ぶなら公子こうしけんの方が年長です」

と言って辞退したので、公子こうしけんが立てられた。これがてい襄公じょうこうである。


冬、楚子そし荘王そうおう)がていを攻めた。これは、ていがまだに従っていなかったからである。

子家(公子帰生)の死【鄭の襄公6年】

宣公せんこうの10年(紀元前599年)冬、子家しか公子こうし帰生きせい)はせいおもむいた。これはちゅうを討伐した件のためである。(せいから)国武子こくぶしが答礼の使者としてやって来た。

楚子そし荘王そうおう)がていを攻めた。しん士会しかい范武子はんぶし)がていを救援し、潁水えいすいの北での軍を追い払った。諸侯しょこうの軍はていに駐屯して守備にあたった。


子家しか公子こうし帰生きせい)が亡くなった。

ていひとは「幽公ゆうこう霊公れいこう)の乱」を罪として追及し、子家しか公子こうし帰生きせい)のひつぎを打ち壊して、その一族を国から追放した。

ていひとは)幽公ゆうこうを改めてほうむり直し、彼に「れい」というおくりなを与えた。

後世の評価

書(春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん宣公せんこう4年)に「鄭公子歸生弒其君夷(てい公子こうし帰生きせいがその君主・弑逆しいぎゃくした)」と書かれているのは、(公子こうし帰生きせいに)「権」が不足していたからである。

君子(識者)はこれについて、

「仁があっても、武(決断力・実行力)がなければ、事を成しげることはできない」

と言う。

およそ君主を弑逆しいぎゃくした場合に「君」としるすのは、その君主に道義がなかったからである。一方で「臣」としるすのは、臣下の側に罪がある場合である。


つまり、霊公れいこうが「君夷」としるされ、主犯である子公しこう公子こうしそう)ではなく公子こうし帰生きせいの名がしるされているのは、霊公れいこうの無道を示すと共に、公子こうし帰生きせいが、その立場にありながら子公しこう公子こうしそう)の弑逆しいぎゃくおさえることができなかった責任を示したものである。

出典
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん文公ぶんこう2年文公ぶんこう13年文公ぶんこう17年
  • 春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん宣公せんこう2年宣公せんこう4年宣公せんこう10年
  • 魏書ぎしょ王毌丘諸葛鄧鍾伝おうかんきゅうしょかつとうしょうでん
  • 魏書ぎしょ王淩伝おうりょうでん

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