建安(けんあん)元年(196年)6月、徐州(じょしゅう)に侵攻した袁術(えんじゅつ)と劉備(りゅうび)の戦いと呂布(りょふ)の裏切り(張飛(ちょうひ)と曹豹(そうほう)の諍(いさか)いによる下邳県(かひけん)の失陥)、呂・・・
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【三国志年表詳細】195年の主な出来事と三国志群雄勢力図
195年【漢:興平(こうへい)2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
【鮑丘の戦い】鮮于輔らに敗れた公孫瓚が易京に立て籠もる
劉虞(りゅうぐ)を処刑して幽州(ゆうしゅう)の実権を握った公孫瓚(こうそんさん)を、鮮于輔(せんうほ)・麴義(きくぎ)(袁紹(えんしょう))らが破った「鮑丘(ほうきゅう)の戦い」についてまとめています。
曹操の雍丘県包囲と臧洪の反乱。張超と臧洪の絆
兗州(えんしゅう)をほぼ手中に収(おさ)めた曹操(そうそう)が最後に残った雍丘県(ようきゅうけん)を包囲すると、これを救援しようとする臧洪(ぞうこう)と、それを許さない袁紹(えんしょう)の間に亀裂が生じました。 雍丘県(・・・
袁紹はなぜ献帝を鄴に迎えなかったのか
興平(こうへい)2年(195年)7月、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て東に向かい、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を都に定めたことを受け、袁紹(えんしょう)は使者として郭図(かくと)・・・
曹操の兗州平定。曹操に敗れた呂布が徐州の劉備を頼る
興平(こうへい)2年(195年)春、先年の蝗害(こうがい)により停戦していた曹操(そうそう)が再度兗州(えんしゅう)奪還に動きだし、兗州(えんしゅう)を平定するまでについてまとめています。
【三国志年表詳細】194年の主な出来事と三国志群雄勢力図
194年【漢:興平(こうへい)元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。