初平(しょへい)3年(192年)6月、長安(ちょうあん)を落として朝廷の実権を握った李傕(りかく)と郭汜(かくし)ですが、それぞれ自(みずか)らの功績を誇(ほこ)って権力を争い、興平(こうへい)2年(195年)に入ると、・・・
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初平(しょへい)3年(192年)6月、長安(ちょうあん)を落として朝廷の実権を握った李傕(りかく)と郭汜(かくし)ですが、それぞれ自(みずか)らの功績を誇(ほこ)って権力を争い、興平(こうへい)2年(195年)に入ると、・・・
194年【漢:興平(こうへい)元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
陶謙(とうけん)の配下に父・曹嵩(そうすう)を殺害されたことで、これを陶謙(とうけん)の責任として徐州(じょしゅう)に攻め込んだ曹操(そうそう)。 ですが、本拠地の兗州(えんしゅう)で呂布(りょふ)・陳宮(ちんきゅう)ら・・・
孫堅(そんけん)死後の孫策(そんさく)の動向と、徐州(じょしゅう)の攻略を目指す袁術(えんじゅつ)と揚州刺史(ようしゅうしし)・劉繇(りゅうよう)が戦うことになった経緯についてまとめています。
『三国志演義(さんごくしえんぎ)』では、民の安寧(あんねい)を願うだけの好好爺(こうこうや)のように描かれ、正史(せいし)『三国志(さんごくし)』を編纂(へんさん)した陳寿(ちんじゅ)の評では「論評に値しない」と酷評(こ・・・
曹操(そうそう)軍の来襲に、青州(せいしゅう)・北海国(ほっかいこく)の孔融(こうゆう)に援軍を求めた陶謙(とうけん)ですが、北海国(ほっかいこく)でも反乱が起こり、陶謙(とうけん)を救援する余裕はなくなってしまいました・・・