三国志演義さんごくしえんぎには続編がある…。そんなウワサを聞いて、「興味はあるけどまだ読んだことはない」というあなたに、三国志後伝さんごくしこうでん続三国演義ぞくさんごくえんぎ)のあらすじをざっくりご紹介します。

スポンサーリンク

主な登場人物

三国志後伝さんごくしこうでん続三国演義ぞくさんごくえんぎ)には、劉備りゅうびの孫・劉璩りゅうきょ(後の劉淵りゅうえん)をはじめ、蜀漢しょくかんの臣下の子孫たちが多数登場します。

赤字の人物は史実に存在する人物ですが、血縁関係はすべて創作になります。

名前 続柄
劉璩りゅうきょ(後の劉淵りゅうえん 劉備りゅうびの孫
劉曜りゅうよう 劉備りゅうびのひ孫
劉霊りゅうれい 劉封りゅうほうの子
諸葛宣于しょかつせんう 諸葛亮しょかつりょうの孫
関防かんぼう関謹かんきん関山かんざん関心かんしん 関羽かんうの孫
張賓ちょうひん張実ちょうじつ張敬ちょうけい 張飛ちょうひの孫、張苞ちょうほうの子
趙染ちょうせん趙概ちょうがい趙勒ちょうろく(後の石勒せきろく 趙雲ちょううんの孫
黄臣こうしん黄命こうめい 黄忠こうちゅうの孫
姜発きょうはつ姜飛きょうひ 姜維きょういの子
王弥おうび王如おうじょ 王平おうへいの子

また、この他にも魏延ぎえん廖化りょうか馬謖ばしょく李厳りげん楊儀ようぎらの子孫も登場します。


スポンサーリンク


『三国志後伝』のあらすじ

成都脱出

263年、鄧艾とうがい鍾会しょうかいが大軍をもって蜀漢しょくかんに侵攻を開始すると、蜀漢しょくかんの第2代皇帝・劉禅りゅうぜんはあっけなく降伏してしまいます。

これにより、221年に劉備りゅうびが建国した蜀漢しょくかんは、わずか2代で滅亡することになりました。


この時、劉備りゅうびの孫である劉璩りゅうきょは、猛将・斉万年せいばんねん劉封りゅうほうの子・劉霊りゅうれいらと共に蜀漢しょくかんの再興を期して成都せいとから逃亡します。

そのことを知った諸葛亮しょかつりょう関羽かんう張飛ちょうひ趙雲ちょううん黄忠こうちゅう姜維きょうい王平おうへいらの子孫たちも、みな劉璩りゅうきょの後に続いてそれぞれ成都せいとから脱出しました。

晋(西晋)による天下統一

しばらくして、蜀漢しょくかんを降伏させたで政変が起こります。

司馬懿しばいの孫・司馬炎しばえんの皇帝に禅譲ぜんじょうせまり、帝位にいてしん西晋せいしん)王朝を建国したのです。その後しんも滅ぼして、ついに天下統一をげました。

決起

成都せいとを脱出した劉璩りゅうきょは「劉淵りゅうえん」と名を変え、北方騎馬民族である匈奴きょうどの土地にのがれていました。

そして、司馬炎しばえんが亡くなって暗愚な恵帝けいていが即位すると、これを好機と見た劉淵りゅうえんは兵を集め、かん軍を名乗って決起します。


劉淵りゅうえんひきいるかん軍は、猛将・斉万年せいばんねんの活躍によってしんの城を次々に落としていきます。すると、しんは本格的な討伐軍を派遣して来ました。

ちょうどそこへ張飛ちょうひの孫・張賓ちょうひん諸葛亮しょかつりょうの孫・諸葛宣于しょかつせんうが駆けつけます。

大変喜んだ劉淵りゅうえんは2人を軍師ぐんしに任命し、彼らの策によってかん軍はついにしんの討伐軍を撃ち破ることができました。

遺臣たちの集結

ですが、敵の策略にかかった斉万年せいばんねんが戦死してしまいます。

劉淵りゅうえんはやむなくしんの北部にある左国城さこくじょうゆずり受けることを条件にしんと講和を結びました。

これにより劉淵りゅうえんは、しんへの侵攻をあきらめざるを得ない状況になってしまいましたが、この間に離ればなれになっていた関羽かんう張飛ちょうひ趙雲ちょううん黄忠こうちゅう王平おうへいらの子孫が続々と劉淵りゅうえんの元にせ参じました。

八王の乱

しばらくすると、しんでは権力をめぐって皇族である司馬しば一族の間で「八王の乱」と呼ばれる内乱が起こります。

劉淵りゅうえんはこれを機に、滅亡した蜀漢しょくかんを受け継ぐ『北漢ほくかん』をおこして皇帝に即位します。さらに、集結した遺臣たちをひきいてしんへの侵攻を開始しました。

しん司馬懿しばいのひ孫・司馬穎しばえいを司令官に、陸遜りくそんの孫・陸機りくきを参謀にして、100万を超える大軍でかん軍を迎え撃ちます。


諸将の活躍により戦いを有利に進めたかん軍ですが、戦線がしだいに膠着こうちゃく状態におちいったため、両軍はまたも講和してかん軍は北へ引きげました。

洛陽陥落

両軍の講和後も「八王の乱」は収まらず、討伐軍を指揮した司馬穎しばえい陸機りくきも内乱で命を落としてしまいました。

これを知った劉淵りゅうえんは、またも兵を起こします。

この時目覚ましい活躍をしたのが趙雲ちょううんの孫・石勒せきろくと、劉淵りゅうえんおい劉曜りゅうようでした。そして劉曜りゅうよう三度みたびの攻防の末、ついにしんの首都・洛陽らくようを陥落させてしんの皇帝を捕らえました。


その後、かんでは劉淵りゅうえんが亡くなったため子の劉聡りゅうそうが後をぎ、江南こうなんでは司馬懿しばいのひ孫である司馬睿しばえいが皇帝に即位してしん東晋とうしん)を再興します。

続く戦乱

かん軍はしんを相手に勝利を重ねていきますが、次第に攻めあぐね、しんを滅ぼすことができません。

また、石勒せきろくかんから自立を図り、劉聡りゅうそうが慢心して忠臣たちを死に追いやったため、かんは少しずつ衰退していきます。

そして、ついにかんでは劉聡りゅうそうが亡くなり、子の劉粲りゅうさんが即位します。

宿願である「打倒しん」の半ばを達したかんですが、ここで左丞相さじょうしょう靳準きんじゅんが反乱を起こし、劉粲りゅうさんをはじめとするかんの皇族が皆殺しにされてしまいました。

そのことを知った劉曜りゅうよう石勒せきろくと共に靳準きんじゅん討伐の兵を起こし、靳準きんじゅんとその一族を処刑します。

ですが、皇帝を失ったかんは次第に分裂し、中国大陸は五胡十六国ごこじゅうろっこく時代という長い戦乱の時代に入っていきました。


三国志後伝さんごくしこうでん続三国演義ぞくさんごくえんぎ)は、「しょく臣の子孫たちがかんの再興のためにしんに立ち向かう」という、一見すると完全にフィクションのような設定ですが、そのストーリーは不思議と三国志演義さんごくしえんぎのその後の歴史の流れに沿っていく、しっかりとした歴史小説になっています。

滅亡した蜀漢しょくかんの遺臣たちが、一人また一人と劉淵りゅうえんの元に集まってしんに立ち向かう姿は、しょく好きの方にはたらない作品と言えるでしょう。

関連記事

劉備達の子孫が活躍する『三国志後伝』の概要と成立過程


スポンサーリンク


『三国志後伝』が無料で読める!

三国志後伝さんごくしこうでんは、長い間現代文に翻訳されたものは存在していませんでしたが、現在では小説投稿サイト「カクヨムで無料で読むことができます。


続三国志演義─通俗續三國志─

続三国志演義Ⅱ─通俗續後三國志前編─

続三国志演義Ⅲ─通俗續後三國志後編─


通俗續三國志つうぞくぞくさんごくし通俗續後三國志つうぞくぞくごさんごくしは、三国志後伝さんごくしこうでんの翻訳名です。