正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧③季孫氏(きそんし)③[季武子(きぶし)(季孫宿(きそんしゅく))]です。

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凡例・関連記事

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き⑤

季武子

季武子(きぶし)(季孫宿(きそんしゅく))

生年不詳〜魯(ろ)の昭公(しょうこう)の7年(紀元前535年)11月没。名は宿(しゅく)。一名を夙(しゅく)。父は季文子(きぶんし)(季孫行父(きそんこうほ))。曽祖父は魯(ろ)の桓公(かんこう)の弟・季成子(きせいし)(季友(きゆう))。魯(ろ)の正卿(せいけい)(宰相(さいしょう))。

父・季文子の後を継ぐ

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の6年(紀元前567年)冬、晋(しん)は魯(ろ)が鄫(しょう)を助けなかったため、魯(ろ)にやって来て「なぜ鄫(しょう)を滅ぼしたのか」とその罪を責め正した。

そこで季武子(きぶし)は晋(しん)に赴(おもむ)き、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))に会見して父(季文子(きぶんし))の後を継いだ挨拶(あいさつ)をし、鄫(しょう)を滅ぼした罪の裁きを受けようとした。


魯(ろ)の襄公(じょうこう)の7年(紀元前566年)夏、南遺(なんい)は(季武子(きぶし)の領地である)費(ひ)の宰(さい)(代官)であった。当時、隧正(すいせい)*1の叔仲昭伯(しゅくちゅうしょうはく)は、季氏(きし)(季武子(きぶし))に取り入ろうと考えて南遺(なんい)に媚(こ)びへつらい、「費(ひ)の城普請(ふしん)をするようにお願いしてはどうか。吾(わたし)が人夫を都合いたしましょう」と言った。こうして季氏(きし)(季武子(きぶし))は費(ひ)に城壁を築いたのである。

秋、季武子(きぶし)は衛(えい)に赴(おもむ)いて、[魯(ろ)の襄公(じょうこう)の元年(紀元前572年)冬に]衛(えい)の子叔(ししゅく)(公孫剽(こうそんひょう))が来聘(らいへい)したことへの返礼を行い、「返礼が遅れたのは、二心(ふたごころ)があってのことではない」ことを弁解した。

脚注

*1主に郊外の庶民の労役徴発と地方事務の管理を行う。

季武子と范宣子

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の8年(紀元前565年)5月甲辰(こうしん)(7日)、晋(しん)は諸侯(しょこう)の大夫(たいふ)を邢丘(けいきゅう)に会合させ、晋(しん)に朝聘(ちょうへい)すべき回数を命じて、それを守るように言い渡した。この会合に、魯(ろ)からは季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))、斉(せい)からは高厚(こうこう)、宋(そう)からは向戌(しょうしゅつ)、衛(えい)からは甯殖(ねいしょく)、邾(ちゅう)(人物不明)など、大夫(たいふ)たちが出席し、(鄭(てい)の)鄭伯(ていはく)は大夫(たいふ)ではなく自(みずか)ら出席した。


冬、楚(そ)の子囊(しのう)(公子(こうし)貞(てい))が鄭(てい)を攻撃した。これは、鄭(てい)が(晋(しん)のために)蔡(さい)を侵(おか)したことが原因であるが、鄭(てい)は晋(しん)の援軍を待たずに楚(そ)と和平を結んだ。

その後、晋(しん)の范宣子(はんせんし)(士匃(しかい))が魯(ろ)に来聘(らいへい)して襄公(じょうこう)が晋(しん)を訪問したことに対する返礼をし、「鄭(てい)に軍を出す考えであること」を告げた。

襄公(じょうこう)が范宣子(はんせんし)をもてなした宴(うたげ)の席で、范宣子(はんせんし)は(「戦いの時期に遅れないで欲しい」という意味を込めて『詩経(しきょう)』国風(こくふう)・召南(しょうなん)・)摽有梅(ひょうゆうばい)(なかなか嫁にいけない乙女の焦(あせ)りを歌った賦(ふ))を歌った。

すると范宣子(はんせんし)の意を悟った季武子(きぶし)は、「誰が敢(あ)えて遅れましょうか。今、草木に例えるならば、寡君(かくん)(我が君)は晋君(しんくん)の臭いや味のようなものです。いついかなる時でも喜んでご命令をお受けいたします」と答え、(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・桑扈(そうこ)の什(じゅう)・)角弓(かくきゅう)(上下関係の逆転などを嘆(なげ)き、秩序を重んじるべきことを諭(さと)す賦(ふ))を歌い、賓客(ひんかく)(范宣子(はんせんし))が退出しようとする時、(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・彤弓(とうきゅう)の什(じゅう)・)彤弓(とうきゅう)(大切な客を迎えて礼を尽くす様子を歌った賦(ふ))を歌った。

すると范宣子(はんせんし)は「[魯(ろ)の僖公(きこう)の28年(紀元前632年)の]城濮(じょうぼく)の戦いの時、我が先君・文公(ぶんこう)は衡雍(こうよう)で戦勝を報告し、襄王(じょうおう)から彤弓(とうきゅう)(朱(しゅ)塗(ぬ)りの弓。天子(てんし)が大功のあった諸侯(しょこう)に与えたもの)を授(さず)けられ、子孫に伝えるべき宝としました。匄(わたし)は先君(文公(ぶんこう))に守官(しゅかん)として仕えた者の子孫です。どうして仰せをありがたくいただかないことがありましょう」と言った。

君子(人格者)は范宣子(はんせんし)のことを「礼をわきまえた人物である」と言った。

晋の鄭討伐と魯の襄公の元服

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の9年(紀元前564年)夏、季武子(きぶし)は前年の范宣子(はんせんし)(士匃(しかい))の来聘(らいへい)に対する返礼のため晋(しん)に赴(おもむ)いた。

冬10月、諸侯(しょこう)が鄭(てい)を伐(う)ち、庚午(こうご)の日(11日)、

  • 魯(ろ)の季武子(きぶし)(季孫宿(きそんしゅく))・斉(せい)の崔杼(さいちょ)・宋(そう)の皇鄖(こううん)は晋(しん)の荀罃(じゅんおう)(知伯(ちはく)・知武子(ちぶし))と士匃(しかい)(范宣子(はんせんし))が率(ひき)いる中軍に従って(鄭(てい)の)鄟門(せんもん)に布陣し、
  • 衛(えい)の北宮括(ほくきゅうかつ)・曹(そう)人(ひと)・邾(ちゅう)人(ひと)は晋(しん)の荀偃(じゅんえん)(中行献子(ちゅうこうけんし))と韓起(かんき)が率(ひき)いる上軍に従って(鄭(てい)の)師之梁門(ししりょうもん)に布陣し、
  • 滕(とう)人(ひと)・薛(せつ)人(ひと)は晋(しん)の欒黶(らんえん)と士魴(しほう)が率(ひき)いる下軍に従って(鄭(てい)の)北門(ほくもん)に布陣し、
  • 杞(き)人(ひと)・郳(げい)人(ひと)は晋(しん)の趙武(ちょうぶ)と魏絳(ぎこう)が率(ひき)いる新軍に従って並木の栗(くり)の木を斬り倒して軍用に提供した。

この結果、鄭(てい)は和睦(わぼく)を申し出、晋(しん)はこれを受け入れ盟約を結んだが、晋(しん)は鄭(てい)を思うようにすることができず、諸侯(しょこう)を率(ひき)いて再び鄭(てい)を伐(う)った。


閏(うるう)12月、魯(ろ)の襄公(じょうこう)は晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))が戦いから帰るのを見送り、晋侯(しんこう)は襄公(じょうこう)と一緒に黄河(こうが)の畔(ほとり)で酒宴を開いた。その席で晋侯(しんこう)が襄公(じょうこう)の年齢を尋(たず)ねると、季武子(きぶし)が答えて、

「沙隨(さずい)で会合した年[魯(ろ)の成公(せいこう)の16年(紀元前575年)]に生まれました」

と言った。晋侯(しんこう)が、

「12歳になりましたか。12年は星(木星)の周期が終わる一区切りの期間だ。国君は15歳で子を生むものだが、礼として元服してから子を生む。君(襄公(じょうこう))は冠(元服)なされるがよい。 大夫(たいふ)(季武子(きぶし))はどうして冠の用意をしてやらないのか?」

と言うと、季武子(きぶし)は答えて言った。

「君(襄公(じょうこう))が冠礼を行うには、必ず祼享(かんきょう)の礼*2を行い、金石(鐘や磬(けい))の音楽でこれを整え、先君の祧(ちょう)(先祖の廟(びょう))において執(と)り行うのものです。今、寡君(かくん)(我が君)は遠征中でございますので、すべてを備えることができません。どうか兄弟の国に至った時、その用具を借りて行わせてください」

晋侯(しんこう)は「よろしい」と言い、魯(ろ)の襄公(じょうこう)は帰還の途上で衛(えい)に着くと、(衛(えい)の)成公(せいこう)の廟(びょう)で冠礼を執(と)り行った。

脚注

*2清めの酒を注(そそ)いで祖先に供(そな)えて祭る礼。

三軍を創設する

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の11年(紀元前562年)春、季武子(きぶし)は三軍を創設したいと思い、叔孫穆子(しゅくそんぼくし)(叔孫豹(しゅくそんほう))に「三軍を創設して(三桓(さんかん)*3が)それぞれ一軍を支配し(、所属する民から税を取り立てることにし)よう」と告げた。

叔孫穆子(しゅくそんぼくし)は「やがて子(あなた)は魯(ろ)の実権を握ります。そうなれば、子(あなた)はきっと自分の下に軍を1つにまとめるでしょう」と言ったが、それでも季武子(きぶし)はそれを強く望んだ。そこで叔孫穆子(しゅくそんぼくし)は「ならば盟約を結びましょう」と言い、魯(ろ)の僖公(きこう)の廟門(びょうもん)で盟(ちか)い、(衆人にも目につくように人通りの多い)五父(ごほ)の衢(く)(辻)で神に誓った。*4

正月、三軍を創設して公室が支配する民を3分割し、その1つずつをそれぞれ(三桓(さんかん)*3の)3家に割り当てたので、3家は。 三人の子はそれぞ今まで私有していた軍隊を廃止した。季氏(きし)(季武子(きぶし))は自分の軍隊に従う民で、季氏(きし)(季武子(きぶし))に夫役(ぶえき)や租税を納める者には公税(魯国(ろこく)の税)を免除し、それらを季氏(きし)(季武子(きぶし))に納めない者には倍の課役を課した。

孟氏(もうし)(孟献子(もうけんし))は自分の軍隊に従う民の子弟の半分を臣下として扱い、叔孫氏(しゅくそんし)(叔孫穆子(しゅくそんぼくし))はその子弟のすべてを臣下とし、従わなければ解放しなかった。

脚注

*3魯(ろ)の第15代国君・桓公(かんこう)の子孫である孟孫氏(もうそんし)(仲孫氏(ちゅうそんし))・叔孫氏(しゅくそんし)・季孫氏(きそんし)は三桓氏(さんかんし)と呼ばれ、代々魯国(ろこく)の実権を握っていた。季孫氏(きそんし)はその主席であった。

*4原文:穆子曰,政將及子,子必不能,武子固請之,穆子曰,然則盟諸,乃盟諸僖閎,詛諸五父之衢,

諸侯が向で会合する

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の12年(紀元前561年)春2月、莒(きょ)が魯(ろ)の東の国境を攻め、台(たい)を包囲した。そこで季武子(きぶし)は台(たい)を救援し、その勢いに乗じて莒(きょ)の鄆(うん)に攻め入ると、その鐘を取り上げて(祭器の)公盤(こうばん)を作った。


魯(ろ)の襄公(じょうこう)の14年(紀元前559年)春正月、呉(ご)は楚(そ)と戦って大敗したことを晋(しん)に告げた。そこで呉(ご)のために楚(そ)を伐(う)つ相談をするため、晋(しん)の范宣子(はんせんし)(士匃(しかい))・鄭(てい)の公孫蠆(こうそんたい)・斉(せい)・宋(そう)・衛(えい)・曹(そう)・莒(きょ)・邾(ちゅう)・滕(とう)・薛(せつ)・杞(き)・小邾(しょうちゅう)の代表者、魯(ろ)からは季武子(きぶし)と子叔斉子(ししゅくせいし)(叔老(しゅくろう))が、向(しょう)で呉(ご)と会合した。

晋(しん)は(魯(ろ)が2人の卿(けい)を出席させたことに感心し、)これ以降、魯(ろ)の幣(へい)(貢ぎ物)を軽減し、ますます魯(ろ)の使者を敬(うやま)うようになった。

衛の内乱

衛(えい)の献公(けんこう)は先君からの重臣である孫文子(そんぶし)や寧恵子(ねいけいし)を蔑(ないがし)ろにして無礼を働き、これに腹を立てた孫文子(そんぶし)は私邑(しゆう)の戚(せき)に引き籠(こ)もった。

すると献公(けんこう)は孫文子(そんぶし)の子・孫蒯(そんかい)の前で(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・小旻(しょうびん)の什(じゅう)・)巧言(こうげん)(正道を説(と)く者は退(しりぞ)けられ、へつらう者が重用されて国家に災いをもたらすと歌った賦(ふ))の卒章を歌わせ、「孫文子(そんぶし)が謀反(むほん)を企(くわだ)てている」とほのめかした。

孫蒯(そんかい)がこのことを孫文子(そんぶし)に告げると、孫文子(そんぶし)は「君(献公(けんこう))は我(わたし)を忌(い)み嫌っている。先手を打たなければきっと殺される」と言った。

その後、献公(けんこう)は子蟜(しきょう)・子伯(しはく)・子皮(しひ)の3人の公子(こうし)を遣(つか)わし、孫文子(そんぶし)と丘宮(きゅうきゅう)で盟(ちか)わせ、仲直りしようとしたが、孫文子(そんぶし)は3人の公子(こうし)を殺害してしまった。

4月己未(きび)(26日)、献公(けんこう)の弟・子展(してん)は斉(せい)に出奔(しゅっぽん)した。献公(けんこう)は(衛(えい)の)鄄(けん)に逃(のが)れ、公子(こうし)子行(しこう)を遣(つか)わして和議を申し入れたが、孫文子(そんぶし)はまたもこれを殺害し、献公(けんこう)が斉(せい)に出奔(しゅっぽん)すると、これを追撃して阿沢(あたく)で討ち破った。

孫氏(そんし)(孫文子(そんぶし))は公子(こうし)剽(ひょう)*5を国君に立て、孫林父(そんりんほ)(孫文子(そんぶし))と寧殖(ねいしょく)(寧恵子(ねいけいし))の2人がこれを補佐した。


冬、季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))は晋(しん)の士匃(しかい)(范宣子(はんせんし))・宋(そう)の華閲(かえつ)・衛(えい)の孫林父(そんりんほ)(孫文子(そんぶし))・鄭(てい)の公孫蠆(こうそんたい)・莒(きょ)・邾(ちゅう)の代表者と戚(せき)で会合した。これは、衛(えい)の公子(こうし)剽(ひょう)*5の即位を認めて衛(えい)を安定させる相談をしたものである。

脚注

*5衛(えい)の殤公(しょうこう)。名は『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』では剽(ひょう)、『史記(しき)』では秋(しゅう)、『漢書(かんじょ)』では焱(えん)。続柄は『史記(しき)』では衛(えい)の定公(ていこう)の弟、『漢書(かんじょ)』では衛(えい)の献公(けんこう)の弟、『春秋経伝集解(しゅんじゅうけいでんしっかい)』では衛(えい)の穆公(ぼくこう)の孫、公子(こうし)黒背(こくはい)の子と、諸説ある。

司臣を匿う

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の15年(紀元前558年)春、当時、[魯(ろ)の襄公(じょうこう)の10年(紀元前563年)冬10月に鄭(てい)で起こった]尉氏(いし)・司氏(しし)の叛乱(はんらん)の残党たちは、宋(そう)に逃(のが)れていた。

鄭(てい)では(尉氏(いし)・司氏(しし)のために父を殺された)子西(しせい)・伯有(はくゆう)・子産(しさん)の恨(うら)みを晴らすため、宋(そう)に馬40乗(じょう)(160頭)と音楽師の茷(ばつ)と慧(けい)を贈り物として贈り、さらに2月には公孫黒(こうそんこく)(鄭(てい)の宰相(さいしょう)・子駟(しし)の子、子皙(しせき))が宋(そう)の人質となって、逃亡した残党たちを鄭(てい)に引き渡すように依頼した。*6

すると(宋(そう)の)司城(しじょう)・子罕(しかん)は(逃亡していた)堵女父(とじょほ)・尉翩(いへん)・司斉(しせい)の3人を鄭(てい)に引き渡したが、(司斉(しせい)の父の)司臣(ししん)は良い人物と見込んで魯(ろ)の季武子(きぶし)に預け、季武子(きぶし)は彼を(魯(ろ)の)卞(べん)に匿(かくま)った。

鄭(てい)は(堵女父(とじょほ)・尉翩(いへん)・司斉(しせい)の)3人を処刑して醢(かい)(遺体を塩漬けにする刑罰)にした。


夏、斉侯(せいこう)が魯(ろ)の北の国境を攻めて成(せい)を包囲すると、襄公(じょうこう)は成(せい)を救援するため軍を進めて遇(ぐう)に至った。

季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))と叔孫豹(しゅくそんほう)(叔孫穆子(しゅくそんぼくし))は軍を率(ひき)いて成(せい)の郛(ふ)(外郭・城壁)を築いて斉(せい)の攻撃に備えた。

斉侯(せいこう)が魯(ろ)の成(せい)を包囲したのは、斉(せい)が晋(しん)に二心(ふたごころ)を抱(いだ)いて晋(しん)を恐れなかったからである。

脚注

*6明治書院(めいじしょいん)()『新釈漢文大系(しんしゃくかんぶんたいけい)・春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)(三)』より。原文:鄭尉氏,司氏,之亂其餘盜在宋,鄭人以子西,伯有,子產,之故,納賂于宋,以馬四十乘,與師茷,師慧,三月,公孫黑為質焉,

晋が斉を伐つ

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の19年(紀元前554年)春、季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))が晋(しん)に赴(おもむ)き、曹(そう)の成公(せいこう)の葬儀に参列した。


夏、晋(しん)の欒魴(らんぽう)が軍を率(ひき)い、衛(えい)の孫文子(そんぶし)に従って斉(せい)を伐(う)った。

季武子(きぶし)が晋(しん)に赴(おもむ)いて「斉(せい)を伐(う)った出陣のお礼」を述(の)べ、晋侯(しんこう)(平公(へいこう))は季武子(きぶし)をもてなす宴(うたげ)を開いた。

その席で、当時政(まつりごと)を執(と)っていた范宣子(はんせんし)(士匃(しかい))が(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・都人士(とじんし)の什(じゅう)・)黍苗(しよびよう)(王の徳が天地に行き渡り、百官百姓がその恩沢に浴(よく)することを称(たた)える賦(ふ))を歌っ(て晋(しん)が魯(ろ)を憐(あわ)れみ慈(いつく)しむ意をほのめかし)た。すると季武子(きぶし)は立ち上がって再拝し、頭を地に擦(こす)りつけ(再拝稽首(さいはいけいしゅ))、

「小国が大国を仰(あお)いで頼りにするのは、百穀が膏雨(こうう)(恵みの雨)を望むようなものです。常に小国を慈(いつく)しんでくださるなら、天下はきっとやわらいで晋(しん)に仕えることでしょう。それは弊邑(へいゆう)(自国の謙称:魯(ろ))だけに留(とど)まりません」

と言い、(『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・彤弓(とうきゅう)の什(じゅう)・)六月(ろくがつ)(周(しゅう)の宣王(せんおう)が異民族の玁狁(けんいん)を討伐して国を安定させた偉業を讃(たた)えた賦(ふ))を歌っ[て晋(しん)が天子(てんし)(周(しゅう))を助けて天下を平定すべき意をほのめかし]た。


季武子(きぶし)は斉(せい)の兵を伐(う)って得た武器で林鍾(りんしょう)*7を作り、それに魯(ろ)の武功を刻(きざ)んだ。すると(魯(ろ)の大夫(たいふ)・)臧武仲(ぞうぶちゅう)は季武子(きぶし)に向かって言った。


「これは礼に外れています。そもそも銘文(めいぶん)とは、天子(てんし)は立派な徳を記(しる)し(て功績を記(しる)さず)、諸侯(しょこう)は時にかなった事業において功績があればそれを記(しる)し、大夫(たいふ)は自(みずか)らの伐(ばつ)(武功)を記(しる)すもの。今回の戦果を伐(ばつ)(武功)と称するならば、それは卑(いや)しいことになります。

(今回の)戦功を計れば、他国(晋)の力を借りたものに過ぎず、時について言えば、民(の農事)を多く妨(さまた)げただけです。一体何を銘文(めいぶん)として刻まれるのでしょうか。

そもそも大国が小国を伐(う)った時には、その得た戦利品で彝器(いき)*8を作り、功績を刻んで子孫に示すことで(国君の)徳を明らかにし、無礼(の国)を懲(こ)らしめるのです。

ところが今、魯国(ろこく)は他国の力を借りてやっと滅亡を免(まぬか)れたのです。どうして銘(めい)を刻むことができましょうか。小国が大国に救われておきながら得たものを誇示すれば、大国を怒らせ、国を滅ぼす道となるだけです」


脚注

*7古代中国の金属製の打楽器・編鐘(へんしょう)の1つ。宗廟(そうびょう)の祭祀(さいし)や朝廷の礼楽で用(もち)いられ、鐘(しょう)に銘文(めいぶん)を刻むことには、その功績を後世に伝える記念碑的な意味がある。

*8殷(いん)・周(しゅう)時代の祭祀(さいし)に用(もち)いられる青銅器。祖先の宗廟(そうびょう)に常に供(そな)えた釣鐘(つりがね)や鼎(かなえ)など。

宋に使いする

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の20年(紀元前553年)冬、季武子(きぶし)は[魯(ろ)の襄公(じょうこう)の15年(紀元前558年)に宋(そう)の]向戌(しょうじゅつ)が魯(ろ)に来聘(らいへい)したことに対する返礼として宋(そう)に赴(おもむ)き、(宋そうの)褚師段ちょしだんが出迎えて饗応きょうおうした。(その席で季武子きぶしは、『詩経しきょう』小雅しょうが・鹿鳴ろくめいの什じゅう・)常棣じょうていの7章*9を歌っ(てお互いに親睦しようという意をほのめかし)た。宴が終わると、宋そう人(ひと)は厚い贈(おく)り物を贈(おく)った。

魯(ろ)に帰って報告すると、襄公(じょうこう)は宴(うたげ)を開いてその労をねぎらった。(その席で季武子(きぶし)が『詩経しきょう』小雅しょうが・白華はっかの什じゅう・)魚麗ぎょれい(饗宴(きょうえん)における料理や酒が豊かで美味しく、皆で楽しく分かち合う喜ばしい場を讃(たた)えた賦(ふ))の卒章を歌うと、襄公(じょうこう)は、(『詩経しきょう』小雅しょうが・白華はっかの什じゅう・)南山有台なんざんゆうだい(君子の徳を讃(たた)え、末永い繁栄を祈る賦(ふ))を歌っ(て使臣として魯(ろ)の光を輝かせたことを褒める意をほのめかし)た。

季武子(きぶし)は席を避けて、「わたしには当てはまらない。もったいないことです」と言った。*10

脚注

*9常棣(じょうてい)の7章:妻子好合、如鼓瑟琴。 兄弟既翕、和樂且湛。(夫婦は睦(むつ)まじく調和し、まるで瑟(しつ)や琴を奏でるようである。兄弟たちもまた心を合わせ、和(なご)やかで楽しみに満ちている)常棣(じょうてい)は兄弟の親愛を歌った賦(ふ)。饗応(きょうおう)の歌としてよく用(もち)いられる。

*10明治書院(めいじしょいん)()『新釈漢文大系(しんしゃくかんぶんたいけい)・春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)(三)』より。原文:歸復命,公享之,賦魚麗之卒章,公賦南山有台,武子去所曰,臣不堪也。
「不堪」をそのまま訳せば「堪えられない」となる。「もったいないことです」と言うのなら、わざわざ席を外す必要はない?襄公(じょうこう)が歌った南山有台なんざんゆうだいには、皮肉や当て擦(こす)りの意味が込められていた可能性もある。

臧武仲(臧紇)の諫言

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の21年(紀元前552年)、邾(ちゅう)の庶其(しょき)が漆(しつ)と閭丘(りょきゅう)の2邑(ゆう)をもって魯(ろ)に亡命して来た。季武子(きぶし)は(庶其(しょき)に)襄公(じょうこう)の姑姉(こし)(襄公(じょうこう)のおば:父母の姉妹)を妻として与え、彼の従者たちにも褒美を与えたが、その後、魯(ろ)の国内には盗人が多く出るようになった。

季武子(きぶし)は季武子(きぶし)は臧武仲(ぞうぶちゅう)(臧紇(ぞうこつ))に言った。

季武子(きぶし)「子(あなた)はどうして盗人を取り締まろうとなさらないのか?」

臧武仲(ぞうぶちゅう)「取り締まることはできません。紇(わたし)にはとてもできません」

季武子(きぶし)「我(わたし)は4つの邑(ゆう)を領しているが、(自分で)領内の盗人を取り締まっている。子(あなた)は司寇(しこう)(司法・刑罰を司(つかさど)る官職)である。盗人を取り除くのが務(つと)めであろう。どうしてできないなどと言うのか?」

すると臧武仲(ぞうぶちゅう)は言った。


「子(あなた)は国外の盗人(邾(しゅ)の庶其(しょき))を呼び入れて大変手厚く礼遇しておられます。どうして吾(わたし)に国内の盗人を取り締まることができましょうか。

子(あなた)は正卿(せいきょう)(宰相(さいしょう))の地位にありながら他国の盗人を呼び寄せておいて、紇(わたし)には(国内の盗人を)取り締まれとおっしゃる。どうしてそのようなことができましょうか。

庶其(しょき)は邾(ちゅう)の邑(ゆう)を竊(ぬす)んでやって来たのに、子(あなた)は姫氏(きし)(公室の娘)を妻にしてやり、邑(ゆう)を与え、従者たちにまで褒美を与えられた。(庶其(しょき)のような)大盗に君(国君)の姑姉(こし)(襄公(じょうこう)のおば:父母の姉妹)と大邑(ゆう)を与えて礼遇し、その次には皁牧(そうぼく)(下僕?牧場?)と馬を与え、さらに身分の低い小者には衣裳や剣帯を与えておられるのです。

これは盗人を賞しているようなものです。賞しておきながら除こうとしても、それは難しいことです。

紇(わたし)は『上に立つ者は、まず心を清めて雑念を払い、人に接するときは私心をなくして同じ態度で臨み、言葉や行動は道理にかなったものにし、誠実さを明確に示すべきであり、そうして初めて民を治めることができる』と聞いております。

そもそも上に立つ者の行いは、そのまま民の手本となります。上に立つ者が行わないことを民が行えば、それは禁じられ刑罰が科されます。ゆえに誰もが恐れて慎(つつし)まないわけにはいかないのです。ですがもし、上に立つ者と同じ行いを民が行ったなら、それは当然のことと言うべきです。どうしてそれを禁じることができましょうか。

夏書(かしょ)に『この事をやらせようと思えば、我が身ができてこそ。この事をやめさせようと思えば、我が身がやめることができてこそ。この事の善悪を言い正そうとすれば、我が身が正しくしてこそ。誠(まこと)にこの命令を出して天下に行わせようとしても我が身ができてこそ。帝よ、ただそのようにしてこそ、功績を立てられるのだと思いなさい*11』とあります。

これは『上に立つ者が直向(ひたむ)きな心を用(もち)いてこそ、成功を望むことができる』と言っているのです」

脚注

*11原文:夏書曰,念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功,
夏書(かしょ)とは『尚書(しょうしょ)』夏書(かしょ)のことだが、臧武仲(ぞうぶちゅう)が引用した「禹曰:『朕德罔克,民不依。皋陶邁種德,德乃降,黎民懷之。帝念哉!念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功』」は、『尚書(しょうしょ)』夏書(かしょ)ではなく『尚書(しょうしょ)』虞書 (ぐしょ)・大禹謨(だいうぼ)にある。

季武子の後継者

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の23年(紀元前550年)、季武子(きぶし)には適子(ちゃくし)(正妻が生んだ子)がいなかった。庶子の中では公弥(こうび)(弥(び))が最も年長であったが、年下の悼子(とうし)(紇(こつ))を愛して後継ぎに立てようと考え、(家老の)申豊(しんぽう)に「吾(わたし)は弥(び)も紇(こつ)も共に愛しているが、才能のある者を選んで立てたい」と言って意見を求めた。

すると申豊(しんぽう)は返答もせずに退出し、家財を残らずまとめて立ち去ろうとした。後日また申豊(しんぽう)に意見を求めたが、申豊(しんぽう)は「どうしてもそうなさるなら、粗末な車を整えて国外に立ち去りましょう」と答えたので、(申豊(しんぽう)との話を)打ち切った。

そこで臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))に意見を求めると、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は「我(わたし)に酒を振る舞ってください。そうすれば、子(あなた)のために[悼子(とうし)(紇(こつ))を]立ててあげましょう」と言った。

そこで季武子(きぶし)は大夫(たいふ)たちに酒を振る舞い、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は客として列席した。献杯が終わると、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は北側(主君の席)に席を設(もう)けさせ、新しい酒樽を清めて悼子(とうし)(紇(こつ))を呼び寄せた。

臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))が自(みずか)ら段を降りてこれを迎えると、大夫(たいふ)たちもみな立ち上がり、[悼子(とうし)(紇(こつ))を迎える]列に加わった。その後、公鉏(こうそ)[公弥(こうび)(弥(び))。鉏(そ)は字(あざな)]を呼んで大夫(たいふ)たちと同列に並ばせたので、これを見た季武子(きぶし)は(公鉏(こうそ)が腹を立てるのではないかと心配して)顔色を失った。


その後、季武子(きぶし)は公鉏(こうそ)を馬正(ばせい)(馬の管理役)に任命したが、彼は怒って出仕しなかった。すると閔子馬(びんしば)が(公鉏(こうそ)と)会って、


「いけません。禍福(不幸と幸福)に決まった入口はなく、ただ人が召(め)し寄せるもの。人の子として親に不孝であることを憂慮するべきで、地位がないことを憂慮するべきではありません。

父(季武子(きぶし))の命令を慎(つつし)んでお受けするべきです。もし孝行を尽くし敬(うやま)って仕えれば、その富は季氏(きし)(季孫氏(きそんし)の本家)の倍にもなりましょう。ですが、邪(よこしま)な心でもって道理や法を守らなければ、その禍(わざわい)は下々の民の倍以上になるでしょう」


と諌(いさ)めたので、公鉏(こうそ)は「もっともだ」と思い、朝夕の勤(つと)めに真心を尽くし、(与えられた)官職の職務にも恭(うやうや)しく励(はげ)んだ。

その結果、季武子(きぶし)は喜び、公鉏(こうそ)に酒をご馳走しようとして酒宴の道具を持って出掛け、全部そのまま公鉏(こうそ)の所に置いた。こうして公鉏(こうそ)は(季孫氏(きそんし)の本家よりも)富み栄え、さらに魯侯(ろこう)の左宰(ささい)(高官)に任命された。

孟孫(孟荘子)の死

(孟献子(もうけんし)の後を継いだ)孟孫(もうそん)[孟荘子(もうそうし)(仲孫速(ちゅうそんそく))]は臧孫(ぞうそん)[臧武仲(ぞうぶちゅう)(臧紇(ぞうこつ))]を嫌っていたが、季孫(きそん)(季武子(きぶし))は臧武仲(ぞうぶちゅう)を愛していた。


孟氏(もうし)(孟孫氏(もうそんし))の御騶(ぎょすう)(御者(ぎょしゃ))・豊點(ほうてん)は、孟荘子(もうそうし)(仲孫速(ちゅうそんそく))の庶子・羯(けつ)[孟孝伯(もうこうはく)(仲孫羯(ちゅうそんけつ))]を好み、再三、「余(わたし)の言うことに従うのなら、必ずや孟孫氏(もうそんし)の後継者にして差し上げましょう」と言ったので、羯(けつ)はそれに従った。

その後、孟荘子(もうそうし)が病気になると、豊點(ほうてん)は公鉏(こうそ)に「もし羯(けつ)を(孟孫氏(もうそんし)の後継ぎに)立てる加勢をしていただけるなら、(私にはあなたが季孫氏(きそんし)の後継ぎとなることを妨(さまた)げた)臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))に復讐させて欲しい」と言った。

公鉏(こうそ)は(その気になって父の)季武子(きぶし)に「本来なら嫡子(ちゃくし)の秩(ちつ)が後を継ぐべきですが、もし(季孫氏(きそんし)が庶子の)羯(けつ)を立てたなら、季孫氏(きそんし)は臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))に対して確かに力を持つことになるでしょう*12」と言ったが、季武子(きぶし)はこれに応じなかった。


己卯(きぼう)の日(8月10日)、孟孫(もうそん)(孟荘子(もうそうし))が亡くなると、公鉏(こうそ)は(庶子の)羯(けつ)を奉じて(喪主(もしゅ)が立つ位置の)戸側(室戸の東)に立たせた。

そこへ季武子(きぶし)が弔(とむら)いに来て哭礼(こくれい)を済ませ、「(嫡子(ちゃくし)の)秩(ちつ)はどこにいるのか?」と尋(たず)ねると、公鉏(こうそ)は「羯(けつ)がここにおります」と答えた。季武子(きぶし)は「嫡子(ちゃくし)の秩(ちつ)の方が年長だろう」と言ったが、公鉏(こうそ)は「年長であることに何の意味がありましょう。大事なのは唯一才能です*13。それに、孟孫(もうそん)(孟荘子(もうそうし))の遺言でもあります」と答え、ついに羯(けつ)を立てた。(嫡子(ちゃくし)の)秩(ちつ)は邾(ちゅう)に出奔(しゅっぽん)した。


臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は弔(とむら)いに来て哭礼(こくれい)し、大変悲しんで涙を流した。御者(ぎょしゃ)が、出て来た臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))に「孟孫(もうそん)(孟荘子(もうそうし))は子(あなた)を憎んでいたのに、これほどまでに悲しまれるとは。もし(子(あなた)を愛している)季孫(きそん)(季武子(きぶし))が亡くなったら、一体どうなさるのですか?」と尋(たず)ねると、臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は、

「季孫(きそん)(季武子(きぶし))が我(わたし)を愛するのは病気のようなもので、孟孫(もうそん)(孟荘子(もうそうし))が我(わたし)を憎むのは薬石のようなものだ。我(わたし)を愛していても病気にするものは、我(わたし)を憎んでいても役に立つ薬石の方がましだ。薬石はまだ我(わたし)を生かしてくれるが、我(わたし)を病気にさせるものがいくら愛してくれても、却(かえ)って害毒を深めるものだ。孟孫(もうそん)(孟荘子(もうそうし))が死んでしまった今、吾(わたし)が滅びるのも時間の問題だ」

と言った。

脚注

*12原文:公鉏謂季孫曰,孺子秩固其所也,若羯立,則季氏信有力於臧氏矣。直訳すると「青二才の秩(ちつ)は当然、立つべき位にある。もし羯(けつ)が立つならば、則(すなわ)ち季氏(きし)は実に臧氏(ぞうし)に対して力有るなり」だが、意訳した。

*13季武子(きぶし)は「年長者ではなく才能のある者を選んで立てたい」と言って、年長の公鉏(こうそ)ではなく年下の悼子(とうし)(紇(こつ))を後継者に立てた。

臧武仲の出奔

孟氏(もうし)[孟孝伯(もうこうはく)(仲孫羯(ちゅうそんけつ))]は門を閉ざして、季孫(きそん)(季武子(きぶし))に「臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))が反乱を企(くわだ)てているため、我(わたし)は葬儀もできないでいます」と訴えた。季孫(きそん)(季武子(きぶし))は信じなかったが、臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))はこれを聞いて警戒した。

冬10月、孟氏(もうし)(孟孝伯(もうこうはく))は埋葬の墓道を切り開こうとして、臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))から道普請の人夫を借りた。そこで臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は人夫頭に命じて助けさせ、東門で道普請をさせたが、臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は孟氏(もうし)(孟孝伯(もうこうはく))を警戒していたため、武装兵を従えて工事を監視した。

孟氏(もうし)(孟孝伯(もうこうはく))がまたこのことを季孫(きそん)(季武子(きぶし))に告げると、季孫(きそん)(季武子(きぶし))は怒って臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))を攻めるように命じた。

乙亥(いつがい)の日(10月7日)、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は魯(ろ)の鹿門(ろくもん)の関(せき)の(閂(かんぬき)を)斬って邾(ちゅう)に出奔(しゅっぽん)した。


これより以前、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))の父・臧宣叔(ぞうせんしゅく)は鋳(ちゅう)の国から夫人(ふじん)を迎え、賈(か)(臧賈(ぞうか))と為(い)(臧為(ぞうい))を生んだが、その夫人(ふじん)が亡くなるとその姪(めい)(兄弟の娘)を継室(後妻)とした。この継室(後妻)が生んだ子が、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))である。

臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は祖先の祭祀(さいし)を途絶えさせてはならないと、(母の故郷の)鋳(ちゅう)に出ていた臧賈(ぞうか)と臧為(ぞうい)に家を継いでくれるように使者を遣(つか)わした。そこで臧賈(ぞうか)は弟の臧為(ぞうい)に命じ、魯(ろ)に入れて臧氏(ぞうし)の家督を継ぐことを請(こ)わせた。

そして臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は(自分の領土の)防(ぼう)に赴(おもむ)くと、(魯(ろ)に)使者を遣(つか)わして言った。

「紇(わたし)が武装兵を従えたのは、謀叛(むほん)を起こそうとしたのではありません。思慮が足りなかったのです。決して私個人のためにお願いしたのではありません。ただ先祖の祭祀(さいし)を守り、祖父・臧文仲(ぞうぶんちゅう)と父・臧宣叔(ぞうせんしゅく)の勲功をお忘れくださらないなら、喜んで邑(ゆう)(防(ぼう))を立ち去りましょう」

その結果、(魯(ろ)は)臧為(ぞうい)に臧氏(ぞうし)の家督を継がせ、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は防(ぼう)を(魯(ろ)に)返上して斉(せい)に出奔(しゅっぽん)した。

臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))の従者たちが「(魯(ろ)では)我々の悪事を並べ立てて、大夫(たいふ)たちに盟(ちか)わせて戒(いまし)めとするでしょうか?」と言うと、臧紇(ぞうこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))は「盟(ちか)いに並べ立てる言葉がないであろう」と言った。


案の定、魯(ろ)では臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))のことで大夫(たいふ)たちが盟(ちか)いを立てて戒(いまし)めにしようとしていた。

季孫(きそん)(季武子(きぶし))は悪臣の記録を掌(つかさど)る外史(がいし)を呼んで盟首(めいしゅ)*14とするべき事例を尋(たず)ねると、

「[宣公(せんこう)の18年(紀元前591年)の]東門氏(とうもんし)(襄仲(じょうちゅう))のことで誓った時には、『東門遂(とうもんすい)(襄仲(じょうちゅう))が公命(君命)に従わず、嫡子(ちゃくし)を殺害して庶子を立てたようなことがあってはならない』というものであり、[成公(せいこう)の16年(紀元前575年)に]叔孫氏(しゅくそんし)(叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))のことで誓った時には、『叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))が国家の常法を廃して皇室を覆(くつがえ)そうとするようなことがあってはならない』というものでした」

と答えた。

これを聞いた季孫(きそん)(季武子(きぶし))が「臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))の罪はこの2人の罪には及ばないか」と言ったが、孟椒(もうしょう)(孟献子(もうけんし)の孫・子服恵伯(しふくけいはく))が「魯(ろ)の鹿門(ろくもん)の関(せき)の(閂(かんぬき)を)斬っ(て邾(ちゅう)に出奔(しゅっぽん)し)たことを罪としてはどうでしょうか?」と言うと、季孫(きそん)(季武子(きぶし))はその意見を採用し、臧氏(ぞうし)(臧武仲(ぞうぶちゅう))の罪を並べて誓いを立て、

「臧孫紇(ぞうそんこつ)(臧武仲(ぞうぶちゅう))のように国家の紀(おきて)を破り、(関所の)門を犯し閂(かんぬき)を斬るようなことがあってはならない」

と言った。

臧孫(ぞうそん)(臧武仲(ぞうぶちゅう))はこれを聞くと、「(魯(ろ)の)国にも(一角の)人物がいた。誰であろうか?孟椒(もうしょう)であろうか?」と言った。

脚注

*14盟誓文の冒頭に記(しる)された、戒(いまし)めとして挙(あ)げる過去の事例。

弭兵の会

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の27年(紀元前546年)秋7月、諸侯の大夫(たいふ)が宋(そう)で会盟し、魯(ろ)からは豹(ほう)(叔孫豹(しゅくそんほう))がこれに参加した。これは宋(そう)の左師(さし)・向戌(しょうじゅつ)が仲介して「大国の晋(しん)と楚(そ)を弭兵(びへい)(停戦)させた会盟」である。

この時 季武子(きぶし)は叔孫豹(しゅくそんほう)に使者を遣(つか)わし、公命(君命)として「(魯(ろ)も小国の)邾(ちゅう)や滕(とう)のように扱われるようにせよ」と告げていたが、斉(せい)が邾(ちゅう)を属国にしたいと請(こ)い、宋(そう)が滕(とう)を属国にしたいと請(こ)うたので、邾(ちゅう)と滕(とう)は盟約に参加しなかった。

すると叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))は「邾(ちゅう)と滕(とう)は人の私(他国の属国)である。そして我(魯(ろ))は列国(として独立した国)だ。どうして属国の真似ができようか。吾国(わがくに)は宋(そう)や衛(えい)と同等である」と言って盟約に参加した。(「豹(ほう)」と叔孫(しゅくそん)の)族名を記(しる)さなかったのは、公命(君命)を違(たが)えたからである。

襄公の邑を奪う

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の29年(紀元前544年)夏4月、楚(そ)の康王(こうおう)を葬(ほうむ)った。魯(ろ)の襄公(じょうこう)は陳侯(ちんこう)・鄭伯(ていはく)・許男(きょだん)と共に会葬して西門の外まで送った。

魯(ろ)の襄公(じょうこう)が帰還の途について楚(そ)の方城(ほうじょう)まで来た時、季武子(きぶし)は襄公(じょうこう)が治(おさ)める卞(べん)(卞邑(べんゆう))を占領し、その一族の公冶(こうや)を遣(つか)わして襄公(じょうこう)の安否を問わせたが、人に璽書(じしょ)(封印した書状)を持たせて後を追わせ、公冶(こうや)に渡した。

璽書(じしょ)(封印した書状)には、

「卞(べん)(卞邑(べんゆう))を守っている者が謀反(むほん)を起こすと聞き、臣(わたくし)が軍を率(ひき)いて討伐いたしました。すでに土地を取り治めましたので、ご報告申し上げます」

と書いてあった。公冶(こうや)は使者の役目を終えて退き下がり、宿舎についてから、はじめて季武子(きぶし)が卞(べん)(卞邑(べんゆう))を占領したことを聞いた。

襄公(じょうこう)は「自分が欲しいだけなのに『叛(そむ)いたから取った』とは、(私を)軽んじている証だ」と言い、そこで公冶(こうや)に「吾(わたし)は国に帰っても良い者だろうか?」と問(と)うた。

公冶(こうや)が「我が君こそ、実(まこと)に国を保(たも)たれるお方でございます」と答えると、襄公(じょうこう)は公冶(こうや)に冕服(べんぷく)(卿大夫(けいたいふ)の礼服)を与えた。公冶(こうや)は分(ぶ)に過ぎるものと考えて固く辞退したが、是非にと命ぜられてようやく受け取った。

襄公(じょうこう)は国に帰りたくないと思っていたが、栄成伯(えいせいはく)が『式微(しきび)』の賦(ふ)(亡命中の国君を叱(しか)る詩)を歌って帰国を勧めたので、ようやく帰国した。


5月、襄公(じょうこう)は楚(そ)から帰国した。

すると公冶(こうや)は、季氏(きし)(季武子(きぶし))から与えられた采邑(さいゆう)を返上し、「我が君を欺(あざむ)くのに、どうして余(わたし)を使者にする必要があったのか」と言って、その後は死ぬまで季氏(きし)の家に出入りしなかった。

季孫(きそん)(季武子(きぶし))と会った時には、以前と同じように季氏(きし)の家政について話したが、会っていない時には、決して季氏(きし)の家政について語ることはなかった。

病気を患(わずら)うと、公冶(こうや)は家臣を集めて、

「我(わたし)が死んだら、(襄公(じょうこう)から拝領した)冕服(べんぷく)を着せて納棺しないように。あれは徳を賞されて頂いたものではないのだ。また、季氏(きし)に葬儀の世話をさせないでくれ」

と遺言した。

季武子の晋評価

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の30年(紀元前543年)3月、晋(しん)の悼公(とうこう)の夫人(ふじん)が杞(き)の城壁工事に従事した人夫たちに食事をご馳走したが、その人夫たちの中に絳県(こうけん)出身の老人がいた。

一緒に食事をしていた者が彼に年齢を尋(たず)ねると、老人は「臣(わたくし)は賎(いや)しい者ですので、年の数え方を知りません。臣(わたくし)が生まれた年は正月甲子(きのえね)の朔(ついたち)(正月元日)で、それから445回の甲子(きのえね)が巡(めぐ)りました」と答えた。

それを聞いた役人が急いで朝廷に問い合わせると、師曠(しこう)はそれを計算して「その老人は今年73歳になります」と言った。

趙孟(ちょうもう)(趙武(ちょうぶ))が絳県(こうけん)の大夫(たいふ)を問(と)うたところ、ちょうど彼の部下だったので、趙孟(ちょうもう)はその老人を召(め)して、

「武(わたし)に才なく、君(国君)の大事を任されながら晋(しん)国には問題が多く、吾子(あなた)を用(もち)いることができなかった。長い間、吾子(あなた)を泥まみれの仕事に辱(はずかし)めておりましたのは、武(わたし)の罪でございます。謹(つつし)んで我が不才をお詫(わ)び申し上げます」

と過(あやま)ちを詫(わ)び、彼を士官させ、自分を助けて国政に参画させようとしたが、老人は高齢を理由に辞退した。そこで趙孟(ちょうもう)は、老人に田地を与えて国君の復陶(ふくとう)(衣服係)に任命し、また絳県(こうけん)の県師(けんし)を兼任させると、このような老人を労役に使った県尉(けんい)を免職とした。


この時、ちょうど晋(しん)にいた魯(ろ)の使者が帰国して、大夫(たいふ)たちにこの事を語って聞かせると、季武子(きぶし)は、

「晋(しん)はまだ軽視することはできない。大夫(たいふ)に趙孟(ちょうもう)がいて伯瑕(はくか)(士文伯(しぶんはく))がその補佐を務め、史趙(しちょう)や師曠(しこう)が咨度(したく)(相談役)、叔向(しゅくきょう)や女斉(じょせい)が君(国君)の師保(しほ)となっている。晋(しん)の朝廷には君子が多い。どうして軽視することができようか。心を込めて晋(しん)に仕えてこそ、国(魯(ろ))の安全が保たれるというものだ」

と言った。

穆叔の助言

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の31年(紀元前542年)春 王正月、魯(ろ)の穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))は澶淵(せんえん)の会合から帰国すると、孟孝伯(もうこうはく)に会い、

「趙孟(ちょうもう)の話は一時逃(のが)れの無責任ぶりで、民の上に立つ者として相応(ふさわ)しくない。まだ50歳にもなっていないのに、くどくど喋(しゃべ)って80〜90歳の老人のようだ。彼の命は長くはないだろう。もし趙孟(ちょうもう)が死んだら、晋(しん)の政治を執(と)る者は韓子(かんし)(韓起(かんき))であろうか。今のうちに韓子(かんし)(韓起(かんき))と友好を結んでおいた方が良い」

と言ったが、孟孝伯(もうこうはく)は聞き入れなかった。

穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))は退出すると、人に「孟孫(もうそん)(孟孝伯(もうこうはく))はやがて死ぬであろう。吾(わたし)が趙孟(ちょうもう)の無責任ぶりを語って聞かせたが、孟孫(もうそん)(孟孝伯(もうこうはく))の方がもっと無責任であった」と言った。

穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))はまた、季孫(きそん)(季武子(きぶし))と晋(しん)の事情を話したが、季孫(きそん)(季武子(きぶし))も彼の意見に従わなかった。


後に[魯(ろ)の昭公(しょうこう)の元年(紀元前541年)]趙文子(ちょうぶんし)(趙孟(ちょうもう))が亡くなると晋(しん)の公室は弱くなり、その政権は驕(おご)れる大夫(たいふ)*15に帰した。

韓宣子(かんせんし)が政治を行ったが諸侯(しょこう)を統御することができず、魯(ろ)は晋(しん)の要求に堪(た)えられなくなり、(魯(ろ)を陥(おとしい)れようとする)悪口や奸計(かんけい)が多く行われるようになったので、[魯(ろ)の昭公(しょうこう)の13年(紀元前529年)に]平丘(へいきゅう)の会が催(もよお)されることになった。

脚注

*15原文:政在侈家。侈家(しか)は権勢の家。

公子裯(昭公)を立てる

以前、襄公(じょうこう)は楚宮(そきゅう)を造営したが、この時 穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))は、

「『書経(しょきょう)』大誓(たいせい)に『民の願い望むことは天が必ず従う』とある。我が君は実(まこと)に楚(そ)をお好みになっておられるゆえ、楚(そ)風の宮殿を造られたのだ。もしも再び楚(そ)に行けないとしたら、きっとこの宮殿でお亡くなりになられるだろう」

と言った。

6月辛巳(しんし)の日(29日)、襄公(じょうこう)は楚宮(そきゅう)で亡くなり、胡(こ)(帰(き)姓の国)の公女(こうじょ)・敬帰(けいき)の子、子野(しや)を立てた。

子野(しや)は季氏(きし)(季武子(きぶし))の家に宿して喪(も)に服していたが、秋9月癸巳(きし)の日(12日)に亡くなった。これは父君(襄公(じょうこう))の死を悲しむ余り、身が痩(や)せ衰(おとろ)えたからであった。


己亥(きがい)の日(9月18日)、孟孝伯(もうこうはく)が亡くなった。そこで(季武子(きぶし)は)、敬帰(けいき)の妹(で妾(そばめ)となっていた)斉帰(せいき)の子・公子(こうし)裯(ちゅう)を立てたが、穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))は不満に思って言った。


「太子(たいし)が亡くなった場合には太子(たいし)の同母の弟があればそれを立て、それがいない時には庶子の年長者を立て、歳が同じなら人物の優れた方を選んで立て、立つべき条件が同じ場合には卜(うらない)にかけて定めるのが古(いにしえ)の道である。

子野(しや)は嫡子(ちゃくし)ではないのだから、妾(そばめ)の子を立てる必要はないではないか。それにこの人(公子(こうし)裯(ちゅう))は、父君の喪中(もちゅう)にあっても悲しむことなく、悲しい憂(うれ)いの中にあっても立派な身なりをしている。

こうしたことを不度(ふど)(礼法に背(そむ)くこと)と言う。不度(ふど)の人に、禍(わざわい)を起こさない者は滅多にいない。もし本当に(公子(こうし)裯(ちゅう)を)立てたなら、必ずや季氏(きし)の憂(うれ)いとなるであろう」


それでも季武子(きぶし)は聴き入れず、ついに公子(こうし)裯(ちゅう)を立てた。これが魯(ろ)の昭公(しょうこう)である。

この公子(こうし)裯(ちゅう)は、襄公(じょうこう)の葬儀までに3度も喪服(もふく)を取り替えたが、その喪服(もふく)の裾(すそ)は古い喪服(もふく)のように擦(す)り切れていた。*16

この時、昭公(しょうこう)は19歳にもなっていたが、まだ童心を持っていた。このことから、君子は(昭公(しょうこう)は)その最後を立派にできないことを予測した。

脚注

*16喪服(もふく)を着ながら遊び回っていたことを指す。

独断で莒を攻めて鄆を取る

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の元年(紀元前541年)春、魯(ろ)の叔孫豹(しゅくそんほう)が、晋(しん)の趙武(ちょうぶ)(趙孟(ちょうもう))、楚(そ)の公子(こうし)圍(い)(公子(こうし)囲(い))、斉(せい)の国弱(こくじゃく)、宋(そう)の向戌(しょうしゅつ)、衛(えい)の斉悪(せいあく)、陳(ちん)の公子(こうし)招(しょう)、蔡(さい)の公孫帰生(こうそんきせい)、鄭(てい)の罕虎(かんこ)、許(きょ)人(ひと)、曹(そう)人(ひと)と鄭(てい)の虢(かく)で会盟した。

これは魯(ろ)の襄公(じょうこう)の27年(紀元前546年)の「弭兵(びへい)(停戦)の会」における盟(ちか)いを忘れないようにするためのものであった。

ところが、まだこの会が散会もしないうちに、季武子(きぶし)が莒(きょ)の国に攻め入って鄆(うん)を取ってしまった。

莒(きょ)人(ひと)がこれを虢(かく)の会で訴えたので、楚(そ)は晋(しん)に申し入れて「(戦争をやめようという盟(ちか)いを再び行って、まだ散会もしないうちに)魯(ろ)が莒(きょ)を伐(う)つとは、一同で結んだ盟(ちか)いを侮(あなど)り穢(けが)すものだ。魯(ろ)の使節(叔孫豹(しゅくそんほう))を処刑してほしい」と言った。

この時、晋(しん)の趙文子(ちょうぶんし)(趙武(ちょうぶ))の補佐をしていた楽桓子(がくかんし)(楽王鮒(がくおうふ))は、叔孫豹(しゅくそんほう)に「(婉曲(えんきょく)に金と言わず)帯(おび)をくれないか?」と言って賄賂(わいろ)を要求した。

すると叔孫豹(しゅくそんほう)は、

「我(わたし)が財貨を出して助かれば、きっと魯(ろ)が(諸侯(しょこう)から)攻められることになる。季孫(きそん)(季武子(きぶし))がやったことは怨(うら)むべきことだが、魯(ろ)国に何の罪があるというのか。殺されたとしても、吾(わたし)は誰を怨(うら)むものではない」

と言い、賄賂(わいろ)好きな楽桓子(がくかんし)に配慮して、楽桓子(がくかんし)の使者に裳(はかま)を作る帛(きぬ)を裂(さ)いて与えた。

このことを聞いた趙孟(ちょうもう)(趙文子(ちょうぶんし))は、

「(我が身の)災難に臨(のぞ)んでも国を忘れないのは『忠』である。困難を思っても職分を越えないのは『信』である。 国のためを図(はか)って死をも顧(かえり)みないのは『貞』である。(主君のために)この3つを備(そな)えて謀(はか)るのは『義』である。この4つを備(そな)えている者を、どうして殺すことができようか」

と言って、楚(そ)に叔孫豹(しゅくそんほう)の命乞(ご)いを強く要請したので、楚(そ)はこれを許し、叔孫豹(しゅくそんほう)を処罰しないことにした。

趙孟(ちょうもう)(趙文子(ちょうぶんし))は、この年の12月庚戌(こうじゅつ)の日(7日)に亡くなった。

晋の韓宣子をもてなす

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の2年(紀元前540年)春、晋侯(しんこう)は韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))を魯(ろ)に遣(つか)わして昭公(しょうこう)の即位を祝う挨拶(あいさつ)をさせた。

昭公(しょうこう)が韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))をもてなす宴席で、季武子(きぶし)は『綿(べん)』の最後の章*17を歌って晋侯(しんこう)が韓宣子(かんせんし)を補佐に得たことを称(たた)え、韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))は『角弓(かくきゅう)』*18を歌って兄弟の国である魯(ろ)と親しんで助け合ってゆこうという意を仄(ほの)めかした。

また、季武子(きぶし)は拝謝して「子(あなた)が敝邑(へいゆう)(魯(ろ))をお助けくださるというお考えを伺(うかが)って、寡君(かくん)(我が君)は大いに期待しております」と言い、『節(せつ)』の最後の章*19を歌い、韓宣子(かんせんし)が衰(おとろ)えかけた晋君(しんくん)の覇業を補佐して諸侯(しょこう)を治めてほしいという意を仄(ほのめ)めかした。


昭公(しょうこう)の宴(うたげ)が終わると、季氏(きし)(季武子(きぶし))の邸宅で宴(うたげ)が催(もよお)された。

その庭に嘉樹(かじゅ)(立派な樹)があったので、韓宣子(かんせんし)がこれを誉(ほ)め称(たた)えると、季武子(きぶし)(季孫宿(きそんしゅく))は、

「『角弓(かくきゅう)』*18を歌われたあなたのお心を忘れないよう、宿(わたし)はこの樹を大切に育てましょう」

と言い、『甘棠(かんとう)』*20を歌って嘉樹(かじゅ)を甘棠(かんとう)(唐梨(からなし))に準(なぞら)え、韓宣子(かんせんし)を「その昔、甘棠(かんとう)の樹下にくつろいだ西周(せいしゅう)建国の功臣・召公(しょうこう)」に準(なぞら)える意をほのめかした。

すると韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))は、「起(わたし)にはもったいない。とても召公(しょうこう)には及びません」と言った。

脚注

*17『詩経(しきょう)』大雅(たいが)・文王(ぶんおう)の什(じゅう)の詩。その最後の章は、周(しゅう)の文王(ぶんおう)に補佐の賢臣が4人いたことを歌ったもの。

*18『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・桑扈(そうこ)の什(じゅう)の詩。上下関係の逆転などを嘆(なげ)き、秩序を重んじるべきことを諭(さと)す賦(ふ)。

*19『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・鹿鳴(ろくめい)の什(じゅう)の詩。その最後の章は、周(しゅう)の大夫(たいふ)の家父が幽王(ゆうおう)の暗愚(あんぐ)の心を改めて万邦(ばんぽう)(諸国)を安(やす)んずべきことを歌ったもの。

*20『詩経(しきょう)』国風(こくふう)・召南(しょうなん)の詩。「こんもりと茂(しげ)った甘棠(かんとう)の樹よ。切ったり損(そこ)なったりしてはいけない。ここは召伯(しょうはく)(召公(しょうこう))様がくつろがれた場所なのだから」とある。

晋に弔問する

秋、晋(しん)の平公(へいこう)の妾室(しょうしつ)・少姜(しょうきょう)(斉(せい)の荘公(しょうこう)の女(むすめ))が亡くなった。

魯(ろ)の昭公(しょうこう)は、弔問(ちょうもん)のため晋(しん)に向けて出発して黄河(こうが)まで来たが、晋侯(しんこう)が士文伯(しぶんはく)を遣(つか)わして、

「(少姜(しょうきょう)は)正室ではありません。どうかわざわざおいでにならぬように」

と言わせたので、昭公(しょうこう)は引き返した。

冬、すぐに季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))が晋(しん)に行き、襚服(すいふく)(遺体に着せる服)を贈(おく)り届けた。

穆叔の諫言に従う

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の3年(紀元前539年)秋、小邾(しょうちゅう)(郳(げい))の穆公(ぼくこう)が魯(ろ)に来朝したが、季武子(きぶし)は小邾(しょうちゅう)(郳(げい))を諸侯(しょこう)として扱わず、卑(いや)しい礼をもって対応しようとした。

これに穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))が、


「いけません。曹(そう)・滕(とう)・大邾(だいちゅう)(邾(ちゅう))・小邾(しょうちゅう)(郳(げい))の4国は、実(まこと)に我が魯(ろ)に対する修好を忘れずにいる国です。

敬意を払って丁重に迎えるべき国であり、彼らが二心(ふたごころ)を抱(いだ)くことを懼(おそ)れるなら、一層謙(へりくだ)って親睦を厚くするべきです。それが諸国の好意を迎える道というものです。従来どおりの関係を保(たも)ちつつ、さらに敬意を加えるのがよろしいでしょう。

『志(し)』に『敬(うやま)うことができれば災(わざわ)いはない』とあり、また『来る者を敬(うやま)って迎えれば、天がこれに福を与える』とあります」


と言ったので、季孫(きそん)(季武子(きぶし))は穆叔(ぼくしゅく)(叔孫豹(しゅくそんほう))の意見に従った。

雹を防ぐ方法を聞く

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の4年(紀元前538年)春王正月、たくさんの雹(ひょう)が降った。

季武子(きぶし)が(大夫(たいふ)の)申豊(しんほう)に向かって「雹(ひょう)を防(ふせ)ぐことはできるだろうか?」と尋(たず)ねると、申豊(しんほう)は、


「聖人が上にあ(って天下を治めてい)れば雹(ひょう)は降りません。もし降ったとしても災(わざわ)いは起きません。

昔は太陽が北方の行道にある時(12月)に氷を貯蔵し、西方の行道の星が朝方に東方に見える時(4月)に、それを取り出して使用したものです。

(中略)

貯蔵は厳密であり、あまねく人に分け与えて使用するならば、冬に陽気が狂うことなく、夏には陰気が潜伏することもなく、春には寒い風が吹かず、秋には長雨が降らず、雷が鳴っても落ちることがなく、災害を起こす霜(しも)や雹(ひょう)もなく、悪い病気も流行せず、民は若死にしたり流行病(はやりやまい)で大勢死ぬということもありません。

ですが今は、近くの川や池に張った氷を貯蔵しておきながら、これを用(もち)いずに捨てているのですから、(陰陽が不順となり、)寒い風が吹き渡らないのに草木が枯死し、雷が激しく鳴り響かないのに落雷が起こるのです。

今、雹(ひょう)が降って災(わざわ)いを起こしたとしても、誰がこれを防ぐことができるでしょうか? 『詩経(しきょう)』七月(ひちがつ)の終章に、まさにこの『氷を正しく貯蔵する方法』が説(と)かれています」


と答えた。

豎牛(召使いの牛)

冬、叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))は丘蕕(きゅうゆう)で狩りをしたが、そこで病気にかかった。

豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は叔孫氏(しゅくそんし)を乱して乗っ取ろうと考え、叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))を見舞いに来た者たちを追い返し、また、食事を運んできた者には「夫子(ふうし)[主人(叔孫豹(しゅくそんほう))]は病(やまい)が重く、人に会いたくないとおっしゃっております」と言って別室に置かせ、しばらくして空にした食器を置いて、叔孫豹(しゅくそんほう)が食べたように見せかけた。

そのまま叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))は12月乙卯(いつぼう)の日(29日)に亡くなり、豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は昭子(しょうし)(叔孫豹(しゅくそんほう)の庶子・叔孫婼(しゅくそんしゃく)を立てて叔孫氏(しゅくそんし)を継がせ、自分はその後見役となった。


昭公(しょうこう)は杜洩(とせつ)に命じて叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))を葬(ほうむ)らせた。豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は叔孫昭子(しゅくそんしょうし)と季子(きし)の家臣の南遺(なんい)に賄賂(わいろ)を贈(おく)り、季孫(きそん)(季武子(きぶし))に杜洩(とせつ)を憎ませて(叔孫氏(しゅくそんし)から)排除させようとした。

杜洩(とせつ)は叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))が周王(しゅうおう)から賜(たまわ)った大路車(たいろしゃ)(最高格式の儀礼用馬車)を用(もち)いて叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))を葬(ほうむ)り、卿(けい)の礼を立派に行おうとした。

すると南遺(なんい)は季孫(きそん)(季武子(きぶし))に、

「叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))はまだその車に乗ったことがありません。どうして葬儀にそれを用(もち)いるのでしょうか? それに、冢卿(ちょうけい)[卿(けい)の筆頭=季孫(きそん)(季武子(きぶし))]でさえ路車(ろしゃ)を持たないのに、介卿(かいけい)(次位の卿(けい))にそれを用(もち)いて葬(ほうむ)るのは、道理に外(はず)れたことではありませんか?」

と言い、季孫(きそん)(季武子(きぶし))も「その通りだ」と言って、杜洩(とせつ)に命じて大路車(たいろしゃ)を用(もち)いるのをやめさせようとしたが、杜洩(とせつ)の言う「大路車(たいろしゃ)を用(もち)いるべき理由」に反論することができず、結局、大路車(たいろしゃ)を用(もち)いて葬(ほうむ)らせた。


やがて季孫(きそん)(季武子(きぶし))が中軍(ちゅうぐん)を廃止することを謀(はか)ると、豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は「夫子(ふうし)[主人(叔孫豹(しゅくそんほう))]も、かねてから廃止することを考えておりました」と言って季孫(きそん)(季武子(きぶし))に媚(こ)び諂(へつら)った。

中軍を廃止する

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の5年(紀元前537年)春王正月、魯(ろ)では中軍(ちゅうぐん)を廃止したが、これは魯(ろ)の公室を弱めることを目的としたもので、[季孫(きそん)(季武子(きぶし))は]施氏(しし)に中軍(ちゅうぐん)廃止の議を提案させ、それを臧氏(ぞうし)に賛成させて決定した。

[魯(ろ)の襄公(じょうこう)の11年(紀元前562年)に]中軍(ちゅうぐん)を作った時は、公室が支配する民を3分割し、それぞれ(三桓(さんかん)*3の)3家がその1つずつを所有した。そして、季氏(きし)(季武子(きぶし))はすべての民に税をかけて公室には入れず、叔孫氏(しゅくそんし)はその臣下の子弟だけに税をかけ、孟氏(もうし)は臣下の子弟の半分から税を取っていた。

今、中軍(ちゅうぐん)を廃止した後は公室の民を4分割して、季氏(きし)(季武子(きぶし))は勝手にその2つを選び取り、他の2氏はそれぞれ1つずつを所有した。3家ともすべての民に税をかけ、その内のいくらかを皇室に入れるようになった。


季氏(きし)(季武子(きぶし))は、文書をもって杜洩(とせつ)に命じて、叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))の殯(もがり)(埋葬前の棺(ひつぎ))に、

「子(あなた)は中軍(ちゅうぐん)を廃止したいと望んでおられました。すでにこれを廃止しましたので、その旨(むね)をご報告申し上げます」

と報告させようとしたが、杜洩(とせつ)は、

「夫子(ふうし)[主人(叔孫豹(しゅくそんほう))]は(中軍(ちゅうぐん)を)廃止することを望んでいませんでした。それゆえに、それを僖公(きこう)の廟門(びょうもん)で盟(ちか)い、五父(ごふ)の衢(く)(魯(ろ)にあった5つの道路が交差する交通の要所)で(神に)誓ったのです」

と言い、その文書を受け取るや否や、地面に投げ捨てると、家臣らを引き連れて[叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))の霊柩(れいきゅう)に]哭泣(こっきゅう)した。

脚注

*3魯(ろ)の第15代国君・桓公(かんこう)の子孫である孟孫氏(もうそんし)(仲孫氏(ちゅうそんし))・叔孫氏(しゅくそんし)・季孫氏(きそんし)は三桓氏(さんかんし)と呼ばれ、代々魯国(ろこく)の実権を握っていた。季孫氏(きそんし)はその主席であった。

叔孫豹の出棺

その後、[豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))から賄賂(わいろ)を受けた]叔仲子(しゅくちゅうし)(叔仲帯(しゅくちゅうたい))が季孫(きそん)(季武子(きぶし))に「帯(わたし)は昔、叔孫(しゅくそん)(叔孫豹(しゅくそんほう))から『変死した者を葬るには西門から出すものだ』と教えられました」と言うと、季孫(きそん)(季武子(きぶし))はこれに従うように杜洩(とせつ)に命じた。

すると杜洩(とせつ)は、

「卿(けい)(叔孫豹(しゅくそんほう))の喪(ひつぎ)は朝廷の正門から出すのが魯(ろ)の礼でございます。吾子(あなた)が魯(ろ)の国政をお執(と)りになってから、まだ従来の礼を改めておられないのに、今変更されてしまえば、群臣は(変更したことが原因で)死んでしまうのではないかと懼(おそ)れております。どうしても従うことはできません」

と反対して、葬儀が終わると国を立ち去った。

叔孫豹の嫡子・仲壬の帰還

(叔孫豹(しゅくそんほう)の子の)仲壬(ちゅうじん)が(父の喪(も)を聞いて)斉(せい)から帰ってきた。そこで季孫(きそん)(季武子(きぶし))が仲壬(ちゅうじん)を(叔孫豹(しゅくそんほう)の後継者に)立てようとすると、南遺(なんい)は、

「叔孫氏(しゅくそんし)が強くなれば、その分だけ季氏(きし)は弱くなります。今、彼(仲壬(ちゅうじん))の実家(叔孫氏(しゅくそんし))は乱れております。子(あなた)は知らぬ振りをなさっておられれば、それでよろしいのではございませんか?」

と言った。

こうして南遺(なんい)は国の人々に命じて豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))を助け、大庫が並ぶ庭(で仲壬(ちゅうじん))を攻めさせた。司宮(しきゅう)*21が(仲壬(ちゅうじん)を)射(い)ると、その矢が目に当たって仲壬(ちゅうじん)は死んだ。

豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は(叔孫氏(しゅくそんし)の領地の)東方の30邑(ゆう)を取り上げて南遺(なんい)に与えた。


昭子(しょうし)(叔孫婼(しゅくそんしゃく))が叔孫氏(しゅくそんし)の後を継ぐと、家臣たちを集めて言った。

「豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は叔孫氏(しゅくそんし)に禍(わざわい)を持ち込んで次々と騒動を起こし、嫡子(ちゃくし)(仲壬(ちゅうじん))を殺して庶子(昭子(しょうし))を立て、さらに(叔孫氏(しゅくそんし)の)邑(ゆう)を人に分け与えて、自分の罪を逃(のが)れようとしている。これより大きな罪はない!必ずや速(すみ)やかにこれを殺せ」

豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))は懼(おそ)れて斉(せい)に逃げようとしたが、孟丙(もうへい)と仲壬(ちゅうじん)の子たちが国境の関所の外で殺し、その首を斉(せい)の寧風(ねいふう)*22の棘(いばら)の上に投げつけた。


仲尼(ちゅうじ)(孔子(こうし))は、

「叔孫昭子(しゅくそんしょうし)が豎牛(じゅぎゅう)(召使いの牛(ぎゅう))の労を認めなかったことは、容易にできることではない。古(いにしえ)の周任(しゅうじん)も『政治を行う者は私事に関する労を賞せず、個人の怨(うら)みを罰しない』と言い、『詩経(しきょう)』*23にも『正しい徳行があれば、四方の国々は従う』とある」

と批評して昭子(しょうし)を誉(ほ)め称(たた)えた。

脚注

*21宗廟(そうびょう)の係。ここでは大庫の係と思われる。

*22杜注(とちゅう)は斉(せい)の地名とする。一説に「風を防ぐ祭り」の名で、その祭りの時に焼く荊棘(けいきょく)の上に首を投げたと言う。

*23『詩経(しきょう)』大雅(たいが)・抑(よく)の詩。

晋の加礼を辞す

魯(ろ)の昭公(しょうこう)は晋(しん)に出掛けた。

夏、莒(きょ)の牟夷(ぼうい)が牟婁(ぼうろう)・防(ぼう)・茲(し)の3邑(ゆう)を差し出して魯(ろ)に逃げ込んで来た。莒(きょ)人(ひと)が「魯(ろ)が牟夷(ぼうい)を受け入れた」ことを晋(しん)に訴えたので、晋侯(しんこう)は来朝していた魯公(ろこう)(昭公(しょうこう))を捕(とら)えようとした。

すると范献子(はんけんし)(范鞅(はんおう))は、


「いけません。来朝した者を捕(とら)えるということは、人を騙(だま)して捕(とら)えるようなものです。

有罪の者を討(う)つのに正々堂々と軍隊を用(もち)いず、騙(だま)してやり遂(と)げるということは、(覇者の務(つと)めを)怠(おこた)るというものです。

盟主となっておりながら、この2つの過(あやま)ちを犯(おか)すということは、いけないことではありませんか。どうか(昭公(しょうこう)を)帰して、少し暇(ひま)になってから軍隊を率(ひき)いて討(う)つことにしましょう」


と言ったので、昭公(しょうこう)は秋7月に晋(しん)から帰国した。莒(きょ)が攻めてきたが、戊辰(つちのえたつ)の日(15日)に魯(ろ)の叔弓(しゅくきゅう)が蚡泉(ふんせん)で撃ち破った。


魯(ろ)の昭公(しょうこう)の6年(紀元前536年)夏、季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))は晋(しん)に出掛けた。これは、前年に莒(きょ)の牟夷(ぼうい)が差し出した邑(ゆう)を受け入れても、咎(とが)められなかったことに対する礼をするためであった。

晋侯(しんこう)は季孫宿(きそんしゅく)(季武子(きぶし))のために宴(うたげ)を開き、特別に料理の数を増やした。武子(ぶし)(季武子(きぶし))は退出して、臣下の応待役に命じて晋侯(しんこう)に、

「小国が大国にお仕えするのは、ただ討伐を免(まぬか)れることができればそれで十分であり、宴(うたげ)を賜(たまわ)るなどということは望んでおりません。たとえ賜(たまわ)りましても三献(さんけん)*24を越えることはございません。ところが今、豆(とう)*25が増やされております。下臣(わたくし)には耐えられません。これは礼に背(そむ)くことにならないでしょうか」

と言った。これに韓宣子(かんせんし)(韓起(かんき))が、

「寡君(わがきみ)(晋侯(しんこう))は、それをもってご好意を示そうとなさっているのです」

と言うと、武子(ぶし)(季武子(きぶし))は、

「寡君(わがきみ)(昭公(しょうこう))でさえ、このようなご接待に与(あずか)ったことがありません。まして下臣(わたくし)は、君(昭公(しょうこう))の隸(れい)(家来)に過ぎません。どうしてこのような過分な恩恵を受けることなどできましょうか」

と言い、強く願い出て その特別な料理を下げてもらい、ようやく饗応(きょうおう)の宴(うたげ)を終えた。

晋(しん)人(ひと)は、彼を礼をよくわきまえた人物だと評価し、良い引き出物をたくさん贈(おく)った。

脚注

*24儀礼の段階の1つ。『礼記(らいき)』礼器(らいき)に「一獻質,三獻文,五獻察,七獻神」とある。献(けん)は酒を酌(く)んで勧めること。
・一献(いっけん)は礼が質素で簡略
・三献(さんけん)は礼に装飾や形式が整えられている
・五献(ごけん)は顕著(けんちょ)に盛大で、細部まで行き届いている
・七献(しちけん)は礼が重々しく、きわめて慎(つつし)み深い

*25豆(とう)は料理の器。器の数=料理の品数(しなかず)。身分に合わない待遇は礼に反すると言っている。

日食の意味

魯(ろ)の昭公(しょうこう)の7年(紀元前535年)夏4月、甲辰(こうしん)の朔(ついたち)、日食があった。

晋侯(しんこう)「日食の咎(とが)めを受けるのは誰であろうか?」

士文伯(しぶんはく)「魯(ろ)と衛(えい)が咎(とが)めを受けますが、衛(えい)が大きな咎(とが)めを受け、魯(ろ)が小さな咎(とが)めを受けます」

晋侯(しんこう)「何故(なぜ)か?」

士文伯(しぶんはく)「日食は衛(えい)の星宿(せいしゅく)にあたる娵訾(しゅし)(豕韋(しい))から始まって、魯(ろ)の星宿(せいしゅく)にあたる降婁(こうろう)に及んでいますので、衛(えい)に禍(わざわい)が起こり、魯(ろ)はその余波を受けるでしょう。衛(えい)の国君が大きな咎(とが)めを受け、魯(ろ)国は上卿(じょうけい)が咎(とが)めを受けるものと思われます」

晋侯(しんこう)「『詩(し)』*26に『あの日食が起こったのは、どこに良くないことがあったのか』とあるのは、どういう意味か?」

士文伯(しぶんはく)「善政が行われていないことを意味します。国に善政が行われず、善人を用(もち)いないと、自(おの)ずから日食や月食の咎(とが)めを受けるのです。ゆえに政治は慎(つつし)まなければなりません。務(つと)めるべきことは3つ。第一は賢人を選んで用(もち)いること。第二は民心に従うこと。第三は時(とき)(春夏秋冬の季節において為(な)すべき民事)に従うことです」

脚注

*26『詩経(しきょう)』小雅(しょうが)・十月之交(じゅうがつのこう)。

成の邑を杞に返す

3月、魯(ろ)の昭公(しょうこう)が楚(そ)に出向き、孟孫(もうそん)(孟僖子(もうきし))が同行した。昭公(しょうこう)が楚(そ)に出向いたことを恨(うら)みに思った晋(しん)人(ひと)は、魯(ろ)にやって来て「杞(き)に返さなかった土地」を調査した。

そこで季孫(きそん)(季武子(きぶし))は、孟孫(もうそん)(孟僖子(もうきし))が楚(そ)に出向いているのを幸いとして、孟孫(もうそん)(孟僖子(もうきし))の邑(ゆう)である成(せい)を杞(き)に与えようとしたが、孟孫(もうそん)(孟僖子(もうきし))の城代の謝息(しゃそく)は承知せず、

「世間の人が言う『水を汲(く)む挈缾(つるべ)一杯ほどの才智しか持たない人間でも、任されて守っていれば、その器(どうぐ)は人に貸さないものだ』というのは、礼でもあります。夫子(ふうし)[主人(孟僖子(もうきし))]が君(昭公(しょうこう))のお供をしておりますのに、留守を預かる家来がその邑(ゆう)を失ったとしたら、いくら吾子(あなた)様でも不忠の臣とお疑いになることでしょう」

と言った。すると季孫(きそん)(季武子(きぶし))は、


「君(昭公(しょうこう))が楚(そ)に行っておられるのは、晋(しん)に対しては罪になることだ。それにまた、晋(しん)の命令に従わないならば、魯(ろ)の罪は一層重くなり、晋(しん)の軍は必ず魯(ろ)に攻めて来るだろう。そうなれば、こちらは防ぎようがない。成(せい)の邑(ゆう)を杞(き)に与え、晋(しん)の隙を窺(うかが)って杞(き)から取り戻すようにするのが上策だ。

吾(わたし)は子(あなた)に桃(とう)の邑(ゆう)を与えよう。後日、成(せい)の邑(ゆう)が帰って来た時には、孟孫(もうそん)(孟僖子(もうきし))は2つの成(せい)(邑(ゆう))をを得ることになる。魯(ろ)には憂(うれ)いがなくなり、孟孫(もうそん)(孟僖子(もうきし))は邑(ゆう)が増えることになる。子(あなた)が気に病(や)む必要はない」


と言った。

それでも謝息(しゃそく)は「(桃(とう)には)山がない」ことを理由に断ったが、季孫(きそん)(季武子(きぶし))が(桃(とう)の邑(ゆう)に加えて)萊(らい)と柞(さく)の邑(ゆう)を与えると、ようやく謝息(しゃそく)は桃(とう)の邑(ゆう)をに遷(うつ)った。

晋(しん)人(ひと)は、杞(き)のために成(せい)の邑(ゆう)を(魯(ろ)から)取り上げた。

季武子の死

11月、季武子(きぶし)は亡くなった。

晋侯(しんこう)は士文伯(しぶんはく)に「吾(わたし)はあなたに(夏4月の)日食の咎(とが)めについて尋(たず)ねたが、あなたが答えた通りになったな」と言った。


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