正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧③季孫氏きそんし③[季武子きぶし季孫宿きそんしゅく)]です。

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凡例・関連記事

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き③

季武子

季武子きぶし季孫宿きそんしゅく

生年不詳〜昭公しょうこうの7年(紀元前535年)11月没。名は宿しゅく。一名をしゅく。父は季文子きぶんし季孫行父きそんこうほ)。曽祖父は桓公かんこうの弟・季成子きせいし季友きゆう)。正卿せいけい宰相さいしょう)。

父・季文子の後を継ぐ

襄公じょうこうの6年(紀元前567年)冬、しんしょうを助けなかったため、にやって来て「なぜしょうを滅ぼしたのか」とその罪を責め正した。季武子きぶししんおもむき、晋侯しんこう悼公とうこう)に会見して父(季文子きぶんし)の後を継いだ挨拶あいさつをし、しょうを滅ぼした罪の裁きを受けようとした。

襄公じょうこうの7年(紀元前566年)夏、南遺なんいは(季武子きぶしの領地である)さい(代官)であった。当時、隧正すいせい*1叔仲昭伯しゅくちゅうしょうはくは、季氏きし季武子きぶし)に取り入ろうと考えて南遺なんいびへつらい、「の城普請ふしんをするようにお願いしてはどうか。わたしが人夫を都合いたしましょう」と言った。こうして季氏きし季武子きぶし)はに城壁を築いたのである。

秋、季武子きぶしえいおもむいて、[襄公じょうこうの元年(紀元前572年)冬に]えい子叔ししゅく公孫剽こうそんひょう)が来聘らいへいしたことへの返礼を行い、「返礼が遅れたのは、二心ふたごころがあってのことではない」ことを弁解した。

脚注

*1主に郊外の庶民の労役徴発と地方事務の管理を行う。

季武子と范宣子

襄公じょうこうの8年(紀元前565年)5月甲辰こうしん(7日)、しん諸侯しょこう大夫たいふ邢丘けいきゅうに会合させ、しん朝聘ちょうへいすべき回数を命じて、それを守るように言い渡した。この会合に、からは季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)、せいからは高厚こうこうそうからは向戌しょうしゅつえいからは甯殖ねいしょくしゅ(人物不明)など、大夫たいふたちが出席し、(ていの)鄭伯ていはく大夫たいふではなくみずから出席した。


冬、子囊しのう公子こうしてい)がていを攻撃した。これは、ていが(しんのために)さいおかしたことが原因であるが、ていしんの援軍を待たずにと和平を結んだ。

その後、しん范宣子はんせんし士匃しかい)が来聘らいへいして襄公じょうこうしんを訪問したことに対する返礼をし、「ていに軍を出す考えであること」を告げた。

襄公じょうこう范宣子はんせんしをもてなしたうたげの席で、范宣子はんせんしは(「戦いの時期に遅れないで欲しい」という意味を込めて詩経しきょう国風こくふう召南しょうなん・)摽有梅ひょうゆうばい(なかなか嫁にいけない乙女のあせりを歌った)を歌った。

すると范宣子はんせんしの意を悟った季武子きぶしは、「誰がえて遅れましょうか。今、草木に例えるならば、寡君かくん(我が君)は晋君しんくんの臭いや味のようなものです。いついかなる時でも喜んでご命令をお受けいたします」と答え、(詩経しきょう小雅しょうが桑扈そうこじゅう・)角弓かくきゅう(上下関係の逆転などをなげき、秩序を重んじるべきことをさと)を歌い、賓客ひんかく范宣子はんせんし)が退出しようとする時、(詩経しきょう小雅しょうが彤弓とうきゅうじゅう・)彤弓とうきゅう(大切な客を迎えて礼を尽くす様子を歌った)を歌った。

すると范宣子はんせんしは「[僖公きこうの28年(紀元前632年)の]城濮じょうぼくの戦いの時、我が先君・文公ぶんこう衡雍こうようで戦勝を報告し、襄王じょうおうから彤弓とうきゅうしゅりの弓。天子てんしが大功のあった諸侯しょこうに与えたもの)をさずけられ、子孫に伝えるべき宝としました。わたしは先君(文公ぶんこう)に守官しゅかんとして仕えた者の子孫です。どうして仰せをありがたくいただかないことがありましょう」と言った。

君子(人格者)は范宣子はんせんしのことを「礼をわきまえた人物である」と言った。

晋の鄭討伐と魯の襄公の元服

襄公じょうこうの9年(紀元前564年)夏、季武子きぶしは前年の范宣子はんせんし士匃しかい)の来聘らいへいに対する返礼のためしんおもむいた。

冬10月、諸侯しょこうていち、庚午こうごの日(11日)、

  • 季武子きぶし季孫宿きそんしゅく)・せい崔杼さいちょそう皇鄖こううんしん荀罃じゅんおう知伯ちはく知武子ちぶし)と士匃しかい范宣子はんせんし)がひきいる中軍に従って(ていの)鄟門せんもんに布陣し、
  • えい北宮括ほくきゅうかつそうひとしゅひとしん荀偃じゅんえん中行献子ちゅうこうけんし)と韓起かんきひきいる上軍に従って(ていの)師之梁門ししりょうもんに布陣し、
  • とうひとせつひとしん欒黶らんえん士魴しほうひきいる下軍に従って(ていの)北門ほくもんに布陣し、
  • ひとげいひとしん趙武ちょうぶ魏絳ぎこうひきいる新軍に従って並木のくりの木を斬り倒して軍用に提供した。

この結果、てい和睦わぼくを申し出、しんはこれを受け入れ盟約を結んだが、しんていを思うようにすることができず、諸侯しょこうひきいて再びていった。


うるう12月、襄公じょうこう晋侯しんこう悼公とうこう)が戦いから帰るのを見送り、晋侯しんこう襄公じょうこうと一緒に黄河こうがほとりで酒宴を開いた。その席で晋侯しんこう襄公じょうこうの年齢をたずねると、季武子きぶしが答えて、

沙隨さずいで会合した年[成公せいこうの16年(紀元前575年)]に生まれました」

と言った。晋侯しんこうが、

「12歳になりましたか。12年は星(木星)の周期が終わる一区切りの期間だ。国君は15歳で子を生むものだが、礼として元服してから子を生む。君(襄公じょうこう)は冠(元服)なされるがよい。 大夫たいふ季武子きぶし)はどうして冠の用意をしてやらないのか?」

と言うと、季武子きぶしは答えて言った。

「君(襄公じょうこう)が冠礼を行うには、必ず祼享かんきょうの礼*2を行い、金石(鐘やけい)の音楽でこれを整え、先君のちょう(先祖のびょう)においてり行うのものです。今、寡君かくん(我が君)は遠征中でございますので、すべてを備えることができません。どうか兄弟の国に至った時、その用具を借りて行わせてください」

晋侯しんこうは「よろしい」と言い、襄公じょうこうは帰還の途上でえいに着くと、(えいの)成公せいこうびょうで冠礼をり行った。

脚注

*2清めの酒をそそいで祖先にそなえて祭る礼。

三軍を創設する

襄公じょうこうの11年(紀元前562年)春、季武子きぶしは三軍を創設したいと思い、叔孫穆子しゅくそんぼくし叔孫豹しゅくそんほう)に「三軍を創設して(三桓さんかん*3が)それぞれ一軍を支配し(、所属する民から税を取り立てることにし)よう」と告げた。

叔孫穆子しゅくそんぼくしは「やがてあなたの実権を握ります。そうなれば、あなたはきっと自分の下に軍を1つにまとめるでしょう」と言ったが、それでも季武子きぶしはそれを強く望んだ。そこで叔孫穆子しゅくそんぼくしは「ならば盟約を結びましょう」と言い、僖公きこう廟門びょうもんちかい、(衆人にも目につくように人通りの多い)五父ごほ(辻)で神に誓った。*4

正月、三軍を創設して公室が支配する民を3分割し、その1つずつをそれぞれ(三桓さんかん*3の)3家に割り当てたので、3家は。 三人の子はそれぞ今まで私有していた軍隊を廃止した。季氏きし季武子きぶし)は自分の軍隊に従う民で、季氏きし季武子きぶし)に夫役ぶえきや租税を納める者には公税(魯国ろこくの税)を免除し、それらを季氏きし季武子きぶし)に納めない者には倍の課役を課した。

孟氏もうし孟献子もうけんし)は自分の軍隊に従う民の子弟の半分を臣下として扱い、叔孫氏しゅくそんし叔孫穆子しゅくそんぼくし)はその子弟のすべてを臣下とし、従わなければ解放しなかった。

脚注

*3の第15代国君・桓公かんこうの子孫である孟孫氏もうそんし仲孫氏ちゅうそんし)・叔孫氏しゅくそんし季孫氏きそんし三桓氏さんかんしと呼ばれ、代々魯国ろこくの実権を握っていた。季孫氏きそんしはその主席であった。

*4原文:穆子曰,政將及子,子必不能,武子固請之,穆子曰,然則盟諸,乃盟諸僖閎,詛諸五父之衢,

諸侯が向で会合する

襄公じょうこうの12年(紀元前561年)春2月、きょの東の国境を攻め、たいを包囲した。そこで季武子きぶしたいを救援し、その勢いに乗じてきょうんに攻め入ると、その鐘を取り上げて(祭器の)公盤こうばんを作った。


襄公じょうこうの14年(紀元前559年)春正月、と戦って大敗したことをしんに告げた。そこでのためにつ相談をするため、しん范宣子はんせんし士匃しかい)・てい公孫蠆こうそんたいせいそうえいそうきょしゅとうせつ小邾しょうしゅの代表者、からは季武子きぶし子叔斉子ししゅくせいし叔老しゅくろう)が、しょうと会合した。

しんは(が2人のけいを出席させたことに感心し、)これ以降、へい(貢ぎ物)を軽減し、ますますの使者をうやまうようになった。

衛の内乱

えい献公けんこうは先君からの重臣である孫文子そんぶし寧恵子ねいけいしないがしろにして無礼を働き、これに腹を立てた孫文子そんぶし私邑しゆうせきに引きもった。

すると献公けんこう孫文子そんぶしの子・孫蒯そんかいの前で(詩経しきょう小雅しょうが小旻しょうびんじゅう・)巧言こうげん(正道をく者は退しりぞけられ、へつらう者が重用されて国家に災いをもたらすと歌った)の卒章を歌わせ、「孫文子そんぶし謀反むほんくわだてている」とほのめかした。

孫蒯そんかいがこのことを孫文子そんぶしに告げると、孫文子そんぶしは「君(献公けんこう)はわたしみ嫌っている。先手を打たなければきっと殺される」と言った。

その後、献公けんこう子蟜しきょう子伯しはく子皮しひの3人の公子こうしつかわし、孫文子そんぶし丘宮きゅうきゅうちかわせ、仲直りしようとしたが、孫文子そんぶしは3人の公子こうしを殺害してしまった。

4月己未きび(26日)、献公けんこうの弟・子展してんせい出奔しゅっぽんした。献公けんこうは(えいの)けんのがれ、公子こうし子行しこうつかわして和議を申し入れたが、孫文子そんぶしはまたもこれを殺害し、献公けんこうせい出奔しゅっぽんすると、これを追撃して阿沢あたくで討ち破った。

孫氏そんし孫文子そんぶし)は公子こうしひょう*5を国君に立て、孫林父そんりんほ孫文子そんぶし)と寧殖ねいしょく寧恵子ねいけいし)の2人がこれを補佐した。


冬、季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)はしん士匃しかい范宣子はんせんし)・そう華閲かえつえい孫林父そんりんほ孫文子そんぶし)・てい公孫蠆こうそんたいきょしゅの代表者とせきで会合した。これは、えい公子こうしひょう*5の即位を認めてえいを安定させる相談をしたものである。

脚注

*5えい殤公しょうこう。名は春秋左氏伝しゅんじゅうさしでんではひょう史記しきではしゅう漢書かんじょではえん。続柄は史記しきではえい定公ていこうの弟、漢書かんじょではえい献公けんこうの弟、春秋経伝集解しゅんじゅうけいでんしっかいではえい穆公ぼくこうの孫、公子こうし黒背こくはいの子と、諸説ある。

司臣を匿う

襄公じょうこうの15年(紀元前558年)春、当時、[襄公じょうこうの10年(紀元前563年)冬10月にていで起こった]尉氏いし司氏しし叛乱はんらんの残党たちは、そうのがれていた。

ていでは(尉氏いし司氏ししのために父を殺された)子西しせい伯有はくゆう子産しさんうらみを晴らすため、そうに馬40じょう(160頭)と音楽師のばつけいを贈り物として贈り、さらに2月には公孫黒こうそんこくてい宰相さいしょう子駟ししの子、子皙しせき)がそうの人質となって、逃亡した残党たちをていに引き渡すように依頼した。*6

すると(そうの)司城しじょう子罕しかんは(逃亡していた)堵女父とじょほ尉翩いへん司斉しせいの3人をていに引き渡したが、(司斉しせいの父の)司臣ししんは良い人物と見込んで季武子きぶしに預け、季武子きぶしは彼を(の)べんかくまった。

ていは(堵女父とじょほ尉翩いへん司斉しせいの)3人を処刑してかい(遺体を塩漬けにする刑罰)にした。


夏、斉侯せいこうの北の国境を攻めてせいを包囲すると、襄公じょうこうせいを救援するため軍を進めてぐうに至った。

季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)と叔孫豹しゅくそんほう叔孫穆子しゅくそんぼくし)は軍をひきいてせい(外郭・城壁)を築いてせいの攻撃に備えた。

斉侯せいこうせいを包囲したのは、せいしん二心ふたごころいだいてしんを恐れなかったからである。

脚注

*6明治書院めいじしょいん新釈漢文大系しんしゃくかんぶんたいけい春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん(三)』より。原文:鄭尉氏,司氏,之亂其餘盜在宋,鄭人以子西,伯有,子產,之故,納賂于宋,以馬四十乘,與師茷,師慧,三月,公孫黑為質焉,

晋が斉を伐つ

襄公じょうこうの19年(紀元前554年)春、季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)がしんおもむき、そう成公せいこうの葬儀に参列した。


夏、しん欒魴らんぽうが軍をひきい、えい孫文子そんぶしに従ってせいった。

季武子きぶししんおもむいて「せいった出陣のお礼」をべ、晋侯しんこう平公へいこう)は季武子きぶしをもてなすうたげを開いた。

その席で、当時まつりごとっていた范宣子はんせんし士匃しかい)が(詩経しきょう小雅しょうが都人士とじんしじゅう・)黍苗しよびよう(王の徳が天地に行き渡り、百官百姓がその恩沢によくすることをたたえる)を歌っ(てしんあわれみいつくしむ意をほのめかし)た。すると季武子きぶしは立ち上がって再拝し、頭を地にこすりつけ(再拝稽首さいはいけいしゅ)、

「小国が大国をあおいで頼りにするのは、百穀が膏雨こうう(恵みの雨)を望むようなものです。常に小国をいつくしんでくださるなら、天下はきっとやわらいでしんに仕えることでしょう。それは弊邑へいゆう(自国の謙称:)だけにとどまりません」

と言い、(詩経しきょう小雅しょうが彤弓とうきゅうじゅう・)六月ろくがつしゅう宣王せんおうが異民族の玁狁けんいんを討伐して国を安定させた偉業をたたえた)を歌っ[てしん天子てんししゅう)を助けて天下を平定すべき意をほのめかし]た。


季武子きぶしせいの兵をって得た武器で林鍾りんしょう*7を作り、それにの武功をきざんだ。すると(大夫たいふ・)臧武仲ぞうぶちゅう季武子きぶしに向かって言った。


「これは礼に外れています。そもそも銘文めいぶんとは、天子てんしは立派な徳をしるし(て功績をしるさず)、諸侯しょこうは時にかなった事業において功績があればそれをしるし、大夫たいふみずからのばつ(武功)をしるすもの。今回の戦果をばつ(武功)と称するならば、それはいやしいことになります。

(今回の)戦功を計れば、他国(晋)の力を借りたものに過ぎず、時について言えば、民(の農事)を多くさまたげただけです。一体何を銘文めいぶんとして刻まれるのでしょうか。

そもそも大国が小国をった時には、その得た戦利品で彝器いき*8を作り、功績を刻んで子孫に示すことで(国君の)徳を明らかにし、無礼(の国)をらしめるのです。

ところが今、魯国ろこくは他国の力を借りてやっと滅亡をまぬかれたのです。どうしてめいを刻むことができましょうか。小国が大国に救われておきながら得たものを誇示すれば、大国を怒らせ、国を滅ぼす道となるだけです」


脚注

*7古代中国の金属製の打楽器・編鐘へんしょうの1つ。宗廟そうびょう祭祀さいしや朝廷の礼楽でもちいられ、しょう銘文めいぶんを刻むことには、その功績を後世に伝える記念碑的な意味がある。

*8いんしゅう時代の祭祀さいしもちいられる青銅器。祖先の宗廟そうびょうに常にそなえた釣鐘つりがねかなえなど。

宋に使いする

襄公じょうこうの20年(紀元前553年)冬、季武子きぶしは[襄公じょうこうの15年(紀元前558年)にそうの]向戌しょうじゅつ来聘らいへいしたことに対する返礼としてそうおもむき、(そうの)褚師段ちょしだんが出迎えて饗応きょうおうした。(その席で季武子きぶしは、詩経しきょう小雅しょうが鹿鳴ろくめいじゅう・)常棣じょうていの7章*9を歌っ(てお互いに親睦しようという意をほのめかし)た。宴が終わると、そうひとは厚いおくり物をおくった。

に帰って報告すると、襄公じょうこううたげを開いてその労をねぎらった。(その席で季武子きぶし詩経しきょう小雅しょうが白華はっかじゅう・)魚麗ぎょれい饗宴きょうえんにおける料理や酒が豊かで美味しく、皆で楽しく分かち合う喜ばしい場をたたえた)の卒章を歌うと、襄公じょうこうは、(詩経しきょう小雅しょうが白華はっかじゅう・)南山有台なんざんゆうだい(君子の徳をたたえ、末永い繁栄を祈る)を歌っ(て使臣としての光を輝かせたことを褒める意をほのめかし)た。

季武子きぶしは席を避けて、「わたしには当てはまらない。もったいないことです」と言った。*10

脚注

*9常棣じょうていの7章:妻子好合、如鼓瑟琴。 兄弟既翕、和樂且湛。(夫婦はむつまじく調和し、まるでしつや琴を奏でるようである。兄弟たちもまた心を合わせ、なごやかで楽しみに満ちている)常棣じょうていは兄弟の親愛を歌った饗応きょうおうの歌としてよくもちいられる。

*10明治書院めいじしょいん新釈漢文大系しんしゃくかんぶんたいけい春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん(三)』より。原文:歸復命,公享之,賦魚麗之卒章,公賦南山有台,武子去所曰,臣不堪也。
「不堪」をそのまま訳せば「堪えられない」となる。「もったいないことです」と言うのなら、わざわざ席を外す必要はない?襄公じょうこうが歌った南山有台なんざんゆうだいには、皮肉や当てこすりの意味が込められていた可能性もある。

臧武仲(臧紇)の諫言

襄公じょうこうの21年(紀元前552年)、しゅ庶其しょきしつ閭丘りょきゅうの2ゆうをもってに亡命して来た。季武子きぶしは(庶其しょきに)襄公じょうこう姑姉こし襄公じょうこうのおば:父母の姉妹)を妻として与え、彼の従者たちにも褒美を与えたが、その後、の国内には盗人が多く出るようになった。

季武子きぶし季武子きぶし臧武仲ぞうぶちゅう臧紇ぞうこつ)に言った。

季武子きぶしあなたはどうして盗人を取り締まろうとなさらないのか?」

臧武仲ぞうぶちゅう「取り締まることはできません。わたしにはとてもできません」

季武子きぶしわたしは4つのゆうを領しているが、(自分で)領内の盗人を取り締まっている。あなた司寇しこう(司法・刑罰をつかさどる官職)である。盗人を取り除くのがつとめであろう。どうしてできないなどと言うのか?」

すると臧武仲ぞうぶちゅうは言った。


あなたは国外の盗人(しゅ庶其しょき)を呼び入れて大変手厚く礼遇しておられます。どうしてわたしに国内の盗人を取り締まることができましょうか。

あなた正卿せいきょう宰相さいしょう)の地位にありながら他国の盗人を呼び寄せておいて、わたしには(国内の盗人を)取り締まれとおっしゃる。どうしてそのようなことができましょうか。

庶其しょきしゅゆうぬすんでやって来たのに、あなた姫氏きし(公室の娘)を妻にしてやり、ゆうを与え、従者たちにまで褒美を与えられた。(庶其しょきのような)大盗に君(国君)の姑姉こし襄公じょうこうのおば:父母の姉妹)と大ゆうを与えて礼遇し、その次には皁牧そうぼく(下僕?牧場?)と馬を与え、さらに身分の低い小者には衣裳や剣帯を与えておられるのです。

これは盗人を賞しているようなものです。賞しておきながら除こうとしても、それは難しいことです。

わたしは『上に立つ者は、まず心を清めて雑念を払い、人に接するときは私心をなくして同じ態度で臨み、言葉や行動は道理にかなったものにし、誠実さを明確に示すべきであり、そうして初めて民を治めることができる』と聞いております。

そもそも上に立つ者の行いは、そのまま民の手本となります。上に立つ者が行わないことを民が行えば、それは禁じられ刑罰が科されます。ゆえに誰もが恐れてつつしまないわけにはいかないのです。ですがもし、上に立つ者と同じ行いを民が行ったなら、それは当然のことと言うべきです。どうしてそれを禁じることができましょうか。

夏書かしょに『この事をやらせようと思えば、我が身ができてこそ。この事をやめさせようと思えば、我が身がやめることができてこそ。この事の善悪を言い正そうとすれば、我が身が正しくしてこそ。まことにこの命令を出して天下に行わせようとしても我が身ができてこそ。帝よ、ただそのようにしてこそ、功績を立てられるのだと思いなさい*11』とあります。

これは『上に立つ者が直向ひたむきな心をもちいてこそ、成功を望むことができる』と言っているのです」

脚注

*11原文:夏書曰,念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功,
夏書かしょとは尚書しょうしょ夏書かしょのことだが、臧武仲ぞうぶちゅうが引用した「禹曰:『朕德罔克,民不依。皋陶邁種德,德乃降,黎民懷之。帝念哉!念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功』」は、尚書しょうしょ夏書かしょではなく尚書しょうしょ虞書 ぐしょ大禹謨だいうぼにある。

季武子の後継者

襄公じょうこうの23年(紀元前550年)、季武子きぶしには適子ちゃくし(正妻が生んだ子)がいなかった。庶子の中では公弥こうび)が最も年長であったが、年下の悼子とうしこつ)を愛して後継ぎに立てようと考え、(家老の)申豊しんぽうに「わたしこつも共に愛しているが、才能のある者を選んで立てたい」と言って意見を求めた。

すると申豊しんぽうは返答もせずに退出し、家財を残らずまとめて立ち去ろうとした。後日また申豊しんぽうに意見を求めたが、申豊しんぽうは「どうしてもそうなさるなら、粗末な車を整えて国外に立ち去りましょう」と答えたので、(申豊しんぽうとの話を)打ち切った。

そこで臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)に意見を求めると、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は「わたしに酒を振る舞ってください。そうすれば、あなたのために[悼子とうしこつ)を]立ててあげましょう」と言った。

そこで季武子きぶし大夫たいふたちに酒を振る舞い、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は客として列席した。献杯が終わると、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は北側(主君の席)に席をもうけさせ、新しい酒樽を清めて悼子とうしこつ)を呼び寄せた。

臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)がみずから段を降りてこれを迎えると、大夫たいふたちもみな立ち上がり、[悼子とうしこつ)を迎える]列に加わった。その後、公鉏こうそ公弥こうび)。あざな]を呼んで大夫たいふたちと同列に並ばせたので、これを見た季武子きぶしは(公鉏こうそが腹を立てるのではないかと心配して)顔色を失った。


その後、季武子きぶし公鉏こうそ馬正ばせい(馬の管理役)に任命したが、彼は怒って出仕しなかった。すると閔子馬びんしばが(公鉏こうそと)会って、


「いけません。禍福(不幸と幸福)に決まった入口はなく、ただ人がし寄せるもの。人の子として親に不孝であることを憂慮するべきで、地位がないことを憂慮するべきではありません。

父(季武子きぶし)の命令をつつしんでお受けするべきです。もし孝行を尽くしうやまって仕えれば、その富は季氏きし季孫氏きそんしの本家)の倍にもなりましょう。ですが、よこしまな心でもって道理や法を守らなければ、そのわざわいは下々の民の倍以上になるでしょう」


いさめたので、公鉏こうそは「もっともだ」と思い、朝夕のつとめに真心を尽くし、(与えられた)官職の職務にもうやうやしくはげんだ。

その結果、季武子きぶしは喜び、公鉏こうそに酒をご馳走しようとして酒宴の道具を持って出掛け、全部そのまま公鉏こうその所に置いた。こうして公鉏こうそは(季孫氏きそんしの本家よりも)富み栄え、さらに魯侯ろこう左宰ささい(高官)に任命された。

孟孫(孟荘子)の死

孟献子もうけんしの後を継いだ)孟孫もうそん孟荘子もうそうし仲孫速ちゅうそんそく)]は臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう臧紇ぞうこつ)]を嫌っていたが、季孫きそん季武子きぶし)は臧武仲ぞうぶちゅうを愛していた。


孟氏もうし孟孫氏もうそんし)の御騶ぎょすう御者ぎょしゃ)・豊點ほうてんは、孟荘子もうそうし仲孫速ちゅうそんそく)の庶子・けつ孟孝伯もうこうはく仲孫羯ちゅうそんけつ)]を好み、再三、「わたしの言うことに従うのなら、必ずや孟孫氏もうそんしの後継者にして差し上げましょう」と言ったので、けつはそれに従った。

その後、孟荘子もうそうしが病気になると、豊點ほうてん公鉏こうそに「もしけつを(孟孫氏もうそんしの後継ぎに)立てる加勢をしていただけるなら、(私にはあなたが季孫氏きそんしの後継ぎとなることをさまたげた)臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)に復讐させて欲しい」と言った。

公鉏こうそは(その気になって父の)季武子きぶしに「本来なら嫡子ちゃくしちつが後を継ぐべきですが、もし(季孫氏きそんしが庶子の)けつを立てたなら、季孫氏きそんし臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)に対して確かに力を持つことになるでしょう*12」と言ったが、季武子きぶしはこれに応じなかった。


己卯きぼうの日(8月10日)、孟孫もうそん孟荘子もうそうし)が亡くなると、公鉏こうそは(庶子の)けつを奉じて(喪主もしゅが立つ位置の)戸側(室戸の東)に立たせた。

そこへ季武子きぶしとむらいに来て哭礼こくれいを済ませ、「(嫡子ちゃくしの)ちつはどこにいるのか?」とたずねると、公鉏こうそは「けつがここにおります」と答えた。季武子きぶしは「嫡子ちゃくしちつの方が年長だろう」と言ったが、公鉏こうそは「年長であることに何の意味がありましょう。大事なのは唯一才能です*13。それに、孟孫もうそん孟荘子もうそうし)の遺言でもあります」と答え、ついにけつを立てた。(嫡子ちゃくしの)ちつしゅ出奔しゅっぽんした。


臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)はとむらいに来て哭礼こくれいし、大変悲しんで涙を流した。御者ぎょしゃが、出て来た臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)に「孟孫もうそん孟荘子もうそうし)はあなたを憎んでいたのに、これほどまでに悲しまれるとは。もし(あなたを愛している)季孫きそん季武子きぶし)が亡くなったら、一体どうなさるのですか?」とたずねると、臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)は、

季孫きそん季武子きぶし)がわたしを愛するのは病気のようなもので、孟孫もうそん孟荘子もうそうし)がわたしを憎むのは薬石のようなものだ。わたしを愛していても病気にするものは、わたしを憎んでいても役に立つ薬石の方がましだ。薬石はまだわたしを生かしてくれるが、わたしを病気にさせるものがいくら愛してくれても、かえって害毒を深めるものだ。孟孫もうそん孟荘子もうそうし)が死んでしまった今、わたしが滅びるのも時間の問題だ」

と言った。

脚注

*12原文:公鉏謂季孫曰,孺子秩固其所也,若羯立,則季氏信有力於臧氏矣。直訳すると「青二才のちつは当然、立つべき位にある。もしけつが立つならば、すなわ季氏きしは実に臧氏ぞうしに対して力有るなり」だが、意訳した。

*13季武子きぶしは「年長者ではなく才能のある者を選んで立てたい」と言って、年長の公鉏こうそではなく年下の悼子とうしこつ)を後継者に立てた。

臧武仲の出奔

孟氏もうし孟孝伯もうこうはく仲孫羯ちゅうそんけつ)]は門を閉ざして、季孫きそん季武子きぶし)に「臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)が反乱をくわだてているため、わたしは葬儀もできないでいます」と訴えた。季孫きそん季武子きぶし)は信じなかったが、臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)はこれを聞いて警戒した。

冬10月、孟氏もうし孟孝伯もうこうはく)は埋葬の墓道を切り開こうとして、臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)から道普請の人夫を借りた。そこで臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)は人夫頭に命じて助けさせ、東門で道普請をさせたが、臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)は孟氏もうし孟孝伯もうこうはく)を警戒していたため、武装兵を従えて工事を監視した。

孟氏もうし孟孝伯もうこうはく)がまたこのことを季孫きそん季武子きぶし)に告げると、季孫きそん季武子きぶし)は怒って臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)を攻めるように命じた。

乙亥いつがいの日(10月7日)、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は鹿門ろくもんせきの(かんぬきを)斬ってしゅ出奔しゅっぽんした。


これより以前、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)の父・臧宣叔ぞうせんしゅくちゅうの国から夫人ふじんを迎え、臧賈ぞうか)と臧為ぞうい)を生んだが、その夫人ふじんが亡くなるとそのめい(兄弟の娘)を継室(後妻)とした。この継室(後妻)が生んだ子が、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)である。

臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は祖先の祭祀さいしを途絶えさせてはならないと、(母の故郷の)ちゅうに出ていた臧賈ぞうか臧為ぞういに家を継いでくれるように使者をつかわした。そこで臧賈ぞうかは弟の臧為ぞういに命じ、に入れて臧氏ぞうしの家督を継ぐことをわせた。

そして臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は(自分の領土の)ぼうおもむくと、(に)使者をつかわして言った。

わたしが武装兵を従えたのは、謀叛むほんを起こそうとしたのではありません。思慮が足りなかったのです。決して私個人のためにお願いしたのではありません。ただ先祖の祭祀さいしを守り、祖父・臧文仲ぞうぶんちゅうと父・臧宣叔ぞうせんしゅくの勲功をお忘れくださらないなら、喜んでゆうぼう)を立ち去りましょう」

その結果、(は)臧為ぞうい臧氏ぞうしの家督を継がせ、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)はぼうを(に)返上してせい出奔しゅっぽんした。

臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)の従者たちが「(では)我々の悪事を並べ立てて、大夫たいふたちにちかわせていましめとするでしょうか?」と言うと、臧紇ぞうこつ臧武仲ぞうぶちゅう)は「ちかいに並べ立てる言葉がないであろう」と言った。


案の定、では臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)のことで大夫たいふたちがちかいを立てていましめにしようとしていた。

季孫きそん季武子きぶし)は悪臣の記録をつかさど外史がいしを呼んで盟首めいしゅ*14とするべき事例をたずねると、

「[宣公せんこうの18年(紀元前591年)の]東門氏とうもんし襄仲じょうちゅう)のことで誓った時には、『東門遂とうもんすい襄仲じょうちゅう)が公命(君命)に従わず、嫡子ちゃくしを殺害して庶子を立てたようなことがあってはならない』というものであり、[成公せいこうの16年(紀元前575年)に]叔孫氏しゅくそんし叔孫僑如しゅくそんきょうじょ)のことで誓った時には、『叔孫僑如しゅくそんきょうじょ)が国家の常法て皇室をくつがえそうとするようなことがあってはならない』というものでした」

と答えた。

これを聞いた季孫きそん季武子きぶし)が「臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)の罪はこの2人の罪には及ばないか」と言ったが、孟椒もうしょう孟献子もうけんしの孫・子服恵伯しふくけいはく)が「鹿門ろくもんせきの(かんぬきを)斬っ(てしゅ出奔しゅっぽんし)たことを罪としてはどうでしょうか?」と言うと、季孫きそん季武子きぶし)はその意見を採用し、臧氏ぞうし臧武仲ぞうぶちゅう)の罪を並べて誓いを立て、

臧孫紇ぞうそんこつ臧武仲ぞうぶちゅう)のように国家のおきてを破り、(関所の)門を犯しかんぬきを斬るようなことがあってはならない」

と言った。

臧孫ぞうそん臧武仲ぞうぶちゅう)はこれを聞くと、「(の)国にも(一角の)人物がいた。誰であろうか?孟椒もうしょうであろうか?」と言った。

脚注

*14盟誓文の冒頭にしるされた、いましめとしてげる過去の事例。

弭兵の会

襄公じょうこうの27年(紀元前546年)秋7月、諸侯の大夫たいふそうで会盟し、からはほう叔孫豹しゅくそんほう)がこれに参加した。これはそう左師さし向戌しょうじゅつが仲介して「大国のしん弭兵びへい(停戦)させた会盟」である。

この時 季武子きぶし叔孫豹しゅくそんほうに使者をつかわし、公命(君命)として「(も小国の)しゅとうのように扱われるようにせよ」と告げていたが、せいしゅを属国にしたいとい、そうとうを属国にしたいとうたので、しゅとうは盟約に参加しなかった。

すると叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)は「しゅとうは人の私(他国の属国)である。そして我()は列国(として独立した国)だ。どうして属国の真似ができようか。吾国わがくにそうえいと同等である」と言って盟約に参加した。(「ほう」と叔孫しゅくそんの)族名をしるさなかったのは、公命(君命)をたがえたからである。

襄公の邑を奪う

襄公じょうこうの29年(紀元前544年)夏4月、康王こうおうほうむった。襄公じょうこう陳侯ちんこう鄭伯ていはく許男きょだんと共に会葬して西門の外まで送った。

襄公じょうこうが帰還の途について方城ほうじょうまで来た時、季武子きぶし襄公じょうこうおさめるべん卞邑べんゆう)を占領し、その一族の公冶こうやつかわして襄公じょうこうの安否を問わせたが、人に璽書じしょ(封印した書状)を持たせて後を追わせ、公冶こうやに渡した。

璽書じしょ(封印した書状)には、

べん卞邑べんゆう)を守っている者が謀反むほんを起こすと聞き、わたくしが軍をひきいて討伐いたしました。すでに土地を取り治めましたので、ご報告申し上げます」

と書いてあった。公冶こうやは使者の役目を終えて退き下がり、宿舎についてから、はじめて季武子きぶしべん卞邑べんゆう)を占領したことを聞いた。

襄公じょうこうは「自分が欲しいだけなのに『そむいたから取った』とは、(私を)軽んじている証だ」と言い、そこで公冶こうやに「わたしは国に帰っても良い者だろうか?」とうた。

公冶こうやが「我が君こそ、まことに国をたもたれるお方でございます」と答えると、襄公じょうこう公冶こうや冕服べんぷく卿大夫けいたいふの礼服)を与えた。公冶こうやに過ぎるものと考えて固く辞退したが、是非にと命ぜられてようやく受け取った。

襄公じょうこうは国に帰りたくないと思っていたが、栄成伯えいせいはく式微しきび(亡命中の国君をしかる詩)を歌って帰国を勧めたので、ようやく帰国した。


5月、襄公じょうこうから帰国した。

すると公冶こうやは、季氏きし季武子きぶし)から与えられた采邑さいゆうを返上し、「我が君をあざむくのに、どうしてわたしを使者にする必要があったのか」と言って、その後は死ぬまで季氏きしの家に出入りしなかった。

季孫きそん季武子きぶし)と会った時には、以前と同じように季氏きしの家政について話したが、会っていない時には、決して季氏きしの家政について語ることはなかった。

病気をわずらうと、公冶こうやは家臣を集めて、

わたしが死んだら、(襄公じょうこうから拝領した)冕服べんぷくを着せて納棺しないように。あれは徳を賞されて頂いたものではないのだ。また、季氏きしに葬儀の世話をさせないでくれ」

と遺言した。

季武子の晋評価

襄公じょうこうの30年(紀元前543年)3月、しん悼公とうこう夫人ふじんの城壁工事に従事した人夫たちに食事をご馳走したが、その人夫たちの中に絳県こうけん出身の老人がいた。

一緒に食事をしていた者が彼に年齢をたずねると、老人は「わたくしいやしい者ですので、年の数え方を知りません。わたくしが生まれた年は正月甲子きのえねついたち(正月元日)で、それから445回の甲子きのえねめぐりました」と答えた。

それを聞いた役人が急いで朝廷に問い合わせると、師曠しこうはそれを計算して「その老人は今年73歳になります」と言った。

趙孟ちょうもう趙武ちょうぶ)が絳県こうけん大夫たいふうたところ、ちょうど彼の部下だったので、趙孟ちょうもうはその老人をして、

わたしに才なく、君(国君)の大事を任されながらしん国には問題が多く、吾子あなたもちいることができなかった。長い間、吾子あなたを泥まみれの仕事にはずかしめておりましたのは、わたしの罪でございます。つつしんで我が不才をおび申し上げます」

あやまちをび、彼を士官させ、自分を助けて国政に参画させようとしたが、老人は高齢を理由に辞退した。そこで趙孟ちょうもうは、老人に田地を与えて国君の復陶ふくとう(衣服係)に任命し、また絳県こうけん県師けんしを兼任させると、このような老人を労役に使った県尉けんいを免職とした。


この時、ちょうどしんにいたの使者が帰国して、大夫たいふたちにこの事を語って聞かせると、季武子きぶしは、

しんはまだ軽視することはできない。大夫たいふ趙孟ちょうもうがいて伯瑕はくか士文伯しぶんはく)がその補佐を務め、史趙しちょう師曠しこう咨度したく(相談役)、叔向しゅくきょう女斉じょせいが君(国君)の師保しほとなっている。しんの朝廷には君子が多い。どうして軽視することができようか。心を込めてしんに仕えてこそ、国()の安全が保たれるというものだ」

と言った。

穆叔の助言

襄公じょうこうの31年(紀元前542年)春 王正月、穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)は澶淵せんえんの会合から帰国すると、孟孝伯もうこうはくに会い、

趙孟ちょうもうの話は一時のがれの無責任ぶりで、民の上に立つ者として相応ふさわしくない。まだ50歳にもなっていないのに、くどくどしゃべって80〜90歳の老人のようだ。彼の命は長くはないだろう。もし趙孟ちょうもうが死んだら、しんの政治をる者は韓子かんし韓起かんき)であろうか。今のうちに韓子かんし韓起かんき)と友好を結んでおいた方が良い」

と言ったが、孟孝伯もうこうはくは聞き入れなかった。

穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)は退出すると、人に「孟孫もうそん孟孝伯もうこうはく)はやがて死ぬであろう。わたし趙孟ちょうもうの無責任ぶりを語って聞かせたが、孟孫もうそん孟孝伯もうこうはく)の方がもっと無責任であった」と言った。

穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)はまた、季孫きそん季武子きぶし)としんの事情を話したが、季孫きそん季武子きぶし)も彼の意見に従わなかった。


後に[昭公しょうこうの元年(紀元前541年)]趙文子ちょうぶんし趙孟ちょうもう)が亡くなるとしんの公室は弱くなり、その政権はおごれる大夫たいふ*15に帰した。

韓宣子かんせんしが政治を行ったが諸侯しょこうを統御することができず、しんの要求にえられなくなり、(おとしいれようとする)悪口や奸計かんけいが多く行われるようになったので、[昭公しょうこうの13年(紀元前529年)に]平丘へいきゅうの会がもよおされることになった。

脚注

*15原文:政在侈家。侈家しかは権勢の家。

公子裯(昭公)を立てる

以前、襄公じょうこう楚宮そきゅうを造営したが、この時 穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)は、

書経しょきょう大誓たいせいに『民の願い望むことは天が必ず従う』とある。我が君はまことをお好みになっておられるゆえ、風の宮殿を造られたのだ。もしも再びに行けないとしたら、きっとこの宮殿でお亡くなりになられるだろう」

と言った。

6月辛巳しんしの日(29日)、襄公じょうこう楚宮そきゅうで亡くなり、姓の国)の公女こうじょ敬帰けいきの子、子野しやを立てた。

子野しや季氏きし季武子きぶし)の家に宿してに服していたが、秋9月癸巳きしの日(12日)に亡くなった。これは父君(襄公じょうこう)の死を悲しむ余り、身がおとろえたからであった。


己亥きがいの日(9月18日)、孟孝伯もうこうはくが亡くなった。そこで(季武子きぶしは)、敬帰けいきの妹(でそばめとなっていた)斉帰せいきの子・公子こうしちゅうを立てたが、穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)は不満に思って言った。


太子たいしが亡くなった場合には太子たいしの同母の弟があればそれを立て、それがいない時には庶子の年長者を立て、歳が同じなら人物の優れた方を選んで立て、立つべき条件が同じ場合にはうらないにかけて定めるのがいにしえの道である。

子野しや嫡子ちゃくしではないのだから、そばめの子を立てる必要はないではないか。それにこの人(公子こうしちゅう)は、父君の喪中もちゅうにあっても悲しむことなく、悲しいうれいの中にあっても立派な身なりをしている。

こうしたことを不度ふど(礼法にそむくこと)と言う。不度ふどの人に、わざわいを起こさない者は滅多にいない。もし本当に(公子こうしちゅうを)立てたなら、必ずや季氏きしうれいとなるであろう」


それでも季武子きぶしは聴き入れず、ついに公子こうしちゅうを立てた。これが昭公しょうこうである。

この公子こうしちゅうは、襄公じょうこうの葬儀までに3度も喪服もふくを取り替えたが、その喪服もふくすそは古い喪服もふくのようにり切れていた。*16

この時、昭公しょうこうは19歳にもなっていたが、まだ童心を持っていた。このことから、君子は(昭公しょうこうは)その最後を立派にできないことを予測した。

脚注

*16喪服もふくを着ながら遊び回っていたことを指す。

独断で莒を攻めて鄆を取る

昭公しょうこうの元年(紀元前541年)春、叔孫豹しゅくそんほうが、しん趙武ちょうぶ趙孟ちょうもう)、公子こうし公子こうし)、せい国弱こくじゃくそう向戌しょうしゅつえい斉悪せいあくちん公子こうししょうさい公孫帰生こうそんきせいてい罕虎かんこきょひとそうひとていかくで会盟した。

これは襄公じょうこうの27年(紀元前546年)の「弭兵びへい(停戦)の会」におけるちかいを忘れないようにするためのものであった。

ところが、まだこの会が散会もしないうちに、季武子きぶしきょの国に攻め入ってうんを取ってしまった。

きょひとがこれをかくの会で訴えたので、しんに申し入れて「(戦争をやめようというちかいを再び行って、まだ散会もしないうちに)きょつとは、一同で結んだちかいをあなどけがすものだ。の使節(叔孫豹しゅくそんほう)を処刑してほしい」と言った。

この時、しん趙文子ちょうぶんし趙武ちょうぶ)の補佐をしていた楽桓子がくかんし楽王鮒がくおうふ)は、叔孫豹しゅくそんほうに「(婉曲えんきょくに金と言わず)おびをくれないか?」と言って賄賂わいろを要求した。

すると叔孫豹しゅくそんほうは、

わたしが財貨を出して助かれば、きっとが(諸侯しょこうから)攻められることになる。季孫きそん季武子きぶし)がやったことはうらむべきことだが、国に何の罪があるというのか。殺されたとしても、わたしは誰をうらむものではない」

と言い、賄賂わいろ好きな楽桓子がくかんしに配慮して、楽桓子がくかんしの使者にはかまを作るきぬいて与えた。

このことを聞いた趙孟ちょうもう趙文子ちょうぶんし)は、

「(我が身の)災難にのぞんでも国を忘れないのは『忠』である。困難を思っても職分を越えないのは『信』である。 国のためをはかって死をもかえりみないのは『貞』である。(主君のために)この3つをそなえてはかるのは『義』である。この4つをそなえている者を、どうして殺すことができようか」

と言って、叔孫豹しゅくそんほうの命いを強く要請したので、はこれを許し、叔孫豹しゅくそんほうを処罰しないことにした。

趙孟ちょうもう趙文子ちょうぶんし)は、この年の12月庚戌こうじゅつの日(7日)に亡くなった。

晋の韓宣子をもてなす

昭公しょうこうの2年(紀元前540年)春、晋侯しんこう韓宣子かんせんし韓起かんき)をつかわして昭公しょうこうの即位を祝う挨拶あいさつをさせた。

昭公しょうこう韓宣子かんせんし韓起かんき)をもてなす宴席で、季武子きぶし綿べんの最後の章*17を歌って晋侯しんこう韓宣子かんせんしを補佐に得たことをたたえ、韓宣子かんせんし韓起かんき)は角弓かくきゅう*18を歌って兄弟の国であると親しんで助け合ってゆこうという意をほのめかした。

また、季武子きぶしは拝謝して「あなた敝邑へいゆう)をお助けくださるというお考えをうかがって、寡君かくん(我が君)は大いに期待しております」と言い、せつの最後の章*19を歌い、韓宣子かんせんしおとろえかけた晋君しんくんの覇業を補佐して諸侯しょこうを治めてほしいという意をほのめめかした。


昭公しょうこううたげが終わると、季氏きし季武子きぶし)の邸宅でうたげもよおされた。

その庭に嘉樹かじゅ(立派な樹)があったので、韓宣子かんせんしがこれをたたえると、季武子きぶし季孫宿きそんしゅく)は、

角弓かくきゅう*18を歌われたあなたのお心を忘れないよう、宿わたしはこの樹を大切に育てましょう」

と言い、甘棠かんとう*20を歌って嘉樹かじゅ甘棠かんとう唐梨からなし)になぞらえ、韓宣子かんせんしを「その昔、甘棠かんとうの樹下にくつろいだ西周せいしゅう建国の功臣・召公しょうこう」になぞらえる意をほのめかした。

すると韓宣子かんせんし韓起かんき)は、「わたしにはもったいない。とても召公しょうこうには及びません」と言った。

脚注

*17詩経しきょう大雅たいが文王ぶんおうじゅうの詩。その最後の章は、しゅう文王ぶんおうに補佐の賢臣が4人いたことを歌ったもの。

*18詩経しきょう小雅しょうが桑扈そうこじゅうの詩。上下関係の逆転などをなげき、秩序を重んじるべきことをさと

*19詩経しきょう小雅しょうが鹿鳴ろくめいじゅうの詩。その最後の章は、しゅう大夫たいふの家父が幽王ゆうおう暗愚あんぐの心を改めて万邦ばんぽう(諸国)をやすんずべきことを歌ったもの。

*20詩経しきょう国風こくふう召南しょうなんの詩。「こんもりとしげった甘棠かんとうの樹よ。切ったりそこなったりしてはいけない。ここは召伯しょうはく召公しょうこう)様がくつろがれた場所なのだから」とある。

晋に弔問する

秋、しん平公へいこう妾室しょうしつ少姜しょうきょうせい荘公しょうこうむすめ)が亡くなった。

昭公しょうこうは、弔問ちょうもんのためしんに向けて出発して黄河こうがまで来たが、晋侯しんこう士文伯しぶんはくつかわして、

「(少姜しょうきょうは)正室ではありません。どうかわざわざおいでにならぬように」

と言わせたので、昭公しょうこうは引き返した。

冬、すぐに季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)がしんに行き、襚服すいふく(遺体に着せる服)をおくり届けた。

穆叔の諫言に従う

昭公しょうこうの3年(紀元前539年)秋、小邾しょうちゅうげい)の穆公ぼくこうに来朝したが、季武子きぶし小邾しょうちゅうげい)を諸侯しょこうとして扱わず、いやしい礼をもって対応しようとした。

これに穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)が、


「いけません。そうとう大邾だいちゅうちゅう)・小邾しょうちゅうげい)の4国は、まことに我がに対する修好を忘れずにいる国です。

敬意を払って丁重に迎えるべき国であり、彼らが二心ふたごころいだくことをおそれるなら、一層へりくだって親睦を厚くするべきです。それが諸国の好意を迎える道というものです。従来どおりの関係をたもちつつ、さらに敬意を加えるのがよろしいでしょう。

に『うやまうことができればわざわいはない』とあり、また『来る者をうやまって迎えれば、天がこれに福を与える』とあります」


と言ったので、季孫きそん季武子きぶし)は穆叔ぼくしゅく叔孫豹しゅくそんほう)の意見に従った。

雹を防ぐ方法を聞く

昭公しょうこうの4年(紀元前538年)春王正月、たくさんのひょうが降った。

季武子きぶしが(大夫たいふの)申豊しんほうに向かって「ひょうふせぐことはできるだろうか?」とたずねると、申豊しんほうは、


「聖人が上にあ(って天下を治めてい)ればひょうは降りません。もし降ったとしてもわざわいは起きません。

昔は太陽が北方の行道にある時(12月)に氷を貯蔵し、西方の行道の星が朝方に東方に見える時(4月)に、それを取り出して使用したものです。

(中略)

貯蔵は厳密であり、あまねく人に分け与えて使用するならば、冬に陽気が狂うことなく、夏には陰気が潜伏することもなく、春には寒い風が吹かず、秋には長雨が降らず、雷が鳴っても落ちることがなく、災害を起こすしもひょうもなく、悪い病気も流行せず、民は若死にしたり流行病はやりやまいで大勢死ぬということもありません。

ですが今は、近くの川や池に張った氷を貯蔵しておきながら、これをもちいずに捨てているのですから、(陰陽が不順となり、)寒い風が吹き渡らないのに草木が枯死し、雷が激しく鳴り響かないのに落雷が起こるのです。

今、ひょうが降ってわざわいを起こしたとしても、誰がこれを防ぐことができるでしょうか? 詩経しきょう七月ひちがつの終章に、まさにこの『氷を正しく貯蔵する方法』がかれています」


と答えた。

豎牛(召使いの牛)

冬、叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)は丘蕕きゅうゆうで狩りをしたが、そこで病気にかかった。

豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)は叔孫氏しゅくそんしを乱して乗っ取ろうと考え、叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)を見舞いに来た者たちを追い返し、また、食事を運んできた者には「夫子ふうし[主人(叔孫豹しゅくそんほう)]はやまいが重く、人に会いたくないとおっしゃっております」と言って別室に置かせ、しばらくして空にした食器を置いて、叔孫豹しゅくそんほうが食べたように見せかけた。

そのまま叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)は12月乙卯いつぼうの日(29日)に亡くなり、豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)は昭子しょうし叔孫豹しゅくそんほうの庶子・叔孫婼しゅくそんしゃくを立てて叔孫氏しゅくそんしを継がせ、自分はその後見役となった。


昭公しょうこう杜洩とせつに命じて叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)をほうむらせた。豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)は叔孫昭子しゅくそんしょうし季子きしの家臣の南遺なんい賄賂わいろおくり、季孫きそん季武子きぶし)に杜洩とせつを憎ませて(叔孫氏しゅくそんしから)排除させようとした。

杜洩とせつ叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)が周王しゅうおうからたまわった大路車たいろしゃ(最高格式の儀礼用馬車)をもちいて叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)をほうむり、けいの礼を立派に行おうとした。

すると南遺なんい季孫きそん季武子きぶし)に、

叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)はまだその車に乗ったことがありません。どうして葬儀にそれをもちいるのでしょうか? それに、冢卿ちょうけいけいの筆頭=季孫きそん季武子きぶし)]でさえ路車ろしゃを持たないのに、介卿かいけい(次位のけい)にそれをもちいてほうむるのは、道理にはずれたことではありませんか?」

と言い、季孫きそん季武子きぶし)も「その通りだ」と言って、杜洩とせつに命じて大路車たいろしゃもちいるのをやめさせようとしたが、杜洩とせつの言う「大路車たいろしゃもちいるべき理由」に反論することができず、結局、大路車たいろしゃもちいてほうむらせた。


やがて季孫きそん季武子きぶし)が中軍ちゅうぐんを廃止することをはかると、豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)は「夫子ふうし[主人(叔孫豹しゅくそんほう)]も、かねてから廃止することを考えておりました」と言って季孫きそん季武子きぶし)にへつらった。

中軍を廃止する

昭公しょうこうの5年(紀元前537年)春王正月、では中軍ちゅうぐんを廃止したが、これはの公室を弱めることを目的としたもので、[季孫きそん季武子きぶし)は]施氏しし中軍ちゅうぐん廃止の議を提案させ、それを臧氏ぞうしに賛成させて決定した。

襄公じょうこうの11年(紀元前562年)に]中軍ちゅうぐんを作った時は、公室が支配する民を3分割し、それぞれ(三桓さんかん*3の)3家がその1つずつを所有した。そして、季氏きし季武子きぶし)はすべての民に税をかけて公室には入れず、叔孫氏しゅくそんしはその臣下の子弟だけに税をかけ、孟氏もうしは臣下の子弟の半分から税を取っていた。

今、中軍ちゅうぐんを廃止した後は公室の民を4分割して、季氏きし季武子きぶし)は勝手にその2つを選び取り、他の2氏はそれぞれ1つずつを所有した。3家ともすべての民に税をかけ、その内のいくらかを皇室に入れるようになった。


季氏きし季武子きぶし)は、文書をもって杜洩とせつに命じて、叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)のもがり(埋葬前のひつぎ)に、

あなた中軍ちゅうぐんを廃止したいと望んでおられました。すでにこれを廃止しましたので、そのむねをご報告申し上げます」

と報告させようとしたが、杜洩とせつは、

夫子ふうし[主人(叔孫豹しゅくそんほう)]は(中軍ちゅうぐんを)廃止することを望んでいませんでした。それゆえに、それを僖公きこう廟門びょうもんちかい、五父ごふにあった5つの道路が交差する交通の要所)で(神に)誓ったのです」

と言い、その文書を受け取るや否や、地面に投げ捨てると、家臣らを引き連れて[叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)の霊柩れいきゅうに]哭泣こっきゅうした。

脚注

*3の第15代国君・桓公かんこうの子孫である孟孫氏もうそんし仲孫氏ちゅうそんし)・叔孫氏しゅくそんし季孫氏きそんし三桓氏さんかんしと呼ばれ、代々魯国ろこくの実権を握っていた。季孫氏きそんしはその主席であった。

叔孫豹の出棺

その後、[豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)から賄賂わいろを受けた]叔仲子しゅくちゅうし叔仲帯しゅくちゅうたい)が季孫きそん季武子きぶし)に「わたしは昔、叔孫しゅくそん叔孫豹しゅくそんほう)から『変死した者を葬るには西門から出すものだ』と教えられました」と言うと、季孫きそん季武子きぶし)はこれに従うように杜洩とせつに命じた。

すると杜洩とせつは、

けい叔孫豹しゅくそんほう)のひつぎは朝廷の正門から出すのがの礼でございます。吾子あなたの国政をおりになってから、まだ従来の礼を改めておられないのに、今変更されてしまえば、群臣は(変更したことが原因で)死んでしまうのではないかとおそれております。どうしても従うことはできません」

と反対して、葬儀が終わると国を立ち去った。

叔孫豹の嫡子・仲壬の帰還

叔孫豹しゅくそんほうの子の)仲壬ちゅうじんが(父のを聞いて)せいから帰ってきた。そこで季孫きそん季武子きぶし)が仲壬ちゅうじんを(叔孫豹しゅくそんほうの後継者に)立てようとすると、南遺なんいは、

叔孫氏しゅくそんしが強くなれば、その分だけ季氏きしは弱くなります。今、彼(仲壬ちゅうじん)の実家(叔孫氏しゅくそんし)は乱れております。あなたは知らぬ振りをなさっておられれば、それでよろしいのではございませんか?」

と言った。

こうして南遺なんいは国の人々に命じて豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)を助け、大庫が並ぶ庭(で仲壬ちゅうじん)を攻めさせた。司宮しきゅう*21が(仲壬ちゅうじんを)ると、その矢が目に当たって仲壬ちゅうじんは死んだ。

豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)は(叔孫氏しゅくそんしの領地の)東方の30ゆうを取り上げて南遺なんいに与えた。


昭子しょうし叔孫婼しゅくそんしゃく)が叔孫氏しゅくそんしの後を継ぐと、家臣たちを集めて言った。

豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)は叔孫氏しゅくそんしわざわいを持ち込んで次々と騒動を起こし、嫡子ちゃくし仲壬ちゅうじん)を殺して庶子(昭子しょうし)を立て、さらに(叔孫氏しゅくそんしの)ゆうを人に分け与えて、自分の罪をのがれようとしている。これより大きな罪はない!必ずやすみやかにこれを殺せ」

豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)はおそれてせいに逃げようとしたが、孟丙もうへい仲壬ちゅうじんの子たちが国境の関所の外で殺し、その首をせい寧風ねいふう*22いばらの上に投げつけた。


仲尼ちゅうじ孔子こうし)は、

叔孫昭子しゅくそんしょうし豎牛じゅぎゅう(召使いのぎゅう)の労を認めなかったことは、容易にできることではない。いにしえ周任しゅうじんも『政治を行う者は私事に関する労を賞せず、個人のうらみを罰しない』と言い、詩経しきょう*23にも『正しい徳行があれば、四方の国々は従う』とある」

と批評して昭子しょうしたたえた。

脚注

*21宗廟そうびょうの係。ここでは大庫の係と思われる。

*22杜注とちゅうせいの地名とする。一説に「風を防ぐ祭り」の名で、その祭りの時に焼く荊棘けいきょくの上に首を投げたと言う。

*23詩経しきょう大雅たいがよくの詩。

晋の加礼を辞す

昭公しょうこうしんに出掛けた。

夏、きょ牟夷ぼうい牟婁ぼうろうぼうの3ゆうを差し出してに逃げ込んで来た。きょひとが「牟夷ぼういを受け入れた」ことをしんに訴えたので、晋侯しんこうは来朝していた魯公ろこう昭公しょうこう)をとらえようとした。

すると范献子はんけんし范鞅はんおう)は、


「いけません。来朝した者をとらえるということは、人をだましてとらえるようなものです。

有罪の者をつのに正々堂々と軍隊をもちいず、だましてやりげるということは、(覇者のつとめを)おこたるというものです。

盟主となっておりながら、この2つのあやまちをおかすということは、いけないことではありませんか。どうか(昭公しょうこうを)帰して、少しひまになってから軍隊をひきいてつことにしましょう」


と言ったので、昭公しょうこうは秋7月にしんから帰国した。きょが攻めてきたが、戊辰つちのえたつの日(15日)に叔弓しゅくきゅう蚡泉ふんせんで撃ち破った。


昭公しょうこうの6年(紀元前536年)夏、季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)はしんに出掛けた。これは、前年にきょ牟夷ぼういが差し出したゆうを受け入れても、とがめられなかったことに対する礼をするためであった。

晋侯しんこう季孫宿きそんしゅく季武子きぶし)のためにうたげを開き、特別に料理の数を増やした。武子ぶし季武子きぶし)は退出して、臣下の応待役に命じて晋侯しんこうに、

「小国が大国にお仕えするのは、ただ討伐をまぬかれることができればそれで十分であり、うたげたまわるなどということは望んでおりません。たとえたまわりましても三献さんけん*24を越えることはございません。ところが今、とう*25が増やされております。下臣わたくしには耐えられません。これは礼にそむくことにならないでしょうか」

と言った。これに韓宣子かんせんし韓起かんき)が、

寡君わがきみ晋侯しんこう)は、それをもってご好意を示そうとなさっているのです」

と言うと、武子ぶし季武子きぶし)は、

寡君わがきみ昭公しょうこう)でさえ、このようなご接待にあずかったことがありません。まして下臣わたくしは、君(昭公しょうこう)のれい(家来)に過ぎません。どうしてこのような過分な恩恵を受けることなどできましょうか」

と言い、強く願い出て その特別な料理を下げてもらい、ようやく饗応きょうおううたげを終えた。

しんひとは、彼を礼をよくわきまえた人物だと評価し、良い引き出物をたくさんおくった。

脚注

*24儀礼の段階の1つ。礼記らいき礼器らいきに「一獻質,三獻文,五獻察,七獻神」とある。けんは酒をんで勧めること。
一献いっけんは礼が質素で簡略
三献さんけんは礼に装飾や形式が整えられている
五献ごけん顕著けんちょに盛大で、細部まで行き届いている
七献しちけんは礼が重々しく、きわめてつつしみ深い

*25とうは料理の器。器の数=料理の品数しなかず。身分に合わない待遇は礼に反すると言っている。

日食の意味

昭公しょうこうの7年(紀元前535年)夏4月、甲辰こうしんついたち、日食があった。

晋侯しんこう「日食のとがめを受けるのは誰であろうか?」

士文伯しぶんはくえいとがめを受けますが、えいが大きなとがめを受け、が小さなとがめを受けます」

晋侯しんこう何故なぜか?」

士文伯しぶんはく「日食はえい星宿せいしゅくにあたる娵訾しゅし豕韋しい)から始まって、星宿せいしゅくにあたる降婁こうろうに及んでいますので、えいわざわいが起こり、はその余波を受けるでしょう。えいの国君が大きなとがめを受け、国は上卿じょうけいとがめを受けるものと思われます」

晋侯しんこう*26に『あの日食が起こったのは、どこに良くないことがあったのか』とあるのは、どういう意味か?」

士文伯しぶんはく「善政が行われていないことを意味します。国に善政が行われず、善人をもちいないと、おのずから日食や月食のとがめを受けるのです。ゆえに政治はつつしまなければなりません。つとめるべきことは3つ。第一は賢人を選んでもちいること。第二は民心に従うこと。第三はとき(春夏秋冬の季節においてすべき民事)に従うことです」

脚注

*26詩経しきょう小雅しょうが十月之交じゅうがつのこう

成の邑を杞に返す

3月、昭公しょうこうに出向き、孟孫もうそん孟僖子もうきし)が同行した。昭公しょうこうに出向いたことをうらみに思ったしんひとは、にやって来て「に返さなかった土地」を調査した。

そこで季孫きそん季武子きぶし)は、孟孫もうそん孟僖子もうきし)がに出向いているのを幸いとして、孟孫もうそん孟僖子もうきし)のゆうであるせいに与えようとしたが、孟孫もうそん孟僖子もうきし)の城代の謝息しゃそくは承知せず、

「世間の人が言う『水を挈缾つるべ一杯ほどの才智しか持たない人間でも、任されて守っていれば、そのどうぐは人に貸さないものだ』というのは、礼でもあります。夫子ふうし[主人(孟僖子もうきし)]が君(昭公しょうこう)のお供をしておりますのに、留守を預かる家来がそのゆうを失ったとしたら、いくら吾子あなた様でも不忠の臣とお疑いになることでしょう」

と言った。すると季孫きそん季武子きぶし)は、


「君(昭公しょうこう)がに行っておられるのは、しんに対しては罪になることだ。それにまた、しんの命令に従わないならば、の罪は一層重くなり、しんの軍は必ずに攻めて来るだろう。そうなれば、こちらは防ぎようがない。せいゆうに与え、しんの隙をうかがってから取り戻すようにするのが上策だ。

わたしあなたとうゆうを与えよう。後日、せいゆうが帰って来た時には、孟孫もうそん孟僖子もうきし)は2つのせいゆう)をを得ることになる。にはうれいがなくなり、孟孫もうそん孟僖子もうきし)はゆうが増えることになる。あなたが気にむ必要はない」


と言った。

それでも謝息しゃそくは「(とうには)山がない」ことを理由に断ったが、季孫きそん季武子きぶし)が(とうゆうに加えて)らいさくゆうを与えると、ようやく謝息しゃそくとうゆうをにうつった。

しんひとは、のためにせいゆうを(から)取り上げた。

季武子の死

11月、季武子きぶしは亡くなった。

晋侯しんこう士文伯しぶんはくに「わたしはあなたに(夏4月の)日食のとがめについてたずねたが、あなたが答えた通りになったな」と言った。


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