正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧③季孫氏③[季武子(季孫宿)]です。
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き③
季武子
季武子(季孫宿)
生年不詳〜魯の昭公の7年(紀元前535年)11月没。名は宿。一名を夙。父は季文子(季孫行父)。曽祖父は魯の桓公の弟・季成子(季友)。魯の正卿(宰相)。
父・季文子の後を継ぐ
魯の襄公の6年(紀元前567年)冬、晋は魯が鄫を助けなかったため、魯にやって来て「なぜ鄫を滅ぼしたのか」とその罪を責め正した。季武子は晋に赴き、晋侯(悼公)に会見して父(季文子)の後を継いだ挨拶をし、鄫を滅ぼした罪の裁きを受けようとした。
魯の襄公の7年(紀元前566年)夏、南遺は(季武子の領地である)費の宰(代官)であった。当時、隧正*1の叔仲昭伯は、季氏(季武子)に取り入ろうと考えて南遺に媚びへつらい、「費の城普請をするようにお願いしてはどうか。吾が人夫を都合いたしましょう」と言った。こうして季氏(季武子)は費に城壁を築いたのである。
秋、季武子は衛に赴いて、[魯の襄公の元年(紀元前572年)冬に]衛の子叔(公孫剽)が来聘したことへの返礼を行い、「返礼が遅れたのは、二心があってのことではない」ことを弁解した。
脚注
*1主に郊外の庶民の労役徴発と地方事務の管理を行う。
季武子と范宣子
魯の襄公の8年(紀元前565年)5月甲辰(7日)、晋は諸侯の大夫を邢丘に会合させ、晋に朝聘すべき回数を命じて、それを守るように言い渡した。この会合に、魯からは季孫宿(季武子)、斉からは高厚、宋からは向戌、衛からは甯殖、邾(人物不明)など、大夫たちが出席し、(鄭の)鄭伯は大夫ではなく自ら出席した。
冬、楚の子囊(公子貞)が鄭を攻撃した。これは、鄭が(晋のために)蔡を侵したことが原因であるが、鄭は晋の援軍を待たずに楚と和平を結んだ。
その後、晋の范宣子(士匃)が魯に来聘して襄公が晋を訪問したことに対する返礼をし、「鄭に軍を出す考えであること」を告げた。
襄公が范宣子をもてなした宴の席で、范宣子は(「戦いの時期に遅れないで欲しい」という意味を込めて『詩経』国風・召南・)摽有梅(なかなか嫁にいけない乙女の焦りを歌った賦)を歌った。
すると范宣子の意を悟った季武子は、「誰が敢えて遅れましょうか。今、草木に例えるならば、寡君(我が君)は晋君の臭いや味のようなものです。いついかなる時でも喜んでご命令をお受けいたします」と答え、(『詩経』小雅・桑扈の什・)角弓(上下関係の逆転などを嘆き、秩序を重んじるべきことを諭す賦)を歌い、賓客(范宣子)が退出しようとする時、(『詩経』小雅・彤弓の什・)彤弓(大切な客を迎えて礼を尽くす様子を歌った賦)を歌った。
すると范宣子は「[魯の僖公の28年(紀元前632年)の]城濮の戦いの時、我が先君・文公は衡雍で戦勝を報告し、襄王から彤弓(朱塗りの弓。天子が大功のあった諸侯に与えたもの)を授けられ、子孫に伝えるべき宝としました。匄は先君(文公)に守官として仕えた者の子孫です。どうして仰せをありがたくいただかないことがありましょう」と言った。
君子(人格者)は范宣子のことを「礼をわきまえた人物である」と言った。
晋の鄭討伐と魯の襄公の元服
魯の襄公の9年(紀元前564年)夏、季武子は前年の范宣子(士匃)の来聘に対する返礼のため晋に赴いた。
冬10月、諸侯が鄭を伐ち、庚午の日(11日)、
- 魯の季武子(季孫宿)・斉の崔杼・宋の皇鄖は晋の荀罃(知伯・知武子)と士匃(范宣子)が率いる中軍に従って(鄭の)鄟門に布陣し、
- 衛の北宮括・曹人・邾人は晋の荀偃(中行献子)と韓起が率いる上軍に従って(鄭の)師之梁門に布陣し、
- 滕人・薛人は晋の欒黶と士魴が率いる下軍に従って(鄭の)北門に布陣し、
- 杞人・郳人は晋の趙武と魏絳が率いる新軍に従って並木の栗の木を斬り倒して軍用に提供した。
この結果、鄭は和睦を申し出、晋はこれを受け入れ盟約を結んだが、晋は鄭を思うようにすることができず、諸侯を率いて再び鄭を伐った。
閏12月、魯の襄公は晋侯(悼公)が戦いから帰るのを見送り、晋侯は襄公と一緒に黄河の畔で酒宴を開いた。その席で晋侯が襄公の年齢を尋ねると、季武子が答えて、
「沙隨で会合した年[魯の成公の16年(紀元前575年)]に生まれました」
と言った。晋侯が、
「12歳になりましたか。12年は星(木星)の周期が終わる一区切りの期間だ。国君は15歳で子を生むものだが、礼として元服してから子を生む。君(襄公)は冠(元服)なされるがよい。 大夫(季武子)はどうして冠の用意をしてやらないのか?」
と言うと、季武子は答えて言った。
「君(襄公)が冠礼を行うには、必ず祼享の礼*2を行い、金石(鐘や磬)の音楽でこれを整え、先君の祧(先祖の廟)において執り行うのものです。今、寡君(我が君)は遠征中でございますので、すべてを備えることができません。どうか兄弟の国に至った時、その用具を借りて行わせてください」
晋侯は「よろしい」と言い、魯の襄公は帰還の途上で衛に着くと、(衛の)成公の廟で冠礼を執り行った。
脚注
*2清めの酒を注いで祖先に供えて祭る礼。
三軍を創設する
魯の襄公の11年(紀元前562年)春、季武子は三軍を創設したいと思い、叔孫穆子(叔孫豹)に「三軍を創設して(三桓*3が)それぞれ一軍を支配し(、所属する民から税を取り立てることにし)よう」と告げた。
叔孫穆子は「やがて子は魯の実権を握ります。そうなれば、子はきっと自分の下に軍を1つにまとめるでしょう」と言ったが、それでも季武子はそれを強く望んだ。そこで叔孫穆子は「ならば盟約を結びましょう」と言い、魯の僖公の廟門で盟い、(衆人にも目につくように人通りの多い)五父の衢(辻)で神に誓った。*4
正月、三軍を創設して公室が支配する民を3分割し、その1つずつをそれぞれ(三桓*3の)3家に割り当てたので、3家は。 三人の子はそれぞ今まで私有していた軍隊を廃止した。季氏(季武子)は自分の軍隊に従う民で、季氏(季武子)に夫役や租税を納める者には公税(魯国の税)を免除し、それらを季氏(季武子)に納めない者には倍の課役を課した。
孟氏(孟献子)は自分の軍隊に従う民の子弟の半分を臣下として扱い、叔孫氏(叔孫穆子)はその子弟のすべてを臣下とし、従わなければ解放しなかった。
脚注
*3魯の第15代国君・桓公の子孫である孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏は三桓氏と呼ばれ、代々魯国の実権を握っていた。季孫氏はその主席であった。
*4原文:穆子曰,政將及子,子必不能,武子固請之,穆子曰,然則盟諸,乃盟諸僖閎,詛諸五父之衢,
諸侯が向で会合する
魯の襄公の12年(紀元前561年)春2月、莒が魯の東の国境を攻め、台を包囲した。そこで季武子は台を救援し、その勢いに乗じて莒の鄆に攻め入ると、その鐘を取り上げて(祭器の)公盤を作った。
魯の襄公の14年(紀元前559年)春正月、呉は楚と戦って大敗したことを晋に告げた。そこで呉のために楚を伐つ相談をするため、晋の范宣子(士匃)・鄭の公孫蠆・斉・宋・衛・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の代表者、魯からは季武子と子叔斉子(叔老)が、向で呉と会合した。
晋は(魯が2人の卿を出席させたことに感心し、)これ以降、魯の幣(貢ぎ物)を軽減し、ますます魯の使者を敬うようになった。
衛の内乱
衛の献公は先君からの重臣である孫文子や寧恵子を蔑ろにして無礼を働き、これに腹を立てた孫文子は私邑の戚に引き籠もった。
すると献公は孫文子の子・孫蒯の前で(『詩経』小雅・小旻の什・)巧言(正道を説く者は退けられ、へつらう者が重用されて国家に災いをもたらすと歌った賦)の卒章を歌わせ、「孫文子が謀反を企てている」とほのめかした。
孫蒯がこのことを孫文子に告げると、孫文子は「君(献公)は我を忌み嫌っている。先手を打たなければきっと殺される」と言った。
その後、献公は子蟜・子伯・子皮の3人の公子を遣わし、孫文子と丘宮で盟わせ、仲直りしようとしたが、孫文子は3人の公子を殺害してしまった。
4月己未(26日)、献公の弟・子展は斉に出奔した。献公は(衛の)鄄に逃れ、公子子行を遣わして和議を申し入れたが、孫文子はまたもこれを殺害し、献公が斉に出奔すると、これを追撃して阿沢で討ち破った。
孫氏(孫文子)は公子剽*5を国君に立て、孫林父(孫文子)と寧殖(寧恵子)の2人がこれを補佐した。
冬、季孫宿(季武子)は晋の士匃(范宣子)・宋の華閲・衛の孫林父(孫文子)・鄭の公孫蠆・莒・邾の代表者と戚で会合した。これは、衛の公子剽*5の即位を認めて衛を安定させる相談をしたものである。
脚注
*5衛の殤公。名は『春秋左氏伝』では剽、『史記』では秋、『漢書』では焱。続柄は『史記』では衛の定公の弟、『漢書』では衛の献公の弟、『春秋経伝集解』では衛の穆公の孫、公子黒背の子と、諸説ある。
司臣を匿う
魯の襄公の15年(紀元前558年)春、当時、[魯の襄公の10年(紀元前563年)冬10月に鄭で起こった]尉氏・司氏の叛乱の残党たちは、宋に逃れていた。
鄭では(尉氏・司氏のために父を殺された)子西・伯有・子産の恨みを晴らすため、宋に馬40乗(160頭)と音楽師の茷と慧を贈り物として贈り、さらに2月には公孫黒(鄭の宰相・子駟の子、子皙)が宋の人質となって、逃亡した残党たちを鄭に引き渡すように依頼した。*6
すると(宋の)司城・子罕は(逃亡していた)堵女父・尉翩・司斉の3人を鄭に引き渡したが、(司斉の父の)司臣は良い人物と見込んで魯の季武子に預け、季武子は彼を(魯の)卞に匿った。
鄭は(堵女父・尉翩・司斉の)3人を処刑して醢(遺体を塩漬けにする刑罰)にした。
夏、斉侯が魯の北の国境を攻めて成を包囲すると、襄公は成を救援するため軍を進めて遇に至った。
季孫宿(季武子)と叔孫豹(叔孫穆子)は軍を率いて成の郛(外郭・城壁)を築いて斉の攻撃に備えた。
斉侯が魯の成を包囲したのは、斉が晋に二心を抱いて晋を恐れなかったからである。
脚注
*6明治書院『新釈漢文大系・春秋左氏伝(三)』より。原文:鄭尉氏,司氏,之亂其餘盜在宋,鄭人以子西,伯有,子產,之故,納賂于宋,以馬四十乘,與師茷,師慧,三月,公孫黑為質焉,
晋が斉を伐つ
魯の襄公の19年(紀元前554年)春、季孫宿(季武子)が晋に赴き、曹の成公の葬儀に参列した。
夏、晋の欒魴が軍を率い、衛の孫文子に従って斉を伐った。
季武子が晋に赴いて「斉を伐った出陣のお礼」を述べ、晋侯(平公)は季武子をもてなす宴を開いた。
その席で、当時政を執っていた范宣子(士匃)が(『詩経』小雅・都人士の什・)黍苗(王の徳が天地に行き渡り、百官百姓がその恩沢に浴することを称える賦)を歌っ(て晋が魯を憐れみ慈しむ意をほのめかし)た。すると季武子は立ち上がって再拝し、頭を地に擦りつけ(再拝稽首)、
「小国が大国を仰いで頼りにするのは、百穀が膏雨(恵みの雨)を望むようなものです。常に小国を慈しんでくださるなら、天下はきっとやわらいで晋に仕えることでしょう。それは弊邑(自国の謙称:魯)だけに留まりません」
と言い、(『詩経』小雅・彤弓の什・)六月(周の宣王が異民族の玁狁を討伐して国を安定させた偉業を讃えた賦)を歌っ[て晋が天子(周)を助けて天下を平定すべき意をほのめかし]た。
季武子は斉の兵を伐って得た武器で林鍾*7を作り、それに魯の武功を刻んだ。すると(魯の大夫・)臧武仲は季武子に向かって言った。
「これは礼に外れています。そもそも銘文とは、天子は立派な徳を記し(て功績を記さず)、諸侯は時にかなった事業において功績があればそれを記し、大夫は自らの伐(武功)を記すもの。今回の戦果を伐(武功)と称するならば、それは卑しいことになります。
(今回の)戦功を計れば、他国(晋)の力を借りたものに過ぎず、時について言えば、民(の農事)を多く妨げただけです。一体何を銘文として刻まれるのでしょうか。
そもそも大国が小国を伐った時には、その得た戦利品で彝器*8を作り、功績を刻んで子孫に示すことで(国君の)徳を明らかにし、無礼(の国)を懲らしめるのです。
ところが今、魯国は他国の力を借りてやっと滅亡を免れたのです。どうして銘を刻むことができましょうか。小国が大国に救われておきながら得たものを誇示すれば、大国を怒らせ、国を滅ぼす道となるだけです」
脚注
*7古代中国の金属製の打楽器・編鐘の1つ。宗廟の祭祀や朝廷の礼楽で用いられ、鐘に銘文を刻むことには、その功績を後世に伝える記念碑的な意味がある。
*8殷・周時代の祭祀に用いられる青銅器。祖先の宗廟に常に供えた釣鐘や鼎など。
宋に使いする
魯の襄公の20年(紀元前553年)冬、季武子は[魯の襄公の15年(紀元前558年)に宋の]向戌が魯に来聘したことに対する返礼として宋に赴き、(宋の)褚師段が出迎えて饗応した。(その席で季武子は、『詩経』小雅・鹿鳴の什・)常棣の7章*9を歌っ(てお互いに親睦しようという意をほのめかし)た。宴が終わると、宋人は厚い贈り物を贈った。
魯に帰って報告すると、襄公は宴を開いてその労をねぎらった。(その席で季武子が『詩経』小雅・白華の什・)魚麗(饗宴における料理や酒が豊かで美味しく、皆で楽しく分かち合う喜ばしい場を讃えた賦)の卒章を歌うと、襄公は、(『詩経』小雅・白華の什・)南山有台(君子の徳を讃え、末永い繁栄を祈る賦)を歌っ(て使臣として魯の光を輝かせたことを褒める意をほのめかし)た。
季武子は席を避けて、「わたしには当てはまらない。もったいないことです」と言った。*10
脚注
*9常棣の7章:妻子好合、如鼓瑟琴。 兄弟既翕、和樂且湛。(夫婦は睦まじく調和し、まるで瑟や琴を奏でるようである。兄弟たちもまた心を合わせ、和やかで楽しみに満ちている)常棣は兄弟の親愛を歌った賦。饗応の歌としてよく用いられる。
*10明治書院『新釈漢文大系・春秋左氏伝(三)』より。原文:歸復命,公享之,賦魚麗之卒章,公賦南山有台,武子去所曰,臣不堪也。
「不堪」をそのまま訳せば「堪えられない」となる。「もったいないことです」と言うのなら、わざわざ席を外す必要はない?襄公が歌った南山有台には、皮肉や当て擦りの意味が込められていた可能性もある。
臧武仲(臧紇)の諫言
魯の襄公の21年(紀元前552年)、邾の庶其が漆と閭丘の2邑をもって魯に亡命して来た。季武子は(庶其に)襄公の姑姉(襄公のおば:父母の姉妹)を妻として与え、彼の従者たちにも褒美を与えたが、その後、魯の国内には盗人が多く出るようになった。
季武子は季武子は臧武仲(臧紇)に言った。
季武子「子はどうして盗人を取り締まろうとなさらないのか?」
臧武仲「取り締まることはできません。紇にはとてもできません」
季武子「我は4つの邑を領しているが、(自分で)領内の盗人を取り締まっている。子は司寇(司法・刑罰を司る官職)である。盗人を取り除くのが務めであろう。どうしてできないなどと言うのか?」
すると臧武仲は言った。
「子は国外の盗人(邾の庶其)を呼び入れて大変手厚く礼遇しておられます。どうして吾に国内の盗人を取り締まることができましょうか。
子は正卿(宰相)の地位にありながら他国の盗人を呼び寄せておいて、紇には(国内の盗人を)取り締まれとおっしゃる。どうしてそのようなことができましょうか。
庶其は邾の邑を竊んでやって来たのに、子は姫氏(公室の娘)を妻にしてやり、邑を与え、従者たちにまで褒美を与えられた。(庶其のような)大盗に君(国君)の姑姉(襄公のおば:父母の姉妹)と大邑を与えて礼遇し、その次には皁牧(下僕?牧場?)と馬を与え、さらに身分の低い小者には衣裳や剣帯を与えておられるのです。
これは盗人を賞しているようなものです。賞しておきながら除こうとしても、それは難しいことです。
紇は『上に立つ者は、まず心を清めて雑念を払い、人に接するときは私心をなくして同じ態度で臨み、言葉や行動は道理にかなったものにし、誠実さを明確に示すべきであり、そうして初めて民を治めることができる』と聞いております。
そもそも上に立つ者の行いは、そのまま民の手本となります。上に立つ者が行わないことを民が行えば、それは禁じられ刑罰が科されます。ゆえに誰もが恐れて慎まないわけにはいかないのです。ですがもし、上に立つ者と同じ行いを民が行ったなら、それは当然のことと言うべきです。どうしてそれを禁じることができましょうか。
夏書に『この事をやらせようと思えば、我が身ができてこそ。この事をやめさせようと思えば、我が身がやめることができてこそ。この事の善悪を言い正そうとすれば、我が身が正しくしてこそ。誠にこの命令を出して天下に行わせようとしても我が身ができてこそ。帝よ、ただそのようにしてこそ、功績を立てられるのだと思いなさい*11』とあります。
これは『上に立つ者が直向きな心を用いてこそ、成功を望むことができる』と言っているのです」
脚注
*11原文:夏書曰,念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功,
夏書とは『尚書』夏書のことだが、臧武仲が引用した「禹曰:『朕德罔克,民不依。皋陶邁種德,德乃降,黎民懷之。帝念哉!念茲在茲,釋茲在茲,名言茲在茲,允出茲在茲,惟帝念功』」は、『尚書』夏書ではなく『尚書』虞書 ・大禹謨にある。
季武子の後継者
魯の襄公の23年(紀元前550年)、季武子には適子(正妻が生んだ子)がいなかった。庶子の中では公弥(弥)が最も年長であったが、年下の悼子(紇)を愛して後継ぎに立てようと考え、(家老の)申豊に「吾は弥も紇も共に愛しているが、才能のある者を選んで立てたい」と言って意見を求めた。
すると申豊は返答もせずに退出し、家財を残らずまとめて立ち去ろうとした。後日また申豊に意見を求めたが、申豊は「どうしてもそうなさるなら、粗末な車を整えて国外に立ち去りましょう」と答えたので、(申豊との話を)打ち切った。
そこで臧紇(臧武仲)に意見を求めると、臧紇(臧武仲)は「我に酒を振る舞ってください。そうすれば、子のために[悼子(紇)を]立ててあげましょう」と言った。
そこで季武子は大夫たちに酒を振る舞い、臧紇(臧武仲)は客として列席した。献杯が終わると、臧紇(臧武仲)は北側(主君の席)に席を設けさせ、新しい酒樽を清めて悼子(紇)を呼び寄せた。
臧紇(臧武仲)が自ら段を降りてこれを迎えると、大夫たちもみな立ち上がり、[悼子(紇)を迎える]列に加わった。その後、公鉏[公弥(弥)。鉏は字]を呼んで大夫たちと同列に並ばせたので、これを見た季武子は(公鉏が腹を立てるのではないかと心配して)顔色を失った。
その後、季武子は公鉏を馬正(馬の管理役)に任命したが、彼は怒って出仕しなかった。すると閔子馬が(公鉏と)会って、
「いけません。禍福(不幸と幸福)に決まった入口はなく、ただ人が召し寄せるもの。人の子として親に不孝であることを憂慮するべきで、地位がないことを憂慮するべきではありません。
父(季武子)の命令を慎んでお受けするべきです。もし孝行を尽くし敬って仕えれば、その富は季氏(季孫氏の本家)の倍にもなりましょう。ですが、邪な心でもって道理や法を守らなければ、その禍は下々の民の倍以上になるでしょう」
と諌めたので、公鉏は「もっともだ」と思い、朝夕の勤めに真心を尽くし、(与えられた)官職の職務にも恭しく励んだ。
その結果、季武子は喜び、公鉏に酒をご馳走しようとして酒宴の道具を持って出掛け、全部そのまま公鉏の所に置いた。こうして公鉏は(季孫氏の本家よりも)富み栄え、さらに魯侯の左宰(高官)に任命された。
孟孫(孟荘子)の死
(孟献子の後を継いだ)孟孫[孟荘子(仲孫速)]は臧孫[臧武仲(臧紇)]を嫌っていたが、季孫(季武子)は臧武仲を愛していた。
孟氏(孟孫氏)の御騶(御者)・豊點は、孟荘子(仲孫速)の庶子・羯[孟孝伯(仲孫羯)]を好み、再三、「余の言うことに従うのなら、必ずや孟孫氏の後継者にして差し上げましょう」と言ったので、羯はそれに従った。
その後、孟荘子が病気になると、豊點は公鉏に「もし羯を(孟孫氏の後継ぎに)立てる加勢をしていただけるなら、(私にはあなたが季孫氏の後継ぎとなることを妨げた)臧氏(臧武仲)に復讐させて欲しい」と言った。
公鉏は(その気になって父の)季武子に「本来なら嫡子の秩が後を継ぐべきですが、もし(季孫氏が庶子の)羯を立てたなら、季孫氏は臧氏(臧武仲)に対して確かに力を持つことになるでしょう*12」と言ったが、季武子はこれに応じなかった。
己卯の日(8月10日)、孟孫(孟荘子)が亡くなると、公鉏は(庶子の)羯を奉じて(喪主が立つ位置の)戸側(室戸の東)に立たせた。
そこへ季武子が弔いに来て哭礼を済ませ、「(嫡子の)秩はどこにいるのか?」と尋ねると、公鉏は「羯がここにおります」と答えた。季武子は「嫡子の秩の方が年長だろう」と言ったが、公鉏は「年長であることに何の意味がありましょう。大事なのは唯一才能です*13。それに、孟孫(孟荘子)の遺言でもあります」と答え、ついに羯を立てた。(嫡子の)秩は邾に出奔した。
臧孫(臧武仲)は弔いに来て哭礼し、大変悲しんで涙を流した。御者が、出て来た臧孫(臧武仲)に「孟孫(孟荘子)は子を憎んでいたのに、これほどまでに悲しまれるとは。もし(子を愛している)季孫(季武子)が亡くなったら、一体どうなさるのですか?」と尋ねると、臧孫(臧武仲)は、
「季孫(季武子)が我を愛するのは病気のようなもので、孟孫(孟荘子)が我を憎むのは薬石のようなものだ。我を愛していても病気にするものは、我を憎んでいても役に立つ薬石の方がましだ。薬石はまだ我を生かしてくれるが、我を病気にさせるものがいくら愛してくれても、却って害毒を深めるものだ。孟孫(孟荘子)が死んでしまった今、吾が滅びるのも時間の問題だ」
と言った。
脚注
*12原文:公鉏謂季孫曰,孺子秩固其所也,若羯立,則季氏信有力於臧氏矣。直訳すると「青二才の秩は当然、立つべき位にある。もし羯が立つならば、則ち季氏は実に臧氏に対して力有るなり」だが、意訳した。
*13季武子は「年長者ではなく才能のある者を選んで立てたい」と言って、年長の公鉏ではなく年下の悼子(紇)を後継者に立てた。
臧武仲の出奔
孟氏[孟孝伯(仲孫羯)]は門を閉ざして、季孫(季武子)に「臧氏(臧武仲)が反乱を企てているため、我は葬儀もできないでいます」と訴えた。季孫(季武子)は信じなかったが、臧孫(臧武仲)はこれを聞いて警戒した。
冬10月、孟氏(孟孝伯)は埋葬の墓道を切り開こうとして、臧氏(臧武仲)から道普請の人夫を借りた。そこで臧孫(臧武仲)は人夫頭に命じて助けさせ、東門で道普請をさせたが、臧孫(臧武仲)は孟氏(孟孝伯)を警戒していたため、武装兵を従えて工事を監視した。
孟氏(孟孝伯)がまたこのことを季孫(季武子)に告げると、季孫(季武子)は怒って臧氏(臧武仲)を攻めるように命じた。
乙亥の日(10月7日)、臧紇(臧武仲)は魯の鹿門の関の(閂を)斬って邾に出奔した。
これより以前、臧紇(臧武仲)の父・臧宣叔は鋳の国から夫人を迎え、賈(臧賈)と為(臧為)を生んだが、その夫人が亡くなるとその姪(兄弟の娘)を継室(後妻)とした。この継室(後妻)が生んだ子が、臧紇(臧武仲)である。
臧紇(臧武仲)は祖先の祭祀を途絶えさせてはならないと、(母の故郷の)鋳に出ていた臧賈と臧為に家を継いでくれるように使者を遣わした。そこで臧賈は弟の臧為に命じ、魯に入れて臧氏の家督を継ぐことを請わせた。
そして臧紇(臧武仲)は(自分の領土の)防に赴くと、(魯に)使者を遣わして言った。
「紇が武装兵を従えたのは、謀叛を起こそうとしたのではありません。思慮が足りなかったのです。決して私個人のためにお願いしたのではありません。ただ先祖の祭祀を守り、祖父・臧文仲と父・臧宣叔の勲功をお忘れくださらないなら、喜んで邑(防)を立ち去りましょう」
その結果、(魯は)臧為に臧氏の家督を継がせ、臧紇(臧武仲)は防を(魯に)返上して斉に出奔した。
臧紇(臧武仲)の従者たちが「(魯では)我々の悪事を並べ立てて、大夫たちに盟わせて戒めとするでしょうか?」と言うと、臧紇(臧武仲)は「盟いに並べ立てる言葉がないであろう」と言った。
案の定、魯では臧氏(臧武仲)のことで大夫たちが盟いを立てて戒めにしようとしていた。
季孫(季武子)は悪臣の記録を掌る外史を呼んで盟首*14とするべき事例を尋ねると、
「[宣公の18年(紀元前591年)の]東門氏(襄仲)のことで誓った時には、『東門遂(襄仲)が公命(君命)に従わず、嫡子を殺害して庶子を立てたようなことがあってはならない』というものであり、[成公の16年(紀元前575年)に]叔孫氏(叔孫僑如)のことで誓った時には、『叔孫僑如)が国家の常法を廃して皇室を覆そうとするようなことがあってはならない』というものでした」
と答えた。
これを聞いた季孫(季武子)が「臧孫(臧武仲)の罪はこの2人の罪には及ばないか」と言ったが、孟椒(孟献子の孫・子服恵伯)が「魯の鹿門の関の(閂を)斬っ(て邾に出奔し)たことを罪としてはどうでしょうか?」と言うと、季孫(季武子)はその意見を採用し、臧氏(臧武仲)の罪を並べて誓いを立て、
「臧孫紇(臧武仲)のように国家の紀を破り、(関所の)門を犯し閂を斬るようなことがあってはならない」
と言った。
臧孫(臧武仲)はこれを聞くと、「(魯の)国にも(一角の)人物がいた。誰であろうか?孟椒であろうか?」と言った。
脚注
*14盟誓文の冒頭に記された、戒めとして挙げる過去の事例。
弭兵の会
魯の襄公の27年(紀元前546年)秋7月、諸侯の大夫が宋で会盟し、魯からは豹(叔孫豹)がこれに参加した。これは宋の左師・向戌が仲介して「大国の晋と楚を弭兵(停戦)させた会盟」である。
この時 季武子は叔孫豹に使者を遣わし、公命(君命)として「(魯も小国の)邾や滕のように扱われるようにせよ」と告げていたが、斉が邾を属国にしたいと請い、宋が滕を属国にしたいと請うたので、邾と滕は盟約に参加しなかった。
すると叔孫(叔孫豹)は「邾と滕は人の私(他国の属国)である。そして我(魯)は列国(として独立した国)だ。どうして属国の真似ができようか。吾国は宋や衛と同等である」と言って盟約に参加した。(「豹」と叔孫の)族名を記さなかったのは、公命(君命)を違えたからである。
襄公の邑を奪う
魯の襄公の29年(紀元前544年)夏4月、楚の康王を葬った。魯の襄公は陳侯・鄭伯・許男と共に会葬して西門の外まで送った。
魯の襄公が帰還の途について楚の方城まで来た時、季武子は襄公が治める卞(卞邑)を占領し、その一族の公冶を遣わして襄公の安否を問わせたが、人に璽書(封印した書状)を持たせて後を追わせ、公冶に渡した。
璽書(封印した書状)には、
「卞(卞邑)を守っている者が謀反を起こすと聞き、臣が軍を率いて討伐いたしました。すでに土地を取り治めましたので、ご報告申し上げます」
と書いてあった。公冶は使者の役目を終えて退き下がり、宿舎についてから、はじめて季武子が卞(卞邑)を占領したことを聞いた。
襄公は「自分が欲しいだけなのに『叛いたから取った』とは、(私を)軽んじている証だ」と言い、そこで公冶に「吾は国に帰っても良い者だろうか?」と問うた。
公冶が「我が君こそ、実に国を保たれるお方でございます」と答えると、襄公は公冶に冕服(卿大夫の礼服)を与えた。公冶は分に過ぎるものと考えて固く辞退したが、是非にと命ぜられてようやく受け取った。
襄公は国に帰りたくないと思っていたが、栄成伯が『式微』の賦(亡命中の国君を叱る詩)を歌って帰国を勧めたので、ようやく帰国した。
5月、襄公は楚から帰国した。
すると公冶は、季氏(季武子)から与えられた采邑を返上し、「我が君を欺くのに、どうして余を使者にする必要があったのか」と言って、その後は死ぬまで季氏の家に出入りしなかった。
季孫(季武子)と会った時には、以前と同じように季氏の家政について話したが、会っていない時には、決して季氏の家政について語ることはなかった。
病気を患うと、公冶は家臣を集めて、
「我が死んだら、(襄公から拝領した)冕服を着せて納棺しないように。あれは徳を賞されて頂いたものではないのだ。また、季氏に葬儀の世話をさせないでくれ」
と遺言した。
季武子の晋評価
魯の襄公の30年(紀元前543年)3月、晋の悼公の夫人が杞の城壁工事に従事した人夫たちに食事をご馳走したが、その人夫たちの中に絳県出身の老人がいた。
一緒に食事をしていた者が彼に年齢を尋ねると、老人は「臣は賎しい者ですので、年の数え方を知りません。臣が生まれた年は正月甲子の朔(正月元日)で、それから445回の甲子が巡りました」と答えた。
それを聞いた役人が急いで朝廷に問い合わせると、師曠はそれを計算して「その老人は今年73歳になります」と言った。
趙孟(趙武)が絳県の大夫を問うたところ、ちょうど彼の部下だったので、趙孟はその老人を召して、
「武に才なく、君(国君)の大事を任されながら晋国には問題が多く、吾子を用いることができなかった。長い間、吾子を泥まみれの仕事に辱めておりましたのは、武の罪でございます。謹んで我が不才をお詫び申し上げます」
と過ちを詫び、彼を士官させ、自分を助けて国政に参画させようとしたが、老人は高齢を理由に辞退した。そこで趙孟は、老人に田地を与えて国君の復陶(衣服係)に任命し、また絳県の県師を兼任させると、このような老人を労役に使った県尉を免職とした。
この時、ちょうど晋にいた魯の使者が帰国して、大夫たちにこの事を語って聞かせると、季武子は、
「晋はまだ軽視することはできない。大夫に趙孟がいて伯瑕(士文伯)がその補佐を務め、史趙や師曠が咨度(相談役)、叔向や女斉が君(国君)の師保となっている。晋の朝廷には君子が多い。どうして軽視することができようか。心を込めて晋に仕えてこそ、国(魯)の安全が保たれるというものだ」
と言った。
穆叔の助言
魯の襄公の31年(紀元前542年)春 王正月、魯の穆叔(叔孫豹)は澶淵の会合から帰国すると、孟孝伯に会い、
「趙孟の話は一時逃れの無責任ぶりで、民の上に立つ者として相応しくない。まだ50歳にもなっていないのに、くどくど喋って80〜90歳の老人のようだ。彼の命は長くはないだろう。もし趙孟が死んだら、晋の政治を執る者は韓子(韓起)であろうか。今のうちに韓子(韓起)と友好を結んでおいた方が良い」
と言ったが、孟孝伯は聞き入れなかった。
穆叔(叔孫豹)は退出すると、人に「孟孫(孟孝伯)はやがて死ぬであろう。吾が趙孟の無責任ぶりを語って聞かせたが、孟孫(孟孝伯)の方がもっと無責任であった」と言った。
穆叔(叔孫豹)はまた、季孫(季武子)と晋の事情を話したが、季孫(季武子)も彼の意見に従わなかった。
後に[魯の昭公の元年(紀元前541年)]趙文子(趙孟)が亡くなると晋の公室は弱くなり、その政権は驕れる大夫*15に帰した。
韓宣子が政治を行ったが諸侯を統御することができず、魯は晋の要求に堪えられなくなり、(魯を陥れようとする)悪口や奸計が多く行われるようになったので、[魯の昭公の13年(紀元前529年)に]平丘の会が催されることになった。
脚注
*15原文:政在侈家。侈家は権勢の家。
公子裯(昭公)を立てる
以前、襄公は楚宮を造営したが、この時 穆叔(叔孫豹)は、
「『書経』大誓に『民の願い望むことは天が必ず従う』とある。我が君は実に楚をお好みになっておられるゆえ、楚風の宮殿を造られたのだ。もしも再び楚に行けないとしたら、きっとこの宮殿でお亡くなりになられるだろう」
と言った。
6月辛巳の日(29日)、襄公は楚宮で亡くなり、胡(帰姓の国)の公女・敬帰の子、子野を立てた。
子野は季氏(季武子)の家に宿して喪に服していたが、秋9月癸巳の日(12日)に亡くなった。これは父君(襄公)の死を悲しむ余り、身が痩せ衰えたからであった。
己亥の日(9月18日)、孟孝伯が亡くなった。そこで(季武子は)、敬帰の妹(で妾となっていた)斉帰の子・公子裯を立てたが、穆叔(叔孫豹)は不満に思って言った。
「太子が亡くなった場合には太子の同母の弟があればそれを立て、それがいない時には庶子の年長者を立て、歳が同じなら人物の優れた方を選んで立て、立つべき条件が同じ場合には卜にかけて定めるのが古の道である。
子野は嫡子ではないのだから、妾の子を立てる必要はないではないか。それにこの人(公子裯)は、父君の喪中にあっても悲しむことなく、悲しい憂いの中にあっても立派な身なりをしている。
こうしたことを不度(礼法に背くこと)と言う。不度の人に、禍を起こさない者は滅多にいない。もし本当に(公子裯を)立てたなら、必ずや季氏の憂いとなるであろう」
それでも季武子は聴き入れず、ついに公子裯を立てた。これが魯の昭公である。
この公子裯は、襄公の葬儀までに3度も喪服を取り替えたが、その喪服の裾は古い喪服のように擦り切れていた。*16
この時、昭公は19歳にもなっていたが、まだ童心を持っていた。このことから、君子は(昭公は)その最後を立派にできないことを予測した。
脚注
*16喪服を着ながら遊び回っていたことを指す。
独断で莒を攻めて鄆を取る
魯の昭公の元年(紀元前541年)春、魯の叔孫豹が、晋の趙武(趙孟)、楚の公子圍(公子囲)、斉の国弱、宋の向戌、衛の斉悪、陳の公子招、蔡の公孫帰生、鄭の罕虎、許人、曹人と鄭の虢で会盟した。
これは魯の襄公の27年(紀元前546年)の「弭兵(停戦)の会」における盟いを忘れないようにするためのものであった。
ところが、まだこの会が散会もしないうちに、季武子が莒の国に攻め入って鄆を取ってしまった。
莒人がこれを虢の会で訴えたので、楚は晋に申し入れて「(戦争をやめようという盟いを再び行って、まだ散会もしないうちに)魯が莒を伐つとは、一同で結んだ盟いを侮り穢すものだ。魯の使節(叔孫豹)を処刑してほしい」と言った。
この時、晋の趙文子(趙武)の補佐をしていた楽桓子(楽王鮒)は、叔孫豹に「(婉曲に金と言わず)帯をくれないか?」と言って賄賂を要求した。
すると叔孫豹は、
「我が財貨を出して助かれば、きっと魯が(諸侯から)攻められることになる。季孫(季武子)がやったことは怨むべきことだが、魯国に何の罪があるというのか。殺されたとしても、吾は誰を怨むものではない」
と言い、賄賂好きな楽桓子に配慮して、楽桓子の使者に裳を作る帛を裂いて与えた。
このことを聞いた趙孟(趙文子)は、
「(我が身の)災難に臨んでも国を忘れないのは『忠』である。困難を思っても職分を越えないのは『信』である。 国のためを図って死をも顧みないのは『貞』である。(主君のために)この3つを備えて謀るのは『義』である。この4つを備えている者を、どうして殺すことができようか」
と言って、楚に叔孫豹の命乞いを強く要請したので、楚はこれを許し、叔孫豹を処罰しないことにした。
趙孟(趙文子)は、この年の12月庚戌の日(7日)に亡くなった。
晋の韓宣子をもてなす
魯の昭公の2年(紀元前540年)春、晋侯は韓宣子(韓起)を魯に遣わして昭公の即位を祝う挨拶をさせた。
昭公が韓宣子(韓起)をもてなす宴席で、季武子は『綿』の最後の章*17を歌って晋侯が韓宣子を補佐に得たことを称え、韓宣子(韓起)は『角弓』*18を歌って兄弟の国である魯と親しんで助け合ってゆこうという意を仄めかした。
また、季武子は拝謝して「子が敝邑(魯)をお助けくださるというお考えを伺って、寡君(我が君)は大いに期待しております」と言い、『節』の最後の章*19を歌い、韓宣子が衰えかけた晋君の覇業を補佐して諸侯を治めてほしいという意を仄めかした。
昭公の宴が終わると、季氏(季武子)の邸宅で宴が催された。
その庭に嘉樹(立派な樹)があったので、韓宣子がこれを誉め称えると、季武子(季孫宿)は、
「『角弓』*18を歌われたあなたのお心を忘れないよう、宿はこの樹を大切に育てましょう」
と言い、『甘棠』*20を歌って嘉樹を甘棠(唐梨)に準え、韓宣子を「その昔、甘棠の樹下にくつろいだ西周建国の功臣・召公」に準える意をほのめかした。
すると韓宣子(韓起)は、「起にはもったいない。とても召公には及びません」と言った。
脚注
*17『詩経』大雅・文王の什の詩。その最後の章は、周の文王に補佐の賢臣が4人いたことを歌ったもの。
*18『詩経』小雅・桑扈の什の詩。上下関係の逆転などを嘆き、秩序を重んじるべきことを諭す賦。
*19『詩経』小雅・鹿鳴の什の詩。その最後の章は、周の大夫の家父が幽王の暗愚の心を改めて万邦(諸国)を安んずべきことを歌ったもの。
*20『詩経』国風・召南の詩。「こんもりと茂った甘棠の樹よ。切ったり損なったりしてはいけない。ここは召伯(召公)様がくつろがれた場所なのだから」とある。
晋に弔問する
秋、晋の平公の妾室・少姜(斉の荘公の女)が亡くなった。
魯の昭公は、弔問のため晋に向けて出発して黄河まで来たが、晋侯が士文伯を遣わして、
「(少姜は)正室ではありません。どうかわざわざおいでにならぬように」
と言わせたので、昭公は引き返した。
冬、すぐに季孫宿(季武子)が晋に行き、襚服(遺体に着せる服)を贈り届けた。
穆叔の諫言に従う
魯の昭公の3年(紀元前539年)秋、小邾(郳)の穆公が魯に来朝したが、季武子は小邾(郳)を諸侯として扱わず、卑しい礼をもって対応しようとした。
これに穆叔(叔孫豹)が、
「いけません。曹・滕・大邾(邾)・小邾(郳)の4国は、実に我が魯に対する修好を忘れずにいる国です。
敬意を払って丁重に迎えるべき国であり、彼らが二心を抱くことを懼れるなら、一層謙って親睦を厚くするべきです。それが諸国の好意を迎える道というものです。従来どおりの関係を保ちつつ、さらに敬意を加えるのがよろしいでしょう。
『志』に『敬うことができれば災いはない』とあり、また『来る者を敬って迎えれば、天がこれに福を与える』とあります」
と言ったので、季孫(季武子)は穆叔(叔孫豹)の意見に従った。
雹を防ぐ方法を聞く
魯の昭公の4年(紀元前538年)春王正月、たくさんの雹が降った。
季武子が(大夫の)申豊に向かって「雹を防ぐことはできるだろうか?」と尋ねると、申豊は、
「聖人が上にあ(って天下を治めてい)れば雹は降りません。もし降ったとしても災いは起きません。
昔は太陽が北方の行道にある時(12月)に氷を貯蔵し、西方の行道の星が朝方に東方に見える時(4月)に、それを取り出して使用したものです。
(中略)
貯蔵は厳密であり、あまねく人に分け与えて使用するならば、冬に陽気が狂うことなく、夏には陰気が潜伏することもなく、春には寒い風が吹かず、秋には長雨が降らず、雷が鳴っても落ちることがなく、災害を起こす霜や雹もなく、悪い病気も流行せず、民は若死にしたり流行病で大勢死ぬということもありません。
ですが今は、近くの川や池に張った氷を貯蔵しておきながら、これを用いずに捨てているのですから、(陰陽が不順となり、)寒い風が吹き渡らないのに草木が枯死し、雷が激しく鳴り響かないのに落雷が起こるのです。
今、雹が降って災いを起こしたとしても、誰がこれを防ぐことができるでしょうか? 『詩経』七月の終章に、まさにこの『氷を正しく貯蔵する方法』が説かれています」
と答えた。
豎牛(召使いの牛)
冬、叔孫(叔孫豹)は丘蕕で狩りをしたが、そこで病気にかかった。
豎牛(召使いの牛)は叔孫氏を乱して乗っ取ろうと考え、叔孫(叔孫豹)を見舞いに来た者たちを追い返し、また、食事を運んできた者には「夫子[主人(叔孫豹)]は病が重く、人に会いたくないとおっしゃっております」と言って別室に置かせ、しばらくして空にした食器を置いて、叔孫豹が食べたように見せかけた。
そのまま叔孫(叔孫豹)は12月乙卯の日(29日)に亡くなり、豎牛(召使いの牛)は昭子(叔孫豹の庶子・叔孫婼を立てて叔孫氏を継がせ、自分はその後見役となった。
昭公は杜洩に命じて叔孫(叔孫豹)を葬らせた。豎牛(召使いの牛)は叔孫昭子と季子の家臣の南遺に賄賂を贈り、季孫(季武子)に杜洩を憎ませて(叔孫氏から)排除させようとした。
杜洩は叔孫(叔孫豹)が周王から賜った大路車(最高格式の儀礼用馬車)を用いて叔孫(叔孫豹)を葬り、卿の礼を立派に行おうとした。
すると南遺は季孫(季武子)に、
「叔孫(叔孫豹)はまだその車に乗ったことがありません。どうして葬儀にそれを用いるのでしょうか? それに、冢卿[卿の筆頭=季孫(季武子)]でさえ路車を持たないのに、介卿(次位の卿)にそれを用いて葬るのは、道理に外れたことではありませんか?」
と言い、季孫(季武子)も「その通りだ」と言って、杜洩に命じて大路車を用いるのをやめさせようとしたが、杜洩の言う「大路車を用いるべき理由」に反論することができず、結局、大路車を用いて葬らせた。
やがて季孫(季武子)が中軍を廃止することを謀ると、豎牛(召使いの牛)は「夫子[主人(叔孫豹)]も、かねてから廃止することを考えておりました」と言って季孫(季武子)に媚び諂った。
中軍を廃止する
魯の昭公の5年(紀元前537年)春王正月、魯では中軍を廃止したが、これは魯の公室を弱めることを目的としたもので、[季孫(季武子)は]施氏に中軍廃止の議を提案させ、それを臧氏に賛成させて決定した。
[魯の襄公の11年(紀元前562年)に]中軍を作った時は、公室が支配する民を3分割し、それぞれ(三桓*3の)3家がその1つずつを所有した。そして、季氏(季武子)はすべての民に税をかけて公室には入れず、叔孫氏はその臣下の子弟だけに税をかけ、孟氏は臣下の子弟の半分から税を取っていた。
今、中軍を廃止した後は公室の民を4分割して、季氏(季武子)は勝手にその2つを選び取り、他の2氏はそれぞれ1つずつを所有した。3家ともすべての民に税をかけ、その内のいくらかを皇室に入れるようになった。
季氏(季武子)は、文書をもって杜洩に命じて、叔孫(叔孫豹)の殯(埋葬前の棺)に、
「子は中軍を廃止したいと望んでおられました。すでにこれを廃止しましたので、その旨をご報告申し上げます」
と報告させようとしたが、杜洩は、
「夫子[主人(叔孫豹)]は(中軍を)廃止することを望んでいませんでした。それゆえに、それを僖公の廟門で盟い、五父の衢(魯にあった5つの道路が交差する交通の要所)で(神に)誓ったのです」
と言い、その文書を受け取るや否や、地面に投げ捨てると、家臣らを引き連れて[叔孫(叔孫豹)の霊柩に]哭泣した。
脚注
*3魯の第15代国君・桓公の子孫である孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏は三桓氏と呼ばれ、代々魯国の実権を握っていた。季孫氏はその主席であった。
叔孫豹の出棺
その後、[豎牛(召使いの牛)から賄賂を受けた]叔仲子(叔仲帯)が季孫(季武子)に「帯は昔、叔孫(叔孫豹)から『変死した者を葬るには西門から出すものだ』と教えられました」と言うと、季孫(季武子)はこれに従うように杜洩に命じた。
すると杜洩は、
「卿(叔孫豹)の喪は朝廷の正門から出すのが魯の礼でございます。吾子が魯の国政をお執りになってから、まだ従来の礼を改めておられないのに、今変更されてしまえば、群臣は(変更したことが原因で)死んでしまうのではないかと懼れております。どうしても従うことはできません」
と反対して、葬儀が終わると国を立ち去った。
叔孫豹の嫡子・仲壬の帰還
(叔孫豹の子の)仲壬が(父の喪を聞いて)斉から帰ってきた。そこで季孫(季武子)が仲壬を(叔孫豹の後継者に)立てようとすると、南遺は、
「叔孫氏が強くなれば、その分だけ季氏は弱くなります。今、彼(仲壬)の実家(叔孫氏)は乱れております。子は知らぬ振りをなさっておられれば、それでよろしいのではございませんか?」
と言った。
こうして南遺は国の人々に命じて豎牛(召使いの牛)を助け、大庫が並ぶ庭(で仲壬)を攻めさせた。司宮*21が(仲壬を)射ると、その矢が目に当たって仲壬は死んだ。
豎牛(召使いの牛)は(叔孫氏の領地の)東方の30邑を取り上げて南遺に与えた。
昭子(叔孫婼)が叔孫氏の後を継ぐと、家臣たちを集めて言った。
「豎牛(召使いの牛)は叔孫氏に禍を持ち込んで次々と騒動を起こし、嫡子(仲壬)を殺して庶子(昭子)を立て、さらに(叔孫氏の)邑を人に分け与えて、自分の罪を逃れようとしている。これより大きな罪はない!必ずや速やかにこれを殺せ」
豎牛(召使いの牛)は懼れて斉に逃げようとしたが、孟丙と仲壬の子たちが国境の関所の外で殺し、その首を斉の寧風*22の棘の上に投げつけた。
仲尼(孔子)は、
「叔孫昭子が豎牛(召使いの牛)の労を認めなかったことは、容易にできることではない。古の周任も『政治を行う者は私事に関する労を賞せず、個人の怨みを罰しない』と言い、『詩経』*23にも『正しい徳行があれば、四方の国々は従う』とある」
と批評して昭子を誉め称えた。
脚注
*21宗廟の係。ここでは大庫の係と思われる。
*22杜注は斉の地名とする。一説に「風を防ぐ祭り」の名で、その祭りの時に焼く荊棘の上に首を投げたと言う。
*23『詩経』大雅・抑の詩。
晋の加礼を辞す
魯の昭公は晋に出掛けた。
夏、莒の牟夷が牟婁・防・茲の3邑を差し出して魯に逃げ込んで来た。莒人が「魯が牟夷を受け入れた」ことを晋に訴えたので、晋侯は来朝していた魯公(昭公)を捕えようとした。
すると范献子(范鞅)は、
「いけません。来朝した者を捕えるということは、人を騙して捕えるようなものです。
有罪の者を討つのに正々堂々と軍隊を用いず、騙してやり遂げるということは、(覇者の務めを)怠るというものです。
盟主となっておりながら、この2つの過ちを犯すということは、いけないことではありませんか。どうか(昭公を)帰して、少し暇になってから軍隊を率いて討つことにしましょう」
と言ったので、昭公は秋7月に晋から帰国した。莒が攻めてきたが、戊辰の日(15日)に魯の叔弓が蚡泉で撃ち破った。
魯の昭公の6年(紀元前536年)夏、季孫宿(季武子)は晋に出掛けた。これは、前年に莒の牟夷が差し出した邑を受け入れても、咎められなかったことに対する礼をするためであった。
晋侯は季孫宿(季武子)のために宴を開き、特別に料理の数を増やした。武子(季武子)は退出して、臣下の応待役に命じて晋侯に、
「小国が大国にお仕えするのは、ただ討伐を免れることができればそれで十分であり、宴を賜るなどということは望んでおりません。たとえ賜りましても三献*24を越えることはございません。ところが今、豆*25が増やされております。下臣には耐えられません。これは礼に背くことにならないでしょうか」
と言った。これに韓宣子(韓起)が、
「寡君(晋侯)は、それをもってご好意を示そうとなさっているのです」
と言うと、武子(季武子)は、
「寡君(昭公)でさえ、このようなご接待に与ったことがありません。まして下臣は、君(昭公)の隸(家来)に過ぎません。どうしてこのような過分な恩恵を受けることなどできましょうか」
と言い、強く願い出て その特別な料理を下げてもらい、ようやく饗応の宴を終えた。
晋人は、彼を礼をよくわきまえた人物だと評価し、良い引き出物をたくさん贈った。
脚注
*24儀礼の段階の1つ。『礼記』礼器に「一獻質,三獻文,五獻察,七獻神」とある。献は酒を酌んで勧めること。
・一献は礼が質素で簡略
・三献は礼に装飾や形式が整えられている
・五献は顕著に盛大で、細部まで行き届いている
・七献は礼が重々しく、きわめて慎み深い
*25豆は料理の器。器の数=料理の品数。身分に合わない待遇は礼に反すると言っている。
日食の意味
魯の昭公の7年(紀元前535年)夏4月、甲辰の朔、日食があった。
晋侯「日食の咎めを受けるのは誰であろうか?」
士文伯「魯と衛が咎めを受けますが、衛が大きな咎めを受け、魯が小さな咎めを受けます」
晋侯「何故か?」
士文伯「日食は衛の星宿にあたる娵訾(豕韋)から始まって、魯の星宿にあたる降婁に及んでいますので、衛に禍が起こり、魯はその余波を受けるでしょう。衛の国君が大きな咎めを受け、魯国は上卿が咎めを受けるものと思われます」
晋侯「『詩』*26に『あの日食が起こったのは、どこに良くないことがあったのか』とあるのは、どういう意味か?」
士文伯「善政が行われていないことを意味します。国に善政が行われず、善人を用いないと、自ずから日食や月食の咎めを受けるのです。ゆえに政治は慎まなければなりません。務めるべきことは3つ。第一は賢人を選んで用いること。第二は民心に従うこと。第三は時(春夏秋冬の季節において為すべき民事)に従うことです」
脚注
*26『詩経』小雅・十月之交。
成の邑を杞に返す
3月、魯の昭公が楚に出向き、孟孫(孟僖子)が同行した。昭公が楚に出向いたことを恨みに思った晋人は、魯にやって来て「杞に返さなかった土地」を調査した。
そこで季孫(季武子)は、孟孫(孟僖子)が楚に出向いているのを幸いとして、孟孫(孟僖子)の邑である成を杞に与えようとしたが、孟孫(孟僖子)の城代の謝息は承知せず、
「世間の人が言う『水を汲む挈缾一杯ほどの才智しか持たない人間でも、任されて守っていれば、その器は人に貸さないものだ』というのは、礼でもあります。夫子[主人(孟僖子)]が君(昭公)のお供をしておりますのに、留守を預かる家来がその邑を失ったとしたら、いくら吾子様でも不忠の臣とお疑いになることでしょう」
と言った。すると季孫(季武子)は、
「君(昭公)が楚に行っておられるのは、晋に対しては罪になることだ。それにまた、晋の命令に従わないならば、魯の罪は一層重くなり、晋の軍は必ず魯に攻めて来るだろう。そうなれば、こちらは防ぎようがない。成の邑を杞に与え、晋の隙を窺って杞から取り戻すようにするのが上策だ。
吾は子に桃の邑を与えよう。後日、成の邑が帰って来た時には、孟孫(孟僖子)は2つの成(邑)をを得ることになる。魯には憂いがなくなり、孟孫(孟僖子)は邑が増えることになる。子が気に病む必要はない」
と言った。
それでも謝息は「(桃には)山がない」ことを理由に断ったが、季孫(季武子)が(桃の邑に加えて)萊と柞の邑を与えると、ようやく謝息は桃の邑をに遷った。
晋人は、杞のために成の邑を(魯から)取り上げた。
季武子の死
11月、季武子は亡くなった。
晋侯は士文伯に「吾はあなたに(夏4月の)日食の咎めについて尋ねたが、あなたが答えた通りになったな」と言った。
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