正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧②季孫氏(きそんし)②[季文子(きぶんし)(季孫行父(きそんこうほ))]です。

スポンサーリンク

凡例・関連記事

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

関連記事


スポンサーリンク


き④

季文子(季孫行父)

季文子(きぶんし)(季孫行父(きそんこうほ))

生年不詳〜魯(ろ)の襄公(じょうこう)の5年(紀元前568年)没。名は行父(こうほ)。父は斉仲無佚(せいちゅうぶちつ)(無佚(ぶちつ))。祖父は魯(ろ)の桓公(かんこう)の弟・季成子(きせいし)(季友(きゆう))。魯(ろ)の正卿(せいけい)(宰相(さいしょう))。

三桓(さんかん)の首席で、文公(ぶんこう)の初めに卿(けい)となり、宣公(せんこう)・成公(せいこう)・襄公(じょうこう)時代の宰相(さいしょう)として国政を執(と)った。

文公の使者となる

魯(ろ)の文公(ぶんこう)の6年(紀元前621年)夏、季孫行父(きそんこうほ)は魯(ろ)の文公(ぶんこう)の使者として陳(ちん)に赴(おもむ)いて陳(ちん)の共公(きょうこう)と会見し、そこで陳(ちん)の女性を妻に娶(めと)った。

秋、季孫行父(きそんこうほ)は晋(しん)に赴(おもむ)いて晋(しん)の襄公(じょうこう)と会見した。


魯(ろ)の文公(ぶんこう)の12年(紀元前615年)冬12月、晋(しん)と秦(しん)が河曲(かきょく)において戦い、季孫行父(きそんこうほ)は軍を率(ひき)いて諸(しょ)と鄆(うん)に城壁を築いた。

魯(ろ)の文公(ぶんこう)の15年(紀元前612年)春、季孫行父(きそんこうほ)は晋(しん)に赴(おもむ)き、斉(せい)に捕らえられている単伯(ぜんはく)と叔姫(しゅくき)について晋(しん)に助力を求めた。

秋、斉(せい)が魯(ろ)の西方の辺邑(へんゆう)に侵攻したため、季孫行父(きそんこうほ)はこれを晋(しん)に告げた。

冬11月、晋侯(しんこう)・宋公(そうこう)・衛侯(えいこう)・蔡侯(さいこう)・鄭伯(ていはく)・許男(きょだん)・曹伯(そうはく)らが扈(こ)に会盟し、前年に結んだ「新城(しんじょう)の盟」を再確認して斉(せい)を伐(う)つことを謀(はか)ったが、斉(せい)が晋侯(しんこう)に財貨を贈(おく)ったため斉(せい)の討伐は取り止めとなり、季孫行父(きそんこうほ)は魯(ろ)に帰った。この時、魯(ろ)は斉(せい)の侵攻を受けていたため、文公(ぶんこう)はこの会盟に参加しなかったのである。


魯(ろ)の文公(ぶんこう)の16年(紀元前611年)正月、魯(ろ)は斉(せい)と和平を結んだ。

この時、文公(ぶんこう)は病気だったので、文公(ぶんこう)は季文子(きぶんし)(季孫行父(きそんこうほ))を派遣して斉侯(せいこう)と陽穀(ようこく)で会合させ、盟約を結ぶことを請(こ)うたが、斉侯(せいこう)は承知せず、「文公(ぶんこう)が全快されるのを待ちましょう(原文:請俟君間)」と言(い、その場では盟約を結ばなか)った。

逃亡してきた莒の僕を追い出す

魯(ろ)の文公(ぶんこう)の18年(紀元前609年)2月丁丑(ていちゅう)(24日)、文公(ぶんこう)が亡くなった。

冬10月、文公(ぶんこう)の第2夫人(ふじん)・敬嬴(けいえい)と私通していた襄仲(じょうちゅう)が太子(たいし)悪(あく)とその同母弟の視(し)を殺害し、敬嬴(けいえい)の子・宣公(せんこう)を立てた。


その後、莒(きょ)の太子(たいし)僕(ぼく)が莒(きょ)の紀公(きこう)を殺害して魯(ろ)に逃亡し、(莒(きょ)の)宝玉を宣公(せんこう)に献上した。すると宣公(せんこう)は「今日中に必ず領地を与えなさい」と命じたが、季文子(きぶんし)は司寇(しこう)を通じて「今日中に必ず国外に追い出せ」と命じた。

宣公(せんこう)がその訳を尋(たず)ねると、季文子(きぶんし)は太史(たいし)の克(こく)に次のように答えさせた。


「先の大夫(たいふ)・臧文仲(ぞうぶんちゅう)は行父(わたくし)に『事君の礼(君主に仕える礼)』を教えてくださり、行父(わたくし)はその教えを守って決して背(そむ)くようなことはいたしませんでした。その教えには、

『君主に礼を尽くす者を見たら、孝子が父母を養う如(ごと)くこれに仕えよ。君主に礼を尽くさぬ者を見たら、鳥雀(ことり)を逐(お)う鷹鸇(ようせん)(鷹科(たかか)の鳥)の如(ごと)くこれを誅(ちゅう)せよ』

とあります。
先君・周公(しゅうこう)は周礼(しゅらい)を定められて、

『則(そく)[人の守るべき規範(礼)]を守っているかどうかでその者の徳を見定めよ。徳をもって事を処理させ、功績ある者には(領地を与えて)その領民に養われるようにせよ』

と言われ、また誓命(せいめい)(戒(いまし)め)に、

『則(そく)[人の守るべき規範(礼)]を毀(そこ)なう者を”賊(ぞく)”と言い、賊(ぞく)を匿(かくま)う者を”蔵(そう)”と言い、財貨を窃(ぬす)む者を”盗(とう)”と言い、器(国の財宝)を盗む者を”姦(かん)”と言い、自(みずか)ら”蔵(そう)”の罪名を犯し、”姦(かん)”の盗んだ財宝を貪(むさぼ)ることを大凶徳と言う。以上の者に対しては定まった刑罰があって赦(ゆる)すことはない』

と言われております。これらの刑罰は『九刑(きゅうけい)』にあって誰もが知るものであります。

行父(わたくし)が莒(きょ)の僕(ぼく)を観ますに、何一つ人の守るべき規範(礼)に従っておりません。孝敬忠信を吉徳(美徳)と言い、盗賊蔵姦を凶徳(悪徳)と言います。莒(きょ)の僕(ぼく)という人物は、孝敬においては君主であり父である人を殺害し、忠信においては国の宝玉を盗みました。彼は”盗(とう)””賊(ぞく)”の罪を犯し、その器(国の財宝)は”姦(かん)”なる者が盗んだ盗品です。そのような者を保護して財宝を貪(むさぼ)ることは、”蔵(そう)”の罪を犯すことになります。

そのようなことをして民を教訓すれば混乱に陥(おちい)り、民が手本として仰(あお)ぐべきものがなくなり、善を行わず、みな凶徳(悪徳)を行うようになるでしょう。ゆえに莒(きょ)の僕(ぼく)を国外に追い出したのです。(以下略)」

宣公の使者となる

魯(ろ)の宣公(せんこう)の元年(紀元前608年)夏、季文子(きぶんし)は斉(せい)に赴(おもむ)いて贈物を納(おさ)め、斉侯(せいこう)に(国君の位を簒奪(さんだつ)したため諸侯(しょこう)に評判の悪い)宣公(せんこう)と会合することをお願いした。その結果、宣公(せんこう)は斉侯(せいこう)と平州(へいしゅう)で会合し、宣公(せんこう)の位を安定させた。

魯(ろ)の宣公(せんこう)の10年(紀元前599年)夏、斉(せい)の恵公(けいこう)が亡くなった。秋、斉(せい)の頃公(けいこう)が即位したので、季文子(きぶんし)は初めて贈物を携(たずさ)えて斉(せい)を訪問した。

襄仲の子・公孫帰父を追放する

魯(ろ)の公孫帰父(こうそんきほ)は、父の襄仲(じょうちゅう)が宣公(せんこう)を擁立(ようりつ)したことから宣公(せんこう)の寵愛(ちょうあい)を受けていた。そこで公孫帰父(こうそんきほ)は、宣公(せんこう)と共に謀(はか)って晋(しん)に赴(おもむ)き、晋(しん)の力を借りて三桓(さんかん)を除き、公室の権勢を強めようとした。

魯(ろ)の宣公(せんこう)の18年(紀元前591年)冬10月壬戌(じんじゅつ)(28日)に宣公(せんこう)が亡くなると、三桓(さんかん)の1人である季文子(きぶんし)は、朝廷において「我が魯国(ろこく)の太子(たいし)(悪(あく))を殺害して庶子(宣公(せんこう))を立て、大国(斉(せい))の援助を失わせたのは、襄仲(じょうちゅう)の仕業である。(その子の公孫帰父(こうそんきほ)を許してはおけない)」と言った。

これを聞いた臧宣叔(ぞうせんしゅく)は怒って、「当時、襄仲(じょうちゅう)の罪を裁くことができなかったのに、今になってその子に何の罪があろうか。どうしても公孫帰父(こうそんきほ)を追放するというのなら、私に任せてもらおう」と言って東門氏(とうもんし)(公孫帰父(こうそんきほ)の一族)を追放した。

鞍で斉を破る

魯(ろ)の成公(せいこう)の2年(紀元前589年)春、斉(せい)が魯(ろ)の北鄙(ほくひ)(北の僻地(へきち))を攻めた。

6月、季文子(きぶんし)・臧孫許(ぞうそんきょ)・叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)・公孫嬰斉(こうそんえいせい)が軍を率(ひき)いて晋(しん)の郤克(げきこく)・衛(えい)の孫良夫(そんりょうふ)・曹(そう)の公子(こうし)首(しゅ)と合流し、斉(せい)と鞍(あん)で戦ってこれを破った。

晋への不信

魯(ろ)の成公(せいこう)の4年(紀元前587年)夏、成公(せいこう)は晋(しん)に出掛けて晋侯(しんこう)と会見したが、 この時、晋侯(しんこう)は成公(せいこう)に無礼な態度をとった。

これに季文子(きぶんし)は、

「晋侯(しんこう)はきっと無事な死に方はできないでしょう。『詩(し)』に『敬(うやま)われよ、敬(うやま)われよ。天は大いに顕(あき)らかにして善に与(くみ)し悪を退(しりぞ)ける。天命は保(たも)ち難(がた)し。(原文:敬之敬之,天惟顯思,命不易哉)』とあります。そもそも晋侯(しんこう)の天命は、諸侯(しょこう)を心服させることにある。諸侯(しょこう)を大事にしないで良いでしょうか」

と言った。

秋、成公(せいこう)は晋(しん)から都に帰り、楚(そ)と友好を結んで晋(しん)に叛(そむ)こうとした。

すると季文子(きぶんし)は、

「いけません。晋(しん)は無道といえども、まだ叛(そむ)いてはなりません。晋(しん)の国は大きく臣下は睦(むつ)まじく和合し、我が魯(ろ)と近く、諸侯(しょこう)はその命令に服従しております。まだ叛(そむ)いてはなりません。(周(しゅう)の文王(ぶんおう)の太史(たいし)・)史佚(しいつ)の志(記録)に『自分の一族でなければ、その心は必ず異なる』とあります。楚(そ)は大国といえども、吾(わ)が一族ではありません。どうして我々を慈(いつく)しむことがありましょうか」

と諌(いさ)めたので、成公(せいこう)は思いとどまった。

武宮を建てる

魯(ろ)の成公(せいこう)の6年(紀元前585年)2月17日、季文子(きぶんし)は鞍(あん)の武功を後世に示し伝えるために武宮を建てた。*1

冬、季文子(きぶんし)は晋(しん)に赴(おもむ)いて、晋(しん)が都を移したお祝いを述べた。

脚注

*1鞍(あん)の武功とは、魯(ろ)の成公(せいこう)の2年(紀元前589年)6月に、晋(しん)・衛(えい)・曹(そう)と共に鞍(あん)で斉(せい)を破った戦いのこと。これは自身の力ではなく他国の力を借りて国難を救ったもので、これを武功とすることは礼に適(かな)っていない。

汶陽の田地を斉に返還する

魯(ろ)の成公(せいこう)の8年(紀元前583年)春、晋侯(しんこう)が韓穿(かんせん)を魯(ろ)に派遣して汶陽(ぶんよう)の田地を斉(せい)に返すように言った。

季文子(きぶんし)は送別の会を設け、その席でこっそりと韓穿(かんせん)に言った。


「貴国(晋(しん))は正しい道を行って諸侯(しょこう)の盟主となっておられます。ゆえに諸侯(しょこう)は(晋(しん)の)徳に懐(なつ)き討伐を畏(おそ)れて二心(ふたごころ)を抱(いだ)くことはないのです。

汶陽(ぶんよう)の田地は元々敝邑(へいゆう)(魯(ろ))の領地でしたが、一時、斉(せい)に取られたので、貴国(晋(しん))には斉(せい)に軍を差し向けて、再び敝邑(へいゆう)(魯(ろ))に返還していただきました。それを今、ご命令が変わって斉(せい)に返せと仰(おお)せられております。

信があってこそ義が行われ、義が行われてこそ正しい命令が出されるものす。小国が(大国を)仰(あお)ぎ望んで懐(なつ)き従うのは、それが行われることをを信じているからです。もし信が守られず義が行われないとしたら、天下の諸侯(しょこう)の中で離反しない者は誰1人いないでしょう。

(中略)

行父(わたくし)は貴国が遠い先のことをお考えにならず、諸侯(しょこう)を失う結果になることを懼(おそ)れます。ゆえに敢(あ)えて内々に申し上げさせていただきました」


その結果、結局 晋(しん)は汶陽(ぶんよう)の田地を斉(せい)に与えた。

諸侯と会盟する

魯(ろ)の成公(せいこう)の9年(紀元前582年)春、前年に晋(しん)が魯(ろ)に命じて汶陽(ぶんよう)の田地を斉(せい)に返還させたことで、諸侯(しょこう)は晋(しん)の信義を疑った。これを懼(おそ)れた晋(しん)は、魯公(ろこう)・斉侯(せいこう)・宋公(そうこう)・衛侯(えいこう)・鄭伯(ていはく)・曹伯(そうはく)・莒子(きょし)・杞伯(きはく)ら諸侯(しょこう)と衛(えい)の蒲(ほ)で会合して、2年前に結んだ「馬陵(ばりょう)の盟約」を忘れないようにした。

この時、季文子(きぶんし)が晋(しん)の范文子(はんぶんし)(士燮(ししょう))に「徳を施(ほどこ)すことに努(つと)めないで、盟(ちか)いを温めたところで何になりましょう?」と言うと、范文子(はんぶんし)は「努力して諸侯(しょこう)を手懐(てなず)け、寛大に扱い忍耐強く捌(さば)いて明神(めいしん)*2を要(かなめ)とし、帰服する者を安んじ謀反(むほん)者を伐(う)つというのは、徳をもって治めることに次ぐ手法ではありませんか」と答えた。

この会合は、初めて呉(ご)を会合の仲間に加えようとしたものであったが、呉(ご)は参加しなかった。

脚注

*2盟誓を結ぶ際、その確かさを保証し、背(そむ)く者には罰を下すとされる神。

伯姫を宋に送る

2月、魯(ろ)の伯姫(はくき)が宋(そう)に嫁(とつ)いだ。

夏、伯姫(はくき)を宋(そう)に送り届けた季文子(きぶんし)が帰って報告すると、成公(せいこう)は宴を開いてその労をねぎらったが、この時、季文子(きぶんし)は「良い所に嫁(とつ)いでご安心です」という意味を込めて、韓奕(かんえき)の五章*3を賦(うた)った。すると(成公(せいこう)と伯姫(はくき)の生母・)穆姜(ぼくきょう)も部屋から出てきて再拝し、

「大夫(たいふ)(季文子(きぶんし))には大変ご苦労をかけました。先君(宣公(せんこう))のことをお忘れにならず、嗣君(しくん)(後嗣(あとつ)ぎ:成公(せいこう))にも忠誠を尽くし、その忠節はこの未亡人(穆姜(ぼくきょう))にまで及びました。先君(宣公(せんこう))もきっと、(草葉の陰で)今もなおあなたに期待をかけておられるでしょう。大夫(たいふ)(季文子(きぶんし))の重ね重ねのご苦労に、心からお礼申し上げます」

と礼を言うと、緑衣(りょくい)の卒章*4を賦(うた)って部屋に戻った。

脚注

*3『詩経(しきょう)』大雅(たいが)・韓奕(かんえき)の一首。第五章は「蹶父(けいほ)が娘の嫁(とつ)ぎ先をよく選んで韓侯(かんこう)に嫁(とつ)がせたが、実に楽しい所である」と歌った詩。

*4緑衣(りょくい)は『詩経(しきょう)』国風(こくふう)・邶風(はいふう)の中の一首。卒章は「我思古人,實獲我心(我れ古人を思う。実に我が心を獲たり)」。「亡くなった先君(宣公(せんこう))も、私と同じように『良い所に嫁(とつ)がせてくれた』と、さぞ喜んでいるでしょう」という思いを込めて歌ったもの。

叔孫僑如と穆姜の奸計

魯(ろ)の成公(せいこう)の11年(紀元前580年)夏、季文子(きぶんし)は(この年の春の)郤犨(げきしゅう)の聘問(へいもん)に対する返礼と、晋(しん)で行われる魯(ろ)と晋(しん)の盟(ちか)いに立ち会うため晋(しん)に赴(おもむ)いた。


魯(ろ)の成公(せいこう)の16年(紀元前575年)、この頃、宣伯(せんぱく)(叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))は成公(せいこう)の生母の穆姜(ぼくきょう)と密通し、穆姜(ぼくきょう)と共謀して季文子(きぶんし)(季孫行父(きそんこうほ))と孟献子(もうけんし)(仲孫蔑(ちゅうそんべつ))を除いてその家財を奪い取ろう考えていた。*5

6月、鄢陵(えんりょう)の戦いで晋(しん)が楚(そ)と鄭(てい)の連合軍を破ると、成公(せいこう)は晋(しん)軍を見舞うため壊隤(かいたい)から出発しようとしていた。いよいよ成公(せいこう)が都を出発しようとした時、穆姜(ぼくきょう)は成公(せいこう)を見送りながら、「季文子(きぶんし)と孟献子(もうけんし)の2人を追放するように」と請(こ)わせたが、「成公(せいこう)は晋(しん)軍に加勢する大事な時であるから」と言って断り、「帰ってから仰せを承りましょう」と言った。

すると穆姜(ぼくきょう)は立腹し、(成公(せいこう)の庶弟の)公子(こうし)偃(えん)と公子(こうし)鉏(そ)を指差して、「お前が聴き入れないのなら、あの2人はどちらでも君(国君)になれますよ」と言ったので、成公(せいこう)は公宮の警備を厳しくしてから出発した。この対応により、成公(せいこう)は晋(しん)・楚(そ)の戦期に遅れてしまったのである。

秋、宣伯(せんぱく)(叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))は郤犨(げきしゅう)に使者を遣(つか)わして財貨を贈(おく)り、「魯侯(ろこう)(成公(せいこう))が壊隤(かいたい)で待機していたのは、晋(しん)と楚(そ)のどちらが勝つかを見定めていたのです」と告げさせたので、晋侯(しんこう)は成公(せいこう)に面会しなかった。


7月、成公(せいこう)が、尹(いん)の武公(ぶこう)と諸侯(しょこう)と会合して鄭(てい)を伐(う)つため出発しようとした時、穆姜(ぼくきょう)はまた「季文子(きぶんし)と孟献子(もうけんし)の2人を追放するように」と命じたが、成公(せいこう)はまた公宮の警備を厳しくさせて出発した。

宣伯(せんぱく)(叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))は(晋(しん)の)郤犨(げきしゅう)に使者を遣(つか)わして次のように言わせた。


「魯(ろ)に季(き)・孟(もう)の2氏があるのは、晋(しん)に欒(らん)・范(はん)の2氏があるようなもので、政令はこの2氏によって決まります。今、その(季(き)・孟(もう)の2氏が)謀(はか)って言うには『晋(しん)の政治は権力者が多くて誰に従えばよいか分からない。いっそのこと斉(せい)や楚(そ)について滅んだほうがましである。晋(しん)には従いたくはない』とのこと。

もし(晋(しん)が)魯(ろ)を得たいとお望みなら、どうか行父(こうほ)(季文子(きぶんし))を捕らえて殺してください。我(わたし)は蔑(べつ)(孟献子(もうけんし))を斃(ころ)して晋(しん)にお仕えし、決して二心を抱(いだ)きません。魯(ろ)が二心を抱(いだ)かなければ、小国の諸侯(しょこう)も必ずや(晋(しん)に)睦(むつ)み、行父(こうほ)(季文子(きぶんし))を殺さなければ、帰国したらきっと叛(そむ)くでしょう」


9月、晋(しん)は苕丘(しょうきゅう)で季文子(きぶんし)を捕らえた。成公(せいこう)は鄭(てい)討伐から帰還すると、鄆(うん)で季文子(きぶんし)の帰りを待っていたが、(季文子(きぶんし)が捕らえられたのを聞いて)子叔声伯(ししゅくせいはく)を晋(しん)に遣(つか)わして季孫(きそん)(季文子(きぶんし))の身柄を引き渡すように請(こ)わせた。

郤犨(げきしゅう)が、

「もし仲孫蔑(ちゅうそんべつ)(孟献子(もうけんし))を去らせ、季孫行父(きそんこうほ)(季文子(きぶんし))を捕らえたならば、吾(わたし)は貴国を(晋(しん)の)公室以上に親しみましょう」

と言うと、声伯(せいはく)は答えて言った。


「僑如(きょうじょ)(宣伯(せんぱく))の(不埒(ふらち)な)事情はきっと子(あなた)もお聞き及びのことでしょう。もし蔑(べつ)(孟献子(もうけんし))と行父(こうほ)(季文子(きぶんし))を去らせたら、それは大いに魯国(ろこく)を滅ぼすことになり、それは寡君(かくん)(我が君)の罪となります。

もし我が国をお見捨てにならず、周公(しゅうこう)の恩恵に預かりその福を授(さずか)かれるよう、寡君(かくん)(我が君)が晋君(しんくん)(厲公(れいこう))にお仕えできるようお取り計らいくださるなら、この上もない幸せです。

あの2人(季文子(きぶんし)・孟献子(もうけんし))は魯国(ろこく)の社稷(しゃしょく)の臣下(国家の安危を託(たく)する重臣)です。もし朝に2人を滅ぼしたら、その日の夕方にはきっと魯国(ろこく)は滅びます。魯国(ろこく)は(晋(しん)の)仇敵(である斉(せい)・楚(そ))と近接しておりますから、もし滅びて(晋(しん)に)讎(あだ)なす敵国となってしまいましたなら、(その時になって)我が国を治めようとしたところで、どうにもできないでしょう」


郤犨(げきしゅう)は、

「吾(わたし)は子(あなた)のために邑(ゆう)(領地)の加増を請(こ)うてやろう」

と声伯(せいはく)を買収しようとしたが、声伯(せいはく)は、

「嬰斉(わたし)は魯(ろ)の常隸(じょうれい)(地位の低い官吏)です。貴国のような大国のお力添えを受けて厚禄を求めるようなことはできません。寡君(かくん)(我が君)の命を奉じて(季文子(きぶんし)と孟献子(もうけんし)を救っていただけるよう)請(こ)うているのです。もしお願いをお聞き届けいただけるなら、子(あなた)からの賜(たまわ)りものはそれで十分でございます。他に望むものはありません」

と答えた。

すると(晋(しん)の)范文子(はんぶんし)(士燮(ししょう))が欒武子(らんぶんし)(欒書(らんしょ))に向かって言った。


「季孫(きそん)(季文子(きぶんし))は魯(ろ)において2君(宣公(せんこう)と成公(せいこう))にわたって宰相(さいしょう)を務めておりますが、妾(しょう)には帛(きぬ)の衣(ころも)を着せず、馬には粟(あわ)を食べさせないという倹約ぶり。誠(まこと)に忠義の人と言わざるを得ません。讒言(ざんげん)を信じて悪人を重用し、忠臣を棄(す)てるようでは、諸侯(しょこう)からどのような非難が飛び出すか分かりません。

子叔嬰斉(ししゅくえいせい)(子叔声伯(ししゅくせいはく))は君命を奉じて私心なく、国家の利益を第一に考えて二心(ふたごころ)を抱(いだ)かず、分別をわきまえ国君のことを忘れることはありません。もし彼の願いを聞き届けなかったら、善人を見捨てることになります。うまく取り計らってください」


こうして魯(ろ)との友好を許し、季孫(きそん)(季文子(きぶんし))は釈放された。


冬10月、魯(ろ)は叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ)を追放した。大夫(たいふ)たちは「今後このような事を起こさないように」と盟(ちか)い合い、僑如(きょうじょ)は斉(せい)に出奔(しゅっぽん)した。


12月、季文子(きぶんし)は郤犨(げきしゅう)と扈(こ)で和平の盟(ちか)いを結び、帰国すると[宣伯(せんぱく)(叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))の一味であった]公子(こうし)偃(えん)を刺(ころ)し、斉(せい)から宣伯(せんぱく)(叔孫僑如(しゅくそんきょうじょ))の弟の叔孫豹(しゅくそんほう)を呼び寄せて叔孫氏(しゅくそんし)の家を継がせた。

脚注

*5魯(ろ)の第15代国君・桓公(かんこう)の子孫である孟孫氏(もうそんし)(仲孫氏(ちゅうそんし))・叔孫氏(しゅくそんし)・季孫氏(きそんし)は三桓氏(さんかんし)と呼ばれ、代々魯国(ろこく)の実権を握っていた。季孫氏(きそんし)はその主席であった。

晋に援軍を送る

魯(ろ)の成公(せいこう)の18年(紀元前573年)11月、楚(そ)の子重(しちょう)が彭城(ほうじょう)を救って宋(そう)を伐(う)った。宋(そう)の華元(かげん)が晋(しん)に危急を告げると、当時、(晋(しん)の)国政を担(にな)っていた韓献子(かんけんし)(韓厥(かんけつ))は、

「人を得ようと欲(ほっ)するなら、まずその人のために骨を折ってやるべきであり、覇業を成就(じょうじゅ)し国家を安らかにするためには、まず宋(そう)を救うことから始めるべきであります」

と晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))に進言し、晋侯(しんこう)(悼公(とうこう))は台谷(たいこく)に軍を進めて宋(そう)を救った。晋(しん)の士魴(しほう)が(魯(ろ)に)来て援軍を請(こ)うと、季文子(きぶんし)は「どれだけの兵を派遣するべきか」を臧武仲(ぞうぶちゅう)に尋ねた。すると武仲(ぶちゅう)は、

「(昨年、)鄭(てい)を伐(う)った戦いの時には、(晋(しん)の)知伯(ちはく)(荀罃(じゅんおう))が使者としてやって来ましたが、当時彼は下軍の佐(さ)(副将)でした。そして今回の彘季(ていき)(士魴(しほう)も)もまた下軍の佐(さ)(副将)ですので、鄭(てい)を伐(う)った時と同じようにすれば良いと存じます。大国に仕えるには、使者の爵位(官位)に相応(ふさわ)しい扱いをして、手厚くもてなすのが礼儀です」

と言ったので、季文子(きぶんし)は彼の意見に従った。

季文子に対する批判

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の2年(紀元前571年)夏、襄公(じょうこう)の母・斉姜(せいきょう)が亡くなった。

以前、成公(せいこう)の母・穆姜(ぼくきょう)は美しい檟(ひさぎ)の木を使って自分の櫬(ひつぎ)(一番内側の棺(ひつぎ))と(埋葬の品に用(もち)いる)頌琴(しょうきん)を作らせていたが、(穆姜(ぼくきょう)に恨(うら)みを抱(いだ)いていた)季文子(きぶんし)は、これらを斉姜(せいきょう)の葬儀に用(もち)いたが、このことは「礼に背(そむ)く行為である」と、君子(人格者)によって非難された。


魯(ろ)の襄公(じょうこう)の4年(紀元前569年)秋、(成公(せいこう)の夫人(ふじん)・)定姒(ていじ)が亡くなった。(季文子(きぶんし)は定姒(ていじ)の身分が賎(いや)しく正夫人(せいふじん)でなかったことから、)廟(びょう)で殯(もがり)を行わず、櫬(ひつぎ)(一番内側の棺(ひつぎ))も用(もち)いず虞(ぐ)(埋葬の後に魂を安(やす)んずる祭り)を行わないこととした。

すると大匠(たいしょう)(大工の長)の匠慶(しょうけい)は季文子(きぶんし)に向かって言った。

「子(あなた)は正卿(せいきょう)の地位にありながら、小君(定姒(ていじ))の喪(も)を立派に行わないのならば、それは君(国君)に仕える道を果たさないということになります。君(襄公(じょうこう))が成長なされたら、一体誰がその咎(とが)を受けるのでしょか?(あなたが受けるに決まっている)」

以前、季文子(きぶんし)は自分のために蒲圃(ほほ)の東門の外に6本の檟(ひさぎ)の木を植えていたので、匠慶(しょうけい)が「あの木を棺材に使わせて欲しい」と請(こ)うと、季文子(きぶんし)は「簡略にせよ(その必要はない)」と言った。匠慶(しょうけい)は季文子(きぶんし)の言葉を無視して蒲圃(ほほ)の檟(ひさぎ)の木を用(もち)いて棺(ひつぎ)を作ったが、季文子(きぶんし)はそれを止めることはできなかった。

君子(人格者)は「古書に『人に対して多くの無礼を行うと、必ず自(みずか)らも人から無礼なことをされる』とあるが、このことを言うのだろう」と言った。

季文子の死

魯(ろ)の襄公(じょうこう)の5年(紀元前568年)12月、季文子(きぶんし)が亡くなった。

大夫(たいふ)たちが季文子(きぶんし)の家に行って入斂(にゅうれん)(納棺)し、襄公(じょうこう)も座席に着いた。季文子(きぶんし)の家老が家の器物を出して葬式の準備をしたが、妾(しょう)に帛(きぬ)の衣(ころも)を着た者はおらず、馬には粟(あわ)を食べさせず、金玉の貯えもなく、同じ道具で重複する物はなかった。

君子(人格者)は季文子(きぶんし)の公室に対する忠義を知り、「彼は3代の国君に宰相(さいしょう)(卿(けい))として仕えながら、私財を貯えることはなかった。これこそが『忠』であると言わざるを得ない」と言った。


「季文子(きぶんし)」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引

総索引

関連記事