正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧②季孫氏②[季文子(季孫行父)]です。
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き②
季文子(季孫行父)
季文子(季孫行父)
生年不詳〜魯の襄公の5年(紀元前568年)没。名は行父。父は斉仲無佚(無佚)。祖父は魯の桓公の弟・季成子(季友)。魯の正卿(宰相)。
三桓の首席で、文公の初めに卿となり、宣公・成公・襄公時代の宰相として国政を執った。
文公の使者となる
魯の文公の6年(紀元前621年)夏、季孫行父は魯の文公の使者として陳に赴いて陳の共公と会見し、そこで陳の女性を妻に娶った。
秋、季孫行父は晋に赴いて晋の襄公と会見した。
魯の文公の12年(紀元前615年)冬12月、晋と秦が河曲において戦い、季孫行父は軍を率いて諸と鄆に城壁を築いた。
魯の文公の15年(紀元前612年)春、季孫行父は晋に赴き、斉に捕らえられている単伯と叔姫について晋に助力を求めた。
秋、斉が魯の西方の辺邑に侵攻したため、季孫行父はこれを晋に告げた。
冬11月、晋侯・宋公・衛侯・蔡侯・鄭伯・許男・曹伯らが扈に会盟し、前年に結んだ「新城の盟」を再確認して斉を伐つことを謀ったが、斉が晋侯に財貨を贈ったため斉の討伐は取り止めとなり、季孫行父は魯に帰った。この時、魯は斉の侵攻を受けていたため、文公はこの会盟に参加しなかったのである。
魯の文公の16年(紀元前611年)正月、魯は斉と和平を結んだ。
この時、文公は病気だったので、文公は季文子(季孫行父)を派遣して斉侯と陽穀で会合させ、盟約を結ぶことを請うたが、斉侯は承知せず、「文公が全快されるのを待ちましょう(原文:請俟君間)」と言(い、その場では盟約を結ばなか)った。
逃亡してきた莒の僕を追い出す
魯の文公の18年(紀元前609年)2月丁丑(24日)、文公が亡くなった。
冬10月、文公の第2夫人・敬嬴と私通していた襄仲が太子悪とその同母弟の視を殺害し、敬嬴の子・宣公を立てた。
その後、莒の太子僕が莒の紀公を殺害して魯に逃亡し、(莒の)宝玉を宣公に献上した。すると宣公は「今日中に必ず領地を与えなさい」と命じたが、季文子は司寇を通じて「今日中に必ず国外に追い出せ」と命じた。
宣公がその訳を尋ねると、季文子は太史の克に次のように答えさせた。
「先の大夫・臧文仲は行父に『事君の礼(君主に仕える礼)』を教えてくださり、行父はその教えを守って決して背くようなことはいたしませんでした。その教えには、
『君主に礼を尽くす者を見たら、孝子が父母を養う如くこれに仕えよ。君主に礼を尽くさぬ者を見たら、鳥雀を逐う鷹鸇(鷹科の鳥)の如くこれを誅せよ』
とあります。
先君・周公は周礼を定められて、
『則[人の守るべき規範(礼)]を守っているかどうかでその者の徳を見定めよ。徳をもって事を処理させ、功績ある者には(領地を与えて)その領民に養われるようにせよ』
と言われ、また誓命(戒め)に、
『則[人の守るべき規範(礼)]を毀なう者を”賊”と言い、賊を匿う者を”蔵”と言い、財貨を窃む者を”盗”と言い、器(国の財宝)を盗む者を”姦”と言い、自ら”蔵”の罪名を犯し、”姦”の盗んだ財宝を貪ることを大凶徳と言う。以上の者に対しては定まった刑罰があって赦すことはない』
と言われております。これらの刑罰は『九刑』にあって誰もが知るものであります。
行父が莒の僕を観ますに、何一つ人の守るべき規範(礼)に従っておりません。孝敬忠信を吉徳(美徳)と言い、盗賊蔵姦を凶徳(悪徳)と言います。莒の僕という人物は、孝敬においては君主であり父である人を殺害し、忠信においては国の宝玉を盗みました。彼は”盗””賊”の罪を犯し、その器(国の財宝)は”姦”なる者が盗んだ盗品です。そのような者を保護して財宝を貪ることは、”蔵”の罪を犯すことになります。
そのようなことをして民を教訓すれば混乱に陥り、民が手本として仰ぐべきものがなくなり、善を行わず、みな凶徳(悪徳)を行うようになるでしょう。ゆえに莒の僕を国外に追い出したのです。(以下略)」
宣公の使者となる
魯の宣公の元年(紀元前608年)夏、季文子は斉に赴いて贈物を納め、斉侯に(国君の位を簒奪したため諸侯に評判の悪い)宣公と会合することをお願いした。その結果、宣公は斉侯と平州で会合し、宣公の位を安定させた。
魯の宣公の10年(紀元前599年)夏、斉の恵公が亡くなった。秋、斉の頃公が即位したので、季文子は初めて贈物を携えて斉を訪問した。
襄仲の子・公孫帰父を追放する
魯の公孫帰父は、父の襄仲が宣公を擁立したことから宣公の寵愛を受けていた。そこで公孫帰父は、宣公と共に謀って晋に赴き、晋の力を借りて三桓を除き、公室の権勢を強めようとした。
魯の宣公の18年(紀元前591年)冬10月壬戌(28日)に宣公が亡くなると、三桓の1人である季文子は、朝廷において「我が魯国の太子(悪)を殺害して庶子(宣公)を立て、大国(斉)の援助を失わせたのは、襄仲の仕業である。(その子の公孫帰父を許してはおけない)」と言った。
これを聞いた臧宣叔は怒って、「当時、襄仲の罪を裁くことができなかったのに、今になってその子に何の罪があろうか。どうしても公孫帰父を追放するというのなら、私に任せてもらおう」と言って東門氏(公孫帰父の一族)を追放した。
鞍で斉を破る
魯の成公の2年(紀元前589年)春、斉が魯の北鄙(北の僻地)を攻めた。
6月、季文子・臧孫許・叔孫僑如・公孫嬰斉が軍を率いて晋の郤克・衛の孫良夫・曹の公子首と合流し、斉と鞍で戦ってこれを破った。
晋への不信
魯の成公の4年(紀元前587年)夏、成公は晋に出掛けて晋侯と会見したが、 この時、晋侯は成公に無礼な態度をとった。
これに季文子は、
「晋侯はきっと無事な死に方はできないでしょう。『詩』に『敬われよ、敬われよ。天は大いに顕らかにして善に与し悪を退ける。天命は保ち難し。(原文:敬之敬之,天惟顯思,命不易哉)』とあります。そもそも晋侯の天命は、諸侯を心服させることにある。諸侯を大事にしないで良いでしょうか」
と言った。
秋、成公は晋から都に帰り、楚と友好を結んで晋に叛こうとした。
すると季文子は、
「いけません。晋は無道といえども、まだ叛いてはなりません。晋の国は大きく臣下は睦まじく和合し、我が魯と近く、諸侯はその命令に服従しております。まだ叛いてはなりません。(周の文王の太史・)史佚の志(記録)に『自分の一族でなければ、その心は必ず異なる』とあります。楚は大国といえども、吾が一族ではありません。どうして我々を慈しむことがありましょうか」
と諌めたので、成公は思いとどまった。
武宮を建てる
魯の成公の6年(紀元前585年)2月17日、季文子は鞍の武功を後世に示し伝えるために武宮を建てた。*1
冬、季文子は晋に赴いて、晋が都を移したお祝いを述べた。
脚注
*1鞍の武功とは、魯の成公の2年(紀元前589年)6月に、晋・衛・曹と共に鞍で斉を破った戦いのこと。これは自身の力ではなく他国の力を借りて国難を救ったもので、これを武功とすることは礼に適っていない。
汶陽の田地を斉に返還する
魯の成公の8年(紀元前583年)春、晋侯が韓穿を魯に派遣して汶陽の田地を斉に返すように言った。
季文子は送別の会を設け、その席でこっそりと韓穿に言った。
「貴国(晋)は正しい道を行って諸侯の盟主となっておられます。ゆえに諸侯は(晋の)徳に懐き討伐を畏れて二心を抱くことはないのです。
汶陽の田地は元々敝邑(魯)の領地でしたが、一時、斉に取られたので、貴国(晋)には斉に軍を差し向けて、再び敝邑(魯)に返還していただきました。それを今、ご命令が変わって斉に返せと仰せられております。
信があってこそ義が行われ、義が行われてこそ正しい命令が出されるものす。小国が(大国を)仰ぎ望んで懐き従うのは、それが行われることをを信じているからです。もし信が守られず義が行われないとしたら、天下の諸侯の中で離反しない者は誰1人いないでしょう。
(中略)
行父は貴国が遠い先のことをお考えにならず、諸侯を失う結果になることを懼れます。ゆえに敢えて内々に申し上げさせていただきました」
その結果、結局 晋は汶陽の田地を斉に与えた。
諸侯と会盟する
魯の成公の9年(紀元前582年)春、前年に晋が魯に命じて汶陽の田地を斉に返還させたことで、諸侯は晋の信義を疑った。これを懼れた晋は、魯公・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・杞伯ら諸侯と衛の蒲で会合して、2年前に結んだ「馬陵の盟約」を忘れないようにした。
この時、季文子が晋の范文子(士燮)に「徳を施すことに努めないで、盟いを温めたところで何になりましょう?」と言うと、范文子は「努力して諸侯を手懐け、寛大に扱い忍耐強く捌いて明神*2を要とし、帰服する者を安んじ謀反者を伐つというのは、徳をもって治めることに次ぐ手法ではありませんか」と答えた。
この会合は、初めて呉を会合の仲間に加えようとしたものであったが、呉は参加しなかった。
脚注
*2盟誓を結ぶ際、その確かさを保証し、背く者には罰を下すとされる神。
伯姫を宋に送る
2月、魯の伯姫が宋に嫁いだ。
夏、伯姫を宋に送り届けた季文子が帰って報告すると、成公は宴を開いてその労をねぎらったが、この時、季文子は「良い所に嫁いでご安心です」という意味を込めて、韓奕の五章*3を賦った。すると(成公と伯姫の生母・)穆姜も部屋から出てきて再拝し、
「大夫(季文子)には大変ご苦労をかけました。先君(宣公)のことをお忘れにならず、嗣君(後嗣ぎ:成公)にも忠誠を尽くし、その忠節はこの未亡人(穆姜)にまで及びました。先君(宣公)もきっと、(草葉の陰で)今もなおあなたに期待をかけておられるでしょう。大夫(季文子)の重ね重ねのご苦労に、心からお礼申し上げます」
と礼を言うと、緑衣の卒章*4を賦って部屋に戻った。
脚注
*3『詩経』大雅・韓奕の一首。第五章は「蹶父が娘の嫁ぎ先をよく選んで韓侯に嫁がせたが、実に楽しい所である」と歌った詩。
*4緑衣は『詩経』国風・邶風の中の一首。卒章は「我思古人,實獲我心(我れ古人を思う。実に我が心を獲たり)」。「亡くなった先君(宣公)も、私と同じように『良い所に嫁がせてくれた』と、さぞ喜んでいるでしょう」という思いを込めて歌ったもの。
叔孫僑如と穆姜の奸計
魯の成公の11年(紀元前580年)夏、季文子は(この年の春の)郤犨の聘問に対する返礼と、晋で行われる魯と晋の盟いに立ち会うため晋に赴いた。
魯の成公の16年(紀元前575年)、この頃、宣伯(叔孫僑如)は成公の生母の穆姜と密通し、穆姜と共謀して季文子(季孫行父)と孟献子(仲孫蔑)を除いてその家財を奪い取ろう考えていた。*5
6月、鄢陵の戦いで晋が楚と鄭の連合軍を破ると、成公は晋軍を見舞うため壊隤から出発しようとしていた。いよいよ成公が都を出発しようとした時、穆姜は成公を見送りながら、「季文子と孟献子の2人を追放するように」と請わせたが、「成公は晋軍に加勢する大事な時であるから」と言って断り、「帰ってから仰せを承りましょう」と言った。
すると穆姜は立腹し、(成公の庶弟の)公子偃と公子鉏を指差して、「お前が聴き入れないのなら、あの2人はどちらでも君(国君)になれますよ」と言ったので、成公は公宮の警備を厳しくしてから出発した。この対応により、成公は晋・楚の戦期に遅れてしまったのである。
秋、宣伯(叔孫僑如)は郤犨に使者を遣わして財貨を贈り、「魯侯(成公)が壊隤で待機していたのは、晋と楚のどちらが勝つかを見定めていたのです」と告げさせたので、晋侯は成公に面会しなかった。
7月、成公が、尹の武公と諸侯と会合して鄭を伐つため出発しようとした時、穆姜はまた「季文子と孟献子の2人を追放するように」と命じたが、成公はまた公宮の警備を厳しくさせて出発した。
宣伯(叔孫僑如)は(晋の)郤犨に使者を遣わして次のように言わせた。
「魯に季・孟の2氏があるのは、晋に欒・范の2氏があるようなもので、政令はこの2氏によって決まります。今、その(季・孟の2氏が)謀って言うには『晋の政治は権力者が多くて誰に従えばよいか分からない。いっそのこと斉や楚について滅んだほうがましである。晋には従いたくはない』とのこと。
もし(晋が)魯を得たいとお望みなら、どうか行父(季文子)を捕らえて殺してください。我は蔑(孟献子)を斃して晋にお仕えし、決して二心を抱きません。魯が二心を抱かなければ、小国の諸侯も必ずや(晋に)睦み、行父(季文子)を殺さなければ、帰国したらきっと叛くでしょう」
9月、晋は苕丘で季文子を捕らえた。成公は鄭討伐から帰還すると、鄆で季文子の帰りを待っていたが、(季文子が捕らえられたのを聞いて)子叔声伯を晋に遣わして季孫(季文子)の身柄を引き渡すように請わせた。
郤犨が、
「もし仲孫蔑(孟献子)を去らせ、季孫行父(季文子)を捕らえたならば、吾は貴国を(晋の)公室以上に親しみましょう」
と言うと、声伯は答えて言った。
「僑如(宣伯)の(不埒な)事情はきっと子もお聞き及びのことでしょう。もし蔑(孟献子)と行父(季文子)を去らせたら、それは大いに魯国を滅ぼすことになり、それは寡君(我が君)の罪となります。
もし我が国をお見捨てにならず、周公の恩恵に預かりその福を授かれるよう、寡君(我が君)が晋君(厲公)にお仕えできるようお取り計らいくださるなら、この上もない幸せです。
あの2人(季文子・孟献子)は魯国の社稷の臣下(国家の安危を託する重臣)です。もし朝に2人を滅ぼしたら、その日の夕方にはきっと魯国は滅びます。魯国は(晋の)仇敵(である斉・楚)と近接しておりますから、もし滅びて(晋に)讎なす敵国となってしまいましたなら、(その時になって)我が国を治めようとしたところで、どうにもできないでしょう」
郤犨は、
「吾は子のために邑(領地)の加増を請うてやろう」
と声伯を買収しようとしたが、声伯は、
「嬰斉は魯の常隸(地位の低い官吏)です。貴国のような大国のお力添えを受けて厚禄を求めるようなことはできません。寡君(我が君)の命を奉じて(季文子と孟献子を救っていただけるよう)請うているのです。もしお願いをお聞き届けいただけるなら、子からの賜りものはそれで十分でございます。他に望むものはありません」
と答えた。
すると(晋の)范文子(士燮)が欒武子(欒書)に向かって言った。
「季孫(季文子)は魯において2君(宣公と成公)にわたって宰相を務めておりますが、妾には帛の衣を着せず、馬には粟を食べさせないという倹約ぶり。誠に忠義の人と言わざるを得ません。讒言を信じて悪人を重用し、忠臣を棄てるようでは、諸侯からどのような非難が飛び出すか分かりません。
子叔嬰斉(子叔声伯)は君命を奉じて私心なく、国家の利益を第一に考えて二心を抱かず、分別をわきまえ国君のことを忘れることはありません。もし彼の願いを聞き届けなかったら、善人を見捨てることになります。うまく取り計らってください」
こうして魯との友好を許し、季孫(季文子)は釈放された。
冬10月、魯は叔孫僑如を追放した。大夫たちは「今後このような事を起こさないように」と盟い合い、僑如は斉に出奔した。
12月、季文子は郤犨と扈で和平の盟いを結び、帰国すると[宣伯(叔孫僑如)の一味であった]公子偃を刺し、斉から宣伯(叔孫僑如)の弟の叔孫豹を呼び寄せて叔孫氏の家を継がせた。
脚注
*5魯の第15代国君・桓公の子孫である孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏は三桓氏と呼ばれ、代々魯国の実権を握っていた。季孫氏はその主席であった。
晋に援軍を送る
魯の成公の18年(紀元前573年)11月、楚の子重が彭城を救って宋を伐った。宋の華元が晋に危急を告げると、当時、(晋の)国政を担っていた韓献子(韓厥)は、
「人を得ようと欲するなら、まずその人のために骨を折ってやるべきであり、覇業を成就し国家を安らかにするためには、まず宋を救うことから始めるべきであります」
と晋侯(悼公)に進言し、晋侯(悼公)は台谷に軍を進めて宋を救った。晋の士魴が(魯に)来て援軍を請うと、季文子は「どれだけの兵を派遣するべきか」を臧武仲に尋ねた。すると武仲は、
「(昨年、)鄭を伐った戦いの時には、(晋の)知伯(荀罃)が使者としてやって来ましたが、当時彼は下軍の佐(副将)でした。そして今回の彘季(士魴も)もまた下軍の佐(副将)ですので、鄭を伐った時と同じようにすれば良いと存じます。大国に仕えるには、使者の爵位(官位)に相応しい扱いをして、手厚くもてなすのが礼儀です」
と言ったので、季文子は彼の意見に従った。
季文子に対する批判
魯の襄公の2年(紀元前571年)夏、襄公の母・斉姜が亡くなった。
以前、成公の母・穆姜は美しい檟の木を使って自分の櫬(一番内側の棺)と(埋葬の品に用いる)頌琴を作らせていたが、(穆姜に恨みを抱いていた)季文子は、これらを斉姜の葬儀に用いたが、このことは「礼に背く行為である」と、君子(人格者)によって非難された。
魯の襄公の4年(紀元前569年)秋、(成公の夫人・)定姒が亡くなった。(季文子は定姒の身分が賎しく正夫人でなかったことから、)廟で殯を行わず、櫬(一番内側の棺)も用いず虞(埋葬の後に魂を安んずる祭り)を行わないこととした。
すると大匠(大工の長)の匠慶は季文子に向かって言った。
「子は正卿の地位にありながら、小君(定姒)の喪を立派に行わないのならば、それは君(国君)に仕える道を果たさないということになります。君(襄公)が成長なされたら、一体誰がその咎を受けるのでしょか?(あなたが受けるに決まっている)」
以前、季文子は自分のために蒲圃の東門の外に6本の檟の木を植えていたので、匠慶が「あの木を棺材に使わせて欲しい」と請うと、季文子は「簡略にせよ(その必要はない)」と言った。匠慶は季文子の言葉を無視して蒲圃の檟の木を用いて棺を作ったが、季文子はそれを止めることはできなかった。
君子(人格者)は「古書に『人に対して多くの無礼を行うと、必ず自らも人から無礼なことをされる』とあるが、このことを言うのだろう」と言った。
季文子の死
魯の襄公の5年(紀元前568年)12月、季文子が亡くなった。
大夫たちが季文子の家に行って入斂(納棺)し、襄公も座席に着いた。季文子の家老が家の器物を出して葬式の準備をしたが、妾に帛の衣を着た者はおらず、馬には粟を食べさせず、金玉の貯えもなく、同じ道具で重複する物はなかった。
君子(人格者)は季文子の公室に対する忠義を知り、「彼は3代の国君に宰相(卿)として仕えながら、私財を貯えることはなかった。これこそが『忠』であると言わざるを得ない」と言った。
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