正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧①季孫氏(きそんし)①[季成子(きせいし)(季友(きゆう))]です。

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後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

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き③

季成子(季友)

季成子(きせいし)(季友(きゆう))

生年不詳〜魯(ろ)の僖公(きこう)の16年(紀元前644年)没。父は魯(ろ)の桓公(かんこう)。母は文姜(ぶんきょう)。兄に魯(ろ)の荘公(そうこう)、孟慶父(もうけいほ)、叔牙(しゅくが)。魯(ろ)の荘公(そうこう)は同母兄。公子(こうし)友(ゆう)、季友(きゆう)、成季友(せいきゆう)、成季(せいき)、季子(きし)とも言う。後(のち)に魯(ろ)の最強の卿族となる季孫氏(きそんし)の祖。

出生の逸話

成季(せいき)(季友(きゆう))がまさに生まれようとする時、(父の)桓公(かんこう)は(掌卜大夫(しょうぼくたいふ)の)楚丘(そきゅう)(卜楚丘(ぼくそきゅう))の父に卜(うらな)わせたところ、

「(生まれる子は)男です。その名を友(ゆう)と言い、公(こう)の右・両社の間に在(あ)って公室(こうしつ)を輔(たす)けるでしょう。季氏(きし)(季友(きゆう)の一族)が滅びると、魯(ろ)は栄えなくなるでしょう*1」

と言った。

またさらに筮(うらな)わせたところ、「『大有(たいゆう)の卦(け)』が『乾(けん)の卦(け)』に変化する」結果が出た。(筮(うらな)った者は)この結果について、

「前回と同様に父の位に復しました。君(国君)のように敬(うやま)われるでしょう」

と言った。


成季(せいき)(季友(きゆう))が生まれてみると、その手に「友」の文字が表れていたことから、友(ゆう)と命名された。

脚注

*1原文:在公之右,間于兩社,為公室輔。「公(こう)の右にいる」とは国君の側(そば)にいて政治を執(と)る宰相(さいしょう)となること。両社[周(しゅう)社(魯国(ろこく)の社)と毫社(はくしゃ)(亡国の社・殷(いん)の社)]の間に執政の役所があることを言う。

陳との親交

魯(ろ)の荘公(そうこう)の25年(紀元前669年)冬、公子(こうし)友(ゆう)が陳(ちん)を訪問し(て友好を深め)た。

魯(ろ)の荘公(そうこう)の27年(紀元前667年)秋、公子(こうし)友(ゆう)が陳(ちん)に出掛けて原仲(げんちゅう)の葬儀に参列した。これは旧友・原仲(げんちゅう)のために勝手に会葬したものであり、君令ではないため礼に背(そむ)いた行為である。

陳に亡命する

魯(ろ)の荘公(そうこう)の32年(紀元前662年)7月、荘公(そうこう)は病気が重くなったことから、跡継(あとつ)ぎについて叔牙(しゅくが)に尋(たず)ねたところ、叔牙(しゅくが)は「慶父(けいほ)(荘公(そうこう)の異母弟)には才能があります。(慶父(けいほ)を立てるのがよろしいでしょう)」と答えた。

荘公(そうこう)はまた同母弟の季友(きゆう)にも同じように尋(たず)ね、季友(きゆう)が「臣(わたくし)は死を賭(と)して(荘公(そうこう)の子・)般(はん)(斑(はん))を守り立てましょう」と答えると、荘公(そうこう)は「先ほど叔牙(しゅくが)は『慶父(けいほ)には才能がある』と言っておった」と言った。

そこで成季(せいき)(季友(きゆう))は君命をもって僖叔(きしゅく)(叔牙(しゅくが))に命じ、(大夫(たいふ)の)鍼巫氏(けんふし)の邸宅で(次の)君命を待たせると、鍼季(けんき)(鍼巫氏(けんふし))を遣(つか)わして酖(ちん)(酖毒(ちんどく))を勧めさせ、

「これをお飲みになれば魯(ろ)に(あなたの)跡継(あとつ)ぎが立ち、お飲みにならなければ、死を賜(たまわ)って跡継(あとつ)ぎも絶えることになりましょう」

と言わせた。観念した僖叔(きしゅく)はそれを飲み干し、帰る途上の逵泉(きせん)に至ったところで死んだが、その後、(約束通り、僖叔(きしゅく)の跡継(あとつ)ぎとして)叔孫氏(しゅくそんし)が立った。

8月癸亥(きがい)(5日)、荘公(そうこう)が正寝(正殿)で亡くなると、成季(せいき)(季友(きゆう))は遺命に従って子般(しはん)(子斑(しはん))を立て、子般(しはん)は母の実家の党氏(とうし)で喪(も)に服した。

冬10月己未(きび)(2日)、共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))が圉人(ぎょじん)(馬飼い)の犖(らく)に命じて党氏(とうし)の邸宅にいる子般(しはん)を殺害させたため、成季(せいき)(季友(きゆう))は陳(ちん)に逃亡し、魯(ろ)の閔公(びんこう)(湣公(びんこう))が立った。

季友の帰還

魯(ろ)の閔公(びんこう)の元年(紀元前661年)秋8月、閔公(びんこう)は斉侯(せいこう)と(斉(せい)の)落姑(らくこ)で会盟し、「(陳(ちん)に亡命している)季友(きゆう)を魯(ろ)に戻すこと」を願い出た。

斉侯(せいこう)はこれを許し、使者を派遣して季友(きゆう)を陳(ちん)から呼び寄せたが、その間、閔公(びんこう)は(魯(ろ)の)郎(ろう)に滞在して季友(きゆう)の帰りを待ち、季子(きし)(季友(きゆう))が帰って来るとこれを喜んだ。

僖公を擁立する

魯(ろ)の閔公(びんこう)の2年(紀元前660年)8月、共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))が(大夫(たいふ)の)卜齮(ぼくき)に閔公(びんこう)を殺害させると、成季(せいき)(季友(きゆう))は(閔公(びんこう)の庶兄にあたる)僖公(きこう)(釐公(きこう))を連れて邾(ちゅう)に向かったが、共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))が莒(きょ)に逃亡したため、帰国して僖公(きこう)を立てた。

成季(せいき)(季友(きゆう))は財貨をもって莒(きょ)に共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))を引き渡すように求め、莒(きょ)は共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))を魯(ろ)に帰した。その一行が密(みつ)まで来た時、[共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))は]公子(こうし)魚(ぎょ)に命乞(いのちご)いをさせたが、[成季(せいき)(季友(きゆう))は]許さなかったので、[公子(こうし)魚(ぎょ)は]泣き声を上げながら[共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))の元に]戻った。

(遠くから)その泣き声を聞いた共仲(きょうちゅう)(慶父(けいほ))は「あれは奚斯(けいし)(公子(こうし)魚(ぎょ))の声だ…」と言って首をくくって死んだ。[そして成季(せいき)(季友(きゆう))は僖公(きこう)の宰相(さいしょう)となった。*2]

脚注

*2『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』閔公(ひんこう)2年のこの場所に、「出生の逸話(いつわ)」の項目に記載した「成季(せいき)(季友(きゆう))が宰相(さいしょう)となることを予言する」内容が記(しる)されている。

莒子(莒君) の弟・挐を捕える

魯(ろ)の僖公(きこう)の元年(紀元前659年)冬10月、莒(きょ)が魯(ろ)にを攻めて来て、(慶父(けいほ)を引き渡した際の)財貨を求めたが、公子(こうし)友(ゆう)(季友(きゆう))はこれを(魯(ろ)の)酈(り)で打ち破り、莒子(きょし)(莒君(きょくん)) の弟・挐(じょ)を捕えた。

僖公(きこう)は公子(こうし)友(ゆう)(季友(きゆう))の功績を賞して汶陽(ぶんよう)の田地と費(ひ)を下賜(かし)した。

斉との外交

魯(ろ)の僖公(きこう)の3年(紀元前657年)秋、諸侯(しょこう)が(斉(せい)の)陽穀(ようこく)で会合し、楚(そ)を伐(う)つことを謀(はか)ったが、魯(ろ)がこの会合に参加しなかったため、斉侯(せいこう)は使者を派遣して旧来の盟約を復活させ、魯(ろ)をこの謀(はかりごと)に参加させようとした。

冬、公子(こうし)友(ゆう)(季友(きゆう))が斉(せい)に赴(おもむ)き、立ち会って斉(せい)と同盟を結んだ。


魯(ろ)の僖公(きこう)の7年(紀元前653年)、公子(こうし)友(ゆう)(季友(きゆう))が斉(せい)に赴(おもむ)いた。

魯(ろ)の僖公(きこう)の13年(紀元前647年)冬、公子(こうし)友(ゆう)(季友(きゆう))が斉(せい)に赴(おもむ)いた。

魯(ろ)の僖公(きこう)の16年(紀元前644年)3月、公子(こうし)季友(きゆう)が亡くなった。


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