正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「き」から始まる人物の一覧⑪丹陽紀氏①(紀亮・紀陟・紀孚)です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
系図
目次
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き⑪
紀亮
紀亮
生没年不詳。揚州・丹陽郡・秣陵県の人。子に紀陟。呉の景帝(孫休)期の尚書令。
呉の景帝(孫休)の永安元年(258年)、孫休が即位すると、紀亮は尚書令に任命され、子の紀陟も中書令に任命された。
朝会のたびに、詔により屏風を立て、父と子の席を隔て(て父子が同列に並ぶのを避け)る配慮がなされた。
出典
- 『呉書』孫皓伝・裴松之注『呉録』
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紀陟
紀陟・子上
生没年不詳。揚州・丹陽郡・秣陵県の人。父は呉の尚書令・紀亮。子に紀孚、紀瞻。
廃太子・孫和をかばう
初め、紀陟は中書郎に任命された。
呉の廃帝(孫亮)の建興2年(253年)、当時政権の実権を握っていた孫峻は、紀陟を使者として派遣して「(かつて太子であった)南陽王・孫和を取り調べさせ、その罪を問い詰めて、自ら命を絶たせる」ように命じた。
ところが紀陟は密かに使者を送り、「正しい言葉で自分の立場を弁明するように」と孫和に伝えたので、これを知った孫峻は激怒した。
紀陟は孫峻から危害を加えられることを恐れ、家の門を閉じて外に出なくなった。
中書令から豫章太守へ
呉の景帝(孫休)の永安元年(258年)、孫休が即位すると、父の紀亮は尚書令に任命され、紀陟も中書令に任命された。
朝会のたびに、詔により屏風を立て、父と子の席を隔て(て父子が同列に並ぶのを避け)る配慮がなされた。
その後、紀陟は地方に出されて豫章太守に任命された。
魏に返書を届ける
呉の末帝(孫皓)の元興元年(264年)7月、孫皓が即位すると、紀陟は光禄大夫に任命された。
この年、司馬昭が魏の相国となり、かつて呉の寿春城を守っていた呉の降将・徐紹と孫彧を使者に立て、命令を授け手紙を持たせて呉に派遣して、時勢の成り行きを説いて「降伏するように」と孫皓に勧告させた。
呉の末帝(孫皓)の甘露元年(265年)3月、孫皓は光禄大夫の紀陟と五官中郎将の弘璆を使者として徐紹と孫彧を随行させ、魏に返書を届けさせた。
この孫皓の書簡は、文の上下に「白」と書き添え、相手の名は呼ぶが姓は記さなかった。*1
紀陟と弘璆が洛陽に到着した時、たまたま司馬昭が亡くなったため、11月になってようやく帰国した。
徐紹は濡須口まで来たところで呼び戻されて殺害され、その家族は揚州・建安郡に徙された。これは、徐紹に「中原(魏)を称賛する発言があった」という密告があったからである。
12月、晋は魏から禅譲を受け、晋の武帝(司馬炎)が即位した。
脚注
*1「白」と書き添えるのは目上への敬意を表し、名だけを呼ぶのは相手が目下であることを表す。孫皓はこうすることで、敬ってはいるが、屈してはいないという立場を示した。
紀陟の弁才『晋紀』
紀陟と弘璆は魏の国境に入るとまず諱*2を尋ね、さらに国内に入るとその土地の風俗について尋ねた。
寿春県の将・王布が彼らに馬射(馬上から弓を射る技)を見せて、「呉の君子も、このような技を行うことができるのか?」と尋ねた。
すると紀陟は「これは軍人や騎兵が修練として行うものであり、士大夫や君子が行うものではございません」と答えたので、王布は大いに恥じ入った。
やがて洛陽に到着すると、魏帝(曹奐)が紀陟らを引見し、接待役を通じて、「こちらに来られる際、呉王(孫皓)のご様子はいかがであったか?」と尋ねた。
すると紀陟は「こちらに参ります際には、皇帝(孫皓)は親しく正殿にお出ましになり、百官たちが列席しておりました。また、(送り出す際の宴の)お食事も変わらず進んでおられ、すこぶるご健勝でいらっしゃいました」と答え、孫皓は呉王ではなく皇帝であることと、皇帝は意気盛んで降伏などする気がないことを主張した。
その後、司馬昭が百官を会して紀陟らを饗応し、接待役の者が、
「こちらの方は安楽公(劉禅)でございます。こちらの方は匈奴の単于でございます」
と紹介した。すると紀陟は言った。
「西主(蜀漢の劉禅)は国を失ったものの、君王(司馬昭)から礼遇を受け、その地位は三代の礼に匹敵するもので、誰もがその徳義に感服しております。また、匈奴は辺境の塞(長城)の外にあって従えがたい国でありますが、君王(司馬昭)はそのような者さえも懐けて、親しく同じ席に座らせておられる。これはまことに威徳と恩恵が遠方にまで及んでいる証でございます」
司馬昭「呉の防備はどの程度の規模か?」
紀陟「西陵から江都に至るまで、およそ5,700里(約2,451km)でございます」
司馬昭「それほど遠大な防衛線では、守りを固めるのは難しいのではないか?」
紀陟「国境は確かに広大ではございますが、その中でも必ず争われる要所は3ヶ所か4ヶ所にすぎません。それはちょうど、人間が8尺(約193.6cm)の体を持っていても、病にかかるのは限られた部分であり、風寒(風邪)を防ぐ際にも、数ヶ所だけを守ればよいのと同じでございます」*3
司馬昭はこの答えを良しとし、紀陟を厚く礼遇した。
『呉書』孫皓伝の本文では、司馬昭は「紀陟と弘璆が洛陽に到着した時」に亡くなっているので、裴松之注『晋紀』の内容と食い違う。紀陟と弘璆を饗応した後に亡くなったか?
脚注
*2ここでは歴代皇帝の実名。君主や目上の者の諱(実名)の使用を敬避(敬って避ける)する慣習から、失礼のないように魏で敬避される諱を確認した。
*3裴松之はこの部分について次のように評している。
「人間の体が8尺(約193.6cm)あれば、どこからでも病魔が入り込みそうであるし、風寒(風邪)をひかないように保護する必要があるのは本当に数カ所だけであろうか。このたとえは適切とは言い難く、弁才に優れているとは評価できない。もし譬えるなら、『金城万雉の堅固な城であっても、特に守るべき要所は4つの門にすぎない』と言った方が良い。この点においては、紀陟の答えよりもこちらの方が優れているのではないか」
孫和派の粛清
孫皓は孫和と繋がりのあった諸父たちやその関係者の家族をすべて、揚州・建安郡・東冶県(侯官県)に徙したが、ただ紀陟だけは、内密の旨があったことから、特別にその息子の紀孚が都亭侯に封ぜられた。
出典
- 『呉書』三嗣主伝
- 『呉書』孫皓伝
- 『呉書』孫皓伝・裴松之注『呉録』
- 『呉書』孫皓伝・裴松之注『晋紀』
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紀孚
紀孚
生没年不詳。揚州・丹陽郡・秣陵県の人。祖父は呉の尚書令・紀亮。父は呉の光禄大夫・紀陟。弟に紀瞻。
呉の廃帝(孫亮)の建興2年(253年)、父の紀陟は、当時政権の実権を握っていた孫峻の命令に反して、(かつて太子であった)南陽王・孫和を庇ったことがあった。
末帝(孫皓)の時代、孫皓は孫和と繋がりのあった諸父たちやその関係者の家族をすべて、揚州・建安郡・東冶県(侯官県)に徙したが、ただ紀陟だけは、内密の旨があったことから、特別にその息子の紀孚が都亭侯に封ぜられた。
出典
- 『呉書』孫皓伝・裴松之注『呉録』
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