正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(119)(鄂煥(がくかん)・雅丹(がたん))です。

スポンサーリンク

凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


スポンサーリンク


か(119)

鄂煥

鄂煥(がくかん)

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する架空の人物。第87回に登場する。

身の丈・9尺(約208cm)、面構(つらがま)えは醜(みにく)く、方天戟(ほうてんげき)を扱う万夫不当の勇士。越巂太守(えっすいたいしゅ)・高定(こうてい)の部将として、建寧太守(けんねいたいしゅ)・雍闓(ようがい)、牂牁太守(そうかたいしゅ)・朱褒(しゅほう)、越巂太守(えっすいたいしゅ)・高定(こうてい)の蜀漢(しょくかん)への反乱に加わった。

初戦で蜀漢(しょくかん)に捕(と)らえられた際、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の徳に感じ入っていたが、釈放(しゃくほう)された後も高定(こうてい)に仕え続けた。その後、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の「離間の計」に乗せられた高定(こうてい)の下(もと)で雍闓(ようがい)と朱褒(しゅほう)を討(う)ち、高定(こうてい)と共に蜀漢(しょくかん)に降伏して牙将(がしょう)に取り立てられた。

以下詳細
孔明(こうめい)の南蛮(なんばん)征伐

建興(けんこう)3年(225年)、益州(えきしゅう)・益州郡(えきしゅうぐん)より急報が入った。

「蛮王(ばんおう)(南蛮王(なんばんおう))・孟獲(もうかく)が10万の兵をもって領内に侵入し、建寧太守(けんねいたいしゅ)・雍闓(ようがい)が孟獲(もうかく)に呼応して造反。牂牁太守(そうかたいしゅ)・朱褒(しゅほう)と越巂太守(えっすいたいしゅ)・高定(こうてい)は城を明け渡し、雍闓(ようがい)・朱褒(しゅほう)・高定(こうてい)が郷導官(きょうどうかん)(案内役)となって益州(えきしゅう)・永昌郡(えいしょうぐん)を攻撃しております。永昌太守(えいしょうたいしゅ)・王伉(おうこう)は反乱に加担せず、功曹(こうそう)の呂凱(りょがい)と共に領民を集めて死守しておりますが、危急に迫(せま)られております」

これに蜀漢(しょくかん)の丞相(じょうしょう)・諸葛亮(しょかつりょう)は後主(こうしゅ)・劉禅(りゅうぜん)に上奏し、自(みずか)ら反乱を鎮圧するため50万の兵を動員した。

万夫不当(ばんぷふとう)の勇士・鄂煥(がくかん)

雍闓(ようがい)は、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が自(みずか)ら攻めて来ると聞くと、軍勢を3手に分けて、各々(おのおの)数万の兵を率(ひき)いて迎撃に出た。

この時 高定(こうてい)は、身の丈・9尺(約208cm)、面構(つらがま)えは醜(みにく)く、方天戟(ほうてんげき)を扱う万夫不当の勇士・鄂煥(がくかん)を前部先鋒(ぜんぶせんぽう)として出陣させた。

孔明(こうめい)に生け捕(ど)られる

蜀漢(しょくかん)の前部先鋒(ぜんぶせんぽう)・魏延(ぎえん)、副将(ふくしょう)の張翼(ちょうよく)と王平(おうへい)が、益州(えきしゅう)の境を超えた所で 早くも鄂煥(がくかん)の手勢と遭遇(そうぐう)したが、鄂煥(がくかん)が魏延(ぎえん)に挑(いど)みかかって数合と交(まじ)えないうちに、魏延(ぎえん)は踵(きびす)を返して逃げ出した。

鄂煥(がくかん)がその後を追うと、俄(にわか)に鬨(とき)の声が沸(わ)き起こり、張翼(ちょうよく)と王平(おうへい)の兵が現れて退路を絶(た)った。そこへ魏延(ぎえん)も引き返し、鄂煥(がくかん)は生け捕(ど)りにされて、本陣の孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の前に引き出された。

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は鄂煥(がくかん)の縛(いまし)めを解(と)いて酒と食事を勧めると、「汝(おぬし)は誰の部将か?」と聞いた。この扱いに感じ入った鄂煥(がくかん)が「某(それがし)は高定(こうてい)の部将でございます」と答えると、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、

「吾(わたし)は、高定(こうてい)が忠義の士であることを知っている。この度(たび)は雍闓(ようがい)に そそのかされた のであろう。汝(おぬし)は釈放(しゃくほう)してやるから、戻って高太守(こうたいしゅ)(高定(こうてい))に『大禍(たいか)に遭(あ)う前に、早々に降参されよ』と申すが良い」

と言った。

鄂煥(がくかん)は平伏して礼を述(の)べると、戻って「孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の徳」を説(と)いて聞かせたので、高定(こうてい)もいたく感じ入った。

雍闓(ようがい)を討(う)つ

その後、雍闓(ようがい)と高定(こうてい)は蜀漢(しょくかん)の陣に攻撃をしかけるも魏延(ぎえん)の伏兵(ふくへい)に大敗し、多くの兵が生け捕(ど)りにされた。すると孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、捕(と)らえた雍闓(ようがい)と高定(こうてい)の兵に 2人が仲違(なかたが)いするよう偽(にせ)の情報を吹き込むと、酒と食事を与えて釈放(しゃくほう)した。

「雍闓(ようがい)が自分と朱褒(しゅほう)の首を手土産に、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に降伏しようとしている」と聞いた高定(こうてい)が激怒すると、鄂煥(がくかん)は、

「孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は仁義に厚い人。彼に背(そむ)くのは不運の元です。我らが謀反(むほん)しましたのも、ただ雍闓(ようがい)に そそのかされた までのこと。いっそ雍闓(ようがい)を殺し、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に降伏してはいかがでございましょう」

と言い、雍闓(ようがい)を酒宴に誘って、もし来なかった時には「企(たくら)みがある」と判断して、高定(こうてい)は正面から攻撃し、鄂煥(がくかん)は裏手の間道に潜(ひそ)んで彼を生け捕(ど)りにする手筈(てはず)を整えた。


一方、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の離間工作により高定(こうてい)に不審感(ふしんかん)を抱(いだ)いていた雍闓(ようがい)は、この招待を受けても行こうとはしなかった。

そこへ高定(こうてい)の兵が斬り込んで来たので、雍闓(ようがい)は馬で山路に逃げ込んだが、2里(約860m)も行かないうちに鄂煥(がくかん)に行く手を塞(ふさ)がれ、応戦する暇(ひま)もなく一刺(ひとさ)しに突き落とされて首を討(う)たれた。

朱褒(しゅほう)を討(う)つ

高定(こうてい)が孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に降伏して雍闓(ようがい)の首を差し出すと、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、左右の者に「高定(こうてい)を斬首せよ」と命じた。驚いた高定(こうてい)が理由を尋(たず)ねると、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は一通の書状を渡して言った。

「朱褒(しゅほう)が降伏を申し入れて来た書状には、『你(おぬし)(高定(こうてい))と雍闓(ようがい)は生死の交(まじ)わりを結んだ仲である』とある。こうも容易(たやす)く雍闓(ようがい)を殺すはずがない。それゆえ偽(いつわ)りの降伏だと気づいたのだ」

これに高定(こうてい)が「丞相(じょうしょう)(諸葛亮(しょかつりょう))、それは朱褒(しゅほう)の反間の計にございます。某(それがし)が朱褒(しゅほう)を捕(と)らえてまいりますれば、信じていただけますでしょうか?」と言うと、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は「それならば、吾(わたし)も疑いを晴らそう」と言った。


高定(こうてい)は直(ただ)ちに鄂煥(がくかん)と共に軍勢を率(ひき)いて朱褒(しゅほう)の陣へ押し寄せ、「汝(おまえ)は何ゆえ、諸葛(しょかつ)丞相(じょうしょう)[孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))]に書状を送り、反間の計を用(もち)いて吾(わたし)を陥(おとしい)れようとしたのか!」と罵(ののし)った。

朱褒(しゅほう)が呆気(あっけ)に取られているところへ、後ろに回り込んだ鄂煥(がくかん)が方天戟(ほうてんげき)の一刺(ひとさ)しで突き落とした。


高定(こうてい)が孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の前に朱褒(しゅほう)の首を差し出すと、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は高らかに笑って、

「吾(わたし)がこの2人の賊(ぞく)を討たせたのは、汝(おぬし)に忠義の心を表す機会を与えるためだったのだ」

と言い、高定(こうてい)を益州太守(えきしゅうたいしゅ)に任命して3郡を統轄させ、鄂煥(がくかん)を牙将(がしょう)に取り立てた。こうして、雍闓(ようがい)・朱褒(しゅほう)・高定(こうてい)の3路の反乱は平定された。


「鄂煥(がくかん)」の関連記事

雅丹

雅丹(がたん)

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する架空の人物。第94回に登場する。西羌(せいきょう)の丞相(じょうしょう)。

蜀漢(しょくかん)の孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が魏(ぎ)を討伐した際、魏(ぎ)の大都督(だいととく)・曹真(そうしん)は西羌(せいきょう)に援軍を求めた。西羌(せいきょう)の丞相(じょうしょう)・雅丹(がたん)は、国王(こくおう)・徹里吉(てつりきつ)に魏(ぎ)の要請を受け入れるよう進言し、徹里吉(てつりきつ)は雅丹(がたん)と元帥(げんすい)の越吉(えっきつ)に25万の兵を率(ひき)いさせ、魏(ぎ)の援軍として西平関(せいへいかん)へと向かわせた。

西羌(せいきょう)が誇(ほこ)る「鉄車兵(てっしゃへい)」は、1度は蜀漢(しょくかん)の関興(かんこう)と張苞(ちょうほう)の兵を敗退させたものの、その後、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の計略によって鉄車兵(てっしゃへい)のことごとくが落とし穴に嵌(は)まり、越吉(えっきつ)は関興(かんこう)に斬られ、雅丹(がたん)は馬岱(ばたい)に生け捕(ど)りにされた。

捕(と)らえられた雅丹(がたん)と羌(きょう)兵たちは「逆賊(ぎゃくぞく)(魏(ぎ))に加担しないように」と諭(さと)されて釈放され、みな厚く礼を述(の)べて立ち去った。

以下詳細
孔明(こうめい)の北伐

蜀漢(しょくかん)の建興(けんこう)5年(226年)冬、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は天水(てんすい)・南安(なんあん)・安定(あんてい)の3郡及び、冀城(きじょう)・上邽(じょうけい)などの地を手中に収(おさ)め、その威名は天下に轟(とどろ)き、遠近の州郡は戦わずして帰順した。

その後、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は軍勢を整えて兵士の部署を定め、漢中(かんちゅう)の兵をことごとく率(ひき)いて前進し、祁山(きざん)に出撃して渭水(いすい)の西岸に迫った。


魏(ぎ)の太和(たいわ)元年(227年)、 魏(ぎ)の皇帝・曹叡(そうえい)は、大将軍(だいしょうぐん)・曹真(そうしん)を大都督(だいととく)、郭淮(かくわい)を副都督(ふくととく)、王朗(おうろう)を軍師(ぐんし)に任命してこれに当たらせたが、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))との舌戦に敗れた王朗(おうろう)は憤死(ふんし)し、先鋒(せんぽう)の曹遵(そうじゅん)と朱讚(しゅさん)は曹真(そうしん)・郭淮(かくわい)と同士討ちを起こして大敗を喫(きっ)した。

そこで郭淮(かくわい)は「西羌(せいきょう)に救援を求めて蜀漢(しょくかん)の背後を襲わせ、前後から挟(はさ)み撃ちにする」ことを提案し、曹真(そうしん)は直(ただ)ちに西羌(せいきょう)に急使を送った。

西羌(せいきょう)の丞相(じょうしょう)・雅丹(がたん)

西羌(せいきょう)の国王(こくおう)・徹里吉(てつりきつ)の下(もと)には、文に優(すぐ)れた者、武に優(すぐ)れた者がそれぞれ1人ずついた。文には智謀に長(た)けた雅丹(がたん)丞相(じょうしょう)。武には青眼(せいがん)黄髯(こうぜん)、身の丈(たけ)・1丈(じょう)(約242cm)、重さ百斤(きん)(約22kg)の長(ちょう)鉄槌(てっつい)の使い手で万夫不当(ばんぷふとう)の勇士、越吉(えっきつ)元帥(げんすい)である。


魏(ぎ)の使者はまず雅丹(がたん)丞相(じょうしょう)に面会して、進物を贈(おく)って救援を求める意図を詳しく述(の)べ、雅丹(がたん)は魏(ぎ)の使者を国王(こくおう)・徹里吉(てつりきつ)に引き合わせ、書簡と礼物を差し出した。

徹里吉(てつりきつ)が書簡に目を通して群臣と相談すると、雅丹(がたん)は言った。

「我が国は、以前から魏(ぎ)と往来があります。今、曹(そう)都督(ととく)(曹真(そうしん))が援助を求め、さらに和親まで申し出ている以上、道理として承諾すべきでしょう」

徹里吉(てつりきつ)はこれに従い、直(ただ)ちに雅丹(がたん)と越吉(えっきつ)元帥(げんすい)に命じ、羌(きょう)兵25万を率(ひき)いさせたが、彼らは弓弩(きゅうど)・槍刀・鉄蒺藜(てつしつり)*1・飛鎚(ひつい)(流星鎚(りゅうせいつい))などの武器に熟達していた。また、彼らの有する戦車隊は、鉄板を張って裏から釘を打ちつけ、糧食や軍器を積んで駱駝(らくだ)や騾馬(らば)に引かせたもので、「鉄車兵(てっしゃへい)」と号していた。

脚注

*1地上に突き立てて敵の侵入を防ぐ、菱形(ひしがた)の尖(とが)った鉄片。撒菱(まきびし)のようなもの。

鉄車兵(てっしゃへい)の威力

雅丹(がたん)と越吉(えっきつ)元帥(げんすい)の軍勢が西平関(せいへいかん)へ進軍すると、関を守っていた蜀将(しょくしょう)の韓禎(かんてい)は急ぎ使者を送って孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))に報告した。

すると孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、張苞(ちょうほう)と関興(かんこう)、そして、羌(きょう)人の気質と彼(か)の地の地理に明るい馬岱(ばたい)を選び、精兵5万を率(ひき)いて出陣させた。

数日進むと、早くも羌(きょう)兵に遭遇(そうぐう)した。関興(かんこう)が百騎余りを率(ひき)いて山の斜面から様子を見ると、羌(きょう)兵は鉄車(てっしゃ)を相連(あいつら)ねて陣を築いており、その上に武器を並べた様子は、まるで城のようであった。

翌朝、兵を3手に分け、中央を関興(かんこう)、左に張苞(ちょうほう)、右に馬岱(ばたい)が進んで行くと、俄(にわ)かに山野を覆(おお)い尽くすほどの皁鵰旗(そうちょうき)(黒鷹(くろたか)の羽の旗)が現れた。先頭を進む騎兵の大軍の中に見えるのは、鉄鎚(てっつい)を手に宝弓(ほうきゅう)を腰に佩(は)き、勢いよく馬を走らせ突き進む越吉(えっきつ)元帥(げんすい)である。

関興(かんこう)は3路の兵を招(まね)いて進んだが、羌(きょう)兵は突然左右に分かれ、中央から鉄車(てっしゃ)を洪水のように押し出して一斉に弓弩(きゅうど)を放ったので、蜀兵(しょくへい)は大敗した。

鉄車兵(てっしゃへい)の敗北

馬岱(ばたい)は「この軍は容易(ようい)には退(しりぞ)けられない。我(わたし)が陣を守るので、丞相(じょうしょう)[孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))]に策を請(こ)いなさい」と言い、張苞(ちょうほう)と関興(かんこう)は夜通し孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の元へ馬を走らせ事情を報告した。

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は直(ただ)ちに趙雲(ちょううん)と魏延(ぎえん)に伏兵を命じ、自(みずか)ら3万を率(ひき)いて姜維(きょうい)・張翼(ちょうよく)・関興(かんこう)・張苞(ちょうほう)らと共に馬岱(ばたい)の陣へ向かい、敵陣を偵察して言った。

「今に雪が降(ふ)る。策を施(ほどこ)す時だ」

翌日、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は馬岱(ばたい)と張翼(ちょうよく)に策を授(さず)け、関興(かんこう)・張苞(ちょうほう)に兵を伏(ふ)せさせると、姜維(きょうい)を出撃させ、鉄車兵(てっしゃへい)が来たら兵を退(ひ)くように命じた。


折(おり)しも時は冬の12月末、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が言った通り、大雪が降りだした。

姜維(きょうい)は兵を率(ひき)いて出陣し、越吉(えっきつ)が鉄車兵(てっしゃへい)を率(ひき)いてこれを迎え撃つと、姜維(きょうい)はすぐさま退却した。

姜維(きょうい)の兵を追って蜀漢(しょくかん)の陣前まで来た羌(きょう)兵が、陣内の様子を窺(うかが)ったところ、陣内からは琴を弾く音が聞こえ、四方にはただ旗だけが空(むな)しく立ててあるだけだった。

これに疑念を抱(いだ)いた越吉(えっきつ)は軽々しく進もうとはしなかったが、雅丹(がたん)丞相(じょうしょう)は、

「これは孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の『虛設疑兵(きょせつぎへい)』の計略だ。兵がいるように見せかけていたのだ。このまま攻め取ってしまおう」

と言った。

これに従い陣前まで兵を進めると、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))が琴を携(たずさ)えて車に乗り、数騎を引き連れて後方を振り返りながら陣を去り、山中の林の中に入って行くのが見えた。

雅丹(がたん)は「この程度の兵なら、たとえ伏兵があっても恐れる必要はない」と言い、そこで大軍を率(ひき)いてこれを追撃した。

山道は雪に覆われて、一面まったく平坦に見えた。ひたすら兵を急がせて前進すると、突然、大きな音がして、まるで山が崩(くず)れ、地が裂(さ)けたかのようであった。羌(きょう)兵はことごとく落とし穴の中へ落ち込み、後方では鉄車が勢いよく進んで来て止めることができず、そのまま押し寄せて互いに踏みつけ合った。

そこへ、左からは関興(かんこう)、右からは張苞(ちょうほう)が、背後からは姜維(きょうい)・馬岱(ばたい)・張翼(ちょうよく)の兵が攻めかかり、鉄車兵(てっしゃへい)は大混乱に陥(おちい)った。

越吉(えっきつ)元帥(げんすい)は後方の山谷へ逃げようとしたが、その先で遭遇(そうぐう)した関興(かんこう)に、たった1合、馬を馳(は)せ違(ちが)えただけで斬って落とされた。

羌(きょう)兵は四散して逃亡し、雅丹(がたん)丞相(じょうしょう)は馬岱(ばたい)に生け捕(ど)りにされた。


雅丹(がたん)が本陣の孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))の前に引き立てられて来ると、孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))はその縛(いまし)めを解(と)かせ、酒を勧めて丁重に接したので、雅丹(がたん)はその徳に深く感じ入った。

孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は言った。

「吾(わ)が主君は大漢(たいかん)の皇帝である。今、吾(わたし)は賊(ぞく)を討(う)つ命を受けているのに、爾(そなた)はどうして逆賊(ぎゃくぞく)を助けるのか。今ここで爾(そなた)を解放して帰国させよう。爾(そなた)の主君にこう伝えよ。『吾国(わがくに)と爾(そなた)の国とは隣国であり、末永く同盟を結びたい。逆賊(ぎゃくぞく)の言葉に耳を貸してはならぬ』と」

そう言うと孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))は、捕(と)らえていた羌(きょう)兵や車馬・武具などをすべて雅丹(がたん)に返して国に帰したので、みな厚く礼を述(の)べて立ち去った。


「雅丹(がたん)」の関連記事


スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引