正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(118)(戈定(かてい)・俄何焼戈(がかしょうか))です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(118)

戈定

戈定(かてい)

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する架空の人物。第53回に登場する。

生年不詳〜建安(けんあん)14年(209年)没。青州(せいしゅう)・東萊郡(とうらいぐん)の人。太史慈(たいしじ)配下の部将。太史慈(たいしじ)とは同郷。

合肥(がっぴ)の戦いにおいて合肥(がっぴ)城内に潜入。魏(ぎ)の張遼(ちょうりょう)の下(もと)で馬飼いをしている兄弟と共に城内に火を放ち、「謀反(むほん)だ!」と叫んで混乱させようとしたが、大勝利の後にも気を抜かず、警戒を続けていた張遼(ちょうりょう)に瞬(またた)く間に捕(とら)えられ、訊問(じんもん)を受けた後に首を打たれた。

以下詳細
合肥(がっぴ)の戦い

赤壁(せきへき)の戦いの後、孫権(そんけん)は揚州(ようしゅう)・九江郡(きゅうこうぐん)・合肥国(がっぴこく)を攻めるも、未(いま)だ落とせずにいた。

張遼(ちょうりょう)の挑戦を受けた孫権(そんけん)は自(みずか)ら出陣したが、孫権(そんけん)を護衛する宋謙(そうけん)が李典(りてん)の矢を受けて討ち死にし、程普(ていふ)に助けられて、やっとの思いで本陣に帰り着いた。

そこへ太史慈(たいしじ)がやって来て、

「某(それがし)の配下の戈定(かてい)は、張遼(ちょうりょう)の下(もと)で馬飼いをしている者と兄弟でございます。その者から知らせが参り、『今夜、火の手が上がるのを合図に張遼(ちょうりょう)を闇討(やみう)ちにして、宋謙(そうけん)の仇(あだ)に報(むく)いたい』とのこと。某(それがし)も兵を率(ひき)いて外側から呼応したく存じます」

と進言した。

これに諸葛瑾(しょかつきん)は「張遼(ちょうりょう)は武勇だけでなく知謀にも長(た)けておりますれば、きっと備(そな)えをしているでしょう。軽々しく事を行ってはなりません」と言ったが、太史慈(たいしじ)はなおも強く主張して譲(ゆず)らず、孫権(そんけん)も宋謙(そうけん)の仇(あだ)を討(う)とうと、ついに太史慈(たいしじ)に5千の兵を与えて攻撃させることにした。

勝利にも喜ばず、敗れても憂(うれ)えず

その夜、張遼(ちょうりょう)は将卒に褒美を与えて労(ねぎら)うと、「甲(よろい)を脱(ぬ)がずに休息せよ」と命令した。

左右の者が、

「今日の戦(いくさ)は大勝利にて、呉(ご)の兵も遠くへ逃げ去りました。将軍(しょうぐん)(張遼(ちょうりょう))はなぜ、甲(よろい)を脱(ぬ)いでお休みになられないのですか?」

と尋(たず)ねると、張遼(ちょうりょう)は、

「そうではない。『勝利にも喜ばず、敗(やぶ)れても憂(うれ)えぬ』のが将の道である。呉(ご)の兵が、我らが防備を緩(ゆる)めた隙(すき)を窺(うかが)って攻めて来るやもしれぬ。今夜は、より一層 用心せねばならぬぞ」

と言った。

計略の失敗

一方、太史慈(たいしじ)の命を受けて密(ひそ)かに合肥(がっぴ)に潜入した戈定(かてい)は、馬飼いの者と相談し、草堆(まぐさ)置き場に火をつけて「謀反(むほん)だ!謀反(むほん)だ!」と叫んで回った。

陣の後方から火の手が上がり、謀反(むほん)を叫ぶ声や注進の声が錯綜(さくそう)する中、張遼(ちょうりょう)は帳(とばり)を出て馬に跨(またが)ると、将校(しょうこう)10数人を従えて道の真ん中に立ち、

「城中(しろじゅう)が謀反(むほん)した訳(わけ)ではあるまい。あれは謀反(むほん)した者が、兵士たちを混乱させようとしているのだ。命令に背(そむ)く者は斬れ!」

と命じた。

程なくして李典(りてん)が、戈定(かてい)と馬飼いの者を捕(と)らえて来たので、張遼(ちょうりょう)はこれを訊問(じんもん)し、直(ただ)ちに馬前において首を打たせた。


城外に太史慈(たいしじ)が攻め寄せてくると、張遼(ちょうりょう)は敵の計略を利用して、城門の内側で火の手を上げさせ、口々に「謀反(むほん)だ!」と叫ばせると、城門を開いて吊橋(つりばし)を下ろした。

太史慈(たいしじ)は「計略がうまくいった」と思い込み、鎗(やり)を構えて真っ先に駆け入ると、城壁の上から雨のように矢が降り注(そそ)いだ。太史慈(たいしじ)は急いで踵(きびす)を返したが、その身に数本の矢を受け、李典(りてん)・楽進(がくしん)の兵が斬って出ると、呉(ご)の兵の大半が討(う)たれた。

孫権(そんけん)は兵を引き揚(あ)げ、潤州(じゅんしゅう)(丹徒県(たんとけん))まで戻ったが、太史慈(たいしじ)は重篤(じゅうとく)となって亡くなった。


「戈定(かてい)」の関連記事

俄何焼戈

俄何焼戈(がかしょうか)

『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する架空の人物。第109回に登場する。羌(きょう)族の将。

蜀漢(しょくかん)の延熙(えんき)16年(253年)秋、蜀漢(しょくかん)の衛将軍(えいしょうぐん)・姜維(きょうい)は、北伐の軍を起こして魏(ぎ)の討伐に向かい、羌(きょう)族の兵と合流して南安(なんあん)を攻める約束を取り付けた。その後、董亭(とうてい)で魏(ぎ)軍と遭遇(そうぐう)した姜維(きょうい)は、計略を用(もち)いて魏(ぎ)の大都督(だいととく)・司馬昭(しばしょう)を鉄籠山(てつろうざん)に追い詰(つ)めて包囲する。

急ぎ司馬昭(しばしょう)の救援に向かおうとする郭淮(かくわい)に、陳泰(ちんたい)は「羌(きょう)族の兵に背後を襲われる危険性」を説(と)き、自(みずか)ら羌(きょう)族に投降した振りをして「すでに内応する準備ができている」と言い、羌(きょう)族の兵に魏(ぎ)の陣を攻めさせた。

この攻撃を命じられた羌(きょう)族の将・俄何焼戈(がかしょうか)は、開け放たれていた陣門に突入したが、そこには落とし穴がしかけられており、羌(きょう)兵は大混乱となって、互いに踏みつけ合って死んだ者は数知れず、生き残った者はすべて降伏し、俄何焼戈(がかしょうか)は自(みずか)ら頸(くび)を刎(は)ねて自害した。

以下詳細
羌(きょう)族の将・俄何焼戈(がかしょうか)

蜀漢(しょくかん)の延熙(えんき)16年(253年)秋、蜀漢(しょくかん)の衛将軍(えいしょうぐん)・姜維(きょうい)は、廖化(りょうか)と張翼(ちょうよく)を左右の先鋒(せんぽう)に、夏侯覇(かこうは)を参謀、張嶷(ちょうぎょく)を運糧使(うんりょうし)(糧秣運送監督官(りょうまつうんそうかんとくかん))に命じ、20万の大軍をもって、陽平関(ようへいかん)を出て魏(ぎ)の討伐に向かった。

姜維(きょうい)が夏侯覇(かこうは)に方策を尋(たず)ねると、夏侯覇(かこうは)は言った。

「前回の北伐で勝ちを得られなかったのは、羌(きょう)族の兵が来なかったからです。まず人を遣(や)って羌(きょう)族と隴右(ろうゆう)(隴西(ろうせい))で合流した上で、石営(せきえい)に進出して董亭(とうてい)より一気に南安(なんあん)を攻めるのがよろしいでしょう」

と言った。これを大いに喜んだ姜維(きょうい)は郤正(げきせい)を使者に立て、羌(きょう)族に援軍を求めた。

羌王(きょうおう)・迷当(めいとう)は礼物を受け取ると、先主(せんしゅ)(劉備(りゅうび))と武侯(ぶこう)[孔明(こうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))]の徳を偲(しの)んで、姜維(きょうい)の要請通り、俄何焼戈(がかしょうか)を大先鋒(だいせんぽう)として5万の兵を率(ひき)いさせ、南安(なんあん)に向かわせた。

司馬昭(しばしょう)を鉄籠山(てつろうざん)に追い詰(つ)める

魏(ぎ)の左将軍(さしょうぐん)*1・郭淮(かくわい)が、急ぎ「蜀漢(しょくかん)が北伐の兵を起こしたこと」を洛陽(らくよう)に報告すると、司馬師(しばし)は輔国将軍(ほこくしょうぐん)・徐質(じょしつ)を先鋒(せんぽう)に、司馬昭(しばしょう)を大都督(だいととく)に任命して隴西(ろうせい)に進発させた。

魏(ぎ)軍が董亭(とうてい)に至った所で姜維(きょうい)の軍と遭遇(そうぐう)したが、開山大斧(かいざんたいふ)の使い手の猛将・徐質(じょしつ)に挑(いど)んだ廖化(りょうか)・張翼(ちょうよく)の2将が敗走し、蜀(しょく)兵は大敗した。


夏侯覇(かこうは)は「徐質(じょしつ)を誘い出して生け捕(ど)りにする策」を献じたが、姜維(きょうい)は「司馬昭(しばしょう)は仲達(ちゅうたつ)(司馬懿(しばい))の子だ。兵法を知らぬはずがない。容易(ようい)には誘いに乗ってこないだろう」と言って却下すると、

「これまで何度も魏(ぎ)の兵に糧道(りょうどう)を断たれたが、こちらが持久戦の構えを見せれば、きっと糧道(りょうどう)を断ちに来るに違いない。その時を逆手(さかて)に取って誘い出せば、徐質(じょしつ)を討ち取ることができるだろう」

と言い、兵たちに命じて持久戦の構えを取らせた。

果たして徐質(じょしつ)が「蜀漢(しょくかん)の糧秣(りょうまつ)を運搬する木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)」を襲撃すると、俄(にわ)かに両側から火の手が上がり、左からは廖化(りょうか)、右からは張翼(ちょうよく)が現れて激しく斬り込んできた。徐質(じょしつ)は死力を尽くして単身で切り抜けたが、行く手に現れた姜維(きょうい)の一鎗(ひとやり)に馬から突き落とされて、兵士たちにめった斬りにされた。

その後、夏侯覇(かこうは)は蜀漢(しょくかん)の兵士たちに魏(ぎ)の甲(よろい)を着せ、魏(ぎ)の旗印を掲(かか)げさせて魏(ぎ)の陣に戻らせたので、魏(ぎ)の陣では「味方が戻って来た」と見て門を開け、陣内は大混乱に陥(おちい)った。

驚いた司馬昭(しばしょう)は慌(あわ)てて馬に乗り、逃げ場を求めて鉄籠山(てつろうざん)に登ってその山頂に立て籠(こも)った。

脚注

*1正史では車騎将軍(しゃきしょうぐん)。

陳泰(ちんたい)の計略

「司馬昭(しばしょう)が鉄籠山(てつろうざん)に追い詰(つ)められた」と聞いて すぐさま救いに行こうとする郭淮(かくわい)に、陳泰(ちんたい)が言った。

「姜維(きょうい)は羌(きょう)兵と力を合わせて南安(なんあん)を取ろうとしています。将軍(しょうぐん)(郭淮(かくわい))が(司馬昭(しばしょう)を)救いに向かわれたならば、羌(きょう)兵はその隙(すき)に背後を襲うに違いありません。まずは人を遣(や)って羌(きょう)族に降伏したと見せかけて、敵の内部を乱すのがよろしいでしょう。羌(きょう)兵を退(ひ)かせなければ、鉄籠山(てつろうざん)の包囲を救いに行くことはできません」

郭淮(かくわい)はこれに従い、陳泰(ちんたい)に5千の兵を率(ひき)いさせ、羌王(きょうおう)・迷当(めいとう)の寨(とりで)に向かわせた。


陳泰(ちんたい)は甲(よろい)を脱いで寨(とりで)に入ると、涙を流しながら言った。

「郭淮(かくわい)は思い上がっていて身の程(ほど)を知らず、以前から泰(わたくし)を殺そうという気持ちを抱(いだ)いていましたので、降伏して参りました。郭淮(かくわい)の軍中については、私がすべて承知しております。今夜、直(ただ)ちに一軍を率(ひき)いて夜襲をかければ、内部にはすでに手引きする者がおりますので、必ず成功できます」

すると羌王(きょうおう)・迷当(めいとう)は大いに喜んで、俄何焼戈(がかしょうか)に命じて、陳泰(ちんたい)と共に魏(ぎ)の陣営を夜襲させることにした。


俄何焼戈(がかしょうか)は、陳泰(ちんたい)の投降兵を後方に配置し、陳泰(ちんたい)には羌(きょう)兵を率(ひき)いさせて前衛とした。夜2更(21時頃~23時頃)、魏(ぎ)の陣に至ると、陣門は大きく開かれていた。まず陳泰(ちんたい)が1騎で陣中へ入り、俄何焼戈(がかしょうか)が馬を走らせ鎗(やり)を構えて陣中へ突入したその時、「しまった!」と一声(ひとこえ)叫ぶや、人馬もろとも落とし穴に落ちてしまった。

そこへ後方から陳泰(ちんたい)が、左からは郭淮(かくわい)が攻めかかったので、羌(きょう)兵は大混乱となり、互いに踏みつけ合って死んだ者は数知れず、生き残った者はすべて降伏し、俄何焼戈(がかしょうか)は自(みずか)ら頸(くび)を刎(は)ねて自害した。

その後

その後、郭淮(かくわい)と陳泰(ちんたい)は兵を率(ひき)いて、そのまま羌(きょう)族の陣営へ攻め込み、迷当(めいとう)大王(だいおう)を生け捕(ど)りにした。

迷当(めいとう)大王(だいおう)が引き出されて来ると、郭淮(かくわい)は自(みずか)ら縄を解(と)いて、

「朝廷は以前から公(あなた)を忠義の人として評価してきた。それなのに、どうして蜀(しょく)の者を助けたのか」

と言うと、迷当(めいとう)は恥じ入って罪を認めた。そこで更(さら)に、

「公(あなた)が前衛となって鉄籠山(てつろうざん)の包囲を解(と)き、蜀(しょく)軍を退(しりぞ)けてくれるなら、吾(わたし)は天子(てんし)に奏上して、必ずや厚い褒美を与えよう」

と言うと、迷当(めいとう)はこれに従い、羌(きょう)兵を前に、魏(ぎ)兵を後ろに従えて、そのまま鉄籠山(てつろうざん)へ向かった。


迷当(めいとう)が蜀漢(しょくかん)の陣に到着すると、姜維(きょうい)と夏侯霸(かこうは)の2人が出迎えた。

すると、迷当(めいとう)が口を開くのも待たず、迷当(めいとう)の背後から魏(ぎ)の将兵が斬りかかり、羌(きょう)兵と魏(ぎ)兵が一斉に陣中へ攻め入ったので、蜀(しょく)兵は四散五裂して、それぞれ命からがら逃げだした。

姜維(きょうい)は山中へ向かって逃げたが、その手に武器を持っておらず、腰に弓矢一式を帯(お)びているだけだったが、逃げるうちに矢はすべて落としてしまい、矢筒だけが空(から)のまま残っていた。後方から郭淮(かくわい)が兵を率(ひき)いて追いかけて来ると、姜維(きょうい)は弓を引く真似(まね)をして10数回も音を立てた。

郭淮(かくわい)は何度も身をかわしたが、矢が飛んで来ないので姜維(きょうい)に矢がないと知り、鋼鎗(やり)を脇に掛けて弓を取り、矢をつがえて射かけた。

姜維(きょうい)は素早く身をかわすと、その矢を取って弓につがえ、郭淮(かくわい)が近づくのを待って、その顔面めがけて力いっぱい射ると、郭淮(かくわい)は弦(つる)の音とともに馬から落ちた。


魏(ぎ)の司馬昭(しばしょう)は山を下(くだ)って追撃したが、途中で引き返し、蜀漢(しょくかん)の夏侯覇(かこうは)も後から合流して姜維(きょうい)と共に漢中(かんちゅう)に退却した。

郭淮(かくわい)は矢を抜いたが血が止まらず、そのまま死亡した。


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【三国志人物伝】総索引