正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(116)[合肥侯(がっぴこう)・干宝(かんぽう)・汗盧維(かんろい)・環夫人(かんふじん)(環太妃(かんたいひ))]です。

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凡例・目次

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(116)

合肥侯・干宝・汗盧維・環夫人

合肥侯(がっぴこう)

生没年不詳。劉氏(りゅうし)には違いないが、名前その他、詳細は不明。

霊帝(れいてい)の光和(こうわ)7年(184年)*13、冀州刺史(きしゅうしし)・王芬(おうふん)、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)出身の許攸(きょゆう)、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)出身の周旌(しゅうせい)らは、豪傑(ごうけつ)たちと結んで「霊帝(れいてい)を廃して合肥侯(がっぴこう)を擁立(ようりつ)する」ことを謀(はか)り、その計画を曹操(そうそう)にも打ち明けたが、曹操(そうそう)は計画に加わることを拒(こば)んだ。


また、陳蕃(ちんぱん)の子・陳逸(ちんいつ)と青州(せいしゅう)・平原国(へいげんこく)出身の術士(じゅつし)・襄楷(じょうかい)が、王芬(おうふん)主催の会合に出席した時のこと。

襄楷(じょうかい)が「天文には『宦者(かんじゃ)(宦官(かんがん))に不利』と出ており、黄門(こうもん)・常侍(じょうじ)といった貴族(高官)は滅ぶでしょう」と言ったところ、陳逸(ちんいつ)はこれを聞いて喜んだ。

これを見た王芬(おうふん)は「それならば、芬(わたし)が取り除(のぞ)きましょう」と言い、そこで許攸(きょゆう)らと結託(けったく)した。


ちょうど霊帝(れいてい)が北方の冀州(きしゅう)・河間国(かかんこく)の旧宅*14に巡行することになったので、王芬(おうふん)らはこの機会に事を起こそうと計画し、「黒山賊(こくざんぞく)が郡県を攻撃しています」と上言して出兵する許可を求めました。

ところがこの時、北方に赤気が立ち込め、東西にわたって空に棚(たな)引(び)いているのを見た太史(たいし)(天文官)が、「きっと陰謀がございます。北方に巡行なさるのはよろしくありません」と上言したため、霊帝(れいてい)は巡行を中止した。

そこで王芬(おうふん)に「出兵中止」の勅(ちょく)を下して彼を召(め)し出したところ、王芬(おうふん)は懼(おそ)れて自害した。

脚注

*13維基百科などには「漢靈帝中平元年(184年)六月」とあるが、6月の出典は不明。光和(こうわ)7年は12月に改元されて中平(ちゅうへい)元年となった。

*14霊帝(れいてい)は章帝(しょうてい)の玄孫(げんそん)(孫の孫・やしゃご)で、河間王(かかんおう)であったが、雒陽(らくよう)(洛陽(らくよう))に迎(むか)えられて帝位に即(つ)いた。


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干宝(かんぽう)・令升(れいしょう)

生年不詳〜東晋(とうしん)の咸康(かんこう)2年(336年)没。豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・汝南郡(じょなんぐん)・新蔡県(しんさいけん)の人。

父は丹楊丞(たんようじょう)[揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))の丞(じょう)(次官)]であった干瑩(かんえい)。祖父は呉(ご)の奮武将軍(ふんぶしょうぐん)・都亭侯(とていこう)であった干統(かんとう)。

国史の編纂を始める

干宝(かんぽう)は幼い頃から学問に努(つと)め、広く書物を読んだ。

その才能と器量によって召(め)されて佐著作郎(さちょさくろう)となり、杜弢(ととう)の(反乱の)平定に功績があって関内侯(かんだいこう)の爵位を賜(たまわ)った。


当時は東晋(とうしん)が中興(ちゅうこう)されて間もなかったため、まだ史官(しかん)が設置されていなかったので、中書監(ちゅうしょかん)の王導(おうどう)が上疏(じょうそ)して「国史(史官(しかん))の設置」を提案し、国史(国の歴史書)の編纂(へんさん)に干宝(かんぽう)らを推薦した。

元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))はこれを了承し、干宝(かんぽう)は国史の編纂(へんさん)を始めることとなった。

王導(おうどう)の上疏(じょうそ)・全文
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元来、帝王の事績は書物に記(しる)されないことはなく、著(あらわ)されて令典(法令)となり、無窮(むきゅう)(永遠)に伝えられます。

宣皇帝(せんこうてい)(司馬懿(しばい))は四海を廓定(かくてい)(平定)し、武皇帝(ぶこうてい)(司馬炎(しばえん))は魏(ぎ)から禅譲(ぜんじょう)を受けられ、その至上の徳と大きな功績は、古(いにしえ)の聖人の足跡に等(ひと)しいものです。

ですが、王府には紀伝(歴史書)が収蔵されておらず、管弦はまだ、その徳音(とくいん)(天子(てんし)の優(すぐ)れた徳)を奏(かな)でておりません。

陛下[元帝(げんてい)(司馬睿(しばえい))]は聖明であられ、中興(ちゅうこう)の勢いが盛んな今、よろしく国史(史官(しかん))を建立(こんりゅう)して帝紀を撰集(せんしゅう)し、上は祖宗(皇室)の烈を敷(し)き広め、下は佐命(臣下)の勳功(くんこう)を記(しる)しましょう。

実録であることに務(つと)めて後世の基準とし、あまねく天下の望みを十分に満足させ、人神の心を悦(よろこ)ばせるのです。

これこそ誠(まこと)に『雍熙(ようき)の至美*15』であり、王者の広大な基礎であります。よろしく史官(しかん)を備(そな)え、佐著作郎(さちょさくろう)の干宝(かんぽう)らに敕(ちょく)を下して、(晋(しん)の歴史書の)撰集(せんしゅう)を始めさせてください。

脚注

*15「雍熙(ようき)」とは、天下がよく治まって、上下の者が共に和(やわ)らぎ楽しむこと。

『晋紀』を著す

(干宝(かんぽう)は)家が貧しかったため、求めて山陰令(さんいんれい)(揚州(ようしゅう)・会稽郡(かいけいぐん)・山陰県(さんいんけん)の県令(けんれい))に任命され、その後、始安太守(しあんたいしゅ)(荊州(けいしゅう)・始安郡(しあんぐん)の太守(たいしゅ))に遷(うつ)った。

王導(おうどう)に請(こ)われて司徒(しと)右長史(ゆうちょうし)となり、その後散騎常侍(さんきじょうじ)に遷(うつ)って『晋紀(しんき)』を著(あらわ)し、(西晋(せいしん)の)宣帝(せんてい)(司馬懿(しばい))から愍帝(びんてい)(司馬鄴(しばぎょう))に至るまでの53年間、全20巻を上奏した。

その書(文体)は簡略で、ありのままに直書しつつも婉曲(えんきょく)(遠回し)すべきところは婉曲(えんきょく)して表現していたため、みな「良史(良い史書)だ」と称した。(『晋書(しんじょ)』干宝伝(かんぽうでん))


一方、裴松之(はいしょうし)は『三国志(さんごくし)』(『魏書(ぎしょ)』)の注の中で、何度もその内容の誤(あやま)りを指摘している。

『搜神記』を著す

(干宝(かんぽう)は)陰陽術数を好み、京房(けいぼう)や夏侯勝(かこうしょう)らの伝(注釈書)にずっと関心があった。

父の侍婢(じひ)の怪異

干宝(かんぽう)の父・干瑩(かんえい)の生前、父には寵愛(ちょうあい)する侍婢(じひ)(侍女)がいたため母はひどく嫉妬(しっと)し、父が亡くなると、生きながらに侍女を父の墓に押し込んだが、当時、干宝(かんぽう)兄弟はまだ幼かったので、状況がよく分からなかった。

それから10余年後、母が亡くなったため墓を開くと、棺(ひつぎ)に伏している侍婢(じひ)はまるで生きているかのようで、(車に)載(の)せて連れ帰ると、数日で蘇生した。

侍婢(じひ)は「父がいつも飲食物を取ってきて与え、その恩情は生前と同様だった」と言い、また「家中で吉凶があるたびにこれを語ったが、確認すると悉(ことごと)く的中し、地中(墓の中)もまた悪くなかった」と言った。その後、彼女は嫁(とつ)いで子を生んだ。

干宝(かんぽう)の兄の怪異

また、干宝(かんぽう)の兄は病気で息が絶(た)えたが、数日経(た)っても身体は冷えなかった。

後(のち)に目を覚(さ)ました兄は「天地の間で鬼神の様子を見ていた。夢から覚(さ)めたようで、自分が死んでいることに気づかなかった」と言った。

脚注

*16原文:又寶兄嘗病氣絕,積日不冷,後遂悟,雲見天地間鬼神事,如夢覺,不自知死。干宝(かんぽう)の兄の名は干雲(かんうん)か?

『搜神記(そうしんき)』を著(あらわ)す

干宝(かんぽう)はこれら「古今の神祇(じんぎ)(神々)や霊異の人物の変化(へんげ)の話」を撰集(せんしゅう)して『搜神記(そうしんき)』と名付け、それは全30巻であった。

これを劉惔(りゅうたん)に見せたところ、劉惔(りゅうたん)は「卿(あなた)は鬼の董狐(とうこ)(春秋(しゅんじゅう)時代の晋(しん)の優(すぐ)れた史官)と言える」と言った。

干宝(かんぽう)が広く採録した異聞には虚実が織り混ぜられていたが、序にその志(理由)を陳(の)べている。

『搜神記(そうしんき)』序・全文
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載籍(さいせき)(書物)の考証を志の第一としたと雖(いえど)も、当時の(書物から)散らばり失われた物事を収載(しゅうさい)するのに、自分の目や耳で直接見聞きすることなどできる筈(はず)はないのだから、敢(あ)えて「真実でないことがない」とは言わないっ!

(例えば)衛朔(えいさく)(衛(えい)の恵公(けいこう))が国を失ったことについて、(『春秋(しゅんじゅう)』の)2つの伝では内容が対立し、また呂望(りょぼう)(太公望(たいこうぼう))が周(しゅう)に仕えたことについて、子長(しちょう)(司馬遷(しばせん):『史記(しき)』)は2つの説を並記しており、このような事例は往(おう)々(おう)にして見ることができる。

これらを観るに、(載(の)せるべき)見聞を1つに絞(しぼ)ることが難しいことが分かるであろう。

そもそも(『春秋(しゅんじゅう)』が)「赴告(ふこく)の定辞(原文)*17」を記(しる)し、(『史記(しき)』が)国史の方策*18に拠(よ)っていても、なおこのようなことが起こるのに、まして千年も前のことを述(の)べ、珍(めずら)しい風俗や習慣について記(しる)すのである(から、尚更(なおさら)そういったことは起こり得(う)るのである)。

不完全な書物から言葉の切れ端(はし)を綴(つづ)り合せ、昔の出来事や故実(こじつ)*19に通じている老人を訪(たず)ねて、物事に2つの跡(あと)を残さず、言葉に異途(いと)(違う道)をなくす。

このようにして信じるに足(た)る内容にすることは、前時代の歴史家の悩みであったが、国家は注記の官(史官(しかん))を廃止せず、学士(学者)は絶(た)えず(史料を)読んで解釈し続けた。

どうして(伝承されず)失われたものが些末(さまつ)であり、残存したものが重要であると言えるだろうかっ!

今、(私が)撰集(せんしゅう)したものの中に、前載者(の誤(あやま)り)を受け継いでいるものがあったとしても、それは「残された罪」ではない。

もし近世の事を採訪(さいほう)*20して、万一、虛錯(きょさく)(不正確さと誤(あやま)り)があったならば、昔の賢人や前代の儒者(じゅしゃ)と共に、その譏謗(きぼう)(嘲笑(ちゅうしょう)と中傷)を分かち合おう。そしてその著述(ちょじゅつ)はまた、神道を誣(あざむ)いていないことを明らかにするのに十分である。

群言(多くの人の言葉)や百家(の書物)は(多すぎてすべてを)覧(み)ることはできず、(私の)耳目に届いたことは多すぎて載(の)せきれない。

今、八略の要旨(ようし)を説明するのに足(た)る、微(わず)かな説だけを取り上げた。将来の好事の士がその根体(主要部分)を記録し、遊び心でもって注目され(批判を受けることが)ないならば幸(さいわ)いである。*21

脚注

*17「赴告(ふこく)」とは、諸侯(しょこう)が相互に大事を知らせた内容のこと。魯国(ろこく)の年代記である『春秋(しゅんじゅう)』に魯国(ろこく)以外の各国に関する記載があるのは、各国から魯国(ろこく)にもたらされた「赴告(ふこく)」に拠(よ)るものである。

*18「方」は木の板、「策」は竹簡を指す。文書。記録のこと。

*19昔の儀式・法制・作法などの決まりや習(なら)わし。

*20研究上の資料を採集するために、研究対象をたずねること。

*21原文:幸將來好事之士錄其根體,有以遊心寓目而無尤焉。

著作
  • 『晋紀(しんき)』:全20巻
  • 『搜神記(そうしんき)』:全30巻
  • 『春秋左氏義外伝(しゅんじゅうさしぎがいでん)』
  • 『周易(しゅうえき)』注・『周官(しゅうかん)』注:数10篇

その他、雑文集もみな世に広まった。


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汗盧維(かんろい)

生年不詳〜建安(けんあん)12年(207年)没。幽州(ゆうしゅう)・右北平郡(ゆうほくへいぐん)の烏丸(うがん)(烏桓(うがん))族の大人(たいじん)(部族長)・烏延(うえん)のこと。800余りの部落を支配下に置いて勝手に汗魯王(かんろおう)を号した。

袁紹(えんしょう)が烏丸(うがん)(烏桓(うがん))の3人の王(おう)を単于(ぜんう)に任命した任命書に「右北平(ゆうほくへい)の率衆王(そっしゅうおう)・汗盧維(かんろい)」とある。

詳細はこちら

→ 烏延(うえん)


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環夫人(かんふじん)(環太妃(かんたいひ))

生没年不詳。徐州(じょしゅう)・彭城国(ほうじょうこく)の人。曹操(そうそう)の夫人(ふじん)。

鄧哀王(とうあいおう)・曹沖(そうちゅう)、彭城王(ほうじょうおう)・曹拠(そうきょ)、燕王(えんおう)・曹宇(そうう)を生んだ。


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【三国志人物伝】総索引