正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(117)(観丁父かんていほ闞沢かんたく驩兜かんとう)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(117)

観丁父・闞沢・驩兜

観丁父かんていほ

生没年不詳。春秋しゅんじゅう時代、鄀国じゃくこくの人。の捕虜となったが、武王ぶおうによって軍率ぐんすい(総大将)に取り立てられて軍功をげた。


恵王けいおうの10年(紀元前479年)にで「白公はくこうの乱*1」が起こった時、ちんを攻めた。

恵王けいおうの11年(紀元前478年)、が落ち着くと、ちんの麦を刈り取って報復しようとし、楚子そしは「誰を将とすべきか」を太師たいし子穀しこく葉公ようこう沈諸梁しんしょりょうあざな子高しこう)にうた。

子穀しこく右領ゆうりょう差車さしゃ左史さしろうは、2人とも令尹司馬れいいんしばを助けてちんったことがあります。この2人を使うべきです」

子高しこう「将がいやしければ、民はあなどるものです。(民が)命令に従わないことを恐れます」

子穀しこく「(昔、の)武王ぶおうは、じゃくった際に捕虜にした観丁父かんていほ軍率ぐんすい(総大将)としてしゅうりょうに勝ち、ずいとうを服従させ、大いに蛮族ばんぞくどもの地を領土としました。
また、彭仲爽ほうちゅうそうしんった際に捕虜にした者ですが、(の)文王ぶんおうは彼を令尹れいいん宰相さいしょう)に任命してしんそくを滅ぼして県とし、ちんさいを臣従させ、(北方の)汝水じょすいまで領土を広げました。
ただ才能がある者をもちいることだけが大切であり、身分がいやしいことなど問題になりません」

子高しこう「天命は疑うべきものではありません。令尹れいいん子西しせい)はちんうらみを持っておりますから、天がもしちんを滅ぼさんとするなら、必ずや令尹れいいん子西しせい)の子にくみするでしょう。
右領ゆうりょう差車さしゃ左史さしろうは、2人の捕虜(観丁父かんていほ彭仲爽ほうちゅうそう)と同じくいやしい身分ですが、彼らほどの徳はありません。わたくしはそれをおそれるのです」

(決めかねた)恵王けいおううらないを行ったところ、「武城ぶじょういん子西しせいの子・公孫朝こうそんちょう)が吉である」と出た。

そこで公孫朝こうそんちょうに軍をひきいてちんの麦を刈り取らせたところ、ちんはこれをふせぎに出たが敗れ、ついに(は)ちんを包囲した。

秋7月、公孫朝こうそんちょうは軍をひきいてちんを滅ぼした。

脚注

*1白公はくこうしょう太子たいしけんの子。白公はくこうしょうは父のかたきであるていつことをうたが、しんていつと、ていを救援して盟約を結んだ。これに怒った白公はくこうしょうは、謀反むほんを起こして子西しせい子期しきを殺害すると、恵王けいおう掌握しょうあくして(穀倉こくそうである)高府こうふに向かったが、葉公ようこう沈諸梁しんしょりょうの攻撃を受け、首をくくって自害した。

備考

建安けんあん24年(219年)に孫権そんけん荊州けいしゅうを平定すると、それまでしょくに属していた荊州けいしゅうの部将や役人たちはみなに帰順したが、ただ潘濬はんしゅんだけは病気と称して孫権そんけんに目通りしようとしなかった。

そこで孫権そんけんは、人をって潘濬はんしゅんしょう(寝台)に乗せて連れて来させ、葉公ようこう沈諸梁しんしょりょうあざな子高しこう)の「捕虜の観丁父かんていほ彭仲爽ほうちゅうそうが重用された話」を引用して、

あなた1人がくだることを承知なさらないのは、わたしに古人のような度量がないと思われているのでしょうか?」

と言った。

孫権そんけんが側近の者に命じて手巾しゅきん(ハンカチ)で涙をぬぐわせると、潘濬はんしゅんは身を起こししょうから降りて拝謝した。

孫権そんけんはその場で彼を治中じちゅうに任命すると、荊州けいしゅうの諸軍事について常に潘濬はんしゅんの意見を求めた。


観丁父かんていほ」の関連記事

闞沢かんたく徳潤とくじゅん

生年不詳〜赤烏せきう6年(243年)没。揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん山陰県さんいんけんの人。

出自

闞沢かんたくは代々農夫の家系であった。

闞沢かんたくは学問を好み、家が貧しかったため常に他人のために傭書ようしょ*2をして紙筆代をかせいでいたが、写し終わった時には、(その書物を)暗誦あんしょうできるようになっていた。

師を求めて講論し、多くの書籍を読みあさり、また曆法れきほうに通じたことで名を知られるようになった。

脚注

*2写字や清書で報酬を得ること。

孫権に仕える

闞沢かんたく孝廉こうれんに推挙されて揚州ようしゅう呉郡ごぐん銭唐県せんとうけん県長けんちょうに任命され、その後、荊州けいしゅう桂陽郡けいようぐん郴県ちんけん県令けんれいうつった。

建安けんあん24年(219年)12月に孫権そんけん驃騎将軍ひょうきしょうぐんとなると、まねかれて西曹掾せいそうえんとなった。

曹丕の死を予言する

黄初こうしょ元年(220年)に文帝ぶんてい曹丕そうひ)が即位すると、孫権そんけんは落ち着いた様子で群臣たちにうて言った。

曹丕そうひは若い盛りで即位したが、わたしは若さでは曹丕そうひかなわないことを恐れている。けいらはどう思うか?*3

群臣たちが答えられずにいると、闞沢かんたくは「10年もたないうちに、曹丕そうひ)は死ぬでしょう。大王だいおう孫権そんけん)のご心配には及びません」と言った。

孫権そんけんが「なぜ分かるのか?」とうと、闞沢かんたくは「(名の)文字が語っています。不に十(十ならず)で、これが(曹丕そうひの)命数めいすう(天命・寿命)です」と答えた。

果たして文帝ぶんてい曹丕そうひ)は、それから7年後に亡くなった。

脚注

*3裴松之はいしょうし魏書ぎしょ闞沢伝かんたくでんの注で「わたくし松之しょうしが計算してみるに、孫権そんけん文帝ぶんてい曹丕そうひ)より5歳年上なだけで、年齢の差はわずかである」と言っている。

薛綜の助け舟

黄龍こうりゅう元年(229年)夏4月に孫権そんけんが尊号を称する(皇帝に即位する)と、闞沢かんたく尚書しょうしょに任命された。

ある時、西使(しょくの使者)の張奉ちょうほうが、孫権そんけん御前ごぜん尚書しょうしょ闞沢かんたくの姓名を分解し、(意地の悪い解釈をして)笑い者にしたが、闞沢かんたくは言い返すことができなかった。

すると謁者僕射えっしゃぼくや薛綜せっそうが、みずか張奉ちょうほうに酒を勧めて言った。

しょくとは何でしょうか?犬がいればひとりとなり、犬がいなければしょくとなり、(その文字は)目を横にして身をかがめ、その腹には虫が入っております」

これを受けて張奉ちょうほうが「君の(国の)についても、分解して解釈してください」と言うと、薛綜せっそうは答えて言った。

「口がなければ天となり、口があると(吴)になります。万国に君臨する天子てんしの都です」

これを聞いて満座が喜び笑い、張奉ちょうほうは返す言葉もなかった。

酷刑の復活を諌める

嘉禾かか年間(232年〜238年)中に中書令ちゅうしょれいとなり、待中じちゅうを加えられた。

赤烏せきう元年(238年)に呂壹りょいつ姦罪かんざいが発覚した時のこと。

有司(役人)がその罪状を調べ上げ、「大辟たいへき(死刑)に処すべき」と上奏し、ある者は「ふんあぶり)とれつくるまき)の刑を加えて、悪人のれの果てを見せしめとすべき」との意見をべた。

そこで孫権そんけん闞沢かんたくたずねて意見を求めたところ、闞沢かんたくは「この盛んで輝かしい御世みよに、そのような刑罰を復活させてはなりません」と答え、孫権そんけん闞沢かんたくの言葉に従った。


また諸官司(諸官庁)では不正に悩まされていたため、禁令・監視を強めて臣下たちを取り締まりたいと望んだが、闞沢かんたくはそのたびごとに「よろしくれいりつるべきです」と答えた。

闞沢かんたくの和をたっとびながらも正道を貫くさまは、みなこのようであった。

太子太傅となる

赤烏せきう5年(242年)には太子太傅たいしたいふを拝し、中書令ちゅうしょれいの職務はこれまで通りとされた。


闞沢かんたくは経書やその注釈の文章が煩多はんたで、そのままもちいることが困難であることから、諸家の説をみ取ってれいの本文と諸注釈を刊約(要約)すると、それを使って二宮にきゅう太子たいし孫和そんか魯王ろおう孫覇そんは)に教授し、外出・帰宅する際や賓客ひんかくと会見する際の作法を制定した。

また乾象歴注けんしょうれきちゅう*4あらわして、こよみと日時のずれを正した。


朝廷で重大な議論がされたり、経典について疑問がある時には、みなそのたびごとに闞沢かんたくたずねてうた。

儒学じゅがくはげんで功績があったことから、都郷侯ときょうこうに封ぜられた。

脚注

*4乾象歴けんしょうれきは、後漢ごかん末期に劉洪りゅうこう四分歴しぶんれきを改善して制定した暦法れきほう孫権そんけん暦法れきほうとしてこれを採用し、黄武こうぶ2年(223年)正月よりが滅びるまでもちいられた。

孫権に『過秦論』を勧める

闞沢かんたく謙恭けんきょう篤慎とくしん(礼儀正しくつつしみ深い)な性格で、役所の身分の低い役人を呼び寄せて質問する際にも、いつも対等の礼をとった。

他人に欠点がある時でもそれを口に出したりせず、彼自身の容貌ようぼうは学問があるようには見えなかったが、その見聞の広さには限りがなかった。


ある時 孫権そんけんが、

「書(経書)・伝(注釈)・へん(散文)・韻文いんぶん)の中で、どれが一番素晴らしいだろうか?」

たずねたところ、この質問にかこつけて「(孫権そんけんに)国家の治乱の原理を知って欲しい」と考えた闞沢かんたくは「賈誼かぎ過秦論かしんろんが最もすぐれています」と答え、その結果、孫権そんけん過秦論かしんろんを読むことにした。

闞沢の死

赤烏せきう6年(243年)冬、闞沢かんたくは亡くなった。孫権そんけんはその死を非常にしみ悲しんで、数日の間、食が進まなかった。

エピソード

丁固の非凡さを見抜く

孫皓そんこう時代の司徒しと・)丁固ていこ丁密ていみつ)がまだ襁褓むつき産着うぶぎ)の中にいた時のこと。

闞沢かんたく襁褓むつき産着うぶぎ)の中の彼を見てその非凡さを見抜き、「このは将来、必ず公輔こうほ宰相さいしょう)となるだろう」と言った。

九宮一算の術を求める

司隷しれい河南尹かなんいん出身の趙達ちょうたつは「九宮一算きゅうきゅういっさんの術」を治めてその奥深い意味をきわめ、その術によって臨機応変の策を立てることができ、人々の疑問に対しては神のごとき判断を下した。

趙達ちょうたつはその術を大切にして容易には人に明かさなかった。

闞沢かんたく殷礼いんれいをはじめとする名だたる儒者じゅしゃや善士(立派な人物)たちが、彼の元におもむき礼を尽くしてそれを学ぼうとしたが、趙達ちょうたつは秘め隠したまま教えようとはしなかった。

人物評

虜翻の評価

虜翻ぐはん闞沢かんたくを称賛して、

闞生かんせい闞沢かんたく)は、思うに(前漢せんかん末期の)しょくの人・揚雄ようゆうに匹敵する矯傑きょうけつである*5

闞子かんし闞沢かんたく)の儒術じゅじゅつ儒学じゅがく)・徳行は、現代の仲舒ちゅうじょ董仲舒とうちゅうじょ)だ」

と言った。

脚注

*5揚雄ようゆう前漢せんかん末期の文人・思想家。「きょう」には「正す・強い・勇ましい」の意味がある。

孫登の評価

赤烏せきう4年(241年)、太子たいし孫登そんとうがその死にのぞんで上疏じょうそした文の中に、闞沢かんたくの名前が登場する。

諸葛瑾しょかつきん步隲ほしつ朱然しゅぜん全琮ぜんそう朱拠しゅきょ呂岱りょたい吾粲ごさん闞沢かんたく厳畯げんしゅん張承ちょうしょう孫怡そんいらは、国家のために忠義を尽くし、治体ちたい(国を治めるための方法)に通じております。

彼らに命じて状況に合った処置を陳上させ、(諸制度の)苛煩かはん苛酷かこく煩雑はんざつなこと)をのぞき、兵馬をいつくしみやしない、百姓たちをやすんじなだめるのがよろしいでしょう」

朱育の評価

以前、会稽太守かいけいたいしゅであった王朗おうろうが、功曹こうそう虞翻ぐはんに「揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんの有能な人物」についてたずねたことがあった。

孫亮そんりょうの時代、会稽太守かいけいたいしゅ濮陽興ぼくようこうが「掾吏えんり(下級の官吏)をまねいた元旦のうたげ」の中で『虞翻ぐはんの返答』について知っている者はいないか?」とたずね、門下書佐もんかしょさ朱育しゅいくがこれに答えた。

すると濮陽興ぼくようこうは「御史ぎょし虞翻ぐはん)が言われた人々のことは分かった。彼らに次ぐ人材を、書佐しょさ朱育しゅいく)は知っているか?」と言った。この時 朱育しゅいくは、列挙した人物の中で、闞沢かんたくについて次のように言っている。

「深くうるわしい純粋な徳を持った人物といえば、太子太傅たいしたいふとなった山陰県さんいんけん出身の闞沢かんたくがおります。学問に精通し、行いはすぐれて立派で、帝の師儒しじゅ(学問を教える人)となりました」


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驩兜かんとう讙兜かんとう

生没年不詳。ぎょうの時代の悪人。共工きょうこう三苗さんびょうこんの3人と共に「四罪しざい」と呼ばれた。

共工を推挙する

ある時、ぎょうが(臣下たちに)「誰に政治をやらせるのが良いか?」とうた。

これに放斉ほうせいが「嗣子しし丹朱たんしゅは開明(聡明そうめい)であられます」と言うと、ぎょうは「あぁ、丹朱たんしゅ頑凶がんきょうかたくなな悪人)だ。もちいることはできない」と言った。

次に驩兜かんとうが「共工きょうこうはあまねく民衆に功をいております。適任でしょう」と言うと、ぎょうは「共工きょうこうは口ではいことを言っているが内心はよこしまで、うやうやしく見せてはいるが天をあなどっている。適任ではない」と言った。

またぎょうは言った。

「あぁ、四嶽しがくよ、(今、)大洪水によって山に囲まれた奥深い土地が冠水かんすいし、民はうれえている。誰か(この洪水を)治めることができる者はいないか?」

これにみなが「こんが良いでしょう」と言うと、ぎょうは「こんは命令をきかず、一族と仲が悪い。適任ではない」と言った。

そこで四嶽しがくが「それではためしにもちいてみて、適任でなければめさせればよろしいでしょう」と言うと、ぎょう四嶽しがくの意見をき入れてこんもちいたが、(こんは)9年っても洪水を治めることはできなかった。

追放されて南蛮となる

ぎょう四嶽しがくに位をがせようとしたが、四嶽しがくは辞退した。

そこでみなが推挙した虞舜ぐしゅんしゅん)に天子てんしまつりごとを行わせ、天命(の有無)を注視したところ、しゅんは天下をよく治めた。


以前、驩兜かんとう共工きょうこうを推挙した際、ぎょうは「適任ではない」と言いつつも、ためしに(共工きょうこうを)工師こうし(土木の長官)としてもちいたが、共工きょうこう淫辟いんへき*eであった。

四嶽しがく鴻水こうずい(洪水)を治めるためにこんを推挙したが、ぎょうは「適任ではない」と言った。四嶽しがくに強くわれてためしたが、こんは功績をげることはできず、百姓たちは不便な思いをした。

また、三苗さんびょう長江ちょうこう淮河わいが一帯と荆州けいしゅうでしばしば反乱を起こしていた。

しゅんは(巡察から)帰ると帝(ぎょう)に言上し、共工きょうこう幽陵ゆうりょうに流刑(流)にして「北狄ほくてき」に変え、驩兜かんとう崇山すうざんに追放(放)して「南蛮なんばん」に変え、三苗さんびょう三危さんきうつ(遷)して「西戎せいじゅう」に変え、こん羽山うざんに追放(殛)して「東夷とうい」に変えるよううた。

驩兜かんとう共工きょうこう三苗さんびょうこんの4人が罪に服して、天下はみな服従した。

脚注

*e1.放蕩ほうとう淫乱いんらん
2.邪悪・不正


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【三国志人物伝】総索引