後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、後漢ごかん期の車師国しゃしこく車師前国しゃしぜんこく車師後国しゃしこうこく)についてまとめています。

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西域諸国⑭車師国(後漢期)

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

車師前国(車師前部)【後漢期】

車師前国(後漢期)

車師前国しゃしぜんこく後漢ごかん期)*1

所在地・戸数・人口・兵力

車師前国しゃしぜんこくおうの治所である交河城こうかじょう*1は、城下を分流した河川がめぐっているので「交河こうか」と名付けられました。

長史ちょうし西域長史さいいきちょうし)の治所(柳中城りゅうちゅうじょう)まで80里(約34.4km)、東の洛陽らくよう雒陽らくよう)までは9,120里(約3,921.6km)あります。

  • 戸数:1,500余戸
  • 人口:4,000余人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):2,000人
脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区吐魯番トルファンの北西。

車師後国(車師後部)【後漢期】

車師後国(後漢期)

車師後国しゃしこうこく後漢ごかん期)*1

所在地・戸数・人口・兵力

車師後国しゃしこうこくおうの治所である務塗谷むとこく*2は、長史ちょうし西域長史さいいきちょうし)の治所(柳中城りゅうちゅうじょう)まで500里(約215km)、東の洛陽らくよう雒陽らくよう)までは9,620里(約4,136.6km)あります。

  • 戸数:4,000余戸
  • 人口:15,000余人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):3,000余人
脚注

*2新疆しんきょうウィグル自治区吉木薩爾ヂムサルの南。

車師六国

  • 車師前国しゃしぜんこく
  • 車師後国しゃしこうこく
  • 東且弥国とうしょびこく
  • 卑陸国ひりくこく*3
  • 蒲類国ほるいこく*4
  • 移支国いしこく

の6国を車師しゃし六国と呼び、北は匈奴きょうどと接し、車師前国しゃしぜんこくは西方の焉耆国えんきこくの北道に通じ、車師後国しゃしこうこくは西方の烏孫国うそんこくに通じています。

脚注

*3新疆しんきょうウィグル自治区阜康フーカンの東一帯。

*4新疆しんきょうウィグル自治区巴里坤バルクルの西方、蒲類海ほるいかい巴爾庫勒泊パールクロポ)地方。


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車師国と中国の関係

光武帝期

建武けんぶ21年(45年)、(車師国しゃしこくは)鄯善国ぜんぜんこく焉耆国えんきこくと共に子をつかわして(朝廷に)入侍にゅうじさせましたが、光武帝こうぶていは彼らを送りかえしたので匈奴きょうどに従属しました。

明帝期

永平えいへい16年(73年)、かん伊吾盧いごろ*5を取って西域さいいきと通じるようになると、車師国しゃしこくはまたかんに内属しましたが、匈奴きょうどが兵を派遣して攻撃して来ると、再び北虜ほくりょ匈奴きょうど)に降伏しました。

脚注

*5新疆しんきょうウィグル自治区哈密クムル。東西交易路上の要地。

和帝期

永元えいげん2年(90年)、大将軍だいしょうぐん竇憲とうけん北匈奴きたきょうどを破ると車師国しゃしこくは震え上がり、車師前部王しゃしぜんぶおう車師後部王しゃしこうぶおうはそれぞれ子をつかわし、貢ぎ物を奉じて(朝廷に)入侍にゅうじさせ、どちらも印綬いんじゅ金帛きんぱく(金ときぬ)をたまわりました。


永元えいげん8年(96年)、戊己校尉ぼきこうい索頵さくいん車師後部王しゃしこうぶおう涿鞮たくていを廃位して破虜侯はりょこう細致さいちを立てようとすると、涿鞮たくてい車師前部王しゃしぜんぶおう尉卑大いひだいが自分を売ったことに忿いきどおり、尉卑大いひだいを攻撃してその妻子を捕らえました。


翌年の永元えいげん9年(97年)、かん将兵長史しょうへいちょうし王林おうりんを派遣し、涼州りょうしゅう6郡の兵および羌胡きょうこ2万余人を徴発して涿鞮たくていち、斬首・捕虜にした数は千余人にのぼりました。

涿鞮たくていは逃亡して北匈奴きたきょうどに入りましたが、かん軍は追撃してこれを斬り、涿鞮たくていの弟の農奇のうきを立てて車師後部王しゃしこうぶおうとしました。

安帝期

永寧えいねい元年(120年)に至ると、車師後部王しゃしこうぶおう軍就ぐんしゅうと母の沙麻さまが反乱を起こし、(車師しゃしの)後部司馬こうぶしば*6敦煌行事とんこうこうじ*7を殺害します。


そして延光えんこう4年(125年)に至ると、長史ちょうし西域長史さいいきちょうし)の班勇はんゆう軍就ぐんしゅうを攻撃して大いに破り、これを斬りました。

脚注

*6車師後国しゃしこうこくに駐屯している武官。戊校尉ぼこういの統轄下に属する。

*7行事こうじとは前の行西域長史こうさいいきちょうしであった索班さくはんのことをいう。

順帝期

永建えいけん元年(126年)、班勇はんゆう車師後部王しゃしこうぶおう農奇のうきの子・加特奴かとくど八滑はっかつらをひきい、精兵を動員して北虜ほくりょ匈奴きょうど)の呼衍王こえんおうを攻撃し、これを破りました。

班勇はんゆうは上奏して加特奴かとくど車師後部王しゃしこうぶおうに立て、八滑はっかつ後部親漢侯こうぶしんかんこうに封じました。


陽嘉ようか3年(134年)夏、車師しゃし後部司馬こうぶしば*6は、加特奴かとくどら1,500人をひきいて閶吾陸谷しょうごりくこく北匈奴きたきょうどを襲撃し、その廬落ろらく(住居)を破壊して数百級を斬り、単于ぜんうの母や季母おば、婦女数百人を捕らえ、牛・羊10余万頭、車千余両、その他非常に多くの武器や什物じゅうもつ(日用品)を手に入れました。


陽嘉ようか4年(135年)春、北匈奴きたきょうど呼衍王こえんおうが兵をひきいて車師後国しゃしこうこくに侵攻すると、順帝じゅんてい車師しゃし六国が「北虜ほくりょ匈奴きょうど)に接近している西域さいいきの防御の要所」であることから、敦煌太守とんこうたいしゅに命じて諸国の兵および玉門関ぎょくもんかん斥候せっこう伊吾司馬いごしばら、合わせて6,300騎を動員してこれを救援させ、勒山ろくざん北虜ほくりょ匈奴きょうど)を掩擊えんげき(不意打ち)しましたが、かん軍は勝つことはできませんでした。

秋、呼衍王こえんおうは再び2千人をひきいて車師後国しゃしこうこくを攻め、これを破りました。

脚注

*6車師後国しゃしこうこくに駐屯している武官。戊校尉ぼこういの統轄下に属する。

桓帝期

元嘉げんか元年(151年)、呼衍王こえんおうは3千余騎をひきいて伊吾いごに侵攻すると、伊吾司馬いごしば毛愷もうかいは属吏と兵士5百人を派遣して蒲類海ほるいかいの東で呼衍王こえんおうと戦いますが、全滅のき目にい、ついに呼衍王こえんおう伊吾いご屯城とんじょうを攻めました。


夏、かん敦煌太守とんこうたいしゅ司馬達しばたつを派遣して敦煌郡とんこうぐん酒泉郡しゅせんぐん張掖属国ちょうえきぞっこくの吏士4千余人をひきいてこれを救援させようと、とりでを出て蒲類海ほるいかいに向かわせましたが、呼衍王こえんおうは(かんの援軍が向かっていることを)聞くと兵を退いたため、かん軍は戦功を立てることもできずに帰還しました。


永興えいこう元年(153年)、車師後部王しゃしこうぶおう阿羅多あらた戊部ぼぶ戊校尉ぼこうい)の斥候せっこう厳皓げんこうと仲が悪く、ついに忿いきどおって反乱を起こし、かん屯田とんでんのある且固城しょこじょうを攻め、包囲して吏士を殺傷しました。

その後、車師後国しゃしこうこく斥候せっこう炭遮領たんしゃれいの残党が阿羅多あらたそむき、かんの役人の元にやって来て降伏すると、阿羅多あらたは追いめられ、母と妻子を連れ百余騎を従えて亡命し、北匈奴きたきょうどに逃亡します。

すると敦煌太守とんこうたいしゅ宋亮そうりょうは、上奏して車師後国しゃしこうこくおうであった軍就ぐんしゅう質子ちし*7卑君ひくん車師後部王しゃしこうぶおうに立てました。

のち阿羅多あらたはまた匈奴きょうどから帰還し、かん擁立ようりつした卑君ひくんと国を争って多くの国人を(味方に)おさめました。

戊校尉ぼこうい閻詳えんしょうは「阿羅多あらた北虜ほくりょ匈奴きょうど)をまねき入れて西域さいいきを乱そうとしている」ことを憂慮し、(民に)告示して「阿羅多あらたが再びおうとなること」を許すと、阿羅多あらた閻詳えんしょうの元にやって来て降伏します。そこで卑君ひくん賜与しよした印綬いんじゅを収奪し、改めて阿羅多あらた車師後部王しゃしこうぶおうに立てました。

そこで卑君ひくんを連れて敦煌郡とんこうぐんに帰還し、車師後国人しゃしこうこくじん3百帳*8を別に従属させて使役し、その租税を収入としました。

脚注

*7諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおう天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせるという名目でかんみやこに送った子息のこと。人質の一種で侍子じしとも言う。

*8帳とは、中国における戸数のようなものである。


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【後漢・三国時代の異民族】目次