後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、康居国こうきょこく栗戈国りつよくこく厳国げんこく奄蔡国えんさいこくについてまとめています。

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西域諸国㉒都護の管轄外⑥

康居国【前漢期】

康居国(前漢)

康居国こうきょこく*1

※国境線は現代のもの。

所在地・戸数・人口・兵力

康居国こうきょこく*1おうは、冬は楽越匿地らくえつとくちにおいて統治を行い、春・秋は卑闐城ひてんじょうに、夏は蕃内はんないに移動して統治を行います。

卑闐城ひてんじょうは)長安ちょうあんから12,300里(約5,289km)の場所にあり、都護とご西域都護さいいきとご)の管轄に属していません。(卑闐城ひてんじょうから)越匿地えつとくちまでは馬で7日、おうの夏の居所・蕃内はんないまで9,104里(約3,914.72km)あり、都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)までは5,550里(約2,386.5km)あります。

  • 戸数:12万戸
  • 人口:60万人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):12万人

風俗

  • 風俗は大月氏国だいげっしこく*2と同じです。

統治

  • 東方の匈奴きょうど束縛そくばくされてこれに仕えた。

康居国こうきょこくの5人の小王

康居国こうきょこく*1には、

  1. 蘇薤王そかいおう蘇薤王そかいおうが治める蘇薤城そかいじょうは、都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)から5,776里(約2,483.68km)、陽関ようかんから8,025里(約3,450.75km)の場所にあります。
  2. 附墨王ふぼくおう附墨王ふぼくおうが治める附墨城ふぼくじょうは、都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)から5,767里(約2,479.81km)、陽関ようかんから8,025里(約3,450.75km)の場所にあります。
  3. 窳匿王ゆとくおう窳匿王ゆとくおうが治める窳匿城ゆとくじょうは、都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)から5,266里(約2,264.38km)、陽関ようかんから7,525里(約3,235.75km)の場所にあります。
  4. 罽王けいおう罽王けいおうが治める罽城けいじょうは、都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)から6,296里(約2,707.28km)、陽関ようかんから8,555里(約3,678.65km)の場所にあります。
  5. 奧鞬王いくけんおう奧鞬王いくけんおうが治める奧鞬城いくけんじょうは、都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)から6,906里(約2,969.58km)、陽関ようかんから8,355里(約3,592.65km)の場所にあります。

の5人の小王しょうおうがおり、みな康居国こうきょこく*1に属していました。

脚注

*1中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

*2新疆しんきょうウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアアムール川上流一帯にうつり、今日にいたる。王治おうちおうの治所)・監氏城らんしじょうアフガニスタンマザーリシャリーフ

康居国こうきょこくと中国の関係

前漢・宣帝期

匈奴きょうどの秩序が乱れて5人の単于ぜんうが争い合い、前漢ぜんかん呼韓邪こかんや単于ぜんう擁立ようりつしたが、郅支しつし単于ぜんうはこれをうらんで前漢ぜんかんの使者を殺害し、西方の険阻な康居国こうきょこく*1を拠点としました。

前漢・元帝期

建昭けんしょう3年(紀元前36年)、都護とご西域都護さいいきとご)の甘延寿かんえんじゅ西域副校尉さいいきふくこうい陳湯ちんとうが、戊己校尉ぼきこういが管轄する西域諸国の兵を徴発して康居国こうきょこく*1に至り、郅支しつし単于ぜんう誅滅ちゅうめつしました。

前漢・成帝期

康居王こうきょおうは子をつかわし前漢ぜんかん入侍にゅうじさせ、みつぎ物を献上したが、みずからは前漢ぜんかんからきわめて遠くへだたっているため、一人おごり高ぶって、他の西域諸国と同一視されることを認めませんでした。

都護とご西域都護さいいきとご)の郭舜かくしゅんはたびたび成帝せいていに言上して、


敦煌とんこう酒泉しゅせんの小郡や南道なんどうの8国は、みな『使者の往来による人・馬・驢馬ろば橐駝たくだ駱駝らくだ)への食糧の供給』に苦しんでいます。通過する国々を疲弊ひへいさせてまで、おごり高ぶった絶遠ぜつえんの国(康居国こうきょこく*1)の使者を送迎することは最上のはかりごとではありません。

また、おごり高ぶった康居国こうきょこく*1を放置しておくと、従属している匈奴きょうどにも悪影響をもたらします。(康居国こうきょこく*1の)侍子じし(人質)を帰して決して再び使者を派遣せず、『漢家かんけが無礼の国とは通じない』ことを明らかにすべきです」


と申し上げたが、前漢ぜんかんは「康居国こうきょこく*1が新たに通じた国」であることから、遠人の招致を重視して、ついに康居国こうきょこく*1との交通を絶ちきりませんでした。

郭舜かくしゅんの言上・全文
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「以前、匈奴きょうどが盛強であったのは、烏孫うそん康居こうきょを従えていたからではありません。また、匈奴きょうど臣妾しんしょうと称する(従属する)ようになったのも、その2国を失ったからではありません。

かん前漢ぜんかん)はそれらの国から質子ちし(人質)を受けていますが、3国(匈奴きょうど烏孫うそん康居こうきょ)は互いに物資を輸送し、使者を派遣して相変わらず交通し、また互いにうかがい合って、有利と見れば侵略しています。合同しても親しみ信じ合うことができず、分離しても互いに相手を臣下として使役することができないのです。

今もって言えば、烏孫うそんと婚姻を通じましたが、いまだに何ら利益がなく、返って中国に事故を起こさせています。ですが烏孫うそんは以前からかんと結んでおり、今、匈奴きょうどと共に臣下と称する以上、義においてこれをこばむことはできません。

それなのに康居こうきょは、おごり高ぶってかんの使者に拝礼することをこばんでいます。都護とごの役人が康居国こうきょこく*1を訪問した時には烏孫うそんの使者たちの下座に着かせ、(康居国こうきょこく*1の)おう貴人きじんらがず飲食し、それが終わってから初めて都護とごの役人に飲食させるなど、殊更ことさらかんの使者を無視して隣国にほこったのであります。

こうしたことをおもんぱかれば、一体何のために子をつかわして入侍にゅうじさせているのでしょうか?彼らが交易して親善したいと言うのはいつわりの言葉に過ぎません。

匈奴きょうどは百蛮の大国でありながら、今はかんに従属してその備えとなっておりますが、『康居こうきょかんの使者に拝礼しない』と聞けば、『匈奴きょうど康居こうきょの下位なのか』と思わせてしまいます。(康居こうきょの)侍子じし(人質)を帰して決して再び使者を派遣せず、『漢家かんけが無礼の国とは通じない』ことを明らかにすべきです。

敦煌とんこう酒泉しゅせんの小郡や南道なんどうの8国は、みな『使者の往来による人・馬・驢馬ろば橐駝たくだ駱駝らくだ)への食糧の供給』に苦しんでいます。通過する国々を疲弊ひへいさせてまで、おごり高ぶった絶遠ぜつえんの国(康居国こうきょこく*1)の使者を送迎することは最上のはかりごとではありません」

脚注

*1中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

栗戈国

栗戈国りつよくこく

  • 栗戈国りつよくこく康居国こうきょこく*1に属しています。

風土

  • 名馬・牛・羊を産出します。
  • 蒲萄ぶどうなどのたくさんの果物を産出します。
  • 土と水が綺麗で、栗戈国りつよくこく蒲萄酒ぶどうしゅは特に有名です。

厳国

厳国げんこく

厳国げんこく奄蔡国えんさいこくの北にあり、康居国こうきょこく*1に属しています。

風土

ねずみの皮を産出し、これを康居国こうきょこく*1おさめています。

脚注

*1中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

奄蔡国(阿蘭聊国)【前漢期】

奄蔡国(前漢)

奄蔡国えんさいこく

※国境線は現代のもの。

所在地・兵力

奄蔡国えんさいこくは、康居国こうきょこく*1の西北2,000里(約860km)の場所にあります。

  • 控弦者こうげんしゃ(弓射にたくみな兵):10余万人

風土・風俗

  • 大きな沢にのぞんではてが見えず、あるいはそれが北海ほっかい*3であると言われています。
  • 風俗は康居国こうきょこく*1と同じです。
脚注

*1中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

*3裏海りかいカスピ海)。

阿蘭聊国(奄蔡国)【後漢期】

阿蘭聊国(後漢)

阿蘭聊国あらんりょうこく

所在地

奄蔡国えんさいこく阿蘭聊国あらんりょうこくと名を改め、地城ちじょうに居城を置き、康居国こうきょこく*1に属しています。

風土・風俗
  • 風土・気候は温暖で、ねずみもち(タマツバキ)・松・白草(牛馬の飼料)が多く生息しています。
  • 風俗や衣服は康居国こうきょこく*1と同じです。

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【後漢・三国時代の異民族】目次