後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、前漢ぜんかんしん期の車師国しゃしこく車師前国しゃしぜんこく車師後国しゃしこうこく車師都尉国しゃしといこく車師後城長国しゃしこうじょうちょうこく)についてまとめています。

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西域諸国⑬車師国

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

車師前国(前漢期)

車師前国(前漢期)

車師前国しゃしぜんこく前漢ぜんかん期)*1

所在地・戸数・人口・兵力

車師前国しゃしぜんこく*1おうの治所である交河城こうかじょうは、城下を分流した河川がめぐっているので「交河こうか」と名付けられました。

長安ちょうあんから8,150里(約3,504.5km)の場所にあり、西南は都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで1,807里(約777.01km)、焉耆国えんきこくまで835里(約359.05km)あります。

  • 戸数:700戸
  • 人口:6,050人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):1,865人
脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区吐魯番トルファン広安城こうあんじょうの西の地方。

官職

  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 安国侯あんこくこう:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 都尉とい:1人
  • 帰漢都尉きかんとい:1人
  • 車師君しゃしくん:1人
  • 通善君つうぜんくん:1人
  • 郷善君きょうぜんくん:1人
  • 訳長えきちょう:2人

車師後国(前漢期)

車師後国(前漢期)

車師後国しゃしこうこく前漢ぜんかん期)

所在地・戸数・人口・兵力

車師後国しゃしこうこくおうの治所である務塗谷むとこくは、長安ちょうあんから8,950里(約3,848.5km)、西南の都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで1,237里(約531.91km)の場所にあります。

  • 戸数:595戸
  • 人口:4,774人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):1,890人

官職

  • 擊胡侯げきここう:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 道民君どうみんくん:1人
  • 訳長えきちょう:1人

車師都尉国(前漢期)

車師都尉国(前漢期)

車師都尉国しゃしといこく前漢ぜんかん期)

戸数・人口・兵力

  • 戸数:40戸
  • 人口:333人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):84人

車師後城長国(前漢期)

車師後城長国(前漢期)

車師後城長国しゃしこうじょうちょうこく前漢ぜんかん期)

戸数・人口・兵力

  • 戸数:154戸
  • 人口:960人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):260人

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車師国と中国の関係

武帝期

かんに臣属する

前漢ぜんかん武帝ぶてい天漢てんかん2年(紀元前99年)、かん匈奴きょうどの投降者である介和王かいわおう開陵侯かいりょうこうに封じて彼に楼蘭国ろうらんこくの兵をひきいさせ、初めて車師国しゃしこくちましたが、匈奴きょうど右賢王ゆうけんおうひきいる数万騎を派遣してこれを救ったので、かん軍は不利となり兵を退いて去りました。

征和せいわ4年(紀元前89年)、かん重合侯じゅうごうこう馬通ばつうに4万騎をひきいさせて匈奴きょうどたせましたが、道中、車師国しゃしこくの北を通過するため、再度開陵侯かいりょうこう介和王かいわおう)に楼蘭国ろうらんこく尉犁国いりこく危須国きしゅこくなど6ヶ国の兵をひきいさせ、車師国しゃしこくたせて重合侯じゅうごうこう馬通ばつう)をさえぎることができないようにさせました。

この時、開陵侯かいりょうこう介和王かいわおう)が諸国の兵をひきいて車師国しゃしこくを包囲すると、車師王しゃしおうは降伏し、かんに臣属しました。

昭帝期

匈奴きょうど車師国しゃしこく屯田とんでんする

昭帝しょうていの時代、匈奴きょうどはまた4千騎を車師国しゃしこくに派遣して屯田とんでんさせました。

宣帝期

再びかんに通じる

宣帝せんていが即位すると、かんは5人の将軍しょうぐんに兵をひきいさせ、匈奴きょうどたせました。すると車師国しゃしこく屯田とんでんしていた匈奴兵きょうどへいは驚いて去り、車師国しゃしこくは再びかんに通じました。

匈奴きょうどと婚姻を結ぶ

車師国しゃしこくが再びかんに通じると)匈奴きょうどは怒って(車師国しゃしこくの)太子たいし軍宿ぐんしゅくし出して人質にしようとしましたが、焉耆王えんきおう外孫がいそんよめにやった娘の子)であった軍宿ぐんしゅくは、匈奴きょうどの人質になることを嫌って焉耆国えんきこくに逃亡してしまったため、車師王しゃしおうは改めて烏貴うき太子たいしとしました。

そして烏貴うき車師王しゃしおうに立つと、匈奴きょうどと婚姻を結び、かんから烏孫国うそんこくに通じる道を教えて匈奴きょうどさえぎらせるようになります。

3たびかんに降伏する

地節ちせつ2年(紀元前68年)、かん侍郎じろう鄭吉ていきつ校尉こうい司馬喜しばきを派遣して「刑を免除された罪人」をひきいて渠犁国きょりこく屯田とんでんさせ、穀物こくもつを備蓄した上で車師国しゃしこくを攻めようとしました。

秋になって穀物こくもつが収穫されると、鄭吉ていきつ司馬喜しばきは城郭諸国の兵1万余人を徴発し、みずかひきいる田士でんし屯田兵とんでんへい)1,500人と共に車師国しゃしこくち、交河城こうかじょうを攻めてこれを破りますが、車師王しゃしおうはなお北の石城せきじょうにいて捕らえるには至りませんでした。

その後、鄭吉ていきつらは兵糧が尽きたため兵を退き、渠犁国きょりこくに帰って農耕に専念し、秋の収穫が終わるとまた出兵して車師王しゃしおうもる石城せきじょうを攻めました。

漢兵かんぺいがやって来る」と聞いた車師王しゃしおうは、みずから北の匈奴きょうどに救援を求めましたが、匈奴きょうどは救援の兵を出しませんでした。

車師王しゃしおう石城せきじょうに帰ると貴人(貴族)の蘇猶そゆうと評議して「かんに降伏したい」と願いましたが、ただかんに信用されないことだけが気がかりでした。そこで蘇猶そゆう車師王しゃしおうに勧め、匈奴きょうど近辺の小国・蒲類国ほるいこくって(そのおうの)首を斬り、民を略奪して鄭吉ていきつに降伏しました。

この時、車師国しゃしこくに隣接する小国・金附国きんぷこく漢軍かんぐんに従軍して車師国しゃしこくに略奪を行ったため、車師王しゃしおうはまた「金附国きんぷこくを擊破すること」をみずから(かんに)いました。

かん車師国しゃしこく屯田とんでんする

車師王が烏孫国に逃亡する

匈奴きょうどは「車師国しゃしこくかんに降伏した」ことを聞くと、兵を発して車師国しゃしこくを攻めましたが、北方で鄭吉ていきつ司馬喜しばきの軍と遭遇そうぐうします。ですが匈奴きょうどえてそれ以上前進しようとしなかったため、鄭吉ていきつ司馬喜しばき軍候ぐんこう1人と兵卒20人をとどめて車師王しゃしおうを守らせ、鄭吉ていきつらは兵をひきいて渠犁国きょりこくに帰りました。

すると車師王しゃしおうは「再び匈奴きょうどがやって来て殺される」ことを恐れ、軽騎兵を従えて烏孫国うそんこくに逃亡してしまったので、鄭吉ていきつはすぐさま(残された車師王しゃしおうの)妻子を渠犁国きょりこくに迎えました。

漢が車師国に屯田する

東(長安ちょうあん)に戦勝を奏上するため酒泉郡しゅせんぐんまで来たところでみことのりが下り、鄭吉ていきつは引き返して渠犁国きょりこく車師国しゃしこく屯田とんでんします。これによりかんは益々穀物こくもつを備蓄して西国さいごく西域さいいき)を安定させ、匈奴きょうどに侵攻しました。

鄭吉ていきつは帰還し、車師王しゃしおうの妻子を駅伝で送って長安ちょうあんに至ると、はなはだ手厚く賞賜しょうしされ、四夷しい(四方の異民族)と朝会するたびに、常に彼をたっと顕彰けんしょうして(四夷しいらに)示しました。

こうして鄭吉ていきつは、ここに初めて渠犁国きょりこくにいた吏卒りそつ(官吏と兵卒)3百人に、別に車師国しゃしこく屯田とんでんさせました。

匈奴きょうどの来襲

匈奴きょうどから)投降者があり、その投降者は、

単于ぜんうや大臣はみな『車師しゃしの地は肥沃ひよく匈奴きょうどに近く、かんに取られれば屯田とんでんを多くして穀物こくもつを備蓄し、必ず人の国(匈奴きょうど)を害するに違いない。(かんと)争わずにはおられまい』と言っていた」

と言いました。

その言葉の通り、匈奴きょうどの騎兵がやって来て耕作者を攻撃すると、鄭吉ていきつ校尉こういと共に渠犁国きょりこく田士でんし屯田兵とんでんへい)1,500人の全軍をひきいて車師国しゃしこくに行き、そこで耕作を行いました。ですが、匈奴きょうどは益々騎兵を送り込んで来たので、かん田卒でんそつ屯田兵とんでんへい)が少なくこれに対抗できず、車師城しゃしじょうって守りました。

すると匈奴きょうどの将が城下にやって来て「単于ぜんうは必ずこの地を争うのだから、ここでは耕作しない方が良い」と言い、包囲は数日でけました。

かんはその後も常に数千騎で往来して車師国しゃしこくを守りましたが、鄭吉ていきつは上書して言いました。

車師国しゃしこく渠犁国きょりこくから千余里(約430km)、その間は河や山でへだてられ、北は匈奴きょうどに近く、渠犁国きょりこく漢兵かんぺいは救い合うことができません。つきましては田卒でんそつ屯田兵とんでんへい)を増やしていただきたく願います」

ですが、公卿こうけいが評議した結果は「(車師国しゃしこくまでは)道は遠く出費がかさむため、当分の間、車師国しゃしこく屯田とんでんめるべきである」というものでした。

そこでみことのりが下って長羅侯ちょうらこう常恵じょうけい)がつかわされ、張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐんの騎兵をひきいて車師国しゃしこくの北・千余里、車師国しゃしこくの近隣に威武をげさせました。

これにより匈奴きょうど)の騎兵が退き去ったので、鄭吉ていきつはようやく渠犁国きょりこくに帰ることができ、3人の校尉こうい車師国しゃしこく屯田とんでんしました。

匈奴きょうどとの関係を絶つ

車師王しゃしおう烏孫国うそんこくに逃亡して来ると、烏孫国うそんこくは彼を引きとどめ、かんに上書して、

車師王しゃしおうとどめおいて国の危急にそなえ、西道から匈奴きょうどつことができるようにしたい」

と願い、かんはこれを許可しました。

そこでかんは、焉耆国えんきこくにいる元車師国しゃしこく太子たいし軍宿ぐんしゅくし出して車師王しゃしおうに立て、すべての車師国しゃしこくの民を渠犁国きょりこくうつし、ついに元の車師国しゃしこくの地を匈奴きょうどに与えました。

これにより車師王しゃしおうかん田官でんかんに近づくことができ、匈奴きょうどと関係をって、安楽にかんと親しみました。

車師国しゃしこく戍己校尉ぼきこういが置かれる

元康げんこう4年(紀元前62年)、かんの使者・侍郎じろう殷広いんこうは、烏孫国うそんこくがいつまでも車師王しゃしおう烏貴うきを引きとどめていることを責め、烏貴うきともなって宮城におもむくと、(烏貴うきは)邸宅をたまわって妻子と共にそこに住みました。

その後かんは、元の車師国しゃしこくの地に戍己校尉ぼきこういを置いて屯田とんでんさせました。

平帝期

車師後王しゃしこうおう姑句ここう匈奴きょうどに逃亡する

元始げんし年間(1年〜5年)、車師後王国しゃしこうおうこくに新道ができました。その新道は五船ごせんから出て、北行して玉門関ぎょくもんかんに通じており、これは戍己校尉ぼきこうい徐普じょふが道程を半分にしようとして白龍堆はくりょうたい隘路あいろの難をけるために開いた道で、往来するのにやや近くなりました。

ですが車師後王しゃしこうおう姑句ここうは、新道を往来するかんの使者のために食糧を備蓄し供給しなければならないので、心中わずらわしく思っていました。

また、新道が通る地が匈奴きょうど南将軍なんしょうぐんの地と接していたので、徐普じょふはその境界をはっきりさせた上で奏上しようと思い、姑句ここうしてその証人としようとしましたが、承諾しなかったので姑句ここうを捕らえました。そこで姑句ここうはしばしば牛や羊を賄賂わいろとして役人におくって釈放を求めましたが、効果はありませんでした。

その頃、姑句ここうの家で「ほこの先端に火が生じた」ので、妻の股紫陬こしそう姑句ここうに、

ほこの先端に火が生じたのは『いくさの気』であり、兵をもちいるのに有利です。さき車師前王しゃしぜんおう都護司馬とごしばによって殺されました。今、(あなたは)久しくごくつながれており、このままでは必ず殺されます。匈奴きょうどに降伏するべきです」

と言い、ただちに馬をせ、高昌壁こうしょうへき車師前国しゃしぜんこくの城塁)を突破して匈奴きょうどに入りました。

王莽おうもう車師後王しゃしこうおう姑句ここう去胡来王きょこらいおう唐兜とうとうを斬る

また、去胡来王きょこらいおう婼羌国じきょうこくおう)・唐兜とうとうは、羌族きょうぞくの大種族・赤水羌せきすいきょうに近く、互いに侵犯を繰り返していました。唐兜とうとう赤水羌せきすいきょうに勝つことができないため都護とご西域都護さいいきとご)に危急を告げますが、都護とご西域都護さいいきとご)の但欽たんきん時宜じぎかなう救助を行いませんでした。

唐兜とうとう困窮こんきゅうし、但欽たんきんうらんで東方の玉門関ぎょくもんかんに向かいましたが、玉門関ぎょくもんかんは彼を受け入れなかったため、すぐさま妻子と民・千余人をひきいて逃亡し、匈奴きょうどに降伏しました。匈奴きょうどはこれを受け入れ、(かんに)使者を派遣し、上書してこのことを報告します。

すると、当時(かんの)政権をにぎっていた新都侯しんとこう王莽おうもうは、中郎将ちゅうろうしょう王昌おうしょうらを匈奴きょうどに派遣して、単于ぜんうに「西域さいいき諸国の服属を受けてはならない」と告げたので、単于ぜんうは謝罪し、2人のおう車師後王しゃしこうおう姑句ここう去胡来王きょこらいおう唐兜とうとう)を捕らえました。王莽おうもう中郎ちゅうろう王萌おうほうを派遣して西域さいいき悪都奴あくとどの境界で待たせ、これを迎え受けました。

単于ぜんうはその使者を送り、その使者を通じて罪の赦免しゃめんうたが、王莽おうもうは聞き入れず、みことのりを下して西域さいいき諸国のおうを集め、軍をつらねて車師後王しゃしこうおう姑句ここう去胡来王きょこらいおう唐兜とうとうを斬って見せしめとしました。

新・王莽期

西域都護さいいきとご但欽たんきん車師後王しゃしこうおう須置離しゅちりを斬る

王莽おうもうかんの帝位を簒奪さんだつした後の始建国しけんこく2年(10年)、王莽おうもう広新公こうしんこう甄豊しんぽう右伯ゆうはくとして西域さいいきに出す予定でしたが、車師後王しゃしこうおう須置離しゅちりはこれを聞くと、その右将ゆうしょう股鞮こてい左将さしょう屍泥支しでいしはかって、

「聞けば、甄公しんこう甄豊しんぽう)は西域さいいき太伯たいはくとなって出国しゅっこくするとか。故事(前例)では使者に牛・羊・穀物・芻茭まぐさを供給し、道案内や通訳を出すが、以前[始建国しけんこく元年(9年)]、五威将ごいしょう(・王奇おうきら)が通過した際には、使者に供給した程度では充分ではなかった。今また太伯たいはくが出国すると言う。国は益々貧しく、恐らくその求めにかなうことはできないだろう」

と言い、匈奴きょうどに逃亡しようとします。

これを聞き知った戊己校尉ぼきこうい刁護ちょうご須置離しゅちりして験問けんもんしたところ、須置離しゅちりが白状したので、かせを掛けて都護とご西域都護さいいきとご)の但欽たんきんのいる埒婁城れつろうじょうに護送しました。

この時、車師後王しゃしこうおう須置離しゅちりの民はおうが帰って来ないことを知ってみないて見送り、埒婁城れつろうじょうに到着すると、但欽たんきん須置離しゅちりを斬りました。

国をげて匈奴きょうどに降伏する

陳良らの反乱

須置離しゅちりの兄の輔国侯ほこくこう狐蘭支こらんしは、須置離しゅちりの軍勢2千余人をひきい家畜を駆り立て、国をげて匈奴きょうどに逃亡し、降伏しました。

当時、単于ぜんうは「王莽おうもう単于ぜんう印璽いんじ)を改めたこと」をうらみ怒っていたので、ついに狐蘭支こらんしの降伏を受け入れ、兵を派遣して(狐蘭支こらんしと)共に車師国しゃしこくって車師後城長王しゃしこうじょうちょうおうを殺害し、都護司馬とごしばを傷つけました。狐蘭支こらんしの兵はまた引き返して匈奴きょうどに入ります。

この時、戊己校尉ぼきこうい刁護ちょうごは病気だったため、(副官)の陳良ちんりょう桓且谷かんしょこくに駐屯させて匈奴きょうどの攻撃にそなえさせ、(副官)の終帯しゅうたいには糧食を求めさせ、司馬丞しばじょう韓玄かんげんには諸々もろもろの城壁を、右曲候ゆうきょくこう任商じんしょうには諸々もろもろとりでを守備させていましたが、彼らは共にはかって、

西域さいいき諸国がかん背叛そむき、匈奴きょうども大がかりな侵攻をしようとしており、(彼らがやって来れば)きっと殺される。校尉こういを殺し、軍勢をひきいて匈奴きょうどに降伏するしかない」

と言うと、すぐさま数千騎をひきいて校尉府こういふに向かい、諸ていおどしてまきを積んで烽火のろしげさせ、諸壁にそれぞれ告げて、

匈奴きょうどの10万騎が侵入して来た、吏士はみな武器を持て。遅れる者は斬れっ!」

と言いました。

これにより3〜4百人を得て校尉府こういふから数里の所にとどまると、夜明け方を待って火を放ちます。

校尉こういが門を開き太鼓たいこを打って吏士を(校尉府こういふの)中に入れると、陳良ちんりょうらも彼らと一緒に入り、ついに戊己校尉ぼきこうい刁護ちょうごと4人の息子、刁護ちょうご昆弟こんてい(兄弟)たちの息子を殺害し、ただ婦女小児だけは殺さず、戊己校尉ぼきこういの城にとどめ置きました。

また(陳良ちんりょうらが)人を派遣して匈奴きょうど南将軍なんしょうぐんと連絡を取ると、南将軍なんしょうぐんは2千騎をもって陳良ちんりょうらを迎え、陳良ちんりょうらは戊己校尉ぼきこういの吏士・男女2千余人のことごとくを脅迫・略奪して匈奴きょうどに入れます。単于ぜんう陳良ちんりょう終帯しゅうたい烏賁都尉うほんといとしました。

西域の瓦解

3年後に単于ぜんうが亡くなり弟の烏累単于うるいぜんうかんかん)が立つと、(匈奴きょうどは)また王莽おうもうと和親するようになります。

王莽おうもうは使者を派遣して多くの金幣きんぺい単于ぜんう賄賂わいろし、その対価として陳良ちんりょう終帯しゅうたいらの身柄を求めました。すると単于ぜんうは(陳良ちんりょう終帯しゅうたい韓玄かんげん任商じんしょうの)4人と、刁護ちょうごに直接手を下した芝音しおんという者、その妻子以下27人のことごとくにみなかせを掛け、檻車かんしゃに収容して使者に引き渡しました。彼らが長安ちょうあんに着くと、王莽おうもうはこれをみな焼き殺しました。

その後、王莽おうもうはまたもや単于ぜんうあざむいつわって、ついに和親はえました。これにより匈奴きょうどが大いに北の辺境を攻撃するようになり、西域さいいき(の服属関係は)瓦解がかいしてしまいます。

そして、匈奴きょうどに近い焉耆国えんきこくそむいて都護とご西域都護さいいきとご)の但欽たんきんを殺害しましたが、王莽おうもうはこれを討伐することができませんでした。

西域さいいきとの断絶

天鳳てんぽう3年(16年)、五威将ごいしょう王駿おうしゅん西域都護さいいきとご李崇りすうを派遣し、戍己校尉ぼきこういひきいて西域さいいきに出たところ、西域さいいき諸国はみな郊外まで出迎えて兵穀(兵糧)を送りましたが、焉耆国えんきこくは「降伏した」といつわって兵を集めみずかそなえていました。

王駿おうしゅんらが莎車国さしゃこく亀茲国きじこくの兵・7千余人をひきい、数部隊に分かれて焉耆国えんきこくに入ると、焉耆国えんきこく伏兵ふくへいをもって王駿おうしゅんらをさえぎりました。すると姑墨国こぼくこく尉犁国いりこく危須国きしゅこくの兵が離反して共に王駿おうしゅんらを襲擊し、皆殺しにします。

この時、戍己校尉ぼきこうい郭欽かくきんは別に兵をひきいて後から焉耆国えんきこくに到着したので、出撃した焉耆国えんきこくの兵がまだかえって来ないうちに、国に残っていた老幼婦女を撃ち殺し、兵を引いて帰還しました。


王莽おうもう戍己校尉ぼきこうい郭欽かくきん剼鬍子さんこしに封じ、西域都護さいいきとご李崇りすうは敗残兵を収容し、かえって亀茲国きじこくを保守しました。

数年して王莽おうもうが亡くなり、李崇りすうも亡くなったため、西域さいいきは(中国と)断絶しました。


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【後漢・三国時代の異民族】目次