後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、尉犁国いりこく危須国きしゅこく焉耆国えんきこく烏貪訾離国うたんしりこく卑陸国ひりくこく卑陸後国ひりくこうこくについてまとめています。

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西域諸国⑩

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

尉犁国(前漢期)

尉犁国(前漢期)

尉犁国いりこく*1

所在地・戸数・人口・兵力

尉犁国いりこく*1おうの治所・尉犁城いりじょうは、長安ちょうあんから6,750里(約2,902.5km)の場所にあります。

西は都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで300里(約129km)、南は鄯善国ぜんぜんこく且末国しょまつこくと接しています。

  • 戸数:1,200戸
  • 人口:9,600人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):2,000人
脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区尉犁ユーリーの北、輪台ルンタイ地方。

官職

  • 尉犁侯いりこう:1人
  • 安世侯あんせいこう:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 擊胡君げきこくん:1人
  • 訳長やくちょう:2人

危須国(前漢期)

危須国(前漢期)

危須国きしゅこく*2

所在地・戸数・人口・兵力

危須国きしゅこく*2おうの治所・危須城きしゅじょうは、長安ちょうあんから7,290里(約3,134.7km)の場所にあります。

西は都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで500里(約215km)、焉耆国えんきこくまで100里(約43km)あります。

  • 戸数:700戸
  • 人口:4,900人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):2,000人
脚注

*2新疆しんきょうウィグル自治区博斯騰湖ボステンこ地方。

官職

  • 擊胡侯げきここう:1人
  • 擊胡都尉げきことい:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 左右の騎君きくん:各1人
  • 擊胡君げきこくん:1人
  • 訳長やくちょう:1人

焉耆国(前漢期)

焉耆国(前漢期)

焉耆国えんきこく

所在地・戸数・人口・兵力

焉耆国えんきこくおうの治所・員渠城えんきょじょうは、長安ちょうあんから7,300里(約3,139km)の場所にあります。

西南は都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで400里(約172km)、南は尉犁国いりこくまで100里(約43km)、北は烏孫国うそんこく*3と接しています。

  • 戸数:4,000戸
  • 人口:32,100人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):6,000人
脚注

*3かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

風土

  • 近海(博斯騰湖ボステンこ)で多くの魚がれます。

官職

  • 擊胡侯げきここう:1人
  • 卻胡侯きゃくここう:1人
  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 擊胡げきこ左右のくん:各1人
  • 擊車師君げきしゃしくん:1人
  • 帰義車師君きぎしゃしくん:1人
  • 擊胡都尉げきことい:2人
  • 擊胡君げきこくん:2人
  • 訳長やくちょう:3人

焉耆国(後漢期)

焉耆国(後漢期)

焉耆国えんきこく

所在地・戸数・人口・兵力

焉耆国えんきこくおうの治所・南河城なんかじょうは、北の長史ちょうし西域長史さいいきちょうし)の治所(柳中城りゅうちゅうじょう)から800里(約344km)、東の洛陽らくよう雒陽らくよう)から8,200里(約3,526km)の場所にあります。

  • 戸数:15,000戸
  • 人口:52,000人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):20,000余人

焉耆国えんきこくの四面には大きな山があり、亀兹国きじこくつらなり合って、道はけわしく守りやすい地形にあります。また、4つの山からかわが曲がりながら海(博斯騰湖ボステンこ)に流れ込み、その城(南河城なんかじょう)を30余里(約12.9km)にわたって取り巻いています。

後漢ごかんとの関係

明帝期

永平えいへい年間(58年〜75年)の末、焉耆国えんきこく亀兹国きじこくと共に都護とご西域都護さいいきとご)の陳睦ちんぼく副校尉ふくこうい郭恂かくじゅんと吏士2千余人を殺害しました。


永平えいへい6年(94年)に至ると、都護とご西域都護さいいきとご)の班超はんちょうが諸国の兵を徴発して焉耆国えんきこく危須国きしゅこく尉黎国いりこく山国さんこくを討伐し、ついに焉耆国えんきこく尉黎国いりこくの2おうの首を斬り、京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]に送って蛮夷ばんいの屋敷にその首をけました。

班超はんちょう焉耆国えんきこく左候さこう元孟げんもう焉耆王えんきおうに立て、尉黎国いりこく危須国きしゅこく山国さんこくもみな改めておうを立てました。

安帝期

安帝あんていの時代になると、西域さいいきが反逆しました。

延光えんこう年間(122年〜125年)中、班超はんちょうの子・班勇はんゆう西域長史さいいきちょうしとなって再びこれを討伐し、諸国を平定しましたが、焉耆王えんきおう元孟げんもう尉黎国いりこく危須国きしゅこくと共に降伏しませんでした。


永建えいけん2年(127年)、西域長史さいいきちょうし班勇はんゆうは、敦煌太守とんこうたいしゅ張朗ちょうろうと共に攻撃してこれを破り、焉耆王えんきおう元孟げんもうは子を派遣して宮城きゅうじょうに参内し、みつぎ物を献上しました。

烏貪訾離国(前漢期)

烏貪訾離国(前漢期)

烏貪訾離国うたんしりこく*4

所在地・戸数・人口・兵力

烏貪訾離国うたんしりこく*4おうの治所・婁谷ろうこく于婁谷うろうこく)は、長安ちょうあんから10,330里(約4,441.9km)の場所にあります。

東は単桓国たんかんこく、南は且弥国しょびこく、西は烏孫国うそんこく*3と接しています。

  • 戸数:41戸
  • 人口:231人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):57人
脚注

*3かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*4新疆しんきょうウィグル自治区沙湾シャーワン綏来すいらい)地方。瑪納斯河マナスがわ沿岸の地。

官職

  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 左右の都尉とい:各1人

卑陸国(前漢期)

卑陸国(前漢期)

卑陸国ひりくこく*5

所在地・戸数・人口・兵力

卑陸国ひりくこく*5おうの治所は天山てんざんの東の乾当国かんとうこくにあり、長安ちょうあんから8,680里(約3,732.4km)、西南の都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで1,287里(約553.410km)の場所にあります。

  • 戸数:227戸
  • 人口:1,387人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):422人
脚注

*5新疆しんきょうウィグル自治区阜康フーカン烏魯木斉ウルムチの東北)地方。車師しゃし六国(山北六国)の2。

官職

  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 左右の訳長やくちょう:各1人

卑陸後国(前漢期)

卑陸後国(前漢期)

卑陸後国ひりくこうこく*6

所在地・戸数・人口・兵力

卑陸後国ひりくこうこく*6おうの治所・番渠類谷はんきょるいこくは、長安ちょうあんから8,710里(約3,745.3km)の場所にあります。

東は郁立師国いくりつしこく、北は匈奴きょうど、西は劫国ごうこく、南は車師国しゃしこくと接しています。

  • 戸数:462戸
  • 人口:1,137人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):350人
脚注

*6新疆しんきょうウィグル自治区阜康フーカン烏魯木斉ウルムチの東北)の東北の地。

官職

  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 都尉とい:1人
  • 訳長やくちょう:1人
  • しょう:2人

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