後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、亀茲国きじこく烏塁国うるいこく渠犁国きょりこく)についてまとめています。

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西域諸国⑨亀茲国

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

亀茲国

亀茲国(前漢)

亀茲国きじこく

所在地・戸数・人口・兵力

亀茲国きじこくおうの治所・延城えんじょうは、長安ちょうあんから7,480里(約3,216.4km)の場所にあります。

東は都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで350里(約150.5km)、尉犁国いりこくまで650里(約279.5km)、南は精絶国せいぜつこく、東南は且末国しょまつこく、西南は杅弥国うびこく、北は烏孫国うそんこく*3、西は姑墨国こぼくこく*1とそれぞれ接しています。

  • 戸数:6,970戸
  • 人口:81,317人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):21,076人
脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区阿克蘇アクス

*3かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

風土

  • 鋳金ちゅうきん冶金やきんの技術があり、なまりを産出します。

官職

  • 大都尉丞だいといじょう:1人
  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 安国侯あんこくこう:1人
  • 擊胡侯げきここう:1人
  • 卻胡都尉きゃくことい:1人
  • 擊車師都尉げきしゃしとい:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 左右の騎君きくん:各1人
  • 左右の力輔君りきほくん:各1人
  • 東西南北部の千長せんちょう:各2人
  • 卻胡君きゃくこくん:3人
  • 訳長やくちょう:4人

烏塁国(烏塁城)

烏塁国(前漢)

烏塁国うるいこく

所在地・戸数・人口・兵力

烏塁国うるいこくおうの)治所は、都護とご西域都護さいいきとご)と同じ烏塁城うるいじょうで、南の渠犁国きょりこくまで330里(約141.9km)あります。

  • 戸数:110戸
  • 人口:1,200人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):300人

官職

  • 城都尉じょうとい:1人
  • 訳長やくちょう:1人

烏塁うるいについて。

おうに関する記載はないが、「治所は都護とご西域都護さいいきとご)と同じ」とあることから、都護とご西域都護さいいきとご)の他に治める者(おう)がいたものと思われる。

渠梨国(渠梨城)

渠犁国(前漢)

渠犁国きょりこく

所在地・戸数・人口・兵力

渠犁国きょりこくは)東北は尉犁国いりこく、東南は且末国しょまつこく、南は精絶国せいぜつこくとそれぞれ接しており、西にかわが流れ、580里(約249.4km)で亀茲国きじこくに至ります。

  • 戸数:30戸
  • 人口:1,480人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):150人

官職

  • 城都尉じょうとい:1人

前漢との関係

武帝ぶてい

輪台罪己詔

武帝ぶてい西域さいいきに通じて校尉こういを置いた当初、渠犁国きょりこく屯田とんでんしていました。

当時、かんは32年間にわたって遠征が続き、海内(国内)は消耗して空虚となっており、征和せいわ年間(紀元前92年〜紀元前89年)には弐師将軍じししょうぐん李広利りこうりが軍をひきいて匈奴きょうどに降伏してしまいました。

征和せいわ4年(紀元前89年)、武帝ぶていは遠征を繰り返したことをいていましたが、そこへ搜粟都尉そうぞくとい桑弘羊そうこうよう丞相じょうしょう御史ぎょしと共に奏上し、

もと輪台りんだいの東の捷枝国しょうしこく渠犁国きょりこく屯田卒とんでんそつ屯田兵とんでんへい)を置き、西国に威勢を示して烏孫国うそんこく*3たすけるのがよろしいでしょう」

と言いました。

桑弘羊らの奏上・全文
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もと輪台りんだいの東、捷枝国しょうしこく渠犁国きょりこくはいずれも故国ここく(古い国)で、土地が広く、水や草が多く、灌漑かんがいされた田地が5千けい以上もあります。また風土が温和で田は良くみのり、溝渠こうきょ(用水路)を通せば五穀ごこくを植えることが可能で、中国と同じ時期に作物がじゅくします。

その近隣の国では錐刀すいとう(銭)が少なく、黃金(銅)や采繒いろぎぬが貴重ですから、それを穀物と交換することが容易であり、田卒でんそつ屯田兵とんでんへい)への供給に不足しません。

わたくし愚考ぐこうしますに、屯田卒とんでんそつ屯田兵とんでんへい)をもと輪台りんだいの東に派遣し、3人の校尉こういを置いて分けまもらせ、それぞれ地形をはかって溝渠こうきょ(用水路)を通し、沢山の五穀ごこくを植えさせるようつとめるのが良いと存じます。

張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐんには騎仮司馬きかしばを派遣して斥候せっこうとし、校尉こういに所属させて、事に便宜べんぎがあれば駅馬によって上聞させるのです。

屯田とんでん1年で穀物を備蓄できますれば、壮健で移住する勇気のある民をつのって屯田地とんでんちおもむかせ、穀物の備蓄を本業とさせましょう。このようにして灌漑田かんがいでんを増やし、ていや城をつらきずいて西に進み、西国に威勢を示して烏孫国うそんこく*3たすけるのがよろしいでしょう。

わたくしつつしんで徴事ちょうじ郭昌かくしょうつかわし部署を分けて辺境を巡行させ*7、厳重に太守たいしゅ都尉といいましめて烽火のろしを明らかにし、士馬を選んで斥候せっこうを慎重にし、乾いた茭草まぐさたくわえさせます。

願わくは、陛下には西国に使者を派遣してその意をやすんじられますように。わたくしは死をかえりみずたてまつります。

脚注

*7原文:「臣謹遣征事臣昌分部行邊,」訳はちくま学芸がくげい文庫ぶんこ漢書かんじょ西域伝さいいきでんならった。


すると武帝ぶていはこれまでのことを深くいてみことのりを下し、


「今、遠く輪台りんだい屯田とんでんさせ、ていすい塹壕ざんごう)をきずこうとうているが、これは天下を混乱・疲弊ひへいさせ、民をやわらぐことにはならず、ちんは(奏上を)聞くにしのびない。

喫緊きっきんつとめは苛烈かれつな暴力を禁じ、擅賦せんぷ(私税)を廃止して農業に尽力し、馬の欠乏をおぎない軍備をとぼしくさせないことのみである」


と言い、再び出兵することはなくなりました。

また、丞相じょうしょう車千秋しゃせんしゅう富民侯ふみんこうに封じ、この呼称によって「休息して民をませやしなおうと思う心」を明らかにします。

武帝の詔「輪台罪己詔」・全文
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以前、有司ゆうし(役人)が「民の賦課ふか(税負担)を1人当たり30銭増やして辺境の費用を助けたい*8」と奏言したが、これは老弱孤独な者たちを二重に困窮こんきゅうさせるものであった。そして今、また「兵卒をつかわして輪台りんだい屯田とんでんさせよ」とうている。

輪台りんだい車師国しゃしこくから千余里(約430km)も西にあり、以前開陵侯かいりょうこう*9車師国しゃしこくった時、危須国きしゅこく尉黎国いりこく楼蘭国ろうらんこく鄯善国ぜんぜんこく)など6ヶ国の子弟で京師けいし長安ちょうあん)にいた者をみなあらかじめ国に帰し、家畜と食糧を徴発して漢軍かんぐんを迎えさせたが、またそれらの国自身も都合数万人を出兵しておうみずからこれをひきい、共に車師国しゃしこくを包囲してそのおうを降伏させた。

この時、諸国の兵は退却したが、その力はもはや帰還のにあった漢軍かんぐんを食わせることができなかった。また、漢軍かんぐんが敵城を破った時は、食糧が多かったが、士卒がみずから積みせて運搬した食糧は途中で尽き果て、強い者は家畜を食い尽くし、疲れ弱った者は道で数千人死んだ。

ちん天子てんしの一人称)は酒泉郡しゅせんぐん驢馬ろば橐駝たくだ駱駝らくだ)を徴発して食糧を荷負わせ、玉門関ぎょくもんかんを出て軍をむかえさせたが、吏卒りそつたちは張掖郡ちょうえきぐんからさして遠くにいたわけでもないのに、それでもなお落伍らくごした者がはなはだ多かった。


以前、ちんは不明にも、軍候ぐんこうこうが上書した「匈奴きょうどが馬の前後の足をしばって城下に置き、『秦人しんじんよ(匈奴きょうどによる漢人かんじんの呼称)、我々がなんじに馬を与えよう』と言った」という内容を信じ、また、かんの使者(蘇武そぶら)が久しくとどめられて帰還しなかったので、軍をおこ弐師将軍じししょうぐんつかわして使者の威厳をたもとうとした。

いにしえけい大夫たいふらが事をはかり、めどぎ筮竹ぜいちく)や亀甲きっこううらないをし、その結果が不吉なら行動しなかったものだ。

そこで「(匈奴きょうどが)馬をしばった」という上書を、丞相じょうしょう御史ぎょし二千石にせんせき太守たいしゅ)、諸大夫たいふ経書けいしょを学んだろう、及び、郡の属国都尉ぞっこくとい成忠せいちゅう趙破奴ちょうはどらに見せたところ、みな「えびす匈奴きょうど)がみずからその馬をしばるとは、不祥ふしょう(不吉)はなはだしい」と言い、またある者は「(匈奴きょうどは)強さを誇示こじしたいのであり、不足している者は人に余力を見せたがるものだ」と言った。

えきうらなうと『大過たいか』のこうは九五にあって「匈奴きょうどは困敗する」と出た。

公車方士こうしゃほうし*10太史たいしの治星と望気*11及び太卜たいぼく亀甲きっこうめどぎ筮竹ぜいちく)ではみな吉で「匈奴きょうどは必ず敗れ、この好機は二度と得られない」と言った。また「北伐してしょうを派遣すれば、鬴山ふざん釜山ふざん)において必ずつ」と言い、諸将をうらなっては「弐師将軍じししょうぐんが最も吉である」と言った。

ゆえにちんは、みずか弐師将軍じししょうぐん鬴山ふざん釜山ふざん)に向かわせ、みことのりを下して「決して深入りしないように」と命じたのだ。

ところが今、計謀けいぼう(臣下の意見)も卦兆かちょううらないの結果)もみな妄言もうげんとなった。

重合侯ちょうごうこう莽通もうつう)が捕らえたえびす匈奴きょうど)の候者こうしゃ斥候せっこう)は、

漢軍かんぐんが来ると聞くと、匈奴きょうどみこに命じて羊や牛を諸道やかわめて軍をのろわせた。単于ぜんう天子てんしに馬のかわごろもを贈り、常にみこに命じて天子てんしのろわせている。馬をしばったのは、軍事をのろったのである」

と言った。

また匈奴きょうどは「漢軍かんぐんは1しょう弐師将軍じししょうぐん)だけが不吉である」とうらない、常日頃から、

かんきわめて大国であるが飢渴きかつには耐えられず、1匹の狼(弐師将軍じししょうぐん)を失えば、千匹の羊(全軍)を敗走させることができる」

と言っているそうだ。

そしてその通りに弐師将軍じししょうぐんの軍は敗れ、士卒は死亡し捕虜となり離散したが、この悲痛は常にちんの心に残り続けている。


今、遠く輪台りんだい屯田とんでんさせ、ていすい塹壕ざんごう)をきずこうとうているが、これは天下を混乱・疲弊ひへいさせ、民をやわらぐことにはならず、ちんは(奏上を)聞くにしのびない。

大鴻臚だいこうろらはまた「封侯ほうこうの賞をえさにして囚徒しゅうとつのり、匈奴きょうどの使者を送りかえらせ(た機会に単于ぜんうを暗殺させ)て忿恨ふんこんむくいる」ことを評議しているが、そのような方法は五伯ごはく五覇ごは)でも恥じて行わなかった(下策である)。

また匈奴きょうどは、かんの投降者を得ると両腋りょうわき拘束こうそくして全身を搜索そうさくし、知っている情報を詳しくただすという。

今はまだ辺境のとりでが正常ではないため、やたらと逃亡者が出てもこれを禁止できず、障候しょうこう長吏ちょうりが兵卒にけものらせてその皮や肉で利益をているため、兵卒はこれに苦しんで烽火のろしを上げることがとぼしくなっている。

そうしたあやまちも軍簿を提出する際に把握はあくできなかったからであり、後になって投降者が来たり捕虜をらえて、初めてそれ(逃亡者の数)が判明するのである。


喫緊きっきんつとめは苛烈かれつな暴力を禁じ、擅賦せんぷ(私税)を廃止して農業に尽力し、馬復令ばふくれい*12おさめて馬の欠乏をおぎない、軍備をとぼしくさせないことのみである。

郡国の二千石にせんせき太守たいしゅ)はそれぞれ馬を増産する方略と辺境の馬を補充する計画を提出し、上計吏じょうけいりと共に上京して報告せよ。

脚注

*8賦銭ふせんは1人につき120銭[ただし賈人こじん(商人)と奴婢どひはその倍額]であるから、それに30銭を増して150銭としたこと。

*9匈奴きょうど介和王かいわおう成娩せいべんかんに投降し、封侯されたもの。

*10天子てんしに呼ばれるのを待つ方士ほうし天子てんしに呼ばれた時に公車こうしゃむかえ入れられたため「公車方士こうしゃほうし」と言った。

*11治星は天文学。望気は雲気を観測して人事の吉凶を知る術。

*12てい牝馬ひんばを養わせ、これを民に飼育させて夫役ぶやく(労役)を免除する法令。

昭帝しょうてい

輪台に屯田する

以前、武帝ぶてい太初たいしょ4年(紀元前101年)に弐師将軍じししょうぐん李広利りこうり大宛国だいえんこくって帰還する時のこと。

杅弥国うびこくを通過する際に「杅弥国うびこく太子たいし頼丹らいたん亀茲国きじこくつかわして人質としている」ことを知った李広利りこうりは、亀茲国きじこくを責めて、

「外国はみなかんに臣属しているのに、亀茲国きじこくはどうして杅弥国うびこくから人質を取っているのか?」

と言い、頼丹らいたんを連れて京師けいし長安ちょうあん)に入りました。


昭帝しょうてい元鳳げんぽう4年(紀元前77年)、昭帝しょうていは、以前、桑弘羊そうこうようが奏上した「輪台りんだい屯田とんでんさせる策」をもちいて、杅弥国うびこく太子たいし頼丹らいたん校尉こういに任命し、渠犁国きょりこくに隣接する輪台りんだいに軍を指揮して屯田とんでんさせました。

すると亀茲国きじこくの貴人(貴族)・姑翼こよく亀茲王きじおうに、

頼丹らいたんは元々吾国わがくにに臣属していたのに、今はかん印綬いんじゅびて来て、吾国わがくにに近接して屯田とんでんを始めました。きっと害をなすに違いありません」

と言いました。

この進言を受けた亀茲王きじおうはすぐさま頼丹らいたんを殺害し、かんに上書して陳謝しましたが、かんはまだこれを征伐することができませんでした。

宣帝せんてい

漢が亀茲国を攻める

宣帝せんていの時代、長羅侯ちょうらこう常恵じょうけいが使者としておもむいた大宛国だいえんこくから帰還する際、便宜上べんぎじょう、諸国の兵を徴発し、合わせて5万人の兵をもって亀茲国きじこくを攻め、以前、校尉こうい頼丹らいたんを殺害したことを責めました。

すると亀茲王きじおうは、

「それは我が先王の時、貴人(貴族)の姑翼こよくのためにあやまらされたもので、わたしに罪はありません」

と陳謝すると、姑翼こよくを捕らえて常恵じょうけいに引き渡し、常恵じょうけいはこれを斬りました。

漢と兄弟となる

当時、烏孫公主うそんこうしゅむすめかんつかわして、京師けいし長安ちょうあん)で鼓琴こきん(琴を弾奏すること)を習わせていましたが、かん侍郎じろう楽奉がくほう烏孫公主うそんこうしゅむすめを送らせ、その途上、楽奉がくほう亀茲国きじこく過訪かほう(通りすがりに訪問すること)しました。

以前、亀茲国きじこく烏孫国うそんこくに人を派遣して烏孫公主うそんこうしゅむすめを(夫人ふじんに)むかえたいと求めていましたが、その時はまだ、烏孫公主うそんこうしゅむすめかんにいました。この時、たまたま烏孫公主うそんこうしゅむすめ亀茲国きじこく過訪かほうしたので、亀茲王きじおうはこれを引きめて、再び烏孫公主うそんこうしゅに報告すると、烏孫公主うそんこうしゅはこれを許しました。


のち烏孫公主うそんこうしゅかんに上書して、

むすめを宗室の者と同様に扱って、入朝させて欲しい」

と願いました。そして亀茲王きじおう絳賓こうひんもまた夫人ふじん烏孫公主うそんこうしゅむすめ)を愛していたので、上書して、

「(私も)かんの外孫*13めとることができ、(かんと)昆弟こんてい(兄弟)となったのですから、願わくは烏孫公主うそんこうしゅむすめと共に入朝させていただきたい」

い、元康げんこう元年(紀元前65年)、ついにかんに朝賀に来て、亀茲王きじおう絳賓こうひん夫人ふじん烏孫公主うそんこうしゅむすめ)はそれぞれ印綬いんじゅたまわりました。

また、夫人ふじん烏孫公主うそんこうしゅむすめ)を称して公主こうしゅと号し、車騎しゃき旗鼓きこ歌吹かすい*14奏者数十人・綺繡きしゅう(色彩豊かな絹織物)・雜繒ざっそう(様々な絹織物)・琦珍きちんたぐまれな宝物)など、およそ数千万銭に値する物をたまわります。滞在すること1年、かんしみない贈り物をおくって送り返します。

その後も(亀茲王きじおうは)たびたび来朝し、かんの衣服・制度をこのみ、亀茲国きじこくに帰ると宮室きゅうしつつくり、まわりのための道を作ってめぐまもり、出入りに際しては伝呼せきばらいして鐘鼓しょうこを鳴らすなど、漢家かんけの儀礼にならっていました。


このようなことから、外国の胡人こじんらはみな亀茲王きじおう絳賓こうひんのことを、

ろばにしてろばにあらず、亀茲王きじおうのごときは、いわゆるらばなり」

と言っていました。

脚注

*13他家(烏孫国うそんこく)にとついだ娘の子。

*14西域さいいきの楽器名。横吹おうすいに同じ。輿こしに乗って武楽を演奏するためにもちいる。

成帝せいてい哀帝あいてい期:

亀茲王・丞徳

絳賓こうひんが亡くなると、その子・丞徳じょうとくは「かんの外孫*13である」と自称し、成帝せいてい哀帝あいていの時代にさかんに往来し、かんもこれをとても親密に待遇しました。


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【後漢・三国時代の異民族】目次