後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、烏孫国についてまとめています。
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西域諸国⑦烏孫国
西域(後漢時代)
烏孫国(前漢期)
所在地・戸数・人口・兵力
烏孫国*1の昆弥(烏孫国*1の王号)が治める赤谷城は、長安から8,900里(約3,827km)の場所にあり、東の都護(西域都護)の治所(烏塁城)まで1,721里(約740.03km)、西は康居国の蕃内*2まで5,000里(約2,150km)の場所にあります。
- 戸数:120,000戸
- 人口:630,000人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):188,800人
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*2匈奴の郅支単于(郅支骨都侯単于)が康居国の丘を借りて烏孫国を撃った際、烏孫国は敢えてこれを追わなかったため、その西辺は千里にわたって無人の地となった。康居国のこの地のことを蕃内という。
風土
- 土地は草原の平地が広がっており、雨が多く寒い気候です。
- 山には松や樠*3が多く自生しています。
- 馬が多く、裕福な者は4〜5千頭の馬を所有しています。
脚注
*3楡科の落葉高木。
風俗
- 風俗は匈奴と同じです。
- 耕作や種植をせず、家畜を連れ水や草を求めて移動します。
- 民はの性格は強悪非道、狼のように貪欲で信義がありません。
- 強盗が多く、最強の国です。
官職
- 相:2人
- 大禄:2人
- 左右の大将:各1人
- 侯:3人
- 大将:1人
- 都尉:1人
- 大監:2人
- 大吏:1人
- 捨中大吏:2人
- 騎君:1人
烏孫国の歴史
烏孫国*1は匈奴に服属していましたが、後にその勢力が拡大すると、匈奴の朝会に赴かなくなりました。
烏孫国*1は東は匈奴、西北は康居国、西は大宛国、南は城郭諸国と国境を接しています。その地は元は塞族*4の地でしたが、大月氏国*5が西の塞王を破ると、塞王は敗走して南の県度国を越えて去ったので、その地は大月氏国*5の領土となりました。
その後、烏孫国*1の昆莫(昆弥に同じ)が大月氏国*5を攻め破ると、大月氏国*5は西に徙って大夏国を臣従させ、今度は烏孫国*1の昆莫がその地を治めるようになりました。そのため烏孫国*1の民には塞種*4と大月氏国*5の種族が入り交じっています。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*4天竺胡人の後裔の種族(釈種)。
*5新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
中国との関係
昆莫・猟驕靡(前漢:武帝期)
烏孫国の分裂
昆莫(猟驕靡)には10余人の子がいましたが、中でも真ん中の子の大禄(官名)が優れて強く良将であり、1万余騎の軍勢を率いて昆莫とは居を別にしていました。
また大禄の兄の太子には子があり、岑陬(軍須靡)と呼ばれていました。太子は早死にしましたが、昆莫に「必ず岑陬(軍須靡)を太子していただきたい」と言い遺しており、昆莫(猟驕靡)は哀れんでこれを許します。
すると大禄は(岑陬が太子となったことに)怒り、昆弟(兄弟)たちを手懐けると、軍勢を率いて岑陬(軍須靡)を攻めようと謀りました。
これに昆莫(猟驕靡)は、岑陬(軍須靡)に1万余騎を与えて別居させ、昆莫(猟驕靡)自身もまた自ら1万余騎を有してこれに備えます。これにより烏孫国*1は3つに分かれましたが、全体としては昆莫(猟驕靡)に羈属(束縛・従属)していました。
漢との和親
初め張騫は「烏孫国*1は元々大月氏国*5と共に敦煌の辺りにいましたが、今や強大となっています。ですが、手厚い賂(贈り物)を贈って元の東の地に招き、公主(皇女)を娶せて昆弟(兄弟)となれば、烏孫国*1をもって匈奴を制することができます」と言っていました。
そこで武帝は即位すると、その言葉に従って張騫に金幣を持たせ、烏孫国*1に赴かせます。
この時、昆莫・猟驕靡は自ら「単于の礼」に擬えて、張騫を格下として会見したので、張騫は大いに恥じて「天子が賜与されたのに王(昆莫)が拝礼なされないのなら、賜物をお返しください」と言いました。すると昆莫・猟驕靡は起ち上がって拝礼し、その他のことは従来通りに接しました。
張騫は賜物を贈ると、諭して言いました。
「烏孫国*1が元の東の地に居することができるなら、漢は公主(皇女)を遣わして夫人とし、昆弟(兄弟)となって共に匈奴を防げば、破られることはありません」
ですが、烏孫国*1は漢から遠く離れているため「漢の大小(実際の勢力)」を知らず、また匈奴に近く、長らく服属していましたので、烏孫国*1の大臣たちはみな移住することを望みませんでした。
昆莫・猟驕靡は年老い国が分裂していたので独断で事を決することができず、取りあえず使者を派遣して張騫を送り、馬数十頭を献上して下賜の恩に報いました。するとその使者は漢人の多くが富み豊かであることを見て帰国したので、それ以来、烏孫国*1は益々漢を重んじるようになりました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
公主が烏孫国に嫁ぐ
匈奴は「烏孫国*1が漢と通じていること」を聞くと、怒ってこれを攻撃しようとし、また漢の方では、烏孫国*1と使者を通じてからその南に出て、大宛国や月氏国(大月氏国)と互いに通じるようになっていました。
烏孫国*1はこれを恐れ、(漢に)使者を遣わして馬を献上し、「漢の公主(皇女)を娶って昆弟(兄弟)となりたい」と願い出ました。
そこで天子(武帝)は群臣に問い評議してこれを許すこととし、「必ず先に婚姻の聘を入れよ。その上で女を遣わそう」と言い、烏孫国*1は馬千頭を聘として納めました。
漢の元封年間(紀元前110年〜紀元前105年)、こうして江都王・劉建*6の女・細君を公主(皇女)として烏孫国*1に遣わし、乗輿・衣服などの御物を賜い、その別れに際し、江都公主(細君)のために属官・宦官・侍従数百人などを盛大に贈りました。
烏孫国*1の昆莫・猟驕靡は(漢の公主を)右夫人としましたが、匈奴もまた女を遣わして猟驕靡に娶せたので、猟驕靡はこれを左夫人としました。
江都公主は烏孫国*1に到着すると自ら宮室を整え、季節ごとに1〜2回昆莫・猟驕靡と会い、酒宴を設けて飲食し、王(昆莫)の側近や貴人(貴族)に幣帛を下賜しました。猟驕靡は老人な上に言葉も通じないので、江都公主は悲しみ憂え、自ら歌を作って送りました。
〽吾家は我を天の一方に嫁がせ、遠く異国の烏孫の王に託す。
穹廬(テント状の住宅)を室とし旃(毛織物)を牆とし、肉を食し酪(乳飲料)を漿とす。
居常に郷土を思い心の内を痛め、願わくは黃鵠となって故郷に帰りたい。
天子(武帝)はこの歌を聴いて憐れみ、1年おきに使者を遣わし、帷帳や錦繡を持たせて江都公主に下賜しました。
その後、昆莫・猟驕靡は年老いたので、孫の岑陬・軍須靡に江都公主を娶そうとします。
江都公主はこれを聴き入れず上書して訴えたところ、天子(武帝)は「(漢は)烏孫国*1と共に胡を滅ぼそうとしているのだから、その国の風俗に従うように」と返答し、岑陬・軍須靡はついに江都公主を娶りました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*6景帝の子・江都王・劉非の子。
岑陬・軍須靡
昆莫・猟驕靡が亡くなると、岑陬・軍須靡が代わって立ち、軍須靡は江都公主を娶って一女少夫を儲けました。江都公主が亡くなると、漢はまた楚王・劉戊の孫女・解憂を公主(皇女)として岑陬・軍須靡に娶せます。
岑陬・軍須靡はその死に臨み、匈奴妻との間に生まれた子の泥靡がまだ幼少だったので、国を季父(末の叔父)大禄の子・翁帰靡に与えることとし、「泥靡が成人したら、国を返してやるように」と言い遺しました。
肥王・翁帰靡(前漢:昭帝〜宣帝期)
翁帰靡は王に立つと肥王と号し、楚主解憂(楚王・劉戊の孫女・解憂)を娶り、3男2女を生みました。長男は元貴靡と言い、次男の万年は莎車王となり、3男の大楽は左大将となり、長女の弟史は亀茲王・絳賓の妻となり、小女の素光は若呼翕侯の妻となります。
漢と共に匈奴を撃つ
前漢・昭帝の時代、公主(楚主解憂)が上書して言いました。
「匈奴は騎兵を発して車師国で狩猟し、車師国と匈奴が一体となって共に烏孫国*1を侵しています。ただ天子(昭帝)にはどうかこれをお救いくださるようお願い申し上げます」
これを受け、漢は士馬を休養させ、評議して匈奴を撃とうとしましたが、たまたま昭帝が崩御してしまいます。その後、宣帝が即位すると、公主(楚主解憂)と昆弥・翁帰靡はすぐに使者を派遣し、上書して言いました。
「匈奴は今また何度も大兵を発して烏孫国*1を侵し、車延・悪師*7の地を奪って民を連れ去りました。匈奴は使者を遣わして公主(楚主解憂)を連れて来るように申し入れ、漢と隔絶させようとしています。
昆弥は国の半数の精兵を発し、人馬5万騎を自給して、力を尽くして匈奴を撃とうと願っております。ただ天子(宣帝)には、出兵して公主(楚主解憂)と昆弥をお救いくださいますように」
本始3年(紀元前71年)、漢は大いに兵15万騎を発し、5人の将軍が複数の道に分かれて出陣し、また校尉の常恵に持節を与えて烏孫兵を護らせました。
昆弥・翁帰靡は自ら翕侯以下5万騎の西方人を従えて(匈奴の)右谷蠡王の庭(居所)に至り、単于の父の排行*8及び嫂・居次(単于の娘)・名王犁汙*9・都尉・千長・騎将以下4万人の首級と、馬・牛・羊・驢(驢馬)、橐駝(駱駝)70余万頭を獲得し、烏孫国*1は虜獲したものをみな自国のものとしました。
帰還すると(漢は)常恵を長羅侯に封じ、彼を烏孫国*1に派遣して、烏孫国*1の貴人(貴族)で功績のあった者に金幣を下賜しました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*7読み方不詳。悪師?悪師?
*8原文:「獲單于父行及嫂〜」。一族の尊卑を祖父行・父行・兄弟行・子行などと分けて排列する。伯叔父などは父行(父の排行)である。(ちくま学芸文庫『漢書』西域伝下・注より)
*9原文:「居次、名王、犁水於都尉、」訳はちくま学芸文庫『漢書』西域伝下に倣った。
狂王・泥靡(前漢:宣帝期)
漢との約束を破る
元康2年(紀元前64年)、烏孫国*1の昆弥・翁帰靡は常恵を通じて上書して、
「漢の外孫(娘の子)・元貴靡を世嗣ぎとして再び漢の公主(皇女)を娶らせ、婚姻を結び親戚を重ねて匈奴と訣別することができますように、馬と騾馬各千頭を聘として納めたいと存じます」
と言いました。
詔を下してこれを公卿に評議させたところ、大鴻臚の蕭望之は、
「烏孫国*1は絶遠の地にあり、異変の発生を防ぐのは困難です。許すべきではありません」
と言いましたが、天子(宣帝)は烏孫国*1が新たに大功を立てたことを賞で、また今までの婚姻関係を絶つことを憚り、烏孫国*1に使者を派遣して聘を受け取らせます。すると昆弥・翁帰靡及び太子・左右の大将・都尉らがみな使者を派遣し、約3百余人が漢に入り、少主(年少の公主)を娶るために迎えに来ました。
そこで天子(宣帝)は烏孫主・解憂(翁帰靡の妻)の弟の子・相夫を公主(皇女)とし、属官・侍従百余人を置き、上林苑に留めて烏孫国*1の言葉を習わせました。
天子(宣帝)は平楽観に親臨し、匈奴の使者や外国の君長と会同して大いに角抵*10を競わせ、音楽を設けて少主を送り出します。そして、長羅侯・光禄大夫の常恵を付き添いとし、持節を持つ者4人が郭煌郡まで少主を送りました。
ですが、まだ塞を出ないうちに昆弥・翁帰靡が亡くなったため、烏孫国*1の貴人(貴族)らは(漢と約束した元貴靡ではなく)本来の約束(岑陬・軍須靡の遺言)通り、岑陬・軍須靡の子・泥靡を昆靡(昆弥)に立て、狂王と号しました。
このことを聞いた常恵は、
「願わくは少主を郭煌郡に留め、恵は馬を馳せて烏孫国*1に行き、元貴靡を昆靡(昆弥)に立てないことを問責した上で、改めて少主を迎えたいと存じます」
と上書し、事が公卿に下げ渡されると、大鴻臚の蕭望之はまた言いました。
「烏孫国*1は両端(二心)を持っており、約束を結び難いと存じます。前の公主(楚主解憂)は烏孫国*1に在ること40余年になりますのに、(昆弥の)恩愛の情は親密とは言えず、辺境は未だ安定しておりません。これが現実なのです。
今、元貴靡が(昆弥に)立てられなかったことを理由に少主が引き還しても、信義の上で夷狄に対して負い目はなく、中国にとって福です。少主(の婚姻)を止めなければ、徭役が起きることになります*11」
天子(宣帝)はこの意見に従って少主を徴し還しました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*10腕力や弓術・馬術の技を競う競技。
*11原文:少主不止,徭役將興,其原起此。
狂王暗殺未遂事件
狂王(昆靡・泥靡)はまた楚主解憂を娶って一男・鴟靡を生みましたが、狂王は楚主解憂と仲が良くなく、また乱暴・非道であったので民心を失いました。
漢は衛司馬の魏和意と副侯の任昌に命じて烏孫国*1の侍子*12の帰国を送らせたところ、公主(楚主解憂)は「狂王は烏孫国*1の患苦となっており、容易く誅殺できるでしょう」と言いました。
そこで(魏和意らは)ついに謀って酒宴を設け、酒宴が終わると、士に命じて剣で狂王を襲わせました。ところが剣筋が逸れ、狂王は傷を負ったものの馬に乗って駆け去ります。
これに狂王の子・細沈瘦は、兵を集めて魏和意と任昌、楚主解憂を赤谷城を包囲しますが、数ヶ月経って、都護(西域都護)の鄭吉が西域諸国の兵を発してこれを救いに来ると、細沈瘦はようやく包囲を解いて去りました。
漢は中郎将の張遵に医薬品を持たせて派遣し、狂王を治療して、金20斤と采繒を下賜する一方で、魏和意と任昌を捕らえて鎖で繋ぐと、尉犁国から檻車で長安に送って斬首します。
また、車騎将軍・長史の張翁は(烏孫国*1に)留まって、楚主解憂と使者が狂王を謀殺しようとした罪状を験問します。楚主解憂は罪に服さずに叩頭して謝罪すると、張翁は楚主解憂の髪を掴んで罵りますが、楚主解憂がこのことを上書したため、張翁は帰還すると死罪に処されました。
副使の季都は別に医者を連れて狂王を看護したことから、狂王は10余騎を従えて季都を見送ります。季都が帰還すると「狂王を誅殺すべきであることを知っていながら、機会を見て実行しなかった」罪により、蚕室*13に下されました。
漢の意向は「狂王の誅殺」にあったが、誅殺の失敗により漢は表向き狂王を看護し、金帛を下賜して取り繕った。楚主解憂に罪はなく、魏和意と任昌は「誅殺に失敗した罪」により斬首されたのである。
一方、張翁は楚主解憂に罪を問うて死罪となり、季都は狂王を誅殺する機会を見逃して宮刑(去勢刑)に処された。おそらく張翁と季都は漢の真意を知らなかったのであろうと思われる。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*12諸侯王や帰服した非漢人の王が天子(皇帝)の側近くに侍らせるという名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種で質子とも言う。
*13宮刑(去勢刑)に処せられた者を入れた部屋。宮刑(去勢刑)に処せられたことを意味する。
大昆弥・元貴靡と小昆弥・烏就屠(前漢:宣帝期)
烏就屠が昆弥に立つ
(前昆弥の)肥王・翁帰靡の匈奴妻の子・烏就屠は、狂王が傷つけられたと聞き驚いて、翕侯たちと共に北の山(天山)の山中に去っていましたが、「母方の匈奴兵がやって来る」と言って回ると、人々は烏就屠に帰順します。
その後、烏就屠はついに狂王を襲撃して殺害し、自ら昆弥に立ちました。
これに漢は、破羌将軍・辛武賢に1万5千人の兵を与えて郭煌郡に派遣します。辛武賢は、使者を遣わし巡察して標柱(目印の細長い柱)を立て、卑鞮侯井以西に渠を穿つと、「水運を通じて穀物を運び、廬倉に備蓄する」ことによって烏就屠を討とうとしました。
大昆弥と小昆弥
楚主解憂の侍女・馮嫽は史書や西域の事情に通じ、かつて漢の書簡を持って楚主解憂の使者として城郭諸国に行き、賞賜を行ったこともあって、(烏孫国*1の人々から)敬愛・信頼され、馮夫人と呼ばれていました。
馮夫人は烏孫国*1の右大将の妻となりましたが、右大将が烏就屠と愛し合っていたので、都護(西域都護)の鄭吉は、馮夫人を通じて烏就屠に「漢兵が出陣すれば必ず滅ぼされるであろう。降伏すべきである」と説きます。すると烏就屠は恐れ、「願わくは小昆弥の称号を得たい」と言いました。
宣帝は馮夫人を徴して自ら事情を問うと、謁者・竺次を派遣し、期門・甘延寿を副使として馮夫人を(烏孫国*1に)送らせます。
馮夫人は錦車*14に乗り節を持って、烏就屠に詔を下して長羅侯・常恵を赤谷城に至らせ、元貴靡を大昆弥に立てて烏就屠を小昆弥とし、それぞれに印綬を下賜しました。
これにより郭煌郡に駐屯していた破羌将軍・辛武賢は塞を出ずに兵を還します。
その後、烏就屠は翕侯たちや民衆の悉くを帰順させることはできず、漢もまた長羅侯・常恵に3人の軍校を率いて赤谷城に駐屯させ、その民と境界を区別して大昆弥の戸数を6万余、小昆弥の戸数を4万余としましたが、民心はみな小昆弥につきました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*14錦で包んだ車。
楚主解憂の死
(肥王・翁帰靡と楚主解憂の子・)元貴靡と(狂王・泥靡と楚主解憂の子・)鴟靡がみな病死すると、楚主解憂は上書して言いました。
「年老いて郷土を恋しく思います。願わくは(私の)遺骨を漢の地に葬っていただきたい」
甘露3年(紀元前51年)、天子(宣帝)はこれを閔れに思って漢に迎えたので、楚主解憂は烏孫国*1の男女3人(の孫)と共に京師(長安)に至ります。この時、楚主解憂は70歳に近く、田宅・奴婢を賜るなどとても厚く養われ、朝見の儀は公主に準じました。
この2年後に亡くなり、3人の孫が留まって墳墓を護りました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
大昆弥・星靡
(大昆弥の元貴靡が亡くなると)元貴靡の子・星靡が代わって大昆弥となりますが、まだ幼弱だったので、馮夫人は上書して「烏孫国*1に行って星靡を鎮撫したい」と願い、漢は彼女を遣わし兵卒百人で送らせました。
また、都護(西域都護)の韓宣が、
「烏孫国*1の大吏・大禄・大監にみな金印紫綬を賜い、(彼らに)大昆弥(星靡)を輔けさせるべきです」
と上奏すると、漢はこれを許しましたが、韓宣がまた上奏して、
「星靡は臆病で積極性がありません。これを罷免し、改めて季父(末の叔父)の左大将・楽を昆弥とするべきです」
と言いましたが、漢は許しませんでした。
その後、段会宗が都護(西域都護)となると、逃亡・背叛していた民を招き還して烏孫国*1を安定させました。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
大昆弥・雌栗靡と小昆弥・安日、末振将
(大昆弥の)星靡が亡くなると子の雌栗靡が代わって(大昆弥に)立ち、小昆弥の烏就屠が亡くなって子の拊離が(小昆弥に)立ちましたが、(拊離は)弟の日弐に殺害されました。
これに対し、漢が使者を派遣して拊離の子・安日を小昆弥に立てると、日弐は康居国に入って(漢を)阻もうとし、漢は已校(戊己校尉のうちの已校尉)を姑墨に駐屯させ、討つ機会を窺います。
この時、小昆弥・安日は、貴人(貴族)の姑莫匿ら3人に命じ、逃亡して日弐に従ったように詐らせ、これを刺殺させました。都護(西域都護)の廉褒は姑莫匿らにそれぞれ金20斤と繒3百匹を下賜しました。
その後、小昆弥・安日が投降した民に殺害されると、漢は安日の弟の末振将を小昆弥に立てました。
当時、大昆弥の雌栗靡は強健で翕侯たちもみな畏服し、民には「馬などの家畜を放牧しても税を取らない」と布告し、国内は肥王・翁帰靡の時よりも大いに安寧・平和でした。
大昆弥・伊秩靡と小昆弥・末振将、安犁靡
雌栗靡が末振将に殺害される
小昆弥・末振将は(大昆弥・雌栗靡に)併合されることを恐れ、貴人(貴族)の烏日領に命じて投降したように詐らせ、雌栗靡を刺殺させました。
漢は末振将を討とうとしますが未だ果たせず、中郎将の段会宗に金幣を持たせ、都護(西域都護)と共に方略を巡らせて、雌栗靡の季父(末の叔父)で楚主解憂の孫にあたる伊秩靡を大昆弥に立てます。また漢は、京師(長安)にいる小昆弥・末振将の侍子*12を没入*13しました。
末振将が難棲に殺害される
そして、その後久しくして大昆弥・伊秩靡の翕侯・難棲が末振将を殺害し、末振将の兄・安日の子、安犁靡が代わって小昆弥となります。
成帝の元延2年(紀元前11年)、漢は自ら末振将を誅殺できなかったことを恨み、再度段会宗に命じてその太子(末振将の子)・番丘を斬りました。段会宗は帰還すると、関内侯の爵位を賜りました。
段会宗は、翕侯・難棲が末振将を殺害した動機が「漢のため」ではなかったとはいえ、賊を討ったことに変わりはないと考え、上奏して難棲を堅守都尉としました。
また、大昆弥・雌栗靡が末振将に殺害されたことをもって大禄・大吏・大監を問責し、彼らの金印紫綬を奪い、改めて銅印墨綬を与えます。
大昆弥・小昆弥の弱体化
末振将の弟・卑爰疐は、大昆弥・雌栗靡の殺害に共謀し、8万余の軍勢を率いて北の康居国につき、その兵を借りて両昆弥を併合しようと謀り、両昆弥はこれを畏れて都護(西域都護)を頼りました。
哀帝の元寿2年(紀元前1年)、大昆弥・伊秩靡は匈奴の単于と共に入朝し、漢はこのことを光栄なこととしました。
平帝の元始年間(1年〜5年)中、卑爰疐は烏日領(雌栗靡殺害の実行犯)を殺害して自ら報告し、漢は卑爰疐を帰義侯に封じました。
ですが、両昆弥はみな弱く、卑爰疐が彼らの領土を侵略したので、都護(西域都護)の孫建は卑爰疐を襲って殺害します。
烏孫国*1が大昆弥・小昆弥の両昆弥に分立して以降、漢は憂心苦慮し、寧らかな年はありませんでした。
脚注
*1漢代の西域最大の国。新疆・温宿以北、伊黎以南の地。その民は青眼赤須(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏と共に敦煌・祁連の間にいたが、後に大月氏を破って烏孫国を建国し、漢と和親した。
*12諸侯王や帰服した非漢人の王が天子(皇帝)の側近くに侍らせるという名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種で質子とも言う。
*13原文:漢沒入小昆彌侍子在京師者。没入の意味が分かりません。水に沈めて殺害?
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