後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、烏孫国うそんこくについてまとめています。

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西域諸国⑦烏孫国

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)


烏孫国(前漢期)

烏孫国うそんこく前漢ぜんかん期)

所在地・戸数・人口・兵力

烏孫国うそんこく*1昆弥こんび烏孫国うそんこく*1おう号)が治める赤谷城せきこくじょうは、長安ちょうあんから8,900里(約3,827km)の場所にあり、東の都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで1,721里(約740.03km)、西は康居国こうきょこく蕃内はんない*2まで5,000里(約2,150km)の場所にあります。

  • 戸数:120,000戸
  • 人口:630,000人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):188,800人
脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*2匈奴きょうど郅支単于しつしぜんう郅支骨都侯単于しつしこつとこうぜんう)が康居国こうきょこくの丘を借りて烏孫国うそんこくを撃った際、烏孫国うそんこくえてこれを追わなかったため、その西辺は千里にわたって無人の地となった。康居国こうきょこくのこの地のことを蕃内はんないという。

風土

  • 土地は草原の平地が広がっており、雨が多く寒い気候です。
  • 山には松やあきにれ*3が多く自生しています。
  • 馬が多く、裕福な者は4〜5千頭の馬を所有しています。
脚注

*3にれ科の落葉高木。

風俗

  • 風俗は匈奴きょうどと同じです。
  • 耕作や種植をせず、家畜を連れ水や草を求めて移動します。
  • 民はの性格は強悪非道、狼のように貪欲どんよくで信義がありません。
  • 強盗が多く、最強の国です。

官職

  • しょう:2人
  • 大禄たいろく:2人
  • 左右の大将たいしょう:各1人
  • こう:3人
  • 大将たいしょう:1人
  • 都尉とい:1人
  • 大監たいかん:2人
  • 大吏たいり:1人
  • 捨中大吏しゃちゅうたいり:2人
  • 騎君きくん:1人

烏孫国の歴史

烏孫国うそんこく*1匈奴きょうどに服属していましたが、のちにその勢力が拡大すると、匈奴きょうどの朝会におもむかなくなりました。

烏孫国うそんこく*1は東は匈奴きょうど、西北は康居国こうきょこく、西は大宛国だいえんこく、南は城郭諸国と国境を接しています。その地は元は塞族そくぞく*4の地でしたが、大月氏国だいげっしこく*5が西の塞王そくおうを破ると、塞王そくおうは敗走して南の県度国けんどこくを越えて去ったので、その地は大月氏国だいげっしこく*5の領土となりました。

その後、烏孫国うそんこく*1昆莫こんばく昆弥こんびに同じ)が大月氏国だいげっしこく*5を攻め破ると、大月氏国だいげっしこく*5は西にうつって大夏国たいかこくを臣従させ、今度は烏孫国うそんこく*1昆莫こんばくがその地を治めるようになりました。そのため烏孫国うそんこく*1の民には塞種そくしゅ*4大月氏国だいげっしこく*5の種族が入りじっています。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*4天竺てんじく胡人こじん後裔こうえいの種族(釈種しゃくしゅ)。

*5新疆しんきょうウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアアムール川上流一帯にうつり、今日にいたる。王治おうちおうの治所)・監氏城らんしじょうアフガニスタンマザーリシャリーフ

中国との関係

昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうび前漢ぜんかん武帝ぶてい期)

烏孫国の分裂

昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうび)には10余人の子がいましたが、中でも真ん中の子の大禄たいろく(官名)がすぐれて強く良将であり、1万余騎の軍勢をひきいて昆莫こんばくとは居を別にしていました。

また大禄たいろくの兄の太子たいしには子があり、岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび)と呼ばれていました。太子たいしは早死にしましたが、昆莫こんばくに「必ず岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび)を太子たいししていただきたい」と言いのこしており、昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうび)はあわれんでこれを許します。

すると大禄たいろくは(岑陬しんそう太子たいしとなったことに)怒り、昆弟こんてい(兄弟)たちを手懐てなずけると、軍勢をひきいて岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび)を攻めようとはかりました。

これに昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうび)は、岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび)に1万余騎を与えて別居させ、昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうび)自身もまたみずから1万余騎を有してこれに備えます。これにより烏孫国うそんこく*1は3つに分かれましたが、全体としては昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうび)に羈属きぞく(束縛・従属)していました。

漢との和親

初め張騫ちょうけんは「烏孫国うそんこく*1は元々大月氏国だいげっしこく*5と共に敦煌とんこうあたりにいましたが、今や強大となっています。ですが、手厚いまいない(贈り物)をおくって元の東の地にまねき、公主こうしゅ(皇女)をめあわせて昆弟こんてい(兄弟)となれば、烏孫国うそんこく*1をもって匈奴きょうどを制することができます」と言っていました。

そこで武帝ぶていは即位すると、その言葉に従って張騫ちょうけん金幣きんぺいを持たせ、烏孫国うそんこく*1おもむかせます。

この時、昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびみずから「単于ぜんうの礼」になぞらえて、張騫ちょうけんを格下として会見したので、張騫ちょうけんは大いに恥じて「天子てんし賜与しよされたのにおう昆莫こんばく)が拝礼なされないのなら、賜物しぶつをお返しください」と言いました。すると昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびち上がって拝礼し、その他のことは従来通りに接しました。


張騫ちょうけん賜物しぶつおくると、さとして言いました。

烏孫国うそんこく*1が元の東の地に居することができるなら、かん公主こうしゅ(皇女)をつかわして夫人ふじんとし、昆弟こんてい(兄弟)となって共に匈奴きょうどを防げば、破られることはありません」

ですが、烏孫国うそんこく*1かんから遠く離れているため「かんの大小(実際の勢力)」を知らず、また匈奴きょうどに近く、長らく服属していましたので、烏孫国うそんこく*1大臣だいじんたちはみな移住することを望みませんでした。

昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびは年老い国が分裂していたので独断で事を決することができず、取りあえず使者を派遣して張騫ちょうけんを送り、馬数十頭を献上して下賜かしの恩にむくいました。するとその使者は漢人かんじんの多くが富み豊かであることを見て帰国したので、それ以来、烏孫国うそんこく*1は益々かんを重んじるようになりました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

公主が烏孫国に嫁ぐ

匈奴きょうどは「烏孫国うそんこく*1かんと通じていること」を聞くと、怒ってこれを攻撃しようとし、またかんの方では、烏孫国うそんこく*1と使者を通じてからその南に出て、大宛国だいえんこく月氏国げっしこく大月氏国だいげっしこく)と互いに通じるようになっていました。

烏孫国うそんこく*1はこれを恐れ、(かんに)使者をつかわして馬を献上し、「かん公主こうしゅ(皇女)をめとって昆弟こんてい(兄弟)となりたい」と願い出ました。

そこで天子てんし武帝ぶてい)は群臣にい評議してこれを許すこととし、「必ず先に婚姻のゆいのうを入れよ。その上でむすめつかわそう」と言い、烏孫国うそんこく*1は馬千頭をゆいのうとしておさめました。

かん元封げんぽう年間(紀元前110年〜紀元前105年)、こうして江都王こうとおう劉建りゅうけん*6むすめ細君さいくん公主こうしゅ(皇女)として烏孫国うそんこく*1つかわし、乗輿じょうよ・衣服などの御物ぎょぶつたまい、その別れに際し、江都公主こうとこうしゅ細君さいくん)のために属官・宦官かんがん侍従じじゅう数百人などを盛大におくりました。

烏孫国うそんこく*1昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびは(かん公主こうしゅを)右夫人ゆうふじんとしましたが、匈奴きょうどもまたむすめつかわして猟驕靡りょうきょうびめあわせたので、猟驕靡りょうきょうびはこれを左夫人さふじんとしました。

江都公主こうとこうしゅ烏孫国うそんこく*1に到着するとみずから宮室を整え、季節ごとに1〜2回昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびと会い、酒宴をもうけて飲食し、おう昆莫こんばく)の側近や貴人(貴族)に幣帛へいはく下賜かししました。猟驕靡りょうきょうびは老人な上に言葉も通じないので、江都公主こうとこうしゅは悲しみうれえ、みずから歌を作って送りました。


わが家はわれを天の一方にとつがせ、遠く異国の烏孫うそんおうたくす。
穹廬きゅうろ(テント状の住宅)をへやとしせん(毛織物)をかべとし、肉を食しらく(乳飲料)を漿のみものとす。
居常つねひごろに郷土を思い心の内を痛め、願わくは黃鵠はくちょうとなって故郷に帰りたい。


天子てんし武帝ぶてい)はこの歌を聴いて憐れみ、1年おきに使者をつかわし、帷帳いちょう錦繡きんしゅうを持たせて江都公主こうとこうしゅ下賜かししました。


その後、昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびは年老いたので、孫の岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび江都公主こうとこうしゅめあわそうとします。

江都公主こうとこうしゅはこれを聴き入れず上書してうったえたところ、天子てんし武帝ぶてい)は「(かんは)烏孫国うそんこく*1と共にを滅ぼそうとしているのだから、その国の風俗に従うように」と返答し、岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅびはついに江都公主こうとこうしゅめとりました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*6景帝けいていの子・江都王こうとおう劉非りゅうひの子。

岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび

昆莫こんばく猟驕靡りょうきょうびが亡くなると、岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅびが代わって立ち、軍須靡ぐんしゅび江都公主こうとこうしゅめとって一女少夫をもうけました。江都公主こうとこうしゅが亡くなると、かんはまた楚王そおう劉戊りゅうぼう孫女まごむすめ解憂かいゆう公主こうしゅ(皇女)として岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅびめあわせます。

岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅびはその死にのぞみ、匈奴妻きょうどづまとの間に生まれた子の泥靡でいびがまだ幼少だったので、国を季父きふすえ叔父おじ大禄たいろくの子・翁帰靡おうきびに与えることとし、「泥靡でいびが成人したら、国を返してやるように」と言いのこしました。

肥王ひおう翁帰靡おうきび前漢ぜんかん昭帝しょうてい宣帝せんてい期)

翁帰靡おうきびおうに立つと肥王ひおうと号し、楚主解憂そしゅかいゆう楚王そおう劉戊りゅうぼう孫女まごむすめ解憂かいゆう)をめとり、3男2女を生みました。長男は元貴靡げんきびと言い、次男の万年ばんねん莎車王さしゃおうとなり、3男の大楽だいらく左大将さたいしょうとなり、長女の弟史ていし亀茲王きじおう絳賓こうひんの妻となり、小女すえむすめ素光そこう若呼翕侯じゃくこきゅうこうの妻となります。

漢と共に匈奴を撃つ

前漢ぜんかん昭帝しょうていの時代、公主こうしゅ楚主解憂そしゅかいゆう)が上書して言いました。

匈奴きょうどは騎兵を発して車師国しゃしこくで狩猟し、車師国しゃしこく匈奴きょうどが一体となって共に烏孫国うそんこく*1おかしています。ただ天子てんし昭帝しょうてい)にはどうかこれをお救いくださるようお願い申し上げます」

これを受け、かんは士馬を休養させ、評議して匈奴きょうどとうとしましたが、たまたま昭帝しょうてい崩御ほうぎょしてしまいます。その後、宣帝せんていが即位すると、公主こうしゅ楚主解憂そしゅかいゆう)と昆弥こんび翁帰靡おうきびはすぐに使者を派遣し、上書して言いました。


匈奴きょうどは今また何度も大兵を発して烏孫国うそんこく*1おかし、車延しゃえん悪師あくし*7の地を奪って民を連れ去りました。匈奴きょうどは使者をつかわして公主こうしゅ楚主解憂そしゅかいゆう)を連れて来るように申し入れ、かん隔絶かくぜつさせようとしています。

昆弥わたくしは国の半数の精兵を発し、人馬5万騎を自給して、力を尽くして匈奴きょうどとうと願っております。ただ天子てんし宣帝せんてい)には、出兵して公主こうしゅ楚主解憂そしゅかいゆう)と昆弥わたくしをお救いくださいますように」


本始ほんし3年(紀元前71年)、かんは大いに兵15万騎を発し、5人の将軍しょうぐんが複数の道に分かれて出陣し、また校尉こうい常恵じょうけい持節じせつを与えて烏孫兵うそんへいまもらせました。

昆弥こんび翁帰靡おうきびみずか翕侯きゅうこう以下5万騎の西方人を従えて(匈奴きょうどの)右谷蠡王ゆうろくりおうてい(居所)に至り、単于ぜんうの父の排行はいこう*8及びあによめ居次きょじ単于ぜんうの娘)・名王めいおう犁汙りう*9都尉とい千長せんちょう騎将きしょう以下4万人の首級と、馬・牛・羊・驢馬ろば)、橐駝たくだ駱駝らくだ)70余万頭を獲得し、烏孫国うそんこく*1虜獲りょかくしたものをみな自国のものとしました。

帰還すると(かんは)常恵じょうけい長羅侯ちょうらこうに封じ、彼を烏孫国うそんこく*1に派遣して、烏孫国うそんこく*1の貴人(貴族)で功績のあった者に金幣きんぺい下賜かししました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*7読み方不詳。悪師あくし悪師おし

*8原文:「獲單于父行及嫂〜」。一族の尊卑を祖父行・父行・兄弟行・子行などと分けて排列する。伯叔父などは父行(父の排行)である。(ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ漢書かんじょ西域伝さいいきでん・注より)

*9原文:「居次、名王、犁水於都尉、」訳はちくま学芸がくげい文庫ぶんこ漢書かんじょ西域伝さいいきでんならった。

狂王きょうおう泥靡でいび前漢ぜんかん宣帝せんてい期)

漢との約束を破る

元康げんこう2年(紀元前64年)、烏孫国うそんこく*1昆弥こんび翁帰靡おうきび常恵じょうけいを通じて上書して、

かん外孫がいそん(娘の子)・元貴靡げんきび世嗣よつぎとして再びかん公主こうしゅ(皇女)をめとらせ、婚姻を結び親戚を重ねて匈奴きょうど訣別けつべつすることができますように、馬と騾馬らば各千頭をゆいのうとして納めたいと存じます」

と言いました。

みことのりを下してこれを公卿こうけいに評議させたところ、大鴻臚だいこうろ蕭望之しょうぼうしは、

烏孫国うそんこく*1は絶遠の地にあり、異変の発生を防ぐのは困難です。許すべきではありません」

と言いましたが、天子てんし宣帝せんてい)は烏孫国うそんこく*1が新たに大功を立てたことをで、また今までの婚姻関係をつことをはばかり、烏孫国うそんこく*1に使者を派遣してゆいのうを受け取らせます。すると昆弥こんび翁帰靡おうきび及び太子たいし・左右の大将たいしょう都尉といらがみな使者を派遣し、約3百余人がかんに入り、少主しょうしゅ(年少の公主こうしゅ)をめとるためにむかえに来ました。

そこで天子てんし宣帝せんてい)は烏孫主うそんしゅ解憂かいゆう翁帰靡おうきびの妻)の弟の子・相夫そうふ公主こうしゅ(皇女)とし、属官・侍従じじゅう百余人を置き、上林苑じょうりんえんとどめて烏孫国うそんこく*1の言葉をならわせました。

天子てんし宣帝せんてい)は平楽観へいらくかん親臨しんりんし、匈奴きょうどの使者や外国の君長くんちょうと会同して大いに角抵かくてい*10を競わせ、音楽をもうけて少主しょうしゅを送り出します。そして、長羅侯ちょうらこう光禄大夫こうろくたいふ常恵じょうけいを付きいとし、持節じせつを持つ者4人が郭煌郡とんこうぐんまで少主しょうしゅを送りました。

ですが、まださいを出ないうちに昆弥こんび翁帰靡おうきびが亡くなったため、烏孫国うそんこく*1の貴人(貴族)らは(かんと約束した元貴靡げんきびではなく)本来の約束(岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅび遺言ゆいごん)通り、岑陬しんそう軍須靡ぐんしゅびの子・泥靡でいび昆靡こんび昆弥こんび)に立て、狂王きょうおうと号しました。

このことを聞いた常恵じょうけいは、

「願わくは少主しょうしゅ郭煌郡とんこうぐんとどめ、わたくしは馬をせて烏孫国うそんこく*1に行き、元貴靡げんきび昆靡こんび昆弥こんび)に立てないことを問責した上で、改めて少主しょうしゅむかえたいと存じます」

と上書し、事が公卿こうけいに下げ渡されると、大鴻臚だいこうろ蕭望之しょうぼうしはまた言いました。


烏孫国うそんこく*1は両端(二心ふたごころ)を持っており、約束を結びがたいと存じます。さき公主こうしゅ楚主解憂そしゅかいゆう)は烏孫国うそんこく*1ること40余年になりますのに、(昆弥こんびの)恩愛の情は親密とは言えず、辺境はいまだ安定しておりません。これが現実なのです。

今、元貴靡げんきびが(昆弥こんびに)立てられなかったことを理由に少主しょうしゅが引きかえしても、信義の上で夷狄いてきに対してい目はなく、中国にとってさいわいです。少主しょうしゅ(の婚姻)を止めなければ、徭役ようえきが起きることになります*11


天子てんし宣帝せんてい)はこの意見に従って少主しょうしゅかえしました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*10腕力や弓術・馬術の技を競う競技。

*11原文:少主不止,徭役將興,其原起此。

狂王暗殺未遂事件

狂王きょうおう昆靡こんび泥靡でいび)はまた楚主解憂そしゅかいゆうめとって一男・鴟靡しびを生みましたが、狂王きょうおう楚主解憂そしゅかいゆうと仲が良くなく、また乱暴・非道であったので民心を失いました。

かん衛司馬えいしば魏和意ぎわい副侯ふくこう任昌じんしょうに命じて烏孫国うそんこく*1侍子じし*12の帰国を送らせたところ、公主こうしゅ楚主解憂そしゅかいゆう)は「狂王きょうおう烏孫国うそんこく*1の患苦となっており、容易たやす誅殺ちゅうさつできるでしょう」と言いました。

そこで(魏和意ぎわいらは)ついにはかって酒宴をもうけ、酒宴が終わると、士に命じて剣で狂王きょうおうを襲わせました。ところが剣筋がれ、狂王きょうおうは傷を負ったものの馬に乗って駆け去ります。

これに狂王きょうおうの子・細沈瘦さいちんそうは、兵を集めて魏和意ぎわい任昌じんしょう楚主解憂そしゅかいゆう赤谷城せきこくじょうを包囲しますが、数ヶ月って、都護とご西域都護さいいきとご)の鄭吉ていきつ西域さいいき諸国の兵を発してこれを救いに来ると、細沈瘦さいちんそうはようやく包囲をいて去りました。


かん中郎将ちゅうろうしょう張遵ちょうじゅんに医薬品を持たせて派遣し、狂王きょうおうを治療して、金20きん采繒いろぎぬ下賜かしする一方で、魏和意ぎわい任昌じんしょうを捕らえて鎖でつなぐと、尉犁国いりこくから檻車かんしゃ長安ちょうあんに送って斬首します。

また、車騎将軍しゃきしょうぐん長史ちょうし張翁ちょうおうは(烏孫国うそんこく*1に)とどまって、楚主解憂そしゅかいゆうと使者が狂王きょうおう謀殺ぼうさつしようとした罪状を験問けんもんします。楚主解憂そしゅかいゆうは罪に服さずに叩頭こうとうして謝罪すると、張翁ちょうおう楚主解憂そしゅかいゆうの髪をつかんでののしりますが、楚主解憂そしゅかいゆうがこのことを上書したため、張翁ちょうおうは帰還すると死罪に処されました。

副使ふくし季都きとは別に医者を連れて狂王きょうおうを看護したことから、狂王きょうおうは10余騎を従えて季都きとを見送ります。季都きとが帰還すると「狂王きょうおう誅殺ちゅうさつすべきであることを知っていながら、機会を見て実行しなかった」罪により、蚕室さんしつ*13に下されました。


かんの意向は「狂王きょうおう誅殺ちゅうさつ」にあったが、誅殺ちゅうさつの失敗によりかんは表向き狂王きょうおうを看護し、金帛きんぱく下賜かしして取りつくろった。楚主解憂そしゅかいゆうに罪はなく、魏和意ぎわい任昌じんしょうは「誅殺ちゅうさつに失敗した罪」により斬首されたのである。

一方、張翁ちょうおう楚主解憂そしゅかいゆうに罪をうて死罪となり、季都きと狂王きょうおう誅殺ちゅうさつする機会を見逃みのがして宮刑きゅうけい去勢きょせい刑)に処された。おそらく張翁ちょうおう季都きとかんの真意を知らなかったのであろうと思われる。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*12諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおう天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせるという名目でかんみやこに送った子息のこと。人質の一種で質子ちしとも言う。

*13宮刑きゅうけい去勢きょせい刑)に処せられた者を入れた部屋。宮刑きゅうけい去勢きょせい刑)に処せられたことを意味する。

大昆弥だいこんび元貴靡げんきび小昆弥しょうこんび烏就屠としゅうと前漢ぜんかん宣帝せんてい期)

烏就屠が昆弥に立つ

(前昆弥こんびの)肥王ひおう翁帰靡おうきび匈奴妻きょうどづまの子・烏就屠うしゅうとは、狂王きょうおうが傷つけられたと聞き驚いて、翕侯きゅうこうたちと共に北の山(天山てんざん)の山中に去っていましたが、「母方の匈奴兵きょうどへいがやって来る」と言って回ると、人々は烏就屠うしゅうとに帰順します。

その後、烏就屠うしゅうとはついに狂王きょうおうを襲撃して殺害し、みずか昆弥こんびに立ちました。

これにかんは、破羌将軍はきょうしょうぐん辛武賢しんぶけんに1万5千人の兵を与えて郭煌郡とんこうぐんに派遣します。辛武賢しんぶけんは、使者をつかわし巡察して標柱ひょうちゅう(目印の細長い柱)を立て、卑鞮侯井ひていこうせい以西にほり穿うがつと、「水運を通じて穀物を運び、廬倉ろそうに備蓄する」ことによって烏就屠うしゅうととうとしました。

大昆弥と小昆弥

楚主解憂そしゅかいゆう侍女じょ馮嫽ふうりょうは史書や西域さいいきの事情に通じ、かつてかんの書簡を持って楚主解憂そしゅかいゆうの使者として城郭諸国に行き、賞賜しょうしを行ったこともあって、(烏孫国うそんこく*1の人々から)敬愛・信頼され、馮夫人ふうふじんと呼ばれていました。

馮夫人ふうふじん烏孫国うそんこく*1右大将ゆうたいしょうの妻となりましたが、右大将ゆうたいしょう烏就屠うしゅうとと愛し合っていたので、都護とご西域都護さいいきとご)の鄭吉ていきつは、馮夫人ふうふじんを通じて烏就屠うしゅうとに「漢兵かんぺいが出陣すれば必ず滅ぼされるであろう。降伏すべきである」ときます。すると烏就屠うしゅうとは恐れ、「願わくは小昆弥しょうこんびの称号を得たい」と言いました。

宣帝せんてい馮夫人ふうふじんしてみずから事情をうと、謁者えっしゃ竺次じくじを派遣し、期門きもん甘延寿かんえんじゅ副使ふくしとして馮夫人ふうふじんを(烏孫国うそんこく*1に)送らせます。

馮夫人ふうふじん錦車きんしゃ*14に乗りせつを持って、烏就屠うしゅうとみことのりを下して長羅侯ちょうらこう常恵じょうけい赤谷城せきこくじょうに至らせ、元貴靡げんきび大昆弥だいこんびに立てて烏就屠うしゅうと小昆弥しょうこんびとし、それぞれに印綬いんじゅ下賜かししました。

これにより郭煌郡とんこうぐんに駐屯していた破羌将軍はきょうしょうぐん辛武賢しんぶけんさいを出ずに兵をかえします。

その後、烏就屠うしゅうと翕侯きゅうこうたちや民衆のことごとくを帰順させることはできず、かんもまた長羅侯ちょうらこう常恵じょうけいに3人の軍校ぐんこうひきいて赤谷城せきこくじょうに駐屯させ、その民と境界を区別して大昆弥だいこんびの戸数を6万余、小昆弥しょうこんびの戸数を4万余としましたが、民心はみな小昆弥しょうこんびにつきました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*14にしきつつんだ車。

楚主解憂の死

肥王ひおう翁帰靡おうきび楚主解憂そしゅかいゆうの子・)元貴靡げんきびと(狂王きょうおう泥靡でいび楚主解憂そしゅかいゆうの子・)鴟靡しびがみな病死すると、楚主解憂そしゅかいゆうは上書して言いました。

「年老いて郷土を恋しく思います。願わくは(私の)遺骨をかんの地にほうむっていただきたい」

甘露かんろ3年(紀元前51年)、天子てんし宣帝せんてい)はこれをあわれに思ってかんむかえたので、楚主解憂そしゅかいゆう烏孫国うそんこく*1の男女3人(の孫)と共に京師けいし長安ちょうあん)に至ります。この時、楚主解憂そしゅかいゆうは70歳に近く、田宅・奴婢どひたまわるなどとても厚く養われ、朝見の儀は公主こうしゅに準じました。

この2年後に亡くなり、3人の孫がとどまって墳墓を護りました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

大昆弥だいこんび星靡せいび

大昆弥だいこんび元貴靡げんきびが亡くなると)元貴靡げんきびの子・星靡せいびが代わって大昆弥だいこんびとなりますが、まだ幼弱だったので、馮夫人ふうふじんは上書して「烏孫国うそんこく*1に行って星靡せいび鎮撫ちんぶしたい」と願い、かんは彼女をつかわし兵卒百人で送らせました。

また、都護とご西域都護さいいきとご)の韓宣かんせんが、

烏孫国うそんこく*1大吏たいり大禄たいろく大監たいかんにみな金印紫綬きんいんしじゅたまい、(彼らに)大昆弥だいこんび星靡せいび)をたすけさせるべきです」

と上奏すると、かんはこれを許しましたが、韓宣かんせんがまた上奏して、

星靡せいび臆病おくびょうで積極性がありません。これを罷免ひめんし、改めて季父きふすえ叔父おじ)の左大将さたいしょうがく昆弥こんびとするべきです」

と言いましたが、かんは許しませんでした。

その後、段会宗だんかいそう都護とご西域都護さいいきとご)となると、逃亡・背叛はいはんしていた民を招きかえして烏孫国うそんこく*1を安定させました。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

大昆弥だいこんび雌栗靡しりつび小昆弥しょうこんび安日あんじつ末振将まつしんしょう

大昆弥だいこんびの)星靡せいびが亡くなると子の雌栗靡しりつびが代わって(大昆弥だいこんびに)立ち、小昆弥しょうこんび烏就屠うしゅうとが亡くなって子の拊離ふりが(小昆弥しょうこんびに)立ちましたが、(拊離ふりは)弟の日弐じつじに殺害されました。

これに対し、かんが使者を派遣して拊離ふりの子・安日あんじつ小昆弥しょうこんびに立てると、日弐じつじ康居国こうきょこくに入って(かんを)はばもうとし、かん已校きこう戊己校尉ぼきこういのうちの已校尉きこうい)を姑墨こぼくに駐屯させ、つ機会をうかがいます。

この時、小昆弥しょうこんび安日あんじつは、貴人(貴族)の姑莫匿こばくとくら3人に命じ、逃亡して日弐じつじに従ったようにいつわらせ、これを刺殺させました。都護とご西域都護さいいきとご)の廉褒れんほう姑莫匿こばくとくらにそれぞれ金20きんきぬ3百匹を下賜かししました。


その後、小昆弥しょうこんび安日あんじつが投降した民に殺害されると、かん安日あんじつの弟の末振将まつしんしょう小昆弥しょうこんびに立てました。

当時、大昆弥だいこんび雌栗靡しりつびは強健で翕侯きゅうこうたちもみな畏服いふくし、民には「馬などの家畜を放牧しても税を取らない」と布告し、国内は肥王ひおう翁帰靡おうきびの時よりも大いに安寧・平和でした。

大昆弥だいこんび伊秩靡いちつび小昆弥しょうこんび末振将まつしんしょう安犁靡あんりび

雌栗靡が末振将に殺害される

小昆弥しょうこんび末振将まつしんしょうは(大昆弥だいこんび雌栗靡しりつびに)併合へいごうされることを恐れ、貴人(貴族)の烏日領うじつりょうに命じて投降したようにいつわらせ、雌栗靡しりつびを刺殺させました。

かん末振将まつしんしょうとうとしますがいまだ果たせず、中郎将ちゅうろうしょう段会宗だんかいそう金幣きんぺいを持たせ、都護とご西域都護さいいきとご)と共に方略をめぐらせて、雌栗靡しりつび季父きふすえ叔父おじ)で楚主解憂そしゅかいゆうの孫にあたる伊秩靡いちつび大昆弥だいこんびに立てます。またかんは、京師けいし長安ちょうあん)にいる小昆弥しょうこんび末振将まつしんしょう侍子じし*12を没入*13しました。

末振将が難棲に殺害される

そして、その後久しくして大昆弥だいこんび伊秩靡いちつび翕侯きゅうこう難棲なんせい末振将まつしんしょうを殺害し、末振将まつしんしょうの兄・安日あんじつの子、安犁靡あんりびが代わって小昆弥しょうこんびとなります。

成帝せいてい元延げんえん2年(紀元前11年)、かんみずか末振将まつしんしょう誅殺ちゅうさつできなかったことをうらみ、再度段会宗だんかいそうに命じてその太子たいし末振将まつしんしょうの子)・番丘はんきゅうを斬りました。段会宗だんかいそうは帰還すると、関内侯かんだいこうの爵位をたまわりました。


段会宗だんかいそうは、翕侯きゅうこう難棲なんせい末振将まつしんしょうを殺害した動機が「かんのため」ではなかったとはいえ、ぞくったことに変わりはないと考え、上奏して難棲なんせい堅守都尉けんしゅといとしました。

また、大昆弥だいこんび雌栗靡しりつび末振将まつしんしょうに殺害されたことをもって大禄たいろく大吏たいり大監たいかん問責もんせきし、彼らの金印紫綬きんいんしじゅを奪い、改めて銅印墨綬どういんぼくじゅを与えます。

大昆弥・小昆弥の弱体化

末振将まつしんしょうの弟・卑爰疐ひえんちは、大昆弥だいこんび雌栗靡しりつびの殺害に共謀し、8万余の軍勢をひきいて北の康居国こうきょこくにつき、その兵を借りて両昆弥こんびを併合しようとはかり、両昆弥こんびはこれをおそれて都護とご西域都護さいいきとご)を頼りました。


哀帝あいてい元寿げんじゅ2年(紀元前1年)、大昆弥だいこんび伊秩靡いちつび匈奴きょうど単于ぜんうと共に入朝し、かんはこのことを光栄なこととしました。


平帝へいてい元始げんし年間(1年〜5年)中、卑爰疐ひえんち烏日領うじつりょう雌栗靡しりつび殺害の実行犯)を殺害してみずから報告し、かん卑爰疐ひえんち帰義侯きぎこうに封じました。

ですが、両昆弥こんびはみな弱く、卑爰疐ひえんちが彼らの領土を侵略したので、都護とご西域都護さいいきとご)の孫建そんけん卑爰疐ひえんちを襲って殺害します。

烏孫国うそんこく*1大昆弥だいこんび小昆弥しょうこんびの両昆弥こんびに分立して以降、かんは憂心苦慮し、やすらかな年はありませんでした。

脚注

*1かん代の西域さいいき最大の国。新疆しんきょう温宿おんじゅく以北、伊黎いれい以南の地。その民は青眼赤須せきしゅ(赤ひげ)で、トルコ族の一種。初め大月氏だいげっしと共に敦煌とんこう祁連きれんの間にいたが、のち大月氏だいげっしを破って烏孫国うそんこくを建国し、かんと和親した。

*12諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおう天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせるという名目でかんみやこに送った子息のこと。人質の一種で質子ちしとも言う。

*13原文:漢沒入小昆彌侍子在京師者。没入の意味が分かりません。水に沈めて殺害?


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