後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、疏勒国そろくこく尉頭国いとうこくについてまとめています。

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西域諸国⑥

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

疏勒国(前漢期)

疏勒国(前漢期)

疏勒国そろくこく前漢ぜんかん期)

所在地・戸数・人口・兵力

疏勒国そろくこくおうの治所である疏勒城そろくじょうは、長安ちょうあんから9,350里(約4,020.5km)の場所にあり、東は都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)まで2,210里(約950.3km)、南は莎車国さしゃこくまで560里(約240.8km)あります。

市場がつらなり、西は大月氏国だいげっしこく*1大宛国だいえんこく康居国こうきょこく*2への道に当たっています。

  • 戸数:1,510戸
  • 人口:18,647人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):2,000人
脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアアムール川上流一帯にうつり、今日にいたる。王治おうちおうの治所)・監氏城らんしじょうアフガニスタンマザーリシャリーフ

*2中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。

官職

  • 疏勒侯そろくこう:1人
  • 擊胡侯げきここう:1人
  • 輔国侯ほこくこう:1人
  • 都尉とい:1人
  • 左右のしょう:各1人
  • 左右の騎君きくん:各1人
  • 左右の訳長えきちょう:各1人

疏勒国(後漢期)

疏勒国(後漢期)

疏勒国そろくこく後漢ごかん期)

所在地・戸数・兵力

疏勒国そろくこく長史ちょうし西域長史さいいきちょうし)の治所(柳中城りゅうちゅうじょう)から5,000里(約2,150km)、洛陽らくよう雒陽らくよう)から10,300里(約4,429km)の場所にあります。

疏勒国そろくこくから東北に向かうと尉頭国いとうこく姑墨国こぼくこく亀茲国きじこく焉耆国えんきこくに至ります。

  • 戸数:21,000戸
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):3万余人

後漢との関係

明帝期

明帝めいてい永平えいへい16年(73年)、亀茲王きじおうけん疏勒国そろくこくを攻めて疏勒王そろくおうせいを殺害し、亀茲国きじこく左侯さこう兜題とうだい疏勒王そろくおうとします。

するとその冬、かん軍司馬ぐんしば班超はんちょうを派遣し、(疏勒国そろくこくを)おどして兜題とうだいを捕縛させ、せいの兄の子・ちゅう疏勒王そろくおうに立てましたが、のちちゅうかんそむき、班超はんちょうの攻撃を受けて殺害されました。

安帝期

安帝あんてい元初げんしょ年間(114年〜120年)中、疏勒王そろくおう安国あんこくしゅうと(妻の父)の臣磐しんはんに罪があるとして月氏国げっしこく*1うつしましたが、臣磐しんはん月氏国げっしこく*1したしみ愛されていました。

のち安国あんこくが亡くなると、安国あんこくには子がなかったので母(安国あんこくの妻の母?)が国政をにぎり、国人たちと共に臣磐しんはんの同母弟の子・遺腹いふく疏勒王そろくおうに立てました。

そのことを聞いた臣磐しんはん月氏王げっしおうに、

安国あんこくには子がおらず、その種人(一族)は微弱です。もし母系のおうを立てるのならば、遺腹いふく叔父おじであるわたしこそがおうとなるべきです」

うと、月氏王げっしおうはこれを聞き入れ、兵に送らせて臣磐しんはん疏勒国そろくこくに帰還させます。すると疏勒国そろくこくの国人たちは、元より臣磐しんはんを敬愛し、月氏国げっしこく*1おそはばかっていたので、すぐさま遺腹いふく印綬いんじゅを奪って臣磐しんはん疏勒王そろくおうに迎え、遺腹いふく磐稿城侯はんこうじょうこう磐堠城侯はんこうじょうこう)としました。

のち莎車国さしゃこくが何度も于窴国うてんこくそむいて疏勒国そろくこくに服属したため、疏勒国そろくこくは強くなり、亀茲国きじこく于窴国うてんこくと対等の国となるまでに至ります。

脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアアムール川上流一帯にうつり、今日にいたる。王治おうちおうの治所)・監氏城らんしじょうアフガニスタンマザーリシャリーフ

順帝期

順帝じゅんてい永建えいけん2年(127年)、疏勒王そろくおう臣磐しんはんが使者を派遣して貢ぎ物を献上すると、順帝じゅんてい臣磐しんはん漢大都尉かんだいといに、臣磐しんはんの兄の子・臣勲しんくん守国司馬しゅこくしばに任命しました。


順帝じゅんてい永建えいけん5年(130年)、臣磐しんはん侍子じし*3を派遣して、大宛国だいえんこく莎車国さしゃこくと共に宮城きゅうじょうに参内し、貢ぎ物を献上しました。


順帝じゅんてい陽嘉ようか2年(133年)、臣磐しんはんはさらに師子しし獅子しし:ライオン)と封牛こぶうし犎牛ほうぎゅう:ゼビュー)を献上しました。

脚注

*3諸侯王しょこうおうや帰服した非漢人のおう天子てんし(皇帝)の側近そばちかくにはべらせるという名目でかんみやこに送った子息のこと。人質の一種で質子ちしとも言う。

霊帝期

霊帝れいてい建寧けんねい元年(168年)、疏勒王そろくおう漢大都尉かんだいとい(の臣磐しんはん)が狩猟中に、季父きふすえ叔父おじ)の和得わとくに射殺され、和得わとくみずか疏勒王そろくおうとなりました。


霊帝れいてい建寧けんねい3年(170年)、涼州刺史りょうしゅうしし孟佗もうた従事じゅうじ任渉じんしょう敦煌郡とんこうぐんの兵5百人をひきいさせ、戊司馬ぼしば曹寛そうかん西域長史さいいきちょうし張晏ちょうあんと共に焉耆国えんきこく亀茲国きじこく車師前後部しゃしぜんこうぶの兵・合わせて3万余人をひきいて疏勒国そろくこくを討伐し、楨中城ていちゅうじょうを攻めましたが、40余日っても陥落させることができずに引きげました。

その後、疏勒国そろくこくではおうの座をめぐってたびたび殺し合っていましたが、かんの朝廷でもおさえることはできませんでした。

尉頭国

前漢ぜんかん

尉頭国

尉頭国いとうこく

所在地・戸数・人口・兵力

尉頭国いとうこくおうの治所である尉頭谷いとうこくは、長安ちょうあんから8,650里(約3,719.5km)の場所にあり、東の都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)までは1,411里(約606.73km)あります。

南は疏勒国そろくこくと接していますが山道は通じておらず、西は捐毒国えんどくこくまで1,314里(約565.02km)あり、馬で2日の行程になります。

市場がつらなり、西は大月氏国だいげっしこく*1大宛国だいえんこく康居国こうきょこく*2への道に当たっています。

  • 戸数:300戸
  • 人口:2,300人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):800人
風俗
  • 田・家畜のために水や草を求めて移動します。
  • 衣服は烏孫うそんに似ています。
官職
  • 左右の都尉とい:各1人
  • 左右の騎君きくん:各1人
脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアアムール川上流一帯にうつり、今日にいたる。王治おうちおうの治所)・監氏城らんしじょうアフガニスタンマザーリシャリーフ

*2中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。


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