後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、莎車国についてまとめています。
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西域諸国⑤
西域(後漢時代)
莎車国(前漢期)
莎車国(前漢期)
所在地・戸数・人口・兵力
莎車国の王の治所である莎車城は、長安から9,950里(約4,278.5km)の場所にあります。東北は都護(西域都護)の治所(烏塁城)まで4,746里(約2,040.78km)、西は疏勒国まで560里(約240.8km)、西南は蒲犁国*1まで740里(約318.2km)あります。
- 戸数:2,339戸
- 人口:16,373人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):3,049人
脚注
*1新疆ウィグル自治区・葉城(カルガリク)の西。
風土
- 鉄山があり、青玉(サファイア)を産出します。
官職
- 輔国侯:1人
- 左右の将:各1人
- 左右の騎君:各1人
- 備西夜君:各1人
- 都尉:2人
- 訳長:4人
前漢との関係
前漢・宣帝の時代、莎車王は烏孫公主の末子・万年を愛していました。莎車王は子がないまま亡くなりましたが、莎車王が亡くなった時、万年は漢(前漢)にいました。
そこで莎車国の国人は自ら漢を頼ろうとし、また烏孫の歓心を得ようとして、すぐに(漢に)上書して「万年を莎車王にしたい」と請うたところ、漢はこれを許して使者の奚充国を遣わし、万年を(莎車国に)送らせました。ところが万年は、莎車王に立った当初から暴悪だったので、国人たちは心から服従していませんでした。
元康元年(紀元前65年)、莎車王(万年)の弟・呼屠徵が万年を殺害し、併せて漢の使者をも殺害して自ら莎車王に立ち、諸国と約定を交わして漢に背きました。
丁度この時、衛候・馮奉世が使者として大宛国の賓客を送っているところだったので、直ちに諸国の兵を徴発し、呼屠徵を攻撃して殺害すると、改めて他の昆弟(兄弟)の子を莎車王としました。
帰還後、馮奉世は光禄大夫を拝命しました。
莎車国(後漢期)
莎車国(後漢期)
※嬀塞国と驪帰国の位置は不詳。
所在地・戸数・人口・兵力
莎車国は、西の蒲犁国*1・無雷国*2を経由して大月氏国*3に至り、東の洛陽(雒陽)から10,950里(約4,708.5km)の場所にあります。
莎車国から東北に向かうと疏勒国に至ります。
脚注
*1新疆ウィグル自治区・葉城(カルガリク)の西。
*2新疆ウィグル自治区・塔什庫爾干県及びタジキスタン南東部。
*3新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
後漢との関係
新:王莽期
匈奴の単于は「王莽の乱」にかこつけて西域を略取しましたが、最も強い莎車王の延だけは、服属することを承知しませんでした。
かつて前漢・元帝の時代、(延は)侍子*4となって京師(長安)で成長したため、中国を慕い憧れ、漢の法典を参考にして莎車国を統治して、子供たちには常に「代々漢家(漢王室)に奉ぜよ。背いてはならぬ」と言い聞かせていました。
新(王莽)の天鳳5年(18年)、延が亡くなり、忠武王と諡され、子の康が莎車王に立ちました。
脚注
*4諸侯王や帰服した非漢人の王が天子(皇帝)の側近くに侍らせるという名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種で質子とも言う。
後漢:光武帝期
光武帝の初め[建武元年(25年)]、康は近隣の国を率いて匈奴を防ぎ、元都護(西域都護)の吏士や妻子・千余人を保護すると、河西郡に檄書を送って漢の動静を問い、自ら「漢家(漢王室)を思慕している」と表明しました。
建武5年(29年)、河西大将軍の竇融が詔を伝え、康を漢莎車建功懐徳王・西域大都尉とし、55ヶ国はみなこれに属しました。
建武9年(33年)、康が亡くなり、宣成王と諡されました。代わって弟の賢が莎車王に立つと、賢は拘弥国と西夜国を攻め破り、両国の王を殺害して、兄・康の2人の子をそれぞれ拘弥王と西夜王に立てました。
建武14年(38年)、賢が鄯善王の安と共に(漢に)使者を派遣して貢ぎ物を献じました。こうして西域は初めて(交流が)通じ、葱嶺(パミール高原)以東の諸国はみな賢(莎車国)に属しました。
建武17年(41年)、賢は再び(漢に)使者を派遣して貢ぎ物を献じ、都護(西域都護)の官位を請いました。
天子(光武帝)がこれを大司空の竇融に尋ねたところ、竇融は「賢の父子兄弟は誓約して漢に仕え、この上ない忠誠心を抱いておりますので、宜しく号位(官位)を加えてこれを安んじるべきでしょう」と答えました。
そこで天子(光武帝)は、賢の使者に西域都護の印綬及び車旗・黄金・綿繡(美しい織物・衣服)を下賜しましたが、これに敦煌太守の裴遵が「夷狄に大きな権限を与えてはなりません。さらに諸国を失望させることになるでしょう」と上言すると、天子(光武帝)はまた詔を下して都護(西域都護)の印綬を回収し、改めて賢に漢大将軍の印綬を下賜しました。
賢の使者は(印綬を交換することを)承知しませんでしたが、裴遵が強く迫って奪ったことから、賢はこの時初めて漢に恨みを抱きました。その後、賢は「大都護」と詐称して諸国に書簡を送ったので、諸国の悉くが服属し、賢を「単于」と呼ぶようになります。
賢は次第に驕慢になり、重い賦税を求めて度々亀茲の諸国を攻めたので、諸国は憂い惧れるようになりました。
建武21年(45年)冬、車師前王国・鄯善国・焉耆国ら18ヶ国が共に子を遣わして(朝廷に)入侍させ、その国の珍宝を献上しました。拝謁するとみな涙を流して稽首*5し、「都護(西域都護)(の保護)を得たい」と願い出ました。
ですが天子(光武帝)は「中国が初めて定まった(後漢によって統一された)ばかりで、北方の辺境が未だに服従していない」ことから、みなその侍子*4を(それぞれの国に)還し、これに厚く賞賜しました。
この時賢は、自らの兵の強さを恃んで西域諸国を併合しようとし、攻撃を益々激しくしていたので、諸国は(漢の)都護(西域都護)が(救援に)出て来ないばかりか、侍子*4もみな還されると聞いて大いに憂い恐れました。
そこで諸国は敦煌太守・裴遵に檄文を送って「侍子*4を留めて莎車国に(漢が諸国を保護する姿勢を)示す」ことを願い、「侍子*4が(敦煌郡に)留められ、都護(西域都護)が巡察*6されるならば、(莎車国が)出兵を止めることを期待できるでしょう」と言いました。
裴遵が詳しい実情を報告し、天子(光武帝)はこれを許しました。
建武22年(46年)、賢は都護(西域都護)が来ないことを知ると、鄯善王の安に書簡を送って漢に通じる道を絶たせようとしますが、安はその要請を受け入れずに使者を殺害してしまったので、賢は大いに怒り、兵を発して鄯善国を攻めました。安はこれを迎撃するも敗れて山中に逃亡し、賢は千余人を殺害、略奪して引き揚げました。
冬、賢は再び(亀茲国を)攻めて亀茲王を殺害し、ついにその国を併合してしまいます。
鄯善国・焉耆国ら諸国の侍子*4は長いこと敦煌郡に留まっていたので心配になり、みな逃亡して帰国しました。これに鄯善王が「どうかもう1度 子を入侍させ、都護(西域都護)(の保護)を願います。都護(西域都護)が派遣されなければ、確実に匈奴に迫られることになるでしょう」と上書すると、天子(光武帝)は答えて「今は使者や大兵を出すことは叶わぬ。もし諸国の力を統制できないのなら、東西南北(どの勢力)に付くことも自由である」と言いました。
こうして鄯善国・車師国は再び匈奴に付き、賢は益々横暴になりました。
(嬀塞国の)嬀塞王は自国が(莎車国から)遠いことを恃みに賢の使者を殺害すると、賢はこれを攻め滅ぼして、その国の貴人(貴族)の駟鞬を嬀塞王とし、さらにその子の則羅を亀茲王としました。その後、則羅が年少であったことから亀茲国を分割して烏塁国とし、駟鞬を烏塁王に徙して、別の貴人(貴族)を立てて嬀塞王とします。
ですがそれから数年後、亀茲国の国人は共に則羅と駟鞬を殺害し、匈奴に使者を派遣して、改めて王を立てることを要請しました。これを受け、匈奴は亀茲国の貴人(貴族)の身毒を立てて亀茲王とします。これにより、亀茲国は匈奴に服属することになりました。
賢は大宛国の貢税が滅少したことから、自ら諸国の兵・数万人を率いて大宛国を攻めました。すると大宛王の延留は(賢を)迎えて降伏したので、賢は国に帰還し、拘弥王の橋塞提を徙して大宛王としました。
ですが、度々康居国*7が大宛国を攻めたので、橋塞提は1年余りで逃亡して(拘弥国に)帰ってしまいます。そこで賢は、再び橋塞提を拘弥王とし、延留を大宛国に帰還させてこれまで通り貢ぎ物を献上させることにしました。賢はまた、于窴王の俞林を徙して驪帰王とし、その弟の位侍を立てて于窴王としました。
1年余りして、賢は「諸国が反乱を起こすのではないか」と疑い、于窴王の位侍・拘弥王の橋塞提・姑墨王・子合王を召し出して殺害すると、以後は王を置かずに将を派遣してそれらの国を鎮守させるだけとするようになります。
位侍の子・戎は逃亡して漢に亡命し、守節侯に封ぜられました。
脚注
*4諸侯王や帰服した非漢人の王が天子(皇帝)の側近くに侍らせるという名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種で質子とも言う。
*5頭を地に着くまで下げてする礼。
*6原文:都護尋出
*7中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。
後漢:明帝期
莎車国の将・君得は、駐在する于窴国において暴虐を振るい、民はこれに悩まされていました。
後漢・明帝の永平3年(60年)、于窴国の大人・都末が、城の外で見つけた野豚を射ろうとしたところ、その野豚が「我を射てはならぬ。汝のために君得を殺してやろう」と言った。そこで都末は、すぐに兄弟と共に君得を殺害します。
ですがその後、大人の休莫霸が漢人の韓融らと共に都末兄弟を殺害し、自ら立って于窴王となると、拘弥国の国人と共に皮山国にいた莎車国の将を攻撃し、彼を殺害して引き揚げました。
これに対し賢は、太子と国相を派遣し、諸国の兵・2万人を率いて休莫霸を攻撃させましたが、休莫霸はこれを迎撃して莎車国の兵を敗走させ、1万余人を殺害します。賢は再び諸国の兵・数万人を徴発し、自ら率いて休莫霸を攻撃しますが、またも休莫霸に敗れて半数以上を斬殺され、単身逃走して国に逃げ帰りました。
その後、休莫霸は軍を進めて莎車国を包囲しましたが、流れ矢に当たって戦死し、(于窴国の)兵は撤退しました。(休莫霸が戦死したことにより)于窴国の国相・蘇榆勒らは共に休莫霸の兄の子・広徳を立てて王とします。
匈奴は亀茲の諸国と共に莎車国を攻めましたが、陥落させることはできませんでした。
そこへ莎車国の衰退を見て取った于窴王・広徳が、弟の輔国侯・仁に命じて賢を攻撃させると、連戦により疲弊していた賢は広徳と和睦して、数年間捕虜としていた広徳の父を帰し、自分の女を広徳に娶せて義兄弟の契りを結びました。
永平4年(61年)、莎車国の相・且運らが賢の驕慢横暴を憂慮し、秘かに謀叛して城ごと于窴国に降ろうとします。これを受け、于窴王・広徳は諸国の兵・3万人を率いて莎車国を攻めました。
賢は城を守り、使者を派遣して「我は汝の父を還し、汝に妻を与えたのに、やって来て我を攻撃するとはどういうつもりだ?」と言うと、広徳は「王(賢)は我が妻の父ですが、久しくお会いしておりません。どうか各々2人の供を連れて城外で会見し、盟約を結んでいただきたいと存じます」と答えました。
賢がこれを且運に相談すると、且運は「広徳どのは女婿であり、極めて親しい間柄です。城外に出て会見なさるのがよろしいでしょう」と答えました。こうして賢が少ない護衛で城を出たところ、広徳によって捕らえられてしまいます。
そこで且運らは于窴兵を城内に招き入れると、賢の妻子を捕虜にして莎車国を于窴国に併合し、広徳は賢を鎖で繋いで帰り、1年余り後に殺害しました。
後漢:章帝期
匈奴は「広徳が莎車国を滅ぼした」と聞くと、5人の将を派遣して焉耆国・尉黎国・亀茲国の15国の兵・3万余人で于窴国を包囲しました。すると広徳は降伏を乞い、太子を人質として、毎年 罽(フェルト)と絮を差し出すことを約束します。
章帝の元和3年(86年)冬、匈奴は再び兵を派遣して賢の質子*4・不居徵を送り込んで莎車王に立てますが、広徳はこれを攻め殺し、改めてその弟の斉黎を莎車王に立てました。
この時、長史(西域長史)の班超が諸国の兵を徴発して莎車国を攻撃し、大いにこれを破って漢に降伏させました。
脚注
*4諸侯王や帰服した非漢人の王が天子(皇帝)の側近くに侍らせるという名目で漢の都に送った子息のこと。人質の一種で侍子とも言う。
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