後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、大宛国・桃槐国・休循国・捐毒国についてまとめています。
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西域諸国④
西域(後漢時代)
大宛国
前漢期
大宛国
所在地・戸数・人口・兵力
大宛国の王の治所・貴山城は、長安から12,550里(約5,396.5km)の場所にあります。
- 戸数:60,000戸
- 人口:300,000人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):60,000人
東の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは4,031里(約1,733.33km)、北は康居国*1の卑闐城までは1,510里(約649.3km)、西南は大月氏国*2まで690里(約296.7km)あります。
北は康居国*1と、南は大月氏国*2と接しています。
脚注
*1中央アジアのシル河下流よりキルギス・ステップの地方。
*2新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
風土
- 土地・気候・物類・民俗は大月氏国*2や安息国*3と同じです。
- 宛(大宛国)の属邑70余城には良馬が多く、血の汗を流し、その祖先は「天馬の子*4である」と言われています。
- 大宛国の地域には絲(絹糸)や漆がありません。
脚注
*2新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
*3パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*4大宛国の高山の頂上に馬がいたが、捕まえることができなかったため、5色の牝馬を選んで山の下に置いたところ、集まって来て子馬を生んだ。それらがみな血の汗を流したので「天馬の子」と呼んだ。
風俗
- 大宛国の周辺では蒲陶(蒲萄)で酒を造りますが、金持ちは蔵に酒を1万余石も貯蔵し、その酒は数十年経っても腐敗しません。
- 風俗として酒を嗜み、馬の飼料として目宿*5を与えています。
- 大宛国以西の安息国*3に至る地域の言語は多少異なってはいますが、ほぼ同じため、互いに意味を理解することができます。
- 人々はみな彫りが深く、鬚や髯が多い顔立ちをしています。
- 商売が上手く、ほんの少しの利益の多少を競い合っています。
- 女性を貴び、男性は女性の言葉に従って事の是非を決めています。
- 鉄器を鋳造する方法を知りませんでしたが、大宛国に亡命した漢の使者が弓や矛以外の兵器を鋳作する方法を教えました。
- 漢から得た黄金・白金*6で器つくりますが、貨幣には用いません。
脚注
*3パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*5地中海地方原産のマメ科の越年草。馬肥・苜蓿・唐草・特牛肥やしとも言う。
*6黄金は銅、白金は銀・錫のこと。
統治
- 烏孫には各1名、副王と輔国王がいます。
大宛国と匈奴の関係
烏孫以西の安息国*3に至る地域の諸国は匈奴に近く、かつて匈奴が月氏(大月氏国*2)を苦しめたことから、匈奴を恐れていました。
そのため匈奴の使者が単于の信を持って国に来るだけでも、諸国は駅伝で送り届けて食事を振る舞い、あえて長く引き留めて苦しませることはありませんでした。
その一方で漢の使者の場合には、使者が幣物(贈り物)を出さなければ食べ物を得られず、家畜を買わなければ騎乗することができませんでした。これらの国は漢から遠く、加えて漢は財物を多く所有していたので、漢の使者は必ず対価を支払って欲しい者を手に入れなければならなかったのです。
ですが、匈奴の呼韓邪単于が漢に朝貢するようになると、これらの諸国は漢を尊ぶようになりました。
脚注
*3パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
大宛国と中国の関係
前漢・武帝期
宛(大宛国)征伐
張騫が初めて武帝に「大宛国の良馬」のことを言上すると、武帝は使者に千金と金製の馬を持たせて宛(大宛国)に贈り、その良馬を求めました。
ところが宛王(大宛王)は、漢(前漢)とは極めて遠く隔たっているため「大軍では攻めて来られない」と思い、その宝馬を惜しんで与えようとせず、また漢の使者が妄言*7を吐いたことから、宛はついに漢の使者を攻め殺してその財物を奪い取ってしまいます。
これに天子(武帝)は弐師将軍・李広利を遣わし、前後10余万人の兵をもって宛を征伐させました。そしてその遠征が4年目に及ぶと、宛人が宛王・毋寡の首を斬り、馬3千頭を献上してきたので、漢軍は帰還します。
李広利が宛王を斬ると、(漢は)改めて親漢派の貴人(宛の貴族)・昧蔡を宛王に立てました。ところががその1年後、宛の貴族らが「昧蔡は漢に諂って我が国を攻め滅ぼさせた」として昧蔡を殺害。先王・毋寡の弟・蝉封を宛王に立てて、その子を漢に遣わし入侍させて人質としました。
これに漢は使者を派遣し、賂(お礼の品)を下賜してこれを鎮撫させると、使者10余人を派遣して宛より西方の諸国の奇物を求めさせ、それらの諸国に「宛を征伐した漢の国威」をそれとなく諭し知らせました。
宛王・蝉封は漢と「毎年天馬*42頭を献上する」約束を結び、漢の使者は蒲陶(蒲萄)や目宿*5の種を採って帰国しました。
天子(武帝)は天馬*4が多くなり、また外国から多くの使者がやって来るようになったので、離宮の傍らに植えた蒲陶(蒲萄)や目宿*5で見渡す限り埋め尽くされました。
脚注
*4大宛国の高山の頂上に馬がいたが、捕まえることができなかったため、5色の牝馬を選んで山の下に置いたところ、集まって来て子馬を生んだ。それらがみな血の汗を流したので「天馬の子」と呼んだ。
*5地中海地方原産のマメ科の越年草。馬肥・苜蓿・唐草・特牛肥やしとも言う。
*7出まかせで根拠の無い言葉。
桃槐国
前漢期
桃槐国
所在地・戸数・人口・兵力
桃槐国は、長安から11,080里(約4,764.4km)の場所に王の治所があります。
- 戸数:700戸
- 人口:5,000人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):1,000人
休循国
前漢期
休循国
所在地・戸数・人口・兵力
休循国は、葱嶺(パミール高原)の西の鳥飛谷に王の治所があり、長安から10,210里(約4,390.3km)の場所にあります。
東は都護(西域都護)の治所(烏塁城)まで3,121里(約1,342.03km)、捐毒国の衍敦谷まで260里(約111.8km)、西北は大宛国まで920里(約395.6km)、西は大月氏国*2まで1,610里(約692.3km)あります。
- 戸数:358戸
- 人口:1,030人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):480人
脚注
*2新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に徙り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
風俗
- 民俗・衣服は烏孫に似ています。
- 家畜のために水や草を求めて移動します。
- 元は塞(天竺胡人の後裔の姓)の種族(釈種)です。
捐毒国
前漢期
捐毒国
所在地・戸数・人口・兵力
捐毒国の王の治所である衍敦谷は、長安から9,860里(約4,239.8km)の場所にあります。東は都護(西域都護)の治所(烏塁城)まで2,861里(約1,230.23km)、疏勒国を通過して都護(西域都護)に至ります。
南は葱嶺(パミール高原)に連なり、人は住んでいません。西の葱嶺(パミール高原)に登ると休循国があります。西北は大宛国まで1,030里(約442.9km)、北は烏孫と接しています。
- 戸数:380戸
- 人口:1,100人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):500人
風俗
- 衣服類は烏孫に似ています。
- 水や草を求めて葱嶺(パミール高原)を移動します。
- 元は塞(天竺胡人の後裔の姓)の種族(釈種)です。
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