後漢・三国時代の異民族である匈奴の概要をまとめています。
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目次
匈奴の紀元
匈奴(前漢時代)
匈奴の紀元
匈奴の先祖は夏后氏(夏王朝)の苗裔(遠い子孫)で、その名を淳維と言います。
陶唐氏(尭)・有虞氏(舜)の時代以前、北の辺境の地には山戎・獫允・薰粥などの種族が居住していました。
始祖の淳維から(次に単于として名前が登場する)頭曼単于に至るまで1千有余年、匈奴の領土は時に広がり時に狭まり、別散分離する状態が長く続いたため、代々世伝(単于の系譜・列伝)を伝えることができませんでしたが、冒頓単于の時代に至ると匈奴は最も強大となり、北方の夷の悉くを服従させ、南方の諸夏*1とは敵国の関係となります。
これにより冒頓単于の時代以降、(匈奴の)世系・姓氏・官号などが記録されるようになりました。
脚注
*1「中国本土」または「中国の諸侯の国々」を指す言葉。夷狄 ⇔ 諸夏。
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匈奴の概要
単于とは
単于とは、匈奴を初めとする北アジア遊牧国家の初期の君主号のことです。
単于の姓は攣鞮氏と言い、その国ではこれを称して「撐犁孤塗単于」と言います。
匈奴の言語では「天」のことを「撐犁」と言い、「子」のことを「孤塗」と言い、「単于」には「広大の貌」の意味があります。
つまり、撐犁孤塗単于とは「天のように広大な存在」という意味を表しています。
単于は朝、営所を出て日の出を拝し、夕方には月を拝し、その座席は左を上座として北に向かい、日柄としては戊と已の日を吉としています。
官職
官職一覧
- 左賢王(左屠耆王)
- 右賢王(右屠耆王)
- 左谷蠡王
- 右谷蠡王
- 左大将
- 右大将
- 左大都尉
- 右大都尉
- 左大当戸
- 右大当戸
- 左骨都侯
- 右骨都侯
中国の「賢」の意味を匈奴では「屠耆」と言い、ゆえに常に太子を左屠耆王と言います。
左右の賢王(屠耆王)以下、当戸に至るまで、その大は1万騎、小は数千騎を率い、およそ24人の長がいましたが、一律に号を立てて「万騎」と称しました。
二十四長もまた各自、千長・百長・什長・裨小王・相・都尉・当戸・且渠などの属官を置いています。
匈奴の貴族
匈奴の大臣たちはみな官職を世襲しており、
- 呼衍氏
- 蘭氏
- 須卜氏
の3姓が匈奴の貴種(貴族)です。
諸将の配置
- 左の王・将[左賢王(左屠耆王)・左谷蠡王・左大将・左大都尉・左大当戸・左骨都侯]は東方にいて上谷郡以東に領地を持ち、穢貉・朝鮮と接しています。
- 右の王・将[右賢王(右屠耆王)・右谷蠡王・右大将・右大都尉・右大当戸・右骨都侯]は西方にいて上郡以西に領地を持ち、氐・羌と接しています。
- 単于庭(匈奴の首都)は代郡・雲中郡と接しています。
それぞれに領地があって水や草を追って移動し、中でも左賢王(左屠耆王)・右賢王(右屠耆王)・左谷蠡王・右谷蠡王が最大の国で、左骨都侯・右骨都侯が政治を補佐しました。
儀礼
- 正月、諸長が単于庭(匈奴の首都)に小集会して祭祀を行います。
- 5月、龍城*2に大集会して祖先や天地・鬼神を祭ります。
- 秋、馬が太ると蹛林*3に大集会して人と家畜の数を調査します。
- 葬送には棺槨・金銀・衣裳を用いますが、墓に土を盛らず、樹を植えず、喪服もありません。
- 側近く寵愛した臣妾で主君に殉死する者が、多い時には数十人から百人にのぼります。
脚注
*2匈奴の諸長が会合して天を祭る場所。
*3地名。一説に「蹛」は繞る。林木を繞って祭るの意とも。
法律
- (平事に)刃を鞘から1尺(約23.1cm)以上抜いた者は死罪。
- 盗みを働いた者はその家(家財)を没収。
- 罪を犯した者は、微罪であれば鞭打ち、重罪であれば死罪。*4
- 獄に繋ぐ者は長くても10日に満たず、1国の囚人は数人に過ぎなかった。
脚注
*4原文:有罪,小者軋,大者死。
風俗
- 牧畜をしながら牧草を求めて移住し、家畜の多くは馬・牛・羊で、珍しい家畜としては橐佗(駱駝)・驢馬・騾馬・駃騠・騊駼・驒奚などがあります。*5
- 水や草を追って遊牧し、城郭も定住地も農耕の生業もありませんが、それでもやはりそれぞれの領域はありました。
- 匈奴の騎馬は、西方は白、東方は駹(青)、北方は驪(黒)、南方は騂(赤)色の毛色をしています。
- 文書がなく、言葉で約束をします。
- 子供でも羊に騎り弓を引いて鳥や鼠を射ることができ、やや年長になると狐や兎を射てその肉を食べました。
- 平時は牧畜の傍ら禽獸(鳥獣)を狩猟することを生業としています。
- 君王以下みな家畜の肉を食べてその皮革を衣服とし、旃裘(毛織の服)を着ています。
- 壮者(働き盛りの者)は肥肉を食べ、老人はその余り物を食べ、壮健であることを貴び、老弱を賤しみます。
- 父が死ぬと母を妻とし、兄弟が死ぬとみなその妻を妻とします。
- 名はありますが、諱(名)で呼ばれることを忌み嫌わず、字はありません。
脚注
*5騾馬は牡驢馬と牝馬との雑種。
駃騠は牝驢馬と牡馬との雑種。
騊駼は青馬。
驒奚は野馬。
軍事
- 士(成年男子)にはよく弓を引きしぼる力があり、みな甲騎兵となります。
- 戦時には人々はみな調練して侵略と征服のために戦い、(その高い戦闘能力は)天性のもので、長兵(遠距離武器)は弓矢を、短兵(近接武器)は刀や鋋を用います。
- 有利と見れば進み、不利とあれば退き、遁走(逃走)することを羞じとせず、少しでも利益があれば、それを得るために礼儀を知りません。
- 事を行う際には常に月の満ち欠けに随い、月が満ちれば戦い、月が虧ければ兵を退きます。
- 攻戦して斬首・捕虜にすれば1杯の酒を賜り、鹵獲物(戦利品)はそのまま与えられ、民を捕らえればこれを奴婢(奴隷)として与えます。
- 戦闘に際して、みな自ずと利益を得ようと巧みに誘兵(囮の兵)を用いて敵を包囲します。
- 鳥が集まるように利益を追い求めますが、困敗すれば雲が散るように瓦解します。
- 戦死者を運んで還った者には、戦死者の家財の悉くを与えられます。
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南匈奴
匈奴の南北分裂
後漢の建武22年(46年)、単于・輿(呼都而尸単于)が亡くなると子の左賢王・烏達鞮侯が立ち、烏達鞮侯が亡くなるとまた弟の左賢王・蒲奴が立って単于となりましたが、右薁鞬日逐王・比(醢落尸逐鞮単于)は、単于に立つことができず憤恨(腹を立てて恨むこと)を懐いていました。
後漢の建武24年(48年)春、匈奴の南方の辺境・8部の大人は、共に評議して「比を立てて呼韓邪単于としよう」とし*6、そこで比は、(後漢の)五原郡の塞の門を叩いて「末永く籓蔽*7となって北方の虜(異民族)の侵入を防ぎたい」と後漢に申し出ます。
すると光武帝は五官中郎将・耿国の意見を採用してこれを許し、この年の冬、比は自ら立って呼韓邪単于となりました。
脚注
*6大人たちは「比の大父(祖父・呼韓邪単于)が、かつて漢を頼みとして安定を得た」ことから、その号を襲名させたいと願った。
*7(漢の)皇室を守護するもの。籓屏。
氏族
単于の姓は虛連題(虛連題氏)と言い、異姓の名族には、
- 呼衍氏
- 須卜氏
- 丘林氏
- 蘭氏
の4姓がいて、常に単于と婚姻関係を結んでいました。
呼衍氏は左、蘭氏・須卜氏は右となって、主に裁判・訴訟ごとを掌り、(罪の)軽重を決定するに当たっては口頭で単于に報告し、文書や帳簿に残すことはしませんでした。
南匈奴の風俗
匈奴には年に3回の歲祠があり、常に正月・5月・9月の戊の日に天神を祭っていましたが、南単于は漢に内附(帰服)してから、匈奴の歲祠と合わせて漢帝も祠り、諸部を集めて国事を議論し、馬や駱駝を走らせて楽しみとしました。
官職
四角と六角(単于の子弟)
南匈奴の大臣には位の高い順に、
- 左賢王
- 左谷蠡王
- 右賢王
- 右谷蠡王
があり、これら4職を「四角」と言います。
次に、
- 左日逐王
- 右日逐王
- 左温禺鞮王
- 右温禺鞮王
- 左漸将王
- 右漸将王
があり、これら6職を「六角」と言います。
以上はみな単于の子弟が位に就き、順序に従って単于となる資格を持つ者たちです。
異姓大臣
異姓の大臣には、
- 左骨都侯
- 右骨都侯
- 左尸逐骨都侯
- 右尸逐骨都侯
があり、その他、
- 日逐
- 且渠
- 当戸
といった諸官号は、権力の優劣、部衆の多少によって高下の序列が決まります。