後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、烏弋山離国・条支国・安息国についてまとめています。
スポンサーリンク
西域諸国⑱都護の管轄外②
烏弋山離国*1・条支国・安息国*4
烏弋山離国
前漢期
烏弋山離国*1
※国境線は現代のもの。
所在地・戸数・人口・兵力
烏弋山離国*1の王治(王の治所)は、長安から12,200里(約5,246km)の場所にあり、都護(西域都護)の管轄に属していません。
東北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)まで徒歩で60日、東は罽賓国*2、北は撲挑国(不詳)、西は犁靬国*3(大秦国)、条支国(シリア)とそれぞれ国境を接し、条支国(シリア)へは(馬で)100余日で到着します。北に転じて東に進むと安息国*4に通じています。
玉門関・陽関から鄯善国を経て南に進み、烏弋山離国*1に至って南道の終点となりますが、絶縁の地のため、漢(前漢)の使者が来ることは稀です。
烏弋山離国*1は戸数、人口、勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士)が多く、大国です。
風土・風俗
- 烏弋(烏弋山離国*1)の地は熱暑の莽蒼とした平地です。
- 草木、畜産、五穀、果物・野菜、飲食、宮室、市場に列なる店、銭貨、兵器、金珠の類はみな罽賓国*2と同じであるが、桃抜(鹿に似た長尾一角の獣)・師子(獅子・ライオン)・犀子(サイ)が生息しています。
- 習俗として妄りに殺すことを憚ります。
- 烏弋(烏弋山離国*1)の銭は表面には人の頭のみが、裏面には騎馬の文様があります。
- 金銀で杖(剣・槍などの携帯武器)を装飾しています。
脚注
*1アフガニスタン南部のカンダハール。
*2カシミール地方のシュリーナガル付近。
*3『後漢書』西域伝・大秦国に「大秦国は一名を『犁鞬(犁靬)』と言う」とある。所在地は諸説あり、エジプトのアレクサンドリアが有力視されている。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
後漢期
烏弋山離国*1
※国境線は現代のもの。
所在地・戸数・人口・兵力
皮山国*5から烏秅国*6・県度国*7・罽賓国*2を過ぎて60余日進むと烏弋山離国*1に到着し、烏弋山離国*1にから西南に馬で百余日進むと条支国(シリア)に到着します。
烏弋山離国*1の領土は数千里四方、時に「排持国」と名を改めました。
脚注
*1アフガニスタン南部のカンダハール。
*2カシミール地方のシュリーナガル付近。
*5新疆ウィグル自治区・皮山県一帯。
*6新疆ウィグル自治区・莎車の南西。『漢書』西域伝上(鄭氏注)『漢書音義』に「発音は鷃拏(と同じ)である」とある。
*7パキスタン東部。アフガニスタンのカフェリスタン地方。
条支国(條支国)
前漢期
条支国(條支国)
※国境線は現代のもの。
所在地
条支国(シリア)には烏弋山離国*1から西に(馬で)100余日でに到着し、西海*8に面しています。条支国(シリア)から川を(舟で)西に百余日進むと、日が沈む場所に近づくと言われています。
- 条支国(シリア)は安息国*4に従属し、その蕃国*9となっています。
- 安息国*4の長老は「条支国(シリア)には弱水*10が流れ、西王母*11がいる」と伝え聞いていますが、未だかつて見た者はいません。
風土・風俗
- 熱暑・湿潤な気候で稲を耕作しています。
- 大鳥(大きな鳥)が生息し、甕のような大きな卵を産みます。
- その民はとても多く、あちこちに小君長がいます。
- 人々は巧みに魔法を使います*12。
脚注
*3『後漢書』西域伝・大秦国に「大秦国は一名を『犁鞬(犁靬)』と言う」とある。所在地は諸説あり、エジプトのアレクサンドリアが有力視されている。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*8地中海とされるが、黒海との説もある。
*9諸侯が治める領地。
*10仙境[大秦国*3の西とも崑崙山とも言う]にあって、鴻毛(鴻の羽毛・非常に軽い物の例え)さえ沈むという川。
*11神仙の1人。崑崙山に住み、人面獣体であると言う。周の穆王と会談したり、前漢の武帝に桃を授けたりするなど様々な伝説が残されている。
*12原文:善眩(眩を善くす)。眩は幻、魔法・奇術のこと。その術者を幻人と言う。
後漢期
条支国(條支国)
※国境線は現代のもの。
所在地
条支国城は山上にあって、その周囲は40余里(約17.2km)あります。西海*8の海水がその南・東・北を囲んでいるため、ただ西北の隅にだけ陸の道が通じています。
北に転じて東に馬で60余日進むと安息国*4に通じています。後に安息国*4は条支国(シリア)を従属させ、大将を置いて諸々の小城を監督させました。
風土・風俗
- 条支国(シリア)は熱暑・湿潤な気候です。
- 師子(獅子・ライオン)・犀牛(サイ)・封牛*13・孔雀・大雀(大きな鳥)が生息しており、大雀(大きな鳥)は甕のような大きな卵を産みます。
脚注
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*8地中海とされる。黒海との説もある。
*13項の上部が隆起している牛。
安息国
前漢期
安息国*4
※国境線は現代のもの。
所在地
安息国*4の王治(王の治所)の番兜城は、(前漢の都)長安から11,600里(約4,988km)の場所にあり、都護(西域都護)の管轄に属していません。
北は康居国*14、東は烏弋山離国*1、西は条支国(シリア)とそれぞれ国境を接し、また安息国*4の東には大月氏国*15があります。
安息国*4には大小数百の城邑と数千里四方に及ぶ領土を有する最大の国で、媯水*16に面し、商賈(商人)の車や船が近隣諸国を行き交っていました。
風土・風俗
- 土地・気候・その他万物・民俗は烏弋(烏弋山離国*1)・罽賓国*2と同じです。
- 大きな馬と大爵(ダチョウ)が生息しています。
- 銀で作られた銭の表面には王の顔のみが、裏面には夫人の顔の文様があり、王が亡くなるとすぐに銭を改鋳します。
- 革に文字を書き、横書きに書き記します。
脚注
*1アフガニスタン南部のカンダハール。
*2カシミール地方のシュリーナガル付近。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*14カザフスタン南部。
*15新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に遷り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。媯水*16の北、布哈爾の地。莎車国から蒲犁国・無雷国を経て至る。
*16中央アジアのアム河。葱嶺(パミール高原)より出てアラル海に注ぐ。
後漢期
安息国*4・小安息国
※国境線は現代のもの。
所在地・戸数・人口・兵力
- 安息国*4の王治(王の治所)の和椟城は、(後漢の都)洛陽(雒陽)から25,000里(約10,750km)の場所にあり、北は康居国*14、南は烏弋山離国*1と国境を接しています。
安息国*4から西に3,400里(約1,462km)進むと阿蛮国(アルメニアの国境)に至り、阿蛮国(アルメニアの国境)から西に3,600里(約1,548km)進むと斯賓国*17に至ります。
斯賓国*17から南に進んで河を渡って西南に960里(約412.8km)進むと于羅国*18があり、そこが安息国*4の最も西の境界となっています。
そこから南へ海を渡ると大秦国*3に通じ、その土地には海西(地中海地域)の珍奇な異物がたくさんあります。
- 安息国*4には数千里四方に及ぶ領土と数百の小城があり、戸数・人口・勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士)は最も多く盛んで栄えています。
- 東の境界にあるの木鹿城*19は小安息国と言い、洛陽(雒陽)から20,000里(約8,600km)の場所にあります。
脚注
*1アフガニスタン南部のカンダハール。
*3『後漢書』西域伝・大秦国に「大秦国は一名を『犁鞬(犁靬)』と言う」とある。所在地は諸説あり、エジプトのアレクサンドリアが有力視されている。
*14カザフスタン南部。
*17イラクのバグダットの南東・チグリス川の東岸。
*18イラク東南部のユーフラテス川下流域。
*19ウズベキスタンのブハラ付近。
安息国と中国の関係
前漢【武帝期】
- 前漢の武帝(在位:B.C.141〜B.C.87)が初めて使者を遣わして安息国*4に至ると、安息王は将に命じ、2万騎を率いて東の国境まで出迎えさせました。東の国境までは王都(番兜城)から数千里、そこに行き着くためには数十城を通過しなければならなかったのです。
[漢(前漢)の使者との会見が終わると、]安息王は使者を派遣して、帰還する漢(前漢)の使者に伴って漢(前漢)の地に来観させ、大鳥(大きな鳥)の卵と犁靬国*3(大秦国)の眩人*20を漢(前漢)に献上したところ、天子(武帝)は大いに喜びました。
脚注
*3『後漢書』西域伝・大秦国に「大秦国は一名を『犁鞬(犁靬)』と言う」とある。所在地は諸説あり、エジプトのアレクサンドリアが有力視されている。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*20幻人に同じ。魔法使い・奇術師。
後漢【章帝期】
- 後漢・章帝の章和元年(87年)、(安息国*4は)使者を派遣して師子(獅子・ライオン)と符抜*21を献上しました。符抜*21は麟(麒麟)に似ていて角がない動物です。
後漢【和帝期】
- 後漢・和帝の永元9年(97年)、都護(西域都護)の班超が甘英を大秦国*3のに派遣しました。甘英が条支国まで来て大海(西海*8)を渡ろうとした時のこと。安息国*4の西の境界の船乗りが甘英に、
「この海は広大です。善い風(追い風)に逢えれば3ヶ月で渡ることができますが、遅風(無風)に遇えば2年かかることもあり、海に出る人はみな3年分の持っていきます。使者の中にはしばしば海中で懐郷病(ホームシック)にかかって亡くなる者もおります」
と言ったところ、甘英は海を渡るのを止めました。
- 永元13年(101年)、安息王の満屈が再び師子(獅子・ライオン)と条支国の大鳥を献上しました。当時、この大鳥のことを安息雀と言いました。
脚注
*1アフガニスタン南部のカンダハール。
*3『後漢書』西域伝・大秦国に「大秦国は一名を『犁鞬(犁靬)』と言う」とある。所在地は諸説あり、エジプトのアレクサンドリアが有力視されている。
*4パルティア王国。イラン[ペルシャ(波斯国)]の北。葱嶺(パミール高原)の西南。
*8地中海とされる。黒海との説もある。
*21烏弋山離国*1に生息する桃抜(鹿に似た長尾一角の獣)の一種。
スポンサーリンク