後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、罽賓国けいひんこくについてまとめています。

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西域諸国④都護の管轄外①

西域(後漢時代)罽賓国

罽賓国けいひんこく*1

罽賓国

前漢ぜんかん

罽賓国

罽賓国けいひんこく*1

※国境線は現代のもの。

所在地・戸数・人口・兵力

罽賓国けいひんこく*1王治おうちおうの治所)の循鮮城じゅんせんじょうは、長安ちょうあんから12,200里(約5,246km)の場所にあり、都護とご西域都護さいいきとご)の管轄に属していません。

東北の都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)までは6,840里(約2,941.2km)、東は烏秅国あんだこく*2まで2,250里(約967.5km)、東北は難兜国なんとうこく*3まで徒歩とほで9日、西北は烏弋山離国うよくさんりこく*4とそれぞれ国境を接しています。

罽賓国けいひんこく*1は戸数、人口、勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士)が多く、大国です。

風土・風俗
風土
  • 土地は平坦へいたんで(気候は)温和です。
  • 目宿うまごやし(マメ科の越年草)・雑草・奇木・まゆみ*5すい*6あずさ・竹・うるしが自生しています。
  • 五穀ごこく蒲萄ぶどうなどの果物をえ、園田には肥料を使用しています。
  • 土地が湿潤しつじゅんなので稲を耕作することができ、冬でも生野菜を食べることができます。
  • 封牛ほうぎゅう*7・水牛・象・大狗おおいぬ沐猴さる(猿)・孔雀くじゃくが生息し、その他の家畜は諸国と同じです。
  • 珠璣しゅき*8珊瑚さんご虜魄こはく琥珀こはく)・璧流離へきるり瑠璃るり)を産出します。
  • きん・銀・銅・すずを産出し、それらでうつわを作っています。
風俗
  • 罽賓国けいひんこく*1の民は器用で、宮殿に文様をきざんで装飾とし、刺繍ししゅうしたけい(敷物にもちいる毛織物)をり、酒と食事を好みます。
  • 市場には店がつらなっています。
  • きん・銀で銭を作り、その銭の表面は騎馬の文様が、裏面には人面の文様がほどこされています。
脚注

*1カシミール地方のシュリーナガル付近。

*2新疆しんきょうウィグル自治区莎車スオチョの南西。漢書かんじょ西域伝上さいいきでんじょう鄭氏ていし注)漢書音義かんじょおんぎに「発音は鷃拏あんだ(と同じ)である」とある。

*3葱嶺そうれいパミール高原)の西、巴達克山バタコシャンの西境。

*4罽賓国けいひんこく北インド)の西南、インダス川上流の西、アフガンの東南。

*5ニシキギ科ニシキギ属の木本もくほん。果実は有毒であるが、春の新芽は山菜として利用される。弓の材料となった。

*6マメ科の落葉高木。中国で格式の高い木とされるえんじゅに似ているが、えんじゅよりも格下を表す犬槐いぬえんじゅ朝鮮槐ちょうせんえんじゅと呼ばれる。

*7うなじの上部が隆起している牛。

*8まるい玉と四角い玉。

罽賓国けいひんこくと中国との関係

塞王

昔、匈奴きょうど大月氏国だいげっしこく*10を破ると、大月氏国だいげっしこく*10は西の大夏国たいかこくアフガニスタン北部)に君臨し、大夏国たいかこくおう塞王そくおうは南の罽賓国けいひんこく*1に君臨し、塞種そくしゅ塞王そくおうの一族)は次第に分散して数国に分かれました。

疏勒国そろくこくより西北の休循国きゅうじゅんこく捐毒国えんどくこく*9たぐいはみな元は塞種そくしゅ塞王そくおうの一族)です。

脚注

*1カシミール地方のシュリーナガル付近。

*9葱嶺そうれいパミール高原)の東、布魯特ブルートの地。新疆しんきょうウィグル自治区喀什噶爾カシュガルの東北。

*10新疆しんきょうウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアアムール川上流一帯にうつり、今日にいたる。王治おうちおうの治所)・監氏城らんしじょうアフガニスタンマザーリシャリーフ

【武帝期】烏頭労

前漢ぜんかん武帝ぶてい(在位:B.C.141〜B.C.87)が初めて罽賓国けいひんこく*1と通じて以降、罽賓王けいひんおう烏頭労うとうろうは「絶遠の地のため前漢ぜんかんの兵はやって来られまい」と思いしばしばかんの使者を殺害しました。

烏頭労の子

烏頭労うとうろうが死んでその子がおうに立つと、前漢ぜんかんに使者を派遣してみつぎ物を献じさせました。

前漢ぜんかん関都尉かんとい文忠ぶんちゅうにその使者を送らせたところ、罽賓王けいひんおう烏頭労うとうろうの子)はまた文忠ぶんちゅうを害しようとします。これに気づいた文忠ぶんちゅうは、容屈王ようくつおうの子・陰末赴いんまつふと共謀して罽賓国けいひんこく*1を攻め、罽賓王けいひんおう烏頭労うとうろうの子)を殺害して陰末赴いんまつふ罽賓王けいひんおうに立て、印綬いんじゅさずけました。

脚注

*1カシミール地方のシュリーナガル付近。

【元帝期】陰末赴

その後、軍候ぐんこう*11趙徳ちょうとく罽賓国けいひんこく*1に使いしたところ、陰末赴いんまつふなかたがいし、陰末赴いんまつふは長いくさり趙徳ちょうとくしばって副使ふくし以下70余人を殺害し、その上で使者をつかわし上書して謝罪しました。

元帝げんてい(在位:B.C.48〜B.C.33)は罽賓国けいひんこく*1が絶遠の地であるため問題として取り上げず、その使者を県度国けんどこく*12放逐ほうちくし、罽賓国けいひんこく*1と関係をって交通しなくなりました。

脚注

*1カシミール地方のシュリーナガル付近。

*11行軍時に敵情の偵察をつかさどる官

*12パキスタン東部。アフガニスタンカフェリスタン地方。

【成帝期】不詳

成帝せいてい(在位:B.C.33〜B.C.7)の時、罽賓国けいひんこく*1はまた使者を派遣し、みつぎ物を献上して罪を謝罪しました。

前漢ぜんかんが使者をつかわし返礼として罽賓国けいひんこく*1の使者を(県度国けんどこく*12まで)送り届けようとしたところ、杜欽ときん大將軍だいしょうぐん王鳳おうほうに言いました。

罽賓国けいひんこく*1やからは、求めることがあればことばひくくしますが、ほっすることがなければおごり高ぶりますから、結局はなつき従わせることはできません。県度国けんどこく*12までの道のりのけわしさは言葉では言い表せないほどです。大切な使者を疲弊ひへいさせて無用の者に奉仕するのは、長久の計ではありません。皮山国ひざんこく*13まで行って引きかえすべきです」

王鳳おうほう杜欽ときんの言葉に従いました。

杜欽ときんの進言・全文
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さき罽賓王けいひんおう陰末赴いんまつふかん前漢ぜんかん)が立てたおうであるのに、のち畔逆はんぎゃく(反逆)しました。

そもそも国をたもって民を子とすること以上の大徳はなく、使者を捕らえて殺すこと以上の大罪はありません。それでも恩にむくいずちゅうおそれないのは、罽賓国けいひんこく*1が絶遠の地であるがゆえに、討伐の兵がやって来ないことをみずから知っているからです。求めることがあればことばひくくしますが、ほっすることがなければおごり高ぶりますから、結局はなつき従わせることはできません。

中国が蛮夷ばんいに通じ、彼らを厚くぐうしてその求めを満たす理由は、土地が接近していて侵略して来る危険性があるからです。県度国けんどこく*12の土地のけわしさは罽賓国けいひんこく*1の人が越えられるものではありません。彼らがかん前漢ぜんかん)にしたって来たからといって、西域さいいきやすんずることができる訳ではなく、なつかなかったとしても、(国境の)城郭があやうくなる訳ではありません。

かん前漢ぜんかん)が罽賓国けいひんこく*1との交通をっているのは、以前、彼らが節義に逆らったからであり、今、後悔してやって来ても、来るのはおうの親族や貴人きじんではなく、みないやしい商人ばかりであり、献上を名目に市場を通じて売買したいだけなのです。使者をわずらわせて県度国けんどこく*12まで送って行けば、じつを失いあざむかれてしまうでしょう。

使者をつかわして客を送るのは、(客を)ぞくの害から防護するためです。皮山国ひざんこく*13から南のかん前漢ぜんかん)に属さない国を4〜5ヶ国も通過すれば、斥候せっこうの士・百余人が1夜に5交代で自衛しても、なお時には侵盜を受けます。

(彼らが)生きるためには、驢馬ロバなどに食糧をわせて他国から供給してもらう必要があります。ある者は貧小で食糧が足りず、ある者は供給を受けられないために、強大なかん前漢ぜんかん)のはたようしていても山谷の間にえ、ものいをしても得られず、10日から20日もてば人畜共に荒野に打ちてられて帰って来ることはありません。

大頭痛だいずつう小頭痛しょうずつうの山や赤土せきど身熱しんねつさか*14”を越えれば、熱を発して生気を失い頭痛や嘔吐おうともよおしますが、それは驢馬ロバなどの家畜もみな同様です。また3つの池や盤石ばんじゃくさか(大きな坂)があり、道のせまいところでは1尺6寸〜7寸(約36.96cm〜39.27cm)しかなく、長いところではそのようなこみちが30里(約12.9km)にも及んでいます。

はかり知れない山谷のけわしさにのぞめば、そこを行く者は騎馬でも徒歩でもおたがいに支え合い、なわさくつな)でおたがいに引き合いながら20余里(約8.6km)を進んでようやく県度国けんどこく*12に着けるのです。家畜隊が谷底にちれば、なかばまで達しないうちにことごとくくだけ散り、人がちたならば、(むごくて)見てはいられません。険阻けんそな地形による危害は言葉では言い表せないほどです。

聖王せいおうは(中国を)9つの州に分けて五服ごふく*15を制定し、内を盛んにすることにつとめて外には求めませんでした。今、使者をつかわして至尊しそんの命令をけさせ、蛮夷ばんい(商人)を送るため吏士の衆を労して危難のみちわたらせ、たのみとすべき者を疲弊ひへいさせて無用の者に奉仕するのは、長久の計ではありません。

使者はすでにせつを受けたのですから、皮山国ひざんこく*13まで行って引きかえすべきです。

脚注

*1カシミール地方のシュリーナガル付近。

*12パキスタン東部。アフガニスタンカフェリスタン地方。

*13新疆しんきょうウィグル自治区皮山ピシャンけん一帯。

*14渠捜国きょそうこくの東、疏勒国そろくこくの西にある山やさかの名前。

*15王畿おうき京畿けいき)を中心として周囲500里(約215km)ごとに定められた5つの地域。王畿おうき京畿けいき)の近くから順に、甸服でんふく侯服こうふく綏服すいふく要服ようふく荒服こうふくしゅう代には侯服こうふく甸服でんふく男服だんふく采服さいふく衛服えいふくと言った。


その後も罽賓国けいひんこく*1は、賞賜しょうし交易こうえきの実利を求めて、数年に1度、使者を送ってしました。

脚注

*1カシミール地方のシュリーナガル付近。

*12パキスタン東部。アフガニスタンカフェリスタン地方。


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【後漢・三国時代の異民族】目次