後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、罽賓国についてまとめています。
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西域諸国⑰都護の管轄外①
罽賓国*1
罽賓国
前漢期
罽賓国*1
※国境線は現代のもの。
所在地・戸数・人口・兵力
罽賓国*1の王治(王の治所)の循鮮城は、長安から12,200里(約5,246km)の場所にあり、都護(西域都護)の管轄に属していません。
東北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは6,840里(約2,941.2km)、東は烏秅国*2まで2,250里(約967.5km)、東北は難兜国*3まで徒歩で9日、西北は烏弋山離国*4とそれぞれ国境を接しています。
罽賓国*1は戸数、人口、勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士)が多く、大国です。
風土・風俗
風土
- 土地は平坦で(気候は)温和です。
- 目宿(マメ科の越年草)・雑草・奇木・檀*5・榱*6・梓・竹・漆が自生しています。
- 五穀や蒲萄などの果物を種え、園田には肥料を使用しています。
- 土地が湿潤なので稲を耕作することができ、冬でも生野菜を食べることができます。
- 封牛*7・水牛・象・大狗・沐猴(猿)・孔雀が生息し、その他の家畜は諸国と同じです。
- 珠璣*8・珊瑚・虜魄(琥珀)・璧流離(瑠璃)を産出します。
- 金・銀・銅・錫を産出し、それらで器を作っています。
風俗
- 罽賓国*1の民は器用で、宮殿に文様を彫り刻んで装飾とし、刺繍を刺した罽(敷物に用いる毛織物)を織り、酒と食事を好みます。
- 市場には店が列なっています。
- 金・銀で銭を作り、その銭の表面は騎馬の文様が、裏面には人面の文様が施されています。
脚注
*1カシミール地方のシュリーナガル付近。
*2新疆ウィグル自治区・莎車の南西。『漢書』西域伝上(鄭氏注)『漢書音義』に「発音は鷃拏(と同じ)である」とある。
*3葱嶺(パミール高原)の西、巴達克山部の西境。
*4罽賓国(北インド)の西南、インダス川上流の西、アフガンの東南。
*5ニシキギ科ニシキギ属の木本。果実は有毒であるが、春の新芽は山菜として利用される。弓の材料となった。
*6マメ科の落葉高木。中国で格式の高い木とされる槐に似ているが、槐よりも格下を表す犬槐、朝鮮槐と呼ばれる。
*7項の上部が隆起している牛。
*8円い玉と四角い玉。
罽賓国と中国との関係
塞王
昔、匈奴が大月氏国*10を破ると、大月氏国*10は西の大夏国(アフガニスタン北部)に君臨し、大夏国の王・塞王は南の罽賓国*1に君臨し、塞種(塞王の一族)は次第に分散して数国に分かれました。
疏勒国より西北の休循国・捐毒国*9の類はみな元は塞種(塞王の一族)です。
脚注
*1カシミール地方のシュリーナガル付近。
*9葱嶺(パミール高原)の東、布魯特の地。新疆ウィグル自治区・喀什噶爾の東北。
*10新疆ウィグル自治区西部のイリ河流域及びそれより西の地区。後に中央アジアのアムール川上流一帯に遷り、今日に至る。王治(王の治所)・監氏城はアフガニスタンのマザーリシャリーフ。
【武帝期】烏頭労
前漢の武帝(在位:B.C.141〜B.C.87)が初めて罽賓国*1と通じて以降、罽賓王・烏頭労は「絶遠の地のため前漢の兵はやって来られまい」と思いしばしば漢の使者を殺害しました。
烏頭労の子
烏頭労が死んでその子が王に立つと、前漢に使者を派遣して貢ぎ物を献じさせました。
前漢が関都尉の文忠にその使者を送らせたところ、罽賓王(烏頭労の子)はまた文忠を害しようとします。これに気づいた文忠は、容屈王の子・陰末赴と共謀して罽賓国*1を攻め、罽賓王(烏頭労の子)を殺害して陰末赴を罽賓王に立て、印綬を授けました。
脚注
*1カシミール地方のシュリーナガル付近。
【元帝期】陰末赴
その後、軍候*11の趙徳が罽賓国*1に使いしたところ、陰末赴と仲違いし、陰末赴は長い鎖で趙徳を縛って副使以下70余人を殺害し、その上で使者を遣わし上書して謝罪しました。
元帝(在位:B.C.48〜B.C.33)は罽賓国*1が絶遠の地であるため問題として取り上げず、その使者を県度国*12に放逐し、罽賓国*1と関係を絶って交通しなくなりました。
脚注
*1カシミール地方のシュリーナガル付近。
*11行軍時に敵情の偵察を司る官
*12パキスタン東部。アフガニスタンのカフェリスタン地方。
【成帝期】不詳
成帝(在位:B.C.33〜B.C.7)の時、罽賓国*1はまた使者を派遣し、貢ぎ物を献上して罪を謝罪しました。
前漢が使者を遣わし返礼として罽賓国*1の使者を(県度国*12まで)送り届けようとしたところ、杜欽が大將軍の王鳳に言いました。
「罽賓国*1の輩は、求めることがあれば辞を卑くしますが、欲することがなければ驕り高ぶりますから、結局は懐き従わせることはできません。県度国*12までの道のりの険しさは言葉では言い表せない程です。大切な使者を疲弊させて無用の者に奉仕するのは、長久の計ではありません。皮山国*13まで行って引き還すべきです」
王鳳は杜欽の言葉に従いました。
杜欽の進言・全文
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前の罽賓王・陰末赴は漢(前漢)が立てた王であるのに、後に畔逆(反逆)しました。
そもそも国を保って民を子とすること以上の大徳はなく、使者を捕らえて殺すこと以上の大罪はありません。それでも恩に報いず誅を懼れないのは、罽賓国*1が絶遠の地であるが故に、討伐の兵がやって来ないことを自ら知っているからです。求めることがあれば辞を卑くしますが、欲することがなければ驕り高ぶりますから、結局は懐き従わせることはできません。
中国が蛮夷に通じ、彼らを厚く遇してその求めを満たす理由は、土地が接近していて侵略して来る危険性があるからです。県度国*12の土地の険しさは罽賓国*1の人が越えられるものではありません。彼らが漢(前漢)に慕い寄って来たからといって、西域を安んずることができる訳ではなく、懐かなかったとしても、(国境の)城郭が危うくなる訳ではありません。
漢(前漢)が罽賓国*1との交通を絶っているのは、以前、彼らが節義に逆らったからであり、今、後悔してやって来ても、来るのは王の親族や貴人ではなく、みな賤しい商人ばかりであり、献上を名目に市場を通じて売買したいだけなのです。使者を煩わせて県度国*12まで送って行けば、実を失い欺かれてしまうでしょう。
使者を遣わして客を送るのは、(客を)賊の害から防護するためです。皮山国*13から南の漢(前漢)に属さない国を4〜5ヶ国も通過すれば、斥候の士・百余人が1夜に5交代で自衛しても、なお時には侵盜を受けます。
(彼らが)生きるためには、驢馬などに食糧を背負わせて他国から供給してもらう必要があります。ある者は貧小で食糧が足りず、ある者は供給を受けられないために、強大な漢(前漢)の節を擁していても山谷の間に飢え、物乞いをしても得られず、10日から20日も経てば人畜共に荒野に打ち棄てられて帰って来ることはありません。
”大頭痛・小頭痛の山や赤土・身熱の阪*14”を越えれば、熱を発して生気を失い頭痛や嘔吐を催しますが、それは驢馬などの家畜もみな同様です。また3つの池や盤石な阪(大きな坂)があり、道の狭いところでは1尺6寸〜7寸(約36.96cm〜39.27cm)しかなく、長いところではそのような径が30里(約12.9km)にも及んでいます。
測り知れない山谷の険しさに臨めば、そこを行く者は騎馬でも徒歩でもお互いに支え合い、縄や索(綱)でお互いに引き合いながら20余里(約8.6km)を進んでようやく県度国*12に着けるのです。家畜隊が谷底に墮ちれば、半ばまで達しないうちにことごとく砕け散り、人が墮ちたならば、(酷くて)見てはいられません。険阻な地形による危害は言葉では言い表せない程です。
聖王は(中国を)9つの州に分けて五服*15を制定し、内を盛んにすることに務めて外には求めませんでした。今、使者を遣わして至尊の命令を承けさせ、蛮夷の賈(商人)を送るため吏士の衆を労して危難の路を渉らせ、恃みとすべき者を疲弊させて無用の者に奉仕するのは、長久の計ではありません。
使者はすでに節を受けたのですから、皮山国*13まで行って引き還すべきです。
脚注
*1カシミール地方のシュリーナガル付近。
*12パキスタン東部。アフガニスタンのカフェリスタン地方。
*13新疆ウィグル自治区・皮山県一帯。
*14渠捜国の東、疏勒国の西にある山や阪の名前。
*15王畿(京畿)を中心として周囲500里(約215km)ごとに定められた5つの地域。王畿(京畿)の近くから順に、甸服・侯服・綏服・要服・荒服。周代には侯服・甸服・男服・采服・衛服と言った。
その後も罽賓国*1は、賞賜と交易の実利を求めて、数年に1度、使者を送って寄越しました。
脚注
*1カシミール地方のシュリーナガル付近。
*12パキスタン東部。アフガニスタンのカフェリスタン地方。
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【後漢・三国時代の異民族】目次