後漢・三国時代の異民族である西域諸国の内、且末国・小宛国・精絶国・戎盧国・扜弥国(寧弥国・拘弥国)・渠勒国・于闐国(于窴国)についてまとめています。
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西域諸国②
西域(後漢時代)
且末国
前漢期
且末国*1
所在地・戸数・人口・兵力
且末国*1の王治(王の治所)の且末城は、(前漢の都)長安から6,820里(約2,932.6km)の場所にあります。
西北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは2,258里(約970.94km)、北は尉犁国に接し、南の小宛国*2までは徒歩3日で行くことができ、西は2,000里(約860km)先の精絶国*3に通じています。
- 戸数:230戸
- 人口:1,610人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):320人
官職
且末国*1には、
- 輔国侯
- 左将・右将
- 訳長(通訳官の長)
がそれぞれ1人いました。
風土
- 且末国*1は蒲萄などの果物類を産出します。
脚注
*1新疆ウィグル自治区・且末の南。于田(于闐)の東北。ロブノールの西方、大砂漠の中に埋没しているらしい。
*2新疆ウィグル自治区・且末の南。
*3新疆ウィグル自治区・民豊の北。和田の東、大砂漠の中にあったらしい。
小宛国
前漢期
小宛国*2
※扜零城の正確な位置は不詳。
所在地・戸数・人口・兵力
小宛国*2の王治(王の治所)の扜零城は、(前漢の都)長安から7,210里(約3,100.3km)の場所にあります。
西北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは2,558里(約1,099.94km)、東は婼羌国に接し、(西域の)南端にあって道(南道?)から外れています。
- 戸数:150戸、
- 人口:1,050人、
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):200人
官職
小宛国*2には、
- 輔国侯
- 左都尉・右都尉
がそれぞれ1人いました。
脚注
*2新疆ウィグル自治区・且末の南。
精絶国
前漢期
精絶国*3
所在地・戸数・人口・兵力
精絶国*3の王治(王の治所)の精絶城は、(前漢の都)長安から8,820里(約3,792.6km)の場所にあります。
その土地は狭く、北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは2,723里(約1,170.89km)、南の戎盧国*4までは徒歩4日で行くことができ、西は460里(約197.8km)先の扜弥国*5に通じています。
- 戸数:480戸
- 人口:3,360人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):500人
官職
精絶国*3には、
- 精絶都尉
- 左将・右将
- 訳長(通訳官の長)
がそれぞれ1人いました。
脚注
*3新疆ウィグル自治区・民豊の北。和田の東、大砂漠の中にあったらしい。
*4新疆ウィグル自治区・民豊の南。渠勒国*6の東、大砂漠の中にあった。
*5wikisourceの原文では「抒彌國」とある。
*6新疆ウィグル自治区・于田の南。
戎盧国
前漢期
戎盧国*3
所在地・戸数・人口・兵力
戎盧国*4の王治(王の治所)の卑品城は、(前漢の都)長安から8,300里(約3,569km)の場所にあります。
東北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは2,858里(約1,228.94km)、東は小宛国*2、南は婼羌国、西は渠勒国*6と接し、(西域の)南端にあって道(南道?)から外れています。
- 戸数:240戸
- 人口:1,610人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):300人
脚注
*2新疆ウィグル自治区・且末の南。
*4新疆ウィグル自治区・民豊の南。渠勒国の東、大砂漠の中にあった。
*6新疆ウィグル自治区・于田の南。
扜弥国(寧弥国・拘弥国)
扜弥国(寧弥国)【前漢期】
扜弥国*5
所在地・戸数・人口・兵力
扜弥国*5の王治(王の治所)の扜弥城は、(前漢の都)長安から9,280里(約3,990.4km)の場所にあります。
東北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは3,553里(約1,527.79km)、南は渠勒国*6、東北は亀茲国、西北は姑墨国とそれぞれ接し、西は390里(約167.7km)先の于窴国*7に通じています。
今の名を寧弥国と言います*8。
- 戸数:3,340戸
- 人口:20,040人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):3,540人
脚注
*5wikisourceの原文では「抒彌國」とある。
*6新疆ウィグル自治区・于田の南。
*7新疆ウィグル自治区・和田の南西。
*8『漢書』が編纂されたのは後漢・章帝期。
官職
扜弥国*5には、
- 輔国侯
- 左将・右将
- 左都尉・右都尉
- 左騎君・右騎君*9
がそれぞれ1人、
- 訳長(通訳官の長)
が2人いました。
脚注
*5wikisourceの原文では「抒彌國」とある。
*9西域には騎君を置くもの11国21人。
拘弥国【後漢期】
拘弥国
所在地・戸数・人口・兵力
拘弥国の王治(王の治所)の寧弥城は、長史(西域長史)の治所(柳中城*10)から4,900里(約2,107km)、(後漢の都)洛陽(雒陽)から12,800里(約5,504km)の場所にあり、西は390里(約167.7km)先の于闐国*11に通じています。
- 戸数:2,173戸
- 人口:7,251人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):1,760人
中国との関係
順帝期
順帝の永建4年(129年)、于窴王・放前は拘弥王・興を殺害し、自ら興の子を拘弥王に立てて後漢に貢ぎ物を献じさせると、敦煌太守の除由は上奏して放前を討つことを求めました。これを受け、順帝は于闐国*11の罪を赦し、拘弥国を元の状態に戻すように命じましたが、放前は承知しませんでした。
陽嘉元年(132年)、敦煌太守・除由は兵2万人を発して疏勒王・臣槃に于闐国*11を攻撃させ、これを破って数百級を斬首し、兵を放って大いに略奪し、改めて興の宗人(同族)の成国を拘弥王に立てて帰還しました。
霊帝期
霊帝の熹平4年(175年)、于窴王・安国が拘弥国を攻撃して大いにこれを破り、拘弥王と多くの民を殺害すると、戊己校尉と西域長史は各々兵を発して拘弥国を輔け、拘弥国の侍子(人質の王子)・定興を拘弥王に立てました。
この時、(7,251人いた)拘弥国の人口は、わずかに1,000人を数える程になっていました。
脚注
*10新疆ウィグル自治区・鄯善の南西の魯克沁。
*11新疆ウィグル自治区・和田の南西。和闐。
渠勒国
前漢期
渠勒国*6
※鞬都城の正確な位置は不詳。
所在地・戸数・人口・兵力
渠勒国*6の王治(王の治所)の鞬都城は、(前漢の都)長安から9,950里(約4,278.5km)の場所にあります。
東北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは3,852里(約1,656.36km)、東は戎盧国*4、西は婼羌国、北は扜弥国*5にそれぞれ接しています。
- 戸数:310戸
- 人口:2,170人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):300人
脚注
*4新疆ウィグル自治区・民豊の南。渠勒国の東、大砂漠の中にあった。
*5wikisourceの原文では「抒彌國」とある。
*6新疆ウィグル自治区・于田の南。
于闐国(于窴国)
前漢期
于闐国(于窴国)*11
所在地・戸数・人口・兵力
于闐国*11の王治(王の治所)の西城は、(前漢の都)長安から9,670里(約4,158.1km)の場所にあります。
東北の都護(西域都護)の治所(烏塁城)までは3,947里(約1,697.21km)、南は婼羌国に接し、北は姑墨国と接し、西は380里(約163.4km)先の皮山国*12に通じています。
- 戸数:3,300戸
- 人口:19,300人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):2,400人
官職
于闐国*11には、
- 輔国侯
- 左将・右将
- 左騎君・右騎君*9
- 東城長・西城長・
- 訳長(通訳官の長)
がそれぞれ1人いました。
風土
于闐国*11の西の(川の)水はみな西に流れて西海*13に注いでいます。
于闐国*11の東の(川の)水は東に流れて塩沢(蒲昌海)*14に注ぎ、黄河の源流が出ています。
脚注
*9西域には騎君を置くもの11国21人。
*11新疆ウィグル自治区・和田の南西。和闐。
*12新疆ウィグル自治区・皮山県一帯。
*13地中海とされる。黒海との説もある。
*14新疆ウィグル自治区・羅布泊。
後漢期
于窴国*11
所在地・戸数・人口・兵力
于窴国*11の王治(王の治所)の西城は、長史(西域長史)の治所(柳中城*10)から5,300里(約2,279km)、(後漢の都)洛陽(雒陽)から11,700里(約5,031km)の場所にあります。
于窴国*11から皮山(皮山国?)を経由して西夜国*15・子合国*16・徳若国*17に至ります。
- 戸数:32,000戸
- 人口:83,000人
- 勝兵(訓練済みの戦闘に堪え得る兵士):30,000余人
中国との関係
莎車国に併合される
- 光武帝の建武年間(25年〜56年)末のこと。当時、強盛を誇った莎車王・賢は、于窴国*11を攻撃して併合し、于窴王・俞林を徙して驪帰王としました。
西域の強国となる
- 明帝の永平年間(25年〜56年)中、(元)于窴国*11の将・休莫霸が莎車国に叛いて自ら于窴王となり、休莫霸が亡くなると兄の子・広徳が王に立ちました。その後、于窴王・広徳はついに莎車国を滅ぼし、国の勢いはいよいよ盛んとなって、東は精絶国*3から西北は疏勒国に至るまでの13国はみな(于窴国*11に)服従しました。
当時、鄯善王もまた強盛となり、結果として南道*18の葱嶺(パミール高原)以東はただこの2国だけが大国となりました。
後漢に帰順する
- 順帝の永建6年(131年)、于窴王・放前は闕(宮門)に侍子(人質の王子)を派遣して貢ぎ物を献じました。
拘弥王・成国の陰謀
- 桓帝の元嘉元年(151年)、長史(西域長史)の趙評が于窴国*11において癰(悪性腫瘍)を病んで亡くなったため、趙評の子は喪(柩)を迎え、その道中、拘弥国を通りました。この時拘弥王・成国は以前から于窴王の建と不和であったので、趙評の子に「于窴王(建)が胡医(異民族の医者)に命じて患部に毒薬を塗布させたために、(趙評は)死に至ったのです」と語ったところ、趙評の子はこの言葉を信じ、還って塞に入ると敦煌太守・馬達にこのことを告げました。
- 翌元嘉2年(152年)、朝廷は(趙評の後任として)王敬を長史(西域長史)としましたが、馬達は王敬にそのこと(拘弥王・成国の嘘)を隠すように命じました。
王敬が(于窴国*11より先に)拘弥国を通過すると、拘弥王・成国はまた王敬に「于窴国*11の国人は我が王となることを望んでいる。今、この罪(趙評を殺害した罪)によって于窴王・建を誅殺すれば、于窴国*11は必ずや服従するでしょう」と吹き込みます。功名を立てることに貪欲な王敬は、于窴国*11に到着すると建に酒宴を設けるように要請し、その席で秘かに彼を殺害することを計画しました。
この王敬の謀略を于窴王・建に告げた者がありましたが、建はこれを信じず、「我に罪はない。王長史は何の理由があって我を殺そうとするのか?」と言い、翌日、官属・数十人を従えて王敬の元に赴きました。
みなが座席に着いて、建が起ち上がって酒を行き渡らせた時、王敬は左右の者を叱咤して彼を捕らえようとしますが、(王敬の)吏士たちには建に対する殺意がなく、建の官属はみな(王敬の吏士たちの包囲を)突破して逃走することができました。
ですが、この時王敬に随伴して宴席に居合わせていた拘弥王・成国の主簿・秦牧は、刀を取り出して「大事はすでに定まっております。どうしてまた躊躇うのですかっ!」と言い、直ちに進んで建を斬りました。
于窴国の侯将・輸僰の報復
- これを受け、于窴国*11の侯将・輸僰らが兵を集めて王敬を攻撃すると、王敬は建の頭を持って楼に上り、「天子(桓帝)が我に建を誅殺させたのだっ!」と宣告しました。ですが、于窴国*11の侯将はついに営舎を焼いて吏士たちを焼き殺し、楼に上って王敬を斬ると、その首を市に懸けて晒しました。
その後輸僰は自ら王に立とうとしますが、国人たちが彼を殺害し、建の子の安国を于窴王に立てました。
後漢に対して驕慢になる
- 敦煌太守の馬達はこれを聞くと、諸郡の兵を率いて塞を出て于窴国*11を攻撃しようとしましたが、桓帝はこれを許さず、馬達を呼び戻して帰還させると、馬達に代えて宋亮を敦煌太守としました。
宋亮は赴任すると、于窴国*11の国人の中から募って(于窴国*11の国人が)自ら輸僰を斬るように命じますが、この時すでに輸僰が殺害されてから1ヶ月が過ぎていました。そこで(于窴国*11の国人は別の)死人の頭を切断して涼州・敦煌郡に送りましたが、その事情を言上しませんでした。
宋亮は後にそれが詐りであることを知りましたが、ついに兵を出すことができず、于窴国*11はこれを恃んでついに驕慢(驕り高ぶって相手を見下し、勝手なことをすること)になりました。」
脚注
*3新疆ウィグル自治区・民豊の北。和田の東、大砂漠の中にあったらしい。
*10新疆ウィグル自治区・鄯善の南西の魯克沁。
*11新疆ウィグル自治区・和田の南西。和闐。
*15新疆ウィグル自治区・葉城。
*16新疆ウィグル自治区・葉城の南西。
*17新疆ウィグル自治区・葉城の南西。
*18南山の北、塔里木河に沿って西に向かい、莎車国に至る道。南道から西の葱嶺山を越えれば、(西域の領域外の)大月氏・安息国[パルティア王国(古代イラン)]に出ます。
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