後漢ごかん・三国時代の異民族である西域さいいき諸国の内、婼羌国じきょうこく鄯善国ぜんぜんこく楼蘭ろうらん)についてまとめています。

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西域諸国①

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

婼羌国

前漢ぜんかん

婼羌国

婼羌国じきょうこく

所在地・戸数・人口・兵力

西域さいいき諸国の中で最も中国に近い国である婼羌国じきょうこくは、涼州りょうしゅう敦煌郡とんこうぐん陽関ようかんから1,800里(約774km)、(前漢ぜんかんの都)長安ちょうあんから6,300里(約2,709km)の西南にあって孔道こうどう*1から外れています。

また、婼羌国じきょうこくから西北に行くと鄯善国ぜんぜんこくがあり、婼羌国じきょうこくかんの使者が鄯善国ぜんぜんこくいたる道筋に当たります。

  • 戸数:450戸
  • 人口:1,750人
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):500人

がおり、婼羌国王じきょうこくおう去胡来王きょこらいおうと号しました。

脚注

*1こう」は「大」の意。大道。西域さいいきにはかんの使者の西域さいいき諸国への通路である南道なんどう北道ほくどうの2つの孔道こうどうがあった。

風土・風俗
  • 婼羌国じきょうこくは西は且末国しょまつこくと接しており、家畜をしたがえ水や草をって移動し、田畑を作らず穀物こくもつ鄯善国ぜんぜんこく且末国しょまつこくから買い入れていました。
  • 婼羌国じきょうこくの山は鉄を産出し、みずから弓・矛・服刀(短刀)・剣・よろいなどの兵(武器)を作りました。

鄯善国(楼蘭)

前漢ぜんかん

鄯善国(楼蘭)

鄯善国ぜんぜんこく楼蘭ろうらん

所在地・戸数・人口・兵力

鄯善国ぜんぜんこくは元の国名を楼蘭ろうらんと言い、王治おうちおうの治所)の扞泥城うでいじょうは、涼州りょうしゅう敦煌郡とんこうぐん陽関ようかんから1,600里(約688km)、(前漢ぜんかんの都)長安ちょうあんから6,100里(約2,623km)の場所にあり、西北の都護とご西域都護さいいきとご)の治所(烏塁城うるいじょう)までは1,785里(約767.55km)、山国さんこく墨山国ぼくさんこく)までは1,365里(約586.95km)、西北は1,890里(約812.7km)先の車師国しゃしこくに通じています。

また鄯善国ぜんぜんこくかん西域さいいきとの要衝ようしょうに当たり、西に通じる且末国しょまつこくまでは720里(約309.6km)あります。且末国しょまつこく以西はみな五穀ごこくえ、その土地・草木・畜産と兵(武器)の作りはほぼかんと同じです。

  • 戸数:1,570戸、
  • 人口:14,100人、
  • 勝兵しょうへい(訓練済みの戦闘にる兵士):2,912人

官職

鄯善国ぜんぜんこく楼蘭ろうらん)には、

  • 輔国侯ほこくこう
  • 卻胡侯きゃくここう
  • 鄯善都尉ぜんぜんとい
  • 擊車師都尉げきしゃしとい
  • 左且渠さしょきょ右且渠ゆうしょきょ
  • 擊車師君げきしゃしくん

がそれぞれ1人、

  • 訳長やくちょう(通訳官の長)

が2人いました。

風土・風俗
  • 鄯善国ぜんぜんこくの地は沙鹵さろ塩干潟しおひがた(塩土の砂地)]で田地が少ないため、他国の田地を借りてなえを植えたり、旁国ぼうこく(近国)の穀物こくもつを買い入れていました。
  • 鄯善国ぜんぜんこくぎょくを産出し、葭葦あし檉柳ギョリュウ*2胡桐こどう*3白草はくそう*4が多く自生しており、民は牧畜をしたがえて水や草をって移動します。(その牧畜には)驢馬ろばがおり、槖駝たくだ駱駝らくだ)が多い。
  • 兵(武器)を作れることは婼羌国じきょうこくと同様です*5
脚注

*2ナデシコ目・ギョリュウ科の落葉小高木。木材としてもちいられる。

*3キントラノオ目・ヤナギ科・ヤマナラシ属の落葉高木。樹脂じゅしは薬用となる。

*4はぐさに似た草で牛馬が好んで食べる。

*5婼羌国じきょうこくの山は鉄を産出し、みずから弓・矛・服刀(短刀)・剣・よろいなどの兵(武器)を作った。

中国との関係

前漢に降伏する

前漢ぜんかん武帝ぶてい張騫ちょうけんの言葉に感動して大宛だいえん諸国と交通したいと思い続け、1年間に10数回に及ぶ使者を派遣しました。

楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)と姑師こし車師国しゃしこく)は使者の通う道筋に当たっていたので(使者への供出に)苦しみ、そこで漢使かんし王恢おうかいらを攻撃・略奪し、またしばしば匈奴きょうど耳目てさきとなって、兵に命じて漢使かんしの行く手をさえぎりました。

漢使かんしたちの多くが「それらの国は城邑じょうゆうを有していても兵は弱く攻撃しやすい」ことを報告すると、武帝ぶてい従票侯じゅうひょうこう趙破奴ちょうはど属国ぞっこくの騎兵及び郡兵数万をひきいて姑師こし車師国しゃしこく)を攻撃させ、また王恢おうかいはしばしば楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)に苦しめられていたことから、王恢おうかいに命じて趙破奴ちょうはどの将兵をたすけさせました。

趙破奴ちょうはどが軽騎兵7百人と共に先着して楼蘭王ろうらんおうとりこにし、ついに姑師こし車師国しゃしこく)を破ると、兵威を顕揚けんようして烏孫うそん大宛だいえんの属(属国)を震動させました。この功績により趙破奴ちょうはど浞野侯さくやこうに封ぜられ、王恢おうかい浩侯こうこうに封ぜられました。こうして前漢ぜんかんは、[楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)から]玉門関ぎょくもんかんまで亭障ていしょうとりでの要所に置く番所)をつらねました。

前漢と匈奴に両属する

楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)がすでに前漢ぜんかんに降伏して貢ぎ物を献じていること」を聞いた匈奴きょうどが兵を発して楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)を攻撃すると、楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)は1子を匈奴きょうどつかわして人質とし、また一方で1子を前漢ぜんかんつかわして人質としました。

その後、(前漢ぜんかんの)弐師将軍じししょうぐんの軍が大宛だいえんを攻撃すると、匈奴きょうどはこれをさえぎろうとしますが、弐師将軍じししょうぐんの兵の勢いが盛んなためえてこれに当たろうとはせず、すぐさま楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)に騎兵を派遣して、そこを通過する漢使かんしを待ち伏せて交通を絶ち切ろうとしました。

当時、前漢ぜんかん軍正ぐんせい任文じんぶんは兵をひきいて玉門関ぎょくもんかんに駐屯し、弐師将軍じししょうぐん後詰ごづめとなっていましたが、生口せいこう(捕虜)からこの匈奴きょうどの動きを聞くとこれを武帝ぶていに報告します。これに武帝ぶていみことのりを下し、任文じんぶんに兵をひきいて便道べんどう(近道)を進ませて、楼蘭王ろうらんおうを捕らえさせました。

楼蘭王ろうらんおうけつ(宮門)に連行し、帳簿に照らして問責すると、楼蘭王ろうらんおうは「大国の間に存在する小国は、両方に服属しなければ安寧は得られません。願わくは国をうつして前漢ぜんかんの地に入居させていただきたい」と言いました。すると武帝ぶていはこれを「正直である」として国に帰らせ、やはりまた匈奴きょうどうかがさせました。これ以降、匈奴きょうど楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)をあまり親信しなくなりました。


征和せいわ元年(紀元前92年)に楼蘭王ろうらんおうが亡くなると、楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)の国人がやって来て「前漢ぜんかんに人質としている王子おうじおうに立てたい」といました。

ですが、その人質の王子おうじはかつて前漢ぜんかんの法に触れたため、蚕室さんしつ*6に下されて宮刑きゅうけい(去勢をする刑罰)に処されていたことから、前漢ぜんかんは彼を帰国させず、「侍子じし(人質の王子おうじ)は天子てんし武帝ぶてい)が寵愛ちょうあいしておられるゆえ帰すことはできない。改めて次の順位の者をおうに立てよ」とこたえました。楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)はこれに従って改めておう後王ごおう)を立てましたが、前漢ぜんかんはさらに1子を人質として求め、楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)は匈奴きょうどにもまた1子をつかわして人質としました。

脚注

*6宮刑きゅうけい(去勢をする刑罰)に処すべき罪人を入れて燻腐くんぷした部屋。宮中にあった無風の密室で、火をたくわえており、養蚕ようさんの部屋に似ていた。

再び匈奴につく

後王ごおうが死ぬと、匈奴きょうど前漢ぜんかんよりも先にこれを聞き、質子ちし安帰あんき*7を帰国させておうに立つことができるようにしました。一方、前漢ぜんかんは使者をつかわして新王しんおう安帰あんき)にみことのりを下し、入朝することを命じて手厚い賞賜しょうしを加えようとします。

これに楼蘭王ろうらんおう後王ごおう)の後妻(新王しんおう継母ままはは)が新王しんおうに言いました。

「先王(楼蘭王ろうらんおう後王ごおう)は2人の子を前漢ぜんかんの人質につかわしましたが、いずれもかえって来ませんでした。どうして今また入朝しようとなさるのでしょうか?」

新王しんおう安帰あんき)は彼女のはかりごとに従い、使者に謝罪して「今、新たにおうに立ったばかりで国がまだ安定しておりません。願わくは数年待ってのち天子てんし武帝ぶてい)に謁見したいものです」と言いました。


楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)は西域さいいき諸国の最も東にあって前漢ぜんかんに近く、白龍堆はくりょうたい*8に当たって水や草がとぼしいため、常に通訳と道案内をつとめ、水をい食糧をかついで漢使かんしを送迎しました。

ですが、それでもしばしば前漢ぜんかん吏卒りそつから略奪を受けたので、ついに前漢ぜんかんと通じることにり、その後また匈奴きょうどのために(前漢ぜんかんと)反間してしばしば漢使かんしさえぎり殺害しましたが、おう新王しんおう)の弟の尉屠耆いとき*9前漢ぜんかんくだって、そうした有り様をつぶさに告げました。

脚注

*7匈奴きょうどに人質となっていた子。漢書かんじょ西域伝さいいきでんには「嘗帰しょうき」とあるが、漢書かんじょ昭帝紀しょうていぎ漢書かんじょ傅介子伝ふかいしでんには「安帰あんき」とあり、ここでは「安帰あんき」で統一する。

*8新疆しんきょう天山てんざん南路、現在の庫爾克塔格クルクダクと言う。流砂の尽きる所で、砂丘の形が臥龍がりょうに似ている。

*9兄の安帰あんきおうとなったので、代わりに前漢ぜんかんの人質となっていた弟の尉屠耆いときくだったもの。

楼蘭王・安帰が暗殺される

元鳳げんぽう4年(紀元前77年)、大将軍だいしょうぐん霍光かくこうが言上し、平楽監へいらくかん傅介子ふかいし楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)につかわして新王しんおう安帰あんき)を刺殺させようとしました。傅介子ふかいしは身軽で勇敢な士をひきいて出発し、きん幣帛きぬを持参して「外国に賞賜しょうしするという名目に過ぎない」と言いふらします。

楼蘭ろうらん鄯善国ぜんぜんこく)に到着して「持参品を下賜かしする」といつわると、新王しんおう安帰あんき)は喜んで傅介子ふかいしと共に酒を飲みました。その席上、傅介子ふかいしが人を遠ざけて新王しんおう安帰あんき)に耳打ちしようとした時、2人の壮士そうしが後ろから新王しんおう安帰あんき)を刺し殺しました。[新王しんおう安帰あんき)の]貴人きじんや左右の臣下らはみな逃げ散ります。

傅介子ふかいし告諭こくゆして言いました。

おう新王しんおう安帰あんき)]はかん前漢ぜんかん)にそむく罪を犯したため、天子てんし武帝ぶてい)はわたしつかわしておう誅殺ちゅうさつさせたのである。改めておう新王しんおう安帰あんき)]の弟、かん前漢ぜんかん)にいる尉屠耆いとき*9を立てるべきである。間もなく漢兵かんぺいが到着する。えて妄動もうどうしてみずから国を滅ぼすようなことのないようにっ!」

傅介子ふかいしはついにおう安帰あんきの首を斬ると、けつ(宮門)に伝馬をせて、北闕ほくけつ未央宮びおうきゅうの北門)のもとにその首をけました。この功績により、傅介子ふかいし義陽侯ぎようこうに封ぜられました。

鄯善王・尉屠耆の帰順

その後、(武帝ぶていは)尉屠耆いとき*9を立てておうとし、楼蘭ろうらんの国名を鄯善ぜんぜんと改めました。また、おうのために印章をきざみ、宮女を下賜かしして夫人ふじんとし、兵車・騎馬・輜重しちょう(軍需物資)を十分にそなえ、丞相じょうしょう将軍しょうぐんらが百官を従えて横門おうもんの外まで見送り、道祖神どうそしん)を祭って出発させました。

おう尉屠耆いとき*9みずか天子てんし武帝ぶてい)にうて言いました。

「我が身は久しくかん前漢ぜんかん)にいたため、今帰国しても孤立していて弱い。また前王ぜんおう安帰あんき)には子がいるので、殺されるのではないかと恐れています。国内に伊循城いじゅんじょうという所があり、その土地は肥沃ひよくですから、願わくはかん前漢ぜんかん)から1将をつかわして、そこに屯田とんでんして穀物こくもつたくわえ、わたくしがその威光に支えられるようにしていただきたく存じます」

そこで前漢ぜんかん司馬しば 1人と吏士りし40人をつかわし、伊循いじゅん屯田とんでんしてこれを鎮撫ちんぶさせました。


その後、改めて都尉とい西域都尉さいいきとい)を置きました。伊循いじゅんに官が置かれたのはこの時に始まります。

脚注

*9兄の安帰あんきおうとなったので、代わりに前漢ぜんかんの人質となっていた弟の尉屠耆いときくだったもの。


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【後漢・三国時代の異民族】目次