後漢ごかん・三国時代の異民族の内、西域さいいきの諸国と中国の関係についてまとめています。

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西域と中国の関係

西域(後漢時代)

西域さいいき後漢ごかん時代)

しゅうの時代、)西域さいいきの諸国はみな匈奴きょうどに服属していました。

匈奴きょうど西部の日逐王にっちくおう僮僕都尉どうぼくといを置いて西域さいいきを治めさせ、焉耆国えんきこく*1危須国きしゅこく尉黎国いりこくの3国の間に常駐し、西域さいいき諸国に賦税ふぜいすることによって富み栄えました。


焉耆国・危須国・尉黎国

焉耆国えんきこく*1危須国きしゅこく尉黎国いれいこく

脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区焉耆イェンチー回族かいぞく自治県じちけんカラシャール)。

秦王朝の地図

しんの地図(B.C.210年頃)


しゅうおとろえた頃、戎狄じゅうてき(辺境異民族)は涇水けいすい渭水いすいの北に雑居していました。

しん始皇帝しこうてい戎狄じゅうてき攘卻じょうきゃくする(追い払う)に及び、長城ちょうじょうきずいて中国(しん)との境界としましたが、西は隴西郡ろうせいぐん臨洮県りんとうけんまでに過ぎませんでした。

前漢

前漢の地図

前漢ぜんかんの地図(B.C.206年〜A.D.8年)

武帝ぶてい期(B.C.141年〜B.C.87年)

前漢ぜんかんおこ武帝ぶていの時代にいたると、武帝ぶていは四方の夷狄いてき(異民族)を征伐してその威徳を広め、張騫ちょうけんが初めて西域さいいきへの足跡を開きました。

その後、驃騎将軍ひょうきしょうぐん匈奴きょうどの右地を撃破して渾邪王こんやおう休屠王きゅうとおうくだしたため、そこはついに無人の地となります。そこで武帝ぶてい涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん令居県れいきょけん以西に城を築き、初めに酒泉郡しゅせんぐんを置いて次第に民を移住させると、武威郡ぶいぐん張掖郡ちょうえきぐん敦煌郡とんこうぐんを分置して、玉門関ぎょくもんかん陽関ようかんを(西域さいいきへの)拠点としました。


涼州刺史部

涼州刺史部りょうしゅうししぶ前漢ぜんかん期)


弐師将軍じししょうぐん大宛国だいえんこくを征伐してからのち西域さいいき諸国はふるおそれ、その多くが使者をつかわし来朝して貢ぎ物を献じて来たので、前漢ぜんかん西域さいいきに派遣する使者も増やされました。

こうして涼州りょうしゅう敦煌郡とんこうぐんの西から塩沢えんたく蒲昌海ほしょうかい*2いたるまであちこちに駅亭えきていを設置し、また輪台国りんだいこく渠犁国きょりこくには田卒でんそつ屯田兵とんでんへい)数百人と使者校尉ししゃこうい*3を置いて統治・保護し、その収穫をもって外国へ使いする者に供給しました。


西域・武帝期関連地図

西域さいいき武帝ぶてい期関連地図

脚注

*2新疆しんきょうウィグル自治区羅布泊ロプノール

*3西域さいいき屯田官とんでんかんはみな校尉こういであり、これに「使者」の称号を加えたのが使者校尉ししゃこういである。のち都護とご西域都護さいいきとご)と改められた。

宣帝せんてい期(B.C.74年〜B.C.48年)

宣帝せんていの時代にいたると、衛司馬えいしばつかわして鄯善国ぜんぜんこく以西の数ヶ国をまもらせましたが、姑師こし車師しゃし)を破るに及んでことごとく滅ぼすことができず、姑師こし車師しゃし)は車師前王国しゃしぜんおうこく車師後王国しゃしこうおうこくと山北の6ヶ国に分割されました。


当時の前漢ぜんかんは、ただ南道なんどう*4まもるのみで、まだ北道ほくどう*5をことごとく併合することは出来ていませんでしたが、それでも匈奴きょうど前漢ぜんかんの進出を脅威に思っていました。その後、日逐王にっちくおう単于ぜんうそむき、衆をひきいて投降して来ると、鄯善国ぜんぜんこく以西をまも使者ししゃ使者校尉ししゃこうい*3)の鄭吉ていきつがこれを迎えます。日逐王にっちくおう前漢ぜんかんに到着すると、宣帝せんていは彼を帰徳侯きとくこうに封じ、鄭吉ていきつ安遠侯あんえんこうに封じました。

この年は神爵しんしゃく2年(紀元前60年)。そのまま鄭吉ていきつに命じて北道ほくどう*5あわまもらせ、使者校尉ししゃこうい*3を号して都護とご西域都護さいいきとご)としました。都護とご西域都護さいいきとご)の起源は鄭吉ていきつに始まったのです。これ以降、(匈奴きょうどの)僮僕都尉どうぼくといは廃止されて匈奴きょうどは益々弱体化し、西域さいいきに近づくことができなくなりました。

そこで屯田とんでん北胥鞬ほくしょけん*6うつして莎車国さしゃこくの地を広げ、屯田校尉とんでんこういを初めて都護とご西域都護さいいきとご)に所属させました。都護とご西域都護さいいきとご)は、烏孫うそん康居国こうきょこく(キルギス草原)など諸外国の動静を督察とくさつして異変があればそれを上聞(報告)し、安んずべきものはこれを安んじ、撃つべきものはこれを撃ちました。

都護とご西域都護さいいきとご)は烏塁城うるいじょうを治所としましたが、そこは陽関ようかんから2,738里(約1,177.34km)の所にあり、渠犁国きょりこく田官でんかんと近く、土地は肥饒ひじょう肥沃ひよく)で西域さいいきにおける中心地であったため、都護とご西域都護さいいきとご)の治所としたのでした。


西域・宣帝期関連地図

西域さいいき宣帝せんてい期関連地図

脚注

*3西域さいいき屯田官とんでんかんはみな校尉こういであり、これに「使者」の称号を加えたのが使者校尉ししゃこういである。のち都護とご西域都護さいいきとご)と改められた。

*4南山なんざんの北、塔里木タリムがわ沿って西に向かい、莎車国さしゃこくいたる道。南道なんどうから西の葱嶺山そうれいさんを越えれば、(西域さいいきの領域外の)大月氏だいげっし安息国あんそくこく[パルティア王国(古代イラン)]に出ます。

*5車師前王庭しゃしぜんおうてい車師前王しゃしぜんおうの宮廷)から北山ほくざんしたがい、塔里木タリムがわ沿って西に向かい、疏勒国そろくこくいたる道。北道ほくどうから西の葱嶺山そうれいさんを越えれば、(西域さいいきの領域外の)大宛国だいえんこく(フェルガナ盆地)・康居国こうきょこく(キルギス草原)・奄蔡国えんさいこく(クリミア半島)に出ます。

*6現在の鄯善県ぜんぜんけん一帯。白棘はっきょく白蘇はくそ白力はくりき蒲昌ほしょう必残ひつざん辟展へきてんとも呼ばれる。

元帝げんてい期(B.C.48年〜B.C.33年)

元帝げんていの時代にいたると、また戊己校尉ぼきこうい*7を復活させ、車師前王庭しゃしぜんおうてい車師前王しゃしぜんおうの宮廷)に屯田とんでんしました。

当時、匈奴きょうど東蒲類王とうほるいおう茲力支じりょくしは1,700余人の衆をひきいて都護とご西域都護さいいきとご)に投降して来ると、都護とご西域都護さいいきとご)は車師後王国しゃしこうおうこくの西部を分割して烏貪訾離国うたんしりこく*8の土地とし、(茲力支じりょくしを)そこにおらせました。

宣帝せんてい元帝げんてい以後、単于ぜんう藩臣はんしんと称してかんに仕え、西域さいいき諸国も服従し、その土地・山川、王侯おうこう・戸数、道程の遠近などは詳細・的確に把握されました。

脚注

*7後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでんに「元帝げんていはまたの2つの校尉こういを置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉ぼこうい己校尉きこういの2校尉こういの総称が戊己校尉ぼきこういであると思われる。
一方で後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでん李賢りけん注が引く漢官儀かんかんぎには「戊己ぼきとは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠すいきょ開鑿かいさくして種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己ぼきと称した」とある。

*8新疆しんきょうウィグル自治区昌吉チャンチーの南。車師後王国しゃしこうおうこくの西。

哀帝あいてい平帝へいてい

  • 哀帝あいてい期(B.C.7年〜B.C.1年)
  • 平帝へいてい期(B.C.1年〜A.C.6年)

哀帝あいてい期から平帝へいてい期にかけて、(西域さいいきは)自然と分割して55ヶ国となりました。

王莽おうもう期(8年〜23年)

帝位を簒奪さんだつした王莽おうもうが、こうおうの称号をおとしめてそれぞれの称号を改めると、西域さいいきの諸国は王莽おうもううらんで叛乱はんらんを起こしました。

西域さいいきの諸国はついに中国と絶交し、さらに再び匈奴きょうどに服属しましたが、匈奴きょうどは税の取り立てが厳しく、諸国は命令にえられませんでした。

後漢

後漢の地図

後漢ごかんの地図(25年〜220年)

光武帝こうぶてい期(25年〜57年)

建武けんぶ年間(25年〜56年)中、西域さいいきの諸国はみな使者を派遣して後漢ごかんに内属を求め、都護とご西域都護さいいきとご)の設置を請願せいがんしましたが、光武帝こうぶていはようやく天下(中国の内地)が定まったばかりで、まだ外地の事柄に関わる暇がなかったので、これを許可しませんでした。

たまたま匈奴きょうど衰弱すいじゃくし、(西域さいいき諸国の1つ、莎車国さしゃこくの)莎車王さしゃおうけん西域さいいき諸国を滅ぼしましたが、けんの死後は互いに攻撃し合うようになりました。

その結果、小宛国しょうえんこく*9精絶国せいぜつこく*10戎盧国じゅうろこく*11且末国しょまつこく*12鄯善国ぜんぜんこくに併合され、渠勒国きょろくこく*13皮山国ひざんこく*14のすべての土地は于闐国うてんこく于窴国うてんこく*15に統治・領有され、郁立国いくりつこく*16単桓国ぜんかんこく*17孤胡国こここく*18烏貪訾離国うたんしりこく*8車師国しゃしこくに滅ぼされましたが、のちにこれらの国々はみな復興しました。


西域・光武帝期関連地図

西域さいいき光武帝こうぶてい期関連地図

脚注

*8新疆しんきょうウィグル自治区昌吉チャンチーの南。

*9新疆しんきょうウィグル自治区且末チェモーの南。

*10新疆しんきょうウィグル自治区民豊ミンフォンの北。

*11新疆しんきょうウィグル自治区民豊ミンフォンの南。

*12新疆しんきょうウィグル自治区且末チェモーの南。

*13新疆しんきょうウィグル自治区于田ユイテンの南。

*14新疆しんきょうウィグル自治区皮山ピシャンけん一帯。

*15新疆しんきょうウィグル自治区和田ホータンの南西。

*16新疆しんきょうウィグル自治区吉木薩爾ヂムサルジムサ)の西。

*17未詳。一説に新疆しんきょうウィグル自治区烏魯木斉ウルムチ一帯。

*18新疆しんきょうウィグル自治区吐魯番トルファンの北西。

明帝めいてい期(57年〜75年)

  • 永平えいへい年間(58年〜75年)中、北虜ほくりょ北匈奴きたきょうど)が西域さいいき諸国を脅迫して共に河西かせい酒泉郡しゅせんぐん武威郡ぶいぐん張掖郡ちょうえきぐん敦煌郡とんこうぐん)の郡県に侵攻し、(河西かせいの郡県は)城門を閉ざしました。
  • 永平えいへい16年(73年)、そこで明帝めいてい将帥しょうすいに命じて北に匈奴きょうどを征伐し、伊吾盧いごろ*19の地を取りました。そして明帝めいてい宜禾都尉ぎかといを置いて屯田とんでんし、ついに西域さいいきとの交通路を開くと、于窴うてんの諸国はみな子を派遣して(後漢ごかんの朝廷に人質として)入侍にゅうじさせました。西域さいいきとの交通が断絶してから65年で、交通は回復しました。
  • 翌年の永平えいへい17年(74年)、(後漢ごかんとして)初めて都護とご西域都護さいいきとご)と戊己校尉ぼきこうい*7を置きました。
  • 永平えいへい18年(75年)、明帝めいてい崩御ほうぎょすると、焉耆国えんきこく*1亀茲国きゅうじこく都護とご西域都護さいいきとご)の陳睦ちんぼくを攻め殺してその兵を殲滅せんめつし、匈奴きょうど車師国しゃしこく戊己校尉ぼきこうい*7を包囲しました。

西域・明帝期関連地図

西域さいいき明帝めいてい期関連地図

脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区焉耆イェンチー回族かいぞく自治県じちけんカラシャール)。

*7後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでんに「元帝げんていはまたの2つの校尉こういを置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉ぼこうい己校尉きこういの2校尉こういの総称が戊己校尉ぼきこういであると思われる。
一方で後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでん李賢りけん注が引く漢官儀かんかんぎには「戊己ぼきとは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠すいきょ開鑿かいさくして種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己ぼきと称した」とある。

*19新疆しんきょうウィグル自治区哈密ハミの4つの町。

章帝しょうてい期(75年〜88年)

  • 建初けんしょ元年(76年)春、酒泉太守しゅせんたいしゅ段彭だんほう交河城こうかじょう*20において車師国しゃしこくを大いに破りました。
    ですが、章帝しょうていは中国を疲弊ひへいさせてまで夷狄いてきと事を構えることを望まず、そこで戊己校尉ぼきこうい*7を帰還させ、再び都護とご西域都護さいいきとご)を派遣することはありませんでした。
  • 建初けんしょ2年(77年)、また章帝しょうてい伊吾いご屯田とんでんさせることもやめたので、匈奴きょうどは兵を派遣して伊吾いごの地を守らせました。
    この時、軍司馬ぐんしば班超はんちょう于闐国うてんこく于窴国うてんこく*15とどまって西域さいいき諸国をやすんじ、仲良く親しみ合いました。

西域・章帝期関連地図

西域さいいき章帝しょうてい期関連地図

脚注

*7後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでんに「元帝げんていはまたの2つの校尉こういを置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉ぼこうい己校尉きこういの2校尉こういの総称が戊己校尉ぼきこういであると思われる。
一方で後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでん李賢りけん注が引く漢官儀かんかんぎには「戊己ぼきとは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠すいきょ開鑿かいさくして種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己ぼきと称した」とある。

*15新疆しんきょうウィグル自治区和田ホータンの南西。

*20新疆しんきょうウィグル自治区吐魯番トルファンの北西。

和帝わてい期(88年〜105年)

  • 和帝わてい永元えいげん元年(89年)、大将軍だいしょうぐん竇憲とうけん匈奴きょうどを大いに破りました。
  • 永元えいげん2年(90年)、竇憲とうけん副校尉ふくこうい閻槃えんはんに2千余騎をひきさせ、伊吾いごを急襲してこれを破りました。
  • 永元えいげん3年(91年)、(軍司馬ぐんしばの)班超はんちょうがついに西域さいいきを平定したので、班超はんちょう都護とご西域都護さいいきとご)として亀茲国きゅうじこくに居留させました。
    さらに戊己校尉ぼきこうい*7を復活させ、兵5百人を管轄かんかつして車師前部しゃしぜんぶ車師前王国しゃしぜんおうこく)の高昌壁こうしょうへき*21に居留させました。
    また戊部ぼぶ斥候せっこうを置いて車師後部しゃしこうぶ車師後王国しゃしこうおうこく)の候城こうじょうに居留させました。
    高昌壁こうしょうへき*21候城こうじょうは、5百里(約215km)離れています。
  • 永元えいげん6年(94年)、都護とご西域都護さいいきとご)の班超はんちょうは再び焉耆国えんきこく*1を撃破し、50余国のことごとくが人質をおさめて内属しました。條支国じょうしこく*22安息国あんそくこく(パルティア王国)の諸国から海瀕かいひん(海辺)までの4万里(約17,200km)の外からも、みな通訳を重ねて貢ぎ物を献じて来ました。
  • 永元えいげん9年(97年)、都護とご西域都護さいいきとご)の班超はんちょうは属官の甘英かんえいを派遣して西海せいかい*23の果てまでのぞんで帰還しました。

みな前世(前漢ぜんかん)が到達できなかった場所であり、山海経せんがいきょういまだに詳細をしるしていない場所であり、(班超はんちょう甘英かんえいによって)その風土がつぶさに分かり、その珍怪なこともすべて伝わりました。こうして遠国の蒙奇国もうきこく*24兜勒国とうろくこく*25もみな来朝して帰服し、貢ぎ物を献じて来ました。

  • 元興げんこう元年(105年)、和帝わてい晏駕あんが崩御ほうぎょ)すると、西域さいいきの諸国がそむきました。

西域・和帝期関連地図

西域さいいき和帝わてい期関連地図

脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区焉耆イェンチー回族かいぞく自治県じちけんカラシャール)。

*7後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでんに「元帝げんていはまたの2つの校尉こういを置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉ぼこうい己校尉きこういの2校尉こういの総称が戊己校尉ぼきこういであると思われる。
一方で後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでん李賢りけん注が引く漢官儀かんかんぎには「戊己ぼきとは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠すいきょ開鑿かいさくして種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己ぼきと称した」とある。

*21新疆しんきょうウィグル自治区吐魯番トルファン南東の高昌故城こうしょうこじょう前漢ぜんかん元帝げんてい期に作られた軍事基地。戊己校尉ぼきこうい*7が置かれた。

*22イラン南西部のブーシェル港付近。

*23地中海ちちゅうかいとされる。黒海こっかいとの説もある。

*24トルクメニスタン南部のマルイ付近。

*25未詳。吐火羅国とはらこく(現在のアフガニスタンの北部)にあったと考えられる。

安帝あんてい期(106年〜125年)

  • 安帝あんてい永初えいしょ元年(107年)、西域さいいきの諸国が頻繁ひんぱんに攻めてきて都護とご西域都護さいいきとご)の任尚じんしょう段禧だんきらを包囲しましたが、朝廷はその地がけわしく遠く(援軍が)おもむきにくいことから、みことのりを下して都護とご西域都護さいいきとご)を廃止し、ついに西域さいいきを放棄しました。
    すると北匈奴きたきょうどは、すぐにまた西域さいいき諸国をおさめて服属させ、10余年にわたって共に後漢ごかんの辺境への攻撃を繰り返しました。
  • 元初げんしょ6年(107年)、敦煌太守とんこうたいしゅ曹宗そうそう北匈奴きたきょうど西域さいいき諸国による暴害を憂慮し、上奏して行長史こうちょうし行西域長史こうさいいきちょうし)の索班さくはんを派遣し、千人余りをひきいて依吾いご伊吾いご?)に駐屯してこれを帰順させました。こうして車師前王しゃしぜんおう鄯善王ぜんぜんおうが投降しました。

数ヶ月すると、北匈奴きたきょうどはまた車師後部王しゃしぜんおうひきいて共に攻撃して索班さくはんらを殺害し、ついに車師前王しゃしぜんおうを敗走させました。状況が切迫した鄯善国ぜんぜんこくは、敦煌太守とんこうたいしゅ曹宗そうそうに救援を求め、これを受けた曹宗そうそうは「匈奴きょうどを攻撃して(殺害された)索班さくはんの恥にむくいること」をい、再度進軍して西域さいいきを取ろうとしました。

ところが鄧太后とうたいごうはこれを許さず、ただ護西域副校尉ごさいいきふくこういを置いて涼州りょうしゅう敦煌郡とんこうぐんに居留させ、部営兵3百人の駐屯を再開して羈縻きび*26しただけでした。

その後、北虜ほくりょ北匈奴きたきょうど)が車師国しゃしこくと共に河西かせい酒泉郡しゅせんぐん武威郡ぶいぐん張掖郡ちょうえきぐん敦煌郡とんこうぐん)に何度も侵攻して来ると、朝廷はこれをおさえることができず、玉門関ぎょくもんかん陽関ようかんを閉鎖してその憂患ゆうかんつことが話し合われました*27

  • 延光えんこう2年(107年)、敦煌太守とんこうたいしゅ張璫ちょうとうが上書して、次の3つの策を献じました。
    • 北虜ほくりょ北匈奴きたきょうど)の呼衍王こえんおうは、常に蒲類ほるい蒲類海ほるいかい*28秦海しんかいローマ)の間を転々として西域さいいきを思うままに専制し、(車師国しゃしこくと)共に侵略を行っております。今、酒泉属国しゅせんぞっこく吏士りし・2千余人を昆侖塞こんろんさいに集め、まずは呼衍王こえんおうを攻撃してその根本をち、その後で鄯善国ぜんぜんこくの兵・5千人を発して車師後王国しゃしこうおうこくおびやかします。これが上計です。
    • もし出兵できないのであれば、軍司馬ぐんしばを置いて将士・5百人をひきいさせ、(河西かせいの)4郡から犂牛りぎゅう(まだらな毛色の牛)と穀食こくしょくを供出して柳中城りゅうちゅうじょう*29に進出させます。これが中計です。
    • もしこれもまたできないのであれば、どうか交河城こうかじょう*20放棄ほうきし、鄯善国ぜんぜんこくの人々を収容してそのことごとくをとりでに入れるべきです。これが下計です。

朝廷がその議を下すと、尚書しょうしょ陳忠ちんちゅう上疏じょうそして「敦煌郡とんこうぐん校尉こういを置き、河西かせい4郡の屯兵を増やして西方の諸国を慰撫いぶし、匈奴きょうど牽制けんせいする」ように言いました。

陳忠の上疏・全文
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わたくしが聞き及びますに、八蛮はちばん(異民族)の侵攻は、北虜ほくりょ北匈奴きたきょうど)よりひどいものはありません。

かんおこると、高祖こうそ劉邦りゅうほう)は(匈奴きょうど冒頓ぼくとつ単于ぜんうと戦った際の)平城へいじょうでの包囲*30に苦しみ、太宗たいそう文帝ぶんてい)は(匈奴きょうどに貢ぎ物を献上するという)供奉の恥に屈しました。そのため武帝ぶていは憤怒し、久長の計(長期的な計略)を深くお考えになり、虎臣(勇猛な臣下)に命令を下して黄河こうがを渡り砂漠を横切らせて、虜庭りょてい匈奴きょうどの宮廷)を徹底的に破壊しました。この戦役に当たって黔首けんしゅ(民)は狼望ろうぼうの北に命を落とし、盧山ろざん*31の谷に財幣をすり減らし、国庫は枯渇こかつして(機織はたおり道具の)杼柚ちょじく(の音)は途絶とだえ、舟や車にまで人頭税が課せられ、財産税は六畜ろくちく(馬・牛・羊・ぶた・犬・鶏)にまで課せられました。

何もお考えにならなかったのでしょうか。これは長久の策を思えばこそのことであり、こうして河西かせいの4郡を開通して南羌なんきょう(と匈奴きょうどと)を隔絶し、36ヶ国を回収して匈奴きょうど右臂ゆうひ(右腕)を断ったのです。こうして単于ぜんうは孤立し、ねずみのように逃げて遠くに隠れました。

宣帝せんてい元帝げんていの世になると、ついに(匈奴きょうどが)蕃臣はんしん(の列に)そなわり、(辺境の)関所は閉じられず、(急を告げる)羽檄うげきの書*32(の伝達)は行われなくなったのです。

これにより察するところは、戎狄じゅうてきは威信によって服従させられますが、教化によって手懐てなずけることは難しいということです。西域さいいきの諸国は内属してから長い月日が経過し、ひたすら東を望見して関を叩く者がしばしばありました。これは匈奴きょうど(の支配)を楽しまずかんしたう効験です。

今、北虜ほくりょ北匈奴きたきょうど)はすでに車師国しゃしこくを破りましたが、必ずやこの勢いで鄯善国ぜんぜんこくを攻めるでしょう。(鄯善国ぜんぜんこくを)放棄ほうきして救わないのであれば、(西域さいいきの)諸国は(匈奴きょうどに)従うでしょう。そうなれば、りょ匈奴きょうど)の財賄ざいわい(財産)は益々増え、大胆不敵な姿勢は益々つのり、その威信によって南羌なんきょうのぞみ、これと合流して連合を組むでしょう。

このようになれば河西かせいの4郡はあやうくなります。河西かせいの4郡があやうくなれば、救わざるを得ません。そうなれば百倍の戦役がおこり、計算外の出費となるでしょう。

ところが議者は、ただ西域さいいきはるか遠いために、これを救うためのわずらわしい費用を懸念し、前代の人々が心を苦しめてつとめてきた意図を見ようとしません。まさに今、辺境の防備は緻密ではなく、内郡の防衛のそなえは整っておらず、涼州りょうしゅう敦煌郡とんこうぐんは孤立して危険な状態にあり、遠くから伝令が来て急を告げても、また救助しなければ、内は吏民を慰労いろうすることができず、外は百蛮ひゃくばん(異民族たち)に威信を示すことができません。

国を縮めて領土を減らすことは、経典(毛詩もうし大雅たいが召旻篇しょうびんへん)に明らかないましめがあります。わたくしが思いますに、どうか敦煌郡とんこうぐん校尉こういを置き、旧来の事例を考えて河西かせい4郡の屯兵を増やし、西方の諸国を慰撫いぶされますように。そうすれば、万里(の外から攻めて来る敵)をくじき、匈奴きょうどを震えおそれさせるに充分かと思われます。

安帝あんていはこれを採用して班勇はんゆう西域長史さいいきちょうし*33とし、刑士けいし(減刑された兵士)・5百人をひきいて西方の柳中城りゅうちゅうじょう*29に駐屯させると、班勇はんゆう車師国しゃしこくを破って平定しました。

  • 建武けんぶ年間(25年〜56年)から延光えんこう年間(122年〜125年)まで、西域さいいきとは3度断絶して、3度開通しました。

西域・安帝期関連地図

西域さいいき安帝あんてい期関連地図

脚注

*20新疆しんきょうウィグル自治区吐魯番トルファンの北西。

*26異民族の地域を(後漢ごかんの)郡県に組み込みながら、現地の異民族にその地の一定の統治権を分け与えて懐柔かいじゅうする政策のこと。

*27原文:其後北虜連與車師入寇河西,朝廷不能禁,議者因欲閉玉門、陽關,以絕其患。

*28新疆しんきょうウィグル自治区巴里坤バリコンけんの西の巴里坤バリコン

*29新疆しんきょうウィグル自治区鄯善シャンシャンの南西の魯克沁ルークチュン

*30高祖こうそ劉邦りゅうほう)はみずか匈奴きょうどを攻撃して平城へいじょういたったところ、冒頓ぼくとつ単于ぜんう白登山はくとうさんで包囲され、7日って包囲をいた。

*31モンゴルウランバートルの南。

*32国家に非常事態が発生した際に、緊急に兵を徴集する時などにもちいる文書。文書に鳥の羽を付けて至急のしるしにした。

*33都護とご西域都護さいいきとご)の属官。

順帝じゅんてい期(125年〜144年)

  • 順帝じゅんてい永建えいけん2年(127年)、西域長史さいいきちょうし*33班勇はんゆうは再び焉耆国えんきこく*1を攻撃してくだしました。こうして亀茲国きゅうじこく疏勒国そろくこく于胘国うけんこく于闐国うてんこく于窴国うてんこく*15]・莎車国さしゃこくなど17ヶ国はみなやって来て服従しましたが、烏孫うそん葱嶺そうれいパミール高原)以西はついに交通がえました。
  • 永建えいけん6年(131年)、順帝じゅんてい伊吾いごが古くから膏腴こうゆ肥沃ひよく)な地であり、西域さいいき諸国に近く、匈奴きょうどがこれをたのんで鈔暴しょうぼう(略奪)行為を行うことから、再び命じて屯田とんでんを開設させ、伊吾司馬いごしば1人を置きました。
  • 陽嘉ようか年間(132年〜135年)以後、朝廷の威信は徐々におとろえ、諸国は欲しいままに振る舞い、次第に攻撃し合うようになりました。
  • 元嘉げんか2年(152年)、長史ちょうし西域長史さいいきちょうし*33)の王敬おうけい于闐国うてんこく于窴国うてんこく*15に殺害されました。
  • 永興えいこう元年(153年)、車師後王しゃしこうおうはまた反乱を起こして屯営を攻撃しました。(車師後王国しゃしこうおうこくは)降伏したとは言えりて改心することなく、これより徐々に傲慢ごうまんになっていきました。

西域・順帝期関連地図

西域さいいき順帝じゅんてい期関連地図

脚注

*1新疆しんきょうウィグル自治区焉耆イェンチー回族かいぞく自治県じちけんカラシャール)。

*15新疆しんきょうウィグル自治区和田ホータンの南西。

*33都護とご西域都護さいいきとご)の属官。


しゅうしん前漢ぜんかんについては、班固はんこ西域さいいき諸国の風土や人々の風俗を記録した漢書かんじょ西域伝さいいきでんを、建武けんぶ年間以後(後漢ごかん)については、安帝あんていすえに(班固はんこおい・)班勇はんゆう漢書かんじょと異なるものを選述した後漢書ごかんじょ西域伝さいいきでんもとにまとめています。


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