後漢・三国時代の異民族の内、西域の諸国と中国の関係についてまとめています。
スポンサーリンク
西域と中国の関係
西域(後漢時代)
周
(周の時代、)西域の諸国はみな匈奴に服属していました。
匈奴西部の日逐王は僮僕都尉を置いて西域を治めさせ、焉耆国*1・危須国・尉黎国の3国の間に常駐し、西域諸国に賦税することによって富み栄えました。
焉耆国*1・危須国・尉黎国
脚注
*1新疆ウィグル自治区・焉耆回族自治県(カラシャール)。
秦
秦の地図(B.C.210年頃)
周が衰えた頃、戎狄(辺境異民族)は涇水や渭水の北に雑居していました。
秦の始皇帝が戎狄を攘卻する(追い払う)に及び、長城を築いて中国(秦)との境界としましたが、西は隴西郡・臨洮県までに過ぎませんでした。
前漢
前漢の地図(B.C.206年〜A.D.8年)
武帝期(B.C.141年〜B.C.87年)
前漢が興り武帝の時代に至ると、武帝は四方の夷狄(異民族)を征伐してその威徳を広め、張騫が初めて西域への足跡を開きました。
その後、驃騎将軍が匈奴の右地を撃破して渾邪王、休屠王を降したため、そこはついに無人の地となります。そこで武帝は涼州・金城郡・令居県以西に城を築き、初めに酒泉郡を置いて次第に民を移住させると、武威郡、張掖郡、敦煌郡を分置して、玉門関・陽関を(西域への)拠点としました。
涼州刺史部(前漢期)
弐師将軍が大宛国を征伐してから後、西域諸国は震え懼れ、その多くが使者を遣わし来朝して貢ぎ物を献じて来たので、前漢が西域に派遣する使者も増やされました。
こうして涼州・敦煌郡の西から塩沢(蒲昌海)*2に至るまであちこちに駅亭を設置し、また輪台国・渠犁国には田卒(屯田兵)数百人と使者校尉*3を置いて統治・保護し、その収穫をもって外国へ使いする者に供給しました。
西域・武帝期関連地図
脚注
*2新疆ウィグル自治区・羅布泊。
*3西域の屯田官はみな校尉であり、これに「使者」の称号を加えたのが使者校尉である。後に都護(西域都護)と改められた。
宣帝期(B.C.74年〜B.C.48年)
宣帝の時代に至ると、衛司馬を遣わして鄯善国以西の数ヶ国を護らせましたが、姑師(車師)を破るに及んでことごとく滅ぼすことができず、姑師(車師)は車師前王国・車師後王国と山北の6ヶ国に分割されました。
当時の前漢は、ただ南道*4を護るのみで、まだ北道*5をことごとく併合することは出来ていませんでしたが、それでも匈奴は前漢の進出を脅威に思っていました。その後、日逐王が単于に背き、衆を率いて投降して来ると、鄯善国以西を護る使者(使者校尉*3)の鄭吉がこれを迎えます。日逐王が前漢に到着すると、宣帝は彼を帰徳侯に封じ、鄭吉を安遠侯に封じました。
この年は神爵2年(紀元前60年)。そのまま鄭吉に命じて北道*5を併せ護らせ、使者校尉*3を号して都護(西域都護)としました。都護(西域都護)の起源は鄭吉に始まったのです。これ以降、(匈奴の)僮僕都尉は廃止されて匈奴は益々弱体化し、西域に近づくことができなくなりました。
そこで屯田を北胥鞬*6に徙して莎車国の地を広げ、屯田校尉を初めて都護(西域都護)に所属させました。都護(西域都護)は、烏孫・康居国(キルギス草原)など諸外国の動静を督察して異変があればそれを上聞(報告)し、安んずべきものはこれを安んじ、撃つべきものはこれを撃ちました。
都護(西域都護)は烏塁城を治所としましたが、そこは陽関から2,738里(約1,177.34km)の所にあり、渠犁国の田官と近く、土地は肥饒(肥沃)で西域における中心地であったため、都護(西域都護)の治所としたのでした。
西域・宣帝期関連地図
脚注
*3西域の屯田官はみな校尉であり、これに「使者」の称号を加えたのが使者校尉である。後に都護(西域都護)と改められた。
*4南山の北、塔里木河に沿って西に向かい、莎車国に至る道。南道から西の葱嶺山を越えれば、(西域の領域外の)大月氏・安息国[パルティア王国(古代イラン)]に出ます。
*5車師前王庭(車師前王の宮廷)から北山に随い、塔里木河に沿って西に向かい、疏勒国に至る道。北道から西の葱嶺山を越えれば、(西域の領域外の)大宛国(フェルガナ盆地)・康居国(キルギス草原)・奄蔡国(クリミア半島)に出ます。
*6現在の鄯善県一帯。白棘、白蘇、白力、蒲昌、必残、辟展とも呼ばれる。
元帝期(B.C.48年〜B.C.33年)
元帝の時代に至ると、また戊己校尉*7を復活させ、車師前王庭(車師前王の宮廷)に屯田しました。
当時、匈奴の東蒲類王・茲力支は1,700余人の衆を率いて都護(西域都護)に投降して来ると、都護(西域都護)は車師後王国の西部を分割して烏貪訾離国*8の土地とし、(茲力支を)そこにおらせました。
宣帝・元帝以後、単于は藩臣と称して漢に仕え、西域諸国も服従し、その土地・山川、王侯・戸数、道程の遠近などは詳細・的確に把握されました。
脚注
*7『後漢書』西域伝に「元帝はまた戊・己の2つの校尉を置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉と己校尉の2校尉の総称が戊己校尉であると思われる。
一方で『後漢書』西域伝・李賢注が引く『漢官儀』には「戊己とは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠を開鑿して種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己と称した」とある。
*8新疆ウィグル自治区・昌吉市の南。車師後王国の西。
哀帝・平帝期
- 哀帝期(B.C.7年〜B.C.1年)
- 平帝期(B.C.1年〜A.C.6年)
哀帝期から平帝期にかけて、(西域は)自然と分割して55ヶ国となりました。
新
王莽期(8年〜23年)
帝位を簒奪した王莽が、侯や王の称号を貶めてそれぞれの称号を改めると、西域の諸国は王莽を怨んで叛乱を起こしました。
西域の諸国はついに中国と絶交し、さらに再び匈奴に服属しましたが、匈奴は税の取り立てが厳しく、諸国は命令に堪えられませんでした。
後漢
後漢の地図(25年〜220年)
光武帝期(25年〜57年)
建武年間(25年〜56年)中、西域の諸国はみな使者を派遣して後漢に内属を求め、都護(西域都護)の設置を請願しましたが、光武帝はようやく天下(中国の内地)が定まったばかりで、まだ外地の事柄に関わる暇がなかったので、これを許可しませんでした。
たまたま匈奴が衰弱し、(西域諸国の1つ、莎車国の)莎車王・賢が西域諸国を滅ぼしましたが、賢の死後は互いに攻撃し合うようになりました。
その結果、小宛国*9・精絶国*10・戎盧国*11・且末国*12は鄯善国に併合され、渠勒国*13・皮山国*14のすべての土地は于闐国(于窴国)*15に統治・領有され、郁立国*16・単桓国*17・孤胡国*18・烏貪訾離国*8は車師国に滅ぼされましたが、後にこれらの国々はみな復興しました。
西域・光武帝期関連地図
脚注
*8新疆ウィグル自治区・昌吉市の南。
*9新疆ウィグル自治区・且末の南。
*10新疆ウィグル自治区・民豊の北。
*11新疆ウィグル自治区・民豊の南。
*12新疆ウィグル自治区・且末の南。
*13新疆ウィグル自治区・于田の南。
*14新疆ウィグル自治区・皮山県一帯。
*15新疆ウィグル自治区・和田の南西。
*16新疆ウィグル自治区・吉木薩爾(ジムサ)の西。
*17未詳。一説に新疆ウィグル自治区・烏魯木斉一帯。
*18新疆ウィグル自治区・吐魯番市の北西。
明帝期(57年〜75年)
- 永平年間(58年〜75年)中、北虜(北匈奴)が西域諸国を脅迫して共に河西(酒泉郡・武威郡・張掖郡・敦煌郡)の郡県に侵攻し、(河西の郡県は)城門を閉ざしました。
- 永平16年(73年)、そこで明帝は将帥に命じて北に匈奴を征伐し、伊吾盧*19の地を取りました。そして明帝が宜禾都尉を置いて屯田し、ついに西域との交通路を開くと、于窴の諸国はみな子を派遣して(後漢の朝廷に人質として)入侍させました。西域との交通が断絶してから65年で、交通は回復しました。
- 翌年の永平17年(74年)、(後漢として)初めて都護(西域都護)と戊己校尉*7を置きました。
- 永平18年(75年)、明帝が崩御すると、焉耆国*1と亀茲国は都護(西域都護)の陳睦を攻め殺してその兵を殲滅し、匈奴と車師国は戊己校尉*7を包囲しました。
西域・明帝期関連地図
脚注
*1新疆ウィグル自治区・焉耆回族自治県(カラシャール)。
*7『後漢書』西域伝に「元帝はまた戊・己の2つの校尉を置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉と己校尉の2校尉の総称が戊己校尉であると思われる。
一方で『後漢書』西域伝・李賢注が引く『漢官儀』には「戊己とは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠を開鑿して種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己と称した」とある。
*19新疆ウィグル自治区・哈密市の4つの町。
章帝期(75年〜88年)
- 建初元年(76年)春、酒泉太守の段彭が交河城*20において車師国を大いに破りました。
ですが、章帝は中国を疲弊させてまで夷狄と事を構えることを望まず、そこで戊己校尉*7を帰還させ、再び都護(西域都護)を派遣することはありませんでした。 - 建初2年(77年)、また章帝は伊吾で屯田させることもやめたので、匈奴は兵を派遣して伊吾の地を守らせました。
この時、軍司馬の班超は于闐国(于窴国)*15に留まって西域諸国を安んじ、仲良く親しみ合いました。
西域・章帝期関連地図
脚注
*7『後漢書』西域伝に「元帝はまた戊・己の2つの校尉を置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉と己校尉の2校尉の総称が戊己校尉であると思われる。
一方で『後漢書』西域伝・李賢注が引く『漢官儀』には「戊己とは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠を開鑿して種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己と称した」とある。
*15新疆ウィグル自治区・和田の南西。
*20新疆ウィグル自治区・吐魯番市の北西。
和帝期(88年〜105年)
- 和帝の永元元年(89年)、大将軍・竇憲が匈奴を大いに破りました。
- 永元2年(90年)、竇憲は副校尉の閻槃に2千余騎を率させ、伊吾を急襲してこれを破りました。
- 永元3年(91年)、(軍司馬の)班超がついに西域を平定したので、班超を都護(西域都護)として亀茲国に居留させました。
さらに戊己校尉*7を復活させ、兵5百人を管轄して車師前部(車師前王国)の高昌壁*21に居留させました。
また戊部の斥候を置いて車師後部(車師後王国)の候城に居留させました。
高昌壁*21と候城は、5百里(約215km)離れています。 - 永元6年(94年)、都護(西域都護)の班超は再び焉耆国*1を撃破し、50余国のことごとくが人質を納めて内属しました。條支国*22・安息国(パルティア王国)の諸国から海瀕(海辺)までの4万里(約17,200km)の外からも、みな通訳を重ねて貢ぎ物を献じて来ました。
- 永元9年(97年)、都護(西域都護)の班超は属官の甘英を派遣して西海*23の果てまで臨んで帰還しました。
みな前世(前漢)が到達できなかった場所であり、『山海経』が未だに詳細を記していない場所であり、(班超・甘英によって)その風土がつぶさに分かり、その珍怪なこともすべて伝わりました。こうして遠国の蒙奇国*24・兜勒国*25もみな来朝して帰服し、貢ぎ物を献じて来ました。
- 元興元年(105年)、和帝が晏駕(崩御)すると、西域の諸国が背きました。
西域・和帝期関連地図
脚注
*1新疆ウィグル自治区・焉耆回族自治県(カラシャール)。
*7『後漢書』西域伝に「元帝はまた戊・己の2つの校尉を置き(元帝又置戊己二校尉)」とあり、これに従えば戊校尉と己校尉の2校尉の総称が戊己校尉であると思われる。
一方で『後漢書』西域伝・李賢注が引く『漢官儀』には「戊己とは中央のことであり、四方を鎮定し、さらに水渠を開鑿して種をまき、勝利のまじないを行った。そのため戊己と称した」とある。
*21新疆ウィグル自治区・吐魯番市南東の高昌故城。前漢の元帝期に作られた軍事基地。戊己校尉*7が置かれた。
*22イラン南西部のブーシェル港付近。
*23地中海とされる。黒海との説もある。
*24トルクメニスタン南部のマルイ付近。
*25未詳。吐火羅国(現在のアフガニスタンの北部)にあったと考えられる。
安帝期(106年〜125年)
- 安帝の永初元年(107年)、西域の諸国が頻繁に攻めてきて都護(西域都護)の任尚・段禧らを包囲しましたが、朝廷はその地が険しく遠く(援軍が)赴きにくいことから、詔を下して都護(西域都護)を廃止し、ついに西域を放棄しました。
すると北匈奴は、すぐにまた西域諸国を収めて服属させ、10余年にわたって共に後漢の辺境への攻撃を繰り返しました。 - 元初6年(107年)、敦煌太守の曹宗は北匈奴と西域諸国による暴害を憂慮し、上奏して行長史(行西域長史)の索班を派遣し、千人余りを率いて依吾(伊吾?)に駐屯してこれを帰順させました。こうして車師前王と鄯善王が投降しました。
数ヶ月すると、北匈奴はまた車師後部王を率いて共に攻撃して索班らを殺害し、ついに車師前王を敗走させました。状況が切迫した鄯善国は、敦煌太守の曹宗に救援を求め、これを受けた曹宗は「匈奴を攻撃して(殺害された)索班の恥に報いること」を請い、再度進軍して西域を取ろうとしました。
ところが鄧太后はこれを許さず、ただ護西域副校尉を置いて涼州・敦煌郡に居留させ、部営兵3百人の駐屯を再開して羈縻*26しただけでした。
その後、北虜(北匈奴)が車師国と共に河西(酒泉郡・武威郡・張掖郡・敦煌郡)に何度も侵攻して来ると、朝廷はこれを抑えることができず、玉門関と陽関を閉鎖してその憂患を絶つことが話し合われました*27。
- 延光2年(107年)、敦煌太守の張璫が上書して、次の3つの策を献じました。
- 北虜(北匈奴)の呼衍王は、常に蒲類(蒲類海)*28と秦海(ローマ)の間を転々として西域を思うままに専制し、(車師国と)共に侵略を行っております。今、酒泉属国の吏士・2千余人を昆侖塞に集め、まずは呼衍王を攻撃してその根本を絶ち、その後で鄯善国の兵・5千人を発して車師後王国を脅かします。これが上計です。
- もし出兵できないのであれば、軍司馬を置いて将士・5百人を率いさせ、(河西の)4郡から犂牛(まだらな毛色の牛)と穀食を供出して柳中城*29に進出させます。これが中計です。
- もしこれもまたできないのであれば、どうか交河城*20を放棄し、鄯善国の人々を収容してそのことごとくを塞に入れるべきです。これが下計です。
朝廷がその議を下すと、尚書の陳忠が上疏して「敦煌郡に校尉を置き、河西4郡の屯兵を増やして西方の諸国を慰撫し、匈奴を牽制する」ように言いました。
陳忠の上疏・全文
安帝はこれを採用して班勇を西域長史*33とし、刑士(減刑された兵士)・5百人を率いて西方の柳中城*29に駐屯させると、班勇は車師国を破って平定しました。
- 建武年間(25年〜56年)から延光年間(122年〜125年)まで、西域とは3度断絶して、3度開通しました。
西域・安帝期関連地図
脚注
*20新疆ウィグル自治区・吐魯番市の北西。
*26異民族の地域を(後漢の)郡県に組み込みながら、現地の異民族にその地の一定の統治権を分け与えて懐柔する政策のこと。
*27原文:其後北虜連與車師入寇河西,朝廷不能禁,議者因欲閉玉門、陽關,以絕其患。
*28新疆ウィグル自治区・巴里坤県の西の巴里坤湖。
*29新疆ウィグル自治区・鄯善の南西の魯克沁。
*30高祖(劉邦)は自ら匈奴を攻撃して平城に至ったところ、冒頓単于に白登山で包囲され、7日経って包囲を解いた。
*31モンゴル・ウランバートルの南。
*32国家に非常事態が発生した際に、緊急に兵を徴集する時などに用いる文書。文書に鳥の羽を付けて至急のしるしにした。
*33都護(西域都護)の属官。
順帝期(125年〜144年)
- 順帝の永建2年(127年)、西域長史*33の班勇は再び焉耆国*1を攻撃して降しました。こうして亀茲国・疏勒国・于胘国[于闐国(于窴国)*15]・莎車国など17ヶ国はみなやって来て服従しましたが、烏孫・葱嶺(パミール高原)以西はついに交通が絶えました。
- 永建6年(131年)、順帝は伊吾が古くから膏腴(肥沃)な地であり、西域諸国に近く、匈奴がこれを恃んで鈔暴(略奪)行為を行うことから、再び命じて屯田を開設させ、伊吾司馬1人を置きました。
- 陽嘉年間(132年〜135年)以後、朝廷の威信は徐々に衰え、諸国は欲しいままに振る舞い、次第に攻撃し合うようになりました。
- 元嘉2年(152年)、長史(西域長史*33)の王敬が于闐国(于窴国)*15に殺害されました。
- 永興元年(153年)、車師後王はまた反乱を起こして屯営を攻撃しました。(車師後王国は)降伏したとは言え懲りて改心することなく、これより徐々に傲慢になっていきました。
西域・順帝期関連地図
脚注
*1新疆ウィグル自治区・焉耆回族自治県(カラシャール)。
*15新疆ウィグル自治区・和田の南西。
*33都護(西域都護)の属官。
周・秦・前漢については、班固が西域諸国の風土や人々の風俗を記録した『漢書』西域伝を、建武年間以後(後漢)については、安帝の末に(班固の甥・)班勇が『漢書』と異なるものを選述した『後漢書』西域伝を基にまとめています。
スポンサーリンク