西羌(せいきょう)の諸種族と中国(後漢(ごかん):順帝(じゅんてい)・桓帝(かんてい)・霊帝(れいてい)期)の関係についてまとめています。

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西羌と中国の関係⑤後漢③

順帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):犀苦(さいく)

涼州の平定
  • 安帝(あんてい)の延光えんこう3年(124年)、麻奴(まど)の弟・犀苦(さいく)が後を継いで即位しました。
  • 順帝(じゅんてい)の永建えいけん元年(126年)、涼州(りょうしゅう)・隴西郡ろうせいぐんの鐘羌(しょうきょう)が反乱を起こしました。これに護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)が7千余人を率(ひき)いて臨洮県(りんとうけん)で戦い、千余級(きゅう)を斬首すると、(隴西郡ろうせいぐんの鐘羌(しょうきょう)は)みな種人(しゅじん)を率(ひき)いて降伏しました。

この功績により馬賢(ばけん)は都郷侯(ときょうこう)に封ぜられ、涼州(りょうしゅう)は平穏を取り戻しました。

涼州の復活
  • 永建えいけん4年(129年)、尚書僕射(しょうしょぼくや)の虞詡(ぐく)が「涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)、北地郡(ほくちぐん)、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の3郡」を復活させるように上疏(じょうそ)しました。
虞詡の上疏・全文
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臣(わたくし)が聞きますには「子孫は先祖を奉ずることを『孝』とし、君上(くんじょう)は民を安(やす)んずることを『明』とする」と申します。これこそ(殷(いん)の)高宗(こうそう)と周(しゅう)の宣王(せんおう)が、湯王(とうおう)・武王(ぶおう)の上位に配される所以(ゆえん)です。

『尚書(しょうしょ)』禹貢篇(うこうへん)では「雍州(ようしゅう)の田は上(じょう)」とされています。(雍州(ようしゅう)には)肥沃(ひよく)な大地が千里に広がり、穀物(こくもつ)の栽培が盛んで、亀茲(きゅうじ)の塩池があって民の利益となっています。水や草は豊かで美しく、土は牧畜に適(てき)し、牛馬は道を塞(ふさ)ぐほど群れています。北は山河が阻(はば)む険阻な土地に依拠(いきょ)しており、水路に沿(そ)って水を引けば、水舂(すいしょう)(水車を動力として穀物(こくもつ)を挽(ひ)く時に用(もち)いる臼(うす))と水運により少ない労力で豊富な軍糧(ぐんりょう)を得ることができます。

そのため孝武皇帝(こうぶこうてい)(前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい))と光武帝(こうぶてい)が幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))に朔方郡(さくほうぐん)を築き、西河郡(せいかぐん)を開き、上郡(せいかぐん)を置いたのは、すべてこのためでありました。

ところが思いがけず羌族(きょうぞく)が内側より反乱を起こし、郡県が兵火に見舞われて20余年となります。肥沃(ひよく)な大地を棄(す)て、自然の財産を損(そこ)なうことは利益とは言えません。河山の拠(よ)り所を離れ、険阻ではない場所を守ることは難しいのです。

今、[涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)、北地郡(ほくちぐん)、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の]3郡は未(いま)だに修復できず、(長安(ちょうあん)にある諸(もろ)々(もろ)の)園陵(えんりょう)は守備がなされておりません。それなのに公卿(こうけい)は臆病(おくびょう)で意志が弱く、手を出してはやり過ごし、持説(じせつ)を主張し相手を難詰(なんきつ)しては、ただ費用を計算するばかりで安(やす)んずるための方策を図(はか)ろうとしません。

よろしく聖徳をお開(ひら)きになり、優(すぐ)れたお考えを実行に移してくださいませ。


  • 文書が上奏されると、順帝(じゅんてい)は3郡を復活させました。順帝(じゅんてい)は謁者(えっしゃ)の郭璜(かくこう)を遣(つか)わして各(おの)々(おの)元いた県に帰るよう督促(とくそく)させ、城郭を修繕し、候駅(こうえき)(見張りの駅)を置きました。

また、急流を掘り広げて屯田(とんでん)を行ったところ、内地の郡では毎年1億銭以上の費用を節約することができました。こうして涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)、北地郡(ほくちぐん)、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)及び涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)、金城郡(きんじょうぐん)に常に穀物(こくもつ)を備蓄し、数年であれば民に行き渡るほどとなりました。

隴西南部都尉を置く
  • 護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)は、犀苦(さいく)の兄弟がしばしば叛乱(はんらん)を起こすことから涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)・令居県れいきょけんに拘束(こうそく)して人質としていました。
  • [永建えいけん4年(129年)]冬、護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)が罪に問(と)われて罷免(ひめん)され、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)出身(右扶風(ゆうふふう)?)の韓皓(かんこう)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。
  • 翌年の永建えいけん5年(130年)、犀苦(さいく)は韓皓(かんこう)の元に出頭して自(みずか)ら故地(故郷)に帰りたいと申し出ましたが、韓皓(かんこう)は犀苦(さいく)を解放せず、湟中(こうちゅう)*1の屯田(とんでん)を(賜支河(ししが)と逢留大河(ほうりゅうたいが)の)2つの河の間に移転させ、群羌(ぐんきょう)(羌(きょう)の諸種族)たちの居住地に近づけました。
  • 韓皓(かんこう)はまた罪に問(と)われて呼び戻され、張掖太守(ちょうえきたいしゅ)の馬続(ばしょく)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。
  • 2つの河(賜支河(ししが)と逢留大河(ほうりゅうたいが))の間にいた羌族(きょうぞく)は、屯田(とんでん)が自分たちの居住地に近づいてきたことで、必ずや(羌族(きょうぞく)を攻める)計画があるのだろうと恐れ、羌族(きょうぞく)間の仇敵(きゅうてき)関係を解消して盟約を結び、それぞれ備(そな)えを固めて警戒するようになりました。

これに馬続(ばしょく)は、まず恩信を示そうと「屯田(とんでん)を湟中(こうちゅう)*1に戻す」ことを上奏すると、その結果、羌族(きょうぞく)たちは安心して落ち着きました。

  • 陽嘉ようか元年(132年)に至ると、湟中(こうちゅう)*1の地が広いことからさらに屯田(とんでん)5部を増設し、合計10部となりました。
  • 陽嘉ようか2年(133年)夏、前漢(ぜんかん)時代の旧制のように、隴西南部都尉(ろうせいなんぶとい)を置きました。
脚注

*1現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

涼州が再び乱れる
鐘羌(しょうきょう)の侵入
  • 陽嘉ようか3年(134年)、鐘羌(しょうきょう)の良封(りょうほう)たちが再び涼州(りょうしゅう)の隴西郡(ろうせいぐん)と漢陽郡(かんようぐん)に侵入すると、順帝(じゅんてい)は詔(みことのり)を下して前の護羌校尉(ごきょうこうい)・馬賢(ばけん)を謁者(えっしゃ)とし、(羌族(きょうぞく)の)諸種族を鎮撫(ちんぶ)するように命じ、護羌校尉(ごきょうこうい)の馬続(ばしょく)は兵を派遣して良封(りょうほう)を攻撃し、数百級(きゅう)を斬首しました。
  • 陽嘉ようか4年(135年)、馬賢(ばけん)もまた涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)の吏士(属吏)と羌(きょう)・胡(こ)の兵を発して良封(りょうほう)を攻撃しました。この戦いで馬賢(ばけん)が良封(りょうほう)を討ち取って1,800級(きゅう)を斬首し、馬・牛・羊5万余頭を獲得すると、良封(りょうほう)の親族はみな馬賢(ばけん)の元に出頭して降伏しました。

馬賢(ばけん)がさらに進んで鐘羌(しょうきょう)の且昌(しょしょう)を攻撃すると、且昌(しょしょう)らは諸種族10余万人を率(ひき)いて涼州刺史(りょうしゅうしし)の元に出頭し、降伏しました。

  • 永和えいわ元年(136年)、馬続(ばしょく)は度遼将軍(とりょうしょうぐん)に昇進し、馬賢(ばけん)がまた護羌校尉(ごきょうこうい)に任命されました。
白馬羌(はくばきょう)の侵入
  • これより以前、涼州(りょうしゅう)・武都郡(ぶとぐん)の塞上(さいじょう)(国境地帯)にいた白馬羌(はくばきょう)が屯官(とんかん)(屯田官(とんでんかん))を攻撃して破り、連年叛乱(はんらん)を起こし続けていました。
  • 永和えいわ2年(137年)春、広漢属国都尉(こうかんぞっこくとい)がこれ(白馬羌(はくばきょう))を撃破し、6百余級(きゅう)を斬首しました。護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)はまた(白馬羌(はくばきょう)を)攻撃して渠帥(きょすい)の飢指累祖(きしるいそ)ら3百級(きゅう)を斬り、こうして隴右(ろうゆう)はまた平定されました。
焼当種(しょうとうしゅ)の侵入
  • 翌年の永和えいわ3年(138年)冬、焼当種(しょうとうしゅ)の那離(なり)ら3千余騎が涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の塞(さい)(国境)を荒らしました。護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)は兵を率(ひき)いてこれを攻撃し、4百余級(きゅう)を斬首して馬1,400頭を獲得しましたが、那離(なり)らは再び西の羌(きょう)・胡(こ)を招(まね)いて吏民を殺傷しました。
大将軍(だいしょうぐん)・梁商(りょうしょう)の忠告
  • 永和えいわ4年(139年)、護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)は湟中義従(こうちゅうぎじゅう)の兵と羌(きょう)・胡(こ)の1万余騎を率(ひき)いて那離(なり)らを急襲しました。この戦いにより馬賢(ばけん)は、那離(なり)を斬り、斬首・捕虜1,200余級(きゅう)を獲得し、馬・騾馬(らば)・羊10万余頭を獲得しました。
  • その後順帝(じゅんてい)は馬賢(ばけん)を弘農太守(こうのうたいしゅ)とし、来機(らいき)を幷州刺史(へいしゅうしし)とし、劉秉(りゅうへい)を涼州刺史(りょうしゅうしし)としました。

任地に赴(おもむ)くにあたり、大将軍(だいしょうぐん)の梁商(りょうしょう)は来機(らいき)らに、

「戎狄(じゅうてき)は荒服(こうふく)、蛮夷(ばんい)は要服(ようふく)であり*2、彼らの行動は予測不能である。彼らの統治方法には常法がなく、状況に応じて慣習に基(もと)づいて判断する。今、3君(馬賢(ばけん)、来機(らいき)、劉秉(りゅうへい))は悪を憎み、白黒をはっきりさせる性分であるが、孔子(こうし)は『人として不仁であるからといって、これを憎み過ぎれば乱をなす』(『論語(ろんご)』泰伯篇(たいはくへん))と言っている。戎狄(じゅうてき)であれば尚更(なおさら)であるっ!羌(きょう)・胡(こ)を安(やす)んじて大きな不幸を防ぎ、小さな過(あやま)ちは我慢せよ」

と言いましたが、来機(らいき)らは元来、残虐・酷薄な性格であったため忠告に従うことができず、州に赴任(ふにん)したその日から濫(みだ)りに徴発することが多くありました。

脚注

*2京畿(けいき)を中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服(ごふく))の1つ。京畿(けいき)に近い順に甸服(でんふく)・侯服(こうふく)・綏服(すいふく)・要服(ようふく)・荒服(こうふく)という。

且凍種(しょとうしゅ)と傅難種(ふなんしゅ)の叛乱(はんらん)
  • 永和えいわ5年(140年)夏、且凍種(しょとうしゅ)・傅難種(ふなんしゅ)の羌族(きょうぞく)たちが叛乱(はんらん)を起こして涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)を攻め、西塞(せいさい)(西の国境)と湟中(こうちゅう)*1の雑種の羌(きょう)・胡(こ)と共に大いに三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))を荒らして長吏(ちょうり)を殺害しました。これにより来機(らいき)と劉秉(りゅうへい)は共に罪に問(と)われて呼び戻されました。

順帝(じゅんてい)は京師(けいし)[洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))]近郊の諸郡と諸州の兵をもってこれを討伐すると、馬賢(ばけん)を征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命して騎都尉(きとい)の耿叔(こうしゅく)を副将とし、左右の羽林(うりん)、五校(ごこう)の士、及び諸もろ々もろの州郡の兵10万人を率(ひき)いて涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)に駐屯させました。

  • また司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)、涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)、隴道(ろうどう)の3百ヶ所に塢壁うへき(堡塁ほうるい)を作り、屯兵(駐屯兵)を配置して民を保護しました。
脚注

*1現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

馬賢(ばけん)の死
  • 且凍種(しょとうしゅ)が種人(しゅじん)を分けて涼州(りょうしゅう)・武都郡(ぶとぐん)を荒らさせ、隴関(ろうかん)を焼き、牧師苑ぼくしえんの馬を略奪させました。
  • 永和えいわ6年(141年)春、征西将軍(せいせいしょうぐん)の馬賢(ばけん)は5〜6千騎を率(ひき)いてこれを攻撃して射姑山(やこさん)に到着したが、馬賢(ばけん)の軍は敗れ、馬賢(ばけん)と2人の子はみな戦死しました。

順帝(じゅんてい)はこれを憐(あわ)れんで布3千匹・穀物千斛(こく)を下賜(かし)し、馬賢(ばけん)の孫の馬光(ばこう)を舞陽亭侯(ぶようていこう)に封じ、この食邑しょくゆうの田租(でんそ)からの収入は毎年百万銭ありました。

また、侍御史(じぎょし)を派遣して征西将軍(せいせいしょうぐん)の営兵を統括(とうかつ)し、死傷者を労(いたわ)らせました。

羌族の大連合
鞏唐種(きょうとうしゅ)の侵入
  • ここにおいて東西の羌族(きょうぞく)はついに大連合しました。
  • 鞏唐種(きょうとうしゅ)の3千余騎が涼州(りょうしゅう)・隴西郡ろうせいぐんを荒らし、園陵(えんりょう)を焼いて関中かんちゅう(函谷関(かんこくかん)の西側の地域)で略奪を働き、長吏(ちょうり)を殺傷しました。司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)・郃陽県(こうようけん)の県令(けんれい)・任頵(じんいん)がこれを追撃しましたが、戦死しました。
  • 中郎将(ちゅうろうしょう)の龐浚(ほうしゅん)を派遣して勇士5百人を募集し、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・美陽県(びようけん)に駐屯させ、涼州(りょうしゅう)への援軍としました。
  • 武威太守(ぶいたいしゅ)の趙沖(ちょうちゅう)が鞏唐種(きょうとうしゅ)の羌族(きょうぞく)を追撃して4百余級(きゅう)を斬首し、馬・牛・羊・驢馬(ろば)8千余頭を獲得し、羌族(きょうぞく)2千余人が降伏しました。順帝(じゅんてい)は趙沖(ちょうちゅう)に詔(みことのり)を下して河西(かせい)4郡の兵を監督させました。
罕種(かんしゅ)の侵入
  • 罕種(かんしゅ)の羌族(きょうぞく)1千余人が涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)を荒らし、北地太守(ほくちたいしゅ)の賈福(かふく)が趙沖(ちょうちゅう)と共にこれを討伐しましたが、勝つことができませんでした。
  • 秋、諸種族の8〜9千騎が涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)を荒らし、涼部(りょうぶ)(涼州(りょうしゅう))は震撼(しんかん)しました。こうしてまた涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)の治所を司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)に移し、涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)の治所は左馮翊(さひょうよく)に移し、行車騎将軍(こうしゃきしょうぐん)・執金吾(しつきんご)の張喬(ちょうきょう)を派遣して左右の羽林(うりん)、五校(ごこう)の士、及び司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・汝南郡(じょなんぐん)の兵15,000人を率(ひき)いて三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))に駐屯させました。
  • 漢安かんあん元年(142年)、護羌校尉(ごきょうこうい)に任命された趙沖(ちょうちゅう)が離反した羌族(きょうぞく)を招(まね)いて懐柔(かいじゅう)すると、罕種(かんしゅ)は邑落(ゆうらく)5千余戸を率(ひき)い、趙沖(ちょうちゅう)の元に出頭して降伏しました。こうして罕種(かんしゅ)が降伏すると、張喬(ちょうきょう)の駐屯軍は解散されました。
焼何種(しょうかしゅ)の降伏
  • ただ焼何種(しょうかしゅ)の3千余落だけは、涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)・参䜌県(さんれんけん)の北の境に身を寄せました。
  • 漢安かんあん3年(144年)夏*3、護羌校尉(ごきょうこうい)の趙沖(ちょうちゅう)は漢陽太守(かんようたいしゅ)の張貢(ちょうこう)と共にこれを急襲し、1,500級(きゅう)を斬首し、牛・羊・驢馬(ろば)18万頭を獲得しました。
  • 冬、趙沖(ちょうちゅう)は諸種族を攻撃して4千余級(きゅう)を斬首しました。この功績により趙沖(ちょうちゅう)の1子に詔(みことのり)が下され、郎(ろう)に取り立てられました。
  • 趙沖(ちょうちゅう)はまた涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・阿陽県(あようけん)まで追撃して8百級(きゅう)を斬首しました。こうして諸種族の前後3万余戸が涼州刺史(りょうしゅうしし)の元に出頭して降伏しました。
羌族の衰耗
  • 建康けんこう元年(144年)春*3、護羌従事(ごきょうじゅうじ)の馬玄(ばげん)が諸羌(きょう)に誘われ、羌族(きょうぞく)の兵を率(ひき)いて塞外(さいがい)(国境外)に出ました。

領護羌校尉(りょうごきょうこうい)の衛瑶(えいよう)*4は馬玄(ばげん)らを追撃して8百余級(きゅう)を斬首し、牛・馬・羊20余万頭を獲得しました。

  • 趙沖(ちょうちゅう)は再び叛羌(はんきょう)(叛乱(はんらん)を起こした羌族(きょうぞく))を追って建威(けんい)*5の鸇陰河(せんいんが)に至りましたが、軍が河を渡り終わらないうちに、率(ひき)いていた降胡(こうこ)(降伏した胡(こ))6百余人が離反して逃走しました。

趙沖(ちょうちゅう)は数百人を率(ひき)いてこれを追いましたが、羌族(きょうぞく)の伏兵に遭遇(そうぐう)して戦死してしまいました。それでも趙沖(ちょうちゅう)軍は戦いを続け、その多くを斬首・捕虜にしたので、以降、羌族(きょうぞく)は衰耗(すいこう)しました。

  • 沖帝(ちゅうてい)の永憙えいき元年(145年)、趙沖(ちょうちゅう)の子の趙愷(ちょうかい)が義陽亭侯(ぎようていこう)に封ぜられ、漢陽太守(かんようたいしゅ)の張貢(ちょうこう)が趙沖(ちょうちゅう)に代わって護羌校尉(ごきょうこうい)に任命されました。
  • 司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)出身(左馮翊(さひょうよく)?)の梁並(りょうへい)が徐々に恩信をもって羌族(きょうぞく)を招(まね)き誘い、離湳種(りだんしゅ)・狐奴種(こどしゅ)らの5万余戸が、梁並(りょうへい)の元に出頭して降伏し、隴右(ろうゆう)は再び平定されました。

梁並(りょうへい)は大将軍(だいしょうぐん)・梁冀(りょうき)の一族であり、鄠侯(ここう)に奉ぜられ食邑しょくゆう2千戸を与えられました。

脚注

*3「漢安かんあん3年(144年)夏 → 建康けんこう元年(144年)春」の順の記載は原文ママ。『後漢書(ごかんじょ)』順帝紀(じゅんていぎ)によると、漢安かんあん3年(144年)夏4月に「建康けんこう」と改元している。

*4『後漢書(ごかんじょ)』西羌伝(せいきょうでん)より。『後漢書(ごかんじょ)』順帝紀(じゅんていぎ)では衛琚(えいきょ)。

*5汲古書院(きゅうこしょいん)『全譯後漢書(ぜんやくごかんじょ)』范曄(はんよう)著渡邉義浩(わたなべよしひろ)編には「青海省(せいかいしょう)・貴徳(きとく)の北東」とある。李賢(りけん)注には「『続漢書(ぞくかんじょ)』は建威(けんい)を武威(ぶい)(涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん))に作る。鸇陰(せんいん)は県の名であり、涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)に属する」とある。

後漢軍の腐敗
  • 順帝(じゅんてい)の永和えいわ年間(136年〜141年)に羌族(きょうぞく)が叛乱(はんらん)を起こしてからこの年[永憙えいき元年(145年)]に至るまで10余年の間、討伐の費用は80余億銭にのぼりました。

諸将は度(たび)々(たび)兵士の俸禄を盗んで秘かに私腹を肥こやし、みな珍宝を賄賂わいろとして贈り、上も下も勝手放題であり、軍事に心を痛めませんでした。士卒で真っ当な死を迎むかえられなかった者は、そのまま野に放置され、あちこちで白骨となりました。

桓帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):犀苦(さいく)?

白馬羌の侵入
  • 桓帝(かんてい)の建和けんわ2年(148年)、白馬羌(はくばきょう)が益州(えきしゅう)・広漢属国(こうかんぞっこく)を荒らして長吏(ちょうり)を殺害しました。

この時、西羌せいきょうと湟中胡こうちゅうこがまた叛乱はんらんを起こして荒らし回り、益州刺史(えきしゅうしし)が板楯蛮ばんじゅんばんを率(ひき)いて西羌せいきょうと湟中胡こうちゅうこを討伐して撃ち破り、斬首及び招まねいて降伏させた者は20万人にのぼりました。

護羌校尉・第五訪
  • 永寿えいじゅ元年(155年)、護羌校尉(ごきょうこうい)の張貢(ちょうこう)が亡くなり、前の南陽太守(なんようたいしゅ)・第五訪(だいごほう)が張貢(ちょうこう)に代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となると、第五訪(だいごほう)には大きな威信と恩恵があり、西方の辺境は平穏となりました。
護羌校尉・段熲
  • 延熹えんき2年(159年)、護羌校尉(ごきょうこうい)の第五訪(だいごほう)が亡くなり、中郎将(ちゅうろうしょう)の段熲(だんけい)が第五訪(だいごほう)に代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となると、焼当羌(しょうとうきょう)の8種族が隴右(ろうゆう)を荒らしたので、段熲(だんけい)はこれを攻撃して大いに撃ち破りました。
  • 延熹えんき4年(161年)、零吾(れいご)*6がまた先零羌(せんれいきょう)及び幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の沈氐種(ちんていしゅ)・牢姐種(ろうしゃしゅ)の諸種族と共に力を合わせて幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))、涼州(りょうしゅう)及び三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))を侵略しました。
  • ちょうどこの時、護羌校尉(ごきょうこうい)の段熲(だんけい)が事件に連座して呼び戻され、済南相(せいなんしょう)の胡閎(ここう)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。ですが、胡閎(ここう)には威厳も方略もなく、羌族(きょうぞく)は激しく暴れ回って営塢(とりで)を陥落(かんらく)させ、侵略の憂患(ゆうかん)は益(ます)々(ます)盛んになりましたが、中郎将(ちゅうろうしょう)の皇甫規(こうほき)がこれを撃破しました。
相継ぐ侵入
  • 延熹えんき5年(162年)、沈氐種(ちんていしゅ)の諸種族が再び涼州(りょうしゅう)の張掖郡(ちょうえきぐん)と酒泉郡(しゅせんぐん)を荒らしましたが、皇甫規(こうほき)が招(まね)いてみな降伏させました。
  • 鳥吾種(ちょうごしゅ)がまた涼州(りょうしゅう)の漢陽郡(かんようぐん)、隴西郡ろうせいぐん、金城郡(きんじょうぐん)を荒らしましたが、諸郡の兵が共にこれを撃破し、それぞれまた降伏しました。
  • 冬に至ると、滇那(てんな)ら5〜6千人がまた涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)、張掖郡(ちょうえきぐん)、酒泉郡(しゅせんぐん)を攻め、民の家屋を焼きました。

延熹えんき6年(163年)、隴西太守ろうせいたいしゅの孫羌(そんきょう)がこれを撃破し、斬首・溺死できしさせた者は3千余人にのぼりました。

  • 胡閎(ここう)が病気になると、再び段熲(だんけい)が護羌校尉(ごきょうこうい)に任命されました。
  • 永康えいこう元年(167年)、東羌とうきょうの岸尾(がんび)らが同種族を脅迫しながら何度も三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))に侵略しましたが、中郎将(ちゅうろうしょう)の張 奐(ちょうかん)が追撃して破り、これを斬りました。
  • 当煎羌とうせんきょうが涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)に侵入すると、破羌将軍(はきょうしょうぐん)の段熲(だんけい)がまたこれを破って滅ぼし、残余はことごとく降伏・離散しました。

霊帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):犀苦(さいく)?

北宮伯玉の反乱
  • 霊帝(れいてい)の建寧けんねい3年(170年)、焼当種(しょうとうしゅ)が使者を奉じて貢物を献上しました。
  • 中平ちゅうへい元年(184年)、涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)の降羌(こうきょう)(降伏した羌族(きょうぞく))の先零種(せんれいしゅ)が「黄巾(こうきん)の大乱」により、湟中(こうちゅう)*1の羌族(きょうぞく)と義従胡(ぎじゅうこ)の北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)らと共に反乱を起こし、隴右(ろうゆう)を荒らしました。
  • 興平こうへい元年(194年)、司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の降羌(こうきょう)(降伏した羌族(きょうぞく))が反乱を起こして諸県を荒らしましたが、郭汜(かくし)と樊稠(はんちゅう)がこれを撃破し、数千級(きゅう)を斬首しました。
脚注

*1現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

*6「零吾(れいご)がまた」とあるが、『後漢書(ごかんじょ)』西羌伝(せいきょうでん)ではこれが初出。


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