西羌の諸種族と中国(後漢:順帝・桓帝・霊帝期)の関係についてまとめています。
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西羌と中国の関係⑤後漢③
順帝期
羌族の嫡家:犀苦
涼州の平定
- 安帝の延光3年(124年)、麻奴の弟・犀苦が後を継いで即位しました。
- 順帝の永建元年(126年)、涼州・隴西郡の鐘羌が反乱を起こしました。これに護羌校尉の馬賢が7千余人を率いて臨洮県で戦い、千余級を斬首すると、(隴西郡の鐘羌は)みな種人を率いて降伏しました。
この功績により馬賢は都郷侯に封ぜられ、涼州は平穏を取り戻しました。
涼州の復活
- 永建4年(129年)、尚書僕射の虞詡が「涼州・安定郡、北地郡、幷州(并州)・上郡の3郡」を復活させるように上疏しました。
虞詡の上疏・全文
- 文書が上奏されると、順帝は3郡を復活させました。順帝は謁者の郭璜を遣わして各々元いた県に帰るよう督促させ、城郭を修繕し、候駅(見張りの駅)を置きました。
また、急流を掘り広げて屯田を行ったところ、内地の郡では毎年1億銭以上の費用を節約することができました。こうして涼州・安定郡、北地郡、幷州(并州)・上郡及び涼州・隴西郡、金城郡に常に穀物を備蓄し、数年であれば民に行き渡るほどとなりました。
隴西南部都尉を置く
- 護羌校尉の馬賢は、犀苦の兄弟がしばしば叛乱を起こすことから涼州・金城郡・令居県に拘束して人質としていました。
- [永建4年(129年)]冬、護羌校尉の馬賢が罪に問われて罷免され、司隷・右扶風出身(右扶風?)の韓皓が代わって護羌校尉となりました。
- 翌年の永建5年(130年)、犀苦は韓皓の元に出頭して自ら故地(故郷)に帰りたいと申し出ましたが、韓皓は犀苦を解放せず、湟中*1の屯田を(賜支河と逢留大河の)2つの河の間に移転させ、群羌(羌の諸種族)たちの居住地に近づけました。
- 韓皓はまた罪に問われて呼び戻され、張掖太守の馬続が代わって護羌校尉となりました。
- 2つの河(賜支河と逢留大河)の間にいた羌族は、屯田が自分たちの居住地に近づいてきたことで、必ずや(羌族を攻める)計画があるのだろうと恐れ、羌族間の仇敵関係を解消して盟約を結び、それぞれ備えを固めて警戒するようになりました。
これに馬続は、まず恩信を示そうと「屯田を湟中*1に戻す」ことを上奏すると、その結果、羌族たちは安心して落ち着きました。
- 陽嘉元年(132年)に至ると、湟中*1の地が広いことからさらに屯田5部を増設し、合計10部となりました。
- 陽嘉2年(133年)夏、前漢時代の旧制のように、隴西南部都尉を置きました。
脚注
*1現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
涼州が再び乱れる
鐘羌の侵入
- 陽嘉3年(134年)、鐘羌の良封たちが再び涼州の隴西郡と漢陽郡に侵入すると、順帝は詔を下して前の護羌校尉・馬賢を謁者とし、(羌族の)諸種族を鎮撫するように命じ、護羌校尉の馬続は兵を派遣して良封を攻撃し、数百級を斬首しました。
- 陽嘉4年(135年)、馬賢もまた涼州・隴西郡の吏士(属吏)と羌・胡の兵を発して良封を攻撃しました。この戦いで馬賢が良封を討ち取って1,800級を斬首し、馬・牛・羊5万余頭を獲得すると、良封の親族はみな馬賢の元に出頭して降伏しました。
馬賢がさらに進んで鐘羌の且昌を攻撃すると、且昌らは諸種族10余万人を率いて涼州刺史の元に出頭し、降伏しました。
- 永和元年(136年)、馬続は度遼将軍に昇進し、馬賢がまた護羌校尉に任命されました。
白馬羌の侵入
- これより以前、涼州・武都郡の塞上(国境地帯)にいた白馬羌が屯官(屯田官)を攻撃して破り、連年叛乱を起こし続けていました。
- 永和2年(137年)春、広漢属国都尉がこれ(白馬羌)を撃破し、6百余級を斬首しました。護羌校尉の馬賢はまた(白馬羌を)攻撃して渠帥の飢指累祖ら3百級を斬り、こうして隴右はまた平定されました。
焼当種の侵入
- 翌年の永和3年(138年)冬、焼当種の那離ら3千余騎が涼州・金城郡の塞(国境)を荒らしました。護羌校尉の馬賢は兵を率いてこれを攻撃し、4百余級を斬首して馬1,400頭を獲得しましたが、那離らは再び西の羌・胡を招いて吏民を殺傷しました。
大将軍・梁商の忠告
- 永和4年(139年)、護羌校尉の馬賢は湟中義従の兵と羌・胡の1万余騎を率いて那離らを急襲しました。この戦いにより馬賢は、那離を斬り、斬首・捕虜1,200余級を獲得し、馬・騾馬・羊10万余頭を獲得しました。
- その後順帝は馬賢を弘農太守とし、来機を幷州刺史とし、劉秉を涼州刺史としました。
任地に赴くにあたり、大将軍の梁商は来機らに、
「戎狄は荒服、蛮夷は要服であり*2、彼らの行動は予測不能である。彼らの統治方法には常法がなく、状況に応じて慣習に基づいて判断する。今、3君(馬賢、来機、劉秉)は悪を憎み、白黒をはっきりさせる性分であるが、孔子は『人として不仁であるからといって、これを憎み過ぎれば乱をなす』(『論語』泰伯篇)と言っている。戎狄であれば尚更であるっ!羌・胡を安んじて大きな不幸を防ぎ、小さな過ちは我慢せよ」
と言いましたが、来機らは元来、残虐・酷薄な性格であったため忠告に従うことができず、州に赴任したその日から濫りに徴発することが多くありました。
脚注
*2京畿を中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服)の1つ。京畿に近い順に甸服・侯服・綏服・要服・荒服という。
且凍種と傅難種の叛乱
- 永和5年(140年)夏、且凍種・傅難種の羌族たちが叛乱を起こして涼州・金城郡を攻め、西塞(西の国境)と湟中*1の雑種の羌・胡と共に大いに三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)を荒らして長吏を殺害しました。これにより来機と劉秉は共に罪に問われて呼び戻されました。
順帝は京師[洛陽(雒陽)]近郊の諸郡と諸州の兵をもってこれを討伐すると、馬賢を征西将軍に任命して騎都尉の耿叔を副将とし、左右の羽林、五校の士、及び諸々の州郡の兵10万人を率いて涼州・漢陽郡に駐屯させました。
- また司隷・右扶風、涼州・漢陽郡、隴道の3百ヶ所に塢壁(堡塁)を作り、屯兵(駐屯兵)を配置して民を保護しました。
脚注
*1現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
馬賢の死
- 且凍種が種人を分けて涼州・武都郡を荒らさせ、隴関を焼き、牧師苑の馬を略奪させました。
- 永和6年(141年)春、征西将軍の馬賢は5〜6千騎を率いてこれを攻撃して射姑山に到着したが、馬賢の軍は敗れ、馬賢と2人の子はみな戦死しました。
順帝はこれを憐れんで布3千匹・穀物千斛を下賜し、馬賢の孫の馬光を舞陽亭侯に封じ、この食邑の田租からの収入は毎年百万銭ありました。
また、侍御史を派遣して征西将軍の営兵を統括し、死傷者を労らせました。
羌族の大連合
鞏唐種の侵入
- ここにおいて東西の羌族はついに大連合しました。
- 鞏唐種の3千余騎が涼州・隴西郡を荒らし、園陵を焼いて関中(函谷関の西側の地域)で略奪を働き、長吏を殺傷しました。司隷・左馮翊・郃陽県の県令・任頵がこれを追撃しましたが、戦死しました。
- 中郎将の龐浚を派遣して勇士5百人を募集し、司隷・右扶風・美陽県に駐屯させ、涼州への援軍としました。
- 武威太守の趙沖が鞏唐種の羌族を追撃して4百余級を斬首し、馬・牛・羊・驢馬8千余頭を獲得し、羌族2千余人が降伏しました。順帝は趙沖に詔を下して河西4郡の兵を監督させました。
罕種の侵入
- 罕種の羌族1千余人が涼州・北地郡を荒らし、北地太守の賈福が趙沖と共にこれを討伐しましたが、勝つことができませんでした。
- 秋、諸種族の8〜9千騎が涼州・武威郡を荒らし、涼部(涼州)は震撼しました。こうしてまた涼州・安定郡の治所を司隷・右扶風に移し、涼州・北地郡の治所は左馮翊に移し、行車騎将軍・執金吾の張喬を派遣して左右の羽林、五校の士、及び司隷・河内郡、荊州・南陽郡、豫州(予州)・汝南郡の兵15,000人を率いて三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)に駐屯させました。
- 漢安元年(142年)、護羌校尉に任命された趙沖が離反した羌族を招いて懐柔すると、罕種は邑落5千余戸を率い、趙沖の元に出頭して降伏しました。こうして罕種が降伏すると、張喬の駐屯軍は解散されました。
焼何種の降伏
- ただ焼何種の3千余落だけは、涼州・北地郡・参䜌県の北の境に身を寄せました。
- 漢安3年(144年)夏*3、護羌校尉の趙沖は漢陽太守の張貢と共にこれを急襲し、1,500級を斬首し、牛・羊・驢馬18万頭を獲得しました。
- 冬、趙沖は諸種族を攻撃して4千余級を斬首しました。この功績により趙沖の1子に詔が下され、郎に取り立てられました。
- 趙沖はまた涼州・漢陽郡・阿陽県まで追撃して8百級を斬首しました。こうして諸種族の前後3万余戸が涼州刺史の元に出頭して降伏しました。
羌族の衰耗
- 建康元年(144年)春*3、護羌従事の馬玄が諸羌に誘われ、羌族の兵を率いて塞外(国境外)に出ました。
領護羌校尉の衛瑶*4は馬玄らを追撃して8百余級を斬首し、牛・馬・羊20余万頭を獲得しました。
- 趙沖は再び叛羌(叛乱を起こした羌族)を追って建威*5の鸇陰河に至りましたが、軍が河を渡り終わらないうちに、率いていた降胡(降伏した胡)6百余人が離反して逃走しました。
趙沖は数百人を率いてこれを追いましたが、羌族の伏兵に遭遇して戦死してしまいました。それでも趙沖軍は戦いを続け、その多くを斬首・捕虜にしたので、以降、羌族は衰耗しました。
- 沖帝の永憙元年(145年)、趙沖の子の趙愷が義陽亭侯に封ぜられ、漢陽太守の張貢が趙沖に代わって護羌校尉に任命されました。
- 司隷・左馮翊出身(左馮翊?)の梁並が徐々に恩信をもって羌族を招き誘い、離湳種・狐奴種らの5万余戸が、梁並の元に出頭して降伏し、隴右は再び平定されました。
梁並は大将軍・梁冀の一族であり、鄠侯に奉ぜられ食邑2千戸を与えられました。
脚注
*3「漢安3年(144年)夏 → 建康元年(144年)春」の順の記載は原文ママ。『後漢書』順帝紀によると、漢安3年(144年)夏4月に「建康」と改元している。
*4『後漢書』西羌伝より。『後漢書』順帝紀では衛琚。
*5汲古書院『全譯後漢書』范曄著渡邉義浩編には「青海省・貴徳の北東」とある。李賢注には「『続漢書』は建威を武威(涼州・武威郡)に作る。鸇陰は県の名であり、涼州・安定郡に属する」とある。
後漢軍の腐敗
- 順帝の永和年間(136年〜141年)に羌族が叛乱を起こしてからこの年[永憙元年(145年)]に至るまで10余年の間、討伐の費用は80余億銭にのぼりました。
諸将は度々兵士の俸禄を盗んで秘かに私腹を肥やし、みな珍宝を賄賂として贈り、上も下も勝手放題であり、軍事に心を痛めませんでした。士卒で真っ当な死を迎えられなかった者は、そのまま野に放置され、あちこちで白骨となりました。
桓帝期
羌族の嫡家:犀苦?
白馬羌の侵入
- 桓帝の建和2年(148年)、白馬羌が益州・広漢属国を荒らして長吏を殺害しました。
この時、西羌と湟中胡がまた叛乱を起こして荒らし回り、益州刺史が板楯蛮を率いて西羌と湟中胡を討伐して撃ち破り、斬首及び招いて降伏させた者は20万人にのぼりました。
護羌校尉・第五訪
- 永寿元年(155年)、護羌校尉の張貢が亡くなり、前の南陽太守・第五訪が張貢に代わって護羌校尉となると、第五訪には大きな威信と恩恵があり、西方の辺境は平穏となりました。
護羌校尉・段熲
- 延熹2年(159年)、護羌校尉の第五訪が亡くなり、中郎将の段熲が第五訪に代わって護羌校尉となると、焼当羌の8種族が隴右を荒らしたので、段熲はこれを攻撃して大いに撃ち破りました。
- 延熹4年(161年)、零吾*6がまた先零羌及び幷州(并州)・上郡の沈氐種・牢姐種の諸種族と共に力を合わせて幷州(并州)、涼州及び三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)を侵略しました。
- ちょうどこの時、護羌校尉の段熲が事件に連座して呼び戻され、済南相の胡閎が代わって護羌校尉となりました。ですが、胡閎には威厳も方略もなく、羌族は激しく暴れ回って営塢を陥落させ、侵略の憂患は益々盛んになりましたが、中郎将の皇甫規がこれを撃破しました。
相継ぐ侵入
- 延熹5年(162年)、沈氐種の諸種族が再び涼州の張掖郡と酒泉郡を荒らしましたが、皇甫規が招いてみな降伏させました。
- 鳥吾種がまた涼州の漢陽郡、隴西郡、金城郡を荒らしましたが、諸郡の兵が共にこれを撃破し、それぞれまた降伏しました。
- 冬に至ると、滇那ら5〜6千人がまた涼州・武威郡、張掖郡、酒泉郡を攻め、民の家屋を焼きました。
延熹6年(163年)、隴西太守の孫羌がこれを撃破し、斬首・溺死させた者は3千余人にのぼりました。
- 胡閎が病気になると、再び段熲が護羌校尉に任命されました。
- 永康元年(167年)、東羌の岸尾らが同種族を脅迫しながら何度も三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)に侵略しましたが、中郎将の張 奐が追撃して破り、これを斬りました。
- 当煎羌が涼州・武威郡に侵入すると、破羌将軍の段熲がまたこれを破って滅ぼし、残余はことごとく降伏・離散しました。
霊帝期
羌族の嫡家:犀苦?
北宮伯玉の反乱
- 霊帝の建寧3年(170年)、焼当種が使者を奉じて貢物を献上しました。
- 中平元年(184年)、涼州・北地郡の降羌(降伏した羌族)の先零種が「黄巾の大乱」により、湟中*1の羌族と義従胡の北宮伯玉らと共に反乱を起こし、隴右を荒らしました。
- 興平元年(194年)、司隷・左馮翊の降羌(降伏した羌族)が反乱を起こして諸県を荒らしましたが、郭汜と樊稠がこれを撃破し、数千級を斬首しました。
脚注
*1現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
*6「零吾がまた」とあるが、『後漢書』西羌伝ではこれが初出。
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