西羌せいきょうの諸種族と中国(後漢ごかん順帝じゅんてい桓帝かんてい霊帝れいてい期)の関係についてまとめています。

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西羌と中国の関係⑤後漢③

順帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ犀苦さいく

涼州の平定
  • 安帝あんてい延光えんこう3年(124年)、麻奴まどの弟・犀苦さいくが後を継いで即位しました。
  • 順帝じゅんてい永建えいけん元年(126年)、涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん鐘羌しょうきょうが反乱を起こしました。これに護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんが7千余人をひきいて臨洮県りんとうけんで戦い、千余きゅうを斬首すると、(隴西郡ろうせいぐん鐘羌しょうきょうは)みな種人しゅじんひきいて降伏しました。

この功績により馬賢ばけん都郷侯ときょうこうに封ぜられ、涼州りょうしゅうは平穏を取り戻しました。

涼州の復活
  • 永建えいけん4年(129年)、尚書僕射しょうしょぼくや虞詡ぐくが「涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん北地郡ほくちぐん幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐんの3郡」を復活させるように上疏じょうそしました。
虞詡の上疏・全文
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わたくしが聞きますには「子孫は先祖を奉ずることを『孝』とし、君上くんじょうは民をやすんずることを『明』とする」と申します。これこそ(いんの)高宗こうそうしゅう宣王せんおうが、湯王とうおう武王ぶおうの上位に配される所以ゆえんです。

尚書しょうしょ禹貢篇うこうへんでは「雍州ようしゅうの田はじょう」とされています。(雍州ようしゅうには)肥沃ひよくな大地が千里に広がり、穀物こくもつの栽培が盛んで、亀茲きゅうじの塩池があって民の利益となっています。水や草は豊かで美しく、土は牧畜にてきし、牛馬は道をふさぐほど群れています。北は山河がはばむ険阻な土地に依拠いきょしており、水路に沿って水を引けば、水舂すいしょう(水車を動力として穀物こくもつく時にもちいるうす)と水運により少ない労力で豊富な軍糧ぐんりょうを得ることができます。

そのため孝武皇帝こうぶこうてい前漢ぜんかん武帝ぶてい)と光武帝こうぶてい幷州へいしゅう并州へいしゅう)に朔方郡さくほうぐんを築き、西河郡せいかぐんを開き、上郡せいかぐんを置いたのは、すべてこのためでありました。

ところが思いがけず羌族きょうぞくが内側より反乱を起こし、郡県が兵火に見舞われて20余年となります。肥沃ひよくな大地をて、自然の財産をそこなうことは利益とは言えません。河山のり所を離れ、険阻ではない場所を守ることは難しいのです。

今、[涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん北地郡ほくちぐん幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐんの]3郡はいまだに修復できず、(長安ちょうあんにあるもろもろの)園陵えんりょうは守備がなされておりません。それなのに公卿こうけい臆病おくびょうで意志が弱く、手を出してはやり過ごし、持説じせつを主張し相手を難詰なんきつしては、ただ費用を計算するばかりでやすんずるための方策をはかろうとしません。

よろしく聖徳をおひらきになり、すぐれたお考えを実行に移してくださいませ。


  • 文書が上奏されると、順帝じゅんていは3郡を復活させました。順帝じゅんてい謁者えっしゃ郭璜かくこうつかわしておのおの元いた県に帰るよう督促とくそくさせ、城郭を修繕し、候駅こうえき(見張りの駅)を置きました。

また、急流を掘り広げて屯田とんでんを行ったところ、内地の郡では毎年1億銭以上の費用を節約することができました。こうして涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん北地郡ほくちぐん幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん及び涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん金城郡きんじょうぐんに常に穀物こくもつを備蓄し、数年であれば民に行き渡るほどとなりました。

隴西南部都尉を置く
  • 護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんは、犀苦さいくの兄弟がしばしば叛乱はんらんを起こすことから涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん令居県れいきょけん拘束こうそくして人質としていました。
  • 永建えいけん4年(129年)]冬、護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんが罪にわれて罷免ひめんされ、司隷しれい右扶風ゆうふふう出身(右扶風ゆうふふう?)の韓皓かんこうが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。
  • 翌年の永建えいけん5年(130年)、犀苦さいく韓皓かんこうの元に出頭してみずから故地(故郷)に帰りたいと申し出ましたが、韓皓かんこう犀苦さいくを解放せず、湟中こうちゅう*1屯田とんでんを(賜支河ししが逢留大河ほうりゅうたいがの)2つの河の間に移転させ、群羌ぐんきょうきょうの諸種族)たちの居住地に近づけました。
  • 韓皓かんこうはまた罪にわれて呼び戻され、張掖太守ちょうえきたいしゅ馬続ばしょくが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。
  • 2つの河(賜支河ししが逢留大河ほうりゅうたいが)の間にいた羌族きょうぞくは、屯田とんでんが自分たちの居住地に近づいてきたことで、必ずや(羌族きょうぞくを攻める)計画があるのだろうと恐れ、羌族きょうぞく間の仇敵きゅうてき関係を解消して盟約を結び、それぞれそなえを固めて警戒するようになりました。

これに馬続ばしょくは、まず恩信を示そうと「屯田とんでん湟中こうちゅう*1に戻す」ことを上奏すると、その結果、羌族きょうぞくたちは安心して落ち着きました。

  • 陽嘉ようか元年(132年)に至ると、湟中こうちゅう*1の地が広いことからさらに屯田とんでん5部を増設し、合計10部となりました。
  • 陽嘉ようか2年(133年)夏、前漢ぜんかん時代の旧制のように、隴西南部都尉ろうせいなんぶといを置きました。
脚注

*1現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

涼州が再び乱れる
鐘羌しょうきょうの侵入
  • 陽嘉ようか3年(134年)、鐘羌しょうきょう良封りょうほうたちが再び涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん漢陽郡かんようぐんに侵入すると、順帝じゅんていみことのりを下して前の護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけん謁者えっしゃとし、(羌族きょうぞくの)諸種族を鎮撫ちんぶするように命じ、護羌校尉ごきょうこうい馬続ばしょくは兵を派遣して良封りょうほうを攻撃し、数百きゅうを斬首しました。
  • 陽嘉ようか4年(135年)、馬賢ばけんもまた涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐんの吏士(属吏)ときょうの兵を発して良封りょうほうを攻撃しました。この戦いで馬賢ばけん良封りょうほうを討ち取って1,800きゅうを斬首し、馬・牛・羊5万余頭を獲得すると、良封りょうほうの親族はみな馬賢ばけんの元に出頭して降伏しました。

馬賢ばけんがさらに進んで鐘羌しょうきょう且昌しょしょうを攻撃すると、且昌しょしょうらは諸種族10余万人をひきいて涼州刺史りょうしゅうししの元に出頭し、降伏しました。

  • 永和えいわ元年(136年)、馬続ばしょく度遼将軍とりょうしょうぐんに昇進し、馬賢ばけんがまた護羌校尉ごきょうこういに任命されました。
白馬羌はくばきょうの侵入
  • これより以前、涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん塞上さいじょう(国境地帯)にいた白馬羌はくばきょう屯官とんかん屯田官とんでんかん)を攻撃して破り、連年叛乱はんらんを起こし続けていました。
  • 永和えいわ2年(137年)春、広漢属国都尉こうかんぞっこくといがこれ(白馬羌はくばきょう)を撃破し、6百余きゅうを斬首しました。護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんはまた(白馬羌はくばきょうを)攻撃して渠帥きょすい飢指累祖きしるいそら3百きゅうを斬り、こうして隴右ろうゆうはまた平定されました。
焼当種しょうとうしゅの侵入
  • 翌年の永和えいわ3年(138年)冬、焼当種しょうとうしゅ那離なりら3千余騎が涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんさい(国境)を荒らしました。護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんは兵をひきいてこれを攻撃し、4百余きゅうを斬首して馬1,400頭を獲得しましたが、那離なりらは再び西のきょうまねいて吏民を殺傷しました。
大将軍だいしょうぐん梁商りょうしょうの忠告
  • 永和えいわ4年(139年)、護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけん湟中義従こうちゅうぎじゅうの兵ときょうの1万余騎をひきいて那離なりらを急襲しました。この戦いにより馬賢ばけんは、那離なりを斬り、斬首・捕虜1,200余きゅうを獲得し、馬・騾馬らば・羊10万余頭を獲得しました。
  • その後順帝じゅんてい馬賢ばけん弘農太守こうのうたいしゅとし、来機らいき幷州刺史へいしゅうししとし、劉秉りゅうへい涼州刺史りょうしゅうししとしました。

任地におもむくにあたり、大将軍だいしょうぐん梁商りょうしょう来機らいきらに、

戎狄じゅうてき荒服こうふく蛮夷ばんい要服ようふくであり*2、彼らの行動は予測不能である。彼らの統治方法には常法がなく、状況に応じて慣習にもとづいて判断する。今、3君(馬賢ばけん来機らいき劉秉りゅうへい)は悪を憎み、白黒をはっきりさせる性分であるが、孔子こうしは『人として不仁であるからといって、これを憎み過ぎれば乱をなす』(論語ろんご泰伯篇たいはくへん)と言っている。戎狄じゅうてきであれば尚更なおさらであるっ!きょうやすんじて大きな不幸を防ぎ、小さなあやまちは我慢せよ」

と言いましたが、来機らいきらは元来、残虐・酷薄な性格であったため忠告に従うことができず、州に赴任ふにんしたその日からみだりに徴発することが多くありました。

脚注

*2京畿けいきを中心としてその周囲500里(約215km)ごとに分けた五つの地域(五服ごふく)の1つ。京畿けいきに近い順に甸服でんふく侯服こうふく綏服すいふく要服ようふく荒服こうふくという。

且凍種しょとうしゅ傅難種ふなんしゅ叛乱はんらん
  • 永和えいわ5年(140年)夏、且凍種しょとうしゅ傅難種ふなんしゅ羌族きょうぞくたちが叛乱はんらんを起こして涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんを攻め、西塞せいさい(西の国境)と湟中こうちゅう*1の雑種のきょうと共に大いに三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)を荒らして長吏ちょうりを殺害しました。これにより来機らいき劉秉りゅうへいは共に罪にわれて呼び戻されました。

順帝じゅんてい京師けいし洛陽らくよう雒陽らくよう)]近郊の諸郡と諸州の兵をもってこれを討伐すると、馬賢ばけん征西将軍せいせいしょうぐんに任命して騎都尉きとい耿叔こうしゅくを副将とし、左右の羽林うりん五校ごこうの士、及びもろもろの州郡の兵10万人をひきいて涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんに駐屯させました。

  • また司隷しれい右扶風ゆうふふう涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん隴道ろうどうの3百ヶ所に塢壁うへき堡塁ほうるい)を作り、屯兵(駐屯兵)を配置して民を保護しました。
脚注

*1現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

馬賢ばけんの死
  • 且凍種しょとうしゅ種人しゅじんを分けて涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐんを荒らさせ、隴関ろうかんを焼き、牧師苑ぼくしえんの馬を略奪させました。
  • 永和えいわ6年(141年)春、征西将軍せいせいしょうぐん馬賢ばけんは5〜6千騎をひきいてこれを攻撃して射姑山やこさんに到着したが、馬賢ばけんの軍は敗れ、馬賢ばけんと2人の子はみな戦死しました。

順帝じゅんていはこれをあわれんで布3千匹・穀物千こく下賜かしし、馬賢ばけんの孫の馬光ばこう舞陽亭侯ぶようていこうに封じ、この食邑しょくゆう田租でんそからの収入は毎年百万銭ありました。

また、侍御史じぎょしを派遣して征西将軍せいせいしょうぐんの営兵を統括とうかつし、死傷者をいたわらせました。

羌族の大連合
鞏唐種きょうとうしゅの侵入
  • ここにおいて東西の羌族きょうぞくはついに大連合しました。
  • 鞏唐種きょうとうしゅの3千余騎が涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐんを荒らし、園陵えんりょうを焼いて関中かんちゅう函谷関かんこくかんの西側の地域)で略奪を働き、長吏ちょうりを殺傷しました。司隷しれい左馮翊さひょうよく郃陽県こうようけん県令けんれい任頵じんいんがこれを追撃しましたが、戦死しました。
  • 中郎将ちゅうろうしょう龐浚ほうしゅんを派遣して勇士5百人を募集し、司隷しれい右扶風ゆうふふう美陽県びようけんに駐屯させ、涼州りょうしゅうへの援軍としました。
  • 武威太守ぶいたいしゅ趙沖ちょうちゅう鞏唐種きょうとうしゅ羌族きょうぞくを追撃して4百余きゅうを斬首し、馬・牛・羊・驢馬ろば8千余頭を獲得し、羌族きょうぞく2千余人が降伏しました。順帝じゅんてい趙沖ちょうちゅうみことのりを下して河西かせい4郡の兵を監督させました。
罕種かんしゅの侵入
  • 罕種かんしゅ羌族きょうぞく1千余人が涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんを荒らし、北地太守ほくちたいしゅ賈福かふく趙沖ちょうちゅうと共にこれを討伐しましたが、勝つことができませんでした。
  • 秋、諸種族の8〜9千騎が涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐんを荒らし、涼部りょうぶ涼州りょうしゅう)は震撼しんかんしました。こうしてまた涼州りょうしゅう安定郡あんていぐんの治所を司隷しれい右扶風ゆうふふうに移し、涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんの治所は左馮翊さひょうよくに移し、行車騎将軍こうしゃきしょうぐん執金吾しつきんご張喬ちょうきょうを派遣して左右の羽林うりん五校ごこうの士、及び司隷しれい河内郡かだいぐん荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐんの兵15,000人をひきいて三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)に駐屯させました。
  • 漢安かんあん元年(142年)、護羌校尉ごきょうこういに任命された趙沖ちょうちゅうが離反した羌族きょうぞくまねいて懐柔かいじゅうすると、罕種かんしゅ邑落ゆうらく5千余戸をひきい、趙沖ちょうちゅうの元に出頭して降伏しました。こうして罕種かんしゅが降伏すると、張喬ちょうきょうの駐屯軍は解散されました。
焼何種しょうかしゅの降伏
  • ただ焼何種しょうかしゅの3千余落だけは、涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん参䜌県さんれんけんの北の境に身を寄せました。
  • 漢安かんあん3年(144年)夏*3護羌校尉ごきょうこうい趙沖ちょうちゅう漢陽太守かんようたいしゅ張貢ちょうこうと共にこれを急襲し、1,500きゅうを斬首し、牛・羊・驢馬ろば18万頭を獲得しました。
  • 冬、趙沖ちょうちゅうは諸種族を攻撃して4千余きゅうを斬首しました。この功績により趙沖ちょうちゅうの1子にみことのりが下され、ろうに取り立てられました。
  • 趙沖ちょうちゅうはまた涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん阿陽県あようけんまで追撃して8百きゅうを斬首しました。こうして諸種族の前後3万余戸が涼州刺史りょうしゅうししの元に出頭して降伏しました。
羌族の衰耗
  • 建康けんこう元年(144年)春*3護羌従事ごきょうじゅうじ馬玄ばげんが諸きょうに誘われ、羌族きょうぞくの兵をひきいて塞外さいがい(国境外)に出ました。

領護羌校尉りょうごきょうこうい衛瑶えいよう*4馬玄ばげんらを追撃して8百余きゅうを斬首し、牛・馬・羊20余万頭を獲得しました。

  • 趙沖ちょうちゅうは再び叛羌はんきょう叛乱はんらんを起こした羌族きょうぞく)を追って建威けんい*5鸇陰河せんいんがに至りましたが、軍が河を渡り終わらないうちに、ひきいていた降胡こうこ(降伏した)6百余人が離反して逃走しました。

趙沖ちょうちゅうは数百人をひきいてこれを追いましたが、羌族きょうぞくの伏兵に遭遇そうぐうして戦死してしまいました。それでも趙沖ちょうちゅう軍は戦いを続け、その多くを斬首・捕虜にしたので、以降、羌族きょうぞく衰耗すいこうしました。

  • 沖帝ちゅうてい永憙えいき元年(145年)、趙沖ちょうちゅうの子の趙愷ちょうかい義陽亭侯ぎようていこうに封ぜられ、漢陽太守かんようたいしゅ張貢ちょうこう趙沖ちょうちゅうに代わって護羌校尉ごきょうこういに任命されました。
  • 司隷しれい左馮翊さひょうよく出身(左馮翊さひょうよく?)の梁並りょうへいが徐々に恩信をもって羌族きょうぞくまねき誘い、離湳種りだんしゅ狐奴種こどしゅらの5万余戸が、梁並りょうへいの元に出頭して降伏し、隴右ろうゆうは再び平定されました。

梁並りょうへい大将軍だいしょうぐん梁冀りょうきの一族であり、鄠侯ここうに奉ぜられ食邑しょくゆう2千戸を与えられました。

脚注

*3漢安かんあん3年(144年)夏 → 建康けんこう元年(144年)春」の順の記載は原文ママ。後漢書ごかんじょ順帝紀じゅんていぎによると、漢安かんあん3年(144年)夏4月に「建康けんこう」と改元している。

*4後漢書ごかんじょ西羌伝せいきょうでんより。後漢書ごかんじょ順帝紀じゅんていぎでは衛琚えいきょ

*5汲古書院きゅうこしょいん全譯後漢書ぜんやくごかんじょ范曄はんよう渡邉義浩わたなべよしひろ編には「青海省せいかいしょう貴徳きとくの北東」とある。李賢りけん注には「続漢書ぞくかんじょ建威けんい武威ぶい涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐん)に作る。鸇陰せんいんは県の名であり、涼州りょうしゅう安定郡あんていぐんに属する」とある。

後漢軍の腐敗
  • 順帝じゅんてい永和えいわ年間(136年〜141年)に羌族きょうぞく叛乱はんらんを起こしてからこの年[永憙えいき元年(145年)]に至るまで10余年の間、討伐の費用は80余億銭にのぼりました。

諸将はたびたび兵士の俸禄を盗んで秘かに私腹をやし、みな珍宝を賄賂わいろとして贈り、上も下も勝手放題であり、軍事に心を痛めませんでした。士卒で真っ当な死をむかえられなかった者は、そのまま野に放置され、あちこちで白骨となりました。

桓帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ犀苦さいく

白馬羌の侵入
  • 桓帝かんてい建和けんわ2年(148年)、白馬羌はくばきょう益州えきしゅう広漢属国こうかんぞっこくを荒らして長吏ちょうりを殺害しました。

この時、西羌せいきょう湟中胡こうちゅうこがまた叛乱はんらんを起こして荒らし回り、益州刺史えきしゅうしし板楯蛮ばんじゅんばんひきいて西羌せいきょう湟中胡こうちゅうこを討伐して撃ち破り、斬首及びまねいて降伏させた者は20万人にのぼりました。

護羌校尉・第五訪
  • 永寿えいじゅ元年(155年)、護羌校尉ごきょうこうい張貢ちょうこうが亡くなり、前の南陽太守なんようたいしゅ第五訪だいごほう張貢ちょうこうに代わって護羌校尉ごきょうこういとなると、第五訪だいごほうには大きな威信と恩恵があり、西方の辺境は平穏となりました。
護羌校尉・段熲
  • 延熹えんき2年(159年)、護羌校尉ごきょうこうい第五訪だいごほうが亡くなり、中郎将ちゅうろうしょう段熲だんけい第五訪だいごほうに代わって護羌校尉ごきょうこういとなると、焼当羌しょうとうきょうの8種族が隴右ろうゆうを荒らしたので、段熲だんけいはこれを攻撃して大いに撃ち破りました。
  • 延熹えんき4年(161年)、零吾れいご*6がまた先零羌せんれいきょう及び幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん沈氐種ちんていしゅ牢姐種ろうしゃしゅの諸種族と共に力を合わせて幷州へいしゅう并州へいしゅう)、涼州りょうしゅう及び三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)を侵略しました。
  • ちょうどこの時、護羌校尉ごきょうこうい段熲だんけいが事件に連座して呼び戻され、済南相せいなんしょう胡閎ここうが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。ですが、胡閎ここうには威厳も方略もなく、羌族きょうぞくは激しく暴れ回って営塢とりで陥落かんらくさせ、侵略の憂患ゆうかんますます盛んになりましたが、中郎将ちゅうろうしょう皇甫規こうほきがこれを撃破しました。
相継ぐ侵入
  • 延熹えんき5年(162年)、沈氐種ちんていしゅの諸種族が再び涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐんを荒らしましたが、皇甫規こうほきまねいてみな降伏させました。
  • 鳥吾種ちょうごしゅがまた涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん隴西郡ろうせいぐん金城郡きんじょうぐんを荒らしましたが、諸郡の兵が共にこれを撃破し、それぞれまた降伏しました。
  • 冬に至ると、滇那てんなら5〜6千人がまた涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐん張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐんを攻め、民の家屋を焼きました。

延熹えんき6年(163年)、隴西太守ろうせいたいしゅ孫羌そんきょうがこれを撃破し、斬首・溺死できしさせた者は3千余人にのぼりました。

  • 胡閎ここうが病気になると、再び段熲だんけい護羌校尉ごきょうこういに任命されました。
  • 永康えいこう元年(167年)、東羌とうきょう岸尾がんびらが同種族を脅迫しながら何度も三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)に侵略しましたが、中郎将ちゅうろうしょう張 奐ちょうかんが追撃して破り、これを斬りました。
  • 当煎羌とうせんきょう涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐんに侵入すると、破羌将軍はきょうしょうぐん段熲だんけいがまたこれを破って滅ぼし、残余はことごとく降伏・離散しました。

霊帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ犀苦さいく

北宮伯玉の反乱
  • 霊帝れいてい建寧けんねい3年(170年)、焼当種しょうとうしゅが使者を奉じて貢物を献上しました。
  • 中平ちゅうへい元年(184年)、涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん降羌こうきょう(降伏した羌族きょうぞく)の先零種せんれいしゅが「黄巾こうきんの大乱」により、湟中こうちゅう*1羌族きょうぞく義従胡ぎじゅうこ北宮伯玉ほくきゅうはくぎょくらと共に反乱を起こし、隴右ろうゆうを荒らしました。
  • 興平こうへい元年(194年)、司隷しれい左馮翊さひょうよく降羌こうきょう(降伏した羌族きょうぞく)が反乱を起こして諸県を荒らしましたが、郭汜かくし樊稠はんちゅうがこれを撃破し、数千きゅうを斬首しました。
脚注

*1現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

*6零吾れいごがまた」とあるが、後漢書ごかんじょ西羌伝せいきょうでんではこれが初出。


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【後漢・三国時代の異民族】目次