西羌の諸種族と中国(後漢:安帝期)の関係についてまとめています。
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西羌と中国の関係④後漢②
安帝期
羌族の嫡家:麻奴
後漢への不満
- 永初年間(107年〜113年)に至り、曹鳳の上言の効果が現れようとしていましたが、諸羌が反乱を起こしたので屯田は廃止されました。
- この頃、迷唐は勢力を失い、病気になって亡くなりました。迷唐には1子がおり、漢に降伏して来ましたが、戸数は数十に満たないものでした。
- 東号(東號)の子・麻奴が後を継いで即位しました。
当初、麻奴は父の東号(東號)に随伴して(後漢に)降伏し、涼州・安定郡に居住していましたが、当時、それぞれの降羌(降伏した羌族)は分散して郡県に住み、みな属吏や豪族に使役され、憂いと怨みを募らせていました。
後漢の塞外に出る
- 後漢・安帝の永初元年(107年)夏、騎都尉の王弘を派遣して涼州の金城郡、隴西郡、漢陽郡の羌族を徴発して西域を征伐しようとしましたが、この時王弘は強く督促して出発したので、多くの羌族は遠方に駐屯して帰還できなくなることを惧れ、涼州・酒泉郡に到着すると、離散する者が多く出ました。
これに諸郡はそれぞれ兵を出して(逃げ道を)遮断し、(見せしめに)その部落を破壊したので、勒姐種・当煎種の大豪・東岸らはいよいよ驚き、時を同じくして潰走します。この時、麻奴の兄弟は種人と共に西方の塞外(後漢の国境外)に出ました。
先零羌の别種・滇零
- 先零羌の别種である滇零が、鐘羌の諸種族と共に大いに後漢に侵略し、隴道を断絶させました。
当時、羌族は後漢に帰属してからすでに長い時を経ていたため、すでに武器や甲冑がなく、ある者は竹竿や木の枝を持って戈や矛の代わりとし、ある者は板を背負って楯とし、ある者は銅鏡を手に持って象に乗っていましたが*1、郡県は恐れおののいてこれを制圧することができませんでした。
冬、(朝廷は)車騎将軍・鄧騭を派遣し、征西校尉の任尚を副将として、
-
- 五営(北軍中候)
- 三河(司隷・河南尹、河内郡、河東郡)
- 三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)
- 豫州(予州)・汝南郡、潁川郡
- 荊州・南陽郡
- 幷州(并州)・太原郡、上党郡
の合わせて5万人の兵を率いて涼州・漢陽郡に駐屯させようとしました。
翌年の永初2年(108年)春、諸郡の兵がまだ到着しないうちに、鐘羌の数千人が先制して攻撃をしかけ、鄧騭の軍を涼州・漢陽郡・冀県の西で破り、千余人を殺害しました。これにより護羌校尉の侯覇は多くの羌族が反乱を起こしたことに連座して罷免され、西域都護の段禧が代わって護羌校尉に任命されました。
冬、鄧騭は任尚と従事中郎の司馬鈞に命じ、諸郡の兵を率いて滇零らの兵・数万人と涼州・漢陽郡・平襄県で戦わせたが、任尚軍は大敗し、死者は8千余人にのぼりました。
こうして滇零らは涼州・北地郡で天子を自称し、涼州・武都郡の参狼羌と幷州(并州)・上郡、西河郡の諸雑種を招集し、その勢力は大いに盛んとなって東は趙・魏を侵犯し、南は益州に侵入して漢中太守の董炳を殺害し、また三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)を荒らして略奪し、隴道を断絶させました。
これにより湟中*2の諸県の粟は価格が高騰して1石あたり1万銭となり、死亡した民は数えきれませんでしたが、朝廷はこれを制圧することができず、物資の輸送は困難を極めました。そこで朝廷は鄧騭に詔を下して軍を帰還させ、任尚を涼州・漢陽郡に留めて諸軍を統括させました。
朝廷は鄧騭が鄧太后の縁故であることから彼を出迎えて大将軍に任命し、任尚を楽亭侯に封じて食邑を3百戸を与えました。
脚注
*1原文:或執銅鏡以象兵。
*2現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
司隷・河内郡に迫る
- 後漢・安帝の永初3年(109年)春、騎都尉の任仁を派遣して諸郡の駐屯兵を監督させ、三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)を救援させました。任仁は(羌族と)戦いを重ねましたが勝つことができず、多くの羌族は勝ちに乗じて反撃し、漢兵はしばしば打ち負かしました。
当煎種と勒姐種は涼州・金城郡・破羌県を攻め落とし、鐘羌もまた涼州・隴西郡・臨洮県を陥落させ、隴西南部都尉を生け捕りにしました。
- 翌年の永初4年(110年)春、滇零は人を派遣して益州・漢中郡・褒中県を侵入し、郵亭を焼き払って大いに民を略奪しました。このため漢中太守の鄭勤は移動して褒中県に駐屯しました。
- 朝廷は長らく出陣しているのに功績がなく、農業や養蚕を廃業する者もいたため、任尚に詔を下して属吏と兵士を率いて帰還して長安に駐屯し、荊州・南陽郡、豫州(予州)・潁川郡、汝南郡の属吏と兵士を解散させ、(前漢時代に置かれていた)西京三輔都尉の故事に倣って長安に京兆虎牙都尉を、司隷・右扶風・雍県に扶風都尉を置きました。
- 羌族がまた益州・漢中郡・褒中県に攻めてきたので、漢中太守の鄭勤がこれを迎撃しようとすると、主簿の段崇が諫めて「羌どもは勝ちに乗じており、当たるべからざる勢いを持っておりますので、ここは待ち構えて(城を)堅守してください」と言いました。ですが鄭勤はこれに従わず、戦いを挑んで大敗し、3千余人の死者を出してしまいます。この戦いの中で段崇と門下史の王宗、原展は身を投げ出して敵の攻撃を防ぎましたが、鄭勤と共に戦死してしまいました。これを受け、朝廷は涼州・金城郡の治所を襄武県に移しました。
- その後も騎都尉の任仁は戦うごとに敗北を重ね、しかも兵士たちは好き勝手に振る舞ったので、檻車で廷尉の元に送られ、詔獄で死にました。
護羌校尉の段禧が病気で亡くなると、再び前の護羌校尉であった侯覇がこれに代わり、護羌校尉の治所を涼州・張掖郡に移しました。
- 永初5年(111年)春、長安に駐屯する征西校尉の任尚は功績がないことから罪に問われ、召還されて罷免されました。
- その後、羌族は司隷・河東郡を荒らして[首都・洛陽(雒陽)のある]河内郡まで至ったので、民たちは驚いて、その多くが黄河を渡って逃亡しました。この事態に朝廷は、北軍中候の朱寵(硃寵)に五営の兵士を率いて孟津に駐屯させ、冀州の魏郡、趙国、常山国、中山国に詔を下して、616箇所の塢候(堡塁)を修繕させました。
司隷の荒廃
- その後も羌族は益々盛んとなりましたが、漢の二千石(太守)・県令・県長たちの多くは内地の出身者であり、彼らには(辺境を)守る戦意がなく、みな争って「郡県(郡の治所)を移動させて侵略の難を避ける」ように上奏しました。
朝廷はこれに従って、涼州・隴西郡の治所を襄武県に移し、安定郡の治所を司隷・右扶風の美陽県に移し、北地郡の治所を司隷・左馮翊の池陽県に移し、幷州(并州)・上郡の治所を司隷・左馮翊の衙県に移しました。
ですが、領民たちは故郷を恋しく思って土地を離れようとしなかったので、朝廷はその土地の稲を刈り、室屋を撤去し、塁壁を破壊して平らにし、蓄えられていた物資を破壊しました。
- ちょうどこの時、旱魃や蝗害が頻繁に発生して飢饉となったので、領民たちは追い詰められて強奪され、流浪・離散しました。ある者は老人や子供を棄て、ある者は人の下僕や妾となり、道端にはたくさんの死体が放置されて、その人口の大半が失われました。
- その後、朝廷は再び任尚を侍御史に任命し、幷州(并州)・上党郡の羊頭山で多くの羌族を攻撃して撃ち破り、誘い出した投降者2百余人を殺害して、駐屯していた孟津から兵を退きました。
杜琦・杜季貢・王信の反乱
- その秋、涼州・漢陽郡出身の杜琦とその弟の杜季貢、同郡出身の王信らは羌族と謀を通じ、兵を集めて上邽城(涼州・漢陽郡・上邽県)に入ると、杜琦は安漢将軍を自称しました。
すると朝廷は詔を下して彼らに懸賞金をかけ、「杜琦の首を得た者(漢人)は列侯に封じて銭百万を下賜し、杜琦を斬った羌胡には金百斤と銀2百斤を下賜する」こととし、漢陽太守の趙博が刺客の杜習を派遣して杜琦を刺殺させると、朝廷は約束通り杜習を討奸侯に封じ、銭百万を下賜しました。
- 残された杜季貢と王信らがその衆を率いて樗泉営に身を寄せると、侍御史の唐喜は諸郡の兵を統率してこれを撃ち破り、王信ら6百余級を斬ってその妻子5百余人を没収し、金銀や彩帛、合わせて1億銭以上相当を没収しました。杜季貢は逃亡して滇零に従属しました。
- 永初6年(112年)、任尚は再び罪に問われ、呼び戻されて罷免されました。
滇零の死
- 永初6年(112年)、滇零が亡くなり、子の零昌が代わって即位しましたが、まだ幼かったので同種(先零羌の别種)の狼莫が計略を立て、杜季貢を将軍として別に奚城*3に居住させました。
- 永初7年(113年)夏、騎都尉の馬賢が護羌校尉の侯覇と共に涼州・安定郡で「零昌の别部の牢羌」を強襲し、斬首・捕虜千人、驢馬・騾馬・駱駝・馬・牛・羊、合わせて2万余頭を獲得し、それらを獲得した者に分け与えました。
脚注
*3原文:别居於奚城。汲古書院『全譯後漢書』范曄著渡邉義浩編には「丁奚城(寧夏回族自治区霊武の東南)」とある。後漢の領域外?
零昌が板楯蛮に敗れる
- 後漢・安帝の元初元年(114年)春、朝廷は兵を派遣して司隷・河内郡に駐屯させ、深い谷を通る街道の要害・33ヶ所すべてに塢壁(堡塁)を作り、鳴鼓(陣太鼓)を設置しました。
これに零昌は兵を派遣して司隷・河内郡・山陽邑の雍城を攻撃させ、また号多は当煎種と勒姐種の大豪と共に諸種族を脅迫し、兵を分けて涼州・武都郡と益州・漢中郡を荒らして略奪しました。
すると巴郡の板楯蛮は兵を率いて武都郡と漢中郡を救い、漢中郡の五官掾・程信は、壮士を率いて蛮(板楯蛮)と共に号多の軍を擊破しました。号多は兵を退いてまた隴道を断絶し、零昌と謀を通じました。
- 侯覇と馬賢は湟中*2の役人と降伏した羌胡を率いて涼州・隴西郡・枹罕県で号多を擊ち、2百余級を斬首しました。
- また、涼州刺史の皮楊は羌族を涼州・隴西郡・狄道県に攻撃しましたが、8百余人の死者を出して大敗し、罪に問われて罷免されました。
脚注
*2現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
号多が漢に帰属する
- 侯覇が病気で亡くなると、漢中太守の龐参が代わって護羌校尉となり、龐参は恩信によって羌族を招き誘いました。
- 元初2年(115年)春、号多らは7千余人の衆を率いて龐参の元に出頭して降伏しました。朝廷は彼らを闕(宮城)に参内させ、号多に侯の印綬を下賜しました。
- 龐参は帰還して涼州・金城郡・令居県に居住し、河西(涼州・武威郡、金城郡・酒泉郡・敦煌郡・張掖郡)の道を開通しました。
零昌が益州を荒らす
- 零昌の種族が再び分かれて益州を荒らすと、朝廷は中郎将の尹就を派遣して荊州・南陽郡の兵を率いさせ、また益州の諸郡の駐屯兵を進発して零昌配下の呂叔都らを攻撃しました。秋、蜀人の陳省と羅横が募集に応じて呂叔都らを刺殺し、2人とも侯に封じて銭を下賜しました。
- また、屯騎校尉の班雄を三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)に駐屯させ、左馮翊出身の司馬鈞を征西将軍とし、右扶風出身の仲光、安定太守の杜恢、北地太守の盛包、京兆虎牙都尉の耿溥、右扶風都尉の皇甫旗ら合わせて8千余人を監督させ、また龐参は羌胡兵7千余人を率いて、司馬鈞と道を別にして共に北の零昌を攻撃しました。
龐参の兵は涼州・漢陽郡・勇士県の東で(零昌の将軍・)杜季貢に敗れて退却しましたが、司馬鈞らは単独で進んで丁奚城*3を攻め落とし、大いに戦利品を獲得しました。この時、杜季貢は偽って逃走します。
司馬鈞は仲光・杜恢・盛包らに羌族の穀物を収奪させようとしましたが、仲光らは司馬鈞の命令に背いて兵を分散して深く入り込んだため、羌族の伏兵が仲光らを迎撃しました。
この時司馬鈞は丁奚城*3の中にいましたが、命令違反に怒ってこれを救出しなかったので、仲光らはみな討ち死にし、死者は3千余人にのぼりました。司馬鈞は逃れて帰還しましたが、罪に問われて自害しました。
- 龐参は機会を逃して敗北したことを罪に問われ、龐参に代わって馬賢が護羌校尉の任を兼任することになりました。
脚注
*3汲古書院『全譯後漢書』范曄著渡邉義浩編には「丁奚城(寧夏回族自治区霊武の東南)」とある。後漢の領域外?
中郎将の任尚が杜季貢を破る
- 後に任尚を派遣して中郎将とし、羽林・緹騎・五営の子弟3,500人を率いさせ、班雄に代わって三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)に駐屯させました。
任尚が出陣するにあたって、懐県令(司隷・河内郡・懐県の県令)の虞詡が任尚に説いて「使君(任尚)は頻繁に国命を奉じて賊を討伐しております。3州の駐屯兵は20余万人は、農桑(農耕と養蚕)を棄て兵役に疲れ苦しんでおりますが、未だに功績がなく出費ばかりがかさんでおります。今回出兵して勝てなかった時のことを、使君(任尚)のために危惧しております」と言うと、任尚は「長いこと憂え恐れるばかりでどうすれば良いか分からないのだ」と言いました。
すると虞詡は「兵法に『弱きは強きを攻めず、走る者は飛ぶ者を追わず、これ自然の勢なり』とあります。今、虜(羌族)はみな騎馬で日に数百里を進み、風雨の如くやって来ては、放たれた矢の如く去って行きます。これを歩兵で追っても追いつくことはできません。これが虚しいばかりで功績がない理由です。使君(任尚)のために計りますに、諸郡の兵を解散して各々数千銭を供出させ、20人ごとに1頭の馬を買わせるべきです。その上で甲胄を捨て、1万騎の軽兵を馳せて数千の虜(羌族)を追うならば、大功を立てることができるでしょう」と言いました。
任尚は大いに喜んですぐさま上言し、軽騎をもって丁奚城*3の杜季貢を攻撃して4百余級を斬首し、牛・馬・羊、数千頭を獲得しました。
脚注
*3汲古書院『全譯後漢書』范曄著渡邉義浩編には「丁奚城(寧夏回族自治区霊武の東南)」とある。後漢の領域外?
度遼将軍の鄧遵が零昌を破る
- 翌年の元初3年(116年)夏、度遼将軍の鄧遵は、南単于と左鹿蠡王の須沈の1万騎を率いて零昌を涼州・北地郡・霊州県で攻撃し、8百余級を斬首しました。この功績により朝廷は須沈を破虜侯に封じて金印紫綬とし、その他功績に応じて金・帛を下賜しました。
- 任尚は兵を派遣して先零羌を丁奚城*3で撃破しました。
- 秋、司隷・左馮翊の北の境界5百ヶ所に候塢(堡塁)を築きました。
- 任尚はまた仮司馬を派遣して「敵陣を陥落させる士」を募集させ、零昌を涼州・北地郡に攻撃してその妻子を殺害し、牛・馬・羊、2万頭を獲得し、その部落を焼いて7百余級を斬首し、零昌が帝号を僭称した文書と亡くなった諸将の印綬を獲得しました。
脚注
*3汲古書院『全譯後漢書』范曄著渡邉義浩編には「丁奚城(寧夏回族自治区霊武の東南)」とある。後漢の領域外?
杜季貢と零昌の死
- 元初4年(117年)春、任尚は当闐種の羌族・榆鬼ら5人を派遣して杜季貢を刺殺させ、榆鬼を破羌侯に封じました。
- その夏、中郎将の尹就は益州を平定できなかったために罪に問われて罷免され、益州刺史の張喬が尹就の軍屯を領するようになりました。張喬が反乱した羌族を招き誘うと、羌族は次第に降伏・離散しました。
- 秋、任尚は再び效功種の号封を招いて零昌を刺殺させ、号封を羌王に封じました。
- 冬、任尚は諸郡の兵を率いて護羌校尉の馬賢と共に涼州・北地郡に進んで(先零羌の别種の)狼莫を攻撃しました。馬賢は(任尚に)先んじて涼州・安定郡の青石岸に到着しましたが、狼莫に迎撃されて敗走しました。
そこへちょうど任尚の兵が涼州・安定郡・高平県に到着したため、任尚と馬賢が合流して進軍すると、狼莫らは兵を退いて陣営を移すことを余儀なくされました。
(両軍が)涼州・北地郡で対峙して60余日が経った後、(任尚と馬賢は)富平県の上河で(狼莫らと)戦い、これを大いに撃ち破って5千級を斬首しました。さらに略奪されていた男女千余人を奪い返し、牛・馬・驢馬・羊・駱駝、合わせて10余万頭を獲得しました。
狼莫は逃走し、幷州(并州)・西河郡の虔人種(の羌族)11,000口が度遼将軍・鄧遵の元に出頭して降伏しました。
羌族の弱体化
漢が三輔を回復する
- 元初5年(118年)、度遼将軍の鄧遵は幷州(并州)・上郡の全無種の羌族・雕何らに呼びかけて狼莫を刺殺させました。この功績に対し朝廷は、雕何に羌侯の爵位を下賜し、鄧遵を武陽侯に封じて食邑3千戸を与えました。鄧遵は鄧太后の従弟であることから、その爵位と食邑はとても大きかったのです。
任尚は鄧遵と功績を争い、また偽って(討ち取った)首級を水増しし、賄賂を受け取って法を曲げ、1千万銭以上を収賄したため、檻車で呼び戻されて棄市(晒し首)され、田園・奴婢・財物を没収されました。
- 零昌と狼莫の死後、諸々の羌族は自ら瓦解し、三輔(司隷・京兆尹、左馮翊、右扶風)と益州はまた羌族の侵入に警戒する必要がなくなりました。
- 羌族が叛乱を起こしてから10余年の間、兵役が続いて休息する暇もなく、軍は疲弊していました。軍旅の費用・物資の運搬には240余億銭を用い、国庫は枯渇してしまいました。
羌族の侵入は内郡にまで及び、辺境の民の死者は数えきれず、幷州(并州)、涼州の2州は消耗し尽くしました。
隴西種の号良を討つ
- 元初6年(119年)春、勒姐種は隴西種の羌族の号良らと共に謀を通じて反乱を起こそうとし、護羌校尉の馬賢はこれを涼州・隴西郡・安故県で迎え撃ち、号良と種人数百級を斬り、みな降伏・離散しました。
沈氐種を討つ
- 永寧元年(120年)春、幷州(并州)・上郡の沈氐種の羌族5千余人がまた涼州・張掖郡に侵入し、その夏、護羌校尉の馬賢が1万人を率いてこれを攻撃しました。
緒戦は敗れて数百人の死者を出したものの、翌日に再び戦ってこれを破り、1,800級を斬首して千余人の生口(奴隷)を獲得し、手に入れた馬・牛・羊の数は1万頭を超え、残りの虜(羌族)はことごとく降伏しました。
この時、当煎種の大豪・飢五らは馬賢の兵が涼州・張掖郡に駐屯していることから、その虚に乗じて涼州・金城郡に侵攻しました。馬賢は軍を還してこれを追って塞(国境)を出ると、数千級を斬首して帰還しました。
また、焼当種と焼何種は馬賢の軍が帰還したと聞くと、3千余人を率いて再び涼州・張掖郡に侵入し、長吏を殺害しました。
当煎種の大豪・盧怱を討つ
- 以前、飢五と同種(当煎種)の大豪・盧怱、忍良らの千余戸が別れて涼州・金城郡・允街県に留まり、どっちつかずの曖昧な態度を取っていました。
- 建光元年(121年)春、護羌校尉の馬賢は兵を率いて盧怱を召し出してこれを斬り、兵を放って盧怱の種人を攻撃し、斬首・捕虜にした者は2千余人、馬・牛・羊10万頭を奪い、忍良らはみな逃亡して塞(国境)を出ました。
この功績により朝廷は、璽書により馬賢を安亭侯に封じ、食邑千戸を与えられました。
麻奴と忍良が金城郡に侵入する
- 忍良らは麻奴の兄弟が元は焼当種の嫡家であるのに、馬賢が恩恵をもって扱わないことから、常に心に怨みを懐いていました。
- 秋、ついに(麻奴と忍良は)互いに結び、共に脅迫して諸種の歩騎3千人を率いて湟中*2を荒し、涼州・金城郡の諸県を攻めました。
馬賢は先零種を率いてこれを攻撃し、(金城郡の境界にある)牧苑で戦いましたが、兵は敗れ、死者は4百余人にのぼりました。
- 麻奴らはまた涼州・武都郡と張掖郡の兵を涼州・金城郡・令居県で破ると、また脅迫して先零種と沈氐種の諸種4千余戸を率い、山伝いに西に走って涼州・武威郡を荒らしました。
馬賢はこれを追って涼州・武威郡・鸞鳥県に至るとこれを招き寄せ、数千人の諸種を降伏させ、麻奴は南の湟中*2に帰還しました。
脚注
*2現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
麻奴が降伏する
- 延光元年(122年)春、馬賢が追撃して湟中*2に至ると、麻奴は塞(国境)を出て黄河を渡りました。馬賢はまた追撃してこれを破り、羌族の諸種族たちは散り散りになって逃走し、涼州刺史・宗漢の元に出頭して降伏しました。
- 麻奴らは孤立して弱く飢えて困窮し、その年の冬、羌族の諸種族3千余戸を引き連れて漢陽太守・耿种の元に出頭して降伏しました。
- 安帝は(麻奴に)金印紫綬を与え、(その他の者には)それぞれ差をつけて金銀・彩繒を下賜しました。
- この年、虔人種(の羌族)が、幷州(并州)・上郡の胡と共に反乱を起こして穀羅城*3を攻めると、度遼将軍の耿夔は諸郡の兵と烏桓(烏丸)の騎兵を率いてこれを撃破しました。
- 延光3年(124年)秋、涼州・隴西郡の治所を狄道県に戻しました。
- 麻奴の弟・犀苦が後を継いで即位しました。
脚注
*2現在の青海湖の東、青海省・西寧市。涼州・金城郡の西。
*3汲古書院『全譯後漢書』范曄著渡邉義浩編に「内蒙古自治区准格爾旗の北西」とある。
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いつも楽しく拝見させていただいております
もし可能でしたら後漢から三国志の時代の西羌の暮らしの特徴
服の色や形、食べ物、宗教、家の大きさ、1家族構成など、教えてください
コメントありがとうございます。
『後漢書』西羌伝で分かる範囲でしたら、こちらの記事の「統治・風土・風俗」のところにまとめています。
【後漢・三国時代の異民族⑱】西羌①西羌【概要・目次】
返信ありがとうございました。
拝読させていただきました。
やはり生活様式まで難しそうですね。
他の遊牧民の衣服は羊の皮を加工した場合があるそうで、羌族もまた羊の毛皮を糸に紡いでいたのか、青海ルートの交易で羊や布の衣服を手に入れていたのか、または馬と交換した絹を着ていたのか、帽子の形や材質などなど
食べ物でも今のモンゴルと同じく羊を塩茹でにしていたのか、それとも焼いていたのか、興味が尽きません