西羌せいきょうの諸種族と中国(後漢ごかん安帝あんてい期)の関係についてまとめています。

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西羌と中国の関係④後漢②

安帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ麻奴まど

後漢への不満
  • 永初えいしょ年間(107年〜113年)に至り、曹鳳そうほうの上言の効果が現れようとしていましたが、諸きょうが反乱を起こしたので屯田とんでんは廃止されました。
  • この頃、迷唐めいとうは勢力を失い、病気になって亡くなりました。迷唐めいとうには1子がおり、かんに降伏して来ましたが、戸数は数十に満たないものでした。
  • 東号とうごう東號とうごう)の子・麻奴まどが後を継いで即位しました。

当初、麻奴まどは父の東号とうごう東號とうごう)に随伴ずいはんして(後漢ごかんに)降伏し、涼州りょうしゅう安定郡あんていぐんに居住していましたが、当時、それぞれの降羌こうきょう(降伏した羌族きょうぞく)は分散して郡県に住み、みな属吏や豪族に使役され、うれいとうらみをつのらせていました。

後漢の塞外に出る
  • 後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ元年(107年)夏、騎都尉きとい王弘おうこうを派遣して涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん隴西郡ろうせいぐん漢陽郡かんようぐん羌族きょうぞく徴発ちょうはつして西域せいいきを征伐しようとしましたが、この時王弘おうこうは強く督促とくそくして出発したので、多くの羌族きょうぞくは遠方に駐屯して帰還できなくなることをおそれ、涼州りょうしゅう酒泉郡しゅせんぐんに到着すると、離散する者が多く出ました。

これに諸郡はそれぞれ兵を出して(逃げ道を)遮断しゃだんし、(見せしめに)その部落を破壊したので、勒姐種ろくしゃしゅ当煎種とうせんしゅ大豪たいごう東岸とうがんらはいよいよ驚き、時を同じくして潰走かいそうします。この時、麻奴まどの兄弟は種人しゅじんと共に西方の塞外さいがい後漢ごかんの国境外)に出ました。

先零羌の别種・滇零
  • 先零羌せんれいきょうの别種である滇零てんれいが、鐘羌しょうきょうの諸種族と共に大いに後漢ごかんに侵略し、隴道ろうどうを断絶させました。

当時、羌族きょうぞく後漢ごかんに帰属してからすでに長い時をていたため、すでに武器や甲冑かっちゅうがなく、ある者は竹竿たけざおや木の枝を持ってほこの代わりとし、ある者は板を背負ってたてとし、ある者は銅鏡どうきょうを手に持って象に乗っていましたが*1、郡県は恐れおののいてこれを制圧することができませんでした。

冬、(朝廷は)車騎将軍しゃきしょうぐん鄧騭とうしつを派遣し、征西校尉せいせいこうい任尚じんしょうを副将として、

    • 五営ごえい北軍中候ほくぐんちゅうこう
    • 三河さんが司隷しれい河南尹かなんいん河内郡かだいぐん河東郡かとうぐん
    • 三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう
    • 豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん潁川郡えいせんぐん
    • 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん
    • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原郡たいげんぐん上党郡じょうとうぐん

の合わせて5万人の兵をひきいて涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんに駐屯させようとしました。

翌年の永初えいしょ2年(108年)春、諸郡の兵がまだ到着しないうちに、鐘羌しょうきょうの数千人が先制して攻撃をしかけ、鄧騭とうしつの軍を涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん冀県きけんの西で破り、千余人を殺害しました。これにより護羌校尉ごきょうこうい侯覇こうはは多くの羌族きょうぞくが反乱を起こしたことに連座れんざして罷免ひめんされ、西域都護せいいきとご段禧だんきが代わって護羌校尉ごきょうこういに任命されました。

冬、鄧騭とうしつ任尚じんしょう従事中郎じゅうじちゅうろう司馬鈞しばきんに命じ、諸郡の兵をひきいて滇零てんれいらの兵・数万人と涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん平襄県へいじょうけんで戦わせたが、任尚じんしょう軍は大敗し、死者は8千余人にのぼりました。

こうして滇零てんれいらは涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん天子てんしを自称し、涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん参狼羌さんろうきょう幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん西河郡せいかぐんの諸雑種を招集しょうしゅうし、その勢力は大いに盛んとなって東はちょうを侵犯し、南は益州えきしゅうに侵入して漢中太守かんちゅうたいしゅ董炳とうへいを殺害し、また三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)を荒らして略奪し、隴道ろうどうを断絶させました。

これにより湟中こうちゅう*2の諸県のあわは価格が高騰こうとうして1石あたり1万銭となり、死亡した民は数えきれませんでしたが、朝廷はこれを制圧することができず、物資の輸送は困難を極めました。そこで朝廷は鄧騭とうしつみことのりを下して軍を帰還させ、任尚じんしょう涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐんとどめて諸軍を統括させました。

朝廷は鄧騭とうしつ鄧太后とうたいこうの縁故であることから彼を出迎えて大将軍だいしょうぐんに任命し、任尚じんしょう楽亭侯らくていこうに封じて食邑しょくゆうを3百戸を与えました。

脚注

*1原文:或執銅鏡以象兵。

*2現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

司隷・河内郡に迫る
  • 後漢ごかん安帝あんてい永初えいしょ3年(109年)春、騎都尉きとい任仁じんじんを派遣して諸郡の駐屯兵を監督させ、三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)を救援させました。任仁じんじんは(羌族きょうぞくと)戦いを重ねましたが勝つことができず、多くの羌族きょうぞくは勝ちに乗じて反撃し、かん兵はしばしば打ち負かしました。

当煎種とうせんしゅ勒姐種ろくしゃしゅ涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん破羌県はきょうけんを攻め落とし、鐘羌しょうきょうもまた涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん臨洮県りんとうけんを陥落させ、隴西南部都尉ろうせいなんぶといを生けりにしました。

  • 翌年の永初えいしょ4年(110年)春、滇零てんれいは人を派遣して益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐん褒中県ほうちゅうけんを侵入し、郵亭ゆうていを焼き払って大いに民を略奪しました。このため漢中太守かんちゅうたいしゅ鄭勤ていきんは移動して褒中県ほうちゅうけんに駐屯しました。
  • 朝廷は長らく出陣しているのに功績がなく、農業や養蚕ようさんを廃業する者もいたため、任尚じんしょうみことのりを下して属吏と兵士をひきいて帰還して長安ちょうあんに駐屯し、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん汝南郡じょなんぐんの属吏と兵士を解散させ、(前漢ぜんかん時代に置かれていた)西京三輔都尉せいけいさんぽといの故事にならって長安ちょうあん京兆虎牙都尉けいちょうこがといを、司隷しれい右扶風ゆうふふう雍県ようけん扶風都尉ふふうといを置きました。
  • 羌族きょうぞくがまた益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐん褒中県ほうちゅうけんに攻めてきたので、漢中太守かんちゅうたいしゅ鄭勤ていきんがこれを迎撃しようとすると、主簿しゅぼ段崇だんすういさめて「きょうどもは勝ちに乗じており、当たるべからざる勢いを持っておりますので、ここは待ち構えて(城を)堅守してください」と言いました。ですが鄭勤ていきんはこれに従わず、戦いをいどんで大敗し、3千余人の死者を出してしまいます。この戦いの中で段崇だんすう門下史もんかし王宗おうそう原展げんてんは身を投げ出して敵の攻撃を防ぎましたが、鄭勤ていきんと共に戦死してしまいました。これを受け、朝廷は涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの治所を襄武県じょうぶけんに移しました。
  • その後も騎都尉きとい任仁じんじんは戦うごとに敗北を重ね、しかも兵士たちは好き勝手に振る舞ったので、檻車かんしゃ廷尉ていいの元に送られ、詔獄しょうごくで死にました。

護羌校尉ごきょうこうい段禧だんきが病気で亡くなると、再び前の護羌校尉ごきょうこういであった侯覇こうはがこれに代わり、護羌校尉ごきょうこういの治所を涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐんに移しました。

  • 永初えいしょ5年(111年)春、長安ちょうあんに駐屯する征西校尉せいせいこうい任尚じんしょうは功績がないことから罪にわれ、召還されて罷免ひめんされました。
  • その後、羌族きょうぞく司隷しれい河東郡かとうぐんを荒らして[首都・洛陽らくよう雒陽らくよう)のある]河内郡かだいぐんまで至ったので、民たちは驚いて、その多くが黄河こうがを渡って逃亡しました。この事態に朝廷は、北軍中候ほくぐんちゅうこう朱寵しゅちょう硃寵しゅちょう)に五営ごえいの兵士をひきいて孟津もうしんに駐屯させ、冀州きしゅう魏郡ぎぐん趙国ちょうこく常山国じょうざんこく中山国ちゅうざんこくみことのりを下して、616箇所の塢候うこう堡塁ほうるい)を修繕しゅうぜんさせました。
司隷の荒廃
  • その後も羌族きょうぞくますます盛んとなりましたが、かん二千石にせんせき太守たいしゅ)・県令けんれい県長けんちょうたちの多くは内地の出身者であり、彼らには(辺境を)守る戦意がなく、みな争って「郡県(郡の治所)を移動させて侵略の難を避ける」ように上奏しました。

朝廷はこれに従って、涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐんの治所を襄武県じょうぶけんに移し、安定郡あんていぐんの治所を司隷しれい右扶風ゆうふふう美陽県びようけんに移し、北地郡ほくちぐんの治所を司隷しれい左馮翊さひょうよく池陽県ちようけんに移し、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐんの治所を司隷しれい左馮翊さひょうよく衙県がけんに移しました。

ですが、領民たちは故郷を恋しく思って土地を離れようとしなかったので、朝廷はその土地の稲をり、室屋を撤去し、塁壁るいへきを破壊して平らにし、たくわえられていた物資を破壊しました。

  • ちょうどこの時、旱魃かんばつ蝗害こうがい頻繁ひんぱんに発生して飢饉ききんとなったので、領民たちは追いめられて強奪され、流浪・離散しました。ある者は老人や子供をて、ある者は人の下僕げぼくめかけとなり、道端にはたくさんの死体が放置されて、その人口の大半が失われました。
  • その後、朝廷は再び任尚じんしょう侍御史じぎょしに任命し、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上党郡じょうとうぐん羊頭山ようとうさんで多くの羌族きょうぞくを攻撃して撃ち破り、誘い出した投降者2百余人を殺害して、駐屯していた孟津もうしんから兵を退きました。
杜琦・杜季貢・王信の反乱
  • その秋、涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん出身の杜琦ときとその弟の杜季貢ときこう、同郡出身の王信おうしんらは羌族きょうぞくはかりごとを通じ、兵を集めて上邽城じょうけいじょう涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん上邽県じょうけいけん)に入ると、杜琦とき安漢将軍あんかんしょうぐんを自称しました。

すると朝廷はみことのりを下して彼らに懸賞金をかけ、「杜琦ときの首を得た者(漢人かんじん)は列侯れっこうに封じて銭百万を下賜かしし、杜琦ときを斬った羌胡きょうこには金百きんと銀2百きん下賜かしする」こととし、漢陽太守かんようたいしゅ趙博ちょうはく刺客しかく杜習としゅうを派遣して杜琦ときを刺殺させると、朝廷は約束通り杜習としゅう討奸侯とうかんこうに封じ、銭百万を下賜かししました。

  • 残された杜季貢ときこう王信おうしんらがその衆をひきいて樗泉営ちょせんえいに身を寄せると、侍御史じぎょし唐喜とうきは諸郡の兵を統率してこれを撃ち破り、王信おうしんら6百余きゅうを斬ってその妻子5百余人を没収し、金銀や彩帛あやぎぬ、合わせて1億銭以上相当を没収しました。杜季貢ときこうは逃亡して滇零てんれいに従属しました。
  • 永初えいしょ6年(112年)、任尚じんしょうは再び罪にわれ、呼び戻されて罷免ひめんされました。
滇零の死
  • 永初えいしょ6年(112年)、滇零てんれいが亡くなり、子の零昌れいしょうが代わって即位しましたが、まだ幼かったので同種(先零羌せんれいきょうの别種)の狼莫ろうばくが計略を立て、杜季貢ときこう将軍しょうぐんとして別に奚城けいじょう*3に居住させました。
  • 永初えいしょ7年(113年)夏、騎都尉きとい馬賢ばけん護羌校尉ごきょうこうい侯覇こうはと共に涼州りょうしゅう安定郡あんていぐんで「零昌れいしょうの别部の牢羌ろうきょう」を強襲し、斬首・捕虜千人、驢馬ろば騾馬らば駱駝らくだ・馬・牛・羊、合わせて2万余頭を獲得し、それらを獲得した者に分け与えました。
脚注

*3原文:别居於奚城。汲古書院きゅうこしょいん全譯後漢書ぜんやくごかんじょ范曄はんよう渡邉義浩わたなべよしひろ編には「丁奚城ていけいじょう寧夏ねいか回族かいぞく自治区じちく霊武れいぶの東南)」とある。後漢ごかんの領域外?

零昌が板楯蛮に敗れる
  • 後漢ごかん安帝あんてい元初げんしょ元年(114年)春、朝廷は兵を派遣して司隷しれい河内郡かだいぐんに駐屯させ、深い谷を通る街道の要害・33ヶ所すべてに塢壁うへき堡塁ほうるい)を作り、鳴鼓めいこ陣太鼓じんだいこ)を設置しました。

これに零昌れいしょうは兵を派遣して司隷しれい河内郡かだいぐん山陽邑さんようゆう雍城ようじょうを攻撃させ、また号多ごうた当煎種とうせんしゅ勒姐種ろくしゃしゅ大豪たいごうと共に諸種族を脅迫し、兵を分けて涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん益州えきしゅう漢中郡かんちゅうぐんを荒らして略奪しました。

すると巴郡はぐん板楯蛮ばんじゅんばんは兵をひきいて武都郡ぶとぐん漢中郡かんちゅうぐんを救い、漢中郡かんちゅうぐん五官掾ごかんえん程信ていしんは、壮士そうしひきいてばん板楯蛮ばんじゅんばん)と共に号多ごうたの軍を擊破しました。号多ごうたは兵を退いてまた隴道ろうどうを断絶し、零昌れいしょうはかりごとを通じました。

  • 侯覇こうは馬賢ばけん湟中こうちゅう*2の役人と降伏した羌胡きょうこひきいて涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん枹罕県ほうかんけん号多ごうたを擊ち、2百余きゅうを斬首しました。
  • また、涼州刺史りょうしゅうしし皮楊ひよう羌族きょうぞく涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん狄道県てきどうけんに攻撃しましたが、8百余人の死者を出して大敗し、罪にわれて罷免ひめんされました。
脚注

*2現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

号多が漢に帰属する
  • 侯覇こうはが病気で亡くなると、漢中太守かんちゅうたいしゅ龐参ほうしんが代わって護羌校尉ごきょうこういとなり、龐参ほうしんは恩信によって羌族きょうぞくまねき誘いました。
  • 元初げんしょ2年(115年)春、号多ごうたらは7千余人の衆をひきいて龐参ほうしんの元に出頭して降伏しました。朝廷は彼らをけつ(宮城)に参内させ、号多ごうたこう印綬いんじゅ下賜かししました。
  • 龐参ほうしんは帰還して涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん令居県れいきょけんに居住し、河西かせい涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐん金城郡きんじょうぐん酒泉郡しゅせんぐん敦煌郡とんこうぐん張掖郡ちょうえきぐん)の道を開通しました。
零昌が益州を荒らす
  • 零昌れいしょうの種族が再び分かれて益州えきしゅうを荒らすと、朝廷は中郎将ちゅうろうしょう尹就いんしゅうを派遣して荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんの兵をひきいさせ、また益州えきしゅうの諸郡の駐屯兵を進発して零昌れいしょう配下の呂叔都りょしゅくとらを攻撃しました。秋、蜀人しょくじん陳省ちんしょう羅横らおうが募集に応じて呂叔都りょしゅくとらを刺殺し、2人ともこうに封じて銭を下賜かししました。
  • また、屯騎校尉とんきこうい班雄はんゆう三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)に駐屯させ、左馮翊さひょうよく出身の司馬鈞しばきん征西将軍せいせいしょうぐんとし、右扶風ゆうふふう出身の仲光ちゅうこう安定太守あんていたいしゅ杜恢とかい北地太守ほくちたいしゅ盛包せいほう京兆虎牙都尉けいちょうこがとい耿溥こうほ右扶風都尉ゆうふふうとい皇甫旗こうほきら合わせて8千余人を監督させ、また龐参ほうしん羌胡きょうこ兵7千余人をひきいて、司馬鈞しばきんと道を別にして共に北の零昌れいしょうを攻撃しました。

龐参ほうしんの兵は涼州りょうしゅう漢陽郡かんようぐん勇士県ゆうしけんの東で(零昌れいしょう将軍しょうぐん・)杜季貢ときこうに敗れて退却しましたが、司馬鈞しばきんらは単独で進んで丁奚城ていけいじょう*3を攻め落とし、大いに戦利品を獲得しました。この時、杜季貢ときこういつわって逃走します。

司馬鈞しばきん仲光ちゅうこう杜恢とかい盛包せいほうらに羌族きょうぞくの穀物を収奪させようとしましたが、仲光ちゅうこうらは司馬鈞しばきんの命令にそむいて兵を分散して深く入り込んだため、羌族きょうぞくの伏兵が仲光ちゅうこうらを迎撃しました。

この時司馬鈞しばきん丁奚城ていけいじょう*3の中にいましたが、命令違反に怒ってこれを救出しなかったので、仲光ちゅうこうらはみな討ち死にし、死者は3千余人にのぼりました。司馬鈞しばきんのがれて帰還しましたが、罪にわれて自害しました。

  • 龐参ほうしんは機会をのがして敗北したことを罪にわれ、龐参ほうしんに代わって馬賢ばけん護羌校尉ごきょうこういの任を兼任することになりました。
脚注

*3汲古書院きゅうこしょいん全譯後漢書ぜんやくごかんじょ范曄はんよう渡邉義浩わたなべよしひろ編には「丁奚城ていけいじょう寧夏ねいか回族かいぞく自治区じちく霊武れいぶの東南)」とある。後漢ごかんの領域外?

中郎将の任尚が杜季貢を破る
  • のち任尚じんしょうを派遣して中郎将ちゅうろうしょうとし、羽林うりん緹騎ていき五営ごえいの子弟3,500人をひきいさせ、班雄はんゆうに代わって三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)に駐屯させました。

任尚じんしょうが出陣するにあたって、懐県令かいけんれい司隷しれい河内郡かだいぐん懐県かいけん県令けんれい)の虞詡ぐく任尚じんしょういて「使君しくん任尚じんしょう)は頻繁ひんぱんに国命を奉じてぞくを討伐しております。3州の駐屯兵は20余万人は、農桑(農耕と養蚕ようさん)をて兵役に疲れ苦しんでおりますが、いまだに功績がなく出費ばかりがかさんでおります。今回出兵して勝てなかった時のことを、使君しくん任尚じんしょう)のために危惧きぐしております」と言うと、任尚じんしょうは「長いことうれえ恐れるばかりでどうすれば良いか分からないのだ」と言いました。

すると虞詡ぐくは「兵法に『弱きは強きを攻めず、走る者は飛ぶ者を追わず、これ自然の勢なり』とあります。今、りょ羌族きょうぞく)はみな騎馬で日に数百里を進み、風雨のごとくやって来ては、放たれた矢のごとく去って行きます。これを歩兵で追っても追いつくことはできません。これがむなしいばかりで功績がない理由です。使君しくん任尚じんしょう)のためにはかりますに、諸郡の兵を解散しておのおの数千銭を供出させ、20人ごとに1頭の馬を買わせるべきです。その上で甲胄かっちゅうを捨て、1万騎の軽兵をせて数千のりょ羌族きょうぞく)を追うならば、大功を立てることができるでしょう」と言いました。

任尚じんしょうは大いに喜んですぐさま上言し、軽騎をもって丁奚城ていけいじょう*3杜季貢ときこうを攻撃して4百余きゅうを斬首し、牛・馬・羊、数千頭を獲得しました。

脚注

*3汲古書院きゅうこしょいん全譯後漢書ぜんやくごかんじょ范曄はんよう渡邉義浩わたなべよしひろ編には「丁奚城ていけいじょう寧夏ねいか回族かいぞく自治区じちく霊武れいぶの東南)」とある。後漢ごかんの領域外?

度遼将軍の鄧遵が零昌を破る
  • 翌年の元初げんしょ3年(116年)夏、度遼将軍とりょうしょうぐん鄧遵とうじゅんは、南単于みなみぜんう左鹿蠡王さろくりおう須沈しゅちんの1万騎をひきいて零昌れいしょう涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐん霊州県れいしゅうけんで攻撃し、8百余きゅうを斬首しました。この功績により朝廷は須沈しゅちん破虜侯はりょこうに封じて金印紫綬きんいんしじゅとし、その他功績に応じて金・きぬ下賜かししました。
  • 任尚じんしょうは兵を派遣して先零羌せんれいきょう丁奚城ていけいじょう*3で撃破しました。
  • 秋、司隷しれい左馮翊さひょうよくの北の境界5百ヶ所に候塢こうう堡塁ほうるい)を築きました。
  • 任尚じんしょうはまた仮司馬かしばを派遣して「敵陣を陥落させる士」を募集させ、零昌れいしょう涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんに攻撃してその妻子を殺害し、牛・馬・羊、2万頭を獲得し、その部落を焼いて7百余きゅうを斬首し、零昌れいしょうが帝号を僭称せんしょうした文書と亡くなった諸将の印綬いんじゅを獲得しました。
脚注

*3汲古書院きゅうこしょいん全譯後漢書ぜんやくごかんじょ范曄はんよう渡邉義浩わたなべよしひろ編には「丁奚城ていけいじょう寧夏ねいか回族かいぞく自治区じちく霊武れいぶの東南)」とある。後漢ごかんの領域外?

杜季貢と零昌の死
  • 元初げんしょ4年(117年)春、任尚じんしょう当闐種とうてんしゅ羌族きょうぞく榆鬼ゆきら5人を派遣して杜季貢ときこうを刺殺させ、榆鬼ゆき破羌侯はきょうこうに封じました。
  • その夏、中郎将ちゅうろうしょう尹就いんしゅう益州えきしゅうを平定できなかったために罪にわれて罷免ひめんされ、益州刺史えきしゅうしし張喬ちょうきょう尹就いんしゅうの軍屯を領するようになりました。張喬ちょうきょうが反乱した羌族きょうぞくまねき誘うと、羌族きょうぞくは次第に降伏・離散しました。
  • 秋、任尚じんしょうは再び效功種こうこうしゅ号封ごうほうまねいて零昌れいしょうを刺殺させ、号封ごうほう羌王きょうおうに封じました。
  • 冬、任尚じんしょうは諸郡の兵をひきいて護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんと共に涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんに進んで(先零羌せんれいきょうの别種の)狼莫ろうばくを攻撃しました。馬賢ばけんは(任尚じんしょうに)先んじて涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん青石岸せいせきがんに到着しましたが、狼莫ろうばくに迎撃されて敗走しました。

そこへちょうど任尚じんしょうの兵が涼州りょうしゅう安定郡あんていぐん高平県こうへいけんに到着したため、任尚じんしょう馬賢ばけんが合流して進軍すると、狼莫ろうばくらは兵を退いて陣営を移すことを余儀よぎなくされました。

(両軍が)涼州りょうしゅう北地郡ほくちぐんで対峙して60余日がった後、(任尚じんしょう馬賢ばけんは)富平県ふうへいけん上河じょうがで(狼莫ろうばくらと)戦い、これを大いに撃ち破って5千きゅうを斬首しました。さらに略奪されていた男女千余人を奪い返し、牛・馬・驢馬ろば・羊・駱駝らくだ、合わせて10余万頭を獲得しました。

狼莫ろうばくは逃走し、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・西河郡せいかぐん虔人種けんじんしゅ(の羌族きょうぞく)11,000こう度遼将軍とりょうしょうぐん鄧遵とうじゅんの元に出頭して降伏しました。

羌族の弱体化
かん三輔さんぽを回復する
  • 元初げんしょ5年(118年)、度遼将軍とりょうしょうぐん鄧遵とうじゅん幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん全無種ぜんむしゅ羌族きょうぞく雕何ちょうからに呼びかけて狼莫ろうばくを刺殺させました。この功績に対し朝廷は、雕何ちょうか羌侯きょうこうの爵位を下賜かしし、鄧遵とうじゅん武陽侯ぶようこうに封じて食邑しょくゆう3千戸を与えました。鄧遵とうじゅん鄧太后とうたいこうの従弟であることから、その爵位と食邑しょくゆうはとても大きかったのです。

任尚じんしょう鄧遵とうじゅんと功績を争い、またいつわって(討ち取った)首級しゅきゅうを水増しし、賄賂わいろを受け取って法を曲げ、1千万銭以上を収賄しゅうわいしたため、檻車かんしゃで呼び戻されて棄市きしさらし首)され、田園・奴婢どひ・財物を没収されました。

  • 零昌れいしょう狼莫ろうばくの死後、もろもろ羌族きょうぞくみずか瓦解がかいし、三輔さんぽ司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふう)と益州えきしゅうはまた羌族きょうぞくの侵入に警戒する必要がなくなりました。
  • 羌族きょうぞく叛乱はんらんを起こしてから10余年の間、兵役が続いて休息するひまもなく、軍は疲弊ひへいしていました。軍旅の費用・物資の運搬には240余億銭をもちい、国庫は枯渇こかつしてしまいました。

羌族きょうぞくの侵入は内郡にまで及び、辺境の民の死者は数えきれず、幷州へいしゅう并州へいしゅう)、涼州りょうしゅうの2州は消耗し尽くしました。

隴西種ろうせいしゅ号良ごうりょうを討つ
  • 元初げんしょ6年(119年)春、勒姐種ろくしゃしゅ隴西種ろうせいしゅ羌族きょうぞく号良ごうりょうらと共にはかりごとを通じて反乱を起こそうとし、護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんはこれを涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん安故県あんこけんで迎え撃ち、号良ごうりょう種人しゅじん数百きゅうを斬り、みな降伏・離散しました。
沈氐種ちんていしゅを討つ
  • 永寧えいねい元年(120年)春、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐん沈氐種ちんていしゅ羌族きょうぞく5千余人がまた涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐんに侵入し、その夏、護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんが1万人をひきいてこれを攻撃しました。

緒戦しょせんは敗れて数百人の死者を出したものの、翌日に再び戦ってこれを破り、1,800きゅうを斬首して千余人の生口せいこう(奴隷)を獲得し、手に入れた馬・牛・羊の数は1万頭を超え、残りのりょ羌族きょうぞく)はことごとく降伏しました。

この時、当煎種とうせんしゅ大豪たいごう飢五きごらは馬賢ばけんの兵が涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐんに駐屯していることから、そのきょに乗じて涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんに侵攻しました。馬賢ばけんは軍をかえしてこれを追ってさい(国境)を出ると、数千きゅうを斬首して帰還しました。

また、焼当種しょうとうしゅ焼何種しょうかしゅ馬賢ばけんの軍が帰還したと聞くと、3千余人をひきいて再び涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐんに侵入し、長吏ちょうりを殺害しました。

当煎種とうせんしゅ大豪たいごう盧怱ろそうを討つ
  • 以前、飢五きごと同種(当煎種とうせんしゅ)の大豪たいごう盧怱ろそう忍良じんりょうらの千余戸が別れて涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん允街県いんがいけんとどまり、どっちつかずの曖昧あいまいな態度を取っていました。
  • 建光けんこう元年(121年)春、護羌校尉ごきょうこうい馬賢ばけんは兵をひきいて盧怱ろそうし出してこれを斬り、兵を放って盧怱ろそう種人しゅじんを攻撃し、斬首・捕虜にした者は2千余人、馬・牛・羊10万頭を奪い、忍良じんりょうらはみな逃亡してさい(国境)を出ました。

この功績により朝廷は、璽書じしょにより馬賢ばけん安亭侯あんていこうに封じ、食邑しょくゆう千戸を与えられました。

麻奴まど忍良じんりょう金城郡きんじょうぐんに侵入する
  • 忍良じんりょうらは麻奴まどの兄弟が元は焼当種しょうとうしゅ嫡家ちゃっけであるのに、馬賢ばけんが恩恵をもって扱わないことから、常に心にうらみをいだいていました。
  • 秋、ついに(麻奴まど忍良じんりょうは)互いに結び、共に脅迫して諸種の歩騎3千人をひきいて湟中こうちゅう*2を荒し、涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの諸県を攻めました。

馬賢ばけん先零種せんれいしゅひきいてこれを攻撃し、(金城郡きんじょうぐんの境界にある)牧苑ぼくえんで戦いましたが、兵は敗れ、死者は4百余人にのぼりました。

  • 麻奴まどらはまた涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん張掖郡ちょうえきぐんの兵を涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐん令居県れいきょけんで破ると、また脅迫して先零種せんれいしゅ沈氐種ちんていしゅの諸種4千余戸をひきい、山づたいに西に走って涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐんを荒らしました。

馬賢ばけんはこれを追って涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐん鸞鳥県らんしゃくけんに至るとこれをまねき寄せ、数千人の諸種を降伏させ、麻奴まどは南の湟中こうちゅう*2に帰還しました。

脚注

*2現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

麻奴まどが降伏する
  • 延光えんこう元年(122年)春、馬賢ばけんが追撃して湟中こうちゅう*2に至ると、麻奴まどさい(国境)を出て黄河こうがを渡りました。馬賢ばけんはまた追撃してこれを破り、羌族きょうぞくの諸種族たちは散り散りになって逃走し、涼州刺史りょうしゅうしし宗漢そうかんの元に出頭して降伏しました。
  • 麻奴まどらは孤立して弱くえて困窮こんきゅうし、その年の冬、羌族きょうぞくの諸種族3千余戸を引き連れて漢陽太守かんようたいしゅ耿种こうちゅうの元に出頭して降伏しました。
  • 安帝あんていは(麻奴まどに)金印紫綬きんいんしじゅを与え、(その他の者には)それぞれ差をつけて金銀・彩繒あやぎぬ下賜かししました。
  • この年、虔人種けんじんしゅ(の羌族きょうぞく)が、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上郡じょうぐんと共に反乱を起こして穀羅城こくらじょう*3を攻めると、度遼将軍とりょうしょうぐん耿夔こうきは諸郡の兵と烏桓うがん烏丸うがん)の騎兵をひきいてこれを撃破しました。
  • 延光えんこう3年(124年)秋、涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐんの治所を狄道県てきどうけんに戻しました。
  • 麻奴まどの弟・犀苦さいくが後を継いで即位しました。
脚注

*2現在の青海湖せいかいこの東、青海省せいかいしょう西寧市せいねいし涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西。

*3汲古書院きゅうこしょいん全譯後漢書ぜんやくごかんじょ范曄はんよう渡邉義浩わたなべよしひろ編に「うち蒙古もうこ自治区じちく准格爾旗ジュンガルの北西」とある。


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