西羌(せいきょう)の諸種族と中国(後漢(ごかん):安帝(あんてい)期)の関係についてまとめています。

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西羌と中国の関係④後漢②

安帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):麻奴(まど)

後漢への不満
  • 永初(えいしょ)年間(107年〜113年)に至り、曹鳳(そうほう)の上言の効果が現れようとしていましたが、諸羌(きょう)が反乱を起こしたので屯田(とんでん)は廃止されました。
  • この頃、迷唐(めいとう)は勢力を失い、病気になって亡くなりました。迷唐(めいとう)には1子がおり、漢(かん)に降伏して来ましたが、戸数は数十に満たないものでした。
  • 東号(とうごう)(東號(とうごう))の子・麻奴(まど)が後を継いで即位しました。

当初、麻奴(まど)は父の東号(とうごう)(東號(とうごう))に随伴(ずいはん)して(後漢(ごかん)に)降伏し、涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)に居住していましたが、当時、それぞれの降羌(こうきょう)(降伏した羌族(きょうぞく))は分散して郡県に住み、みな属吏や豪族に使役され、憂(うれ)いと怨(うら)みを募(つの)らせていました。

後漢の塞外に出る
  • 後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の永初えいしょ元年(107年)夏、騎都尉きといの王弘おうこうを派遣して涼州(りょうしゅう)の金城郡きんじょうぐん、隴西郡ろうせいぐん、漢陽郡かんようぐんの羌族きょうぞくを徴発ちょうはつして西域せいいきを征伐しようとしましたが、この時王弘おうこうは強く督促とくそくして出発したので、多くの羌族きょうぞくは遠方に駐屯して帰還できなくなることを惧おそれ、涼州りょうしゅう・酒泉郡しゅせんぐんに到着すると、離散する者が多く出ました。

これに諸郡はそれぞれ兵を出して(逃げ道を)遮断(しゃだん)し、(見せしめに)その部落を破壊したので、勒姐種(ろくしゃしゅ)・当煎種(とうせんしゅ)の大豪(たいごう)・東岸とうがんらはいよいよ驚き、時を同じくして潰走(かいそう)します。この時、麻奴(まど)の兄弟は種人(しゅじん)と共に西方の塞外(さいがい)(後漢(ごかん)の国境外)に出ました。

先零羌の别種・滇零
  • 先零羌(せんれいきょう)の别種である滇零(てんれい)が、鐘羌(しょうきょう)の諸種族と共に大いに後漢(ごかん)に侵略し、隴道ろうどうを断絶させました。

当時、羌族(きょうぞく)は後漢(ごかん)に帰属してからすでに長い時を経(へ)ていたため、すでに武器や甲冑(かっちゅう)がなく、ある者は竹竿(たけざお)や木の枝を持って戈(か)や矛(ほこ)の代わりとし、ある者は板を背負って楯(たて)とし、ある者は銅鏡(どうきょう)を手に持って象に乗っていましたが*1、郡県は恐れおののいてこれを制圧することができませんでした。

冬、(朝廷は)車騎将軍(しゃきしょうぐん)・鄧騭とうしつを派遣し、征西校尉(せいせいこうい)の任尚じんしょうを副将として、

    • 五営(ごえい)(北軍中候(ほくぐんちゅうこう))
    • 三河さんが(司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)、河内郡(かだいぐん)、河東郡(かとうぐん))
    • 三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))
    • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・汝南郡(じょなんぐん)、潁川郡(えいせんぐん)
    • 荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)
    • 幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原郡(たいげんぐん)、上党郡(じょうとうぐん)

の合わせて5万人の兵を率(ひき)いて涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)に駐屯させようとしました。

翌年の永初(えいしょ)2年(108年)春、諸郡の兵がまだ到着しないうちに、鐘羌(しょうきょう)の数千人が先制して攻撃をしかけ、鄧騭とうしつの軍を涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・冀県(きけん)の西で破り、千余人を殺害しました。これにより護羌校尉(ごきょうこうい)の侯覇こうはは多くの羌族(きょうぞく)が反乱を起こしたことに連座(れんざ)して罷免(ひめん)され、西域都護(せいいきとご)の段禧だんきが代わって護羌校尉(ごきょうこうい)に任命されました。

冬、鄧騭とうしつは任尚じんしょうと従事中郎(じゅうじちゅうろう)の司馬鈞しばきんに命じ、諸郡の兵を率(ひき)いて滇零(てんれい)らの兵・数万人と涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・平襄県(へいじょうけん)で戦わせたが、任尚じんしょう軍は大敗し、死者は8千余人にのぼりました。

こうして滇零(てんれい)らは涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)で天子(てんし)を自称し、涼州(りょうしゅう)・武都郡(ぶとぐん)の参狼羌(さんろうきょう)と幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)、西河郡(せいかぐん)の諸雑種を招集(しょうしゅう)し、その勢力は大いに盛んとなって東は趙(ちょう)・魏(ぎ)を侵犯し、南は益州(えきしゅう)に侵入して漢中太守(かんちゅうたいしゅ)の董炳とうへいを殺害し、また三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))を荒らして略奪し、隴道ろうどうを断絶させました。

これにより湟中(こうちゅう)*2の諸県の粟(あわ)は価格が高騰(こうとう)して1石あたり1万銭となり、死亡した民は数えきれませんでしたが、朝廷はこれを制圧することができず、物資の輸送は困難を極めました。そこで朝廷は鄧騭とうしつに詔(みことのり)を下して軍を帰還させ、任尚じんしょうを涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)に留(とど)めて諸軍を統括させました。

朝廷は鄧騭とうしつが鄧太后とうたいこうの縁故であることから彼を出迎えて大将軍(だいしょうぐん)に任命し、任尚じんしょうを楽亭侯(らくていこう)に封じて食邑(しょくゆう)を3百戸を与えました。

脚注

*1原文:或執銅鏡以象兵。

*2現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

司隷・河内郡に迫る
  • 後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の永初(えいしょ)3年(109年)春、騎都尉きといの任仁じんじんを派遣して諸郡の駐屯兵を監督させ、三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))を救援させました。任仁じんじんは(羌族(きょうぞく)と)戦いを重ねましたが勝つことができず、多くの羌族(きょうぞく)は勝ちに乗じて反撃し、漢(かん)兵はしばしば打ち負かしました。

当煎種(とうせんしゅ)と勒姐種(ろくしゃしゅ)は涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)・破羌県(はきょうけん)を攻め落とし、鐘羌(しょうきょう)もまた涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・臨洮県(りんとうけん)を陥落させ、隴西南部都尉ろうせいなんぶといを生け捕(ど)りにしました。

  • 翌年の永初えいしょ4年(110年)春、滇零(てんれい)は人を派遣して益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)・褒中県(ほうちゅうけん)を侵入し、郵亭ゆうていを焼き払って大いに民を略奪しました。このため漢中太守(かんちゅうたいしゅ)の鄭勤ていきんは移動して褒中県(ほうちゅうけん)に駐屯しました。
  • 朝廷は長らく出陣しているのに功績がなく、農業や養蚕(ようさん)を廃業する者もいたため、任尚じんしょうに詔(みことのり)を下して属吏と兵士を率(ひき)いて帰還して長安(ちょうあん)に駐屯し、荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)、汝南郡(じょなんぐん)の属吏と兵士を解散させ、(前漢(ぜんかん)時代に置かれていた)西京三輔都尉せいけいさんぽといの故事に倣(なら)って長安(ちょうあん)に京兆虎牙都尉けいちょうこがといを、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・雍県(ようけん)に扶風都尉ふふうといを置きました。
  • 羌族(きょうぞく)がまた益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)・褒中県(ほうちゅうけん)に攻めてきたので、漢中太守(かんちゅうたいしゅ)の鄭勤ていきんがこれを迎撃しようとすると、主簿(しゅぼ)の段崇だんすうが諫(いさ)めて「羌(きょう)どもは勝ちに乗じており、当たるべからざる勢いを持っておりますので、ここは待ち構えて(城を)堅守してください」と言いました。ですが鄭勤ていきんはこれに従わず、戦いを挑(いど)んで大敗し、3千余人の死者を出してしまいます。この戦いの中で段崇だんすうと門下史もんかしの王宗おうそう、原展げんてんは身を投げ出して敵の攻撃を防ぎましたが、鄭勤ていきんと共に戦死してしまいました。これを受け、朝廷は涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の治所を襄武県(じょうぶけん)に移しました。
  • その後も騎都尉きといの任仁じんじんは戦うごとに敗北を重ね、しかも兵士たちは好き勝手に振る舞ったので、檻車(かんしゃ)で廷尉ていいの元に送られ、詔獄(しょうごく)で死にました。

護羌校尉(ごきょうこうい)の段禧だんきが病気で亡くなると、再び前の護羌校尉(ごきょうこうい)であった侯覇こうはがこれに代わり、護羌校尉(ごきょうこうい)の治所を涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)に移しました。

  • 永初えいしょ5年(111年)春、長安(ちょうあん)に駐屯する征西校尉(せいせいこうい)の任尚じんしょうは功績がないことから罪に問(と)われ、召還されて罷免(ひめん)されました。
  • その後、羌族(きょうぞく)は司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)を荒らして[首都・洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))のある]河内郡(かだいぐん)まで至ったので、民たちは驚いて、その多くが黄河(こうが)を渡って逃亡しました。この事態に朝廷は、北軍中候ほくぐんちゅうこうの朱寵しゅちょう(硃寵しゅちょう)に五営ごえいの兵士を率ひきいて孟津もうしんに駐屯させ、冀州きしゅうの魏郡ぎぐん、趙国ちょうこく、常山国じょうざんこく、中山国ちゅうざんこくに詔みことのりを下して、616箇所の塢候うこう(堡塁ほうるい)を修繕しゅうぜんさせました。
司隷の荒廃
  • その後も羌族(きょうぞく)は益(ます)々(ます)盛んとなりましたが、漢かんの二千石(にせんせき)(太守(たいしゅ))・県令(けんれい)・県長(けんちょう)たちの多くは内地の出身者であり、彼らには(辺境を)守る戦意がなく、みな争って「郡県(郡の治所)を移動させて侵略の難を避ける」ように上奏しました。

朝廷はこれに従って、涼州(りょうしゅう)・隴西郡ろうせいぐんの治所を襄武県(じょうぶけん)に移し、安定郡(あんていぐん)の治所を司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)の美陽県(びようけん)に移し、北地郡(ほくちぐん)の治所を司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の池陽県(ちようけん)に移し、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の治所を司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の衙県(がけん)に移しました。

ですが、領民たちは故郷を恋しく思って土地を離れようとしなかったので、朝廷はその土地の稲を刈かり、室屋を撤去し、塁壁るいへきを破壊して平らにし、蓄たくわえられていた物資を破壊しました。

  • ちょうどこの時、旱魃かんばつや蝗害こうがいが頻繁ひんぱんに発生して飢饉ききんとなったので、領民たちは追い詰つめられて強奪され、流浪・離散しました。ある者は老人や子供を棄すて、ある者は人の下僕げぼくや妾めかけとなり、道端にはたくさんの死体が放置されて、その人口の大半が失われました。
  • その後、朝廷は再び任尚じんしょうを侍御史(じぎょし)に任命し、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上党郡(じょうとうぐん)の羊頭山(ようとうさん)で多くの羌族(きょうぞく)を攻撃して撃ち破り、誘い出した投降者2百余人を殺害して、駐屯していた孟津もうしんから兵を退ひきました。
杜琦・杜季貢・王信の反乱
  • その秋、涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)出身の杜琦ときとその弟の杜季貢ときこう、同郡出身の王信おうしんらは羌族(きょうぞく)と謀はかりごとを通じ、兵を集めて上邽城(じょうけいじょう)(涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・上邽県(じょうけいけん))に入ると、杜琦ときは安漢将軍(あんかんしょうぐん)を自称しました。

すると朝廷は詔(みことのり)を下して彼らに懸賞金をかけ、「杜琦ときの首を得た者(漢人かんじん)は列侯(れっこう)に封じて銭百万を下賜(かし)し、杜琦ときを斬った羌胡(きょうこ)には金百斤(きん)と銀2百斤(きん)を下賜(かし)する」こととし、漢陽太守(かんようたいしゅ)の趙博ちょうはくが刺客(しかく)の杜習としゅうを派遣して杜琦ときを刺殺させると、朝廷は約束通り杜習としゅうを討奸侯(とうかんこう)に封じ、銭百万を下賜(かし)しました。

  • 残された杜季貢ときこうと王信おうしんらがその衆を率(ひき)いて樗泉営(ちょせんえい)に身を寄せると、侍御史(じぎょし)の唐喜とうきは諸郡の兵を統率してこれを撃ち破り、王信おうしんら6百余級(きゅう)を斬ってその妻子5百余人を没収し、金銀や彩帛(あやぎぬ)、合わせて1億銭以上相当を没収しました。杜季貢ときこうは逃亡して滇零(てんれい)に従属しました。
  • 永初えいしょ6年(112年)、任尚じんしょうは再び罪に問(と)われ、呼び戻されて罷免(ひめん)されました。
滇零の死
  • 永初えいしょ6年(112年)、滇零(てんれい)が亡くなり、子の零昌(れいしょう)が代わって即位しましたが、まだ幼かったので同種(先零羌(せんれいきょう)の别種)の狼莫(ろうばく)が計略を立て、杜季貢ときこうを将軍(しょうぐん)として別に奚城(けいじょう)*3に居住させました。
  • 永初えいしょ7年(113年)夏、騎都尉きといの馬賢ばけんが護羌校尉(ごきょうこうい)の侯覇こうはと共に涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)で「零昌(れいしょう)の别部の牢羌(ろうきょう)」を強襲し、斬首・捕虜千人、驢馬(ろば)・騾馬(らば)・駱駝(らくだ)・馬・牛・羊、合わせて2万余頭を獲得し、それらを獲得した者に分け与えました。
脚注

*3原文:别居於奚城。汲古書院(きゅうこしょいん)『全譯後漢書(ぜんやくごかんじょ)』范曄(はんよう)著渡邉義浩(わたなべよしひろ)編には「丁奚城(ていけいじょう)(寧夏(ねいか)回族(かいぞく)自治区(じちく)霊武(れいぶ)の東南)」とある。後漢(ごかん)の領域外?

零昌が板楯蛮に敗れる
  • 後漢(ごかん)・安帝(あんてい)の元初げんしょ元年(114年)春、朝廷は兵を派遣して司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)に駐屯させ、深い谷を通る街道の要害・33ヶ所すべてに塢壁うへき(堡塁ほうるい)を作り、鳴鼓めいこ(陣太鼓じんだいこ)を設置しました。

これに零昌(れいしょう)は兵を派遣して司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)・山陽邑(さんようゆう)の雍城(ようじょう)を攻撃させ、また号多(ごうた)は当煎種(とうせんしゅ)と勒姐種(ろくしゃしゅ)の大豪たいごうと共に諸種族を脅迫し、兵を分けて涼州(りょうしゅう)・武都郡(ぶとぐん)と益州(えきしゅう)・漢中郡(かんちゅうぐん)を荒らして略奪しました。

すると巴郡(はぐん)の板楯蛮ばんじゅんばんは兵を率ひきいて武都郡(ぶとぐん)と漢中郡(かんちゅうぐん)を救い、漢中郡(かんちゅうぐん)の五官掾ごかんえん・程信(ていしん)は、壮士そうしを率ひきいて蛮ばん(板楯蛮ばんじゅんばん)と共に号多(ごうた)の軍を擊破しました。号多(ごうた)は兵を退ひいてまた隴道ろうどうを断絶し、零昌(れいしょう)と謀はかりごとを通じました。

  • 侯覇こうはと馬賢ばけんは湟中(こうちゅう)*2の役人と降伏した羌胡きょうこを率ひきいて涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・枹罕県(ほうかんけん)で号多(ごうた)を擊ち、2百余級きゅうを斬首しました。
  • また、涼州刺史(りょうしゅうしし)の皮楊(ひよう)は羌族(きょうぞく)を涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・狄道県(てきどうけん)に攻撃しましたが、8百余人の死者を出して大敗し、罪に問とわれて罷免(ひめん)されました。
脚注

*2現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

号多が漢に帰属する
  • 侯覇こうはが病気で亡くなると、漢中太守(かんちゅうたいしゅ)の龐参ほうしんが代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となり、龐参ほうしんは恩信によって羌族(きょうぞく)を招(まね)き誘いました。
  • 元初げんしょ2年(115年)春、号多(ごうた)らは7千余人の衆を率ひきいて龐参ほうしんの元に出頭して降伏しました。朝廷は彼らを闕けつ(宮城)に参内させ、号多(ごうた)に侯(こう)の印綬いんじゅを下賜かししました。
  • 龐参ほうしんは帰還して涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)・令居県れいきょけんに居住し、河西かせい(涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)、金城郡(きんじょうぐん)・酒泉郡(しゅせんぐん)・敦煌郡(とんこうぐん)・張掖郡(ちょうえきぐん))の道を開通しました。
零昌が益州を荒らす
  • 零昌(れいしょう)の種族が再び分かれて益州(えきしゅう)を荒らすと、朝廷は中郎将(ちゅうろうしょう)の尹就いんしゅうを派遣して荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)の兵を率ひきいさせ、また益州(えきしゅう)の諸郡の駐屯兵を進発して零昌(れいしょう)配下の呂叔都りょしゅくとらを攻撃しました。秋、蜀人しょくじんの陳省ちんしょうと羅横らおうが募集に応じて呂叔都りょしゅくとらを刺殺し、2人とも侯(こう)に封じて銭を下賜(かし)しました。
  • また、屯騎校尉(とんきこうい)の班雄はんゆうを三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))に駐屯させ、左馮翊(さひょうよく)出身の司馬鈞しばきんを征西将軍(せいせいしょうぐん)とし、右扶風(ゆうふふう)出身の仲光ちゅうこう、安定太守(あんていたいしゅ)の杜恢とかい、北地太守(ほくちたいしゅ)の盛包せいほう、京兆虎牙都尉けいちょうこがといの耿溥こうほ、右扶風都尉ゆうふふうといの皇甫旗こうほきら合わせて8千余人を監督させ、また龐参ほうしんは羌胡きょうこ兵7千余人を率ひきいて、司馬鈞しばきんと道を別にして共に北の零昌(れいしょう)を攻撃しました。

龐参ほうしんの兵は涼州(りょうしゅう)・漢陽郡(かんようぐん)・勇士県(ゆうしけん)の東で(零昌(れいしょう)の将軍(しょうぐん)・)杜季貢ときこうに敗れて退却しましたが、司馬鈞しばきんらは単独で進んで丁奚城(ていけいじょう)*3を攻め落とし、大いに戦利品を獲得しました。この時、杜季貢ときこうは偽いつわって逃走します。

司馬鈞しばきんは仲光ちゅうこう・杜恢とかい・盛包せいほうらに羌族きょうぞくの穀物を収奪させようとしましたが、仲光ちゅうこうらは司馬鈞しばきんの命令に背そむいて兵を分散して深く入り込んだため、羌族きょうぞくの伏兵が仲光ちゅうこうらを迎撃しました。

この時司馬鈞しばきんは丁奚城(ていけいじょう)*3の中にいましたが、命令違反に怒ってこれを救出しなかったので、仲光ちゅうこうらはみな討ち死にし、死者は3千余人にのぼりました。司馬鈞しばきんは逃のがれて帰還しましたが、罪に問とわれて自害しました。

  • 龐参ほうしんは機会を逃のがして敗北したことを罪に問とわれ、龐参ほうしんに代わって馬賢ばけんが護羌校尉(ごきょうこうい)の任を兼任することになりました。
脚注

*3汲古書院(きゅうこしょいん)『全譯後漢書(ぜんやくごかんじょ)』范曄(はんよう)著渡邉義浩(わたなべよしひろ)編には「丁奚城(ていけいじょう)(寧夏(ねいか)回族(かいぞく)自治区(じちく)霊武(れいぶ)の東南)」とある。後漢(ごかん)の領域外?

中郎将の任尚が杜季貢を破る
  • 後のちに任尚じんしょうを派遣して中郎将(ちゅうろうしょう)とし、羽林(うりん)・緹騎(ていき)・五営(ごえい)の子弟3,500人を率ひきいさせ、班雄はんゆうに代わって三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))に駐屯させました。

任尚じんしょうが出陣するにあたって、懐県令(かいけんれい)(司隷(しれい)・河内郡(かだいぐん)・懐県(かいけん)の県令(けんれい))の虞詡ぐくが任尚じんしょうに説といて「使君しくん(任尚じんしょう)は頻繁ひんぱんに国命を奉じて賊ぞくを討伐しております。3州の駐屯兵は20余万人は、農桑(農耕と養蚕ようさん)を棄すて兵役に疲れ苦しんでおりますが、未いまだに功績がなく出費ばかりがかさんでおります。今回出兵して勝てなかった時のことを、使君しくん(任尚じんしょう)のために危惧きぐしております」と言うと、任尚じんしょうは「長いこと憂うれえ恐れるばかりでどうすれば良いか分からないのだ」と言いました。

すると虞詡ぐくは「兵法に『弱きは強きを攻めず、走る者は飛ぶ者を追わず、これ自然の勢なり』とあります。今、虜りょ(羌族(きょうぞく))はみな騎馬で日に数百里を進み、風雨の如(ごと)くやって来ては、放たれた矢の如(ごと)く去って行きます。これを歩兵で追っても追いつくことはできません。これが虚(むな)しいばかりで功績がない理由です。使君しくん(任尚じんしょう)のために計(はか)りますに、諸郡の兵を解散して各(おの)々(おの)数千銭を供出させ、20人ごとに1頭の馬を買わせるべきです。その上で甲胄(かっちゅう)を捨て、1万騎の軽兵を馳(は)せて数千の虜りょ(羌族(きょうぞく))を追うならば、大功を立てることができるでしょう」と言いました。

任尚じんしょうは大いに喜んですぐさま上言し、軽騎をもって丁奚城(ていけいじょう)*3の杜季貢ときこうを攻撃して4百余級きゅうを斬首し、牛・馬・羊、数千頭を獲得しました。

脚注

*3汲古書院(きゅうこしょいん)『全譯後漢書(ぜんやくごかんじょ)』范曄(はんよう)著渡邉義浩(わたなべよしひろ)編には「丁奚城(ていけいじょう)(寧夏(ねいか)回族(かいぞく)自治区(じちく)霊武(れいぶ)の東南)」とある。後漢(ごかん)の領域外?

度遼将軍の鄧遵が零昌を破る
  • 翌年の元初げんしょ3年(116年)夏、度遼将軍(とりょうしょうぐん)の鄧遵とうじゅんは、南単于(みなみぜんう)と左鹿蠡王(さろくりおう)の須沈しゅちんの1万騎を率ひきいて零昌(れいしょう)を涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)・霊州県(れいしゅうけん)で攻撃し、8百余級きゅうを斬首しました。この功績により朝廷は須沈しゅちんを破虜侯(はりょこう)に封じて金印紫綬きんいんしじゅとし、その他功績に応じて金・帛きぬを下賜かししました。
  • 任尚じんしょうは兵を派遣して先零羌せんれいきょうを丁奚城(ていけいじょう)*3で撃破しました。
  • 秋、司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の北の境界5百ヶ所に候塢こうう(堡塁ほうるい)を築きました。
  • 任尚じんしょうはまた仮司馬(かしば)を派遣して「敵陣を陥落させる士」を募集させ、零昌(れいしょう)を涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)に攻撃してその妻子を殺害し、牛・馬・羊、2万頭を獲得し、その部落を焼いて7百余級きゅうを斬首し、零昌(れいしょう)が帝号を僭称せんしょうした文書と亡くなった諸将の印綬いんじゅを獲得しました。
脚注

*3汲古書院(きゅうこしょいん)『全譯後漢書(ぜんやくごかんじょ)』范曄(はんよう)著渡邉義浩(わたなべよしひろ)編には「丁奚城(ていけいじょう)(寧夏(ねいか)回族(かいぞく)自治区(じちく)霊武(れいぶ)の東南)」とある。後漢(ごかん)の領域外?

杜季貢と零昌の死
  • 元初げんしょ4年(117年)春、任尚じんしょうは当闐種とうてんしゅの羌族きょうぞく・榆鬼(ゆき)ら5人を派遣して杜季貢ときこうを刺殺させ、榆鬼(ゆき)を破羌侯(はきょうこう)に封じました。
  • その夏、中郎将(ちゅうろうしょう)の尹就いんしゅうは益州(えきしゅう)を平定できなかったために罪に問(と)われて罷免(ひめん)され、益州刺史(えきしゅうしし)の張喬(ちょうきょう)が尹就いんしゅうの軍屯を領するようになりました。張喬(ちょうきょう)が反乱した羌族きょうぞくを招(まね)き誘うと、羌族きょうぞくは次第に降伏・離散しました。
  • 秋、任尚じんしょうは再び效功種こうこうしゅの号封(ごうほう)を招(まね)いて零昌(れいしょう)を刺殺させ、号封(ごうほう)を羌王(きょうおう)に封じました。
  • 冬、任尚じんしょうは諸郡の兵を率ひきいて護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)と共に涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)に進んで(先零羌(せんれいきょう)の别種の)狼莫(ろうばく)を攻撃しました。馬賢(ばけん)は(任尚じんしょうに)先んじて涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)の青石岸(せいせきがん)に到着しましたが、狼莫(ろうばく)に迎撃されて敗走しました。

そこへちょうど任尚じんしょうの兵が涼州(りょうしゅう)・安定郡(あんていぐん)・高平県(こうへいけん)に到着したため、任尚じんしょうと馬賢(ばけん)が合流して進軍すると、狼莫(ろうばく)らは兵を退(ひ)いて陣営を移すことを余儀(よぎ)なくされました。

(両軍が)涼州(りょうしゅう)・北地郡(ほくちぐん)で対峙して60余日が経(た)った後、(任尚じんしょうと馬賢(ばけん)は)富平県(ふうへいけん)の上河(じょうが)で(狼莫(ろうばく)らと)戦い、これを大いに撃ち破って5千級きゅうを斬首しました。さらに略奪されていた男女千余人を奪い返し、牛・馬・驢馬(ろば)・羊・駱駝(らくだ)、合わせて10余万頭を獲得しました。

狼莫(ろうばく)は逃走し、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・西河郡(せいかぐん)の虔人種けんじんしゅ(の羌族きょうぞく)11,000口こうが度遼将軍(とりょうしょうぐん)・鄧遵とうじゅんの元に出頭して降伏しました。

羌族の弱体化
漢かんが三輔さんぽを回復する
  • 元初げんしょ5年(118年)、度遼将軍(とりょうしょうぐん)の鄧遵とうじゅんは幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の全無種ぜんむしゅの羌族きょうぞく・雕何ちょうからに呼びかけて狼莫(ろうばく)を刺殺させました。この功績に対し朝廷は、雕何ちょうかに羌侯(きょうこう)の爵位を下賜かしし、鄧遵とうじゅんを武陽侯(ぶようこう)に封じて食邑しょくゆう3千戸を与えました。鄧遵とうじゅんは鄧太后とうたいこうの従弟であることから、その爵位と食邑しょくゆうはとても大きかったのです。

任尚じんしょうは鄧遵とうじゅんと功績を争い、また偽いつわって(討ち取った)首級しゅきゅうを水増しし、賄賂わいろを受け取って法を曲げ、1千万銭以上を収賄しゅうわいしたため、檻車かんしゃで呼び戻されて棄市きし(晒さらし首)され、田園・奴婢どひ・財物を没収されました。

  • 零昌(れいしょう)と狼莫(ろうばく)の死後、諸もろ々もろの羌族きょうぞくは自みずから瓦解がかいし、三輔さんぽ(司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう))と益州(えきしゅう)はまた羌族きょうぞくの侵入に警戒する必要がなくなりました。
  • 羌族きょうぞくが叛乱はんらんを起こしてから10余年の間、兵役が続いて休息する暇ひまもなく、軍は疲弊ひへいしていました。軍旅の費用・物資の運搬には240余億銭を用もちい、国庫は枯渇こかつしてしまいました。

羌族きょうぞくの侵入は内郡にまで及び、辺境の民の死者は数えきれず、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))、涼州(りょうしゅう)の2州は消耗し尽くしました。

隴西種(ろうせいしゅ)の号良(ごうりょう)を討つ
  • 元初げんしょ6年(119年)春、勒姐種(ろくしゃしゅ)は隴西種(ろうせいしゅ)の羌族きょうぞくの号良(ごうりょう)らと共に謀はかりごとを通じて反乱を起こそうとし、護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)はこれを涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・安故県(あんこけん)で迎え撃ち、号良(ごうりょう)と種人しゅじん数百級きゅうを斬り、みな降伏・離散しました。
沈氐種(ちんていしゅ)を討つ
  • 永寧えいねい元年(120年)春、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の沈氐種(ちんていしゅ)の羌族きょうぞく5千余人がまた涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)に侵入し、その夏、護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)が1万人を率ひきいてこれを攻撃しました。

緒戦しょせんは敗れて数百人の死者を出したものの、翌日に再び戦ってこれを破り、1,800級きゅうを斬首して千余人の生口せいこう(奴隷)を獲得し、手に入れた馬・牛・羊の数は1万頭を超え、残りの虜りょ(羌族(きょうぞく))はことごとく降伏しました。

この時、当煎種(とうせんしゅ)の大豪(たいごう)・飢五(きご)らは馬賢(ばけん)の兵が涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)に駐屯していることから、その虚きょに乗じて涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)に侵攻しました。馬賢(ばけん)は軍を還かえしてこれを追って塞さい(国境)を出ると、数千級きゅうを斬首して帰還しました。

また、焼当種(しょうとうしゅ)と焼何種(しょうかしゅ)は馬賢(ばけん)の軍が帰還したと聞くと、3千余人を率ひきいて再び涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)に侵入し、長吏(ちょうり)を殺害しました。

当煎種(とうせんしゅ)の大豪(たいごう)・盧怱(ろそう)を討つ
  • 以前、飢五(きご)と同種(当煎種(とうせんしゅ))の大豪(たいごう)・盧怱(ろそう)、忍良(じんりょう)らの千余戸が別れて涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)・允街県(いんがいけん)に留とどまり、どっちつかずの曖昧あいまいな態度を取っていました。
  • 建光けんこう元年(121年)春、護羌校尉(ごきょうこうい)の馬賢(ばけん)は兵を率ひきいて盧怱(ろそう)を召めし出してこれを斬り、兵を放って盧怱(ろそう)の種人(しゅじん)を攻撃し、斬首・捕虜にした者は2千余人、馬・牛・羊10万頭を奪い、忍良(じんりょう)らはみな逃亡して塞さい(国境)を出ました。

この功績により朝廷は、璽書じしょにより馬賢(ばけん)を安亭侯(あんていこう)に封じ、食邑しょくゆう千戸を与えられました。

麻奴(まど)と忍良(じんりょう)が金城郡(きんじょうぐん)に侵入する
  • 忍良(じんりょう)らは麻奴(まど)の兄弟が元は焼当種(しょうとうしゅ)の嫡家(ちゃっけ)であるのに、馬賢(ばけん)が恩恵をもって扱わないことから、常に心に怨(うら)みを懐(いだ)いていました。
  • 秋、ついに(麻奴(まど)と忍良(じんりょう)は)互いに結び、共に脅迫して諸種の歩騎3千人を率ひきいて湟中(こうちゅう)*2を荒し、涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の諸県を攻めました。

馬賢(ばけん)は先零種(せんれいしゅ)を率ひきいてこれを攻撃し、(金城郡(きんじょうぐん)の境界にある)牧苑(ぼくえん)で戦いましたが、兵は敗れ、死者は4百余人にのぼりました。

  • 麻奴(まど)らはまた涼州(りょうしゅう)・武都郡(ぶとぐん)と張掖郡(ちょうえきぐん)の兵を涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)・令居県れいきょけんで破ると、また脅迫して先零種(せんれいしゅ)と沈氐種(ちんていしゅ)の諸種4千余戸を率ひきい、山伝づたいに西に走って涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)を荒らしました。

馬賢(ばけん)はこれを追って涼州(りょうしゅう)・武威郡(ぶいぐん)・鸞鳥県(らんしゃくけん)に至るとこれを招まねき寄せ、数千人の諸種を降伏させ、麻奴(まど)は南の湟中(こうちゅう)*2に帰還しました。

脚注

*2現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

麻奴(まど)が降伏する
  • 延光えんこう元年(122年)春、馬賢(ばけん)が追撃して湟中(こうちゅう)*2に至ると、麻奴(まど)は塞さい(国境)を出て黄河(こうが)を渡りました。馬賢(ばけん)はまた追撃してこれを破り、羌族(きょうぞく)の諸種族たちは散り散りになって逃走し、涼州刺史(りょうしゅうしし)・宗漢(そうかん)の元に出頭して降伏しました。
  • 麻奴(まど)らは孤立して弱く飢うえて困窮こんきゅうし、その年の冬、羌族(きょうぞく)の諸種族3千余戸を引き連れて漢陽太守(かんようたいしゅ)・耿种こうちゅうの元に出頭して降伏しました。
  • 安帝(あんてい)は(麻奴(まど)に)金印紫綬きんいんしじゅを与え、(その他の者には)それぞれ差をつけて金銀・彩繒(あやぎぬ)を下賜(かし)しました。
  • この年、虔人種けんじんしゅ(の羌族きょうぞく)が、幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・上郡(じょうぐん)の胡こと共に反乱を起こして穀羅城(こくらじょう)*3を攻めると、度遼将軍(とりょうしょうぐん)の耿夔こうきは諸郡の兵と烏桓うがん(烏丸うがん)の騎兵を率ひきいてこれを撃破しました。
  • 延光えんこう3年(124年)秋、涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)の治所を狄道県(てきどうけん)に戻しました。
  • 麻奴(まど)の弟・犀苦(さいく)が後を継いで即位しました。
脚注

*2現在の青海湖(せいかいこ)の東、青海省(せいかいしょう)・西寧市(せいねいし)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西。

*3汲古書院(きゅうこしょいん)『全譯後漢書(ぜんやくごかんじょ)』范曄(はんよう)著渡邉義浩(わたなべよしひろ)編に「内(うち)蒙古(もうこ)自治区(じちく)准格爾旗(ジュンガル)の北西」とある。


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