正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(76)桓公〔魯〕です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(76)桓
桓(かん)
桓公〔魯〕
春秋時代、魯の第16代君主(在位:紀元前711年~紀元前694年)。生年不詳〜桓公18年(紀元前694年)。諱は允。父は魯の第14代君主・恵公。子に太子同(荘公)、慶父、叔牙、季友。
即位前
第13代孝公
魯の孝公27年(紀元前769)、魯の孝公が亡くなって子の弗湟が即位した。これが魯の恵公である。
第14代恵公
恵公の夫人には子がなく、賤妾の声子が息姑を生んだ。息姑は成長して宋から妻を迎えることとなったが、宋の公女が美人だったので、恵公は彼女を奪って自分の妻とした。
その後、宋の公女が允を生むと、恵公は彼女を夫人に取り立てて允を太子とした。
恵公46年(紀元前723)、恵公が亡くなったが、太子允が幼少であったため、魯の国人たちは長庶子(妾腹の長子)・息姑に国政を代行して国君の努めを行わせた。これが魯の隠公である。
第15代隠公
隠公11年(紀元前712)冬、隠公の公子揮が隠公に諂って「民は君を国君としています。どうか即位なさいませ。吾が君のために允を殺しましょう。(その代わり)君は我を宰相にしてください」と言った。
すると隠公は「これは先君(恵公)の遺命である。吾は允が幼少ゆえに摂政していたのだが、允は成人した。吾は菟裘の地に隠居して、允に国政を授けようと思っている」と言った。
揮は「このことが允の耳に入れば、自分は殺されてしまう」と懼れ、逆に允に隠公を讒言して「隠公は即位して子を退けようとしています。ここは思案所です。子のために隠公を殺害させてください」と言い、允はこれを許した。
11月、隠公が鐘巫の祭のために社圃(園の名)で身を清め、大夫・蒍氏の館に泊まった。揮は人を遣って蒍氏の館で隠公を殺害し、允を国君とした。これが魯の桓公である。
第16代桓公
桓公元年(紀元前711年)、鄭が魯に璧を贈り、天子の許田と交換した。
桓公2年(紀元前710年)、魯は宋から賄賂として贈られた県を太廟(周公の廟)に納めて、君子の譏りを受けた。
桓公3年(紀元前709年)、桓公は揮を派遣して斉から女性(婦)を迎え、夫人とした。
桓公6年(紀元前706年)、夫人が子を生み、桓公と誕生日が同じだったので同と名づけ、成人して太子となった。
桓公16年(紀元前696年)、桓公は諸侯と曹で会盟して鄭を伐ち、鄭の厲公を(魯の都に)入れた。
桓公18年(紀元前694年)春、桓公は夫人と共に斉に行くことを思い立ち、大夫の申繻はこれを諫めて止めたが、桓公は聞き入れず、ついに斉に行った。すると斉の襄公が桓公夫人と密通したので、桓公は夫人を怒り、夫人はそのことを斉侯に告げた。
夏4月、斉の襄公は桓公を饗応し、桓公が酒に酔うと、公子の彭生に命じて桓公を抱きかかえさせ、そのまま桓公の肋骨を挫き折らせたので、桓公は車の中で亡くなった。
これに魯の国人は、斉に「寡君は君のご威光を畏れ、あえて安全な地を離れて貴国に出向き、修好の礼をとられました。(我々は)桓公が帰国されないことを、咎めることはしません。その代わりどうか彭生を引き渡していただき、諸侯に汚名を雪がせてください」と申し入れ、斉の国人は彭生を殺して魯を宥めた。
その後、魯は太子同を国君に立てた。これが魯の荘公である。(斉の襄公と密通した)荘公の母は斉に留まり、魯に帰ろうとしなかった。
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