正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(59)河東郡(かとうぐん)毌丘氏(かんきゅうし)(毌丘興(かんきゅうこう)・毌丘倹(かんきゅうけん)・毌丘秀(かんきゅうしゅう)・毌丘甸(かんきゅうてん)・毌丘宗(かんきゅうそう)・毌丘芝(かんきゅうし)・毌丘奥(かんきゅうおう)・毌丘重(かんきゅうちょう))と、出身地(本籍・本貫)不明の毌丘氏(かんきゅうし)(毌丘毅(かんきゅうき))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東郡毌丘氏系図

河東郡毌丘氏系図

河東郡(かとうぐん)毌丘氏(かんきゅうし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))と毌丘宗(かんきゅうそう)(毋丘宗(ぶきゅうそう))の兄弟の順は不明。


この記事では河東郡(かとうぐん)毌丘氏(かんきゅうし)の人物、

出身地(本籍・本貫)不明の毌丘氏(かんきゅうし)、

についてまとめています。


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か(59)河東毌丘氏(毋丘氏)

第1世代(毌丘興)

毌丘興(かんきゅうこう)(毋丘興(ぶきゅうこう))

生没年不詳。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。子に毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))、毌丘秀(かんきゅうしゅう)(毋丘秀(ぶきゅうしゅう))。

黄初(こうしょ)年間(220年〜226年)に武威太守(ぶいたいしゅ)となると、内は官民を慰撫(いぶ)し、外は羌(きょう)・胡(こ)を懐柔(かいじゅう)して従属させ、漢民(かんみん)と蛮民(ばんみん)が雑居していて度(たび)々(たび)戦火に見舞われる河右(かゆう)(黄河(こうが)上流以西)の地を落ち着かせたことにより、金城太守(きんじょうたいしゅ)・蘇則(そそく)に次ぐ名声を挙(あ)げた。

賊徒(ぞくと)・黄華(こうか)と張進(ちょうしん)が反乱を企(くわだ)てて周りの者たちを煽動(せんどう)した際には、忠烈の意気を燃やして危難を前に一身(いっしん)を顧(かえり)みず、将校(しょうこう)や漢民(かんみん)・蛮民(ばんみん)に利害を説(と)いた。その言葉は聞いた者の涙を誘い、1万人の男女はみな感激して形振(なりふ)り構わず髪を振り乱し、心中(しんちゅう)に命を捧(ささ)げることを誓った。

その後、精鋭を率(ひき)いて張掖郡(ちょうえきぐん)の賊徒(ぞくと)を圧倒し、張掖太守(ちょうえきたいしゅ)の杜通(とつう)と西海太守(せいかいたいしゅ)の張睦(ちょうぼく)を救出した。すると、張掖郡(ちょうえきぐん)の番和県(ばんわけん)、驪靬県(りけんけん)の官民や郡内の雑多な蛮民(ばんみん)たちは、悪人を見棄(みす)てて毌丘興(かんきゅうこう)(毋丘興(ぶきゅうこう))の元にやって来たので、毌丘興(かんきゅうこう)(毋丘興(ぶきゅうこう))は彼らすべてを労(いたわ)って農耕に尽力(じんりょく)させた。

この功績によって高陽郷侯(こうようきょうこう)に封ぜられ、中央に入って将作大匠(しょうさくたいしょう)となった。


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第2世代(毌丘倹・毌丘秀)

毌丘倹(かんきゅうけん)・仲恭(ちゅうきょう)(毋丘倹(ぶきゅうけん))

生年不詳〜魏(ぎ)の正元(せいげん)2年(255年)没。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は毌丘興(かんきゅうこう)(毋丘興(ぶきゅうこう))。子に毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))、毌丘宗(かんきゅうそう)(毋丘宗(ぶきゅうそう))。

明帝(曹叡)に寵遇される

父の爵位(高陽郷侯(こうようきょうこう))を継承し、平原侯(へいげんこう)(曹叡(そうえい))*1の文学(ぶんがく)となった。

魏(ぎ)の黄初(こうしょ)7年(226年)に明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が即位すると尚書郎(しょうしょろう)となり、その後羽林監(うりんかん)に昇進。明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が東宮(とうぐう)にいた頃から非常に親しい待遇を受けた。

その後、地方に出て洛陽(らくよう)の典農(てんのう)となったが、ちょうどその頃、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が農民を徴発して宮室(宮殿)を増築した。すると毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は、

「臣(わたくし)は『天下にとって大切なことは、2賊(ぞく)(蜀(しょく)と呉(ご))を除くことであり、民の衣食を絶やさないことである』と愚考いたします。もし2賊(ぞく)(蜀(しょく)と呉(ご))が滅亡せず、士民が飢(う)え凍(こご)えておりますならば、宮室(宮殿)を立派にしたところで、何の意味もありません」

と上奏し、荊州刺史(けいしゅうしし)に昇進した。

脚注

*1曹叡(そうえい)は黄初(こうしょ)3年(222年)に平原王(へいげんおう)となったが、その前は斉侯(せいこう)であり、平原侯(へいげんこう)になったとの記録はない。平原侯(へいげんこう)となったのは曹植(そうしょく)であるが、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の父・毌丘興(かんきゅうこう)(毋丘興(ぶきゅうこう))の生前に転封されている。後(のち)の関係性から曹叡(そうえい)とした。

幽州刺史
遼東郡(りょうとうぐん)(公孫淵(こうそんえん))平定

青龍(せいりゅう)年間(233年〜237年)に曹叡(そうえい)が幽州(ゆうしゅう)・遼東郡(りょうとうぐん)(公孫淵(こうそんえん))討伐を計画した時、「策を立てる能力がある」として毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))を幽州刺史(ゆうしゅうしし)に転任させ、度遼将軍(とりょうしょうぐん)・使持節(しじせつ)・護烏丸校尉(ごうがんこうい)の官を加えた。

景初(けいしょ)元年(237年)7月、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が幽州(ゆうしゅう)の諸軍を率(ひき)いて遼東郡(りょうとうぐん)・襄平県(じょうへいけん)を越え、遼隧県(りょうすいけん)に駐屯すると、

  • 幽州(ゆうしゅう)・右北平郡(ゆうほくへいぐん)の烏丸(うがん)単于(ぜんう)・寇婁敦(こうろうとん)
  • 幽州(ゆうしゅう)・遼西郡(りょうせいぐん)の烏丸(うがん)都督(ととく)・率衆王(そつしゅうおう)・護留(ごりゅう)

ら、昔袁尚(えんしょう)と共に遼東郡(りょうとうぐん)に逃亡した者たちはその衆5千余人を率(ひき)いて降伏。公孫淵(こうそんえん)は毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))を迎え撃ったが、不利と見て引き揚(あ)げた。

翌年の景初(けいしょ)2年(238年)、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は太尉(たいい)の司馬懿(しばい)に中軍(ちゅうぐん)と毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))らを統率させ、数万の軍勢をもって公孫淵(こうそんえん)を征討させ、遼東郡(りょうとうぐん)は平定された。毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))はこの功績によって安邑侯(あんゆうこう)に爵位を進め、食邑(しょくゆう)3,900戸を与えられた。

高句驪(こうくり)(高句麗(こうくり))征伐

斉王(せいおう)・曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240年〜249年)、高句驪(こうくり)(高句麗(こうくり))が度(たび)々(たび)反逆して侵攻して来るため、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は諸軍の歩兵・騎兵1万人を指揮して幽州(ゆうしゅう)・玄菟郡(げんとぐん)を出発し、諸街道を通ってこれを討伐した。

これに句驪王(くりおう)(高句麗王(こうくりおう))の位宮(いきゅう)は歩兵・騎兵2万人を率(ひき)いて沸流水(ふつりゅうすい)(現在の鴨緑江(おうりょくこう))の畔(ほとり)に進出し、梁口(かつこう)で大会戦となったが、位宮(いきゅう)は負け戦(いくさ)を重ねて逃走した。

毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は馬を括(くく)って担(かつ)ぎ車を吊(つる)して丸都山(がんとざん)を登り、句驪(くり)(高句麗(こうくり))の都を破壊して、4桁(けた)にのぼる首級(しゅきゅう)と捕虜を得た。

句驪(くり)(高句麗(こうくり))の沛者(はいしゃ)・得来(とくらい)は度(たび)々(たび)位宮(いきゅう)を諫(いさ)めたが、位宮(いきゅう)はその言葉に従わなかったので、得来(とくらい)は嘆息(たんそく)して、

「たちまちのうちにこの地に蓬蒿(ほうこう)(ヨモギ)が生えるだろう」

と言い、食事を摂(と)らずに死んだので、高句麗(こうくり)の国民はみな彼を称(たた)え、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))も「得来(とくらい)の墓を破壊するな」「墓の木を伐(き)るな」「妻子を捕まえてもすべて釈放しろ」と諸軍に命令を下した。位宮(いきゅう)はただ1人、妻子を連れて逃げ隠れ、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は軍を引き揚(あ)げて帰還した。


正始(せいし)6年(245年)、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は再び征討を行い、宮(きゅう)(位宮(いきゅう))はついに買溝(ばいこう)[置溝婁(ちこうろう)(北沃沮(きたよくそ))]へと逃走。毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は玄菟太守(げんとたいしゅ)・王頎(おうき)にこれを追撃させ、王頎(おうき)は沃沮(よくそ)を過ぎて千余里(約430km)、粛慎氏(しゅくしんし)(挹婁国(ゆうろうこく)の古名)の南の境まで到達し、丸都山(がんとざん)の石に功績を刻(きざ)みつけて目印とし、不耐(ふたい)の城に銘文(めいぶん)を記(しる)した。

この軍功により侯(こう)となった者は百余人、山にトンネルを掘り灌漑(かんがい)を行ったので、その地の住民もその恩恵を受けた。

毌丘倹(毋丘倹)と文欽
合肥(がっぴ)新城の防衛

その後毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は左将軍(さしょうぐん)・仮節(かせつつ)・監(かん)豫州諸軍事(よしゅうしょぐんじ)に昇進し、豫州刺史(よしゅうしし)を兼任して鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に転任した。

嘉平(かへい)4年(252年)に諸葛誕(しょかつたん)が呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく)と東関(とうかん)で戦い敗れると、諸葛誕(しょかつたん)と毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の役目を交代させ、諸葛誕(しょかつたん)が鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・都督(ととく)豫州諸軍事(よしゅうしょぐんじ)となり、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・都督(ととく)揚州諸軍事(ようしゅうしょぐんじ)となった。

その後、呉(ご)の太傅(たいふ)・諸葛恪(しょかつかく)が合肥(がっぴ)の新城を包囲すると、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は文欽(ぶんきん)と共にこれを防ぎ、太尉(たいい)の司馬孚(しばふ)が中軍(ちゅうぐん)を指揮して東征し、包囲を解(と)いたので、諸葛恪(しょかつかく)は引き揚(あ)げ帰国した。

立場の悪化

毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は、嘉平(かへい)6年(254年)に誅殺(ちゅうさつ)された夏侯玄(かこうげん)・李豊(りほう)らと親しかった。

また、揚州刺史(ようしゅうしし)・前将軍(ぜんしょうぐん)の文欽(ぶんきん)は、曹爽(そうそう)と同じ村(邑(ゆう))の出身で、勇猛果断で粗暴(そぼう)なところがあり、度(たび)々(たび)戦功を立てたが、捕虜や戦利品の数を水増しして恩寵と賞与を求める傾向が強く、多くの場合、上申通りに認められなかったので、日毎(ひごと)に怨恨(えんこん)の情を募(つの)らせていた。

毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は考えるところがあって文欽(ぶんきん)を厚遇し、打ち解(と)けた好意を示すと、文欽(ぶんきん)は感激して彼を尊重し、心の底から忠実な態度を取った。

反乱の決行

高貴郷公(こうききょうこう)・曹髦(そうぼう)の正元(せいげん)2年(255年)正月、数十丈(じょう)の長さの彗星(すいせい)が出現し、西北の空一杯に尾を引いた。西北の空は呉(ご)・楚(そ)の分野に当たることから、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))と文欽(ぶんきん)は喜び、これを自分たちへの瑞兆(ずいちょう)(吉兆)と考えた。

そこで毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は、太后(たいこう)の詔(みことのり)を偽造して大将軍(だいしょうぐん)・司馬師(しばし)の罪状を書き連(つら)ね、軍国に送ると共に、兵を挙(あ)げて反乱を起こした。

そして、淮南(わいなん)の諸屯営を守る将兵や大小の吏民を脅してみな寿春県(じゅしゅんけん)に入城させ、城の西に祭壇(さいだん)を築いて血を啜(すす)り武器を挙(あ)げて誓いを立てると、老人と幼児を分けて城を守らせた。

毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))と文欽(ぶんきん)は、自(みずか)ら5〜6万の軍勢を率(ひき)いて淮水(わいすい)を渡り、西方の項城(こうじょう)に至ると、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は項城(こうじょう)を堅守し、文欽(ぶんきん)は城外にあって遊軍となった。


これに大将軍(だいしょうぐん)・司馬師(しばし)は中外の軍を統率して項城(こうじょう)を征討し、諸葛恪(しょかつかく)には豫州(よしゅう)の諸軍を指揮して安風津(あんふうしん)から寿春県(じゅしゅんけん)に向かう素振りをさせ、征東将軍(せいとうしょうぐん)・胡遵(こじゅん)には青州(せいしゅう)・徐州(じょしゅう)の軍を指揮して豫州(よしゅう)の譙県(しょうけん)と宋国(そうこく)の当たりで敵の退路を絶たせた。

司馬師(しばし)は豫州(よしゅう)・汝南郡(じょなんぐん)・汝陽県(じょようけん)に駐屯すると、監軍(かんぐん)の王基(おうき)に先鋒の諸軍を指揮させ、南頓県(なんとんけん)を占拠して敵を待つように命じ、諸軍にはみな「城壁を固めて戦闘を交(まじ)えてはならぬ」と命じた。

これにより毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))と文欽(ぶんきん)は前進しても戦うことができず、退(ひ)けば「寿春県(じゅしゅんけん)が襲撃されないか」と恐れて帰ることもできず、計策が行き詰(づ)まってしまった。

淮南(わいなん)の将兵たちの家はみな北にあったので、人々は意気消沈して散(ち)り散(ぢ)りとなり、降伏者が続出。ただ味方についたばかりの淮南(わいなん)の農民だけが命令に従った。


司馬師(しばし)は、兗州刺史(えんしゅうしし)の鄧艾(とうがい)に「兗州(えんしゅう)・泰山郡(たいざんぐん)の諸軍1万余人を指揮して楽嘉(らくか)まで行き、弱味を見せて敵を誘え」と命じ、自(みずか)らも洙(しゅ)に至った。

文欽(ぶんきん)はこの計略に気づかず、夜中に鄧艾(とうがい)らを襲撃しようとやって来たが、ちょうど夜が明けて意気盛んな大軍の兵馬が待ち構えているのを見て引き返した。司馬師(しばし)は驍騎(ぎょうき)(勇猛な騎兵)をもって追撃し、これを大いに撃ち破り、文欽(ぶんきん)を逃走させた。

この日、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は「文欽(ぶんきん)が敗れた」と聞くや、恐怖を覚えて夜のうちに逃走し、軍勢は潰滅(かいめつ)した。慎県(しんけん)に至る頃には側近の者たちや兵も彼を見(み)棄(す)てて去り、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は幼い弟(小弟)の毌丘秀(かんきゅうしゅう)(毋丘秀(ぶきゅうしゅう))と孫の毌丘重(かんきゅうちょう)(毋丘重(ぶきゅうちょう))だけを連れて水辺の草の中に身を潜(ひそ)めたが、安風津都尉(あんぷうしんとい)配下の張属(ちょうぞく)に射殺され、その首は京都(けいと)(洛陽(らくよう))へ送られた。


習鑿歯(しゅうさくし)は言う。

「毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))は、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))の顧命(こめい)(遺命(いめい))に感激したためにこの戦役(反乱)を起こしたのである。毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の計画は失敗に終わったが、忠臣と言って良いだろう。毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の行いは明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))に対して恥じることではない」


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毌丘秀(かんきゅうしゅう)(毋丘秀(ぶきゅうしゅう))

生没年不詳。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は毌丘興(かんきゅうこう)(毋丘興(ぶきゅうこう))。兄に毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))。

大将軍(だいしょうぐん)・司馬師(しばし)に対して反乱を起こした兄・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が敗死すると、大甥(おおおい)(兄弟の孫)の毌丘重(かんきゅうちょう)(毋丘重(ぶきゅうちょう))と共に呉(ご)に逃(のが)れた。


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第3世代(毌丘甸)

毌丘甸(かんきゅうてん)・子邦(しほう)(毋丘甸(ぶきゅうてん))

生年不詳〜魏(ぎ)の正元(せいげん)2年(255年)没。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))。女(むすめ)に毌丘芝(かんきゅうし)(毋丘芝(ぶきゅうし))。兄弟に毌丘宗(かんきゅうそう)(毋丘宗(ぶきゅうそう))。妻は荀氏(じゅんし)。

京邑(けいゆう)(洛陽(らくよう))で名声があり、治書侍御史(ちしょじぎょし)であった。

父・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の「反乱の謀(はかりごと)」が実行に移されようとしているのを知り、秘かに家族を連れて新安霊山(しんあんれいざん)の山上に逃走したが、大将軍(だいしょうぐん)・司馬師(しばし)の別軍の攻撃を受け、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の三族は皆殺しにされた。

備考

『魏書(ぎしょ)』毌丘倹伝(かんきゅうけんでん)が注に引く『世語(せご)』では、

「嘉平(かへい)6年(254年)に斉王(せいおう)・曹芳(そうほう)が廃位された時、毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))は父・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))に向かって、

『1方面の長官という重任に就(つ)いておられる父上が、国家が傾(かたむ)き覆(くつがえ)ろうとしている時に落ち着き払って自(みずか)らの身を守っておられるとは。四海(しかい)(天下)の責(せ)めを負(お)うことになりますぞ』

と言い、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))もその通りだと思った」

と、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))に反乱を起こすことを勧めており、反乱前に逃亡した本文の内容と食い違っている。


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毌丘宗(かんきゅうそう)・子仁(しじん)(毋丘宗(ぶきゅうそう))

生没年不詳。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))。兄弟に毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))。

高貴郷公(こうききょうこう)・曹髦(そうぼう)の正元(せいげん)2年(255年)に反乱の兵を挙(あ)げた父・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))によって、子の毌丘宗(かんきゅうそう)(毋丘宗(ぶきゅうそう))ら4人は呉(ご)に派遣された。

晋(しん)の太康(たいこう)年間(280年〜289年)に呉(ご)が平定されると、毌丘宗(かんきゅうそう)(毋丘宗(ぶきゅうそう))兄弟はみな中国に帰還した。

父・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の風格を持ち、官は零陵太守(れいりょうたいしゅ)に至った。


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第4世代(毌丘芝・毌丘奥)

毌丘芝(かんきゅうし)(毋丘芝(ぶきゅうし))

生没年不詳。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))。祖父は毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))。潁川太守(えいせんたいしゅ)・劉子元(りゅうしげん)の妻。

大将軍(だいしょうぐん)・司馬師(しばし)に対して反乱を起こした祖父・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が敗死すると、子の毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))とその妻・荀氏(じゅんし)、毌丘甸(かんきゅうてん)(毋丘甸(ぶきゅうてん))の女(むすめ)の毌丘芝(かんきゅうし)(毋丘芝(ぶきゅうし))も、毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))の罪に連座して死罪を宣告された。

この時荀氏(じゅんし)は、族兄(ぞくけい)の武衛将軍(ぶえいしょうぐん)・荀顗(じゅんぎ)らの働きかけによって死罪を免(まぬか)れて放免されたが、毌丘芝(かんきゅうし)(毋丘芝(ぶきゅうし))は詔(みことのり)により離縁され、身重(みおも)の身で廷尉(ていい)に拘留(こうりゅう)されたままだった。

そこで荀氏(じゅんし)が廷尉(ていい)の元に出頭して「官婢(かんぴ)となって娘の命を償(つぐな)いたい」と願い出ると、司隸校尉(しれいこうい)の何曾(かそう)は主簿(しゅぼ)の程咸(ていかん)に次のような審議書を作らせた。

「大魏(たいぎ)は秦(しん)・漢(かん)の疲弊(ひへい)の後を受け、まだ制度を改革するには至っておりません。すでに嫁に出した娘を後から処刑する理由は、実際、悪人の一族を絶滅したいからです。しかし、もしすでに子をもうけております時には、他家の母となっているわけです。それを処刑するとなると、予防の観点からすれば姦悪(かんあく)反乱の根源を懲(こ)らしめるに不充分ですし、心情の観点からすれば、孝子の思慕(しぼ)の念を損なうことになります。男は他の氏族の罪に連座することはございませんのに、女だけが両家の処刑に引っかかるのは、弱い女を哀(あわ)れみ、法律制度の大原則を平等に施行するやり方に外れております。臣(わたくし)が考えますには、嫁入り前の娘は父母の刑罰に従うのがよろしく、すでに婚礼の杯を受けた嫁は、夫の家の処刑に従わせるのが良いと存じます」

朝廷はこの意見に従って法律を制定した。

明記されていないが、これにより毌丘芝(かんきゅうし)(毋丘芝(ぶきゅうし))も釈放されたものと思われる。


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毌丘奥(かんきゅうおう)(毋丘奥(ぶきゅうおう))

生没年不詳。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は毌丘宗(かんきゅうそう)(毋丘宗(ぶきゅうそう))。

巴東監軍(はとうかんぐん)・益州刺史(えきしゅうしし)となった。


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毌丘重(かんきゅうちょう)(毋丘重(ぶきゅうちょう))

生没年不詳。司隸(しれい)・河東郡(かとうぐん)・聞喜県(ぶんきけん)の人。父は不明。祖父は毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))。

大将軍(だいしょうぐん)・司馬師(しばし)に対して反乱を起こした祖父・毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))が敗死すると、叔祖父(おおおじ)の毌丘秀(かんきゅうしゅう)(毋丘秀(ぶきゅうしゅう))と共に呉(ご)に逃(のが)れた。


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出身地(本籍・本貫)不明の毌丘氏

毌丘毅

毌丘毅(かんきゅうき)(毋丘毅(ぶきゅうき))

生没年不詳。後漢(ごかん)・霊帝(れいてい)期の都尉(とい)。

霊帝(れいてい)の末年、大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の命令により、揚州(ようしゅう)・丹楊郡(たんようぐん)(丹陽郡(たんようぐん))に派遣されて兵を募集した。

この時、官職を棄(す)てて逃亡中の劉備(りゅうび)が、毌丘毅(かんきゅうき)(毋丘毅(ぶきゅうき))の募兵に同行した。


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【三国志人物伝】総索引