正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(59)河東郡毌丘氏(毌丘興・毌丘倹・毌丘秀・毌丘甸・毌丘宗・毌丘芝・毌丘奥・毌丘重)と、出身地(本籍・本貫)不明の毌丘氏(毌丘毅)です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東郡毌丘氏系図
河東郡毌丘氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
毌丘甸(毋丘甸)と毌丘宗(毋丘宗)の兄弟の順は不明。
この記事では河東郡毌丘氏の人物、
出身地(本籍・本貫)不明の毌丘氏、
についてまとめています。
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か(59)河東毌丘氏(毋丘氏)
第1世代(毌丘興)
毌丘興(毋丘興)
生没年不詳。司隸・河東郡・聞喜県の人。子に毌丘倹(毋丘倹)、毌丘秀(毋丘秀)。
黄初年間(220年〜226年)に武威太守となると、内は官民を慰撫し、外は羌・胡を懐柔して従属させ、漢民と蛮民が雑居していて度々戦火に見舞われる河右(黄河上流以西)の地を落ち着かせたことにより、金城太守・蘇則に次ぐ名声を挙げた。
賊徒・黄華と張進が反乱を企てて周りの者たちを煽動した際には、忠烈の意気を燃やして危難を前に一身を顧みず、将校や漢民・蛮民に利害を説いた。その言葉は聞いた者の涙を誘い、1万人の男女はみな感激して形振り構わず髪を振り乱し、心中に命を捧げることを誓った。
その後、精鋭を率いて張掖郡の賊徒を圧倒し、張掖太守の杜通と西海太守の張睦を救出した。すると、張掖郡の番和県、驪靬県の官民や郡内の雑多な蛮民たちは、悪人を見棄てて毌丘興(毋丘興)の元にやって来たので、毌丘興(毋丘興)は彼らすべてを労って農耕に尽力させた。
この功績によって高陽郷侯に封ぜられ、中央に入って将作大匠となった。
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第2世代(毌丘倹・毌丘秀)
毌丘倹・仲恭(毋丘倹)
生年不詳〜魏の正元2年(255年)没。司隸・河東郡・聞喜県の人。父は毌丘興(毋丘興)。子に毌丘甸(毋丘甸)、毌丘宗(毋丘宗)。
明帝(曹叡)に寵遇される
父の爵位(高陽郷侯)を継承し、平原侯(曹叡)*1の文学となった。
魏の黄初7年(226年)に明帝(曹叡)が即位すると尚書郎となり、その後羽林監に昇進。明帝(曹叡)が東宮にいた頃から非常に親しい待遇を受けた。
その後、地方に出て洛陽の典農となったが、ちょうどその頃、明帝(曹叡)が農民を徴発して宮室(宮殿)を増築した。すると毌丘倹(毋丘倹)は、
「臣は『天下にとって大切なことは、2賊(蜀と呉)を除くことであり、民の衣食を絶やさないことである』と愚考いたします。もし2賊(蜀と呉)が滅亡せず、士民が飢え凍えておりますならば、宮室(宮殿)を立派にしたところで、何の意味もありません」
と上奏し、荊州刺史に昇進した。
脚注
*1曹叡は黄初3年(222年)に平原王となったが、その前は斉侯であり、平原侯になったとの記録はない。平原侯となったのは曹植であるが、毌丘倹(毋丘倹)の父・毌丘興(毋丘興)の生前に転封されている。後の関係性から曹叡とした。
幽州刺史
遼東郡(公孫淵)平定
青龍年間(233年〜237年)に曹叡が幽州・遼東郡(公孫淵)討伐を計画した時、「策を立てる能力がある」として毌丘倹(毋丘倹)を幽州刺史に転任させ、度遼将軍・使持節・護烏丸校尉の官を加えた。
景初元年(237年)7月、毌丘倹(毋丘倹)が幽州の諸軍を率いて遼東郡・襄平県を越え、遼隧県に駐屯すると、
- 幽州・右北平郡の烏丸単于・寇婁敦
- 幽州・遼西郡の烏丸都督・率衆王・護留
ら、昔袁尚と共に遼東郡に逃亡した者たちはその衆5千余人を率いて降伏。公孫淵は毌丘倹(毋丘倹)を迎え撃ったが、不利と見て引き揚げた。
翌年の景初2年(238年)、明帝(曹叡)は太尉の司馬懿に中軍と毌丘倹(毋丘倹)らを統率させ、数万の軍勢をもって公孫淵を征討させ、遼東郡は平定された。毌丘倹(毋丘倹)はこの功績によって安邑侯に爵位を進め、食邑3,900戸を与えられた。
高句驪(高句麗)征伐
斉王・曹芳の正始年間(240年〜249年)、高句驪(高句麗)が度々反逆して侵攻して来るため、毌丘倹(毋丘倹)は諸軍の歩兵・騎兵1万人を指揮して幽州・玄菟郡を出発し、諸街道を通ってこれを討伐した。
これに句驪王(高句麗王)の位宮は歩兵・騎兵2万人を率いて沸流水(現在の鴨緑江)の畔に進出し、梁口で大会戦となったが、位宮は負け戦を重ねて逃走した。
毌丘倹(毋丘倹)は馬を括って担ぎ車を吊して丸都山を登り、句驪(高句麗)の都を破壊して、4桁にのぼる首級と捕虜を得た。
句驪(高句麗)の沛者・得来は度々位宮を諫めたが、位宮はその言葉に従わなかったので、得来は嘆息して、
「たちまちのうちにこの地に蓬蒿(ヨモギ)が生えるだろう」
と言い、食事を摂らずに死んだので、高句麗の国民はみな彼を称え、毌丘倹(毋丘倹)も「得来の墓を破壊するな」「墓の木を伐るな」「妻子を捕まえてもすべて釈放しろ」と諸軍に命令を下した。位宮はただ1人、妻子を連れて逃げ隠れ、毌丘倹(毋丘倹)は軍を引き揚げて帰還した。
正始6年(245年)、毌丘倹(毋丘倹)は再び征討を行い、宮(位宮)はついに買溝[置溝婁(北沃沮)]へと逃走。毌丘倹(毋丘倹)は玄菟太守・王頎にこれを追撃させ、王頎は沃沮を過ぎて千余里(約430km)、粛慎氏(挹婁国の古名)の南の境まで到達し、丸都山の石に功績を刻みつけて目印とし、不耐の城に銘文を記した。
この軍功により侯となった者は百余人、山にトンネルを掘り灌漑を行ったので、その地の住民もその恩恵を受けた。
毌丘倹(毋丘倹)と文欽
合肥新城の防衛
その後毌丘倹(毋丘倹)は左将軍・仮節・監豫州諸軍事に昇進し、豫州刺史を兼任して鎮南将軍に転任した。
嘉平4年(252年)に諸葛誕が呉の諸葛恪と東関で戦い敗れると、諸葛誕と毌丘倹(毋丘倹)の役目を交代させ、諸葛誕が鎮南将軍・都督豫州諸軍事となり、毌丘倹(毋丘倹)が鎮東将軍・都督揚州諸軍事となった。
その後、呉の太傅・諸葛恪が合肥の新城を包囲すると、毌丘倹(毋丘倹)は文欽と共にこれを防ぎ、太尉の司馬孚が中軍を指揮して東征し、包囲を解いたので、諸葛恪は引き揚げ帰国した。
立場の悪化
毌丘倹(毋丘倹)は、嘉平6年(254年)に誅殺された夏侯玄・李豊らと親しかった。
また、揚州刺史・前将軍の文欽は、曹爽と同じ村(邑)の出身で、勇猛果断で粗暴なところがあり、度々戦功を立てたが、捕虜や戦利品の数を水増しして恩寵と賞与を求める傾向が強く、多くの場合、上申通りに認められなかったので、日毎に怨恨の情を募らせていた。
毌丘倹(毋丘倹)は考えるところがあって文欽を厚遇し、打ち解けた好意を示すと、文欽は感激して彼を尊重し、心の底から忠実な態度を取った。
反乱の決行
高貴郷公・曹髦の正元2年(255年)正月、数十丈の長さの彗星が出現し、西北の空一杯に尾を引いた。西北の空は呉・楚の分野に当たることから、毌丘倹(毋丘倹)と文欽は喜び、これを自分たちへの瑞兆(吉兆)と考えた。
そこで毌丘倹(毋丘倹)は、太后の詔を偽造して大将軍・司馬師の罪状を書き連ね、軍国に送ると共に、兵を挙げて反乱を起こした。
そして、淮南の諸屯営を守る将兵や大小の吏民を脅してみな寿春県に入城させ、城の西に祭壇を築いて血を啜り武器を挙げて誓いを立てると、老人と幼児を分けて城を守らせた。
毌丘倹(毋丘倹)と文欽は、自ら5〜6万の軍勢を率いて淮水を渡り、西方の項城に至ると、毌丘倹(毋丘倹)は項城を堅守し、文欽は城外にあって遊軍となった。
これに大将軍・司馬師は中外の軍を統率して項城を征討し、諸葛恪には豫州の諸軍を指揮して安風津から寿春県に向かう素振りをさせ、征東将軍・胡遵には青州・徐州の軍を指揮して豫州の譙県と宋国の当たりで敵の退路を絶たせた。
司馬師は豫州・汝南郡・汝陽県に駐屯すると、監軍の王基に先鋒の諸軍を指揮させ、南頓県を占拠して敵を待つように命じ、諸軍にはみな「城壁を固めて戦闘を交えてはならぬ」と命じた。
これにより毌丘倹(毋丘倹)と文欽は前進しても戦うことができず、退けば「寿春県が襲撃されないか」と恐れて帰ることもできず、計策が行き詰まってしまった。
淮南の将兵たちの家はみな北にあったので、人々は意気消沈して散り散りとなり、降伏者が続出。ただ味方についたばかりの淮南の農民だけが命令に従った。
司馬師は、兗州刺史の鄧艾に「兗州・泰山郡の諸軍1万余人を指揮して楽嘉まで行き、弱味を見せて敵を誘え」と命じ、自らも洙に至った。
文欽はこの計略に気づかず、夜中に鄧艾らを襲撃しようとやって来たが、ちょうど夜が明けて意気盛んな大軍の兵馬が待ち構えているのを見て引き返した。司馬師は驍騎(勇猛な騎兵)をもって追撃し、これを大いに撃ち破り、文欽を逃走させた。
この日、毌丘倹(毋丘倹)は「文欽が敗れた」と聞くや、恐怖を覚えて夜のうちに逃走し、軍勢は潰滅した。慎県に至る頃には側近の者たちや兵も彼を見棄てて去り、毌丘倹(毋丘倹)は幼い弟(小弟)の毌丘秀(毋丘秀)と孫の毌丘重(毋丘重)だけを連れて水辺の草の中に身を潜めたが、安風津都尉配下の張属に射殺され、その首は京都(洛陽)へ送られた。
習鑿歯は言う。
「毌丘倹(毋丘倹)は、明帝(曹叡)の顧命(遺命)に感激したためにこの戦役(反乱)を起こしたのである。毌丘倹(毋丘倹)の計画は失敗に終わったが、忠臣と言って良いだろう。毌丘倹(毋丘倹)の行いは明帝(曹叡)に対して恥じることではない」
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生没年不詳。司隸・河東郡・聞喜県の人。父は毌丘興(毋丘興)。兄に毌丘倹(毋丘倹)。
大将軍・司馬師に対して反乱を起こした兄・毌丘倹(毋丘倹)が敗死すると、大甥(兄弟の孫)の毌丘重(毋丘重)と共に呉に逃れた。
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毌丘甸・子邦(毋丘甸)
生年不詳〜魏の正元2年(255年)没。司隸・河東郡・聞喜県の人。父は毌丘倹(毋丘倹)。女に毌丘芝(毋丘芝)。兄弟に毌丘宗(毋丘宗)。妻は荀氏。
京邑(洛陽)で名声があり、治書侍御史であった。
父・毌丘倹(毋丘倹)の「反乱の謀」が実行に移されようとしているのを知り、秘かに家族を連れて新安霊山の山上に逃走したが、大将軍・司馬師の別軍の攻撃を受け、毌丘倹(毋丘倹)の三族は皆殺しにされた。
備考
『魏書』毌丘倹伝が注に引く『世語』では、
「嘉平6年(254年)に斉王・曹芳が廃位された時、毌丘甸(毋丘甸)は父・毌丘倹(毋丘倹)に向かって、
『1方面の長官という重任に就いておられる父上が、国家が傾き覆ろうとしている時に落ち着き払って自らの身を守っておられるとは。四海(天下)の責めを負うことになりますぞ』
と言い、毌丘倹(毋丘倹)もその通りだと思った」
と、毌丘倹(毋丘倹)に反乱を起こすことを勧めており、反乱前に逃亡した本文の内容と食い違っている。
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生没年不詳。司隸・河東郡・聞喜県の人。父は毌丘倹(毋丘倹)。兄弟に毌丘甸(毋丘甸)。
高貴郷公・曹髦の正元2年(255年)に反乱の兵を挙げた父・毌丘倹(毋丘倹)によって、子の毌丘宗(毋丘宗)ら4人は呉に派遣された。
晋の太康年間(280年〜289年)に呉が平定されると、毌丘宗(毋丘宗)兄弟はみな中国に帰還した。
父・毌丘倹(毋丘倹)の風格を持ち、官は零陵太守に至った。
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生没年不詳。司隸・河東郡・聞喜県の人。父は毌丘甸(毋丘甸)。祖父は毌丘倹(毋丘倹)。潁川太守・劉子元の妻。
大将軍・司馬師に対して反乱を起こした祖父・毌丘倹(毋丘倹)が敗死すると、子の毌丘甸(毋丘甸)とその妻・荀氏、毌丘甸(毋丘甸)の女の毌丘芝(毋丘芝)も、毌丘倹(毋丘倹)の罪に連座して死罪を宣告された。
この時荀氏は、族兄の武衛将軍・荀顗らの働きかけによって死罪を免れて放免されたが、毌丘芝(毋丘芝)は詔により離縁され、身重の身で廷尉に拘留されたままだった。
そこで荀氏が廷尉の元に出頭して「官婢となって娘の命を償いたい」と願い出ると、司隸校尉の何曾は主簿の程咸に次のような審議書を作らせた。
「大魏は秦・漢の疲弊の後を受け、まだ制度を改革するには至っておりません。すでに嫁に出した娘を後から処刑する理由は、実際、悪人の一族を絶滅したいからです。しかし、もしすでに子をもうけております時には、他家の母となっているわけです。それを処刑するとなると、予防の観点からすれば姦悪反乱の根源を懲らしめるに不充分ですし、心情の観点からすれば、孝子の思慕の念を損なうことになります。男は他の氏族の罪に連座することはございませんのに、女だけが両家の処刑に引っかかるのは、弱い女を哀れみ、法律制度の大原則を平等に施行するやり方に外れております。臣が考えますには、嫁入り前の娘は父母の刑罰に従うのがよろしく、すでに婚礼の杯を受けた嫁は、夫の家の処刑に従わせるのが良いと存じます」
朝廷はこの意見に従って法律を制定した。
明記されていないが、これにより毌丘芝(毋丘芝)も釈放されたものと思われる。
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生没年不詳。司隸・河東郡・聞喜県の人。父は不明。祖父は毌丘倹(毋丘倹)。
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出身地(本籍・本貫)不明の毌丘氏
毌丘毅
毌丘毅(毋丘毅)
生没年不詳。後漢・霊帝期の都尉。
霊帝の末年、大将軍の何進の命令により、揚州・丹楊郡(丹陽郡)に派遣されて兵を募集した。
この時、官職を棄てて逃亡中の劉備が、毌丘毅(毋丘毅)の募兵に同行した。