正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(58)[葛嬰・葛奚・葛光・葛衡(葛衜)・葛青(管青)・葛都尉・葛盧]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(58)
葛(かつ)
葛嬰
生年不詳〜秦の二世元年(紀元前209年)没。符離の人。秦末の陳勝・呉広の乱における陳勝の部将。
秦の二世元年(紀元前209年)7月、葛嬰は陳勝・呉広の乱に参加し、将軍に任命された。
する前のこと。葛嬰は命令をうけて蘄県以東に進軍し、蘄県・銍県・酇県・苦県・柘県・譙県を攻略した。すると諸県からこぞって豪傑たちが参加し、葛嬰の軍勢は数万人に膨れ上がり、軍を進めて東城に至ると、葛嬰は楚国の旧公族・襄彊を楚王に立てた。
9月、「陳勝が陳県を占拠して陳王(楚王?)を称し、張楚政権を樹立したこと」を聞いた葛嬰は、陳勝への忠誠の証として襄彊を殺害し、報告のため陳県に還ったが、陳勝に殺害された。
葛氏と諸葛姓
『呉書』諸葛瑾伝が注に引く『風俗通』に、
「前漢の孝文帝が葛嬰の生前の功績を認めてその孫を諸県侯に封じた。そこで『諸』と『葛』の2字を合わせて氏(諸葛)としたのである」
とある。
また「諸葛」の氏の成り立ちについて、同じく注に引かれている『呉書』には、
「(諸葛瑾の)先祖の葛氏は、元は徐州・琅邪国・諸県の人であったが、後に陽都県に家を移した。陽都県には以前から『葛』という姓の者が住んでいたので、人々は諸県から移ってきた葛氏を『諸葛』と呼んで区別したが、それをそのまま氏とした」
とあり、『風俗通』の記述と一致しない。
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葛奚
生没年不詳。呉の孫晧(孫皓)期の鴻臚。先帝から仕えた呉の旧臣。
驕り高ぶった孫晧(孫皓)を諫めた賀邵の言葉の中に、
「鴻臚の葛奚は先帝さまにお仕えした旧臣であり、たまたまお耳に逆らう言葉を発しましても、それは酔った上での発言に過ぎません。杯が3度回った後は、礼によって『言行は取り締まれない』とされておりますものを、陛下はみだりに雷霆の怒りを発せられ、『葛奚がご自分を軽視しているのだ』と考えられて無理矢理濃い酒を飲ませられ、その中毒のために命を隕したのでありました」
とある。
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葛光
生没年不詳。呉の臣下。
配下の凌統が病死すると、孫権は彼の幼い息子である凌烈と凌封を宮中に引き取って養育し、自分の息子たちと同じように愛しんで、賓客が目通りすることがあると、孫権は2人を呼んで客人に会わせ、「これは儂の虎の子なんだ(此吾虎子也)」と言った。
凌烈と凌封が8、9歳となると、葛光に命じて彼らに書物を教えさせ、10日に1度は乗馬の訓練をさせた。
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葛衡・思真(葛衜)
生没年不詳。呉の天官(太史令?)。
天文に明るく、また機械作りに巧みであった。
葛衡が作った「渾天(天球儀)」は、大地を中心に置き、機械仕掛けでこれを動かすと、大地は静止したまま天球が回転し、実際の天体の運行を再現することができた。
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葛青(管青)*1
生没年不詳。
『蜀書』郤正伝が注に引く『淮南子』斉俗訓に名前が登場する。
郤正が著した『釋譏』(「批判に対する釈明」の意)の「辞」に、
「昔(良馬を見分ける場合)、九方は最高の馬に潜む精気を観察し、秦牙は外貌の善し悪しに思いを凝らした」
とあり、これに対する注に、
「伯楽・寒風・秦牙・葛青は、鑑定の仕方はそれぞれ異なったが、馬を知っている点では同じであった」
とある。
脚注
*1注原文の葛青は『淮南子』では管青に作る。
『淮南子』原文:伯樂、韓風、秦牙、管青,所相各異,其知馬一也。
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葛都尉
生没年不詳。孫権配下の都尉。
『魏書』公孫淵伝が注に引く『魏書』の、公孫淵の孫権への上奏文の中に名前が登場する。
太和2年(228年)に公孫恭を脅迫して位を奪い取った公孫淵は、魏の明帝(曹叡)から揚烈将軍・遼東太守の位を授けられながら、南方へ使者を遣わして呉の孫権と誼を通じ、贈り物のやり取りをした。
この時孫権の方からは、裴校尉(裴潜)と葛都尉らが相継いで遣わされた。
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葛盧
生没年不詳。春秋時代の介国の使者。
魯の僖公29年(紀元前631年)春、介国の葛盧が朝見に来て、昌衍山の傍らに宿泊したが、僖公が会合に出掛けていたため、葛盧に乾草と食糧を贈った。
冬、前回僖公に面会できなかったため、介国の葛盧が再び来朝した。僖公はこれを礼遇し、饗宴の際に引き出物を追加した。
介国の葛盧は、牛の鳴き声を聞いて、
「『この牛は仔牛を3頭生んだが、みな犠牲に用いられた』鳴き声でそう言っています」
と言うので、調べてみるとその通りだった。
『魏書』管輅伝が注に引く『管輅別伝』の管輅の言葉の中に名前が登場する。
議論が巧みであった冀州・勃海郡出身の劉長仁は「管輅が鳥の鳴き声を理解することができる」と聞いて以降、管輅に会う度に「鳥の鳴き声を理解することができるはずがない」と論じて非難した。
これに管輅は、禽獣の言葉を理解した人物の例として、
「『葛盧は牛の鳴き声を聞き分けた』と『春秋』にはっきりと書かれております」
と言った。
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