西羌せいきょうの諸種族と中国(後漢ごかん光武帝こうぶてい明帝めいてい章帝しょうてい和帝わてい期)の関係についてまとめています。

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西羌と中国の関係③後漢①

光武帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ滇良てんりょう

焼当種の再起
  • 滇良てんりょうは、焼当しょうとう玄孫げんそん(孫の孫)に当たります。焼当しょうとうから滇良てんりょうに至るまで、代々黄河こうがの北の大允谷だいいんこくに居住していましたが、種族の勢力は小さく、まずしい生活をしていました。

そのため滇良てんりょうは、しばしば強大な勢力を持つ先零羌せんれいきょう卑湳羌ひだんきょうの侵犯を受け、長い間あなどられていることに憤怒ふんどしていました。

  • 滇良てんりょうはもともと種族の中で恩信があり、この時*1、部落ともろもろの雑種を終結して大榆だいゆから侵入して先零羌せんれいきょう卑湳羌ひだんきょうを襲撃して大いに破り、3千人を殺害して財物と家畜を略奪し、その土地を奪って大榆だいゆの中に居住しました。
  • 滇良てんりょう種(焼当種しょうとうしゅ)はこれにより初めて強大な勢力を持つようになりました。
脚注

*1後漢ごかん建武けんぶ12年(36年)〜建武けんぶ中元ちゅうげん元年(56年)頃。後漢書ごかんじょ西羌伝せいきょうでんでは、後漢ごかん建武けんぶ12年(36年)の「武都郡ぶとぐん参狼羌さんろうきょうの反乱」の後にこれがしるされています。

光武帝の羌族対策
  • 後漢ごかん光武帝こうぶてい建武けんぶ9年(33年)、隗囂かいごうが亡くなると、司徒掾しとえん班彪はんぴょうは「旧制にならって益州部えきしゅうぶ蛮夷騎都尉ばんいきとい幽州部ゆうしゅうぶ領烏桓校尉りょううがんこうい涼州部りょうしゅうぶ護羌校尉ごきょうこういを置くように」と上言しました。
班彪の上言・全文
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今や凉州部りょうしゅうぶには至る所に降伏したきょうがおります。羌胡きょうこはざんばら髪でえりを左前にし、漢人かんじんと雑居しているものの、その習俗は異なっており、言語は通じません。そのためしばしば小吏しょうりのずる賢い者に略奪され、うらみをつのらせたまま楽しむことがないために反乱を起こすのです。蛮夷ばんいの反乱はみなこうしたことが原因です。

旧制では益州部えきしゅうぶには蛮夷騎都尉ばんいきといを置き、幽州部ゆうしゅうぶには領烏桓校尉りょううがんこういを置き、涼州部りょうしゅうぶには護羌校尉ごきょうこういを置いて、みなせつを持たせてそれぞれが担当する異民族を統率・保護させ、その鬱屈うっくつした怨恨えんこんおさめ、歲時さいじ(季節ごと)に巡行して彼らの苦しみをたずねさせました。

またしばしば使者と通訳を派遣してその動勢に通じ、塞外さいがいかんの国境外)の羌夷きょういを役人の耳目とし、州郡はこれによって警備することができました。今こそどうか再び旧制の通りにして、威信ある防備を明確にすべきです。


すると光武帝こうぶていは、班彪はんぴょうの上言に従ってすぐに牛邯ぎゅうかん護羌校尉ごきょうこういとし、せつを持たせて旧制の通りとしましたが、牛邯ぎゅうかんが亡くなると護羌校尉ごきょうこういの職は廃止されました。

先零羌の反乱
  • 建武けんぶ10年(34年)、先零羌せんれいきょうごう(首領)が諸種族と結び、また金城郡きんじょうぐん隴西郡ろうせいぐんを荒らしましたが、中郎将ちゅうろうしょう来歙らいきゅうらを派遣してこれを撃ち、大いに撃ち破りました。
  • 建武けんぶ11年(35年)夏、先零羌せんれいきょう先零種せんれいしゅ)が再び涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん臨洮県りんとうけんを荒らしたので、隴西太守ろうせいたいしゅ馬援ばえんがこれを撃ち破り、降伏させました。

のち先零羌せんれいきょう先零種せんれいしゅ)はことごとく帰服し、移住させて天水郡てんすいぐん隴西郡ろうせいぐん右扶風ゆうふふうの3郡に移住させました。

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ滇吾てんご

参狼羌の反乱
  • 建武けんぶ12年(36年)、武都郡ぶとぐん参狼羌さんろうきょうが反乱を起こしましたが、また馬援ばえんがこれを撃ち破り、降伏させました。
  • 滇良てんりょうの子の滇吾てんごごう(首領)に即位しました。
  • 建武けんぶ中元ちゅうげん元年(56年)、武都郡ぶとぐん参狼羌さんろうきょうが反乱を起こして役人たちを殺害・略奪し、武都太守ぶとたいしゅがこれと戦いましたが、勝てませんでした。

そこで隴西太守ろうせいたいしゅ劉盱りゅうく従事じゅうじ辛都しんと監軍掾かんぐんえん李苞りほうに5千人をひきいさせ、武都郡ぶとぐんおもむいてきょうと戦わせてそのごう(首領)を斬り、千人余りを斬首・捕虜としました。

またこの時、武都郡ぶとぐんの兵もまた、さらにこれを破って千級余りを斬首し、残党はことごとく降伏しました。

焼当羌・滇吾の隆盛
  • 以降、滇吾てんごの部落はようやく盛んとなり、辺境を侵略しようとする者が現れるたびに、滇吾てんごは徐々に方略を教えてその渠帥きょすいとなりました。
  • 建武けんぶ中元ちゅうげん2年(57年)秋、焼当羌しょうとうきょう滇吾てんごは、弟の滇岸てんがんと共に歩兵・騎兵5千をひきいて隴西郡ろうせいぐんとりでを侵略しました。隴西太守ろうせいたいしゅ劉盱りゅうく枹罕県ほうかんけんに派兵してこれを攻撃したが勝つことができず、また允街県えんかいけんではきょうに敗れて5百人余りを殺害されました。ここにおいて、かんに従ってとりでを守備していた諸きょうはみな滇吾てんごに復して侵略に加わります。

かん謁者えっしゃ張鴻ちょうこうに諸郡の兵をひきいさせ、允吾県えんがけん唐谷城とうこくじょうで戦ったが、軍は敗れて張鴻ちょうこう隴西郡ろうせいぐん長史ちょうし田颯でんりつは戦死し、また白石県はくせきけんでも天水郡てんすいぐんの兵が牢姐種ろうしゃしゅに敗れ、千余人の戦死者を出しました。

明帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ滇吾てんご

焼何種の比銅鉗
  • 焼何種しょうかしゅごう(首領)に比銅鉗ひどうけんという婦人がおり、年齢は百余歲、智略にすぐれ、種族の者たちの信頼を得てみな彼女に従って計略を立てていました。

当時、焼何種しょうかしゅ盧水胡ろすいこの攻撃を受けており、そこで比銅鉗ひどうけんは種族をひきいてかんを頼って郡県にやって来ました。ところが焼何種しょうかしゅの中に罪を犯した者がいたので、臨羌県長りんきょうけんちょう比銅鉗ひどうけんを収監し、焼何種しょうかしゅ600人〜700人を殺害しました。

顕宗けんそう明帝めいてい)はこれをあわれみ、


「今、国家わたしに徳がなく、恩は遠方まで及ばなかった。か弱い者たちに何の罪があって命を落とさねばならぬのか。

罪は太守たいしゅ長吏ちょうりがみだりに殺戮を加えたことにある。比銅鉗ひどうけんが健在であれば、現地にて医薬品を送って養生させ、種族の者たちを招集せよ。もし故地に帰りたいという者があれば、手厚くこれを送ってやるように。

弱小な種族で、もし手を縛ってみずから出頭し、功績をげたいという者がいれば、いずれもその罪を免除せよ。もし反逆をはかって役人に捕らえられ、まだ判決が下っていない者がいれば、すべて功績あるものにたまうように」


みことのりを下しました。

焼当羌・滇吾の降伏
  • 永平えいへい元年(58年)、また中郎将ちゅうろうしょう竇固とうこ捕虜将軍ほりょしょうぐん馬武ばぶらを派遣して焼当羌しょうとうきょう滇吾てんご西邯せいかんで攻撃させ、大いにこれを破りました。滇吾てんごが遠く退しりぞき、残党が散り散りになって降伏すると、7千こう三輔さんぽに移住させて、謁者えっしゃ竇林とうりん護羌校尉ごきょうこういを兼任させ、狄道てきどうに駐屯させました。

竇林とうりんは諸きょうから信頼され、ついに滇吾てんごの弟・滇岸てんがん竇林とうりんの元に出頭して降伏しましたが、竇林とうりんは下級役人にあざむかれ、あやまって「滇岸てんがん大豪たいごうである」と奏上し、天子てんし明帝めいてい)の命令にもとづいて滇岸てんがん帰義侯きぎこうに封じ、漢大都尉かんだいといの称号を加えました。

翌年の永平えいへい2年(59年)に滇吾てんごが降伏すると、竇林とうりんはまた「滇吾てんごを第一のごうである」と上奏し、共に宮城にやって来て謁見えっけんしました。

明帝めいていは「1つの種族に2人の大豪たいごうがいること」を怪しみ、「事実ではないのではないか」と疑って竇林とうりん詰問きつもんしたところ、竇林とうりんは言葉にきゅうして「滇岸てんがんとは滇吾てんごのことです。隴西ろうせいの言語が正確ではなかったのです」といつわって答えました。明帝めいていは調査の手を尽くして実態を知り、竇林とうりん罷免ひめんします。またちょうどこの時、凉州刺史りょうしゅうししが「竇林とうりんの収賄罪」を上奏したので、竇林とうりんごくに下されて獄死ごくししました。

その後、謁者えっしゃ郭襄かくじょう竇林とうりんに代わって護羌校尉ごきょうこういの職務を兼任して隴西郡ろうせいぐんに赴任しますが、涼州りょうしゅう羌族きょうぞくの勢いが盛んであることを聞くと、帰還して宮城におもむき罪に問われ、また護羌校尉ごきょうこういの官は廃止されました。

  • この頃、滇吾てんごの子・東吾とうごが後を継いでごう(首領)となりました。父がかんくだったことから東吾とうごかんの国境内に居住して身をつつしんでいましたが、弟の迷吾めいごたちはしばしば略奪を働きました。

章帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ東吾とうご

卑湳種の侵略
  • 後漢ごかん肅宗しゅくそう章帝しょうてい)の建初けんしょ元年(76年)、涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん安夷県あんいけんの役人が卑湳種ひだんしゅの婦人を略奪して妻としたため、その夫に殺害されました。

安夷県長あんいけんちょう宗延そうえんがこれを追ってとりでを出ると、卑湳種ひだんしゅの者たちは誅殺ちゅうさつされることを恐れて宗延そうえんを殺害し、勒姐種ろくしゃしゅ吾良種ごりょうしゅの2種族と結んでかんの国境内に侵略しました。

これに隴西太守ろうせいたいしゅ孫純そんじゅんが、従事じゅうじ李睦りぼく金城郡きんじょうぐんの兵を派遣して和羅谷わらこくに集結し、卑湳種ひだんしゅらと戦わせて数百人を斬首・捕虜にすると、章帝しょうていは元度遼将軍とりょうしょうぐん呉棠ごとう護羌校尉ごきょうこういを兼任させ、安夷県あんいけんに駐屯させました。

迷吾の反乱
  • 建初けんしょ2年(77年)夏、しばしば略奪を働いていた迷吾めいご焼当羌しょうとうきょうごう(首領)・滇吾てんごの弟]は、ついに諸衆と共に兵を集めて反乱を起こし、とりでの外(かんの国境外)に出ようとしました。

金城太守きんじょうたいしゅ郝崇かくすうはこれを追って荔谷れいこくで戦いますが大敗し、郝崇かくすうは軽騎で脱出することができましたが、2千人余りの戦死者を出してしまいます。

またこの時、諸きょうと属国の盧水胡ろすいこがみな呼応したため、護羌校尉ごきょうこうい呉棠ごとうもこれを制圧することができず、罪に問われて呼び戻され、罷免ひめんされました。その後は武威太守ぶいたいしゅ傅育ふいく護羌校尉ごきょうこういとなって臨羌県りんきょうけんに治所を移します。

その後、迷吾めいご封養種ほうようしゅごう(首領)・布橋ふきょうら5万人余りと共に隴西郡ろうせいぐん漢陽郡かんようぐんに侵略すると、章帝しょうてい行車騎将軍こうしゃきしょうぐん馬防ばぼうを派遣し、長外校尉ちょうがいこうい長水校尉ちょうすいこうい?)の耿恭こうきょうを副将として迷吾めいごたちを撃ち破らせました。

こうして臨洮県りんとうけん索西さくせい迷吾めいごらの勢力はことごとく降伏しました。そこで馬防ばぼう索西城さくせいじょうを築いて隴西南部都尉ろうせいなんぶといをそこに移して守らせ、各所の物見台(諸亭候)を復活させました。

  • 元和げんわ3年(86年)に至ると、迷吾めいごは再び弟の号吾ごうご號吾ごうご)やもろもろの雑種族と共に反乱を起こしました。

秋、号吾ごうご號吾ごうご)は先んじて軽はずみに隴西郡ろうせいぐんの境界に侵入すると、郡の督烽掾とくほうえん李章りしょうがこれを追い、号吾ごうご號吾ごうご)を生け捕りました。

郡に護送された号吾ごうご號吾ごうご)が、


「私1人を殺したところで羌族きょうぞくに損失はない。もし生きて帰ることができるならば、必ずやことごとく兵をおさめ、2度ととりでを犯したりはしない」


と言うので、隴西太守ろうせいたいしゅ張紆ちょううが臨機応変の処置として彼を釈放したところ、羌族きょうぞくはすぐに解散しておのおのが故地に帰り、迷吾めいご河北かほく黄河こうがの北)の帰義城きぎじょう退しりぞきました。

武威太守ぶいたいしゅ傅育ふいくは「号吾ごうご號吾ごうご)との信義を失ってまで羌族きょうぞくを討伐したくはない」と思い、そこで人をつのってもろもろきょう同士を争わせようとしましたが、きょうは承知せず、ついにまたとりでを出て反乱を起こし、改めて迷吾めいごを頼りました。

迷吾討伐の失敗
  • 章和しょうわ元年(87年)、武威太守ぶいたいしゅ傅育ふいくは、

隴西郡ろうせいぐん張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐんからそれぞれ5千人を徴発ちょうはつし、諸郡の太守たいしゅにこれをひきいさせたいと存じます」


請願せいがんすると、傅育ふいく自身は漢陽郡かんようぐん金城郡きんじょうぐんの5千人をひきい、合わせて2万の兵をもって迷吾めいご討伐に出陣します。傅育ふいく隴西郡ろうせいぐんの兵を黄河こうがの南に配置し、張掖郡ちょうえきぐん酒泉郡しゅせんぐんの兵には敵の西方を遮断させようとしますが、まだすべての軍が集まる前から、傅育ふいくの軍は単独で進軍していました。

このことを聞いた迷吾めいごは、廬落ろらく(住居)を移して去ろうとしますが、傅育ふいくは精鋭の騎兵3千を選んでこれを徹底的に追いました。夜には建威けんいの南にある三兜谷さんとうこくに達し、明朝を待って迷吾めいごを攻撃しようと、敵軍から数里のところに陣を敷いたが、防備をもうけていませんでした。

そこで迷吾めいごは兵3百人をせ、その夜のうちに傅育ふいくの陣営を攻撃すると、陣中は驚きおびえ、みな散り散りになって敗走しました。傅育ふいくは馬を下りてみずから戦い、敵兵10人余りを斬りましたが、戦死してしまいます。敵兵3百人に対して傅育ふいく軍の死者は880人に及び、諸郡の兵が三兜谷さんとうこくに到着すると、きょう迷吾めいご)は兵を引きました。

章帝しょうてい隴西太守ろうせいたいしゅ張紆ちょうう護羌校尉ごきょうこういとし、1万人をひきいて臨羌県りんきょうけんに駐屯させました。

迷吾暗殺

傅育ふいくを討ち取ってからというもの、迷吾めいごは辺境で利益をむさぼり、その年[章和しょうわ元年(87年)]のうちに再び諸種族の歩騎7千人と金城郡きんじょうぐんとりでに侵入しました。

これに護羌校尉ごきょうこうい張紆ちょううは、従事じゅうじ司馬防しばぼうに千余騎と金城郡きんじょうぐんの兵をひきいさせ、木乗谷ぼくじょうこくにおいて会戦させました。迷吾めいごの兵は敗走し、通訳をつかわして降伏を願い出て来たので、張紆ちょううはそれを受けれました。

迷吾めいごが種族の者たちをひきいて臨羌県りんきょうけんに出頭すると、張紆ちょううは兵を配置して大宴会をもよおし、酒の中に毒を仕込んでおきました。羌族きょうぞくたちが酒にったのを見た張紆ちょううみずから撃ちかかると、それを合図に伏兵たちも襲いかかり、羌族きょうぞく酋豪しゅうごう8百余人を誅殺ちゅうさつしました。

張紆ちょうう迷吾めいごら5人のくび傅育ふいくつかに祭ると、さらに兵を放って山谷の間にいた者たちを攻撃し、4百人余りを斬首して、生口せいこう2千余人を捕虜にしました。

諸種族の結束

迷吾めいごの子・迷唐めいとうとその種族の者たちはとりでに向かって号泣し、焼何種しょうかしゅ当煎種とうせんしゅ当闐種とうてんしゅらと互いに結びつき、子女及び金銀をもってもろもろの種族に結納ゆいのうの品としておくり、これまでの仇敵きゅうてきの間柄をいて人質を交換し合い、5千人をひきいて隴西郡ろうせいぐんとりでを荒らしました。

隴西太守ろうせいたいしゅ寇盱こうくがこれと白石県はくせきけんで戦ったところ、不利となった迷唐めいとう大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこくに引きげました。ところが、迷唐めいとうが北の属国の諸まねいて附落ふらくを集めると、その兵たちは盛んであったので、護羌校尉ごきょうこうい張紆ちょううはこれを討つことができませんでした。

和帝期

羌族きょうぞく嫡家ちゃっけ東号とうごう

護羌校尉・鄧訓の離間工作
  • 和帝わてい永元えいげん元年(89年)、張紆ちょううは罪に問われてし出され、張掖太守ちょうえきたいしゅ鄧訓とうくんが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

鄧訓とうくんは少しずつ賄賂わいろおくって離間させたので、迷唐めいとうが結束させたもろもろの種族たちは、少しずつ離れていきました。

  • 東吾とうごの子・東号とうごう東號とうごう)が後を継ぐと、東号とうごう東號とうごう)は種族の者たちをひきいてかんに降伏しました。*2

護羌校尉ごきょうこうい鄧訓とうくんが兵を派遣して迷唐めいとうを攻撃させると、迷唐めいとう大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこくから立ち去って頗岩谷はがんこくに移住しました。

脚注

*2かんそむいたのは東吾とうごの弟・迷吾めいごであり、東吾とうごそむいていない。迷吾めいごの子・迷唐めいとうが諸種族をまとめた時に呼応していたのか?

徳による懐柔の失敗
  • 永元えいげん4年(92年)に護羌校尉ごきょうこうい鄧訓とうくんが病死すると、蜀郡太守しょくぐんたいしゅ聶尚じょうしょうが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

聶尚じょうしょうは前任者が何度征伐しても勝てなかったことから、武力ではなく文徳によってこれを帰服させようとし、そこで駅伝の使者を派遣して迷唐めいとうまねいて大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこくに帰らせ、そこに居住させました。

  • 帰還した迷唐めいとうが祖母の卑缺ひけつ聶尚じょうしょうの元におもむかせると、聶尚じょうしょうみずから国境付近まで見送って卑缺ひけつのために送別のうたげもうけ、通訳の田汜でんしら5人に命じて廬落ろらく(住居)まで卑缺ひけつを護衛させました。

ところが迷唐めいとうは反乱を起こすと、ついに諸種族と共に生きたまま田汜でんしらを八つ裂きにし、その血をすすって盟約を結び、再び金城郡きんじょうぐんとりでを侵略しました。*3

脚注

*3反乱を起こした理由が分からない。人質を差し出したのに拒否されたと思ったのか?

迷唐を賜支河曲に追い詰める
  • 永元えいげん5年(93年)、聶尚じょうしょうは罪に問われ、呼び戻されて免官となり、居延都尉きょえんとい貫友かんゆうが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

貫友かんゆうは「迷唐めいとうを徳によって懐柔かいじゅうすることは難しく、反乱を起こした」ことから、駅伝の使者を派遣して諸種族を離間させ、財貨によって誘惑して解散させました。その後貫友かんゆうは兵を派遣してとりでを出ると、大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこく迷唐めいとうを攻撃し、首級・捕虜8百余人を獲得し、麦数万こくを収奪しました。

その後貫友かんゆうはついに逢留大河ほうりゅうたいがはさみ込むように城塞を築き、大船を造って河に橋をけ、兵を渡河とかさせて迷唐めいとうを攻撃しようとします。これに迷唐めいとうは、部落をひきいて遠く賜支河曲ししかきょくに身を寄せました。

迷唐討伐
  • 永元えいげん8年(96年)に貫友かんゆうが病死すると、漢陽太守かんようたいしゅ史充しじゅうが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

任地に到着した史充しじゅうはついに湟中こうちゅうきょうを徴発し、とりでを出て迷唐めいとうを攻撃しましたが、迷唐めいとう側の羌族きょうぞくの迎撃を受けた史充しじゅうの兵は敗れ、数百人が殺害されました。

  • 翌年の永元えいげん9年(97年)、史充しじゅうは罪に問われて召還され、代郡太守だいぐんたいしゅ呉祉ごしが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

秋、迷唐めいとうが8千人をひきいて隴西郡ろうせいぐんに侵略し、数百人を殺害。勝ちに乗して深入りし、塞内さいないかんの国境内)の諸種の羌族きょうぞくを脅迫して味方につけ、共に略奪を働きました。すると多くの羌族きょうぞくが呼応し、歩騎3万人を合わせて隴西郡ろうせいぐんの兵を撃破して大夏県長たいかけんちょうを殺害してしまいます。

これにかんは、行征西将軍こうせいせいしょうぐん劉尚りゅうしょうを派遣して越騎校尉えっきこうい趙代ちょうだいを副将とし、

    • 北軍五営ほくぐんごえい*4
    • 黎陽れいよう*5
    • 雍営ようえい*6
    • 三輔さんぽ*7

積射せきしゃ及び辺境の守備兵であるきょう3万人をひきいてこれを討伐させ、劉尚りゅうしょう涼州りょうしゅう隴西郡ろうせいぐん狄道県てきどうけんに駐屯し、趙代ちょうだいは同枹罕県ほうかんけんに駐屯しました。

劉尚りゅうしょう司馬しば寇盱こうくに監督させて諸郡の兵を四方から集結させると、迷唐めいとうは恐れ、老人や子供をてて臨洮県りんとうけんの南に逃亡。劉尚りゅうしょうらがこれを追撃して高山こうざんに至ると、追いめられた迷唐めいとうはその精強な者たちをひきいて大いに戦いましたが、寇盱こうくは敵兵千余人を斬り、牛・馬・羊1万余頭を獲得しました。

ですが、かん兵の死傷者も多かったため追撃することができず、迷唐めいとうは引きげ、劉尚りゅうしょうらは塞内さいないかんの国境内)に帰還します。

翌年の永元えいげん10年(98年)、劉尚りゅうしょう趙代ちょうだいはいずれも「畏懦いだおそひるんだ)の罪」に問われ、召還されて獄に下され、免官となりました。

脚注

*4北軍五校ほくぐんごこう屯騎校尉とんきこうい越騎校尉えっきこうい歩兵校尉ほへいこうい長水校尉ちょうすいこうい射声校尉せきせいこういひきいる宿衛兵。

*5黎陽営れいようえい冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに置かれた後漢ごかんの常備軍。光武帝こうぶていによる河北かほく平定の後、黎陽県れいようけんに常備軍が置かれたことに始まる。謁者えっしゃが監督した。

*6司隷しれい右扶風ゆうふふう雍県ようけんに駐屯した常備軍。扶風都尉ふふうといひきいられた。

*7司隷しれい京兆尹けいちょういん左馮翊さひょうよく右扶風ゆうふふうの3郡の兵。

迷唐らの降伏
  • 劉尚りゅうしょう趙代ちょうだい罷免ひめんされると、謁者えっしゃ王信おうしん劉尚りゅうしょうの軍営を引き継いで枹罕県ほうかんけんに駐屯し、謁者えっしゃ耿譚こうたん趙代ちょうだいの軍営を引き継いで白石県はくせきけんに駐屯しました。

そこで耿譚こうたんが購賞(懸賞金)を設置したところ、諸種族が多数やって来て内属したので、迷唐めいとうは恐れて降伏を願い出て来ました。そこで王信おうしん耿譚こうたんは降伏を受けれて出兵を取り止め、迷唐めいとうけつ洛陽らくよう雒陽らくよう)の宮城]に参内させます。

また、その種族の者たちは2千人にたず、え苦しんで自立できなかったので、受け入れて金城郡きんじょうぐんに居住させました。

迷唐らの反乱
  • 和帝わていは、迷唐めいとうに種族の者たちをひきいて大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこくに帰還するように命じますが、迷唐めいとうは「かんが河に橋をけ、兵の往来が容易よういとなった(兵来無常)ため、故地(大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこく)には二度と居住できない」と考えてこれを辞退し、また、種族の者たちが飢餓きがに苦しんでいることから、遠方に出て行くことを承知しませんでした。

そこで呉祉ごしらは迷唐めいとうに多くの金帛きんぱく賜与しよし、穀物こくもつや家畜を買い入れて塞外さいがいかんの国境外)に出て行くように命じたので、種族の者たちは改めて猜疑心さいぎしんいだくようになりました。

  • 永元えいげん12年(100年)、こうして迷唐めいとうらはまたも反乱を起こし、湟中こうちゅうの諸を脅迫して味方につけ、共に侵略して略奪を働きます。

王信おうしん耿譚こうたん呉祉ごしらはみな罪に問われて召還され、酒泉太守しゅせんたいしゅ周鮪しゅういが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

  • 翌年の永元えいげん13年(101年)、迷唐めいとうは再び賜支河曲ししかきょくに帰還しました。
迷唐討伐
  • これより以前、迷唐めいとうは、かんに服属していた累姐種るいしゃしゅうらみ、これを攻撃して累姐種るいしゃしゅ酋豪しゅうごうを殺害しました。これにより迷唐めいとうは諸種族と仇敵きゅうてきの間柄となり、味方はますます少なくなりました。
  • その秋、迷唐めいとうは再び兵をひきいてとりでに向かうと、護羌校尉ごきょうこうい周鮪しゅういは、
    • 酒泉太守しゅせんたいしゅ侯覇こうはと諸郡の兵
    • 属国である湟中月氏こうちゅうげっしの諸
    • 隴西郡ろうせいぐん牢姐羌ろうしゃきょう

の合わせて3万人と共にとりでを出て允川いんせんに至り、迷唐めいとうと戦いました。

この時周鮪しゅういは陣営にかえって守りに徹していましたが、侯覇こうはの兵だけは敵陣を陥落かんらくさせて4百級余りを斬首しました。羌族きょうぞくたちは瓦解がかいして、降伏した者は6六千余こうにのぼり、かんは降伏した者たちを分けて漢陽郡かんようぐん安定郡あんていぐん隴西郡ろうせいぐんの3郡に移住させました。

迷唐めいとうの勢力はこうして弱まり、その種族の者たちは千人にたなくなり、遠く賜支河曲ししかきょくを越えて発羌はつきょうに身を寄せました。

  • 翌年の永元えいげん14年(102年)、周鮪しゅういが「畏懦いだおそひるんだ)の罪」に問われて召還されると、侯覇こうはが代わって護羌校尉ごきょうこういとなりました。

降伏した安定郡あんていぐん焼何種しょうかしゅが、諸きょう数百人を脅迫して味方につけ、共に反乱を起こしましたが、安定郡あんていぐんの兵がこれを討ち滅ぼし、すべての年少者(弱口)を没収して奴隷(奴婢どひ)としました。

曹鳳を金城西部都尉とする
  • その後、西海せいかい*8大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこくの辺りで羌族きょうぞくが侵略してくることはありませんでした。

隃麋相ゆびしょう司隷しれい右扶風ゆうふふう隃麋国ゆびこく県長けんちょう)の曹鳳そうほうが上言して、

「広く屯田とんでんもうけてきょうが交通する道を隔絶かくぜつし、狡猾こうかつな者たちが欲望を満たそうとする原因を根絶すべきであります。さらに穀物こくもつを植えて辺境をませ、物資輸送の労役をはぶけば、国家は西方のうれいをなくすことができるでしょう」

と言いました。

曹鳳の上言・全文
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西戎せいじゅうが害をすことは、前漢ぜんかんからの悩みの種であります。わたくしいにしえの歴史はしるせませんので、ひとず近頃の事例を語りたく存じます。

建武けんぶ年間(25年〜55年)以来、その法を犯す者は、常に焼当種しょうとうしゅから生じています。その理由は、焼当種しょうとうしゅが居住する大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこく肥沃ひよく塞内さいないかんの国境内)に近く、諸種族にとっては非道(反乱・略奪)を行いやすく、こちらからは攻撃・討伐することが難しいからであります。

焼当種しょうとうしゅは、南は鐘存種しょうそんしゅを取り込んでその衆を広め、北は黄河こうがを頼って守りを固め、また西海せいかい*8には魚と塩の利益があり、山水(山川)に沿って農業・牧畜を広げています。

そのため常に諸種族よりきん出て強大となり、その権勢と勇猛さをたのんできょうまねき誘いました。今は衰退・困窮こんきゅうして味方は崩壊、親族は離反し、残党のうち兵として使える者は数百に過ぎず、逃亡して遠く発羌はつきょうに身を寄せました。

わたくしが思いますに、どうかこの機に及んで西海せいかい*8の郡県を再建し、大榆谷だいゆこく小榆谷しょうゆこく二榆にゆの守りを固め、広く屯田とんでんもうけてきょうが交通する道を隔絶かくぜつし、狡猾こうかつな者たちが欲望を満たそうとする原因を根絶すべきであります。さらに穀物こくもつを植えて辺境をませ、物資輸送の労役をはぶけば、国家は西方のうれいをなくすことができるでしょう」


そこで曹鳳そうほう金城きんじょう西部都尉せいぶといに任命し、屯田兵をひきいて龍耆りゅうきに駐屯させました。(将徙士屯龍耆)

  • のち金城郡きんじょうぐん長史ちょうし上官鴻じょうかんこうが「帰義きぎ建威けんい屯田とんでん27部を開設したい」と上奏し、また侯覇こうはは「東邯とうかん西邯せいかん屯田とんでん5部を設置し、りゅうほうの2部を増設したい」と上奏すると、和帝わていはこれらにみな従い、黄河こうがはさんで屯田とんでんつらね、その数は合わせて34部となりました。
脚注

*8現:青海湖せいかいこ涼州りょうしゅう金城郡きんじょうぐんの西の塞外さいがいかんの国境外)にある塩湖。


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【後漢・三国時代の異民族】目次