西羌の諸種族と中国(後漢:光武帝・明帝・章帝・和帝期)の関係についてまとめています。
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西羌と中国の関係③後漢①
光武帝期
羌族の嫡家:滇良
焼当種の再起
- 滇良は、焼当の玄孫(孫の孫)に当たります。焼当から滇良に至るまで、代々黄河の北の大允谷に居住していましたが、種族の勢力は小さく、貧しい生活をしていました。
そのため滇良は、しばしば強大な勢力を持つ先零羌や卑湳羌の侵犯を受け、長い間侮られていることに憤怒していました。
- 滇良はもともと種族の中で恩信があり、この時*1、部落と諸々の雑種を終結して大榆から侵入して先零羌と卑湳羌を襲撃して大いに破り、3千人を殺害して財物と家畜を略奪し、その土地を奪って大榆の中に居住しました。
- 滇良種(焼当種)はこれにより初めて強大な勢力を持つようになりました。
脚注
*1後漢の建武12年(36年)〜建武中元元年(56年)頃。『後漢書』西羌伝では、後漢の建武12年(36年)の「武都郡の参狼羌の反乱」の後にこれが記されています。
光武帝の羌族対策
- 後漢・光武帝の建武9年(33年)、隗囂が亡くなると、司徒掾の班彪は「旧制に倣って益州部に蛮夷騎都尉、幽州部に領烏桓校尉、涼州部に護羌校尉を置くように」と上言しました。
班彪の上言・全文
すると光武帝は、班彪の上言に従ってすぐに牛邯を護羌校尉とし、節を持たせて旧制の通りとしましたが、牛邯が亡くなると護羌校尉の職は廃止されました。
先零羌の反乱
- 建武10年(34年)、先零羌の豪(首領)が諸種族と結び、また金城郡と隴西郡を荒らしましたが、中郎将の来歙らを派遣してこれを撃ち、大いに撃ち破りました。
- 建武11年(35年)夏、先零羌(先零種)が再び涼州・隴西郡・臨洮県を荒らしたので、隴西太守の馬援がこれを撃ち破り、降伏させました。
後に先零羌(先零種)はことごとく帰服し、移住させて天水郡・隴西郡・右扶風の3郡に移住させました。
羌族の嫡家:滇吾
参狼羌の反乱
- 建武12年(36年)、武都郡の参狼羌が反乱を起こしましたが、また馬援がこれを撃ち破り、降伏させました。
- 滇良の子の滇吾が豪(首領)に即位しました。
- 建武中元元年(56年)、武都郡の参狼羌が反乱を起こして役人たちを殺害・略奪し、武都太守がこれと戦いましたが、勝てませんでした。
そこで隴西太守の劉盱が従事の辛都と監軍掾の李苞に5千人を率いさせ、武都郡に赴いて羌と戦わせてその豪(首領)を斬り、千人余りを斬首・捕虜としました。
またこの時、武都郡の兵もまた、さらにこれを破って千級余りを斬首し、残党はことごとく降伏しました。
焼当羌・滇吾の隆盛
- 以降、滇吾の部落はようやく盛んとなり、辺境を侵略しようとする者が現れる度に、滇吾は徐々に方略を教えてその渠帥となりました。
- 建武中元2年(57年)秋、焼当羌の滇吾は、弟の滇岸と共に歩兵・騎兵5千を率いて隴西郡の塞を侵略しました。隴西太守の劉盱は枹罕県に派兵してこれを攻撃したが勝つことができず、また允街県では羌に敗れて5百人余りを殺害されました。ここにおいて、漢に従って塞を守備していた諸羌はみな滇吾に復して侵略に加わります。
漢は謁者の張鴻に諸郡の兵を率いさせ、允吾県の唐谷城で戦ったが、軍は敗れて張鴻と隴西郡の長史・田颯は戦死し、また白石県でも天水郡の兵が牢姐種に敗れ、千余人の戦死者を出しました。
明帝期
羌族の嫡家:滇吾
焼何種の比銅鉗
- 焼何種の豪(首領)に比銅鉗という婦人がおり、年齢は百余歲、智略に優れ、種族の者たちの信頼を得てみな彼女に従って計略を立てていました。
当時、焼何種は盧水胡の攻撃を受けており、そこで比銅鉗は種族を率いて漢を頼って郡県にやって来ました。ところが焼何種の中に罪を犯した者がいたので、臨羌県長は比銅鉗を収監し、焼何種600人〜700人を殺害しました。
顕宗(明帝)はこれを憐れみ、
「今、国家に徳がなく、恩は遠方まで及ばなかった。か弱い者たちに何の罪があって命を落とさねばならぬのか。
罪は太守・長吏がみだりに殺戮を加えたことにある。比銅鉗が健在であれば、現地にて医薬品を送って養生させ、種族の者たちを招集せよ。もし故地に帰りたいという者があれば、手厚くこれを送ってやるように。
弱小な種族で、もし手を縛って自ら出頭し、功績を挙げたいという者がいれば、いずれもその罪を免除せよ。もし反逆を謀って役人に捕らえられ、まだ判決が下っていない者がいれば、すべて功績あるものに賜うように」
と詔を下しました。
焼当羌・滇吾の降伏
- 永平元年(58年)、また中郎将・竇固、捕虜将軍・馬武らを派遣して焼当羌の滇吾を西邯で攻撃させ、大いにこれを破りました。滇吾が遠く退き、残党が散り散りになって降伏すると、7千口を三輔に移住させて、謁者の竇林に護羌校尉を兼任させ、狄道に駐屯させました。
竇林は諸羌から信頼され、ついに滇吾の弟・滇岸は竇林の元に出頭して降伏しましたが、竇林は下級役人に欺かれ、誤って「滇岸を大豪である」と奏上し、天子(明帝)の命令に基づいて滇岸を帰義侯に封じ、漢大都尉の称号を加えました。
翌年の永平2年(59年)に滇吾が降伏すると、竇林はまた「滇吾を第一の豪である」と上奏し、共に宮城にやって来て謁見しました。
明帝は「1つの種族に2人の大豪がいること」を怪しみ、「事実ではないのではないか」と疑って竇林を詰問したところ、竇林は言葉に窮して「滇岸とは滇吾のことです。隴西の言語が正確ではなかったのです」と偽って答えました。明帝は調査の手を尽くして実態を知り、竇林を罷免します。またちょうどこの時、凉州刺史が「竇林の収賄罪」を上奏したので、竇林は獄に下されて獄死しました。
その後、謁者の郭襄が竇林に代わって護羌校尉の職務を兼任して隴西郡に赴任しますが、涼州の羌族の勢いが盛んであることを聞くと、帰還して宮城に赴き罪に問われ、また護羌校尉の官は廃止されました。
- この頃、滇吾の子・東吾が後を継いで豪(首領)となりました。父が漢に降ったことから東吾も漢の国境内に居住して身を慎しんでいましたが、弟の迷吾たちはしばしば略奪を働きました。
章帝期
羌族の嫡家:東吾
卑湳種の侵略
- 後漢・肅宗(章帝)の建初元年(76年)、涼州・隴西郡・安夷県の役人が卑湳種の婦人を略奪して妻としたため、その夫に殺害されました。
安夷県長の宗延がこれを追って塞を出ると、卑湳種の者たちは誅殺されることを恐れて宗延を殺害し、勒姐種・吾良種の2種族と結んで漢の国境内に侵略しました。
これに隴西太守の孫純が、従事の李睦と金城郡の兵を派遣して和羅谷に集結し、卑湳種らと戦わせて数百人を斬首・捕虜にすると、章帝は元度遼将軍の呉棠に護羌校尉を兼任させ、安夷県に駐屯させました。
迷吾の反乱
- 建初2年(77年)夏、しばしば略奪を働いていた迷吾[焼当羌の豪(首領)・滇吾の弟]は、ついに諸衆と共に兵を集めて反乱を起こし、塞の外(漢の国境外)に出ようとしました。
金城太守の郝崇はこれを追って荔谷で戦いますが大敗し、郝崇は軽騎で脱出することができましたが、2千人余りの戦死者を出してしまいます。
またこの時、諸羌と属国の盧水胡がみな呼応したため、護羌校尉の呉棠もこれを制圧することができず、罪に問われて呼び戻され、罷免されました。その後は武威太守の傅育が護羌校尉となって臨羌県に治所を移します。
その後、迷吾が封養種の豪(首領)・布橋ら5万人余りと共に隴西郡・漢陽郡に侵略すると、章帝は行車騎将軍の馬防を派遣し、長外校尉(長水校尉?)の耿恭を副将として迷吾たちを撃ち破らせました。
こうして臨洮県・索西の迷吾らの勢力はことごとく降伏しました。そこで馬防は索西城を築いて隴西南部都尉をそこに移して守らせ、各所の物見台(諸亭候)を復活させました。
- 元和3年(86年)に至ると、迷吾は再び弟の号吾(號吾)や諸々の雑種族と共に反乱を起こしました。
秋、号吾(號吾)は先んじて軽はずみに隴西郡の境界に侵入すると、郡の督烽掾の李章がこれを追い、号吾(號吾)を生け捕りました。
郡に護送された号吾(號吾)が、
「私1人を殺したところで羌族に損失はない。もし生きて帰ることができるならば、必ずやことごとく兵を収め、2度と塞を犯したりはしない」
と言うので、隴西太守の張紆が臨機応変の処置として彼を釈放したところ、羌族はすぐに解散して各々が故地に帰り、迷吾は河北(黄河の北)の帰義城に退きました。
武威太守の傅育は「号吾(號吾)との信義を失ってまで羌族を討伐したくはない」と思い、そこで人を募って諸々の羌・胡同士を争わせようとしましたが、羌・胡は承知せず、ついにまた塞を出て反乱を起こし、改めて迷吾を頼りました。
迷吾討伐の失敗
- 章和元年(87年)、武威太守の傅育は、
「隴西郡・張掖郡・酒泉郡からそれぞれ5千人を徴発し、諸郡の太守にこれを率いさせたいと存じます」
と請願すると、傅育自身は漢陽郡と金城郡の5千人を率い、合わせて2万の兵をもって迷吾討伐に出陣します。傅育は隴西郡の兵を黄河の南に配置し、張掖郡と酒泉郡の兵には敵の西方を遮断させようとしますが、まだすべての軍が集まる前から、傅育の軍は単独で進軍していました。
このことを聞いた迷吾は、廬落(住居)を移して去ろうとしますが、傅育は精鋭の騎兵3千を選んでこれを徹底的に追いました。夜には建威の南にある三兜谷に達し、明朝を待って迷吾を攻撃しようと、敵軍から数里のところに陣を敷いたが、防備を設けていませんでした。
そこで迷吾は兵3百人を伏せ、その夜のうちに傅育の陣営を攻撃すると、陣中は驚き怯え、みな散り散りになって敗走しました。傅育は馬を下りて自ら戦い、敵兵10人余りを斬りましたが、戦死してしまいます。敵兵3百人に対して傅育軍の死者は880人に及び、諸郡の兵が三兜谷に到着すると、羌(迷吾)は兵を引きました。
章帝は隴西太守の張紆を護羌校尉とし、1万人を率いて臨羌県に駐屯させました。
迷吾暗殺
傅育を討ち取ってからというもの、迷吾は辺境で利益を貪り、その年[章和元年(87年)]のうちに再び諸種族の歩騎7千人と金城郡の塞に侵入しました。
これに護羌校尉の張紆は、従事の司馬防に千余騎と金城郡の兵を率いさせ、木乗谷において会戦させました。迷吾の兵は敗走し、通訳を遣わして降伏を願い出て来たので、張紆はそれを受け容れました。
迷吾が種族の者たちを率いて臨羌県に出頭すると、張紆は兵を配置して大宴会を催し、酒の中に毒を仕込んでおきました。羌族たちが酒に酔ったのを見た張紆が自ら撃ちかかると、それを合図に伏兵たちも襲いかかり、羌族の酋豪8百余人を誅殺しました。
張紆は迷吾ら5人の頭を傅育の冢に祭ると、さらに兵を放って山谷の間にいた者たちを攻撃し、4百人余りを斬首して、生口2千余人を捕虜にしました。
諸種族の結束
迷吾の子・迷唐とその種族の者たちは塞に向かって号泣し、焼何種・当煎種・当闐種らと互いに結びつき、子女及び金銀をもって諸々の種族に結納の品として贈り、これまでの仇敵の間柄を解いて人質を交換し合い、5千人を率いて隴西郡の塞を荒らしました。
隴西太守の寇盱がこれと白石県で戦ったところ、不利となった迷唐は大榆谷・小榆谷に引き揚げました。ところが、迷唐が北の属国の諸胡を招いて附落を集めると、その兵たちは盛んであったので、護羌校尉の張紆はこれを討つことができませんでした。
和帝期
羌族の嫡家:東号
護羌校尉・鄧訓の離間工作
- 和帝の永元元年(89年)、張紆は罪に問われて召し出され、張掖太守の鄧訓が代わって護羌校尉となりました。
鄧訓は少しずつ賄賂を贈って離間させたので、迷唐が結束させた諸々の種族たちは、少しずつ離れていきました。
- 東吾の子・東号(東號)が後を継ぐと、東号(東號)は種族の者たちを率いて漢に降伏しました。*2
護羌校尉の鄧訓が兵を派遣して迷唐を攻撃させると、迷唐は大榆谷・小榆谷から立ち去って頗岩谷に移住しました。
脚注
*2漢に叛いたのは東吾の弟・迷吾であり、東吾は叛いていない。迷吾の子・迷唐が諸種族をまとめた時に呼応していたのか?
徳による懐柔の失敗
- 永元4年(92年)に護羌校尉の鄧訓が病死すると、蜀郡太守の聶尚が代わって護羌校尉となりました。
聶尚は前任者が何度征伐しても勝てなかったことから、武力ではなく文徳によってこれを帰服させようとし、そこで駅伝の使者を派遣して迷唐を招いて大榆谷・小榆谷に帰らせ、そこに居住させました。
- 帰還した迷唐が祖母の卑缺を聶尚の元に赴かせると、聶尚は自ら国境付近まで見送って卑缺のために送別の宴を設け、通訳の田汜ら5人に命じて廬落(住居)まで卑缺を護衛させました。
ところが迷唐は反乱を起こすと、ついに諸種族と共に生きたまま田汜らを八つ裂きにし、その血を啜って盟約を結び、再び金城郡の塞を侵略しました。*3
脚注
*3反乱を起こした理由が分からない。人質を差し出したのに拒否されたと思ったのか?
迷唐を賜支河曲に追い詰める
- 永元5年(93年)、聶尚は罪に問われ、呼び戻されて免官となり、居延都尉の貫友が代わって護羌校尉となりました。
貫友は「迷唐を徳によって懐柔することは難しく、反乱を起こした」ことから、駅伝の使者を派遣して諸種族を離間させ、財貨によって誘惑して解散させました。その後貫友は兵を派遣して塞を出ると、大榆谷・小榆谷に迷唐を攻撃し、首級・捕虜8百余人を獲得し、麦数万斛を収奪しました。
その後貫友はついに逢留大河を挟み込むように城塞を築き、大船を造って河に橋を架け、兵を渡河させて迷唐を攻撃しようとします。これに迷唐は、部落を率いて遠く賜支河曲に身を寄せました。
迷唐討伐
- 永元8年(96年)に貫友が病死すると、漢陽太守の史充が代わって護羌校尉となりました。
任地に到着した史充はついに湟中の羌・胡を徴発し、塞を出て迷唐を攻撃しましたが、迷唐側の羌族の迎撃を受けた史充の兵は敗れ、数百人が殺害されました。
- 翌年の永元9年(97年)、史充は罪に問われて召還され、代郡太守の呉祉が代わって護羌校尉となりました。
秋、迷唐が8千人を率いて隴西郡に侵略し、数百人を殺害。勝ちに乗して深入りし、塞内(漢の国境内)の諸種の羌族を脅迫して味方につけ、共に略奪を働きました。すると多くの羌族が呼応し、歩騎3万人を合わせて隴西郡の兵を撃破して大夏県長を殺害してしまいます。
これに漢は、行征西将軍の劉尚を派遣して越騎校尉の趙代を副将とし、
-
- 北軍五営*4
- 黎陽*5
- 雍営*6
- 三輔*7
の積射及び辺境の守備兵である羌・胡3万人を率いてこれを討伐させ、劉尚は涼州・隴西郡・狄道県に駐屯し、趙代は同枹罕県に駐屯しました。
劉尚が司馬の寇盱に監督させて諸郡の兵を四方から集結させると、迷唐は恐れ、老人や子供を棄てて臨洮県の南に逃亡。劉尚らがこれを追撃して高山に至ると、追い詰められた迷唐はその精強な者たちを率いて大いに戦いましたが、寇盱は敵兵千余人を斬り、牛・馬・羊1万余頭を獲得しました。
ですが、漢兵の死傷者も多かったため追撃することができず、迷唐は引き揚げ、劉尚らは塞内(漢の国境内)に帰還します。
翌年の永元10年(98年)、劉尚と趙代はいずれも「畏懦(畏れ怯んだ)の罪」に問われ、召還されて獄に下され、免官となりました。
脚注
*4北軍五校。屯騎校尉・越騎校尉・歩兵校尉・長水校尉・射声校尉が率いる宿衛兵。
*5黎陽営。冀州・魏郡・黎陽県に置かれた後漢の常備軍。光武帝による河北平定の後、黎陽県に常備軍が置かれたことに始まる。謁者が監督した。
*6司隷・右扶風・雍県に駐屯した常備軍。扶風都尉に率いられた。
*7司隷の京兆尹、左馮翊、右扶風の3郡の兵。
迷唐らの降伏
- 劉尚と趙代が罷免されると、謁者の王信が劉尚の軍営を引き継いで枹罕県に駐屯し、謁者の耿譚が趙代の軍営を引き継いで白石県に駐屯しました。
そこで耿譚が購賞(懸賞金)を設置したところ、諸種族が多数やって来て内属したので、迷唐は恐れて降伏を願い出て来ました。そこで王信と耿譚は降伏を受け容れて出兵を取り止め、迷唐を闕[洛陽(雒陽)の宮城]に参内させます。
また、その種族の者たちは2千人に満たず、飢え苦しんで自立できなかったので、受け入れて金城郡に居住させました。
迷唐らの反乱
- 和帝は、迷唐に種族の者たちを率いて大榆谷・小榆谷に帰還するように命じますが、迷唐は「漢が河に橋を架け、兵の往来が容易となった(兵来無常)ため、故地(大榆谷・小榆谷)には二度と居住できない」と考えてこれを辞退し、また、種族の者たちが飢餓に苦しんでいることから、遠方に出て行くことを承知しませんでした。
そこで呉祉らは迷唐に多くの金帛を賜与し、穀物や家畜を買い入れて塞外(漢の国境外)に出て行くように命じたので、種族の者たちは改めて猜疑心を懐くようになりました。
- 永元12年(100年)、こうして迷唐らはまたも反乱を起こし、湟中の諸胡を脅迫して味方につけ、共に侵略して略奪を働きます。
王信・耿譚・呉祉らはみな罪に問われて召還され、酒泉太守の周鮪が代わって護羌校尉となりました。
- 翌年の永元13年(101年)、迷唐は再び賜支河曲に帰還しました。
迷唐討伐
- これより以前、迷唐は、漢に服属していた累姐種を怨み、これを攻撃して累姐種の酋豪を殺害しました。これにより迷唐は諸種族と仇敵の間柄となり、味方は益々少なくなりました。
- その秋、迷唐は再び兵を率いて塞に向かうと、護羌校尉の周鮪は、
-
- 酒泉太守の侯覇と諸郡の兵
- 属国である湟中月氏の諸胡
- 隴西郡の牢姐羌
の合わせて3万人と共に塞を出て允川に至り、迷唐と戦いました。
この時周鮪は陣営に還って守りに徹していましたが、侯覇の兵だけは敵陣を陥落させて4百級余りを斬首しました。羌族たちは瓦解して、降伏した者は6六千余口にのぼり、漢は降伏した者たちを分けて漢陽郡・安定郡・隴西郡の3郡に移住させました。
迷唐の勢力はこうして弱まり、その種族の者たちは千人に満たなくなり、遠く賜支河曲を越えて発羌に身を寄せました。
- 翌年の永元14年(102年)、周鮪が「畏懦(畏れ怯んだ)の罪」に問われて召還されると、侯覇が代わって護羌校尉となりました。
降伏した安定郡の焼何種が、諸羌数百人を脅迫して味方につけ、共に反乱を起こしましたが、安定郡の兵がこれを討ち滅ぼし、すべての年少者(弱口)を没収して奴隷(奴婢)としました。
曹鳳を金城西部都尉とする
- その後、西海*8と大榆谷・小榆谷の辺りで羌族が侵略してくることはありませんでした。
隃麋相(司隷・右扶風・隃麋国の県長)の曹鳳が上言して、
「広く屯田を設けて羌・胡が交通する道を隔絶し、狡猾な者たちが欲望を満たそうとする原因を根絶すべきであります。さらに穀物を植えて辺境を富ませ、物資輸送の労役を省けば、国家は西方の憂いをなくすことができるでしょう」
と言いました。
曹鳳の上言・全文
そこで曹鳳を金城西部都尉に任命し、屯田兵を率いて龍耆に駐屯させました。(将徙士屯龍耆)
- 後に金城郡の長史・上官鴻が「帰義・建威の屯田27部を開設したい」と上奏し、また侯覇は「東邯・西邯の屯田5部を設置し、留・逢の2部を増設したい」と上奏すると、和帝はこれらにみな従い、黄河を挟んで屯田を列ね、その数は合わせて34部となりました。
脚注
*8現:青海湖。涼州・金城郡の西の塞外(漢の国境外)にある塩湖。
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