西羌(せいきょう)の諸種族と中国(後漢(ごかん):光武帝(こうぶてい)・明帝(めいてい)・章帝(しょうてい)・和帝(わてい)期)の関係についてまとめています。

スポンサーリンク

西羌と中国の関係③後漢①

光武帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):滇良(てんりょう)

焼当種の再起
  • 滇良(てんりょう)は、焼当(しょうとう)の玄孫(げんそん)(孫の孫)に当たります。焼当(しょうとう)から滇良(てんりょう)に至るまで、代々黄河(こうが)の北の大允谷(だいいんこく)に居住していましたが、種族の勢力は小さく、貧(まず)しい生活をしていました。

そのため滇良(てんりょう)は、しばしば強大な勢力を持つ先零羌(せんれいきょう)や卑湳羌(ひだんきょう)の侵犯を受け、長い間侮(あなど)られていることに憤怒(ふんど)していました。

  • 滇良(てんりょう)はもともと種族の中で恩信があり、この時*1、部落と諸(もろ)々(もろ)の雑種を終結して大榆(だいゆ)から侵入して先零羌(せんれいきょう)と卑湳羌(ひだんきょう)を襲撃して大いに破り、3千人を殺害して財物と家畜を略奪し、その土地を奪って大榆(だいゆ)の中に居住しました。
  • 滇良(てんりょう)種(焼当種(しょうとうしゅ))はこれにより初めて強大な勢力を持つようになりました。
脚注

*1後漢(ごかん)の建武(けんぶ)12年(36年)〜建武(けんぶ)中元(ちゅうげん)元年(56年)頃。『後漢書(ごかんじょ)』西羌伝(せいきょうでん)では、後漢(ごかん)の建武(けんぶ)12年(36年)の「武都郡(ぶとぐん)の参狼羌(さんろうきょう)の反乱」の後にこれが記(しる)されています。

光武帝の羌族対策
  • 後漢(ごかん)・光武帝(こうぶてい)の建武(けんぶ)9年(33年)、隗囂(かいごう)が亡くなると、司徒掾(しとえん)の班彪(はんぴょう)は「旧制に倣(なら)って益州部(えきしゅうぶ)に蛮夷騎都尉(ばんいきとい)、幽州部(ゆうしゅうぶ)に領烏桓校尉(りょううがんこうい)、涼州部(りょうしゅうぶ)に護羌校尉(ごきょうこうい)を置くように」と上言しました。
班彪の上言・全文
タップ(クリック)すると開きます。

今や凉州部(りょうしゅうぶ)には至る所に降伏した羌(きょう)がおります。羌胡(きょうこ)はざんばら髪で襟(えり)を左前にし、漢人(かんじん)と雑居しているものの、その習俗は異なっており、言語は通じません。そのためしばしば小吏(しょうり)のずる賢い者に略奪され、怨(うら)みを募(つの)らせたまま楽しむことがないために反乱を起こすのです。蛮夷(ばんい)の反乱はみなこうしたことが原因です。

旧制では益州部(えきしゅうぶ)には蛮夷騎都尉(ばんいきとい)を置き、幽州部(ゆうしゅうぶ)には領烏桓校尉(りょううがんこうい)を置き、涼州部(りょうしゅうぶ)には護羌校尉(ごきょうこうい)を置いて、みな節(せつ)を持たせてそれぞれが担当する異民族を統率・保護させ、その鬱屈(うっくつ)した怨恨(えんこん)を収(おさ)め、歲時(さいじ)(季節ごと)に巡行して彼らの苦しみを尋(たず)ねさせました。

またしばしば使者と通訳を派遣してその動勢に通じ、塞外(さいがい)(漢(かん)の国境外)の羌夷(きょうい)を役人の耳目とし、州郡はこれによって警備することができました。今こそどうか再び旧制の通りにして、威信ある防備を明確にすべきです。


すると光武帝(こうぶてい)は、班彪(はんぴょう)の上言に従ってすぐに牛邯(ぎゅうかん)を護羌校尉(ごきょうこうい)とし、節(せつ)を持たせて旧制の通りとしましたが、牛邯(ぎゅうかん)が亡くなると護羌校尉(ごきょうこうい)の職は廃止されました。

先零羌の反乱
  • 建武(けんぶ)10年(34年)、先零羌(せんれいきょう)の豪(ごう)(首領)が諸種族と結び、また金城郡(きんじょうぐん)と隴西郡(ろうせいぐん)を荒らしましたが、中郎将(ちゅうろうしょう)の来歙(らいきゅう)らを派遣してこれを撃ち、大いに撃ち破りました。
  • 建武(けんぶ)11年(35年)夏、先零羌(せんれいきょう)(先零種(せんれいしゅ))が再び涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・臨洮県(りんとうけん)を荒らしたので、隴西太守(ろうせいたいしゅ)の馬援(ばえん)がこれを撃ち破り、降伏させました。

後(のち)に先零羌(せんれいきょう)(先零種(せんれいしゅ))はことごとく帰服し、移住させて天水郡(てんすいぐん)・隴西郡(ろうせいぐん)・右扶風(ゆうふふう)の3郡に移住させました。

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):滇吾(てんご)

参狼羌の反乱
  • 建武(けんぶ)12年(36年)、武都郡(ぶとぐん)の参狼羌(さんろうきょう)が反乱を起こしましたが、また馬援(ばえん)がこれを撃ち破り、降伏させました。
  • 滇良(てんりょう)の子の滇吾(てんご)が豪(ごう)(首領)に即位しました。
  • 建武(けんぶ)中元(ちゅうげん)元年(56年)、武都郡(ぶとぐん)の参狼羌(さんろうきょう)が反乱を起こして役人たちを殺害・略奪し、武都太守(ぶとたいしゅ)がこれと戦いましたが、勝てませんでした。

そこで隴西太守(ろうせいたいしゅ)の劉盱(りゅうく)が従事(じゅうじ)の辛都(しんと)と監軍掾(かんぐんえん)の李苞(りほう)に5千人を率(ひき)いさせ、武都郡(ぶとぐん)に赴(おもむ)いて羌(きょう)と戦わせてその豪(ごう)(首領)を斬り、千人余りを斬首・捕虜としました。

またこの時、武都郡(ぶとぐん)の兵もまた、さらにこれを破って千級余りを斬首し、残党はことごとく降伏しました。

焼当羌・滇吾の隆盛
  • 以降、滇吾(てんご)の部落はようやく盛んとなり、辺境を侵略しようとする者が現れる度(たび)に、滇吾(てんご)は徐々に方略を教えてその渠帥(きょすい)となりました。
  • 建武(けんぶ)中元(ちゅうげん)2年(57年)秋、焼当羌(しょうとうきょう)の滇吾(てんご)は、弟の滇岸(てんがん)と共に歩兵・騎兵5千を率(ひき)いて隴西郡(ろうせいぐん)の塞(とりで)を侵略しました。隴西太守(ろうせいたいしゅ)の劉盱(りゅうく)は枹罕県(ほうかんけん)に派兵してこれを攻撃したが勝つことができず、また允街県(えんかいけん)では羌(きょう)に敗れて5百人余りを殺害されました。ここにおいて、漢(かん)に従って塞(とりで)を守備していた諸羌(きょう)はみな滇吾(てんご)に復して侵略に加わります。

漢(かん)は謁者(えっしゃ)の張鴻(ちょうこう)に諸郡の兵を率(ひき)いさせ、允吾県(えんがけん)の唐谷城(とうこくじょう)で戦ったが、軍は敗れて張鴻(ちょうこう)と隴西郡(ろうせいぐん)の長史(ちょうし)・田颯(でんりつ)は戦死し、また白石県(はくせきけん)でも天水郡(てんすいぐん)の兵が牢姐種(ろうしゃしゅ)に敗れ、千余人の戦死者を出しました。

明帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):滇吾(てんご)

焼何種の比銅鉗
  • 焼何種(しょうかしゅ)の豪(ごう)(首領)に比銅鉗(ひどうけん)という婦人がおり、年齢は百余歲、智略に優(すぐ)れ、種族の者たちの信頼を得てみな彼女に従って計略を立てていました。

当時、焼何種(しょうかしゅ)は盧水胡(ろすいこ)の攻撃を受けており、そこで比銅鉗(ひどうけん)は種族を率(ひき)いて漢(かん)を頼って郡県にやって来ました。ところが焼何種(しょうかしゅ)の中に罪を犯した者がいたので、臨羌県長(りんきょうけんちょう)は比銅鉗(ひどうけん)を収監し、焼何種(しょうかしゅ)600人〜700人を殺害しました。

顕宗(けんそう)(明帝(めいてい))はこれを憐(あわ)れみ、


「今、国家(わたし)に徳がなく、恩は遠方まで及ばなかった。か弱い者たちに何の罪があって命を落とさねばならぬのか。

罪は太守(たいしゅ)・長吏(ちょうり)がみだりに殺戮を加えたことにある。比銅鉗(ひどうけん)が健在であれば、現地にて医薬品を送って養生させ、種族の者たちを招集せよ。もし故地に帰りたいという者があれば、手厚くこれを送ってやるように。

弱小な種族で、もし手を縛って自(みずか)ら出頭し、功績を挙(あ)げたいという者がいれば、いずれもその罪を免除せよ。もし反逆を謀(はか)って役人に捕らえられ、まだ判決が下っていない者がいれば、すべて功績あるものに賜(たま)うように」


と詔(みことのり)を下しました。

焼当羌・滇吾の降伏
  • 永平(えいへい)元年(58年)、また中郎将(ちゅうろうしょう)・竇固(とうこ)、捕虜将軍(ほりょしょうぐん)・馬武(ばぶ)らを派遣して焼当羌(しょうとうきょう)の滇吾(てんご)を西邯(せいかん)で攻撃させ、大いにこれを破りました。滇吾(てんご)が遠く退(しりぞ)き、残党が散り散りになって降伏すると、7千口(こう)を三輔(さんぽ)に移住させて、謁者(えっしゃ)の竇林(とうりん)に護羌校尉(ごきょうこうい)を兼任させ、狄道(てきどう)に駐屯させました。

竇林(とうりん)は諸羌(きょう)から信頼され、ついに滇吾(てんご)の弟・滇岸(てんがん)は竇林(とうりん)の元に出頭して降伏しましたが、竇林(とうりん)は下級役人に欺(あざむ)かれ、誤(あやま)って「滇岸(てんがん)を大豪(たいごう)である」と奏上し、天子(てんし)(明帝(めいてい))の命令に基(もと)づいて滇岸(てんがん)を帰義侯(きぎこう)に封じ、漢大都尉(かんだいとい)の称号を加えました。

翌年の永平(えいへい)2年(59年)に滇吾(てんご)が降伏すると、竇林(とうりん)はまた「滇吾(てんご)を第一の豪(ごう)である」と上奏し、共に宮城にやって来て謁見(えっけん)しました。

明帝(めいてい)は「1つの種族に2人の大豪(たいごう)がいること」を怪しみ、「事実ではないのではないか」と疑って竇林(とうりん)を詰問(きつもん)したところ、竇林(とうりん)は言葉に窮(きゅう)して「滇岸(てんがん)とは滇吾(てんご)のことです。隴西(ろうせい)の言語が正確ではなかったのです」と偽(いつわ)って答えました。明帝(めいてい)は調査の手を尽くして実態を知り、竇林(とうりん)を罷免(ひめん)します。またちょうどこの時、凉州刺史(りょうしゅうしし)が「竇林(とうりん)の収賄罪」を上奏したので、竇林(とうりん)は獄(ごく)に下されて獄死(ごくし)しました。

その後、謁者(えっしゃ)の郭襄(かくじょう)が竇林(とうりん)に代わって護羌校尉(ごきょうこうい)の職務を兼任して隴西郡(ろうせいぐん)に赴任しますが、涼州(りょうしゅう)の羌族(きょうぞく)の勢いが盛んであることを聞くと、帰還して宮城に赴(おもむ)き罪に問われ、また護羌校尉(ごきょうこうい)の官は廃止されました。

  • この頃、滇吾(てんご)の子・東吾(とうご)が後を継いで豪(ごう)(首領)となりました。父が漢(かん)に降(くだ)ったことから東吾(とうご)も漢(かん)の国境内に居住して身を慎(つつ)しんでいましたが、弟の迷吾(めいご)たちはしばしば略奪を働きました。

章帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):東吾(とうご)

卑湳種の侵略
  • 後漢(ごかん)・肅宗(しゅくそう)(章帝(しょうてい))の建初(けんしょ)元年(76年)、涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・安夷県(あんいけん)の役人が卑湳種(ひだんしゅ)の婦人を略奪して妻としたため、その夫に殺害されました。

安夷県長(あんいけんちょう)の宗延(そうえん)がこれを追って塞(とりで)を出ると、卑湳種(ひだんしゅ)の者たちは誅殺(ちゅうさつ)されることを恐れて宗延(そうえん)を殺害し、勒姐種(ろくしゃしゅ)・吾良種(ごりょうしゅ)の2種族と結んで漢(かん)の国境内に侵略しました。

これに隴西太守(ろうせいたいしゅ)の孫純(そんじゅん)が、従事(じゅうじ)の李睦(りぼく)と金城郡(きんじょうぐん)の兵を派遣して和羅谷(わらこく)に集結し、卑湳種(ひだんしゅ)らと戦わせて数百人を斬首・捕虜にすると、章帝(しょうてい)は元度遼将軍(とりょうしょうぐん)の呉棠(ごとう)に護羌校尉(ごきょうこうい)を兼任させ、安夷県(あんいけん)に駐屯させました。

迷吾の反乱
  • 建初(けんしょ)2年(77年)夏、しばしば略奪を働いていた迷吾(めいご)[焼当羌(しょうとうきょう)の豪(ごう)(首領)・滇吾(てんご)の弟]は、ついに諸衆と共に兵を集めて反乱を起こし、塞(とりで)の外(漢(かん)の国境外)に出ようとしました。

金城太守(きんじょうたいしゅ)の郝崇(かくすう)はこれを追って荔谷(れいこく)で戦いますが大敗し、郝崇(かくすう)は軽騎で脱出することができましたが、2千人余りの戦死者を出してしまいます。

またこの時、諸羌(きょう)と属国の盧水胡(ろすいこ)がみな呼応したため、護羌校尉(ごきょうこうい)の呉棠(ごとう)もこれを制圧することができず、罪に問われて呼び戻され、罷免(ひめん)されました。その後は武威太守(ぶいたいしゅ)の傅育(ふいく)が護羌校尉(ごきょうこうい)となって臨羌県(りんきょうけん)に治所を移します。

その後、迷吾(めいご)が封養種(ほうようしゅ)の豪(ごう)(首領)・布橋(ふきょう)ら5万人余りと共に隴西郡(ろうせいぐん)・漢陽郡(かんようぐん)に侵略すると、章帝(しょうてい)は行車騎将軍(こうしゃきしょうぐん)の馬防(ばぼう)を派遣し、長外校尉(ちょうがいこうい)(長水校尉(ちょうすいこうい)?)の耿恭(こうきょう)を副将として迷吾(めいご)たちを撃ち破らせました。

こうして臨洮県(りんとうけん)・索西(さくせい)の迷吾(めいご)らの勢力はことごとく降伏しました。そこで馬防(ばぼう)は索西城(さくせいじょう)を築いて隴西南部都尉(ろうせいなんぶとい)をそこに移して守らせ、各所の物見台(諸亭候)を復活させました。

  • 元和(げんわ)3年(86年)に至ると、迷吾(めいご)は再び弟の号吾(ごうご)(號吾(ごうご))や諸(もろ)々(もろ)の雑種族と共に反乱を起こしました。

秋、号吾(ごうご)(號吾(ごうご))は先んじて軽はずみに隴西郡(ろうせいぐん)の境界に侵入すると、郡の督烽掾(とくほうえん)の李章(りしょう)がこれを追い、号吾(ごうご)(號吾(ごうご))を生け捕りました。

郡に護送された号吾(ごうご)(號吾(ごうご))が、


「私1人を殺したところで羌族(きょうぞく)に損失はない。もし生きて帰ることができるならば、必ずやことごとく兵を収(おさ)め、2度と塞(とりで)を犯したりはしない」


と言うので、隴西太守(ろうせいたいしゅ)の張紆(ちょうう)が臨機応変の処置として彼を釈放したところ、羌族(きょうぞく)はすぐに解散して各(おの)々(おの)が故地に帰り、迷吾(めいご)は河北(かほく)(黄河(こうが)の北)の帰義城(きぎじょう)に退(しりぞ)きました。

武威太守(ぶいたいしゅ)の傅育(ふいく)は「号吾(ごうご)(號吾(ごうご))との信義を失ってまで羌族(きょうぞく)を討伐したくはない」と思い、そこで人を募(つの)って諸(もろ)々(もろ)の羌(きょう)・胡(こ)同士を争わせようとしましたが、羌(きょう)・胡(こ)は承知せず、ついにまた塞(とりで)を出て反乱を起こし、改めて迷吾(めいご)を頼りました。

迷吾討伐の失敗
  • 章和(しょうわ)元年(87年)、武威太守(ぶいたいしゅ)の傅育(ふいく)は、

「隴西郡(ろうせいぐん)・張掖郡(ちょうえきぐん)・酒泉郡(しゅせんぐん)からそれぞれ5千人を徴発(ちょうはつ)し、諸郡の太守(たいしゅ)にこれを率(ひき)いさせたいと存じます」


と請願(せいがん)すると、傅育(ふいく)自身は漢陽郡(かんようぐん)と金城郡(きんじょうぐん)の5千人を率(ひき)い、合わせて2万の兵をもって迷吾(めいご)討伐に出陣します。傅育(ふいく)は隴西郡(ろうせいぐん)の兵を黄河(こうが)の南に配置し、張掖郡(ちょうえきぐん)と酒泉郡(しゅせんぐん)の兵には敵の西方を遮断させようとしますが、まだすべての軍が集まる前から、傅育(ふいく)の軍は単独で進軍していました。

このことを聞いた迷吾(めいご)は、廬落(ろらく)(住居)を移して去ろうとしますが、傅育(ふいく)は精鋭の騎兵3千を選んでこれを徹底的に追いました。夜には建威(けんい)の南にある三兜谷(さんとうこく)に達し、明朝を待って迷吾(めいご)を攻撃しようと、敵軍から数里のところに陣を敷いたが、防備を設(もう)けていませんでした。

そこで迷吾(めいご)は兵3百人を伏(ふ)せ、その夜のうちに傅育(ふいく)の陣営を攻撃すると、陣中は驚き怯(おび)え、みな散り散りになって敗走しました。傅育(ふいく)は馬を下りて自(みずか)ら戦い、敵兵10人余りを斬りましたが、戦死してしまいます。敵兵3百人に対して傅育(ふいく)軍の死者は880人に及び、諸郡の兵が三兜谷(さんとうこく)に到着すると、羌(きょう)(迷吾(めいご))は兵を引きました。

章帝(しょうてい)は隴西太守(ろうせいたいしゅ)の張紆(ちょうう)を護羌校尉(ごきょうこうい)とし、1万人を率(ひき)いて臨羌県(りんきょうけん)に駐屯させました。

迷吾暗殺

傅育(ふいく)を討ち取ってからというもの、迷吾(めいご)は辺境で利益を貪(むさぼ)り、その年[章和(しょうわ)元年(87年)]のうちに再び諸種族の歩騎7千人と金城郡(きんじょうぐん)の塞(とりで)に侵入しました。

これに護羌校尉(ごきょうこうい)の張紆(ちょうう)は、従事(じゅうじ)の司馬防(しばぼう)に千余騎と金城郡(きんじょうぐん)の兵を率(ひき)いさせ、木乗谷(ぼくじょうこく)において会戦させました。迷吾(めいご)の兵は敗走し、通訳を遣(つか)わして降伏を願い出て来たので、張紆(ちょうう)はそれを受け容(い)れました。

迷吾(めいご)が種族の者たちを率(ひき)いて臨羌県(りんきょうけん)に出頭すると、張紆(ちょうう)は兵を配置して大宴会を催(もよお)し、酒の中に毒を仕込んでおきました。羌族(きょうぞく)たちが酒に酔(よ)ったのを見た張紆(ちょうう)が自(みずか)ら撃ちかかると、それを合図に伏兵たちも襲いかかり、羌族(きょうぞく)の酋豪(しゅうごう)8百余人を誅殺(ちゅうさつ)しました。

張紆(ちょうう)は迷吾(めいご)ら5人の頭(くび)を傅育(ふいく)の冢(つか)に祭ると、さらに兵を放って山谷の間にいた者たちを攻撃し、4百人余りを斬首して、生口(せいこう)2千余人を捕虜にしました。

諸種族の結束

迷吾(めいご)の子・迷唐(めいとう)とその種族の者たちは塞(とりで)に向かって号泣し、焼何種(しょうかしゅ)・当煎種(とうせんしゅ)・当闐種(とうてんしゅ)らと互いに結びつき、子女及び金銀をもって諸(もろ)々(もろ)の種族に結納(ゆいのう)の品として贈(おく)り、これまでの仇敵(きゅうてき)の間柄を解(と)いて人質を交換し合い、5千人を率(ひき)いて隴西郡(ろうせいぐん)の塞(とりで)を荒らしました。

隴西太守(ろうせいたいしゅ)の寇盱(こうく)がこれと白石県(はくせきけん)で戦ったところ、不利となった迷唐(めいとう)は大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)に引き揚(あ)げました。ところが、迷唐(めいとう)が北の属国の諸胡(こ)を招(まね)いて附落(ふらく)を集めると、その兵たちは盛んであったので、護羌校尉(ごきょうこうい)の張紆(ちょうう)はこれを討つことができませんでした。

和帝期

羌族(きょうぞく)の嫡家(ちゃっけ):東号(とうごう)

護羌校尉・鄧訓の離間工作
  • 和帝(わてい)の永元(えいげん)元年(89年)、張紆(ちょうう)は罪に問われて召(め)し出され、張掖太守(ちょうえきたいしゅ)の鄧訓(とうくん)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

鄧訓(とうくん)は少しずつ賄賂(わいろ)を贈(おく)って離間させたので、迷唐(めいとう)が結束させた諸(もろ)々(もろ)の種族たちは、少しずつ離れていきました。

  • 東吾(とうご)の子・東号(とうごう)(東號(とうごう))が後を継ぐと、東号(とうごう)(東號(とうごう))は種族の者たちを率(ひき)いて漢(かん)に降伏しました。*2

護羌校尉(ごきょうこうい)の鄧訓(とうくん)が兵を派遣して迷唐(めいとう)を攻撃させると、迷唐(めいとう)は大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)から立ち去って頗岩谷(はがんこく)に移住しました。

脚注

*2漢(かん)に叛(そむ)いたのは東吾(とうご)の弟・迷吾(めいご)であり、東吾(とうご)は叛(そむ)いていない。迷吾(めいご)の子・迷唐(めいとう)が諸種族をまとめた時に呼応していたのか?

徳による懐柔の失敗
  • 永元(えいげん)4年(92年)に護羌校尉(ごきょうこうい)の鄧訓(とうくん)が病死すると、蜀郡太守(しょくぐんたいしゅ)の聶尚(じょうしょう)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

聶尚(じょうしょう)は前任者が何度征伐しても勝てなかったことから、武力ではなく文徳によってこれを帰服させようとし、そこで駅伝の使者を派遣して迷唐(めいとう)を招(まね)いて大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)に帰らせ、そこに居住させました。

  • 帰還した迷唐(めいとう)が祖母の卑缺(ひけつ)を聶尚(じょうしょう)の元に赴(おもむ)かせると、聶尚(じょうしょう)は自(みずか)ら国境付近まで見送って卑缺(ひけつ)のために送別の宴(うたげ)を設(もう)け、通訳の田汜(でんし)ら5人に命じて廬落(ろらく)(住居)まで卑缺(ひけつ)を護衛させました。

ところが迷唐(めいとう)は反乱を起こすと、ついに諸種族と共に生きたまま田汜(でんし)らを八つ裂きにし、その血を啜(すす)って盟約を結び、再び金城郡(きんじょうぐん)の塞(とりで)を侵略しました。*3

脚注

*3反乱を起こした理由が分からない。人質を差し出したのに拒否されたと思ったのか?

迷唐を賜支河曲に追い詰める
  • 永元(えいげん)5年(93年)、聶尚(じょうしょう)は罪に問われ、呼び戻されて免官となり、居延都尉(きょえんとい)の貫友(かんゆう)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

貫友(かんゆう)は「迷唐(めいとう)を徳によって懐柔(かいじゅう)することは難しく、反乱を起こした」ことから、駅伝の使者を派遣して諸種族を離間させ、財貨によって誘惑して解散させました。その後貫友(かんゆう)は兵を派遣して塞(とりで)を出ると、大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)に迷唐(めいとう)を攻撃し、首級・捕虜8百余人を獲得し、麦数万斛(こく)を収奪しました。

その後貫友(かんゆう)はついに逢留大河(ほうりゅうたいが)を挟(はさ)み込むように城塞を築き、大船を造って河に橋を架(か)け、兵を渡河(とか)させて迷唐(めいとう)を攻撃しようとします。これに迷唐(めいとう)は、部落を率(ひき)いて遠く賜支河曲(ししかきょく)に身を寄せました。

迷唐討伐
  • 永元(えいげん)8年(96年)に貫友(かんゆう)が病死すると、漢陽太守(かんようたいしゅ)の史充(しじゅう)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

任地に到着した史充(しじゅう)はついに湟中(こうちゅう)の羌(きょう)・胡(こ)を徴発し、塞(とりで)を出て迷唐(めいとう)を攻撃しましたが、迷唐(めいとう)側の羌族(きょうぞく)の迎撃を受けた史充(しじゅう)の兵は敗れ、数百人が殺害されました。

  • 翌年の永元(えいげん)9年(97年)、史充(しじゅう)は罪に問われて召還され、代郡太守(だいぐんたいしゅ)の呉祉(ごし)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

秋、迷唐(めいとう)が8千人を率(ひき)いて隴西郡(ろうせいぐん)に侵略し、数百人を殺害。勝ちに乗して深入りし、塞内(さいない)(漢(かん)の国境内)の諸種の羌族(きょうぞく)を脅迫して味方につけ、共に略奪を働きました。すると多くの羌族(きょうぞく)が呼応し、歩騎3万人を合わせて隴西郡(ろうせいぐん)の兵を撃破して大夏県長(たいかけんちょう)を殺害してしまいます。

これに漢(かん)は、行征西将軍(こうせいせいしょうぐん)の劉尚(りゅうしょう)を派遣して越騎校尉(えっきこうい)の趙代(ちょうだい)を副将とし、

    • 北軍五営(ほくぐんごえい)*4
    • 黎陽(れいよう)*5
    • 雍営(ようえい)*6
    • 三輔(さんぽ)*7

の積射(せきしゃ)及び辺境の守備兵である羌(きょう)・胡(こ)3万人を率(ひき)いてこれを討伐させ、劉尚(りゅうしょう)は涼州(りょうしゅう)・隴西郡(ろうせいぐん)・狄道県(てきどうけん)に駐屯し、趙代(ちょうだい)は同枹罕県(ほうかんけん)に駐屯しました。

劉尚(りゅうしょう)が司馬(しば)の寇盱(こうく)に監督させて諸郡の兵を四方から集結させると、迷唐(めいとう)は恐れ、老人や子供を棄(す)てて臨洮県(りんとうけん)の南に逃亡。劉尚(りゅうしょう)らがこれを追撃して高山(こうざん)に至ると、追い詰(つ)められた迷唐(めいとう)はその精強な者たちを率(ひき)いて大いに戦いましたが、寇盱(こうく)は敵兵千余人を斬り、牛・馬・羊1万余頭を獲得しました。

ですが、漢(かん)兵の死傷者も多かったため追撃することができず、迷唐(めいとう)は引き揚(あ)げ、劉尚(りゅうしょう)らは塞内(さいない)(漢(かん)の国境内)に帰還します。

翌年の永元(えいげん)10年(98年)、劉尚(りゅうしょう)と趙代(ちょうだい)はいずれも「畏懦(いだ)(畏(おそ)れ怯(ひる)んだ)の罪」に問われ、召還されて獄に下され、免官となりました。

脚注

*4北軍五校(ほくぐんごこう)。屯騎校尉(とんきこうい)・越騎校尉(えっきこうい)・歩兵校尉(ほへいこうい)・長水校尉(ちょうすいこうい)・射声校尉(せきせいこうい)が率(ひき)いる宿衛兵。

*5黎陽営(れいようえい)。冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・黎陽県(れいようけん)に置かれた後漢(ごかん)の常備軍。光武帝(こうぶてい)による河北(かほく)平定の後、黎陽県(れいようけん)に常備軍が置かれたことに始まる。謁者(えっしゃ)が監督した。

*6司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・雍県(ようけん)に駐屯した常備軍。扶風都尉(ふふうとい)に率(ひき)いられた。

*7司隷(しれい)の京兆尹(けいちょういん)、左馮翊(さひょうよく)、右扶風(ゆうふふう)の3郡の兵。

迷唐らの降伏
  • 劉尚(りゅうしょう)と趙代(ちょうだい)が罷免(ひめん)されると、謁者(えっしゃ)の王信(おうしん)が劉尚(りゅうしょう)の軍営を引き継いで枹罕県(ほうかんけん)に駐屯し、謁者(えっしゃ)の耿譚(こうたん)が趙代(ちょうだい)の軍営を引き継いで白石県(はくせきけん)に駐屯しました。

そこで耿譚(こうたん)が購賞(懸賞金)を設置したところ、諸種族が多数やって来て内属したので、迷唐(めいとう)は恐れて降伏を願い出て来ました。そこで王信(おうしん)と耿譚(こうたん)は降伏を受け容(い)れて出兵を取り止め、迷唐(めいとう)を闕(けつ)[洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))の宮城]に参内させます。

また、その種族の者たちは2千人に満(み)たず、飢(う)え苦しんで自立できなかったので、受け入れて金城郡(きんじょうぐん)に居住させました。

迷唐らの反乱
  • 和帝(わてい)は、迷唐(めいとう)に種族の者たちを率(ひき)いて大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)に帰還するように命じますが、迷唐(めいとう)は「漢(かん)が河に橋を架(か)け、兵の往来が容易(ようい)となった(兵来無常)ため、故地(大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく))には二度と居住できない」と考えてこれを辞退し、また、種族の者たちが飢餓(きが)に苦しんでいることから、遠方に出て行くことを承知しませんでした。

そこで呉祉(ごし)らは迷唐(めいとう)に多くの金帛(きんぱく)を賜与(しよ)し、穀物(こくもつ)や家畜を買い入れて塞外(さいがい)(漢(かん)の国境外)に出て行くように命じたので、種族の者たちは改めて猜疑心(さいぎしん)を懐(いだ)くようになりました。

  • 永元(えいげん)12年(100年)、こうして迷唐(めいとう)らはまたも反乱を起こし、湟中(こうちゅう)の諸胡(こ)を脅迫して味方につけ、共に侵略して略奪を働きます。

王信(おうしん)・耿譚(こうたん)・呉祉(ごし)らはみな罪に問われて召還され、酒泉太守(しゅせんたいしゅ)の周鮪(しゅうい)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

  • 翌年の永元(えいげん)13年(101年)、迷唐(めいとう)は再び賜支河曲(ししかきょく)に帰還しました。
迷唐討伐
  • これより以前、迷唐(めいとう)は、漢(かん)に服属していた累姐種(るいしゃしゅ)を怨(うら)み、これを攻撃して累姐種(るいしゃしゅ)の酋豪(しゅうごう)を殺害しました。これにより迷唐(めいとう)は諸種族と仇敵(きゅうてき)の間柄となり、味方は益(ます)々(ます)少なくなりました。
  • その秋、迷唐(めいとう)は再び兵を率(ひき)いて塞(とりで)に向かうと、護羌校尉(ごきょうこうい)の周鮪(しゅうい)は、
    • 酒泉太守(しゅせんたいしゅ)の侯覇(こうは)と諸郡の兵
    • 属国である湟中月氏(こうちゅうげっし)の諸胡(こ)
    • 隴西郡(ろうせいぐん)の牢姐羌(ろうしゃきょう)

の合わせて3万人と共に塞(とりで)を出て允川(いんせん)に至り、迷唐(めいとう)と戦いました。

この時周鮪(しゅうい)は陣営に還(かえ)って守りに徹していましたが、侯覇(こうは)の兵だけは敵陣を陥落(かんらく)させて4百級余りを斬首しました。羌族(きょうぞく)たちは瓦解(がかい)して、降伏した者は6六千余口(こう)にのぼり、漢(かん)は降伏した者たちを分けて漢陽郡(かんようぐん)・安定郡(あんていぐん)・隴西郡(ろうせいぐん)の3郡に移住させました。

迷唐(めいとう)の勢力はこうして弱まり、その種族の者たちは千人に満(み)たなくなり、遠く賜支河曲(ししかきょく)を越えて発羌(はつきょう)に身を寄せました。

  • 翌年の永元(えいげん)14年(102年)、周鮪(しゅうい)が「畏懦(いだ)(畏(おそ)れ怯(ひる)んだ)の罪」に問われて召還されると、侯覇(こうは)が代わって護羌校尉(ごきょうこうい)となりました。

降伏した安定郡(あんていぐん)の焼何種(しょうかしゅ)が、諸羌(きょう)数百人を脅迫して味方につけ、共に反乱を起こしましたが、安定郡(あんていぐん)の兵がこれを討ち滅ぼし、すべての年少者(弱口)を没収して奴隷(奴婢(どひ))としました。

曹鳳を金城西部都尉とする
  • その後、西海(せいかい)*8と大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)の辺りで羌族(きょうぞく)が侵略してくることはありませんでした。

隃麋相(ゆびしょう)(司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・隃麋国(ゆびこく)の県長(けんちょう))の曹鳳(そうほう)が上言して、

「広く屯田(とんでん)を設(もう)けて羌(きょう)・胡(こ)が交通する道を隔絶(かくぜつ)し、狡猾(こうかつ)な者たちが欲望を満たそうとする原因を根絶すべきであります。さらに穀物(こくもつ)を植えて辺境を富(と)ませ、物資輸送の労役を省(はぶ)けば、国家は西方の憂(うれ)いをなくすことができるでしょう」

と言いました。

曹鳳の上言・全文
タップ(クリック)すると開きます。

「西戎(せいじゅう)が害を為(な)すことは、前漢(ぜんかん)からの悩みの種であります。臣(わたくし)は古(いにしえ)の歴史は記(しる)せませんので、一(ひと)先(ま)ず近頃の事例を語りたく存じます。

建武(けんぶ)年間(25年〜55年)以来、その法を犯す者は、常に焼当種(しょうとうしゅ)から生じています。その理由は、焼当種(しょうとうしゅ)が居住する大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)は肥沃(ひよく)で塞内(さいない)(漢(かん)の国境内)に近く、諸種族にとっては非道(反乱・略奪)を行いやすく、こちらからは攻撃・討伐することが難しいからであります。

焼当種(しょうとうしゅ)は、南は鐘存種(しょうそんしゅ)を取り込んでその衆を広め、北は黄河(こうが)を頼って守りを固め、また西海(せいかい)*8には魚と塩の利益があり、山水(山川)に沿(そ)って農業・牧畜を広げています。

そのため常に諸種族より抜(ぬ)きん出て強大となり、その権勢と勇猛さを恃(たの)んで羌(きょう)・胡(こ)を招(まね)き誘いました。今は衰退・困窮(こんきゅう)して味方は崩壊、親族は離反し、残党のうち兵として使える者は数百に過ぎず、逃亡して遠く発羌(はつきょう)に身を寄せました。

臣(わたくし)が思いますに、どうかこの機に及んで西海(せいかい)*8の郡県を再建し、大榆谷(だいゆこく)・小榆谷(しょうゆこく)の二榆(にゆ)の守りを固め、広く屯田(とんでん)を設(もう)けて羌(きょう)・胡(こ)が交通する道を隔絶(かくぜつ)し、狡猾(こうかつ)な者たちが欲望を満たそうとする原因を根絶すべきであります。さらに穀物(こくもつ)を植えて辺境を富(と)ませ、物資輸送の労役を省(はぶ)けば、国家は西方の憂(うれ)いをなくすことができるでしょう」


そこで曹鳳(そうほう)を金城(きんじょう)西部都尉(せいぶとい)に任命し、屯田兵を率(ひき)いて龍耆(りゅうき)に駐屯させました。(将徙士屯龍耆)

  • 後(のち)に金城郡(きんじょうぐん)の長史(ちょうし)・上官鴻(じょうかんこう)が「帰義(きぎ)・建威(けんい)の屯田(とんでん)27部を開設したい」と上奏し、また侯覇(こうは)は「東邯(とうかん)・西邯(せいかん)の屯田(とんでん)5部を設置し、留(りゅう)・逢(ほう)の2部を増設したい」と上奏すると、和帝(わてい)はこれらにみな従い、黄河(こうが)を挟(はさ)んで屯田(とんでん)を列(つら)ね、その数は合わせて34部となりました。
脚注

*8現:青海湖(せいかいこ)。涼州(りょうしゅう)・金城郡(きんじょうぐん)の西の塞外(さいがい)(漢(かん)の国境外)にある塩湖。


スポンサーリンク


【後漢・三国時代の異民族】目次