西羌の諸種族と中国(春秋・戦国・秦・前漢・新の時代)の関係についてまとめています。
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西羌と中国の関係②
春秋時代
秦の厲公期
羌族の始祖・爰剣(無弋爰剣)
- 羌族の無弋爰剣は、秦の厲公*1の時に拘束を受け、その奴隷となりました。爰剣(無弋爰剣)がどの戎に属するのかは分かりません。
後に秦の支配を脱しようとして激しい追撃を受けましたが、岩窟の中に隠れたことで逃げ切ることができました。この時のことは羌人の間で「爰剣(無弋爰剣)が穴の中に隠れた時、秦人はそこに火をかけたが、虎のような形をした影が現れて炎を覆ったために死なずに済んだ」のだと言い伝えられています。
- しばらくして岩窟の外に出た爰剣(無弋爰剣)は、野原で鼻を削がれた女と出会って夫婦となりました。
爰剣(無弋爰剣)の妻となった女は、鼻を削がれた自分の顔を恥じ、髪をざんばらにして顔を覆い隠していたので、羌人はこれを風俗とします。
その後、爰剣(無弋爰剣)夫婦は共に三河(黄河・賜支河・湟河)の辺りに逃れました。
- 羌の諸族は爰剣(無弋爰剣)が焼かれても死ななかったのを見て、その神秘的な現象を不思議に思い、共に畏怖して爰剣(無弋爰剣)に仕え、彼を推戴して豪(首領)としました。
- 河水・湟水の流域は、五穀が少なく禽獣(鳥獣)が多かったので、その地の人々は狩猟を生業としましたが、爰剣(無弋爰剣)が彼らに田畜(農業と牧畜)を教えたことから尊敬を集め、爰剣(無弋爰剣)を頼る者は日を追うごとに益々増えていきました。
- 爰剣(無弋爰剣)の子孫は代々豪(首領)となりました。
- 羌人が奴隷のことを「無弋」と言うのは、爰剣(無弋爰剣)がかつて奴隷であったため、そう呼ぶようになったとのことです。
脚注
*1原文:羌無弋爰剣者,秦厲公時為秦所拘執,以為奴隷。秦の厲共公(在位:紀元前476年〜紀元前443年)。
戦国時代
秦の献公期
爰剣(無弋爰剣)の曾孫・忍
- 爰剣(無弋爰剣)の曾孫・忍の代のこと。即位したばかりの秦の献公(在位:紀元前384年〜紀元前361年)は、穆公(紀元前659年〜紀元前621年)の事跡を回復したいと思い、兵を率いて渭水の上流に臨み、狄と䝠(獂)の戎を滅ぼしました。
- 忍の末の叔父(季父)である卯は、秦の威勢を畏れ、その種族や部落を率いて南下し、賜支河曲*2の西・数千里のところまで出て他の羌から遠く離れ、往来を絶ちました。
その後その子孫たちは分かれ、各々が自ら独立した種族となって、それぞれが思いのままに移動し、ある者は旄牛種(越巂羌)となり、ある者は白馬種(広漢羌)となり、ある者は参狼種(武都羌)となりました。
- 一方、忍と弟の舞だけは湟中に留まって、どちらもたくさんの妻婦を娶りました。忍は9人の子を生んで9種族となり、舞は17人の子を生んで17種族となり、羌の隆盛はこれより始まりました。
脚注
*2青海省・共和県より南の黄河の一区域。
秦の孝公期
忍の子・研
- 忍の子の研が即位した当時、秦の孝公(在位:紀元前361年〜紀元前338年)が勢力を強めて羌戎を威服させており、孝公は太子の駟(恵文君)を派遣し、戎狄92国を率いて周の顕王に朝見させました。
- 研は豪健であったため、羌中では研の後裔たちを「研種」と呼びました。
【秦】始皇帝期
研種
- 秦の始皇帝の時代になると、秦は六国*3の併合に注力したため、その間、秦の兵が西に向かわなかったので、種人(研種)は繁栄することができました。
秦が天下を統一すると、秦は蒙恬に命じ、兵を率いて羌の土地を侵略させ、西では諸戎を駆逐し、北では諸狄を退け、長城を修築してこれを境界としました。これにより、羌たちは再び南に渡ろうとはしなくなりました。
脚注
*3戦国時代、秦以外の6つの大国・斉・楚・燕・韓・魏・趙のこと。
前漢
【前漢】景帝期
研種(留何)
- 漢が興る頃には、匈奴の冒頓単于の兵が強く、東胡を破り、月氏を敗走させ、威信をもって百蛮を震撼させ、諸羌を臣従させていました。
- 前漢の景帝の時代、研種の留何が種人を率いて涼州・隴西郡の国境(塞)を守ることを求め、そこで留何を狄道・安故県から臨洮県・氐道県・羌道県に至るまでの地域に移住させました。
【前漢】武帝期
研種
- 武帝は四夷を征伐し、土地を開拓して国境を広げるにあたって、北は匈奴を退け、西は諸羌を駆逐し、河水・湟水を渡って令居塞を築きました。
また、初めて河西を開いて酒泉郡・武威郡・張掖郡・敦煌郡の4郡を置き、玉門県まで道を通して羌胡を隔絶し、羌胡と匈奴が南北に往来できないようにします。こうして長城の外には要塞(障塞)や狼煙台(亭燧)が数千里にわたって配置されました。
- 当時、先零羌が封養種・牢姐種と仇敵の間柄を解消して盟約を結び、匈奴と通じて兵10余万人を合わせて共に令居県・安故県を攻め、ついに枹罕県を包囲しました。
これに漢は将軍の李息と郎中令の徐自為に兵10万人を率いさせ、これらを攻撃して平定させました。この時初めて護羌校尉の置き、節を持たせて統率させると、羌は湟中を去り、西海郡や金城郡・臨羌県の塩池の周辺(左右)に移りました。
漢はついに山に拠って塞を築き、空虚となった河西の地に、徐々に人を移住させました。
【前漢】宣帝期
研種
- 宣帝の時代になって、宣帝が光禄大夫の義渠安国を派遣して諸羌を視察させたところ、先零羌(先零種)の豪(首領)は「どうか湟水を渡り、人が耕作していないところに移住して牧畜をさせてください」と言い、義渠安国はこれを奏上(奏聞)しました。
後将軍の趙充国は「許可すべきでない」と考えましたが、結局先零羌(先零種)は湟水を渡って行き、郡県はこれを禁止することができませんでした。
- 前漢・宣帝の元康3年(紀元前63年)になると、先零羌(先零種)は諸羌と共に盟約を結び、まさに辺境を侵そうとしました。
宣帝はこれを聞き、また義渠安国に兵を率いて向かわせました。義渠安国は先零羌(先零種)の豪(首領)・40人余りを招き寄せてこれを斬ると、兵を放って先零羌(先零種)を攻撃し、千級余りを斬首しました。
これに諸羌は怨怒し、ついに涼州・金城郡に侵攻しました。そこで趙充国を派遣して諸将と共に兵6万人を率いて撃破し、これを平定しました。
【前漢】元帝期
研種
- 研の13世の孫・焼当が即位した元帝の時代、彡姐羌ら7種の羌が涼州・隴西郡に侵攻すると、元帝は右将軍の馮奉世を派遣して撃破し、これを降伏させました。
- 研から13世の焼当に至ると、彼もまた豪健であったことから、その子孫は改めて「焼当」を種号としました。彡姐羌が降伏してから数十年後、四夷は降伏し、辺塞(辺境の塞)は平穏となりました。
新
【新】王莽期
焼当種
- 王莽が輔政するようになると、その威徳を輝かせるために遠方を懐柔して名を成そうとしました。そこで王莽は、通訳に命じて自らの意図を諸羌にそれとなくほのめかせ、こぞって西海の地を献上させました。
- 初めて開設して郡を置いて5県の城を築き、辺境の狼煙台(亭燧)は互いを望見できるほどでした。
- 王莽の末年、四夷は中原の内部に侵入し、王莽が敗れると、羌族たちはついにまた西海郡を拠点として侵略するようになりました。
- 更始帝の時代、赤眉の乱の際に、羌族は勝手放題に振る舞って涼州の金城郡と隴西郡を荒らしました。この時、隗囂は兵を擁していましたがこれを討つことができなかったため、逆に羌族を慰撫して、羌族から徴発した兵をもって漢と敵対しました。
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まとめ(要約)
西羌は秦の厲公*1の時代の爰剣(無弋爰剣)以降、その子孫は枝分かれして多くの種族が生まれました。
前漢の景帝の時代、研種の留何が種人を率いて涼州・隴西郡の国境(塞)を守ることを求め、そこで留何を狄道・安故県から臨洮県・氐道県・羌道県に至るまでの地域に移住させました。
前漢の武帝期、宣帝期には先零羌(先零種)が、前漢の元帝期には彡姐羌ら7種の羌族が前漢の領内に侵攻しましたが、彡姐羌が降伏してから数十年後、四夷は降伏し、辺塞(辺境の塞)は平穏となりました。
王莽が前漢を簒奪すると、王莽の懐柔を受けて服属していましたが、王莽が敗れると、羌族たちはついにまた西海郡を拠点として侵略するようになりました。
その後更始帝が即位すると、羌族は涼州の金城郡と隴西郡を荒らしました。当時、隗囂は兵を擁していましたがこれを討つことができなかったため、逆に羌族を慰撫して、羌族から徴発した兵をもって漢(光武帝)と敵対しました。
脚注
*1秦の厲共公(在位:紀元前476年〜紀元前443年)。
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